第41話 比翼の鳥 -前-
「食べたくないと、言っているだろう!」
オスカーの部屋に踏み入った瞬間、怒号が耳を打った。
続いて、ガチャンと皿がひっくりかえる音。
「殿下、落ち着いてくださいませ」
そう言ったのは、いつもの絢爛豪華なドレスではなく、メイドとも思える質素な服を着たアリシアだ。
先に入ったアルヴィンが、片手でかばうようにエマを制した。その顔には驚きの表情が浮かんでいる。
無理もない。
ついこの間まで偉丈夫そのものだったオスカーが、今は別人のようにげっそりとやつれていた。
その上暴れまわったらしく、ベッドテーブルに載せられていた料理はどれも叩き落とされいる。
女官たちが慌てて片づけをする横で、アリシアがそっと手に持っていたグラスを差し出した。
「体がおつらいのはわかりますが、食べなければさらに悪化してしまいますわ。せめて、お水だけでも……」
「いらぬ!」
オスカーが大きく手を振り払う。アリシアの持っていたグラスがはじかれ、水がバシャッと彼女の顔に直撃する。
ぽたぽたと顔からしずくをたらしながら、アリシアが疲れた顔でため息をついた。女官たちが慌ててタオルを持ってくる。
(あれがオスカーさま? なんという……)
エマは絶句した。
オスカーの目は狂人のごとくギラギラと血走り、どう見てもまともに話ができる状況ではない。
足元では、オコジョ姿のシロがシマエナガたちを抱えてぷるぷると震えていた。
エマはシロたちをそっと手で押しやり、自分の後ろに隠してやる。
不安になってアルヴィンを見ると、彼も苦い顔をしていた。
しかし今更すごすごと退散するわけにもいかないのだろう。
声掛けをためらっているうちに、息を切らせたオスカーの瞳がギラリとエマたちを捉えた。
「アルヴィンか……何の用だ。私の無様な姿を笑いに来たのか!? 知っているんだぞ、父上はお前を次の王太子に指名したらしいな!」
憎悪と嫉妬。
二つの感情が、立ちのぼる煙のようにオスカーを取り巻いている。
アルヴィンが痛ましさに目を細めた。
「王太子の件は断るつもりです。……それに、王位継承権そのものを放棄しようと思っています」
“王位継承権の放棄”。
王太子の辞退よりさらに重い言葉に、その場にいる皆がはっとする。
オスカーも勢いを削がれたようだった。
「ほう……? その言葉、嘘ではないだろうな」
「嘘をついてどうするのです。兄上もご存じでしょう。私はエマの婚約者だ」
だが婚約者という言葉に込めた意味を、オスカーは違う意味で解釈したらしい。一度は収まりかけていた嫉妬の炎が、再び瞳に揺らめく。
「そうだった、それがあったな! 祖国より雪の女王か! さぞかし楽しいだろうな!? 母上に虐げられたお前が、選ぶ側に回った気分はどうだ!?」
罵声とも言える言葉に、エマのみならずアルヴィンも顔をしかめた。
今の彼には何を言っても逆効果だと、アルヴィンも悟ったのだろう。
「……今のままじゃ埒が明かなさそうだ。兄上、失礼」
言うなり、アルヴィンはベッドに向かってつかつかと歩き出す。
それからオスカーを、敷き詰められたクッションに突き飛ばした。
「っ! 何をするっ!」
「誰か兄上を押さえるのを手伝ってくれ。大事なことなんだ」
言いながら、アルヴィンがオスカーの右腕を押さえ込んだ。
女官たちがおろおろと顔を見合わせる中、すっくと立ち上がった女性がいた。
アリシアだ。
「……手伝いますわ」
「アルヴィン! アリシア! お前たち、一体何のつもりだ!」
オスカーが激高する。それには構わず、アルヴィンがエマを見て言った。
「エマ、兄上に破片は刺さっているか」
エマは急いでオスカーに駆け寄った。それから、じっと瞳を見つめる。
アルヴィンとよく似た青い瞳は、ひりつくほどの怒りと狂気を放っていた。正面から射貫いてくる視線の強さに一瞬たじろぎそうになったが、エマも負けじと踏ん張る。
「これは一体何なのだ! おい! 誰かこいつらを剥がせ!」
(きっと……あるはずよ……この人の中に、最後の破片が……!)
それは祈りにも似た願いだった。
あるかないかではなく、あって欲しい。
――そんなエマの願いが聞き入れられたかのように、オスカーの瞳に一瞬だけ斜がかかった。
「姫さま!」
かたわらで見ていたシロが叫ぶ。
エマはうなずくと、オスカーに手を差し出した。
たちまち粉雪が、どこからともなく渦を描きだす。
そのままフゥッと息を吹きかけると、宙に舞った粉雪はまっすぐオスカーめがけて飛んで行った。
「なっ! 何だこれは! 一体何を……!」
しかし、オスカーの言葉は最後まで続かない。粉雪が彼の頭の周りを舞ったと思った瞬間、ふっつりと意識を失ったのだ。
「殿下!?」
アリシアが悲鳴を上げ、オスカーに飛びつく。その前をきらきらとした破片が宙を舞い、粉雪とともにゆっくりとエマの手に収まった。
間違いない。砕けた鏡の、最後の一枚だ。
(これで全部見つかった)
エマがほっと息をつくのと同時に、アルヴィンも安堵したように抑えていた手を放す。
「エマさま、これは一体!? 殿下に何をしたのです!?」
狼狽したアリシアがすがりついてきて、エマは急いで説明した。
「大丈夫です。今、オスカーさまは気絶しているだけ。すぐに目覚めます」
その言葉に、アリシアはほっとしたらしい。エマを掴む手が緩む。
――そんな彼女を、エマは感嘆の思いで見つめていた。
鏡の破片が刺さっていたせいで、この数か月のオスカーは最悪だったはずだ。
事実、アリシアは手ひどい裏切りを受けて婚約破棄され、先ほども看病しているにも関わらずあの仕打ち。
家族ですら見放してもおかしくない状況だと言うのに、彼女は今もオスカーのことを心の底から心配しているのだ。
「う……ん……。……アリシア……?」
そうしているうちに、オスカーがゆっくりと目を開けた。




