出師表
「だあぁっ! クソっ! こんなことなら『幸運のエミーリア』サマになんてついてくるんじゃなかったぜ!」
森の中に、クリストフ・ミュラーの絶叫がこだました。
「なによっ、そっちが勝手についてきたんじゃない! 『とりあえずエミーリアについていけば主人公補正でなんとかなりそうだな~』って言ってたの、覚えてるんだからねっ!」
隣に並んで、激しく言い返すのはエミーリア・リヒテルであった。
今、彼、彼女らは森の中を通る一本の細道に馬を全力で走らせていた。
先頭を走るのはクリストフ曰く『鉄仮面』のアデーレ。この開拓団の代表でもある。
およそ三週間ほど前、ヴォルフスのハーゲンハウゼンより出発した三百人の『羊飼い』たちは、無事、法を犯して国境を越え、東進の途へと就いていた。
初めの一週間は離合集散を繰り返しつつ、キャラバンや流れの大規模クランを装い、なんとか連合の目を誤魔化していたが、ついに二週間目に入るとそれも通じなくなり、ついに追手が差し向けられるに至った。およそ一週間のあいだ、連合の精鋭を相手に決死の逃避行を敢行し、なんとか交戦に至らずして追撃を撒いたのがつい先日の事だった。
普段からカンペキ超人を演出している、クールぶった貴族の秀才アルフレート・フォン・ハヴェックが、砂ぼこりにまみれたご自慢の眼鏡を拭いながら、
「小生は、計算を間違えた」
と、疲れた顔で言っていたのを、クリストフは鮮明に覚えている。クリストフ自身、魔獣によって全都市が脅かされているはずの連合の、どこにこんな力があるのかと呆れ半分に感心したものだった。
「二人とも、言い争っている場合ではないぞ!」
「上っ! ちゃんと見なさい!」
そのアルフレートと、彼の傍を走るフィーネ・ブランケが二人の背後から声を挙げた。
応じて上を見るよりも先に、クリストフとエミーリアはそれぞれ左右に跳んだ。一拍遅れて二人がいた場所に火球が着弾した。
「っぶね! 後ろ、だいじょうぶか!?」
「この程度、小生には通じない」
「あちちッ……! わ、わたしも!」
彼らの上空を悠々と飛翔するのは、一体の魔。
漆黒の鱗に覆われた肉厚の巨体に、やはり漆黒の羽を広げた三つ首の黒龍『ズメイ』
連合の追手を撒いた彼らのもとに、間髪入れずにあらわれたのがそれだった。
「三〇〇を三隊に分けて、そのうえ『幸運のエミーリア』についてきたのに、どうしてこんなに不幸な目に遭うんだぁぁッー!」
「クリスうるさい! あと『幸運のエミーリア』って呼ぶのやめてってば」
「そもそもクリス、それはお前の誤りだ。『幸運のエミーリア』はありとあらゆるトラブルと不運を呼び込んでおきながら、一人いつも無事であることから名づけられた称号であって、周囲を幸運にするわけでは無い。証拠に、小生も今、人生で一番不幸な目に遭っている」
「あーもうやめて! それ以上イジメないで!」
男性陣の容赦のない攻撃に、ついに涙目で叫ぶエミーリア。そこに再び火球が落とされた。
「このトカゲ野郎、今すぐ撃ち落してやるッ!」
クリストフはそう言いながら右の手首あたりに手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴んだ。
「しまった! 変装のために相棒は荷車に入れたんだった!」
「あんな奇抜なものを武器にしてるからそうなるのよ」
「だったら、フィーネ、お前がなんとかしろよ! 得意の増幅魔法で!」
「イヤです。魔石には限りがありますから」
「ちィッ!」
分かり易く舌打ちをしたあと、クリストフは先頭を走るアデーレに視線を向けた。
「てっか……じゃない、アデーレ団長! どうするんですか、これ! このままじゃ俺たち全員、あいつの腹ンなかですよ!」
呼ばれたアデーレは、返事をする代わりに、ちらと斜め後ろを見た。
そこには、頭からすっぽりとローブを被った少女がいる。四人や背後を走る百人と同じく、馬に乗った彼女の顔は、ローブの影に隠れてはっきりとはうかがい知れない。しかし、それはこの状況が常と変わらない事を意味している。
「あなた達の女神は、この程度、なんとも思ってないようだけど」
「……おい、ヴァル」
「ヴァル……」
クリストフとエミーリアが、ヴァルと呼ばれた少女の傍に並んだ。アルフレートとフィーネも、不安そうに少女を見た。
