10・人間と狼
マナは寝台の上に座ったまま、窓枠の先にある空をぼんやりと眺める。
幼い頃から魔力制御の能力は著しく低かった。自家中毒を起こして寝込むなどいつもの事で、だからこの代わり映えのしない窓枠に切り取られた絵が、鮮やかな色彩に塗り替えられる事など想像だにしていなかった。
あの日、易々とこの部屋に飛び込んで来た愛らしい侵入者。
瞼を閉じれば、キャンディスの笑顔と心地の良い声が思考の中に浮かぶ。隣国からやって来た、汚れのない瞳をした番相手。
いつもならもうこの時間には部屋を訪ってくれていたのに、来訪を告げるノックもなければ、そればかりかここ数日姿すら見ていなかった。
たった数日会えていないと言うだけで、日々の生活がこんなにも味気ないものになるとは。
これは、寂しい、という感情なのだろうか。
そう自問した瞬間、身勝手な自分に内心で苦笑する。
満足に起き上がれる状態ではなかったとはいえ、彼女が到着しているのを知っていながら、連絡もしなかったのは自分の方なのに。
少なくとも、カヌスに詫びの一つくらい言づけることは出来た。
だが、なけなしの矜持が、こんな弱い自分を晒す事を拒否した。
会えない事を詫びれば、いつ人型に戻れるか見当も付かない事を説明しなくてはならない。そして、万一キャンディスが獣形の自分とでも対面する事を希望すれば、それを拒むことは出来なかっただろう。
けれど、そんなちっぽけでくだらない矜持など、彼女はいとも簡単に飛び越えてしまった。
まさか二階にあるこの部屋の窓から会いに来るなんて、思ってもみなかった。
その瞬間を思い出し、思わず表情筋が緩む。
笑えば獣の口が開いて、小さな舌先がペロリと飛び出した。
「どうかなさいましたか、楽しそうな顔をされて」
予期せぬカヌスのその言葉に、恥ずかしさから口元を引き締めて舌をしまう。
『見てたのか……キャンディスと初めて対面した時の事を思い出していた。ここ数日訪ねてくれていないから』
答えると、カヌスも楽しそうに頬を緩めた。
「窓からお越しになるとは思いもしませんでしたしね。そう言えば、もう三日程お越しになられていませんね。最近は毎日のようにいらしていたのに」
『もしかして毛づくろいに飽きて我に返ったのだろうか……自分の番相手がこんな小物だと』
「いやぁ、さすがにそんなお方じゃないでしょう……」
毎日飽きもせず楽しそうに主マナの毛づくろいをしていたキャンディスを思い返してみても、彼女が飽きる事など考えにくかった。あの籠に入ったブラシ一式は、どう見ても真新しいものだった。
と言う事は、わざわざ動物の毛づくろい用に婚礼道具として持ち込んだものだろう。
飼い馬でも連れて輿入れしたならばともかく、使用人の間でそのような話は聞いた事がなかった。
「そういうあなたの後ろ向きな思考は脇に置いて、普通に考えるならば、キャンディス様は体調を崩されているとかではないですか? 若く健康な女性であっても、家族と離れ、右も左も分からぬ環境に放り込まれれば、知らず疲れが溜まって体調を崩していてもおかしくないでしょう」
さすがは長い付き合いの侍従だ。選ぶ言葉に遠慮がない。
鋭い指摘に一瞬喉がグゥと鳴ったが、確かにキャンディスの事についてはカヌスの言葉に一理あった。
『確かにそうだな。キャンディスの従者に訊ねてみてくれ』
「わかりました」
キャンディスは現実と夢のはざまで微睡んでいた。
完全に眠りに落ちているわけではないが、思考は定まらず意識は覚醒するかしないかの表層を漂っている。
今月も数日前から始まった月経のせいで、起き上がる力さえ気だるさに押し流されていく。下半身に砂袋でも抱えているのかというくらいに身体は重く、低くではあるが発熱もしていた。
いつもならここまで重くないのだが、今回に限ってこんな状態なのは、まだこの地の気に身体が馴染んでいないせいだ。
キャンディスには父パロミデスのように魔力を外側に発現させる能力はない。
むろん、訓練すればそれも可能になるのかもしれないが、自分以外の他者を傷つけるための力に興味を持てなかった。
だが、それでも褐色の肌を持って生れて来たキャンディスには当然、母や兄姉達にはない特別な力が備わっていた。
魔力感応による大地との親和力がその際たるものだ。
大地との親和力が高まれば、風が運ぶ声が聴こえるようになる。それは野生動物との意思疎通を可能にし、その地特有の魔力を浴びても魔力酔いを起こさないという効果をもたらす。
どんなに獰猛な獣でもキャンディスの前では膝を折る、と言わしめるのはこれが理由の一つだ。
