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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
98/102

ときは今

 マルスの月の二三日。

 征軍の諸将は見た。霧の丘、その頂で巨大な白鹿のうえに悠然と佇む男の姿を。

 節度使鎮狄将軍清浜三郎太は一言二言、各々の隊に攻撃態勢をとるように指示を出してから、一時間(半刻)あまりもそうしていた。

 微動だにせず佇む三郎太もさることながら、周囲を固める彼の近衛――馬廻たる夏村衆四〇とヴォルフスの若者たちも、彼に従う一本の鋒矢となって威儀を放ち、見るものの戦意を高まらせた。


――勝てる。


 ヴォルフスより参じた三十も半ばの戦士は、そう確信して戦斧の柄を握りしめた。


 魔を討伐し、祖国を救い、皇帝を偉大ならしめる。我らには大義がある。正義がある。

 自らに降りかかった数奇な運命は既に受け入れた。

 ただ一心不乱に忠義を捧げてきた報いが辺境への遠征と聞かされたときも、妻子に別れも告げずに旅立ったときも、まさか自分がこのような舞台に立つことになるだろうとは想像もしていなかった。

 出立に際し、僅かでも無謀の挙と考えたかつての自分は、多くの奇跡の前に消え失せ、今ではこの旅路を天命とさえとらえている。


 戦時の連合領内を通過したことも、黒龍を打ち倒したことも、彼にとっては意外の出来事であった。清浜三郎太やアヅマ人と合流してからは、彼らとともに死ぬことも悪くないと考えながらも、この程度の小勢で連合を相手取ろうなど狂気の沙汰であると冷ややかに思っていたのも事実だ。

 しかしふたを開けてみればどうか。征軍は数多の困難を躱しながら遂に首都の眼前に出た。それも『魔』に苦しむ都市を救いながらだ。若者と共に戦斧を振るって助け出したアヴァロンの景色と感動は、終生忘れることは無いだろう。

 故に、大義はなる。奇跡はなる。この霧の向こうに何があろうとも、最後に勝利はなると、戦士は確信していた。


 征軍の諸将は見た。突如として逆巻く旋風が丘を包み込んだかと思うと、次の瞬間、征軍最大の盾であった霧が取り払われ、憎らしいくらい青々とした快晴の空が此方を睥睨するのを見た。

 前方、大地に広がるのは闘志赫々の連合軍五〇〇〇。上空に浮かぶのは我らを守護した霧の成れの果て、幾千本もの氷槍。先陣に位置する最精鋭の重装騎兵は今まさに大規模魔法を行使し、次には全力の突撃チャージを始めることだろう。彼らの背後に見える連合首都はあまりに大きい。