ヴァルは、かれらに向けてははにかむように笑顔を見せると、
「大丈夫。あなたたちは、負けない」
と、言った。
かれら四人の運命は、この少女を軸にして進んでいた。
ある日、ある時、かれら四人はそれぞれに少女に出会い。それぞれが宿命を知り、やがて少女に導かれるように結集した。
それは、国家や法からすれば許されない道であるとは知りながら、かれら四人は『勇者の道』を進み、『魔』を倒して世界を救うのだと誓い合った。
三週間ほど前、突如として四人とも近衛に軟禁され、ヴァル――ヴァルキューレまでもが鉄仮面のアデーレに捕まった時には、この願いも、国家という巨大な力を前にしては叶う事はないのだと、絶望にくれたこともあった。
だが、皇帝とアデーレはかれらに向けて、開拓団として東方に赴くことを、そして、勇者として魔王と戦うことを命じた。少女はその時も、今と同じように、はにかみながら言ったのだった。
「あなたたちなら大丈夫。わたしの勇者。あなたたちは、負けない」
だから、アデーレや皇帝、国家というものが何を企んでいるかとは無関係に、かれらは進むのだった。ヴァルキューレという優しい魔人がかれらを信じ、かれらとともにある限り。
◆
「それで、ほんとうにやるのね」
「ええ、やりますとも」
「何度も聞かんでください、代表。このまま森の中で蒸し焼きはごめんでしょう」
アデーレの問いに、エミーリアとクリストフがゆるぎない決意とともに答えた。
開拓団が小道から外れて、森の中に散開してから三時間が経つ。
二人が木陰から睨んだ青い空には、今でも黒龍ズメイが遊弋している。森に散らばった開拓団の姿を見失ったためか、それとも、森から出てきたところを蹂躙しようと企んでいるためか、ズメイはさながら空の王者のごとく、ときおり火球を吐きながら悠然と旋回を続けていた。
「あいつをぶち落とさなきゃ、この先安全には進めません」
フィーネが言った。
幸いなことに、ヴォルフスを発った開拓団は、これまで怪我人こそあれ、脱落者を出していない。分かれた他のルートを進む仲間達も、きっと順調に進んでいるに違いないと彼らは信じている。
「それにヴァルが言ったじゃないですか。俺たちは、あんなトカゲ野郎には負けないって。つーことは、戦って倒す以外の未来は無いってことでしょ。――な?」
振り返ったクリストフが、ヴァルキューレの顔を覗き込む。ヴァルキューレが微かにほほ笑んだ。
「――しっかし、それにしたってしつこいな」
ズメイに空を立ち去る様子は一向に見られない。
龍種は、他の魔獣に比べればはるかに知能が高い。人語を介すものもあり、そういった種は特にプライドも高いことでも有名だ。しかし同時に彼らはしたたかで、人の脅威というものも十分に理解している。自らの棲み処が侵されたわけでもないのに、このような執着を見せるのは異様であった。
「私達を、この先に行かせたくない何かがあるってことでしょう」
アデーレもまた怪訝そうに空を睨んで、言った。
「…………」
エミーリア、クリストフ、フィーネの三人が、一様に深刻な表情に立ち戻って、沈黙した。
かれらが同時に考えたのは、自分たちが東方――連合へと送り出された理由であった。
かれらを導いたヴァルキューレは言った。「魔王清浜三郎太を討て」と。清浜三郎太は実際に連合に、いや世界に反旗を翻し、連合もその追討に動いている。かれらはヴァルキューレの正しさを信じていた。
しかし、かれらを率いるアデーレは明言こそしないものの、彼女と皇帝陛下は清浜三郎太を信じているらしかった。
そして、暗にヴァルキューレが間違っているとでも言いたげなアデーレに対して、かれらは少なからぬ反感を覚えていた。ヴァルキューレが捕らえられた時、アデーレが彼女にしたことを、かれらは知っている。
以前、かれらは、清浜三郎太とはいかなる人物であるのか、聞いたことがある。
その時、アデーレは言葉少なげに答えた。
「面倒な男だから、あまり期待しないでおきなさい」
アデーレは一瞬、なんと答えたものか、困惑を見せていたが、その言葉には、親しみが込められているように、かれらには聞こえた。
そのとき、四人が彼に抱いた印象は様々であった。
――何が正しいかを見定めるのは、ヴァルじゃなくて、私。私が正しいと思った方向にみんなを連れて行く。誰一人欠けることなく、何一つ失うことなく、世界を救って見せる。
