決戦
瞬く間に連合全土を包み込む争乱と化した『魔』の反乱。その発端であり、『魔』の牙城たる神威山は、連合首都の北東およそ二〇里にある。
その二〇里の間にあるのは丘陵の点在する平原のみであり、遮るものは殆どないと言ってよい。にもかかわらず、連合首都と神威山、二勢力の拠点の間には往年と変わらぬ奇妙な平穏が保たれ続けていた。
そもそも、神威山は反乱の勃発するより以前から、慣習的に不入の地となっており、いよいよ人の手が入ったのは、大聖女たる故アウロラ主導する開拓事業が本格化してからのごく最近のことである。人々の神威山に対する畏れは、東方から伸びるニューエルメル=崑崙街道の整備の際、連合首都より北側を通る街道をそのまま神威山を通してから連合首都北門に合流させるのではなく、山の手前で大きく南に蛇行させてから東門につなげたことからも伺える。
だが、この地は恐るべき人間不入の魔族の地というだけでなく、人々に恵みをもたらす山という側面も持ち合わせていた。連合首都が、まさしく連合の首都たるを支えている、大運河がそれである。
大運河の水源は遥か北方の峻険なる山脈であるが、そこから流れた大小さまざまな河川が合流するのが神威山の麓であった。その巨大な水脈は苦心の治水の上で、神威山から西に流れ、ゆるやかに流路を南に変えて連合首都の北側から流れ込み、首都の全てを潤わせたのち、再び向きを変えて南西へと流れてゆく。戦時となった今では、首都を囲む三山の城壁の前に水壕を出現させ、首都の守りに寄与していた。
さて、そのような連合首都を騒然とさせる知らせが舞い込んだのは、マルスの月の一四日。清浜三郎太の軍勢が東方街道、すなわちニューエルメル=崑崙街道に出現したとの報であった。
このとき、連合政府の接した第一報は、『賊軍の数はおよそ十万。彼らの進軍した街道沿いの十一の都市は全て灰燼と帰した』というものだった。
『魔』の反乱がおきてよりこのかた、魔獣の襲撃により都市間の連絡が極端に制限されていたがために、ときおりもたらされる断片的な情報は多種多様の流言飛語を生んでいた。
「清浜三郎太現る」の第一報も、その例にもれず、形を変えて首都に横溢したのである。
連合首都は鉄壁である。それは確かに事実ではあったが、同時その鉄壁の檻に閉じ込められた百万の市民にとっては、そこ以外に逃げ場が無いことを意味していた。
――遂に来たるべき時が来た。
世界の終わりを悲観的に迎えようとした者達は、淡々と地中に財を埋め、僅かに残るであろう生き残りに人類の希望を託そうとした。
一方で、『魔』の反乱を楽観的に捉え、賊軍も地方都市の騎士団により壊滅させられるだろうと読んでいた者達は、その予想に反して悠然と現れた賊軍に恐怖し、見るも無残な醜態をさらしつつ、都市に恐慌と混乱をもたらしていた。
市民の反応は様々であったが、それに対して政府の面々は冷静沈着に状況を判断し、賊軍の出現には驚きつつも、もとより「賊軍十万」のような噂を信じはしなかった。
かれらの見解としては、賊軍を構成するのは反乱を起こした崑崙とそれを支援したヴォルフスからの援兵のみでありその数は一〇〇〇にも満たず、崑崙より連合首都までの強行突破は、小勢が連合中の混乱の隙を突いて成し得たもの。というものだった。
しかし、このように反乱軍の実態を正確につかんでおきながら、内閣の各大臣と四騎士団で行われた軍議は一時、篭城派と野戦派の二派にわかれて紛糾した。
野戦派は、賊軍の目的は神威山との合流にあると読んでいた。それゆえに彼らが平原を渡って山に入るよりも先に、全力を挙げての強襲によって彼らを討ち、返す刀で山の魔群をも駆逐することを主張した。かれらには、早期にこの動乱を終わらせて人心の安定と経済の回復を図らなければ、連合は崩壊してしまうという焦りもあった。
一方の篭城派は、未だ動向も実態もつかめない神威山の魔群を警戒し、鉄壁の城塞から出て野戦に出ることの危険性を説いた。彼らにしてみれば小勢の賊軍がみすみす街道上に姿を現したのは連合軍を誘うための策略であり、もしも平原に出ようものならば山の魔群と挟み撃ちに遭うと主張した。
かれらの主張には現状を打破するための方策が示されていなかったが、「賊軍の目的が神威山との合流であるのならば、我々に悟られずに街道上に現れた時点で、すでにそれが出来ていたはずであり、そうせずにわざわざ首都の前に姿を現した以上、彼らの目的は神威山との合流ではない」という指摘は、野戦派に対して鋭い批判となった。
