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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
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死界ウェパロス 上

『友達を増やす努力』が『彼らを支配する作業』に変わったのはいつからだろうか。

『彼らの世界に入りたいという慕情』が『自らの世界を広げる野望』に変わったのはいつからだろうか。

 しかしながら、少なくとも、彼女エリーはその致命的な変化を、認識していなかったし、したところで、その違いを理解することは出来なかった。なにより彼女の執念ねがいはただ一つ。それが果たされるのならば、そのための手段など、些末な問題だった。


「ねぇ、町長まちおさ。次のお祭りはいつかしら?」


 喉を切り裂かれた町長は声を発することが出来ない。ひゅーひゅーと不快な音を鳴らすばかりである。

 彼は壊れた人形のようなぎこちない動きで、地面に何かを書いて示そうとした。


「そう。でも収穫祭まではとても待ちきれないわ」


 噴水の縁に腰をかけながら、足をぶらぶらと動かすさまは、年相応の平凡な少女のものだった。


「みんなが再会した記念なら、いいでしょう? 夜を明かして、みんなで歌って、踊りましょう? 大丈夫、あの人も、マリアさんも連れて来るわ」

 

 今、エリーは、嘘偽りなくこの町を愛していた。

 かつて、自らを拒絶した町は、いまや彼女の世界そのものとなっていた。


「あの山よりも、ずっといい。愛しているわ。この町も、みんなの事も。きっと幸せにしてあげる」


 虚ろなささやきに、支配者として実が伴っているように聞こえるのは、形式的なものになりさがったとはいえ、彼女に領主の血が流れているからだろうか。

 エリーは噴水から降りると、誰かのもとへと近寄った。


「ねぇ、泣いているの? シスターサラ」


 言いながら、エリーは黒焦げの体の、頬を撫でた。


「ねぇ泣かないで、私も悲しくなるわ。……でもそうよね、マリアさんのことを教えてあげたとき、みんな本当に悲しそうだった。あの人が? 信じられない。そんなはずがない。何かの間違いだ。――みんな、そう言っていたよね」


 「でも大丈夫」彼女はまるで母親が我が子にするように、その頭を抱いて、言った。


「みんな、彼女にもう一度会いたいのよね? 大事な人と、もう一度お話がしたいのよね。まかせて、私がきっと、その願いをかなえてあげる」


 黒焦げの体が、ぎこちなく傾いだ。甘え、頼るかように、彼女に体重を預けた。

 優しく、柔らかく微笑み、呟いた彼女の足元に、ころころと、転がるものがあった。

 

