征軍
「さぁ、いよいよでございますかな! 統領殿!」
かつて無敵の城塞都市と言われたこの都市にも、最期の時が近づいていた。
都市アヴァロンの副統領クレメント・ドラノエが、額の汗を拭いながら言った。
「ううむ! 残念だ、実に残念だ! だが、命のみが、人の形で無いことを、知性なきものどもに教えてやらねば!」
アヴァロン統領、アルフレッド・アングルが力強く振り返った。
都市アヴァロンは険しく切り立った丘の上に築かれ、深い濠に囲まれた鉄壁の都市であった。
だが今や深く広い濠も、高く険しい崖も、魔獣の死体に埋め立てられて陸地と変わり、美しきアヴァロンの城壁には、同朋の橋を渡った魔獣たちが取り付いていた。
「クソッ! 落ちろッ! 落ちろよッ!」
「バカやろうっ、バカやろうっ……母さん!」
兵士たちは城壁の上で懸命に抵抗していた。矢を放ち、魔弩の引き金を引き、長柄を振るう。魔法を放つ余力の残っているものは少なかった。
あの日――大聖女が殺され、『魔』が反乱を起こしたあの日から、一ヶ月。魔群の攻撃は昼夜の区別なく繰り返されていた。
「ガレット! 上だッ!」
「えっ……あァァァァァァッ!」
彼らの敵は、地上を這う獣だけではなかった。空を遊弋する飛竜や怪鳥。狡猾なかれらが突如として火を噴き、毒を吐き、また空に攫いに来ることにも備えなければならなかった。
怪鳥に攫われた兵士の末路は悲惨なものだった。
ガレットと呼ばれた若い男は、空中で数多の怪鳥に群がられ、生きながらにして食われつつ、その残骸を都市にまき散らすことになった。
崖の反対側、城門の備えられたなだらかな斜面では、さらに強力な、魔群の攻勢を支えなければならなかった。
巨石や巨木を抱えた一つ目の巨人達が城門をこじ開け、城壁を崩そうとするのを、彼らはときに打って出ながら阻止しなければならなかった。城門が破られ、城壁が崩されてしまえば、巨人の背後に控える数多の魔群を食い止める術など無い。背後は夥しい魔群の死骸の坂と切り立った崖、正面の攻勢を防ぎきれなかった時、彼らの絶滅が決定する。
アルフレッドが城壁の上から眼下を見下ろした時、一本の粗末な矢が跳んできた。常人からかけ離れた反射速度でそれを掴み取ったアルフレッドが、そのもとに目を遣ると、そこでは、簡易な弓を構える、豚の頭を持った大男が、下卑た笑みを浮かべていた。
「ッ……こやつがァッ! 光輝よ集えッ! 『ライトレイ』!」
憤怒に駆られたアルフレッドが掌中に束ねた光の槍を放った。それに撃たれた豚頭の魔は一瞬のうちに消し炭になった。
「知性なき獣どもッ! この三神の加護も鮮明な、聖なる都市で、キサマらの獣性がまかり通ると思うなよッ――」
「統領、危のうございます!」
クレメントが猛るアルフレッドの肩を掴み、塔の影に押し込んだ。
「あのような、野蛮な存在に、わが民が凌辱されるなど、我慢できぬっ!」
「しかし、しかしでございましょう。統領!」
「……左様!」
自らの頬を叩いて、アルフレッドが立ち上がった。
「獣ども思い知れ、たとえ肉体が犯され、土くれに代わろうとも、我らが精神・知性・文明は、決して滅びることは無い! ――滞りなく処置は終わったのだな!」
「はっ! あらゆる文書、書物は地下深くに収め終わりました。女子供も、地下に入れ、入り口は堅く塞いでおります」
「ならば、もはや、憂いは……無いとは言えぬが、希望は確かに残った。無念はあるが、絶望は無い! さぁ、騎士よ、開拓者よ、アヴァロンの民よ、最後まで戦い、三神のもとへ行こう! ――さぁ、我を殺す魔王はおらぬのか!?」
アルフレッドが城壁の上に身を乗り出した、その時だった。
「『インカーネーション・ジークフリード』!」
喧噪の中を澄んだ声が駆け抜け、光の剣が、水平線を薙いだ。
◆
「何を考えている」
不意に呼びかけられた声に、清浜三郎太は顔を上げた。
「ティアナか」
「あぁ、そうだ。それ以外に、こんな可憐な声の戦乙女がいるか? え?」