 一瞬、ただの一瞬であったとしても、浮足立ったのを否定はしない。

 ふと大きすぎる敵から目を反らし、敵に比べてはあまりに小さい背中に縋るような視線を送ってしまったからだ。


「旗ァ、掲げェ!!!」


 しかし、その背にはおそれも憂いも無いようだった。

 満身気迫を放つ節度使の激声が丘を揺らし、崑崙の忠実な旗手達が託された軍旗を高々と掲げた。

 翻るそれらを仰ぎ見たとき、怯懦は消えていた。


「押し出せぇぇ!!!」


 振り上げられた太刀が吶喊破砕を示したかと思うと、彼の白鹿は一躍宙に踊り、次の瞬間には斜面の向こうに消えていた。

 一瞬呆気にとられた諸将の中から、一拍遅れて声が挙がった。


「大将を殺すな!」

「続けぇーっ!」


 一騎駆けに丘を下る節度使に遅れまいと、戦士達は我先にと鞭を入れる。

 戦斧の彼も例外ではなかった。何事か自分にもわからない言葉を喚きながら、丘の向こうへ身を投じた。

 無我夢中に節度使の背中を追いかけながら、ようやく所属の第一騎兵隊長の姿を認めた時、気づいた。


「霧が――」


 一度は取り払われた霧が、影のように、まとわりつくように、彼らの足元にいた。





 窮鼠のなせるわざとでもいうべきか。

 唯一彼らを守り続けた魔の霧が払われた途端、これまで丘が放ち続けた沈黙は消え失せて、ありふれた戦の狂騒が戦場を包み込んだ。


 丘を下る清浜三郎太の征軍は辛うじて陣形を保っていた。

 三郎太を先頭に形成される、一本の鋒矢がそれである。

 しかしそれは、僅かでも、机上であってもいくさの多少を知る者からすれば、お粗末な戦いぶりと言うほかなかった。

 霧の内より現れた軍勢は尋常の騎兵隊と変わらず。先頭を軍旗と共に駆ける男は軍勢の主に違いないが、やはりその姿形に異常はない。

 ポセイドン騎士団の精鋭たる重装騎兵トリアイナの面々は、ヘルムの内でほくそ笑んだ。

 連合を翻弄し続けた強敵の、最後に採った戦い方が逆落としの突撃というのは、あまりにあっけない、買いかぶりの過ぎた結末だと誰もが思った。


 しかしながら、賊軍を討滅する嚆矢たる氷槍がその頭上を覆った時、彼らは目を見張った。


 数条、閃光が空を裂いた。


 賊軍の中央から飛び出した、純粋な魔力の塊は、熱と光を放ちつつ、頭上の氷槍のおよそ四割ばかりを消し飛ばした。

 四割といえども、閃光は数多ある氷槍のうちの、彼らを射抜くべき位置にあったそれらを正確に排除していた。

 もはや、氷槍は牽制の役にも立たず、ただ野原に突き立つ運命となった。


 しかしそれらはまだ、大局から見れば些事であった。魔法による攻撃は本命ではない。敵が自ら打って出てきた以上、その役割は失われていると言ってもよい。

 重装騎兵による突撃があり、その背後には未だ無傷の数千の兵が控えている。


 だが、ポセイドン騎士団のみならず、連合軍すべてが余裕を取り戻す前に、かの賊軍がやはり魔の軍勢であると認識する前に、次の異常は戦場に突如として現れ、ついに彼らの表情は凍り付いた。


 丘を下った軍勢のその足元より、文字通り霧消したはずの真白い霧が再び沸き立ち、清浜三郎太の背後、軍勢の先頭を包み込んだ。

 連合軍からは、清浜三郎太が霧中よりただ一騎で駆け抜けてきたようにも見え、霧を軍勢として従えているかのようにも見えた。


「散れェっ!」


 清浜三郎太が叫んだ。

 彼の選び抜いた旗持ちが、託された軍旗を精いっぱいにかき抱いて、それぞれ霧の先頭に跳び出した。


 そして車輪は廻り、馬蹄の響きに異音が混ざる。


 呼吸の音、心臓の鼓動、肌の熱。

 それらが織りなす『気配』というものが、霧の内で爆発的に膨れ上がった。

 清浜三郎太を必死で追いかけていた征軍も、彼に立ち向かう連合軍も、尋常ならざる数の存在が、一瞬にして戦場に現れたことを察し、その不可解な事態に身を強張らせた。


 雲の如き朦々たる霧を裂いて現れたのは、四頭立の巨躯。

 往古、戦場我がものとした王者の三軍。破壊の三師。

 御者は歓喜と共に鞭をうち、車左は弦を鳴らして空に咆え、車右は戈で盾を打ち鳴らす。

 駿馬は血走った眼を見開いて、歯茎をむき出しに涎をまき散らしつつ嘶いた。

 一際豪奢な車が二台あり、いずれも恰幅豊かな王者が坐し、宝剣を掲げてゆくべき先を指し示す。


「ハハハ、行った行った! サブローが行った! 戦車三百駟! 震駭! 絞車! 飛鳧、電影! 電撃! 霆撃! 炎帝の三師を引き連れて行きやがった!」


 暴虐暴食の仮面におもてを包んだ蚩尤が手を叩いて不吉な祝福を言祝ぐ。

 戦地はまさに易地。勝地を得た戦車チャリオット三〇〇が、動揺をきたす連合軍の眼前に、砂塵を巻き上げて出現した。





「臆することは無いッ! 進めぇ!」


 サラシア・アンフィは目の前に突如として現れた古代の大軍勢に、心臓も跳び出さんばかりに驚愕しつつも、先陣を預かる将として即座に思考し、それからそう叫んだ。


 状況は急転直下、優勢を失っていた。

 今や配下のポセイドン騎士団、その最精鋭たる重装騎兵トリアイナは最前線に取り残された・・・・・・形となり、自らに倍以上する敵と真正面からぶつかり合わなければならなくなっている。


――隊を分け両翼より迂回し、敵の後背を突く!