「あら……シーロさん?」


 それは、クルセイダーズ五番隊に属していた、彼女の屍兵しへいの一人だった。


「さあ、エリー。ようやく、主役のお出ましのようだ。全くらしからぬ・・・・・登場の仕方ではあるが……歓迎をしてあげなくてはね」


 エリーの傍らに座っていた騎士体の男――ルークス・スクローイが、獰猛な笑みを浮かべながら、立ち上がった。


「あぁ、やっと会えた……」


 エリーは、恍惚とした表情で、呟いた。


「三郎太さん」





 討ち取った屍兵の首を放り投げた三郎太の顔は、見せつけられた人形劇の醜悪さに、ひどく歪んでいた。

 吐き気と共に喉元までこみ上げた怒りとも哀しみともつかない感情が、口をついて飛び出そうとするのを、堪え、三郎太は絞り出すように告げた。


「エリー、もう一度言う。地獄へ戻れ。この世に、お主の棲まう場所は、墓の下以外に、どこにも無い」


 エリーはゆっくりと、首を振った。


「イヤよ。三郎太さん」


 そして、微笑みを崩さぬまま、「――それよりも」と、続けた。


「三郎太さんが、此方においでよ。この世界に居場所が無いのは、貴方も同じでしょ?」


 エリーがそう言い終わるや否や、光るものが、三郎太の手から放たれた。ルークスによって阻まれ、弾かれたそれは、脇差の小柄であった。


「ならば、俺がお主を地獄へ叩き返すまでよ!」

「あぁ……うれしい……」


 半ばを汚れた包帯に包まれた、土気色の顔が、一瞬紅潮して見えたほど、恍惚にエリーは体を震わせた。


「貴方の執念じょうねつが見える。やっぱりここにきて正解だった。こんなにも私を想ってくれる貴方に会えたのだもの! 好きよ。愛しているわ。さ――」


 既に地を蹴った三郎太が、白刃を担ぎつつエリーをめがけて肉薄する。

 しかし――、


「させねえよ」


 ルークスが、魔人の敏捷さでそれを阻んだ。

 刃風をうならせて迫る太刀を、ルークスは剣を掲げて受け止めた。

 三郎太は即座に二の太刀を浴びせんとしたが、カチリと小さな音を立てて太刀が何かに引っかかった。


「そぉらッ!!!」


 その隙を見逃さず、ルークスは三郎太の右手首を狙って剣を跳ね上げた。


――間に合わぬ!


 三郎太は咄嗟にインバネスの袖を翻し、余った袖を重ねた。

 蚩尤お手製の、矢も通さぬ鎧の如きインバネスである。さらに、その下には羽織と籠手まで身に着けている。

 然りながら、右手が太刀ごと宙を舞うことだけは阻止できるかもしれないが、間違いなく骨は砕かれるであろう。

 しかし、三郎太が覚悟を決めるのと同時に、その体がガクンと後ろに引かれた。


「ここで敗れるは、流石に呆気なさすぎましょう」

「……すまぬ。助かった」


 間一髪。フヨウの咄嗟の行動が三郎太の命を救った。

 三郎太は、冷静さを取り戻す様に頭を振った。


「愛の告白の最中に斬りかかる……アンタなかなかにサイテーだな。見直したぜ、勇者サマ」


 ニヤニヤと、挑発的な笑みを浮かべながらルークスが言った。


「お主は……」

「ルークス・スクローイ……魔人さ。あの山で会っているぜ。忘れたか? あぁ忘れたいだろうな。みっともなく女達に守られながら、尻尾を巻いて逃げたときのことなんて、忘れたいに決まっているよなぁ」

「…………」

「あんたの事を聞くたびに、虫唾が走るよ。世界がどうだとか、世の中がなんだとか、大義、正義、そんなことを、臆面もなく言ってのける奴。俺はそいつを二人知っている。気に入らねぇよ、殺してやりたい。一人は詐欺師だったが、アンタは何だ? 出来損ないの狂言回しか? 道化か?」

「武士であろう」

「あぁ?」


 構え、そう断言する三郎太を、心底理解できないと言った様子で、ルークスは眺めた。

 

「俺は武士であり、崑崙の節度使だ。それで、お主は何者だ」

「あぁ? 俺は魔人だって――」

「ならば、なぜそこにいる」


 ルークスの顔色が翳った。見透かされたくはないことを、見透かされたような気配がしたからである。


「北竟大帝と同心するも良い。茨木童子に忠誠を捧げるも良い。いずれにせよ殺すが、まだ、理がある。だが、何故、その女に就いた」

「…………」

「エリーは、北竟大帝や茨城童子の指示でこの地に赴いたのではあるまい。その女に誑かされて、一体、如何なる志が立つ」

「は……ハハハッ! ハハハ! そうかよ。こりゃ驚いた」


 ルークスは哄笑した。


「てっきり、俺や山の連中がエリーを騙したんだろうって、アンタに的外れな弾劾をされるもんだと思っていたが、意外だ。――エリー。良かったね。彼は君のことを本当によく理解している」