「…………」
三郎太はティアナにヴォルフスの義勇兵の指揮を委ねていた。彼女が太祖であることは未だ明かしてはいないが、ヴォルフスの戦を知り尽くした、類稀な統率力を目の当たりにし、彼女がただ者でないことに気付いた者はもはや少なくない。
しかし、ティアナが太祖であることが公になる危険性を考慮しても、ヴォルフスの軍制を最もよく知る者に指揮を委ねることが、俄作りの軍勢を、最も有効的に機能させる方策であると、三郎太は判断したのである。
平原の岩の上に腰を掛けた三郎太は、ティアナの軽口を無視して、再び地図に視線を落とした。
「都市オールドセントラルを避けようとすれば、街道から離れて谷間筋を抜けることになる。谷間で魔獣の襲撃を受けるのも、連合と再び合戦に及ぶのも、どちらも危険が大きい。……何か無いか」
「そうさなぁ……」
ティアナが三郎太の隣に座りながら、地図を覗き込んだ。
「オールドセントラルは保守派の中の保守派。都市民全員が頭の固い爺で構成されているような都市だ。これまでの都市のように、連合に反旗を翻したおまえとアヅマを見逃すようなことは無いだろう」
「だが、連中も魔の脅威にさらされていると聞く。斥候の報告にあっただけで二度、魔獣の襲撃を受けている。夜陰に紛れ、丘陵の影を抜けるのならば、察知したとしても手は出してこないのではないか」
「連中が受けたのは他に比べれば軽微な襲撃だ。そしてだからこそ、私達に憎しみを持っている」
「…………しからば」
三郎太が「だったら代案を出してみろ」とでも言いたげな顔をティアナに向けた。
「……とは、言ってみたものの、私自身はお前に賛成だ。そもそも、お前の中で答えが出ているのなら意見なんて求めるなよ。やってみようじゃないか。往々にして保守の連中は面子を重んじる。よほど近づかなければ知らんふりを決め込むかもしれん。特に、今回ばかりはお前の方針が功を奏すかもだ」
崑崙を出撃した崑崙衆とヴォルフス義勇兵の連合軍は南北に細かく進路を変更しながらも、確実に西方――連合首都に向けて進軍を続けていた。
清浜三郎太は、本隊が都市に近づくことを消して許さない一方で、可能な限り魔獣の襲撃を受けている都市を救う事を命じた。それは補給がおぼつかず、全方位を敵に囲まれた状況にあっては、あまりに悠長であり、そして無理のある行軍のように思われた。
魔獣との激戦を終えたばかりの部隊に、強行軍を強いたかと思えば、閑散たる人の気配のない土地に野営を命じる――通常の軍隊であればあっという間に自壊しているような無茶な命令を、三郎太麾下の軍勢はこなしていた。
「清浜三郎太の軍勢が、魔獣から都市を救いながら西を目指しているという噂は、確実に広まりつつある。この噂は、オールドセントラルの連中の判断にも必ず影響するはずだ。おまえが胃を痛めてまで選んだ選択は、正解だったのかもしれんぞ」
「……痛めておらぬ」
「嘘をつけ、蚩尤から聞いたぞ。夜な夜なあいつに軍議を持ちかけては『拙速を採れば、戦には勝てぬ。だが、拙速を採らねば、首都の者共は危険にさらされる。その間隙を突かねばならぬ。明日もまた、首都の、あの者達が平穏である確証は何処にも無い。だが、今ここで、我らが負け、俺が討たれれば、何もかもが水の泡だ。確実に進まねば、勝てる戦を手配せねば……だが……』」
「妄言!」
「蚩尤なんかに泣きつくのが悪いんだ。崑崙のあいつらならばお前の秘密は確実に守るだろうな。さっきだって、どうせ地図を見ていたのではなくて、あいつらの事を考えていたのだろう」
「……ヴォルフスの勇者が、若い命を賭してアヴァロンを救おうとしているときに、女の事を考える、大将が、何処にいる」
腰に帯びた太刀を、確かめるように握りしめながら、三郎太はそう言った。
◆
数日前、鮮やかな陰陽の旗旄を翻しながら、白鹿に跨った節度使清浜三郎太を先頭に、軍旅は坤平原を西に発った。