 まず、サラシアにはその策が浮かんだ。

 背後には麾下の第二軍の本隊が控え、右翼の第三軍も援護を加えられる位置にあり、いずれも無傷だ。

 戦いは始まったばかり、いや、未だ刃が火花を散らしていない以上、戦いは始まってもいないとさえ言える。

 後方の本隊は首尾よく敵の突撃の衝撃を殺すだろう。そうなれば、右翼の第三軍と、後方に

 迂回する重装騎兵トリアイナによって、三面包囲が成り立つ。


 しかしそれはあまりに危険リスクが多すぎると、サラシアは判断した。

 先ず、敵の新手の全貌が不明であることに加えて、巨体の戦車からなる横隊は両翼に大きく広がっており、重装騎兵を左右に分けたところで、迂回をするだけの時間があるとは思えなかった。迂回機動中に側面を突かれれば、ひとたまりもなく突き崩されることだろう。


 また、現れた敵の異形に、部下が呑まれていないかどうか、それもサラシアには気がかりだった。

 霧中より現れた敵が魔獣・魔人の群れであり、竜騎兵の報告にあったような、龍蛇や巨人の類ならばどれほどよかったことか。

 龍殺しも巨人殺しも、勇者のわざであり、この戦いに参加するポセイドン騎士団の面々は誰もがそれだけの偉業を成し遂げるつもりでいた。


――しかしチャリオットとは……時代錯誤も甚だしい!


 自らもこれほど動揺をきたしているのだ。配下のことは推して測るべしというものだ。

 ならば、複雑な指示を与えていたずらな損害を出すべきではない。


「このまま一気に突破する! 生きて会おう!」


 一〇騎でも二〇騎でもいい。敵の背後に切り抜けることが出来れば、それは敵の背後を遮断することになり、三面包囲を完成させることも出来る。

 一将としては戦闘に勝利すべくそう指示を下しつつ、一方でサラシアは一騎士として、この異常な戦争と戦場の、根源にあるものを敏感にかぎ取っていた。


――清浜三郎太、全ては君に始まっているのだろう……!


 彼を討たねば勝利は無く、彼さえ討てば戦いは終わると、サラシアの直感がそう告げていた。


「アビー! ベネット! モーリス――」


 狙いはただ一人、賊将清浜三郎太。既にその姿は目前にとらえている。

 一瞬の交錯ヘッドオンの内に一人の命を狙うには、一〇〇騎は多勢が過ぎる。

 サラシアは傍を駆ける、最も信頼の置く側近の名を呼んだ。

 そして、


――我らは清浜三郎太、ただ一人の首を狙う!


