9・毛づくろい
マナの部屋に忍び込んでから数日後、キャンディスは自室のソファでクッションを抱きかかえながらジェニー相手にくだを巻いていた。
「やっぱりそんな事をしたらはしたないかしら? ねぇ~、ジェニーはどう思う?」
子犬状態のマナと対面して以降のキャンディスの悩みと言えば、あのふわふわの旦那様にどうやったら触れられるのか、というマナが人型であれば悩みすらしない事だった。
野生の幼獣にむやみに手を出す事はできない。人間の臭いをつければ、最悪の場合その仔が群から弾かれてしまう可能性があるからだ。
だが、マナは幼獣の姿をしていても野生の生き物ではない。存分に撫でまわしても群れから弾かれる事はない。
だが、別の意味で悩ましいのは、人型に戻れなくなっているから子犬の姿なのであって、その中身は大人の男性なのである。
いくらマナが伴侶なのだとしても、いくらキャンディスが粗雑な育ちをしていても、異性に無遠慮に触れるというのは羞恥心が湧くのだった。
「だから、ここで悩んでいらっしゃっても答えなんて出ませんでしょう? マナ様当人にお伺いするしかないのじゃありませんか?」
ジェニーは苦笑しながら、初心な悩みを口にする主人にそう返した。
何度同じやり取りをしたのか数えても居ないが、一言一句違わず同じ言葉で返せる程度にはお決まりになった返事だ。
普通の婚姻と違って王命で嫁いできたのだから、キャンディスとマナはこの先何があってもお互い離れる事など出来ない相手なのだ。
夫婦となったからには初心だからという理由では避けられない事もあるのだし、もういっそ獣形の状態から徐々に触れ合えば良いのでは、と頭の片隅で思考した瞬間、心拍がドクリと跳ね上がった。
一瞬引き攣るように息を小さく飲み込み、とっさに手で口元を抑える。
ドクドクと鳴る鼓動が、寒くもないのに身震いを呼んだ。
固まったまま動かなくなったジェニーを目に映したキャンディスは、とっさに立ち上がってもう片方の手を取った。
「具合悪い? 無理しなくてもいいわ」
ジェニーの身体を包み込むように背に腕を回し、荒れた手を温めるように自分の両手を被せる。
髪が落ちないよう被った白帽のこめかみに、キャンディスのそれが重なって柔らかいくせ毛が頬を撫でる。
「大丈夫よ、今あなたの傍に居るのは私」
「お嬢様……」
ぽつり、と小さく吐き出し、吐き出した分を埋めるように息を吸い込む。
しばらくそうして、徐々に胸の動悸が収まった頃、ジェニーは踏ん切りをつけるように一呼吸して苦笑した。
「申し訳ありませんお嬢様、もう、大丈夫です」
「そう?」
ジェニーのその言葉に、キャンディスは言葉少なくそう返し、それ以上は何も言わなかった。
彼女が心に抱えた傷は深い。忘れたくとも忘れられない忌まわしい記憶を抱えている。
だから何かのきっかけで、その事を思い出してしまうのだ。
そういう時キャンディスはただ黙って傍に居る。消し去る事の出来ない苦しみがジェニーを傷つけても、決して自分はあなたを傷つけはしないのだ、と。
キャンディスのふわふわのくせ毛が頬から遠のいて行くのを感じ、ジェニーはその蜂蜜色をした髪を瞳に映してふと思いついた。
「お嬢様、こちらでも動物の毛づくろいをなさるおつもりでブラシを一式お持ちになられましたでしょう? 旦那様になられるのですし、いっそマナ様の毛づくろいをさせていただいては?」
「まあ、それは良い考えね!」
ジェニーの提案に、キャンディスは期待に瞳を輝かせて頷いた。
マナが良いと言ってくれたら、心置きなくあのふわふわの毛並みを堪能できる。
「早速カヌスにマナ様の体調を聞かなくちゃ……ヴィトが帰って来たらお使いに行ってもらうわ」
「では、待っている間にお茶でもお淹れしますね」
ジェニーのその言葉に、キャンディスは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、お願い」
ふわふわの毛並みの上を柔らかいブラシが滑って行く。
キャンディスの握るそれが、マナの銀と黒の混ざり合った被毛を解きほぐし、ボワボワのアンダーコートを気持ちの良さそうな綿毛へと変えていく。
キャンディスの膝の上に寝そべって、なされるがままブラッシングをされるマナの瞳は気持ち良さそうに閉じられている。
毛づくろいという名分のどさくさ紛れに、キャンディスはマナの額や耳の裏側までをも揉んでいるが、それすらも心地が良いのか尾が左右へと動いて居る。
初めて対面した頃は体調の安定していなかったマナも、最近では寝込む事も少なくなってきていた。
だからこうして部屋を訪れるキャンディスと、のんびりとした時間を持てるようになったのだ。
当初は部屋を訪ねても良いかという連絡に応じられない日も多かったが、不思議なもので対面して毛づくろいをされればされるほど体調が良くなって行くのだ。
もしかしてキャンディスには癒しの力があるのだろうか。
まどろむように閉じていた眼を開け、嬉々としてブラシを動かし続ける少女に問い掛ける。
『ねぇ、君は癒しの魔力を持っているのかい?』
マナのその問いに、少女は一瞬手を止めて小首をかしげる。
「私にそんな便利な力があれば良かったのだけど……残念ながらないわ」
『そうか……。君がこうして僕の毛づくろいをしてくれるようになったおかげかな、最近はすごく安定していて体調が良いんだ。君の手はまるで魔法だね』
告げると、少女は嬉しそうに頬を緩ませる。
「良かった……私のわがままに付き合わせてしまっているんじゃないかって思ってたの」
『そんな事はないから大丈夫だよ』
そう言ってマナは再び顎を少女の膝の上に伏せて目を閉じた。
スンと息を吸い込めば、良い匂いが胸に満ちた。
人狼族は種族特性として、嗅覚が発達している。相性が悪ければ相手の臭いを不快に感じるが、キャンディスからは出会った日からずっと良い匂いがしている。微かなその香りは、強いて言うなら太陽の匂いだ。日向のような暖かい匂いがする。
番となるために隣国からやって来た少女。たとえ種族は違っていても、相手が彼女であった事はありがたい。獣の嗅覚がキャンディスの匂いを拒絶しないと言う事は、人狼族にとって重要な事なのだ。
だが、いつまでこの愛らしい婚約者を今のような中途半端な状態に置いておかなくてはならないのか、という焦りはある。
未だ人形に戻れる程には安定していないが、自身の内側に流れる魔力が自家中毒を起こして暴走する事はなくなった。だが、それだけでは彼女を守ってやることは出来ない。
もう少し魔力が安定するようになったら、一度あのお方に会いに行こう、とマナは心の中で思った。
あけましておめでとうございます。更新頻度ゆっくりで申し訳ありません。完結までのプロットは出来上がっているので、気長にお付き合いいただけるとありがたいです。本年もどうぞよろしくお願い致します。