三郎太の背後には彼の馬廻を務める夏村衆四〇。春村、秋村、冬村から各々六〇の徒士が続き、その数二二〇。さらにその後方、崑崙衆とは一転軍装を変えてヴォルフス第一~第三騎兵隊が、ティアナを先頭に各々一〇〇騎が揃い踏み。併せて都合五二〇の軍勢が威儀も堂々と歩を進めていた。
沿道にはわずかばかりの崑崙衆が見送りに並んでいたが、その中には、三郎太を幾度となく救った、四人の巫女の姿も在った。
「三郎太さん、これを」
四人の前を三郎太が通り過ぎようとしたとき、クヌギが一口の太刀を、捧げるように差し出した。
「これは……」
三郎太はハリマの足を止めると、目を見開いて食い入るようにそれを見た。
黒漆に塗り固められた拵の、二尺八寸ばかりのその太刀は、紛れもなく善樹が手にしていた大業物であった。
「神威山より逃れたあの日、人知れず車の中に収められていたものです」
「これ、三郎太さんに見せたら、何をしでかすか怖かったから黙ってたんだけど、今ならもう、大丈夫だろ?」
アザミがはにかみながら言った。
三郎太は手に取った太刀をすらりと抜き放ち、自らの眼前に刀身を立てた。
地金は板目に柾がかり、刀文は湾れ刃、帽子は焼詰。
千手院の一口が、時代を超え、意思を継ぎ、三郎太の手の中で鈍く光っていた。
三郎太は背後の軍勢に向けて、先に進むように促してから、四人をじっと見下ろした。
三郎太は、今度もまた彼女達を置いていくのだった。
陣立に加えないことを告げられたとき、彼女達は不平不満を漏らすことも無く、粛々とそれに従った。
もはや、彼女らの心の、分からぬ三郎太ではない。
ただでさえ夏村の仲間達――マツリにしてみれば唯一の肉親である叔父――を亡くした戦いの直後である。加えて三郎太を死地へ見送る心境は、うぬぼれでなくとも察しが付くというものだった。
しかし、だからこそ、三郎太はこの道を採った。
三郎太は一人一人の姿を目に焼き付けると、ただ一言、
「行って参る」
と、短く告げて、ハリマを走らせたのであった。
◆
「やれやれだ、お前の病気がついにあいつらにも伝染ったんだ。見せつけてくれる。私はモノを言わないことを必ずしも美徳だなんて思わないからな」
呆れたように、ティアナが言った。
「――と、言うわけで、どうしてあいつらを置いてきた。惚れた女を死地に置きたくないというのは分かるが、お前の事だ、それだけではないだろう」
意地悪く、覗き込むように問うティアナに対して、三郎太は顔色一つ変えなかった。
そして、太刀を僅かに引き抜いて、その刀身を覗き込みながら、言った。
「見込み違いだぞ、ティアナ。あの巫女達が、戦場で死ぬるはずがない。戦陣に加えれば、無双の働きをするだろう」
「なに?」
「おなごは家を守るものだ。そして、帰るべき場所に、待ち人がおらぬのでは、帰り甲斐が無いではないか」
一瞬、面食らったようにティアナは黙ったが、すぐに破顔すると、嬉しそうに呟いた。
「はは~ん、貫くものだな。お前も」
「……与太話は終わりだ」
不意に、三郎太が立ち上がり、遠くを見るように目を細めた。
「――ん、あぁ。帰って来たか」
二人が眺めた方角には、都市アヴァロンがある。彼の地を救いに出た。ヴォルフス第一、第二騎兵隊が戻ってきたのである。
「馬の脚が速い。悪い知らせかもしれんぞ」
「吉報だからこそだ」
三郎太は、断固として言った。
「ほう、なぜそう言いきれる」
「人を見れば――分かる」
◆
「ハッハ―! 第一、第二騎兵隊、見事アヴァロンを救出して堂々の凱旋だ!」
先頭を駆けていたクリストフが、砂ぼこりを巻き上げながら馬を止めると、拳を突き上げながら叫んだ。
クリストフは迎えに出た三郎太の姿を認めると、自信ありげな笑みを深めてから言った。
「怪我人こそ出たが誰も死んじゃァいねぇ! 魔人を二人討ち取って大勝利だ!」
どうだ見たかと言わんばかりに胸を反らして鼻を鳴らすのはクリストフだけでない。エミーリア、フィーネ、アルフレートも同様であった。
が、しかし――