 サラシアがそう言いかけたそのとき、向かい合う清浜三郎太の両目がカッと見開かれ、サラシアの瞳を捉えた。


「サラシア・アンフィ!」

「――ッ!」


 身を貫いた衝動は説明しがたい。

 サラシアは部下への下知も忘れ、愛馬を駆って跳び出した。


 魔王にその名を呼ばれれば、騎士ゆうしゃは立ち向かわずにはいられない。


「なぜッ! なぜ君がこのような無道の乱を起こす!」

「語るに及ばず! 史家の筆に聞けッ!」


 サラシアが懸命に突き出した槍は、同じように繰り出された三郎太の太刀に巻き上げられて、宙に跳ね上がった。

 瞬間、白鹿が巨体をサラシアの愛馬にぶつける。耐えきれずよろめいたその脇を、清浜三郎太は風のように駆け抜けていった。





 戦局は劇的に変転し、将たるものに一瞬の油断も許さず、兵卒には一抹の安息すらも与えなかった。

 必死の中に当人たちが自覚していたか否かは不明であるが、やはりこの決戦の場に集った将兵は、敵味方を問わず精鋭と呼ぶにふさわしい働きをした。


 三〇〇の戦車を加えて吶喊する征軍の後備うしろぞなえを預かるのは、崑崙衆のうち春村、秋村、冬村の一八〇の徒士だ。

 彼等の健脚は騎兵に追随しうるが、にわかに半数ほどが足をゆるめ、軍列より遅れた。

 その先頭にいたフヨウをはじめ、各々散開するやその場に屈んだ。

 やがて、かれらの目の前に現れたのは、反航戦を切り抜けたポセイドン騎士団の重装騎兵だ。

 いずれも馬の脚を止めることは無く、無防備な崑崙の殿軍しんがりめがけて突撃を繰り出す。

 崑崙勢からは一声も上がらない。号令を下す者などいない。

 かれらは騎兵が自らの間合いに入った刹那、飛び退きながら獲物を放った。

 礫を以て騎士の顔面を打つものがいれば、短剣を以て馬の腱を斬るものがいる。符術を以て馬の眼を焼くものもいた。

 いずれにせよ、彼らの攻撃をまともに受けた騎兵はその場に崩れ落ち、騎兵としての用を失っている。

 それでも、全ての騎兵を止められたわけでは無い。

 避けることが叶わず、馬に蹴られて死ぬものがあり、銀色鮮やかな槍に貫かれて鮮血を散らすものがあった。

 全ての騎兵が背後に抜けると、かれらは皆一様に振り返り、腰の直剣を抜き放った。

 騎兵もまた、馬首を返して彼らに向かい合う。

 互いに、怯みもしなければ臆しもしない。

 なんとしても賊軍の後背をつかんとする騎兵と、食らいついてでもそれを阻止しようとする殿軍しんがりが対峙したのならば、そこに顕れるのは凄惨極まるあさましき修羅道だけであった。


 かようにして、三郎太の打った布石が機能する一方で、戦車と騎兵の突撃を受け止めることとなった連合軍の第二軍の指揮もまた、卓越したものだった。


方陣スクエアを組め! 方陣スクエアを組め!」


 若い騎士が顔面を土気色にしながらも、懸命に剣を振るって指揮を執る。

 小部隊の指揮官を中心に構成される小さな方陣は、弩兵を外周に並べ、その背後から槍兵が長槍パイクを突き出して防禦と為していた。

 そういった小方陣がいくつも並び立ち、三郎太等を迎え撃とうとしていた。


「いまさら墓場の供え物ごときに、戦局を覆されてたまるものか! 馬を狙え、落ち着いて馬を狙うのだ! 臆病者の賊軍に、この剣山に飛び込む勇は無い!」


 その堅陣に突入した三郎太は、戦車の群れを導くように、方陣の間を縫ってハリマを走らせた。征軍も戦車の群れも彼に従って方陣には目も配らず、ただ前へと進んだ。敢えて防ごうとすれば容易く蹴散らされた。


 次々と撃ち込まれる矢玉を卓越した剣術で弾きながらも、しかしこの時、三郎太の心は戦場に無かった。





 耳朶に満ちるのは終わることのない異形異類の哄笑。髑髏の群れがカラカラと音を立てて現世の楽しみを謳歌する。

 既に滅び、繰り返される輪廻に取り残されて名も忘れられていたかれらはエンとその眷属だ。

 かれらは暗闇の中で三郎太を取り囲み、囃し立てるように大声で何かを言っていた。

 喜びを分かち合うかのように大男が三郎太の肩を叩き、激励するように美女が背を押す。

 異形の四足獣が左脚にすり寄れば、右脚には蛇が絡みつく。

 かれらは三郎太を認め、受け入れている。だが、老若男女人畜を問わず、誰もが表現する幸福に一貫して共通しているのは粘ついた執着心だ。

 かれらは魔人『炎』という修羅道に新たに加わる清浜三郎太を祝福していた。『決して逃がさない』と。

 三郎太は鬱陶しくなり「黙れ」と怒鳴ってみたが、その声は喧噪に遮られて己の耳にすら聞こえなかった。

 つまるところ、魔人『炎』を己の戦力として用いることの代償がこれであった。いまや三郎太は炎に呑まれかけていた。炎のほんの一面に過ぎない王者の三師、その一部分の力を借り受けただけで此の如くである。

 表では戦場を駆け、太刀を振るい。裏では暗闇の中で炎に取り囲まれている。

 視界は表裏に入れ替わり、意識は上下に浮沈して気がふれそうになる。

 しかし、三郎太はこうなることを予想していたし覚悟もしていた。


――お主らが俺を呑み込むのではない。ましてや俺が炎になるなど言語道断。俺が炎を従えるのだ。お主らが俺に、従うのだ!


