2.3 旧ネット
『旧ネット』とは数十年前に機能不全に陥ってしまった通信網のことだ。当時開発されたばかりの未成熟なAIは何の規制もないまま、旧ネット上のコンテンツを爆発的に増やした。AIが生成したコンテンツは事実も含まれるが基本的には統計の結果、次につながる文字の羅列を並べただけの練度の低い情報を生み出したにすぎない。嘘と真実が交じり合ったコンテンツから正しい情報を拾い集めることは手間がかかる。一般ユーザは手間をコストとしてはっきり認識しそれを嫌い、旧ネットを情報ソースとすることを避けるようになっていた。
生成AIが登場し始めた頃のかなり早い段階から『AIが無尽蔵に生成するバリデーションが難しいコンテンツはネットの価値を著しく低下させる』と警告していたビッグテックの1社が、自社が保持する衛星通信網を旧ネットから切断して独自にネットを再構築し始めた。これに端を発してネットの分断が始まった。衛星と高高度を長期間運航可能なドローン間の無線通信網で構築された、もう一つのネットである『ウィーブリンク』はAIが生成する練度の低いコンテンツを徹底的に排除することで情報ソースの質を上げ、ネットの主流となっていった。
一般ユーザが旧ネットのコンテンツの正しさを図るのが難しくなる頃、旧ネットの設備を運営する一般通信業者はサードアイアン社などの性風俗や違法性の高い広告やコンテンツを提供する事業者に設備を売り渡して旧ネット事業から次第に撤退していった。そして、旧ネットの通信事業者はサードアイアン社を筆頭に、合法と非合法の中間を生業とする企業に完全に入れ替わり、新しい経済圏を形成していった。
サードアイアン社は情報チャネルで好感度の高いタレントを使い、清廉潔白を装う企業広告を流し続けることで過去の薄暗いイメージを払拭することに成功し、今では優良企業の一つに数えられている。その実、旧ネットは相変わらずサードアイアン社が出資を行うグループ企業を中心として通信設備が運用されている。そして、それらの企業は練度の低い情報を隠れ蓑に行政や司法の目を欺き続け、違法性の高いコンテンツの掲載費用や違法コンテンツそのものから収益を得ている。そして旧ネットは、それらに関連する犯罪の温床となっていた。シンタロウたちがよくアクセスしていたのは旧ネット上でテクノロジーに関するオカルトめいた情報から、最新PAのハッキング方法などの有用な情報まで様々な情報を発信する『メシミニア』を名乗るカルト集団が運営する『セブンス』というチャネルだった。
シンタロウが学校のライブラリにある有線接続ポイントを使って旧ネットのセブンスにアクセスしている時に同級生のホゥー・シェンに話しかけられた。
「君もムーダンを使っているのか?」
ホゥー・シェンはシンタロウと同じくアジアにルーツを持つ黒髪の少年だった。サイドを短く刈り込んだ黒髪は清潔感があり、真っ白いシャツやプレスのきいたスラックスを見る限りホゥー・シェンは裕福なのだろう。
シンタロウのようなテクノロジーに感度の高い若者は『セブンス』を中心に旧ネットから拾い集めた情報を元にOSやPAをカスタマイズすることを好む。旧ネットの世界では特に自分のルーツの国のOSをベースにカスタマイズするのが常識だ。ホゥー・シェンが言う『ムーダン』は東アジアの大国で生まれたOSのことだ。ムーダンは非常に重厚な作りをしていてプロテクトが硬くカスタマイズが難しい。シンタロウが旧ネットにアクセスしていることに気が付いたホゥー・シェンはシンタロウが自分と同類なのではないか考え声をかけた。そしてムーダンを使っていれば同郷だ。
「いや、ヴィシュヌプロジェクトがプロトの頃に公開していたソースコードから起こしたほとんどオリジナルだよ。ヴィシュヌって知ってる?」
「知っているに決まっているだろ。ヴィシュヌのプロト? 嘘つくなよ? あんなエラーハンドリングもろくに書いてないサンプルコードを動かせるわけないだろ。PAは?」
「ハルカーだ。」
それを聞いたホゥー・シェンは確かめるように目を細めてシンタロウを観察した。シンタロウは近距離通信でホゥー・シェンに自分のPAのスタッツを送った。
シンタロウのPAは南アジア発祥の『ハルカー』だ。ハルカーはヒンドゥー語で『軽量』を意味する。確かにそのPAは世界最軽量だが、その分欠陥も多く、正常に動かすためには複数の回避コードのパッチを当てる必要があり、利用者を選ぶ。
見るからに東アジア系のシンタロウが世界最軽量だからといってそんなものを好き好んで使っているのは明らかにおかしい。
ホゥー・シェンはシンタロウから送られたスタッツに表示されているハルカーのバージョン表記とシンタロウの真顔を交互に見て笑ってしまった。自分と同類がこんな近くにいることを見つけてうれしくなったのだ。それ以来ホゥー・シェンとシンタロウは学校でずっとつるむ友人になった。




