第42話 比翼の鳥 -後-
すぐさまアリシアが駆け寄る。
「殿下!」
皆が見守る中、オスカーがゆっくりと体を起こした。
その顔は相変わらずげっそりとしているが、瞳から先ほどの狂気じみた光は消えている。
「私は一体、どうしたんだ……。なんだか悪い夢を見ていた気がする……」
「殿下、大丈夫ですか!? ご気分は!? お体は!?」
「体は相変わらずだが、気分はとても穏やかだ。ついさっきまで、怒りや悲しみではち切れそうなほどだったのに……。一体、何があったんだ?」
エマはぎゅっと手を握ると、一歩前に踏み出た。
「……わたくしの、魔法の鏡のせいです。オスカーさまもアリシアさまも、迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい」
言って、エマは深く頭を下げた。
魔法の鏡が割れたのは事故であり、誰かが悪いせいではない。
だがエマが魔法の鏡を持ってこなければ、そもそも事故は起きなかったのだ。一時とは言え、アリシアとオスカーを引き裂いたのには鏡が大きく関わっている。
魔法の鏡を所持する者として、エマは心から謝った。
オスカーが別人のように穏やかな表情で口を開く。
「……いいんだ、もう済んだこと。それに君たちが、戻してくれたのだろう?」
それから、うっと口元を押さえる。
アリシアがすぐさま洗面桶を差し出すと、オスカーはそこへ胃液を嘔吐した。
ハンカチで口元を拭ってもらいながら、彼は力なく笑う。
「きっと、その鏡とやらも含めて罰が当たったのだろう。私は……とても傲慢だったから」
アリシアと同じ言葉を言う横顔はさみしげで、風が吹けばすぐにでも消えてしまいそうだった。
アリシアが慌てて、彼がどこへも飛んでいかないよう強く手を握る。
「そんなことはありませんわ! 殿下はいつも務めを果たそうとご立派でした! 王太子として厳しい判断を下されることもありましたが、それも全て民のため……! あなたは決して傲慢などではありません!」
「アリシア……」
すっかり細くなってしまったオスカーの手が、アリシアの頬を撫でる。
「君にもずいぶんつらい思いをさせてしまったね……。それでも私を見捨てないでいてくれて、心より嬉しく思う」
「殿下……!」
けれど次の瞬間、オスカーは痛みをこらえるような、突き放すような口調で言った。
「……だが、今後は私のためではなく、自分のために生きろ。見ての通り、私は持って一ヶ月だと言われている。君はまだ若い、新しい人生を始めるんだ」
「そんなの、嫌ですわ!」
アリシアは叫んだ。
心からの叫びだった。
「私はあなたのために生きているのです! 幼い頃の誓いを忘れたのですか? 王など関係ありません! 私たちは比翼の鳥、連理の枝。そう言ってくださったのは殿下でしょう!? 私はただ、あなたを支えるために生きているのです。どうかそれを奪うとおっしゃらないで!」
「わかってくれアリシア。私はもう君には何もしてあげられない。命が燃え尽きるのを、待つことしかできないんだ」
「それでも嫌です!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、アリシアはまっすぐオスカーを見る。
「あなたの命が尽きる時は、すなわち私の命も尽きる時! はじめからあなたなしの世界で生きていくつもりなどありません! オスカーさま 、どうかお願いです。あなたがこの世を去ると言うのなら、私もお供させてください……。暗く寂しい道を、決して一人では歩かせませんわ……!」
わっと、アリシアがオスカーにすがりついて泣いた。その頭を優しくなでながら、オスカーが悲しそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔をする。
「……私はなんて情けない男なのだろうな。愛する女性を突き放さなければいけないのに、ともについてきてくれるという君の言葉を、とても嬉しく思っているんだ」
オスカーの目も、涙で濡れていた。
彼のやせ細ってしまった手に、アリシアが愛おしそうに頬をこすりつける。
「それでいいのです。あなたは私の命。何があっても、私はオスカーさまを一人にはいたしませんわ……」
「アリシア……」
オスカーが甘えるように、かすれた声でアリシアに乞う。
「アリシア、歌を歌ってくれないか。久しぶりに君の歌声が聞きたい」
「まあ……。こんな時に、何をおっしゃるのです」
「頼むよ、アリシア。私に、最後の思い出を」
「……わかりましたわ。それがオスカーさまの頼みなら」
微笑んでから、アリシアがゆっくりと口を開いた。
――それは心洗われる美しい歌だった。愛しい人とともに、夜空の月を見上げる穏やかな歌。
アリシアの透き通る声が、きらきらと光る音の粒を刻む。悲しくも甘い旋律は、その場にいる者たちの心に強く、優しく語り掛けてくる。
オスカーが愛しい、と。
切ない声に誘われるように、エマの目から涙が落ちた。
(……わたくし、泣いているの?)
驚いて顔を上げると、アルヴィンが静かにこちらを見つめていた。長い指が、そっと涙をすくいとっていく。
見渡せば、エマだけではない。女官たちも皆、目元を押さえてすすり泣いていた。
『愛する人のためなら、自分の命も惜しくない』
アリシアの強い気持ちに胸を打たれ、その場にいる誰もが嗚咽を抑えられなかったのだ。
エマの頬を、はらはらと涙が伝う。
(なんて激しく……美しいのでしょう)
母が注いでくれた優しくあたたかな愛とは違う、命を燃やすほどの激しい愛。
初めて見る愛の形は、エマの心を深く揺さぶった。
横になって目をつぶっていたオスカーが微笑む。
「……月が綺麗だね」
アリシアが嬉しそうにうなずく。
ささやかな、けれど心に染み入るような二人の姿。
言葉もなく見つめていると、アルヴィンがそっと囁いた。
「……行こう、今は、二人きりにしてあげよう」
うなずいて部屋を出る直前、エマはもう一度部屋の中を見た。
遠い東の国に伝わる、“比翼の鳥”。
どんなに遠くにいても固く心が結ばれた伝説の鳥のように、アリシアとオスカーは静かに寄り添っていた。