 まとわりつくかれらを振り払って三郎太が暗闇を進んだその時、視界は表の世界に戻って固定された。しかしやはり鼓膜を震わすのは炎の喧噪ばかりで戦陣の狂騒など何処にも聞こえなかった。

 そして、かれらは依然として名残惜しそうに、試すように、信じるように、色とりどりの感情で追いかけてきている。

 魔人に追われる感覚に背中が寒くなり、足が竦む。しかし、僅かでも弱みを見せれば、かれらはいとも容易く己を呑み込むことだろう。


――ようするに、獣の躾だ。


 首輪をつけて手元に繋ぎ、牙を向けば鞭で叩く。どちらが上か分からせる。

 そのためにはまず、必死の働きで、前へ前へと駆けるしかない。それが三郎太が示せるかれらへの最大限の敬意だ。

 繰り出される槍を払い、矢弾を防ぎ、魔法で狙いを付ける暇も与えないほどに駆けた。

 二つも三つも陣を踏み越え、四つも五つも旗を倒した。

 何も聞こえず、背後を顧みる余裕も無い孤独な戦いの中、目指す先はまだまだ遠く、意識の裏に迫る炎の群れはあまりに近い。

 いまや空を裂く亀裂はますます拡がり、世界の境界より、黄昏の金色を溢れんばかりに放っていた。

 危うい均衡は致命傷の手前で保たれている。だが、三軍が交わるとき、必ず終末は訪れる。あとは、時間の問題と言えた。





 戦端をきって以来、本営にもたらされる報せは殆どが連合軍の劣勢を告げるものであった。


 四頭立ての戦車の群れが霧中より現れた時、それの意味することを即座に判断できた者がいなかったのは、『魔』と結託している賊軍ならば何か奥の手を秘めていてもおかしくないと予想する反面、あまりに消極的な賊軍をひそかに侮っていたからであり、また、現れたものが予想していたものとは程遠い、時代も技術も離れた古代の遺物であったからでもある。


重装騎兵隊トリアイナ、敵背後に浸透するも被害甚大! 団長行き方知れず!」

「第二軍第一陣、突破されつつあり!」


「第三軍に伝令。敵側方に横やりを入れるとともに、一隊を回して重装騎兵隊トリアイナを救援し、余勢を駆って敵の背後を衝け」


「第二陣から第四陣、辛うじて敵を食い止めております!」


「も、申し上げます! 第二陣、第三陣、支離滅裂! 第四陣は突破されつつあり!」


 櫓の上の戦況をしらせる声は殆どうわずっており、前線の危機的状況を如実に語っていた。


 さらにそこへ、絶叫に近い知らせが跳び込んだ。


「あぁ……! 山が、山が……っ、山が動きました! 魔群が山を降り……こちらへ向かってきます!」


 本営は波をうったように静まり返った。爆発寸前の恐慌が一瞬の沈黙をもたらしたのだ。さしもの老練な参謀達にも緊張が走った。

 賊軍はやはり魔群と結託しており、連合軍を挟撃する機を待っていたのではないか。いまや前線は突破されつつある。考えうる限り最悪の状況が起こったのではないかと、不安げな視線を総督マクシミリアン・オブライエンに向ける者もあり、無責任にも批判したげな表情の者もいる。

 しかし、とうのオブライエンは変わらぬ冷静沈着な表情のままで、よどみなく指示を下した。


「山に向けた魔砲の全てを賊軍に向けよ。近衛の弩兵隊は前面に展開。竜騎兵は待機。翼ある魔への警戒を厳とせよ」

「第二軍へ援軍は!?」

「間に合わん。……敵は突破に重きを置いている。まもなく第二軍を抜けて我らの眼前に現れることだろう。そのとき、先頭にいるものが賊将清浜三郎太だ。魔砲、弩、いずれも狙うは奴一人。必殺を期す、我が指示のあるまで撃つな」