「当然よ。あの人は私の本当の、ただ一人の理解者なんだもの。そして、私も……ね」

「正直、妬けるよ、本当に」


 ルークスがだらりと剣を下ろし、隻眼で三郎太を見据えた。


「いずれにしても、殺し合う以外に道は無いのだ」

「あぁ、そのとおりだな。ちょうど二対二か。――エリーいいね。僕達の執念じょうねつを果たすために」


 ルークスは、三郎太らに向けるのとは全く別人のような、優しい笑顔をエリーに向けた。


「ええ。そうしましょう。……でも大丈夫かしら、この状況。決して対等ではないわ。だって――」


 エリーが妖しく微笑んだと見えたとき――屍兵が四方より、三郎太等に飛びかかった。

 その動きは俊敏。

 いつか三郎太が首都で斬ったものとはくらべものにならない。

 三郎太は左右より迫った屍兵を、容易く斬り伏せた。

 しかし、同時に後方より二方から迫る屍兵に対処するには間に合わない。

 その時、乾いた布のはじけるような音が響いた。

 衝撃波が空気を震わせる。

 目にも留まらぬ速さで繰り出されたフヨウの掌底が、二体の屍兵を吹き飛ばしていた。

 さらに、それだけではない。弾かれた二体の屍兵は空中でにわかに炎上すると、跡形もなく灰となった。


「へぇ」


 ルークスが感嘆の声を挙げる。

 その仕組みは単純でありながら、技巧的であった。

 フヨウは、磨きぬかれた体術を見舞う直前に、膨らんだ袖口に仕込んだ符を取り出し、符術を発動させながら掌底を叩き込んでいた。

 掌底で心臓を叩き潰されると同時に、炎の符術をまともに受けた屍兵は、跡形もなく消え去る。

 三郎太は、この業に幾度も救われて、屍兵の陣を突破し、今、この場にいる。


「屍兵がいれば対等ではないと、愚かにも、そう考えたか、エリー!」


 くすんだ色の血を祓い乍ら、三郎太は言った。


「俺も、こやつも一騎当千。摂理に反した獣が何体現れようが、敵ではない」





 広場で始まった二人の斬り合いは、演舞のように静かであった。

 互いに極まった間合いの範疇で、踏み出しつ、下がりつ、ほとんど一地点に留まりながら剣戟を繰り出していた。

 ルークスの剣が三郎太の鉢金をかすめたかと思うと、次の瞬間には三郎太の太刀がルークスの胴を撫でていた。

 互いの剣が触れ合うことはない。ただ、風を切る音と、砂を踏む音が鳴るばかりである。

 ただ、そこへ、時折、乾いた破裂音が載る。


 フヨウは、三郎太の背後にありながら、不意に襲い来る屍兵を弾き飛ばし、焼却していた。

 彼女もまた三郎太に着かず離れず、一定の距離を保ったまま、彼の背後を守り続けていた。

 鍛錬と実戦に裏打ちされた彼女の拳法は、これもまた演舞の如き軽やかさを持っていた。


 彼等の戦いが、見世物のように見えるのは、そこに、観客がいるからだった。

 エリーはベンチに座り、傍らに侍らせた屍兵らとともに、満足そうにその戦いを眺めていたのである。

 まるで、己がその渦中にいることを自覚していないかのように。


「ええいッ!」


 その時、三郎太の気迫が広場を震わせた。

 振り下ろされた太刀が、ルークスを袈裟懸けに斬り伏せる……しかし、その寸前、ルークスは身を沈めつつ剣を掲げ、辛うじてそれを受け止めた。


「くぅ……! オラァッ!」


 魔人の膂力に任せ、太刀を押し返す。

 三郎太は深追いすることなく退き、ルークスも飛び退いた。

 斬り合いが始まってから、初めて二人のあいだに、間合い以上の距離が開いた。


「驚いた、アンタ本当に人間か? 剣に達者だとは聞いていたが、ここまでついてくるとはな……」


 ルークスは呼吸も荒く、肩を上下させながら言った。

 一方の三郎太は、呼吸こそ大きくなっているものの、得意の星眼は乱れることなく、冷静に相手を観察しながら、戦いの主導権を握っていた。


「お主よりも速い剣は、いくらでも知っておる」

「言ってくれるじゃねえか……」