情報の錯綜が、紛糾をより深刻化させた。
一度目の斥候は賊軍が小勢であることを報告したが、二度目の斥候は賊軍に多数の『魔』が従っていることを報告した。
賊軍の目的も、様々なものが伝えられた。
賊軍はヴォルフスの援兵を待っており、既にヴォルフス軍は国境を越えたというもの。
全都市を蹂躙し終えた魔群の合流を待っているというもの。
『魔』の反乱とは無関係に、賊軍は連合の打倒を狙っており、各地の都市軍と合流して連合政府を倒そうとしているというもの。
極めつけは、賊軍もとい清浜三郎太の真の目的は『魔』の根絶にあり、いまや彼らは連合首都を守るために、神威山に攻めかかろうとしているというもの。
いずれも情報の出所は曖昧で信じるには根拠が薄弱であった。しかし、かれらにとって、最も荒唐無稽に聞こえた後者二つこそが、かれらを最も悩ませた。何故ならば、いくつもの都市の正式な使者が、命からがらに首都に辿り着いてもたらした情報こそが、「清浜三郎太によって都市が救われた」というものだったからだ。
一四日の夕刻。賊軍が進路を北に転じて神威山と連合首都の間に広がる平野部の丘に陣を遷さんとしているとの報告に接して、連合政府は決断を迫られた。
「賊軍を誅滅し、賊首清浜三郎太の首を挙げるべし」
大総統の命は下された。いとも簡潔で、初志を貫徹した鋼の如き意思の表示は、軍議に一瞬にして結論をもたらし、四騎士団の士気を高めた。
あくる一五日早朝、太鼓の音が響き渡り、笛が吹き鳴らされるや、連合首都の北門が開かれ、新たに編成された討伐軍が出陣した。
見送る市民の万雷の歓声にこたえるのは輝く軍旗と鎧のみ。
沈黙を保ち、前だけを見据えて堂々と出陣していくさまは、彼らの覚悟と精強さの現れであった。
第一軍はおよそ二五〇〇。近衛騎士団で構成され、指揮は討伐軍総督兼近衛騎士団長マクシミリアン・オブライエン。
第二軍は二〇〇〇。ポセイドン騎士団で構成され、指揮はポセイドン騎士団長サラシア・アンフィ
第三軍も同じく二〇〇〇。ヘリオス騎士団で構成され、指揮はヘリオス騎士団長ベレン・イルダン。
第四軍は四五〇〇。セレネ騎士団と開拓者らの徴募兵で構成され主に後方支援を担当する。指揮はセレネ騎士団副長ルナ・モンタニア
その数一一〇〇〇。大運河の両岸に分かれて北上。左岸を行くのは第一軍、第三軍。加えて第二軍のうち団長直率の一部の軍勢、都合五〇〇〇。大運河を背後に陣を敷き南面、清浜三郎太の賊軍と対峙した。
◆
討伐軍総督兼近衛騎士団長マクシミリアン・オブライエンは幕舎をくぐって外に出ると、せわしなく陣地を構築する兵士たちの姿を横目に観察しながら、櫓の上へと登った。
彼は四十半ばの偉丈夫であった。厳めしい顔で睨みつける先には、賊軍が陣を張った小高い丘がある。視線を左方に転じれば、そこには魔群の根城である神威山が悠然と聳え立っている。どちらも、昨日の戦闘が嘘であったかのように、不気味な沈黙を続けていた。
討伐軍と賊軍の最初の交戦は一六日早朝のことだった。
一五日に出陣した討伐軍が見たものは、キノコの傘のように、真白い霧に包まれた小高い丘の姿であった。
そこは賊軍が陣を遷した場所のはずである。まさしく賊軍は魔の軍勢であったのかと、討伐軍の中に静かな動揺が走った。出陣した今更に、慎重論を唱えるものも現れた。だが、オブライエンは不気味な賊軍への攻撃を躊躇う参謀の意見を一蹴するや、大規模魔法攻撃の準備を命じ、それが整うや即座に攻撃を開始させたのである。
それが一六日早朝。魔法学校の教授陣の協力のもと行われたそれは、魔法陣から放たれる数多の魔法に魔砲と投魔石機を組み合わせた、きわめて効果的で、現有する戦力で発揮される最大の火力攻撃であった。
不気味な霧どころか丘すらも丸ごと吹き飛ばしてしまいそうな攻撃に、討伐軍は歓声を上げた。これだけで、勝敗は決したと思った参謀がいたのも無理はなかった。
だが、立ち昇る砂煙が晴れた時、そこには変わらず霧を纏った丘があった。
失望が広がる前に、オブライエンは竜騎兵一〇〇に上空からの攻撃を命じた。戦果の確認を兼ねた威力偵察である。
しかし、近衛騎士団のみが擁する精鋭無比の竜騎兵たちは、丘から半里(五〇〇メートル)ほどの距離から先に進むことができなかった。