「復命は下馬ののち為せ! たわけ!」
直後に三郎太の鋭い叱責が飛び、クリストフら四人は転がるように下馬する羽目になった。
それからしばらく、三郎太はアヴァロン救出の報告を受けた。
「――っつーわけで、アヴァロンの統領から義勇軍の申し出がされている。俺たちと一緒に『魔』と戦いたいってさ。とりあえず鉄仮面が向こうに残って算段を付けているが――」
「不要だ」
「は?」
「義勇軍など、必要ない」
三郎太は取り付く島もなく、一方的に申し出を斬り捨てた。
「はぁ!? なんで」
「節度使殿。我らが見た彼らの思いは真に国を……人の世を憂えるものでありました。もしも、連合のスパイを疑って彼らを軍勢に加えないのであれば、それは見当違いであると、小生は愚考しますが……」
クリストフとアルフレートが反発する。
三郎太は渋面を作りながら答えた。
「連合を構成する都市が、この軍に参加することの意味が分からぬか。我らの目的は魔を祓うことであり、連合を二分することでも、現政体を崩すことでもない」
「だけど、それを言うなら私達だって……」
エミーリアが含みを持たせて呟いた。
「無論、お主らの援軍は、俺にとって至上の救けになると同時に、連合とヴォルフスの間に、致命的な決裂を生む可能性を秘めたものであった。だが、だからこそ、お主らには涙を呑んで、旗差物を含め、ヴォルフスとわかるもの全てを処分してもらったのだ。世に騒乱をもたらすことは、本意ではない」
「…………た、確かにね」
「それになにより――」
三郎太はちらとティアナの方を見た。
「――兵站が持たぬ。五〇〇の軍勢を、真っ当な補給で維持するのすら限界なのだ。これ以上、軍勢が膨れ上がってみよ、我々は、略奪紛いの現地徴発を続けねばならなくなる。それは、まずい」
三郎太の言葉に、四人全員が沈黙していた。
三郎太は、意気揚々と出征したはいいものの、それからずっと、軍勢を維持することの困難さに頭を悩ませていた。
兵站については全くの素人であり、知識も実践も足りない三郎太は、ティアナとアデーレにそれらを任せていたが、一軍を預かった以上はそれらにも気を配っていた。
「アヴァロンからは、馬草と糧食の提供のみを受けよ。争いの中で、武器や魔石を消耗したものは申し出て、同時に補填するように。――そもそも斯様なことは、アデーレも十分に承知しているはずだ」
「…………」
「あれはろくでもない女だが、能力は確かだ。よく連携を取れ」
三郎太はそこまで言ってからはたと気づいた。
四人の――いや、ヴァルキューレを含めて五人の顔が不満一色になっていることに。
そもそも二個騎兵隊という少数精鋭を以て、魔群に包囲されたアヴァロンを救出するという困難な命令を与えたのは三郎太である。それを見事、死者も出さずにこなしてみせたのは、紛れもなく四人の勇者と、彼らを祝福する優しい魔人である。労いもせずに、説教を浴びせるのは、良将のすることではない。それに気づいた三郎太は、驚きつつ、狼狽えた。
「……しかし、お主らの比類なき働きは確かだ。アヴァロンへの使いには他の者を回す、ご苦労だった。お主らは十分に休め。――そういえば、魔人を二人討ち取ったというではないか」
三郎太の言葉に、ふと、五人の雰囲気が和らいだ。
「倒した魔人のことなら、こっちに来て」
エミーリアの案内に従い、三郎太は立ち上がった。
「魔人の名はバーバヤガとキキーモラ。バーバヤガはクリスとエミーリアが、キキーモラは私とアルフレートがぶちのめしました」
フィーネが言った。
「苦労したぜ、こいつら二人が魔群の指揮を執ってたんだが、ふらふらとかき消えるように動いて攻撃が当たらねぇんだ。だがこいつらを始末したら他の魔獣共もさっさと散りやがった」
案内された荷車には二人の女性が横たえられていた。
一人は六十か七十に見える老婆であり、一人は二十過ぎの村娘のようであった。