その土地に暮らし、空気に触れ、水を飲み、食物を摂取する。それらの日々行われる当たり前の事で、肉体は土地に受け入れられて順応していく。
だが、トランサルピナにはやってきたばかり。輿入れしてきた初日よりも身体は馴染んできているとはいえ、経血には体内で自身の魔力に変換しきれなかったこの土地の魔気が含まれて魔力酔いを引き起こしていた。
人間の、国という概念とは別に、大地にはその土地を守護する存在がいる。ここに来るまでに生活していたアルフィナの森の守護者はヴィトよりも一回りも大きな熊の姿をしていた。
アルフィナの森を離れる時に、その守護者の加護をもらってきたとはいえ、肉体の代謝機能に抗う事は出来ない。
今はこうしてゆっくり体を休めているしなかないのだった。
体調が芳しくないおかげで、ここ数日寝起きを繰り返しているキャンディスの寝顔を見つめながら、ジェニーは寂しげにため息を吐いた。
発熱している主の額に手を充て、そっと熱の具合を確かめてみる。
手に伝わる体温はまだ若干高いように感じるが、明らかに熱さが増しているという様子はない事にホッと胸を撫でおろした。
キャンディスは眠りの淵でその手の質感を感じながら、夢現に薄く笑んだ。
自分の体温よりも低いジェニーの手の冷たさが、ただ心地よかった。
「は……それはつまり、発情期、という事なのですか」
カヌスはマナの言いつけ通り、キャンディスの事情を尋ねるために、普段は踏み入れる事のない来客用の別棟を訪れていた。
早速従者をつかまえて話を聞いたところまでは良かったが、眼前に立つ大男との会話が一向にかみ合わないのだった。名は確か、ヴィトと言ったか。
この男は本当に人間なのだろうか、と思う程キャンディスの従者は大きい。
人狼族は種族特性として体格に恵まれた雄が多い。位が上がるほど強くなるのだから、必然的に高位にいる雄程大きくなる。
華奢なカヌスが下位であるのは当然の事なのだ。
「だから、メンシスだっつってんだろ。何で毎月のモンで発情すんだよ、種族がちげーだろうが」
どう言ったら伝わんだろうなー、などと続けながら、大男はガリガリと堅そうな頭髪を掻いた。
「毎月?! 毎月なのですか?! その……子宮から血が出るのですよね?」
「あんたらは獣の性質が強ええだろうからそういう認識になるんだろーが、人間は血が出るのと発情は一致しねぇ。子を孕む機能は備わっちゃいるが、季節性の発情期なんざねぇんだよ」
野生動物は暖かい時期に出産する事が多い。それは、外的要因を受けやすい彼らが確実に次代へと命を繋いでいくために進化してきた結果だ。おそらく人狼族もまた、生殖に関する仕組みはそちらに近いのだろう。
「は? ではどうやって仔が増えるので?」
「交われば孕む事もある。だが必ず孕むとも孕まんとも言いきれねぇ。人間の雄と雌が交わるのに、季節だとか発情期だとかそんなもんは無い。いつでも、どこでも、やりてぇ時にだ」
種族間の差異を説明するのに、ヴィトは平民らしい明け透けすぎる物言いをした。
その言葉に、カヌスは思わずカッと顔を赤らめて叫ぶ。
「なんて破廉恥な!」
「破廉恥もクソも、種族が違えば生態も違う。俺たちを恥知らずみてーに言う前に、お前の主が人型に戻れなきゃ交われもしねぇんだからな。お前の主はともかく、お前がお嬢を馬鹿にするのは許さねぇからな」
そう口にしたヴィトの表情は、キャンディスに付き従ってマナの部屋を訪う時とはあまりにも違っている。
いつもは薄ぼんやりぬぼーっとしている癖に、この豹変ぶりは一体何だ。
自分よりも体格の立派な男に上から睨みつけられただけなのに、カヌスは背が粟立った。
もしも今耳と尾が出ていたら、恐怖で両方垂れていただろう。
「はい……では、数日すればまたお元気になられるという事でよろしいのですね?」
「ああ。たかだか数日でガタガタ言うなよ、お前らはお嬢を何日ほったらかしだったんだって話だろうが」
不機嫌な面持ちでそう指摘され、カヌスは何も言い返せずにグッと唾液を飲み込む。
だが、どんなに冷たくあしらわれようとも、ヴィトの言葉は言い逃れしようのない事実だった。
「それに関しては言い訳のしようもありません……。 お大事になさって下さい。キャンディス様のご体調は主に伝えておきます」
失礼します、とカヌスは軽く頭を下げてその場を辞した。
しおしおと項垂れて帰って行くカヌスの後ろ姿を見送って、ぼそりとヴィトは呟く。
「やべ、ちょいと牽制しすぎちまったかな」