よく調教されているはずの飛竜たちが、霧の丘に近づくことを拒んだのである。
空しく戻った竜騎兵隊の隊長は報告した。
「霧の中には龍蛇と巨人がいる」
その知らせを受けて、彼は速やかに攻撃の中止を命じた。
連合が政治的にも経済的にも脆弱さを露呈させはじめていることを実感していたオブライエンは、出陣の勢いのままに、一撃で賊軍を粉砕して凱歌を挙げ、以て連合の威光を回復せんと試みたが、その企みは脆くも崩れた。
彼も一人の将であり、近衛騎士団の団長にまで上り詰めた男である。幕下の参謀に動揺が走る中でも、彼だけは冷静沈着であった。
敵の正体は依然として判明せず、少なくとも連合の最大火力を浴びてもなお平然と陣を維持するだけの戦力を保持している。山の魔群という別の敵を抱えている状況で、丘の賊軍への力攻めは危険だとオブライエンは判断したのである。そして長期戦に備え、戦機を見極めるために大運河の渡し場を中心に堅陣を築くことを命じたのである。それから四日が経っていた。
「時期は、まだ到来しませんか?」
背後から、声があった。
オブライエンは首だけで、振り向いた。
痩せぎすの男が、不気味に笑っている。
「教皇庁より、また催促が届きまして」
――ゲオルグ・アイヒマン。
討伐軍付特命開拓使という奇妙な肩書で教皇庁から派遣されたこの男は、数少ない神威山事件の生き残りである、神意執行会の人間だった。
端的に言って、オブライエンはこの男の事が嫌いであった。
顔つきだけは思わずハッとするほどの美男子であるが、おかっぱに切りそろえられた髪も、切れ長の眼も、長身痩躯に不釣り合いな厚手のマントを纏っているのも、どれもどこか信用ならない雰囲気を醸し出していた。
そして何より、かれはこうして気配もなく現れては、意見を囁いてくる
「ただちに攻撃を開始し、賊軍を討滅せよ――と。まさか総督殿が臆病風に吹かれているとは、誰も思いはしますまい。しかし、このままではあらぬ疑いがかけられるということは、もしかすると……」
「君は――」
オブライエンは、苦み走った表情を見られまいと、視線を霧の丘に戻してから、言った。
「――一体何の立場から、何の権限があって、私に意見しているのだ」
にたりとゲオルグが笑った。
「討伐軍付特命開拓使――討伐軍の精神指導、士気の高揚を任されていますが」
「そうだ。弁えているのならば、私の作戦用法に口を出さないでもらおうか」
「総督殿は今次大戦を誤解しておられる」
「大戦だと……?」
「今次大戦は世界規模の種の争いでございます。魔と人とどちらが最後の闘争に勝利するか、それを決するのがこの戦場。ならば、戦いは純軍事的なものにとどまらず、あらゆる精神・思想を動員しなければならず、そのために私が遣わされている。大総統も、同意のうえで」
「兵士達の憎しみを扇動することは、士気を奮わせるのとは全く違う。すぐさま中止しろ」
ゲオルグはオブライエンの言葉など意に介していないように、平然と横に並ぶと同じように霧の丘を眺めた。
「小さな丘です。軍を三つに分け、三方より一斉に攻めかかるのはいかがか」
「敵の実態が分からないまま、無理な攻めは危険だ。それに、その隙に山の魔獣どもに襲い掛かられたとすればなんとする」
「信頼できる情報を取捨選択すれば、必然的に導かれるのは敵が少数であるという結論のみ。そもそも霧でわが身を隠すのは、そこに相手に知られては困る何かがあるから。霧に映った魔獣共も、魔法を用いた虚影といったところでしょう」
攻めろ攻めろと突き上げてくるのは、首都の教皇庁やクルセイダーズなどの狂信者だけではない。ヘリオス騎士団のベレン・イルダンをはじめとする若手の騎士、一部の参謀も、純軍事的な観点から、速やかな決戦を主張している。
前者はともかく、後者の主張の分からないオブライエンではない。そもそも一度敵を城外に討つことを決心したのならば、直ちにそれを実行に移すべきなのだ。ましてや、実行しかけてから慌てて矛を収め、守りに遷ったようでは怖気づいたと思われても仕方がない。士気にも響く。
それでも早急な攻撃に踏み切らないのは、率直に言ってオブライエンの勘がそうさせるからである。オブライエンは丘の賊軍よりも山の魔群を警戒していた。
いつ頃からかと言えば、丘への攻撃を命じた、その瞬間からである。
――何か、巨大な何かから見られている!