 三郎太は魔人の持つ、肉体的な優秀さを十分に知っていた。

 単純に速さや力を比べれば、彼ら魔人に軍配が上がる。

 三郎太は繰り返された一瞬の斬り合いの中に虚実を交え、隙を誘い、そこへ必殺の一撃を打ち込んだ。

 しかし、それもまた、恐るべき反射速度で阻まれたのである。


――それに、あの剣は……。


 三郎太の視線が、ルークスの持つ剣へと注がれた。

 その刀身は刃こぼれにまみれており、さながら鋸刃のようになっていた。

 さらには錆までもが浮いており、三郎太からしてみれば、それは剣への侮辱も甚だしい、見るも無残な姿をしていた。

 しかしながら、その剣は、その姿から想像されるような虚弱さを、決して纏ってはいなかった。

 むしろ、残忍で、執念深く、砕こうとも決して砕けないような頑強さを秘めているように三郎太には見えた。


――その、頑強なる鋸刃に喰らいつかれれば、只ではすまぬ。


 初めに斬り結んだときのように、鋸刃で太刀を止められれば、そこに生まれた隙が付け入られ、致命傷を負う可能性がある。

 それだけではなく、強力な魔人の一撃をまともに受け止めようとすれば、ただの太刀である千手院は無傷では済まないだろう。


「気になるか? この剣が」


 剣を掲げながら、言った。

 錆にくすんだ刀身が、まだらに光を放った。





 一度目の大戦が終結してより二十年。何某伯の領邦の一つであったその都市は、新たに誕生した連合の恩沢に預かることも無く、敗戦からの復興も未だ迎えず、鄙びた斜陽の邦として、人知れず滅びの道を進んでいた。

 若い男は殆どが戦争で死んだ。自らの前途に望みを持つ者は、既にその都市を去っていた。あとに残されたのは、滅ぶと知りながらも、自らを生み育んだゆりかごを墓所と定めた者達だけであった。

 その都市で、戦後に生まれた二人の若者は、穏やかに、健やかに育った。

 しかしながら、生まれながらにして、緩やかに共同体と心中することを強いられた若者は、滅びを忌避する本能が発する、言い知れぬ静かな不安を、狂気として身に蓄積し続けた。


 そして、ある日、二人は同時に発狂した。

 戦災で焼け落ちた教会の跡地で、同時に剣を抜き、狂ったように、愛と絶望を叫びながら、激しく打ち合った。

 夕暮れから、陽の沈むまで行われたそれは誰にも気づかれることなく、二人の死体が発見されるのは、翌日の朝を待たなければならなかった。

 抱き合うように、折り重なって死んだ二人の間で、その剣は不気味に燦めいていた


「魔剣『ペトラ・ロッソ』」


 ルークスが刀身を顔に近づけながら言った。。


「愛し合った二人が殺し合いの果てに生み出した魔剣……この場に相応しいと思わないか?」


 隻眼が、皮肉気な笑みに細められた。


「…………」

「だんまりか。つまらねぇ男だ」


 三郎太は、内心で首をかしげていた。この男は、なぜ戦うのかと。

 先に感づいたように、北竟大帝の走狗として三郎太を始末しようとしているようには見えない。そもそも北竟大帝も茨木童子も、決戦の場に三郎太を誘い出し、世界と、世界の境界もろとも、完膚なきまでに叩き潰すことを企図しているのだから、今ここで、この男が捨て駒の如く差し向けられるということは考え難い。

 さりとて、エリーという一人の女に溺れ、進退を誤ったかと見れば、そうではないようだった。エリーのために、三郎太を殺そうと言うのであれば、もっとなりふり構わない方法があってしかるべきである。

屍兵で押しつつめば、三郎太とて、もしかすればと思う。だが、ルークスはあくまで一対一の斬り合いを続けている。

 エリーも、それに同調するかのように、ときおり屍兵をけしかける程度で、あとは傍観者を決め込んでいるようだった。


 相対した二人の距離がじわじわと近づき、その間合いが定まった時、三郎太の脳裏に閃きが走った。


――こやつもまた、一人の男児か! 名を成さんとして、この首を欲するか!?