「老婆がバーバヤガ、若いのがキキーモラです。そもそもバーバヤガは北方の凍土近くで目撃証言の多い魔人です。旅人を助けたり、必ずしも人に危害を加える魔人ではないはずですが……ともかくも今回、彼女は魔群に就いたようです。長命であるだけに、狡猾で、類まれな魔法の実力を持っていると考えられていました」
「……詳しいな」
「わ、私は学校に通っている間は図書委員でしたのでっ、その、本で読んだだけの知識ばかりですっ!」
フィーネは赤面しつつ三郎太に答えた。
「十分だ。俺は此方の魔人共について、何も知らぬ。どんな簡単な情報でも良い。敵対する魔人が分かれば、すぐに俺に知らせ。」
三郎太は言いながら、魔人の死骸を眺めた。
「しかし、見事なものだな。魔人を、二人もか」
誰にも聞こえぬように、三郎太は呟いた。
果たして己は、これから先、一人の魔人を相手にしても、それを討ち取ることが出来るだろうか。
死骸を前にしても、肝が冷えるような己が、果たして北竟大帝に打ち克つことが出来るだろうか。
「全く、あんたにも見えてやりたかったぜ。相変わらず『幸運のエミーリア』がやらかしてくれたんだ。妖怪婆に足ごと地面を凍り付かせられたから、凍り付いた地面を丸ごとぶん殴って逃れたんだが、そしたら今度は割れた地面から温泉が噴き出しやがった。妖怪婆が温泉を使って氷の魔法を連射してくるんだから参ったぜ」
「ちょっと! それは私のせいじゃなくない!? あんなタイミングよく温泉が湧くのはあまりにも不幸が過ぎるとは思うけどさ……。それでもあくまで偶然だって、私のせいじゃないって!」
クリストフの軽口を契機として、空気が弛緩し、若者らしい明るい雰囲気が場を包み込んだ。
三郎太も、思わず頬を緩めそうになった――その刹那。
「――ッ!」
爆発するような気迫と共に、三郎太が跳んだ。
振り返った五人が見たものは、起き上がり、鉈でアルフレートの背後を狙った村娘――キキーモラを、誰の目に留まることも無く、抜き打ちの一撃で、頭蓋から腰下まで切り下げた三郎太の姿だった。
「――キキキ……クケケケケケ!!!」
身体を両断されたキキーモラから奇妙な声が響いたかと思うと、魂が乖離するかのように、鳥の頭を持った奇妙な魔人が、村娘の背後からぼんやりと飛び出した。
「なッ! こいつら生きてやがったのか!」
驚愕するクリストフの声が終わる前に、三郎太の太刀は、跳ね上がるように持ち上がったバーバヤガの上半身を薙いでいた。
確かに、千手院の太刀が老婆の死骸を断ち切ったかと、誰の眼にも見えた。だが、老婆の死骸はゆらりと蜃気楼のようにゆらいだかと思うと、何事も無かったかのように宙に浮いた。そして、傷だらけの顔面を歪めて哄笑した。
「カカカ! 北竟大帝の坊やが怯えるからどの程度のものかと思ったが、この程度とは! 効かぬ、通じぬよ、勇者殿! 少なくとも、その程度の剣ではの!」
「キキッ! キキッ! 面白イ! 混沌ハ面白イ!」
「おいッ! あれはッ!」
「…………」
老婆の背後で、鳥頭の魔人が嗤う。
いつの間にか、その手には、ヴォルフスの旗が握られていた。
「旗は処分しろと伝えたはずだぞ!」
「知ってる! だから全部燃やしたんだ。なぁエミーリア!」
「…………」
エミーリアから返事は無い。その代わりに、滂沱のような冷汗が彼女の顔面を滝のように伝っていた。
「おい」
「ごめんなさい三郎太! 陛下から貰った旗なの! どうしても燃やせなくて、荷車の馬草の底に隠していたの!」
「たわけ! この律義者!」
罵声とも称賛ともつかぬ言葉を浴びせつつ、三郎太はキキーモラに斬りかかったが、宙に浮かんだバーバヤガとキキーモラの姿は、霞のように薄まって実態を失い。三郎太の剣が届くことは無かった。
「キキキ! 面白イ! 大戦争ハ、大混乱ハ、面白イ!」
「並び立つときが来るのなら、また会おう、若造共!」
二人の魔人が消え失せると同時に、沈黙が場を支配した。
それを破ったのは、「すまん、ちゃんと視ておけばよかったんだが」というティアナの一言だった。
「……過ぎた話だ」