 凛とした声が、本営の動揺を鎮めた。


「依然、魔群とは距離があり接敵まで余裕がある。動揺することなく所定の持ち場に就け、第四軍には伝令を送り、砦を固めて軽率に動かぬように厳命せよ」


 オブライエンはそういって、再び慌ただしく動き出した本営を出た。

 そして、土煙が舞い、旗差し物の揺らめく前線を遠眼鏡越しに眺めてから「奇妙な」と呟いた。

 それを傍らの参謀、モーリス・ジロが尋ねた。


「なにか、ございますか」

「やつらはまるで後方に頓着することなく、一心不乱に前線を突破し、我等をめがけて突撃を敢行しているが。その狙いは、なんだ」


 まず考えられるのは、追い詰められたがゆえの乾坤一擲の反撃という線だ。

 一撃を以て大将首を挙げることで戦局の打開を狙うのは寡兵が多勢を破る手段としては頷ける。また賊軍は崑崙の戦いにて同様の方法――正面からの強襲――を用いて討伐軍を潰走せしめている。それに味を占めて……とは一応の理由は立つだろう。

 だが疑問は残る。かれらが本当に魔群と結託しているのならば、攻撃のタイミングは合わせるべきであろう。もしくは、賊軍が丘に連合軍を引き付けているすきに、魔群が動き出すのが常道である。

現状、賊軍はあまりに拙速に突破を図り、それに比して魔群の動きは鈍感にすぎる。結託しているというよりは、むしろ賊軍の動きに驚き慌てて飛び出してきたかのような印象さえ受ける。


「総督殿」


 オブライエンの思考を遮るように、咎めるような鋭い声がモーリスから発せられた。


「戦いは、すでに始まっております」


 短いが、それは万の意を込めた諫言だ。

 言葉の通り、すでに戦いは始まっている。賊軍と魔群、かれらが結託していようがいまいが連合はもろともに打ち払うことを決めたのだ。そのために、マクシミリアン・オブライエンはここに居て、前線の将兵は懸命に戦っている。今更、逡巡などすべきではないのだ。


「分かっている。だがな、奴らの攻撃には驚かされこそすれ、それまでだ。これが見ての通りの戦でしかないのなら、これで終わりだろう」


 かれらが真正面から奇をおりまぜた強襲を仕掛けてくることは、前例があるのだから当然予測していた。

 そのために縦深ある陣形を執っており、第一軍と第二軍の間には魔砲バリスタ投魔石機カタパルトを使うだけの空間を設けてある。首尾よく前線を突破したとして、全身を平原に暴露させたかれらに逃げ場は無い。その攻撃をしのげたとしても、さらに近衛騎士団の第一軍を突破することなど不可能であり、そのうちに第三軍と第二軍に退路を断たれて殲滅されるだけだ。


「例えば賊軍がただの反乱の輩であり、神威山に拠ったのがヴォルフス軍であったとすれば、迷いなどあるはずがない。しかし、もしも魔群と賊軍の間になんの連帯も無ければ、むしろかれらこそが不倶戴天、相争う関係にあるのだとすれば、清浜三郎太の檄文など無く、大聖女アウロラの遺言は偽りとなる。ならば、偽りをもって連合を未曽有の大混乱に陥れた真意は何処にある。それを看過することが果たして連合の騎士のすべきことか!?」

「総督殿……!」


 オブライエンの勢いに押され、モーリスは唇を咬んでそれ以上は何も言わなかったが、彼の思考に不審を抱いているのは明らかであった。

 オブライエン自身、これが傍から見れば安直な連想がもたらした思考の飛躍であり、妄想に過ぎないことはよくわかっていた。しかし、彼自身には出陣のそのとき以来ずっと隠し通してきた、自らに生じた疑念を、容易には切り捨てられない理由があった。





