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永遠の蛙

作者: 十々木 とと



 大罪を犯したわけではなかった。気難し屋の魔女の、常人には思いもよらない独自の禁忌に触れてしまったようだった。ようだった、というのは未だに何が禁忌だったのか分からないからだ。兎に角魔女の逆鱗に触れて醜い蛙の姿に変えられてしまったのだ。

 醜いといっても、蛙を嫌う多くの人間の主観に過ぎず、つぶらな瞳は我ながら愛らしいと思う。扁平な口も、指先がまん丸の四肢も、可愛らしい形状だと思う。もう永いこと蛙でいるから、慣れで感覚が麻痺している可能性も否めなかったが、それなりにこの姿を愛せるようになっていた。

 魔女は解呪の方法を教えてくれたが、温情ではなく望みを断つ行為だった。初めこそ嘆いて嘆いて、それこそ干からびるんじゃないかと思う程嘆いた。だが天日干しをしても干からびることも許されず、外敵に襲われ傷を負おうとも死ぬこともできない。永遠に蛙であることを止められない、そういう呪いだった。どれほど嘆いたところで何も変わらなければ、嘆くことにも飽きが来る。平静を取り戻してから年月を数え、それにも飽いて数えるのを止めたので、どれ程の時間が過ぎ去ったのかも分からない。


 透明度の高いお気に入りの湖の畔で晴れ渡った青い空を仰ぐ。永遠とはどのくらいの長さなのだろう、終わりはこの澄んだ空の向こう側にはあるだろうかと答えのないことに思いを馳せていると、黒い影が日の光を遮った。鳥だ。ぎゅっと蛙の小さい心臓が縮み上がる。死なないとはいえ、突かれれば痛いし、自分より大きな生き物に狙われるのは怖いのだ。慌てて木陰に向かって地を蹴ったが遅かった。鋭い鉤爪に捕らえられ、軽々と持ち上げられる。

 嗚呼、またか、と諦めでだらりと四肢を投げ出したら、頭上で、ぎゃ!と驚きと苦痛を訴える鳴き声がした。同時に鉤爪から解き放たれ落下する蛙。内臓破裂を覚悟し、乾きかける目の為に瞬膜を上げた。

 予期した衝撃はこなかった。やんわりと何かに受け止められて、その暖かさに戸惑う。


「無事?目を回してしまったかな」


 人間の声だ。何十年かぶりの人間の言葉。驚いて扁平な口を擡げて見上げる。身なりの良い若い男だ。おそらく二十代半ばから後半。鳶色の目に柔らかそうな灰色の髪。切れ長の涼やかな目に程よく通った鼻筋、薄い唇。地味だがそこそこ整った顔立ちをしている。久方ぶりに見たその人間は、潰さないが逃さない絶妙な力加減で蛙を拘束し、蛙の体に傷がないか一通り眺めてほっと表情を緩めた。


「怪我はないね。間に合って良かったよ」


 どういうことだ。この男は蛙を助けた。犬猫を助けるように蛙を助けた。どういうことだ。蛙は当惑した。口振りから先程の鳥に何かしらの攻撃を加えたのだろう。鳥の方が好む人間は多かろうに、この男は何をやっているのか。男は拘束を緩めて両手に乗せているだけの状態にしてくれた。大人の拳程の蛙は少し窪んだその中にぴったりとはまる。逃げるのも忘れてじっと見上げた。男が頬を染める。


「もしかして、僕のこと気に入った?」


 蛙相手にどうした。


 懐かしい種族に出会ったと思ったら、様子のおかしい人だった。








 蛙はお持ち帰りされた。

 大きな屋敷の庭の池が蛙の住処となった。池は初め普通の池だったのだが、蛙がまた空から狙われてはいけないからと、天蓋で覆われた池になった。設置した庭師がお姫様の寝所みたいですねと笑った。繁殖はしないから水辺より木が欲しい。低木が近くにあったので、普段はそこに隠れている。時折庭師が、姫蛙様、と親しみを込めて呼び餌をやりに来る。生きた虫を。やめて欲しい。蛙は呪われた存在なので食事は必須ではないのだ。

 蛙を持ち帰った男は若様と呼ばれていた。屋敷には複数の使用人がいて、若様の教育が行き届いているのか、蛙を邪険にする者はいない。もれなく姫蛙様と呼ばれている。天蓋付きの池と庭師の所為だ。若様は池に足繁く通い、蛙の健康状態を確かめ愛でる。蛙は名前を貰った。


「嗚呼ヴェラ。僕のヴェラ。今日も変わらず美しいね。しっとりとした肌の滑らかさも、絶妙な曲線を保つ背中も艶かしい。どうして君はそこにいるだけで僕を惹きつけるんだ。その瞳孔の大きな黒々とした瞳で見つめられると心が浄化されてゆくようだよ」