「言うまでもないだろうが。あえて問う。アイツらが盗っていった旗は本物だな」
「…………」
ティアナの問いに、コクンとエミーリアが申し訳なさそうに頷いた。
「ならば、皇帝一家しか取り付けられない刺繍がされているはずだ。当然、連合の、しかるべき人間はそれを知っているだろう。――三郎太」
「分かっている」
反乱の将。清浜三郎太の軍勢にヴォルフスが加勢しているという噂は、証拠と共に電光石火の速さで各都市を突き抜けることだろう。
それはこれから三郎太達が突破しようとしているオールドセントラルも例外ではない。
保守派の巨頭であるかの都市が、外国の軍勢を引き連れて、反乱を起こす三郎太を許すはずがない。彼らは何としてでも三郎太を阻むことだろう。
オールドセントラルの領地を抜けることは不可能となった。それに、魔群の指揮官に動向が掴まれた以上。魔獣の生息地である谷間を抜けることもできない。
三郎太は、第三の道を執るより他なくなった。
「全軍に告げよ! アヴァロンとの接触が済み次第、転身、南へ進む!」
大きく迂回し、それから西――連合首都へと進む。この道の障害となるものは、時間と、兵糧のみであると、この時の三郎太はそう思っていた。
◆
これはほんの幕間。三郎太らが南へと道を転じた夜の事である。
ヴォルフスの勇者とその戦乙女は一つのテントの中でカードゲームに興じていた。
「さぁ覚悟しなさいクリス! 『化猫オスカー』でクリスの城に直接攻撃!」
「甘いぜエミーリア、俺が場に伏せていたのは『ビッグデザートワーム』。攻撃してきたピースを破壊し、そのピースの攻撃力分のダメージを相手の城に与える!」
「恨むなエミーリア。小生もカードを発動『ネバーレイン』。このターン破壊されたピースの攻撃力分のダメージを、ピースの持ち主の城に与える。……これでエミーリアの城の耐久値はゼロだ。ふっ……チェックメイト」
「うぎゃああああああ!」
無慈悲に敗北を告げられたエミーリアが頭を抱えて叫ぶ。
「……大丈夫。エミーリア」
項垂れるその肩に手を置いて、優しく呟いたのはヴァルキューレだった。
「『戦神の導き』。ピースを破壊する効果を無効にし、破壊されるはずだったピースの攻撃力を倍にする」
「ナイスよヴァル! オラァ! 今度は『化け猫オスカー』で『ビッグデザートワーム』を攻撃! 超過ダメージでクリスの城は崩壊!」
「ぎゃああああああ!!!」
「あ、じゃあ私もカードいいですか?」
クリスの絶叫を何事も無かったかのように受け流しながら、淡々とフィーネがカードをめくる。
「『突撃投石隊』。ピース一体を破壊し、その攻撃力分のダメージをプレイヤー一人に与えます。『化け猫オスカー』を破壊。そして……」
視線はアルフレートに向けられている。
「ふっ……チェックメイトか」
アルフレートが眼鏡を持ち上げながら敗北を宣言した。
「イェーイ! 今度も私たちの勝ちー!」
「っつーか、このゲームじゃ三対二は絶対俺たちが不利だろ」
「男女対決で良いって言ったのはそっちじゃん。ねー、ヴァル。負け惜しみなんてみっともないよねー」
「…………敵より多くの戦力を用意するのは勝利のための常套手段」
「ぐぬぬぬぬ…………――ッ!?」
その時、ふとテントの入り口が揺らいだ。風に揺らいだにしては不自然であった。全員が腰を浮かし身構えた。
夜は魔の世界である。彼らのテント周囲には他にも多くの仲間たちが宿営を張っているが、だからと言って油断はできない。
取り逃がした二人の魔人の事もある。魔群がどのような手段で害を為してくるか、想像できる範囲の、そのはるか先を予測しなければならなかった。
「世にハクラクあり、然る後――」
クリストフが決められた合言葉を呟きつつ、魔力刺突杭(パイルバンカ―)を構えた。返事が返ってこなければ、必殺の一撃を見舞うつもりであった。
他の四人もそれぞれ獲物に手をかけ、緊張が狭いテントに充満した。
「――千里の馬あり。……俺だ」
