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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
97/102

霧中の決闘

「入るぞ」


 清浜三郎太は丘の上に設けた粗末で小さな幕舎に声をかけると、か細い返事を待ってから、帳をくぐった。

 夜である。ただ一本の燭台を頼みとする幕舎の中は薄暗い。

 小さな灯が外気の侵入によって揺らぎ、小柄な女を照らした。

 幕舎に見合った簡素な寝台の上で、フヨウが身を起こそうとして、身を貫いた苦痛に顔を歪めていた。


「そのままでよい」


 三郎太はフヨウを制しつつ、手近な丸椅子を引き寄せて枕元に座った。


「ん、如何した」


 腰を下ろしたところで、三郎太はフヨウにしては珍しい、豆鉄砲を食らったような表情が己に向けられていることに気付いた。視線の先を追ってみれば、それは頭頂部に向けられている。


「ああ、これか」


 三郎太は自らの前頭部をつるりと撫でた。

 三郎太の月代は、在りし日のように、綺麗に剃られていた。髷も固められてぴんと伸びている。


「俺の故郷くにでは、これが当たり前なのだ。戦装束のようなものだ、知らんのか」

「知らないけど……」


 長らく月代など剃っておらず、あらためて奇異の視線を向けられると僅かながら気恥ずかしくもなる。

 かつては洋装こそが奇抜な恰好であると、肩で風を切って己らしくあったのに。

 三郎太は、「長くこの世界に馴染みすぎた」と思った。



「まぁよい。蚩尤だ。あやつ、口で説明しただけで、これだけのものをこしらえおった。あやつの手先の器用さはまことに重宝する」

「かれがいなければ、きっとあの場で死んでいた。――礼は、伝えてくれた?」

「……無論」


 あの日、空中のフヨウを拾い上げたのは蚩尤だった。鉄剣で三郎太の血路を開いたのも蚩尤であり、聞くところによれば、ウェパロスの異常を真っ先に察知し、瞬間疾風となって駆けだしたのも蚩尤が最初であったという。


「それよりも、お主、加減はどうだ」

「快調。いつでも戦える」

「左様か」


――やつれたな。


 三郎太は眉を顰めつつ視線をフヨウの右腕に落とした。

 あるべきはずのものを失った断面を、黒ずんだ包帯が包み込んでいる。熱をもった体は全身汗ばみ、身じろぎするだけでも彼女を苦しめた。

 ウェパロスの戦いの直後、フヨウは生死の境を彷徨っていた。そのときに比べれば、今の状態は奇跡的な快復を遂げたと言ってもよいだろう。


「敵に動きがある。合戦が近い」

「…………」

「今度は以前さきのような半端な戦とはならぬであろう。連合はわれらを蹴散らし、魔群を打ち払うまで止まるまいし、山のやつばらめも、ここまであつらえた決戦を傍観とはゆくまい。……俺も、この丘を死地とするつもりは――」

「三郎太」


フヨウが、三郎太を遮るようにして、言った。


「あなたは言ってくれましたね。このようになった私を、見捨てることなく『必ず連れていく』……と」


 三郎太らがウェパロスを発とうとした折りの事である。

 片腕を失い、意識を朦朧とさせているフヨウをどう処置するかという話がにわかに持ち上がった。

 護衛をつけて崑崙に戻すか、ウェパロスに預けて養生させるか。軍組織にとっても、フヨウ個人にとってもどちらかが最善であると、田上は崑崙勢を代表し、また三郎太の護衛にフヨウを選んだ責任からも、そう進言した。


「田上、崑崙の巫女とは、片腕を失った程度で働けなくなるほどに、弱いかっ!」


 三郎太の叱責は、田上にとっては予想外のものだった。一瞬目を丸くしつつも、すぐに毅然とした表情に戻ると三郎太に詰め寄った。

 田上は三郎太を信頼し、唯一無二の節度使と思っているが、同朋たるフヨウを想う心は三郎太以上であるとの自負があった。


「フヨウさんの実力も崑崙の巫女の何たるかも、寸毫も疑ってはいません。ですが、もはや彼女は節度使殿の力にはなれない。無能のまま節度使殿の重荷になる無念を思えばっ!」