 その日は大雨であった。すでに日も暮れて、都の一等地に人通りは殆どなかった。

 一週間ぶりに自宅に帰ったオブライエンは、濡れた衣服を妻に預け、熱い湯を浴びると、ブランデーを片手に二階の書斎に入った。

 清浜三郎太が連合……いや、世界に公然と反旗を翻してからの数日は、寝食も忘れるほどの激務と共に嵐のように過ぎ去った。

 騎士団の招集と編制を行い、各都市と連絡を試み、戦争に備えて需品や装備を手配し、大臣との会合を幾度も行い、なんとしても連合を救おうとする種々の努力を重ね、同じように奮闘する人々を見た。

 事態打開の展望はいまだおぼろげではあるが、それでも希望は持てるほどに、初期対応はできたはずだった。今日はその節目でもあり、また、ごく一部の限られた人しか知らない、特別な日だった。


――否応なく、歴史に刻まれるべき一日だ。


 ブランデーを一口ふくむと、途端に胃が熱くなって、回顧に沈んだ己が現実に浮上した。

 ふと見遣った窓の外は吸い込まれそうな、また、迫ってきそうな暗黒で、石畳を穿つ雨音は真下から這い上がるように響いている。


「……!」


 ふと、暗闇が形を以て蠢動し、己を包み込むような気配がして、オブライエンは恐怖するとともに身構えた。

 幻覚だ、疲れているのだ。オブライエンは頭を振って椅子に深く沈み込むと、また酒をふくんだ。

 だが、意識しないように心がけるほどに、オブライエンが閉じ込めた不安と不信の籠った石釜を暗闇が揺らして叩いて、それを露わにしようとした。

 淡々と迫る不安への苦悩を遮ったのは、玄関から聞こえた妻の声だった。

 こんな時間に、不用心にも客の対応をしたのか。召使に任せておけばよいものを。

 苛立ちながら書斎を出たオブライエンのもとに、妻が駆けこんだ。


「あなた、大変ですっ!」

「なんだというのだ」

「レオンですよっ、はやく」


 ひどく慌てた様子の妻の言葉は要領を得ない。

 共に階段を下りる途中、玄関の様子が見えた。

 何物かが、壁にもたれかかりながら崩れ落ちるように蹲っていた。召使の一人がその背中をいたわるようにさすっており、ちょうどそこへもう一人の召使が幾枚ものバスタオルを抱えて現れた。

 妻は急の来客に召使と共に対応したらしい、そのことにひとまず安心はしたものの、蹲る何者かの正体が分からなかった。


「あなた、レオンですよ!」


 妻が、オブライエンを揺さぶってもう一度言う。オブライエンはようやく気づいた。

 雨に濡れた皺だらけの刑務隊の制服も、むせかえるような汗とアルコールの匂いも、司法大臣より表彰されるほどの高潔な彼とは到底結びつかなかったために、ついそれとは思わなかったが、彼は間違いなく、妹の子であるレオン・オブライエンに違いなかった。

 彼は今日、大命を果たしたはずであった。


「あぁ……伯父上……御見苦しい姿を、申し訳ありません」


 ほんの一瞬、端正な顔立ちに冷笑じみた表情が浮かんだが、次の瞬間にはそれは赤子のような皺くちゃの泣き顔に変わった。


「……二人だけで、よろしいでしょうか」


 絞り出すように言って、レオンはまた項垂れた。

 オブライエン――マクシミリアン――が妻と召使を下げさせると、今度こそ、堰を切ったように、レオンは嗚咽をこぼし、懺悔するように両手を握りしめて、言った。


「アァッ……殺したっ、殺してしまった……っ! 伯父上、私は……! 殺してはならない人を、殺してしまった……ッ!」


 オブライエンは、身内の贔屓目を抜きにしても、彼が若輩ながらも懸命に、誠実に職務に専念していたことを、高らかに謳いあげて、立証することが出来る。

 それにそもそも、今日という特別な日に、彼と彼の信頼する部下が選ばれたという事実ひとつをとっても、彼が、三神の裁きを代行する刑務官としての資質と、真実と正義のもっとも近くにいることが出来る天性の保持者であることを、証明してしかるべきものであるとオブライエンは確信していた。