気まずそうな顔で顔を覗かせたのは、他でもない、彼らの大将。節度使清浜三郎太であった。
「……な、何か用かよ」
意外な人物の登場に、ヴァルキューレを除く四人の表情が硬くなる。
「構うな。楽にせい」
そう言いながら三郎太は腰を下ろしたが、四人の表情はますます戸惑いの色を濃くしたのみだった。
夜更けに太刀を提げた男が寝所であるテントに入り込んでくればそうなるのも無理はなかった。
「此度のアヴァロンでの働き、見事であった。報いるべき恩賞も無いが、礼は言わせてくれ」
「あぁいや、戦ったのは私たちだけじゃないし、自分で選んだ道だから……」
「いいっていいって辛気臭い。これから先、俺たちが活躍するたびにそうするつもりかよ」
エミーリアとクリストフの背後で、いそいそとカードを片づけていたアルフレートとフィーネが言う。
「それで、節度使殿は一体何のようで……」
「うるさかったのならごめんなさい。もう寝ますのでおやすみなさい」
「長居はせん……お主らとは、少し話をしてみたかったのだ。お互いに、もはや明日をも知れぬ身だ」
「…………」
「本来ならば、お主らにも、皆にも、酒でも振舞うべきなのだろうが……生憎と、片時の油断も許されぬ行軍だ」
「でも、こんな旅でもなきゃ、俺たちは出会っちゃいないぜ」
「道中。苦労があったろう」
「まぁな。黒くてデカい空飛ぶトカゲとの大立ち回りだ」
「クリスなんて竜の口に上半身を食べられてたのよ」
「ありゃあ自分で突っ込んだんだ! きっちり止めたんだからいいだろ!」
「黙っていたが、あれからしばらくの間ずっと生臭かったぞ、クリス」
「なんなら今でもちょっと匂うかも……」
「ふつうに傷つくからやめろ!」
四人の竜退治の思い出話が終わるころ、アルフレートがふと思い立ったように言った。
「そう言えば。節度使殿はアデーレ殿と皇帝陛下と面識があるようですが……」
「うむ」
「前から気になってたんだが、あんたらいったいどういう関係なんだ? あの鉄仮面、普段全然笑わないくせに、あんたの話をする時だけは薄ら笑いを浮かべるんだぜ」
「なに、大した関係ではない」
三郎太の口元に、薄ら笑いが浮かんだ。
「あやつとは剣を交わしたことがあり、最終的に俺が勝ったがために、負けず嫌いのあやつが俺に執着しているに過ぎぬ――」
それから三郎太は自らの旅路に軽く触れながら、ヴォルフスでの出来事を――太祖追放を除き――語った。
「――あやつの魔法は……身体作用と言ったか。全く気配の消える奇術であったが、左様な子供だましの芸は、俺には通じなかった。剣の道は心技一体。五感に惑わされず、戦うことも可能であらねばならぬ」
「だけど、それだけであの冷血鉄仮面に勝てるのですか? 聞くところによると、魔法が全然使えないのだとか――」
フィーネが尋ねたそのとき、三郎太の目が一瞬見開かれたかと思うと、銀閃とともに、一陣の風がテントの中を奔った。
次の瞬間、五人は、いつの間にか三郎太が抜き身の白刃を手にしていることに、目を見張った。
「確かに俺は魔法が使えぬ。だが、これだけは天下の誰にも引けを取らぬ――その蝋燭の半ばを、持ち上げてみよ」
言われ、クリストフが室内を照らしていた蝋燭を慎重につまんでみると、
「お、おぉ……!」
蝋燭は上から三寸ばかりのところで切断されており、火を灯したまま易々と持ち上がった。
「…………」
「なるほど、魔人を斬りつけた技も恐ろしい速さと思ったが……」
「い、一芸に秀でることが必ずしも良いことだとは思いませんけどね!」
呆然とするエミーリア。アルフレートとフィーネはどこか悔しさを帯びた口調で言った。
「すげぇ……すげえよ三郎太!」
クリストフが興奮に肩を震わせながら叫んだ。
「そうだ、これだよこれ。一つの技を極める……これが俺の目指すものじゃねえか……!」
クリストフが魔力刺突杭を握りしめながら独り言ちる