「征軍に参じた以上、こやつの命は俺のものだ。いかになろうとも、生の最後まで絞りつくして働いてもらわねばならぬ。それになにより、こやつにもお主らにも、この軍旅の果てを見る資格があるのだ。全員、必ず連れてゆく。決して見捨てはせん。……皆々斬り死にするまで、斯様に心得てもらう」


 実際に三郎太は、それまでに発生した多くの傷病者を見捨てることなく行軍に従わせた。傷病者の為に行軍の速度を緩めることは無かったが。人手が足りなければ自ら水汲みに出向き、道中斃れる者があれば必ず弔った。


「聞いていたのか。昏倒したままと思っていたが」

「巫女ならば、狸寝入りはお手の物。……もしも、彼女達・・・を選ぶのならば、気を付けたほうがいい」

「老兵め、よけいな気を回すな」

「私を連れてきてくれたこと、本当にうれしかった……」

「…………」

「あなたのためならば、命も惜しくないと、本気で思っている」


 三郎太は押し黙った。外見とは裏腹の内心に迷いやすい性質である。

 フヨウは、そんな三郎太の中に僅かでも自分を一線から外す考えが生まれたのを見逃さなかったようだった。三郎太の心情を慮って機先を制したつもりであったのかもしれない。


「――――」


 カチャリと鉄が鳴った。

 三郎太は手甲に包まれた腕を組むと、フヨウを見下ろして押し黙った。

 やがて、三郎太は眉間に皺を寄せながら、「慈悲などと思うな」と言った。


「小勢には一兵といえども貴重だ。ましてやお主ほどの使い手、みすみす手放すか。命ある限り俺に尽して貰わねばならぬ」


 そして、腰をかがめると小声で言った。


「まだ、誰にも明かしておらぬ策がある」





「三郎太、ここにいるのか?」


 幕舎の外から聞こえたのはクリストフの声だった。


「入れ」


 促されて入ってきたのはクリストフを筆頭にエミーリア、アルフレート、フィーネ、ヴァルキューレ。それに憮然とした面持ちのアデーレだった。

 最後のアデーレが、幕舎の入り口を閉めたのを見届けてから、三郎太は言った。


「揃いも揃って、如何した」

「イカもタコもあるか。わかってんだろ、連中が動き出した」

「炊事の煙が多い。決戦準備と愚考するが」


 クリストフとアルフレートの言葉には、緊張と興奮が混ざっていた。

 ヴォルフスを発って以来、何度も修羅場をくぐってきたかれらにしても、今度の戦いが、自らの生死を分かつものであることが予感されているらしかった。


「うむ、明日が天王山。雌雄を決する」

「それなら、私達は何をすればいいの?」

「ただでさえ形勢は私達に圧倒的不利。なにか策を講じなければ、勝利の未来は全く浮かびません」


 エミーリアとフィーネ。彼女たちの表情にも、不安と覚悟のまだら模様が浮かんでいる。

 道理である、もっともであると三郎太は思った。

 丘に登ってからの征軍がしたことと言えば、最低限の生活のための陣を構え、魔砲による長距離攻撃を避けるための壕を掘ったことくらいである。三郎太も太祖と偵察に赴いたほか、新たに旗持ちを定めただけで、軍議の一つも開いていない。

 あとは、霧の中に漫然と佇んでいるだけであり、軍中の規律と士気は、絶望的ともいってよい圧倒的不利な状況に直面しているがための、死と隣り合わせの緊張によって維持されているに近い。

 これまでの困難な行軍のさなか、叱咤し激励し、適切な指導と指揮で名将の如く征軍を導いた清浜三郎太とはまるで別人のような素振りに、疑念を抱いた者は少なくない。

 散々に連れまわした挙句、勝利のための戦略も戦術も明かすことなく、十倍以上の敵の前で漫然と構え、決戦前夜を迎えている。


――無理もあるまい


 誰であれ不安になる。疑念は全軍に及ぶであろうし、下手をすれば士気は喪失し、並大抵の軍組織は崩壊する。

 だが三郎太は、この征軍がこの程度で崩壊するとは、露も思っていなかった。


「もういまさら、私達はあなたを疑ってはいないわ。むしろ、あなたこそ、私達を信じてくれていないんじゃないかって……。そっちのほうが、怖い。なにか考えがあるのなら、教えて」