攻撃を下令した刹那、戦慄して悪寒の方へと視線を向ければ、そこにあったのは雲霞のもとに悠然と佇む神威山。そこに巨悪が潜んでいることを、オブライエンはわけもなく確信した。
「名将とは果断であるもの。ことここに至っては、坐していて転がってくる勝利などありえません。号令を下し、敵を討つ。栄光も名誉も、すぐそこではありませんか?」
「栄光、名誉……」
「左様、教皇庁も総督殿には期待しているのです。これは秘密ですが、実は内々の話で、貴方様が賊軍を撃破した暁には、連合を、いや世界を救った勇者として、列聖に及ぶと……」
列聖……すなわち聖人に加えられること、それは功績著しい大総統経験者、それも故人にしか贈られることのない最大級の名誉だ。
にも拘わらず、オブライエンが浮かべたのは冷笑だった。
「空想の騎士物語か、殉教者の列伝の読みすぎだな、君は」
「と、言いますと?」
「栄光も栄誉も、ただ連合のもとにあればよい。私はただの騎士であり、連合を守る盾であり、剣であればそれでよい。騎士団という存在もまた、同じく」
「ふーむ……なるほど、だからですか……。なるほどなるほど、納得がいきました」
「…………」
オブライエンの怪訝な視線に、ゲオルグは分かり易く肩を竦めてみせた。
「ただの騎士……その烏合の衆であるがゆえに、騎士団とは斯様に惰弱というわけですか」
「なんだと」
振り向いたオブライエンはゲオルグに正対すると、鋭く睨みつけた。
「聞き捨てならん。我らの騎士団を侮辱するような言動は許さぬぞ――教会!」
「事実で名誉が毀損されて逆上するのはあまりに御見苦しい。だって見てごらんなさい、この軍勢を」
道化のように、両手を広げて視界の軍勢を包み込み、ゲオルグは言う。
「己の得意を武器とする一流の開拓者がいて、魔法を究めた一流の学者がいる。かつて連合を救った勇者たちの姿を心に秘めた若者がいる。女のために戦う男が、男のために戦う女がいる。誰もかれもが魔の討伐に心を燃やしている! この正義の人らの軍勢となれば、悪しき賊軍と戦って敗れるようなことがあるでしょうか? いや、あるはずがない! だがしかし、あぁあまりに惜しい! 軍勢の大多数を占めるのは、『ただの騎士』! 『ただの騎士』という名の木偶の坊! 彼等には思想が無い、崇高な使命を遂げるための意思が無い! ……これならば、我が同朋、神意執行会の方が、よほど精強であった!」
「坊主共が、言うだけならば誰にでも出来る。事実として貴様らは魔群に壊滅させられたのだ」
「そう、負けた! 追われて虐げられて凌辱された、だから今、私と私の同朋の心は復讐に燃えている。しかしどうでしょう、アヅマの地にて賊軍に粉砕されたドラクル、グユント、ジョンヴィレの地方騎士団。その幹部の大多数は首都で学び、貴方の薫陶を受けた騎士であるというのに、ここの騎士団の面々は、まるで報復に燃えていない。さながら人でなしのように平然としている!」
「口を閉じろ道化師! 教会の意を受けてか知らぬが、この頃の連合における貴様らの跳梁は獅子身中の虫に等しい。寄生の害毒、我が騎士団にまで及ぶと思うなよ」
「毒を及ばさなければ勝てないどころか戦う勇気すらも出ないようなら、いくらでも、殺されたってそうしましょう」
「貴様らはただ祈っていればいい。戦争は、騎士の本分だ!」
「ならば始められませ、大戦争を!」
「――ッ!」
ようやく、オブライエンは自らが扇動に載せられていたことに気付いた。しかし、気づいたところで、胸中で燻りだした闘争の炎は消えそうになかった。
「……その手には乗らぬぞ、教会」
「失礼、少々無礼が過ぎました」
おどけてみせるゲオルグを忌々し気に横目で見ながらも、オブライエンの思考の中では、ゲオルグの企み通り、攻撃を正当化する理由が醸造されていた。
――もうしばらくで、再び攻撃の準備が整う。連合の威光を取り戻すためにも、教会の跳梁跋扈、神意執行会の暗躍を断つためにも、騎士団の勝利が必要だ。――たとえ、多少の犠牲を払ってでも。
「そのとおり、そのとおり。攻められませ。紂滅なさいませ。大聖女の光を奪った闇がそこにある」
「大聖女……」
ゲオルグは薄ら笑いを浮かべて丘を眺めている。その眼には道化師とは思えない確固とした憎悪が渦巻いていた。
「最後に聞かせろ」