「それしか使えぬ。だからそれを極める……。だが、それはつまり、不足を不足のままとすることでもある。それを補ってくれる同士がいるのなら、そのこと決して忘れてはならぬ」
「言われるまでもないわね。クリス」
「あぁ。それにあんたにだっているんだろ。あんたとずっと一緒にいたっていうヴォルフス人や、ちょこちょこ動き回ってる崑崙のガキ」
「…………アデーレ、あやつも今は、俺の不足を補ってくれている。あやつのおかげで餓えずにすんでおる。剣の腕では俺が上だが」
「まぁアレを見せられれば、それは確かに」
「小生も早業に命を救われた身だ。異論はない」
あの二人に関して、三郎太が素直な心情を吐露するはずもなかった。
誤魔化す様に三郎太は話を逸らした。
「……お主らは、あやつの事を随分と恐れているようだが、俺にしてみればそれが分からぬ。最初に猪を斬った時も、鵺の化物と戦った時も、脱獄の折も、あやつは終始狼狽し、俺に敵愾心を見せていた。無論、最後の斬り合いは、陛下に止められたからこそ決着を見ていないが、俺の剣があやつの頭蓋を割っていたことは言うまでもない。勿論あやつはあやつで確かに腕が立つ。俺よりも器用で、助けられたことも多い。しかし俺に勝てぬことだけは認めるべきだ。それをあやつは未だに――」
称賛に気を良くした三郎太は、それからしばらくの間自慢げに話を続けたのだった。
一方、盛り上がる五人を優しく眺めていたヴァルキューレは、三郎太の大言に呆れたように「あまり大きなことを言うと……知らないよ」と言って横になった。
そして、あくび交じりに「でも、そういう勇者だものね」と、誰にも聞こえないように呟いてから瞼を閉じたのだった。
◆
――柄にもなく、長話をしてしまった。
三郎太は、白熱した議論に紅潮した体を冷ましながら、自らの天幕へと足を運んでいた。
かれらのもとへ自らを明かしに行くことに、躊躇いが無かったわけでは無い。
成り行きのままにヴォルフスに居た頃の話をすることになったが、その甲斐はあった。
――善樹よ、マリアよ、見ているか。俺は確かに眼を開き、語り、聞いたぞ。きっと、俺も、あやつらも、互いに導かれ、そして導きあうのだろう。
暗い空を、いつか善樹と禅問答のような会話をした、暗い空を眺めながら、今も心を照らす、二人の聖者にむけて語り掛けていた、その時だった。
「……随分と、楽しそうに……おしゃべりをしていましたね……」
首元に冷たいものが触れると同時に、そう声がかかった。
「『あやつはほとんど俺に勝てたことはなかった』『異常者だが切羽詰まった時の反応は常識人の範疇を出ない』『愛想が悪い』『実は女中の中で孤立していた』『ぶっちゃけ竜退治では働いてなくないか?』…………」
「……おい、アデーレ」
「よくもまぁありもしない事実であそこまで盛り上がれるものね」
「最後のは知らぬぞ。それよりお主、例の魔法を使っているな。斯様なところで……」
「あの子たちの、隣なのよ。私のテント。全部、聞こえているのよ」
「…………許せ。少しばかり、はしゃいだ」
「許しません」
翌日、ヴォルフスの勇者たちは、片頬を腫らした三郎太の姿を見た。
◆
「あぁ……いい夜ね……」
その夜、清浜三郎太と同じ空を眺める少女がいた。
「何が見えるんだい?」
ルークス・スクローイが、まだ冷たい夜風から少女を守るように、その肩にショールをかけながら、囁いた。
「だって、あんなにも空が割れているのだもの。彼は来るわ……必ず」
少女の指し示した夜空には、大きな亀裂が走っていた。
その亀裂から、茜色が、黄昏が、顔を覗かせていた。
杞人の憂いが現実のものとなったような、押しつぶされるような絶望。身の毛もよだつ光景がそこにあった。
「それならよかった。君の願いは叶いそうだね」
「ええ。だけど、貴方の願いは?」
「心配はいらないよ。君の願いが叶うのなら、その時すでに俺の願いは叶っている」
「そう、それならよかった」
真新しい死体に溢れた町の広場の中心で。血まみれの二人は穏やかにほほ笑んだ。