 若様の為に池の畔の大きな岩によじ登ると、彼は同じ岩に顎をつけ、目線の高さを合わせてうっとりする。最近お疲れのようだ。いつものように、一頻りちょっとどうかと思う褒め言葉を羅列したあとは愚痴をこぼしてゆく。


「血を残すのは貴族の務めだからね。しょうがないのは解っているんだ。でも僕には無理だ。君が人間だったら良かったのに」


 若様は婚約者候補を必ず池に連れてきて、ヴェラを紹介した。ヴェラを愛せない人とは添うことはできないと言って。ご令嬢達は黄緑色の蛙を見て悲鳴をあげたり、腰を抜かしたりしていた。後日お断りの手紙が来たと若様は胸を撫で下ろす。


 この人は大丈夫なんだろうか。


 ヴェラを助けて外敵から守ってくれている男だ。それがヴェラの永い蛙生の中のほんの一時だったとしても、多少気持ち悪かったとしても、暖かな人間の情に触れ人間の言葉が聞ける、懐かしく穏やかな時間をくれたのだ。幸せになって欲しい。たとえ蛙しか愛せない変人でも、愛してくれる奇特な乙女は何処かにいる筈だ。祈るように瞳孔を細くしていると若様の息がかかった。至近に寄ってきた顔に瞳孔を開く。目が乾くからやめてよと鼻に前足を乗せた。蛙的には押してるつもりだが人間はびくともしない。くすぐったそうに幸せそうに若様が笑う。


「嗚呼ヴェラ。君は本当に愛らしい」


 若様が触れた。


 唇で。


 ヴェラの口に。


 若様の唇が触れた。


「────────────正気!?」


 もう聞くことはないと思っていた自分の声が響いた。蛙にキスの衝撃とどちらの衝撃が大きかったのかは分からない。永遠の蛙の呪いが解けた。心から愛してくれる人の接吻で。


 そんなばかな。


 蛙のヴェラを、この男は心から愛している。これ以上はないという方法でそれを証明した男はと言えば、目を極限まで見開いて固まっていた。長い金髪を白い肌に纏わり付かせた女が鳶色の瞳に映し出されている。

 ヴェラははっとした。若様が愛しているのは人間のヴェラではない。幸せになって欲しいこの人からヴェラを奪ってはいけない。


「ごめんなさい!もう一度呪われてきます!」


 弾かれたように立ち上がり、屋敷の門へ向けて走り出そうとすると、人間の体の使い方を忘れていて足が縺れる。力強く腕を引かれ、気付いた時には若様の腕の中だった。


「はっ、はだっ、は、だか…っ!」


 若様は混乱している。咄嗟に婦女子の肌を隠す行動をとったらしいが、適切ではない。ヴェラも混乱した。


「ののの呪われてきますから呪われてきますからっ、許してくださいぃいいいいい!」


 半狂乱のヴェラの叫びに庭師が血相を変えて駆けつけ、上着に包んで引き剥がしてくれなかったら、若様の大事なところを蹴り上げていたかもしれない。

 







「婦女子を襲っただと!?」


 扉を蹴破る勢いで怒鳴り込んできた壮年の紳士に、部屋の隅で蹲って震えていたヴェラは飛び上がりかけた。綺麗に撫でつけられた灰色の髪、品よく整えられた口髭、凛々しい眉と鋭い眼光。威厳のある紳士が怒鳴るととても怖い。続け様にもう一人、黒髪の美女が乗り込んできた。


「でかしたわ!」


 淑女が淑女にあるまじき興奮度で畳み掛けてくる。


「どちらのお嬢さんなの!?まぁ、このお嬢さん!?使用人なの!?」


 ヴェラは緊急措置としてメイドのお仕着せを着せられていた。


「この際出自はどうでも良いわ!安心して!責任は取るわ!今日から貴女はうちの嫁よ!」


 口を挟む隙間がない。目の前に膝をついた淑女に両手を掴まれた。スプーンより重い物を持ったことがないような華奢な手をしているのに、ヴェラの手が潰れるのではないかというほど握り締められている。


「待て、気が早い。結婚式の準備をせねば」


 家令に指示を飛ばす紳士も気が早い。

 事情は察した。片っ端から見合いを潰してきた若様はきっと女性に興味が持てないのだ。どのような女でも食指が動いたのなら捕まえずにいられないほどご両親は切羽詰まっている。おろおろと若様を見たら夢現の状態から漸く脱してヴェラを見た。ヴェラは目を伏せる。彼の愛するヴェラはもういない。目でさえ彼が好きだった黒々としたものではなく、若い緑の色と白が多いものになってしまった。悲しむ彼を見たくない。