「なんなりと」
「貴様らはよく大聖女を語る――」
空漠な美辞麗句で飾り立てながら。
「――しかし、魔王を評することにかけては、途端に普段の饒舌が鳴りを潜める」
「…………」
「ベレン・イルダンは言う。あの男は姑息で狡猾な策略を巡らし、権謀術数弄するには、能力も人格も不足しているように見えたと」
「なるほど剣を交えて見えたものがそれ……と」
「サラシア・アンフィは語った。彼は奇人変人の誹りは免れがたいが、そこに一本の道理がある限り、悪人とは呼び難い。しかしだからこそ、罪人と呼ばれるさまは痛々しいほど、ありありと浮かぶ。とな」
「サラシア団長らしい……と言えば、無礼にはあたりませんかな」
「解しがたい敵だ。いろいろと調べてみたが、その像は揺らいで形を留めぬ。いかんせん、鎧を割った異常な凡人とはかけ離れているからだ」
滔々と語るに見せかけて、一言一句はゲオルグを詰問するように鋭く放たれていた。
「難しく考える必要はございますまい。あれは『我意の化身』……。サラシア団長のいうところの『一本の道理』という名の邪悪なる我意、邪なる欲望を通すために、猛牛の駆けるように暴虐を尽くすのがかの魔王。すなわち『魔』のために世界を滅ぼすことに対して、なんの呵責も迷いもない。その臓腑を凍らせるような冷淡で残虐な殺意の一端は、あの日、誰もが感じたはず」
ゲオルグは、そう言うと、追及の眼差しから逃れるように丘を仰いだ。
「見れば見るほど、なんと醜い。あの霧の向こうに、大聖女を凌辱した敵がいると思うと、今すぐにでも駆けだして、奴の喉元に喰らいついてやりたい。この身がいかに切り刻まれようとも決して離れず、その喉笛をかみちぎり、腹を引き裂いて臓物をまき散らしてやりたくなる。あぁ大聖女アウロラよ、信仰に生き、信仰に死んだ乙女よ、どうかその浄き魂で我等を導き給え」
片膝をついて祈るゲオルグは、気づかなかった。
それは、憎悪と信仰の告白に、恍惚としすぎていたためか、扇動という自らの役割を果たした達成感と安心からか。
このとき、純粋で純朴な問いを水源としているがために、ぞっとするほど冷たい疑念の眼差しが彼を貫いていた。
◆
「よし。それじゃお前たち、穴を掘れ」
一五日の夜。丘の上に陣を構え、蚩尤の力で霧を撒き、ようやく一休みというそのときになって、ティアナは脈絡なくそう言い放った。
「一人一つ、横になって体が隠れる程度でいい。東側の斜面に穴を掘れ、疲労困憊なのはわかっている。掘り終えたらそこで泥のように眠ればいい」
「まてまて、何を言っている」
突然のことに困惑の表情を浮かべながら、三郎太がティアナに詰め寄った。
「強行軍に次ぐ強行軍で皆疲弊しておる。そのうえ装備もままならぬのに穴を掘れとは何事だ。俺はそんなことを指示した覚えはない」
「疲労困憊なのはよくわかっている」
「なんのために、穴なんぞを掘らせる」
「教えてやらん」
「なにッ!」
兵たちの前であることを忘れ、三郎太は顔を赤くして声を荒げた。
「お前だっていつも、私達に目的も言わずに命令するじゃないか。今回はちょっとした意趣返しだ。あまりいい気分じゃないだろう?」
「むむむ、このようなときに下らぬことをッ!」
「ま、ああは言ったが決定権は私には無いからな、征軍ではお前が命じたことが全てさ。しかし穴を掘らなきゃ、明日の朝には全員あの世行きだぞ、間違いなく」
声音は真剣そのものだ。三郎太をからかう気があるのは間違いないが、嘘や冗談を言っているわけでは無いことは、付き合いの長い三郎太からすれば明白だった。
「……ええいッ! みな許せ、もう一働きだ! 俺も手伝う――蚩尤、お主もだ!」
「ええー、オレ、霧を撒くのでもう結構ぎりぎりなんだけど、おもに理性の方面で」
「俺が働けて、お主が働けぬとは言わせぬぞ」
半ばやけっぱちで叫んで鍬を取ったのがその夜。
翌朝、三郎太が床机に腰かけながらうつらうつらとしていたところを、袖を引っ張って起こしたのは、やはりティアナであった。
「来るぞ」
短く告げるティアナにつられて目を遣ったその刹那、霧の向こうがきらりと光った。
その瞬間に、身を貫いた衝動を、ノイエ・ヴォーレン騎士団との戦いの中で、三郎太は経験していた。
「伏せえェッ!」