 上段から、猛然と魔剣が振り下ろされた。かと思えば、今度は真下から跳ね上がった。

 呪われた剣の残像に、吸い上げられた数多の血と怨念が映って見えた。

 大振りだが、岩をも砕く剛力と迅速を伴った斬撃を受け止めるわけにはいかない。

 三郎太は半歩退いた。次の瞬間、ルークスは一足飛びに猛迫し、刺突を繰り出した。


「っ……!」


三郎太は上体を捻って躱そうとする。


「三郎太ッ!」


 フヨウが叱責するような悲鳴を飛ばした。刺突に対して悪手である。フヨウの思った通り、魔剣は三郎太の胴を穿ったように見えた。

 しかし、そうではなかった。

 ルークスが怪訝な表情を浮かべながらも、鋸刃を引くように剣を勢いよく戻したときだった。インバネスがするりと三郎太から離れ、宙に舞って広がった。

 閃光が奔った――そう見えた、次の瞬間、ルークスの絶叫が町中にこだました。

 そして、インバネスの陰から飛び出したルークスは、逃げるようにエリーの足元へと転がり込んだ。

 右手でわが身を抱くようにして押さえられた左腕は、二の腕を骨まで断たれて、皮一枚、辛うじてつながっており、そこから夥しい量の血が流れ落ちていた。


「もはや、剣は振るえまい」


 血を払いながら、三郎太が呟いた。

 三郎太は、ルークスの刺突を、上体を捻って躱そうとしたのではなく、翻したインバネスで魔剣を巻き取り、脇へと反らしたのである。そして、素早く袖を抜くや否や、それを宙へ放った。

 頑強なる蚩尤のインバネスは魔剣の鋸刃に絡まって、ルークスが剣を引くのと同時に広がり、彼の視界を奪ったのである。

 ルークスは咄嗟に眼帯で遮られている右を守った。だが三郎太はその先をゆき、彼の左腕を断ったのであった。


「エリーっ……はははっ……すまないね。結局、こうなった」

「貴方はそれでいいの? まだ、右腕も、その眼も残っているのに……」

「いいんだよ。どのみち、手負いで勝てる相手でもない。それにこの一撃は、俺がルークス・スクローイを見限るのに十分すぎる。――もうこれ以上、誰かの後塵を拝するくらいなら……」


 エリーの足元で俯き蹲ったままのルークスは、苦悶の中に微笑を混ぜながら、地面に向けて吐き捨てる様にそう言った。

 そして、弱々しく握った魔剣をエリーに差し出してから、瞠と目を見開いて三郎太を睨みつけて、言った。


「喜べ『勇者』三郎太。ルークス・スクローイは確かにお前に敗れたぞ!」

「…………」

「誇れよ。これがお前の、最後の手柄だ――エリー、頼む」


 その鬼気迫る叫びが、三郎太を打った。踏み込み、斬り込むのを躊躇わせた。


「『まさに我が騎士となるものよ。あるべき真理をとりもどせ――』」


 魔剣の腹をルークスの肩に置きながら、エリーは呟いた。

 三郎太は我が耳を疑った。

 耳に届いたのは、あの、ねばつくような甘い声ではなかった。

 清浄な、大人びたそれは、透き通るような響きで三郎太の心を揺さぶった。

 正しいものを、正しいと信じて行い、真実、それは正しかった。

 そのようなはずはない。見える景色は悪辣で、彼らは紛れもなく歪んでいる。

 しかし、そのような印象を抱かせるほど、聖性を放つ声色だった。


「おい、節度使どの、何かおかしいぞ」


 三郎太の背後に、ぴたりと張り付いたフヨウが、周囲を伺いながら言った。

 三郎太は、それに気づいていた、しかし、動けなかった。


「『弱きもの、救われぬもの、追われたもの、少なきもの、日陰にあるもの、奪われたもの、虐げられたもの、滅ぼされたもの、忘れられたもの、その全ての守護者となれ』」

 