「俺たちはただ戦争をしにきたわけじゃないんだ。世界を救う――志はあんたと同じはずだ」


 踏み出したエミーリアとクリストフに迷いはない。だがどこか年相応の怯えの色が見えたのは、三郎太のいつもの噴火・・を恐れたからであろうか。それとも、真に三郎太が白痴におちてしまったかと思ったからであろうか。


 三郎太の口元に、おもわず苦笑が佩かれた。


「明日の合戦の手立てが知りたいのか」

「当たり前だろ。そうじゃなきゃ、戦いのしようがない」

「然らば申し伝えるからよく聞け。……俺の傍を離れず、俺の指示を聞け。――田上など、崑崙衆はあえて伝えずともこれを承知しているから、お主らのように俺を問い詰めることもなく、悠々と明日の備えをしておる」


 途端にアデーレ以外の五人の口がムスっと引き結ばれた。三郎太の心外な物言いに腹を立てたようだった。ことさらにヴォルフス勢と崑崙衆を比べるような言い方をすれば、それは当然の事だった。


――すこし、言いすぎたか。


 三郎太は己がまだまだ若い気でいたが、ヴォルフスの若い勇者を指揮する立場になってみると、急に年を取った気分になった。かれら勇者の秘められた活力にむけてふいごを漕ぎたくなる。


「他のヴォルフス勢は、太祖の指揮下に入ってもらう。つまりは、今まで通りというわけだが、おぬしらは特別だ――ヴォルフスの勇者ども」


 途端に、かれらの顔に輝きが戻った。

 単純なものだと三郎太は苦笑した。

 今度の戦いはただの戦争ではないと、かれらは真実思っている。『勇者が魔王を討つ』そんな歯の浮くような幻想譚の舞台がこの場であると、信じている。

 三郎太はそんな舞台にあがることは御免だった。北竟大帝と茨木童子に『勇者』に祭り上げられ、まさに彼奴等の思惑通り、軍勢を率いて決戦の場に参上している今でもそれは変わらない。

 だがしかし、かれらヴォルフスの若者を勇者として見送ろうとするとき、三郎太の心中にはこれまで感じたことのない、暖かく、まるく柔らかな感情が沸き上がるのだった。


「しかしなんでまた連中は動き出したんだ。状況に変化はないはずだが……」

「おそらく敵は霧の正体を看破したのだろう。魔人のなせる業ではあるが、この霧も所詮はただの霧。そうとわかれば、大軍を以て丘一つ潰すのに小細工は必要あるまい」

「それなら、なおさら大丈夫なの?」

「彼我の戦力で真正面から戦うってことじゃないですか」

「ヒツの報告によれば、敵の魔砲は我等の正面に向けては殆ど向いておらぬということだ。カネと手間のかかる、とっておきの兵器は本命・・に向けて使うつもりだろう……この油断に付け入る、すなわち――フィーネ、お主の言う通りよ――真正面から、野戦にて突き破る」


 かれらを見据えて毅然と言い張る三郎太の眼差しには有無を言わせぬ迫力があった。勝ちを確信しているかのような凄味があり、誰もそれ以上三郎太に問いを投げかけることは出来なかった。


「さて、ここまで聞けばもうよかろう。すぐに休め、だが日の出の前には支度を整えておけ」





 ヴォルフスの五人を見送ってからしばらく、三郎太も己の幕舎に戻ろうと、丘を登っていた。

 歩哨に立っている者の外は命令通りによく休んでいるらしい。霧の丘は静まり返っていた。

 本営ともいうべき三郎太の幕舎は、最も危険な丘の頂に構えられている。再び魔砲による攻撃が行われれば、幕舎は容易く吹き飛ぶことだろう。この一事をもって三郎太の愚を疑った者も多い。