一瞬のうちに眠気は彼方へ飛んでいった。傍らでまどろんでいた蚩尤を抱えて、跳び込むように地に伏せたのと同時に、魔力の籠った岩が、火球が、鉄が、丘を丸ごと吹きとばさんばかりに暴威を振るった。
「蚩尤、霧だけは絶やすな! 我らの姿が暴露されれば、皆殺しだぞッ!」
「ああもうッ! いい夢見てたのに!」
轟音に負けじと、三郎太が蚩尤の耳元で叫ぶ。
力の行使によって、蚩尤の顔面の右半分に鉄の仮面が浮き上がった。
三郎太自身も何かを堪える様に顔を歪めつつ、彼の背を叩いて激励することしばらく、ようやく破壊の暴風が治まったころ、砂ぼこりの中から顔を上げたとき、またもティアナが静かに告げた。
「ドラグーンが来るぞ」
「は!? お次は何だ!?」
「竜騎兵だ、知らないのか」
「チビハネアリトカゲに乗った騎士サマの群れが、空から攻めてくるってことだよ!」
蚩尤の言葉を聞き、しまったという顔を浮かべたのも束の間、三郎太は瞬時に思考を巡らした。
「『刑天』『共工』、霧の内に踊れ! たかだか有鱗の獣の数百匹、恐懼させるのは容易かろう!」
「サブロー、でも……」
「黙れ蚩尤! 黙って俺を見よ!」
それから、ようやくして敵の襲撃を防ぎ切った三郎太であったが、すぐさま第二陣の攻撃に備えて采配を振るわなければならなかった。
しかし、三郎太の予想に反して連合軍は攻撃を行わず、束の間の平穏と安堵の中に、三郎太は休息をとることが出来た。
だがそこへ、ニンマリとイヤらしい笑みを浮かべて現れたのは、三度ティアナ……いや、太祖であった。
「さて、では偵察にでも行くか、大将」
これまで立て続けに三郎太にも幕下の軍勢にもできない予測を的中させ続けた太祖の言葉である。到底否定することは出来ず、三郎太はその言葉に従うしかなかった。
◆
「これは、まことに必要なことか」
「当然だ、何を言っている。まずは大将自ら敵軍をその目で見てみろ。そうでなきゃ話にならん」
「斥候と敵情の肝心は知っておる。ただ俺とお主と、二人して陣を空ける危険を冒してまですることかと申しているのだ」
三郎太とティアナは丘を下りると点在する茂みに身を隠しながら連合軍の陣の見える位置まで近づいていた。
「息抜きとも思えよ。私一人の隣であれば、節度使である必要はない」
「…………」
「気が張り詰めてばかりだろう。少しくらい緩めてやらなきゃぶっ壊れそうで見てられん」
「そのようなことはない」
「重いだろう。お前が抱えた、その亡霊共は」
ティアナは三郎太の全てを見透かしたかのように言う。かつての三郎太ならば、そのような眼差しを不愉快だと断固拒絶していただろうが、今はむしろ、頼もしく思っていた。
「いつでも甘えていいぞ。私には、到底背負いきれるものには視えんよ」
「侮るな。それに重さなど、このさい些事だ。これを飼いならさねば、どのみち勝ち目はない」
甘えを振り切るように、三郎太は木陰に寝そべると遠眼鏡を覗き込んだ。
見えるのは色とりどりの旗差物と揺れ動く人馬。
小部隊の長と思わしき、全身を鎧で包んでいる人物が、従者の掲げる隊旗と共に現れては軽装の兵士たちが左右に散って役目を果たす。
そしてその景色の間隙には、整然と並べられた魔砲たちが、油断なく筒先を丘へと向けている。
一見して去来する印象は『精鋭』の二文字。視界に映る数はたかだか数十であるにもかかわらず、万の軍勢が己一人をめがけて猛進してくるようにすら思えた。
「さっそく呑まれるなよ。いつもの威勢はどうした」
その言葉に我を取り戻し、三郎太は遠眼鏡から顔を上げた。
「これだけの大軍を見るのは、初めてだ」
恥ずかしながら、それが本心の吐露であった。
ただの斬り合いならば相当の場数を踏んでいる。並の人間の後塵を拝することなどありはしないと自負しているが、こと戦陣に及んではそうはいかない。
崑崙の名将はここにはいない。お膳立ての無い、己が刃と采配を振るわなければならないこの戦場は紛れもなく三郎太の初陣であった。
「まぁ、初陣でこれだけ落ち着いていられるのならば御の字か――おい、あれを見てみろ」
太祖が魔眼で捉え、指さした先に遠眼鏡を向けると、そこに見えたのは数匹の魔獣。
遠目に見てもわかるような、硬質で刺々しい鱗に覆われた魔獣は翼を持ち、首は長く、両手足を備えているが、野太い足に比してその腕は細く頼りない。