 唱え終わるや、エリーは魔剣をルークスの背に突き立てた。

 ずぶずぶとそれはゆっくりと沈み込み、やがて柄がその背に達した。

 ルークスの胸元から飛び出した刃が彼の体を支えているかのようだった。


「ちっ、気色の悪い……」


 無表情の中に侮蔑を含め、フヨウがそう呟いたのも無理はない。

 見せつけられた高尚な儀式めいた処刑は、吐き気がするほど邪悪で不気味だった。


 ふいに、むくりとルークスが立ち上がった。


「――ハッ!」


 俯いていた顔を跳ね上げて、ルークスが気勢を吐いた。

 二人が身構えた、次の瞬間には、ルークスの体に異常が現れていた。

 魔剣に貫かれた傷痕から、赤黒い肉が盛り上がったかと思うと、たちまち全身を包み込んだ。

 腐敗した屍肉にぴったりと全身を包み込まれたルークスは、さながら不格好な泥人形のようであった。


「フヨウ、来るぞ!」


 だが、いっそ滑稽でさえあるルークスの姿に三郎太は正しく脅威を認識していた。

 言い終わるや否や、ルークスが地を蹴った――かと思えば、その姿はすぐ目の前にいた。


「ええい!」


 三郎太の気迫と共に、刃と刃を激しく撃ちつける音が鳴った。


「おのれがッ!」


 気迫と共に放たれた一閃が、ルークスの胸元に迫った。ルークスはそれを、上体を大きく反らすことで躱した。

 当然、そのような姿勢をとれば、体幹は崩れる。その隙を逃さず、三郎太は二の太刀を振るった。しかし、それは、三郎太も腕の痺れを覚えるほどの、剛力によって弾かれた。

 到底刃を受けられる姿勢ではないルークスの右腕が、まるで別の生き物のように蠢動したかと思うと、それを成したのである。


「――ッ!」


 意外な反撃に三郎太の構えも押し崩された。

 間髪入れず、上段から魔剣が振り下ろされていた。

 今度こそ――フヨウにはそう見えたが、三郎太は頭上で剣を受け止めると、魔剣の鋸刃を逆手にとり、それを右に流した。そして、太刀の背に右手を添えて、柄を軸として押し出した。

 切先が、肉人形の首を薙いだ。

 確かにそれは致命傷を肉人形に与えたはずだった。しかし、その刹那に吹き飛び、膝をついたのは三郎太であった。肉人形は、これまた人体には到底できない動きで姿勢を正すや、強烈な回し蹴りを、三郎太の腹部に見舞ったのである。


「三郎太ッ!」


 一瞬の攻防に出遅れたフヨウが、無念を浮かべながら三郎太に駆け寄った。


「崑崙の鎧は、丈夫だの……」


 膝をついた三郎太は絞り出すように言った。

 三郎太は小袖の上に革の胴を付け、袖は籠手で固めており、その上から羽織とインバネスを纏っていた。

 インバネスは先ほど放ってしまったが、革の胴鎧も俄然効果を発揮した。

 いわく、やしろにのこされていた、いにしえより伝わる鎧である。


「さて、試運転にしては上々かな」


 肉人形と化してから、初めてルークスが声を発した。死肉に遮られて、不気味にくぐもった声であった。


「残念だが、もう何のしがらみも無い。ただ、殺すぜ、あんたらをな」

「ごめんなさい、三郎太さん。さっきまではルークスの執念ユメのために我慢していたけど……。――こっちにおいでよ、三郎太さん」


 気づけば、三郎太とフヨウは屍兵によって十重二十重に囲まれていた。

 遂に、彼らが本気を出したのだと、理解すると同時に、惨めさが三郎太の自尊心を貫いた。


――加減をしていたとでも、言うつもりかっ!