「しかし、山の魔群も、川原の敵勢も霧の隙間に盗み見るには、この場所の外に無いのでな」


 三郎太は、言い乍ら振り返った。


「アデーレ、少し歩くか」


 木陰より音もなく現れたアデーレは、してやられたとばかりに不愉快気な顔で、小さく頷いた。


 唯一三郎太の幕舎に起居している蚩尤を起こさぬように、丘の頂の外周をしずしずと歩きつつ、三郎太はときおり霧の隙間から見える外の景色に目を凝らした。


「戦の気配というものは、存外に分かるものだな。五月蠅いくらいに殺気が満ちておる」

「…………」

「なんにせよ、明日が決戦。お主の骨折りもひとまず今日までだ。数十日の行軍と五〇〇の軍勢、されど五〇〇の軍勢だ。ここまで連れてこられたのは、兵站を維持し続けたお主の働きが大きい。ご苦労だった」

「それはどうも」

「先ほど押しかけて来た時、俺はお主こそもっとも口やかましく、明日の手立てを問い詰めてくるのではないかと思っていたが……」

「私はかれらの監視役として同行しただけですよ」

「然らばなんの疑念も無いか。――太祖のことも」

「太祖を生かし匿っていることくらい当然に予想していましたし、陛下が貴方を信じた以上、臣たる私がそれに疑いを差し挟む余地もありませんよ」


 振り返り見たアデーレの顔は、いつも通りの少し不機嫌そうな無表情であった。それが、その言葉になんら嘘偽りも脚色も無いことを証明している。

 三郎太は僭越にもかれら主従を羨ましく思った。

 自らが窮地にありながらも、唯一頼める股肱の臣に自らの希望を託し見送った皇帝フリード。しがらみとは無関係に、己の意思で主人に忠誠を捧げ、その信に応えようとするアデーレ。どちらの在り方も三郎太には眩しく映った。