――チビハネアリトカゲとは、なるほど。
「飛竜だ。あれを騎手が駆り、竜騎兵となる」
「竜騎兵……お主の言っていた」
無論、三郎太の故郷にはワイバーンも、彼らを駆る兵士も存在しない。だが、三郎太はすぐに竜騎兵の持つ威力に気が付いた。
「空を自在に飛び回られては、厄介だ」
「ああ、斥候にうまく使われるとこちらの動きは筒抜けになってしまううえ、いざ戦いとなっても常に空中から横槍を入れられることになる。お前に実感はないだろうが、なんといっても空中から地上の敵を狙うのは簡単だが、その逆はなかなか難しい。対抗するにはこちらも竜騎兵を用意するのが常道だが……」
「そんなものはおらぬ。敵はあれを、どれほど持っている」
「知るか。そもそも龍種は西方の荒野に棲んでいて、飛竜なんかはヴォルフスの貴重な特産だったんだ。国外への持ち出しには相当に気を使っていたんだが……いったいどうしてこれほどそろえたのやら」
三郎太は歯噛みした。
これでまた一つ、克服せねばならない課題が増えた。
崑崙とヴォルフスの連合軍と言えば聞こえはいいが、実態として両者の連携は望むべくもない。換言すれば烏合の衆という事になる。
それにたいして、左岸に構えた敵勢は殆どが正規の騎士で構成された五〇〇〇の軍勢。
五〇〇対五〇〇〇――なるほど正史を紐解けばそれ以上の劣勢を覆した事例もあるかもしれない。だが今、三郎太が置かれた状況には、たった一つだが、致命的な条件がある。
「さて、お前はどう戦う」
「…………」
「肩の力を抜け。……そうだな、まずは太祖にでもなった気分で、落ち着いて、状況を見てみろ。お前の憧れの英雄は、どう考えると思う?」
「……太祖が、俺の思うとおりの傑物であるのならば、このような無謀な戦はせぬ」
「ああ、勿論しないとも。こんな絶望的な戦争を狙って起こす奴は変態だし、引きずり込まれるようなら愚将の極みだ」
「軍略の最上は、敵を知り、己を知り、戦わずして勝つ。そして、戦うのならば必勝の場を設けて戦に望む」
「その通り。だがそれは机上の空論だ。現実はそんなに甘くない。自分も相手も最上を望むのだからな。結局最後に残るのは博打じみた可能性の選択だ。もっとも、だからこそ将器が輝くのだが」
太祖はそう言い乍ら、三郎太の隣に同じように寝転び、その耳元で囁いた。
「悲観的になる必要はない。この状況はお前の功績だ、ヴォルフスと崑崙の連中をうまく使って、あらゆる欺瞞をばらまいた。向こうは何が起きてるのか把握できず、遂に私達をここまでみすみす見逃した。たかだか数百の軍勢が、連合首都を目前に、騎士団の精鋭たちに決戦を強いるなんてのは前代未聞だ。私も面白くなってきた」
「…………」
「戦場の気配でわかる。いま、主導権を握っているのは私達だ。敵は右に左に揺らいでいる。揺らいで揺らいで、それから決心する。お前は揺らぐな。少なくとも私の前以外では」
「…………」
「迷いきった挙句にようやく選んだ決心が間違っていたのかもしれないと思ったその瞬間、人はひどく狼狽する。そのとき、相手に開き直る隙を与えることなく、その横っ面を思いきり引っ叩け」
「…………」
「さぁ。やりたいこと、やらなければならないこと、出来ること、それがぐちゃぐちゃに固まった土くれが目の前にあるだろう。そこから出来ないこと、下策と思われるものを斬り落として、削って、磨いて、最後に残ったものが採るべき選択だ。それが輝けるダイヤか、未だ汚れた石ころかどうかにかかわらず、太祖はそれを拾うことに躊躇わない。――お前の中に、既に答えはあるんだろう? あとは、それをやってみろ」
やがて、じっと遠眼鏡を覗き込んでいた三郎太が、呟いた。
「潮時だ。悟られたぞ」
「ん……そのようだな」
急ぎ足に三郎太はハリマに、太祖は二角獣に飛び移って腹を蹴った時、同時に魔砲から放たれた魔石が炸裂した。
土煙を突き破った二騎は丘へとまっしぐらに駆けた。
この時、三郎太を包み込んでいたのは、湧き上がる昂揚と確信だった。
「ティアナ、いや……太祖! 魔眼を閉じて、聞け!」
静かな興奮に任せて、三郎太は背後に叫んだ。
「拙者は、貴殿と轡を並べられたことを誇りに思う。――貴殿はやはり、人の英雄だ。魔人の将であれど魔の英雄ではない」
――偽りなく、俺の英雄だ。
三郎太にとって、やはりティアナと太祖は決定的に違う。