 二人であればあまたの屍兵が相手でも対等以上であると、啖呵を切った三郎太に対して、欲望のために、加減をした。ルークスが、ではない。

 三郎太が突き刺すように睨んだのはエリーであった。


――小娘が!


 一人の男児、一人の武士として、十も半の少女ごときに侮られ、軽んじられたことに、三郎太は悪態をついた。

 だがその一方で、三郎太はある種の恐怖が、己の心臓を叩いている事実を、認めないわけにはいかなかった。

 いまやエリーは、かつての狂った町娘ではない。三郎太如きと対峙したのならば、むしろ加減をしてしかるべきな、得体の知れぬ存在となっていた。


「あの屍肉が、筋となり鎧となっておるのか」

「剣を振るう直前に、屍肉が躍動したのが見えました」


 三郎太の呟きに、フヨウが応えた。


「それが、あの俊敏さのからくりか……あの剣、防げるか」

「……むりですね。受けられたとしても、一撃」


 やや間があったが、フヨウは飾らずにそういった。

 受けられて一撃とは、その身を賭して一刀を防ぐという意味であろう。無論、フヨウは死ぬ。


「ならば、俺が奴の剣を止める。お主は、俺について離れず、奴を仕留めろ」

「…………」

「見ての通り、時間が無い」


 周囲は既に獲物を手にした屍兵に囲まれつつある。


「数合と切り結ぶ前に、決着をつけるぞ」


 三郎太は立ち上がると、羽織を脱いだ。


「作戦会議は終わったか?」


 表情は見えないが、間違いなくルークスは嘲弄を浮かべていることだろう。

 三郎太とフヨウが駆けだそうとしたとき、その声は、静かに、そして冷淡に放たれた。


「――なら、死ね」


 ルークスの顔面を蔽う屍肉が蠢き、紅い眼が顔を覗かせたのと、フヨウが三郎太の前に飛び出したのはほぼ同時であった。

 瞬間、フヨウの体が発火した。

 突然の異常現象に一瞬たじろいだ三郎太に比べ、とうの本人であるフヨウは遥かに冷静だった。

 三郎太が見たのは爆発するように湧き上がった水蒸気であった。

 フヨウは急所を庇った代償として燃えた大きな袖を短剣で速やかに斬り離すと同時に、水の符術を発動していた。

 しかし、魔眼がもたらした怪炎は、彼女の常識的な理解をはるかに超えていた。

 微かに残った怪炎が、一瞬、フヨウの右腕を舐めたかと思うと、それは爆発的に燃え上がり、一つの生き物のように、フヨウの細腕を這い上がろうとした。


「――ッ!」


 声を挙げる間も惜しいと言いたげなフヨウの視線が、弾かれたように三郎太に向けられた。瞬間、三郎太の白刃が唸った。


「ほぅ……」


 その判断が正解であることを、ただ一人知っているルークスでさえも、驚嘆の声をあげた。

 三郎太は、躊躇うことなくフヨウの右腕を斬り落としたのである。

 そして、手早くフヨウの止血を手伝うと、そのまま小柄な体を抱えて、ルークスに背を向けて駆けだした。


「逃げるのかッ!」


 ルークスは失望の叫びをあげた。

 三郎太らを追いかける前に、ルークスはちらと背後のエリーを見た。


「…………」


 彼女は、変わらない柔らかな微笑を浮かべていた。

 三郎太の判断も、ルークスの行動も、全て掌中の出来事であると、この世界の主のような態度で、そこに佇んでいた。


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