「母上、ヴェラの手が壊れてしまう」

「まぁああああ、貴方が女性にそんな気遣いを…!」


 跪いた若様が淑女の手に手を添えると、淑女はヴェラの手を離し、感極まったように口元を両手で覆った。若様はすかさずヴェラの両手をとって手指に支障がないかを確かめる。


「ヴェラ…僕の願いを聞き届けてくれたんだね」


 壊れ物を扱うように優しく両手を包み込まれた。蛙を捕獲した時と同じ、潰さないが逃さない絶妙な力加減。ヴェラは人間の仕草を思い出しながらふるふると頭を振った。


「ああ、僕のヴェラ。心配しないで。咎めたりはしない。君だと思えば人間でも愛せるよ。大事にするから」


 悲しんでなかった。それどころか陶酔した声が聞こえる。若様の脳内配線はどうなっておられる。


「ち、ちが、…違うん、です」


 訂正してしまっていいのかわからない。だが蛙に注ぐ純粋な愛を偽りで穢してしまっていいわけがない。ちょっと自分でもよくわからない理屈だが、兎に角いたたまれなくなって叫んでいた。


「私、元々人間なんです!」








 ヴェラは話した。魔女に呪われた人間であることを。若様の愛によって解呪されたことを。

 若様の両親は、なんだそんなことか、結婚式の準備をしよう、その前に養子縁組ね、私の親戚に頼む?それとも貴方の?といそいそと出て行った。ヴェラが人間の女であること以上に大事なことはないらしい。残った若様に深々と頭を下げる。毛足の長い絨毯に両手をつくこの姿勢はとてもしっくりくる。人生より蛙生の方が長かった。


「ごめんなさい」


 人間であることを謝る日が来るとは思わなかった。なんて日だ。


「顔を上げて、ヴェラ」


 穏やかな声におずおずと顔を上げると、若様は少し悲しそうな顔をしていた。ああ悲しませてしまった、と落胆する。


「確かに君が蛙でなかったことは悲しい。でも、蛙だった君は本当に美しくて、仕草の一つ一つが胸が潰れそうな程愛らしくて、僕の唯一無二だった。その事実は決して消えはしない」


 何故だろう。愛の告白を受けているのにちっとも嬉しくない。若様はそっとヴェラの頬を両手で包んだ。


「君が人間だとしても僕のヴェラの面影を探してしまう。僕はもう、君でなくては駄目だ」


 悲しげな若様の目は切望で潤んでいた。罪悪感を持てばいいのか、胸を高鳴らせればいいのか、気持ち悪がればいいのか。全ての感情が均衡を保っていて、きゅう、と眉が寄った。


「そんなに悲しそうな顔をしないで」


 悲しい顔に見えたようだ。


「僕が嫌い?」


 嫌いではない。ちょっと気持ち悪いとは思うが、嫌いではない。ヴェラは頭を振ろうとしたが若様の両手の中で動けない。掌で気配は感じたらしく、彼の悲しみがほんの少し和らいだように見えた。


「若様には幸せになって欲しいです」


 一つに纏まらない感情の中で、確かなものはそれだけだ。


「君が僕の傍にいてくれる事が僕の幸せだ。僕のものになってくれる?」


 蛙ではないのだがいいのだろうか。期待と不安の入り混じる鳶色の瞳はいいと言っているように見える。

 ヴェラを知っている親類縁者はとうに寿命を迎えているだろう。長いこと蛙をやっていたので人間社会がどう変わったかもわからない。ならば、たとえ蛙のヴェラでも、愛してくれている若様を頼る他に道はないのではないか。ヴェラは頷く気配を若様の掌に伝えた。見る見るうちに若様の顔が喜色で輝く。


「嗚呼ヴェラ!人間でも、君なら口付けられるよ」


 愛の振り切れぶりの披露なのか余計な一言なのか判らない台詞を吐きながら、若様がヴェラに口付けた。唇を合わせていられたのは数秒だ。ヴェラの質量が縮んだ。着ていたお仕着せが絨毯の上に落ちる。若様は両頬を包んでいた両手で咄嗟にヴェラを受け止めた。


 蛙のヴェラ、再来。


「ヴェラ!」


 若様は大層喜んだ。








 魔女は呪いの全貌を明かしてくれていたわけではなかった。心から愛してくれる人の接吻は、人と蛙を行き来させる。蛙の時は必ず変化するが、人間の時はむらがあるようで、今のところ法則は掴めていない。若様はどちらでも変わらず愛してくれるし、両親待望の初夜も無事済んだので盛大に感謝された。羞恥で死ぬかと思った。使用人達は若様に耐性があるからなのか、偶に蛙になる奇妙な若奥様を受け入れてくれている。可哀想な若様の為に神様が遣わせてくれたのだと影で有り難がられていることを知った時には、微妙な気持ちになったものだ。


「ヴェラからは沢山の(ヴェラ)が生まれるかな」


 若様はこのように非常に気持ちの悪いことをうっとりと言うこともあるが、それなりに幸せだ。










ヴェラさんはシュレーゲルアオガエルをちょっと大きくした感じの蛙。

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