凋落した英雄であり、もとはしがない村娘であるティアナであれば、憐れみとやるせなさを抱きつつも、同居人として許容することが出来た。
しかし、それが太祖となれば、いかに同一人物であることを説かれても、そうはいかない。
同じ一室に起居することや、横に並び語らうことを、畏れ多いと感じる殊勝な士分の心構えも一面では真実だが、本当はもっと単純な、恐怖からくる忌避こそが、三郎太が太祖を理解するのを拒んでいた。
しかし、今、ふと気づいた。己が守り守られ、又導き導かれた相手は、紛れもなくティアナであり、太祖であることに。
「故に――虎将よ、貴殿が駆ける大路は、天下こそが相応しい!」
無道とも言え、没義道とも言え。三郎太は、皇帝フリードと交わした約定を、踏みにじった。
太祖の野望の炎を消したのが、フリードと三郎太である以上、その器に再び火を灯すのは、必然的に二人以外にあり得なかった。
「もしも天下乱れるのならば、再び矛を執ることを躊躇われるな。混迷の世には貴殿のごとき覇道の人物が必要だ」
「そこにお前はいないのか!」
「おらぬっ、見よ!」
三郎太の傍に魔石が着弾し、爆風とともに火焔が渦巻く、空中で炸裂した魔石から雷が数条降り注いだ。
全てをからくも躱しつつ、砂ぼこりにまみれながら、振り返った。
「俺は治世にあっては秩序を守り、乱世にあっては滅びゆくものとともにあらねばならぬ男だ。創世の事業に、俺は無用だ」
「知っていたことだが、やはりお前は自分勝手な頑固者のわからず屋だな!」
太祖はバイコーンをハリマの横によせると、三郎太の袖を掴んで言った。
「居場所とは、与えられるものではなく作るものだ。すべてが終わったそれからに、居場所が無いというのなら私の傍を選べばいい。ここは確かにお前が作った居場所だぞ」
太祖はあくまで対等に、三郎太に想いを投げかけた。
その声は真摯で、砲撃の音にも遮られることなく、静々と三郎太に届いた。
「天下を駆けろというのなら駆けてやる。願われるまでもなく、英雄であってやる。その時には、お前の将器を叩いて磨いて、存分に使い倒してやる。――だから私と来い。私はお前が欲しい」
「…………馬鹿を言え。これ以上の不忠が犯せるか」
そう言いつつ、三郎太は薄く微笑んだ。
三郎太がその笑みを本当に機嫌が良い時にしか見せないことを、三郎太と共にあった者は皆知っていた。
「全てが終わってからの事は、全てを終えてから談合しても遅くはあるまい! 策は決まった。まずはこの戦、勝つぞ!」
◆
そうして両軍に満ちる闘気は戦場を包み込み、遂にその時が来た。
二三日。討伐軍の先鋒は背水の陣を押し出して丘に迫った。
右翼に第三軍、中央に第二軍を配し、後方に第一軍の近衛騎士団の諸隊が控え、全軍としては衡軛に陣を構えて賊軍の籠る丘を半包囲しつつ、魔群の山にも威力を指向させた。
神威山に対する左翼の薄さは、彼我の距離をもって補い、第四軍が大運河の両岸に構えた砦の如き陣地を堅守している。
すなわち丘の賊軍を殲滅、踏み抜きつつそのまま魔群の籠る神威山を攻撃する算段であった。
「君ほどの人物――この評価が正しいかどうか私にはわからないが、しかし、このようにして君にまた相まみえるのは遺憾だ」
先陣の誉は、ポセイドン騎士団とサラシア・アンフィに与えられた。
馬上、サラシアは長槍を眼前に立てながら、呟いた。彼女の後ろにはポセイドン騎士団の精鋭、重装騎兵一〇〇騎が、彼女と同じように槍を立てながら控えていた。
「詠唱準備!――」
一〇〇騎が一糸乱れぬ動きで天を一突き、再び眼前に槍を構えた。
「『ディザスター・アイスストーム』」
騎士団の頭上で大気が螺旋を描く。空気中に漂う水気が全て魔力と共に螺旋に吸い込まれてゆく。丘を包む霧も、例外ではない。
螺旋の内に完成したのは千をゆうに超える数多の氷剣、氷槍。
その全てが、霧という虚ろな鎧を剥がされた、丘の上の彼らに向けて放たれた。と、同時に――。
「突撃!」
喊声を上げて、精鋭無比の重騎兵、その破壊の行軍が始まった。
そしてそのとき、丘の上では、
「旗ァ、掲げェ!!!」
大気を震わす鬨の声に応えるように、一騎の男が、太刀を振り上げながら――
「押し出せぇぇ!!!」
決戦の大号令を、空を穿つ黄昏に吼えた。