「だけど、そうですね、一言あなたに言うとしたら――」


 アデーレはからかうようにくすりと笑ってから


「――今の貴方は、まったくらしくありませんね」

「なにっ」

「先ほどの振舞いなどはその最たるもの。敢えて演じた名将ぶりも、馬上や帷幄の内で秘めた策を巡らす姿も、まったく不似合いでしたよ」

「吐かしたな……」


 三郎太はそう応じたが、常と比べればそれは消え入りそうなほどか細い声音での反撃だった。

 三郎太は恥じ入るように、俯いた。アデーレには、それこそ本当にらしくない姿に見えた。


「だって貴方は元来、短気短慮で、激情にまかせて動く性格タイプではないですか」


 俯いた三郎太の顔を覗き込みながら、アデーレは言った。

 不意に持ち上がった三郎太の瞳を捉えた時、アデーレはそこに浮かんでいた感情の正体を、すぐには理解できなかった。

 アデーレがたじろいでいる間に、三郎太は空へと視線を遷していた。そして、こう尋ねた。


「何が見える」


 アデーレには特筆すべきものは何も見えなかった。霧の向こうにはぼんやりとした闇と星の輝きがあるばかりである。


「日々、薄氷を踏む思いだ」


 三郎太の言葉には、疑いなく怯えと不安がこめられていた。

 思わずアデーレがたじろいだ、三郎太の瞳の奥にあった感情も、それであった。


「まったく業腹だが、見事やつらの舞台に載せられたというわけだ」

「あなたには、何が見えているのです?」


――世を救わんと願い、魔を祓わんと志を燃やすたび、人を憎み、世を破壊せんとするやつらの野望と伯仲して、空が割れる……。


 声には出さなかった。そうすれば、今にも空に亀裂が走り、同じ空を見る怨敵が高笑いをすることだろう。

 他人ひとが聞けば愚かしい杞憂だと思う反面、確信をもって三郎太はそう思っていた。


「アデーレ」


 呼ばれ、三郎太の背中をじっと見ていたアデーレははっと顔を上げた。


「今でもお主の眼には、俺が、死合いを楽しみ、生業とするような無頼の剣客に映るか」


 いつかヴォルフスで行動を共にしたとき、三郎太はアデーレの殺しを愉しむ性質を責め、アデーレはそれに対して、三郎太もまた同類であると反駁した。


「貴方自身はどう思っているのです。例えば太祖は貴方を相当に買っているようですが」

「あれは贔屓目が過ぎる。それに、太祖の言う将器とは、駒としての扱いやすさと同義だ」


 太祖を指して「あれ」と言ってのける豪胆さには、どこか世界から浮いていた流れ者だったころの三郎太の姿が垣間見えた。

 しかし、今、アデーレの目に映る三郎太は――。


「では遺憾ながら率直な感想を伝えようと思いますが――その前に、貴方から見た私がどう映っているか、答えてもらいましょうか」

「問いに問いで答える奴があるか」

「条件を付けただけです。さぁ、貴方の眼には今でも私が殺しを愉しむ殺人鬼、雇われの便利な下僕に見えますか?」


 鋭く尖った視線が交錯した。

 お互いに相手の頭からつま先までをじっと見ながら、出会った時の事、共同して経たこれまでを思い浮かべ、眼前の好敵手を見定めた。

 そして、同時に、ふっと小さく笑った。


「癪だな」

「ええまったく」


 この場にはただ二人しかいないのに、技量並び立つ好敵手であると見ていたのに、決着もついていないというのに、もはや、お互いにあの頃のままではいられないとは!


 両者の間にあるべき関係として、まったく不適切な評価をお互いがなしているという現実は、何よりも二人の気に障った。


「アデーレ、手合わせをせんか」

「ちょうど、私もそうしたかったところです」


 断ち切られるように会話は途絶えた。

 後に残されたのは戦いの業こそを誇りとする二人の戦士だけだった。





 状況は、アデーレにとって最高に近い舞台となっていた。夜の闇と満ちる霧。

 彼女の伝説の舞台は都市であるが、それでも件の魔法を扱う場としては、ヴォルフスでの決闘以上の環境にある。これは紛れもなくあの日の再現であるが、いささか彼女に有利であった。


 そして事実、三郎太はアデーレが刃渡り一尺三寸ばかりの細身の短剣ナイフを抜いた瞬間を最後の景色に、彼女を見失っていた。

 忽然と宙に取り残されたアデーレの襤褸が地に落ちるよりも速く、羽織を脱ぎ捨てると同時に、飛び退きつつ逆安珍の太刀を抜き放つのが精いっぱいだった。

 インバネスを着ていなかったのは幸いだった。彼女を相手に、少しでも鈍重な動きを見せればたちまち身を抉られることだろう。三郎太の袴は脚絆と脛当てに、小袖は籠手で固められて動きやすくなっているが、それら防具の重さすらも煩わしいと感じていた。

 それほどまでに、アデーレは速かった


――腕を上げたか。



 三郎太は何度か無造作に太刀を振りつつ、すり足で、素早く位置を変えた。

 読み通り、アデーレの得意とする風の槍が飛んできたが、いずれも太刀に巻き取られて形を失って風と消えた。


――狂気を隠せておらぬぞ、殺人鬼。


 斜面を背後に三郎太はにやりと笑った。牽制に混ざって、確実に心臓を狙った槍があった。

 明日の決戦を前に、仲間内の道楽に似た決闘で大将が死ぬようなことがあれば前代未聞だ。

 三郎太がこの程度で死ぬはずが無いと読んでのことか、それともそんなことに気が回らないほどに、狂気をむき出しにして三郎太に挑んでいるのか。

 果たしてどちらか判然としないが、いずれにせよ三郎太の闘志は否応なく昂った。

 それでも次の瞬間には三郎太は顔を引き締めた。アデーレの業が、そうさせた。


――しかし、まるで見えぬ……!


 かつて見たアデーレの魔法――『宵闇のジャック』――は自らの気配のみを消す魔法であった。

 気配は消えてもその姿は見えていた。ただ、常に視界の隅に映る通行人か背景の草木のようにしか感じられなくなるために、打ち合うのに難儀したに過ぎない。

 それが今、三郎太にはアデーレ姿が全くと言っていいほど見えなかった。

 念じて目を凝らせば確かに映った気がするが、それも一瞬のことでたちまち消え失せてしまう。それどころか、彼女が動くことで伝わる空気の振動さえも、肌を撫でない。

 まるで五感のもたらす情報が脳を叩かず、神経を走らない。その奇妙な感覚に、三郎太は当惑し、戦慄し、


――腕を上げた……!