 だからこそである。オブライエンは、甚だ不透明な国家の意思によって、今日この日に失われた命の尊さを知り、連合を待つ不穏な運命を悟った。そして、


――『聖』とは、なんだ。


 全くらしからぬ、少年のような疑念が、心中に生まれたのだった。





 オブライエンと、参謀と、第一軍、近衛騎士団の目の前で、遂に第二軍は崩れた。崩壊する方陣の中から飛び出したのは悪鬼の如き賊将であり、追随する戦車隊の勢いはとどまるところを知らない。

 第二軍は敵の突破を許し、第三軍はがむしゃらに前を目指す賊軍に追いつけず、迎撃インターセプトは成功しない。

 頭脳明晰なる老練な参謀達は、何度も思考を巡らした。

 騎兵にしろ、戦車にしろ、その突撃は強烈だが脆い。確かに第二軍は突破されたが敗れたわけでは無い。無傷の第一軍とかれらとの間には十分な空間があり、投魔石機も魔砲も砲身を定めている。第二軍も、第三軍も、依然戦闘力を保持しており、山の魔群はまだ遠い。

 もたらされるのは必勝という結論。しかし、かれらの頭脳に去来するのは「負けた!」という衝撃だった。

 かれらにとって不思議であったのは、その衝撃がただこの局地的敗北へ向けたものでもなければ、連合首都の陥落であったり、連合の滅亡であったりに向けられたものでもなかったことだ。

 まるで意思と感情が制御できなくなっているようで、かれらは増々混乱した。自分の意思とは裏腹に、世界の敗北をかれらは確信めいて予見した。


 ある参謀は終わらぬ思考シミュレーションに没頭した。

 ある参謀は椅子を蹴って剣を抜き、「ただの一人の人間・・に世界の運命が揺さぶられてよいものか!」と絶叫した。

 またある者は恐れるように青々とした空を繰り返しあおいだ。そこに黄昏に割れる空など見えるはずもないのに。


 もはや戦闘能力など無いのではないかと思える混沌の第一軍。

 だがその陣中を、透き通った声が奔った。


「このッッッ! バカ三郎太ァァ!!!」

「あんたは何のために戦ってんだよ! なんのために殺しをやってるんだよ! 許されなくたって、せめて理由くらいは言ってみろよ! ――相談くらいしてよっ……!」

「みんな、怒って、泣いて、悲しんでるんだって、あなたのことが心配でしょうがないって、わからないんですかーッ!」


 まだ幼さを残した少女たちの叫びには僅かだが聖性が宿っていた。そして、そのわずかな聖性は、陣中の混沌を不思議なほどあっさりと沈めてみせた。


 オブライエンは驚き振り返り、声の在処を見た。


「学生服……第四軍の衛生隊でしょうか、志願のくせに、出しゃばった真似を」


 傍らで呟くモーリスと同じく、混沌より理性を取り戻した兵士たちが、陣中より跳び出した彼女らを宥めつつ安全な場所に退避させようとする。

 オブライエンは、彼等とは少し違った。きっと、他の誰かも思ったはずだった。

 混迷の中で誰かを想う彼女らの言葉に、理性を見つけただけではない。無限の勇気をこそ、見つけたのだと。



「清浜三郎太に聞く!」


 オブライエンの大音声が、戦場を揺らす。

 眼前、ついに先頭を駆け抜け続けた男に向けて、オブライエンは尋ねた。


「何によって、剣を執ったか!?」


 傷だらけの三郎太は高々と太刀を掲げたまま、負けじと叫んだ。


「迷いの果て、天下を想い、秩序を信ずる凡夫の志に!」


「何によって、正しさを証する!?」

「我が聖女マリア、師父善樹に拠る!」


「聖女とは――『聖』とは何か!?」

「死して後世を照らす光明、歴史の轍!」


「……っ! 然らば、成すべきは!?」

「魔群征討!」


 三郎太の太刀が、右へ――魔群の山へ――振り下ろされた。


「敵は神威山にあり! 返せーッ!!!」


 第一軍に突入するその直前に、三郎太の白鹿は地を蹴って向きを転じた。戦車の群れも、征軍の諸将も、三郎太の転回点より先に進むことなく、砂煙を挙げて追随する。

 目指すは切先の示す先――好機到来、世界を壊すは今とばかりに山を下った魔群!


「勝った!」


 勇ましい景色を見送りながら、かつて先達がそうしたように、オブライエンはそう喝破した。


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