 と、感嘆せざるを得なかった。


 その時、三郎太の鶺鴒が、不意に動きを止めた。三郎太は瞳を閉じると、じわじわと正眼から八相に移り、やがて腰を沈めつつ上段の構えを執った。切先は天を貫かんばかりに持ち上げられている。


「…………」


 暫くの静寂、ぱちりと、何処かで焚き木が弾けた。


 豁然と三郎太の眼が見開かれた。気迫の烈風が吹きすさんだとき、三郎太の目の前に、アデーレの姿があった。

 身体ごとぶつけるように三郎太の懐に飛び込んだアデーレは、短剣を腹部へ抉りこむ姿勢のまま、止まっていた。


「…………」


 アデーレは何も言わない。だが、唇をかみしめたその表情が、立ち合いの結果を物語っていた。

 短剣は、三郎太が鞘がらみに手繰り寄せた脇差の鍔のすかしに絡みとられて届かず、三郎太が右手に掲げた太刀は、依然、天を貫いている。


「退くのが先か、太刀が疾いか、もう一勝負、試すか」

「……ばか」


 キッと睨みつけて、短くそう言ったアデーレの心情が、三郎太にはよくわかった。

 アデーレの意識は、高々と掲げられた二尺八寸の太刀に吸い込まれていた。否応なく、あの日の決闘の続きを意識せざるを得なかった。

 そして、アデーレは三郎太の剣を正しく理解していた。三郎太の剣は元来攻撃的なものである。必死の太刀には決死の太刀で応じる。守りには遷らない。

 ゆえにアデーレは、自ら仕掛けつつ、それより疾く繰り出される三郎太の太刀を潜り抜け、がら空きとなった腹部を穿つつもりであった。


 それに対して、三郎太がしたことと言えば、満身から気迫を放ちつつも、ただ脇差を鞘ごと引き寄せて、へその前で控えさせただけである。

 アデーレにしてみれば、真剣勝負をいなされて、裏をかかれたうえで落とし罠にまんまと落とされた気分である。


 三郎太は憎らしい笑みを浮かべて言った。


「これで、いかに勘定しようとも、俺の勝ち越しだ」





 互いに剣を納めて向き直ったとき、三郎太の顔は、先ほど見せた苦悩が嘘のように、晴々としたものになっていた。


「あえて吐かすぞ――実に良い気分じゃ」

「えぇ、その顔を見れば十分に分かりますよ」


 不貞腐れたようにアデーレは言った。


「これで未練が一つ減った。明日を迎える前に……重畳々々、はっはっは」


 珍しく大笑する三郎太の横顔に、アデーレは清浜三郎太という男の本性を見た気がした。

 彼は、『勇者』として相応しくないのでもなく、将としての素養が無いわけでもない。

 ただ、彼自身がそれらを必要としていないだけではないか。アデーレには、そう見えた。

 彼自身が自覚しているかどうかは定かではない。しかし、きっと心の底の底では、使命を遂げるためには、武士という身分と刀と、己一人がありさえすればいいと思っている。

 ただ自らを巻き取った運命がその我儘を許さなかったために、彼は否応なくかれらを抱えて使命の道を進んでいるに過ぎないのではないだろうか。

 その事実はあまりに虚しく、寂しく、孤高で危険だ。我を貫こうとしたとき、その先にあるのは魔道だ。


――ですが、その心配はなさそうね。


 アデーレは幕舎へと立ち去る三郎太の背中を見て、微笑んだ。

 三郎太が、自らをからめとろうとする運命やしがらみに対して、反発しながらも、最後は眉間に皺を寄せつつ仕方がないと受け入れる姿が、容易に浮かんだからであった。事実、これまでの道中、彼はそうしてきた。

 そして、不器用ながら将であろうとする、そんな彼に惹かれ、付き従う者がいる以上、彼はアデーレにとっても慕うべき将であった。


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