エミーリアは勇者である己を自覚し、
――どこのだれかも分からないおっさんに、俺たちが振り回されてたまるかよ。そいつが何者であれ、俺の仲間を傷つけるようなら、その場でぶっ飛ばす。
クリストフは己を託すに値する、その仲間を至上としていた。
――ノブレス・オブリージュ。貴族に生まれ、勇者と呼ばれた。ならば、世界を救うことも、陛下の命を遂げることも、国家に尽くすことも、すべてやり遂げてみせよう。清浜三郎太が何者であろうとも、清濁併せ呑み、矛盾など起こさない。起きたとしても、丸ごと飲み干してみせよう。
如何なる状況にあっても、アルフレートを突き動かすのは貴族としての務めであった。常に自らに重荷を課し、常に切磋琢磨してその荷を克服する。今度も彼に迷いは無かった。彼は知る由もないが、その覚悟は清浜三郎太のそれに似ていた。
――私は弱く、未熟だ。だから私は私の信じる仲間を信じる。私は地味だ。他の誰に比べても特筆すべき能力はない。三神より授かったのは増幅の力だけ。しかし、ならば、私は徹しよう。日の当たることを望みはしない。私は私が認めた英雄を助ける、ただこの道を突き進もう――。
フィーネ。彼女の定めた自虐的な決意は、彼女の仲間の誰もが気づいており、称賛とともに心中の敬意となっていた。誰かが聞けば。「あっぱれ! その道を行くならば、王佐となれ!」と、喝采していたことだろう。
三人が表情に影を落とすなか、アルフレートは黙々と地面に小枝で何かを書き込んでいた。
「――うむ。やはり、何度計算し直しても間違いはない。完璧だ」
そして立ち上がると、眼鏡をくいっと持ち上げながら、言った。
「この数式が、黒龍を屠る」
「おせーよアルフレート、カッコつけん――ナァ゛ッ!」
茶化そうとしたクリストフのむこうずねをフィーネが蹴飛ばした。
「そう、だったら、始めましょう。――龍殺しを」
フィーネが上空に投げた光の魔石が合図であった。
森に散らばった開拓団のうちの一隊が、大声を挙げながら、荷車を叩き、鐘や鼓を打ち、木々を揺らした。
上空のズメイが首を捻って騒音を睨んだ。意味のない抵抗を鬱陶しく思っているのか、緩慢な動きで向きを変えたズメイは、騒音の源に向けて火球を続けざまに吐いた。
火球が着弾するや火焔が立ち昇り、荷車が焼けたが、開拓者たちは既にその場を去っており被害は無かった。
続けて、再び別の場所から騒音が鳴った。今度は矢までも打ち上げられた。やはり、ズメイは巨体を翻すと騒音を黙らせるべく火球を吐いた。
そうしたやり取りが七度繰り返されたところで、アルフレートが片手を挙げて合図をした。
フィーネがつがえた矢を空に向けて放った。矢の先端には鏃ではなく、光の魔石が取り付けられている。フィーネの魔法で威力の増幅された魔石は、小太陽のような一際大きな閃光を空に解き放った。
たちまち、黒龍ズメイの関心は光のふもと――彼らに注がれた。ズメイの眼に剣呑な光が宿った。閃光はズメイの眼を灼くことはなく、ただいたずら彼の怒りを買っただけのように見えた。
「さぁ、今だ! 走れエミーリア、クリス!」
アルフレートの声に応じて、エミーリアとクリストフが馬を駆けさせた。
かれらは森の切れるすぐそばにいた。森から飛び出した二騎の姿はたちまちズメイに捉えられた。
ズメイは瞳に怒りを滲ませながら、大きく翼を羽ばたかせると一目散に二人に向かって飛んだ。奇妙なことに、ズメイは火球を吐かなかった。
「ふっ、やはりな」
アルフレートが、得たりとばかりに眼鏡を押し上げた。
アルフレートの策が当たったのである。ズメイは森に隠れた開拓団の陽動にまんまと嵌り、火球を放ちすぎたがために魔力切れを起こしていた。
「でもやはり、奇妙ね」
アデーレが呟く。アルフレートも頷いた。
「露骨な陽動に加えて、これでもかとばかりに輝かせた魔石の合図。龍種ならば、たとえ下級の飛竜であっても、何らかの企みがあると察しがつくはず。魔力切れを起こしているのなら猶の事。不審に思って逃げることもあり得ると思っていたのですが……」
「これほどまでの執着。あの二人に対しては特にそれが激しく見えるわ。まるで、誰かにそうしろと命じられたみたい」
皮肉気な笑みを浮かべるアデーレに対して、フィーネがおずおずと問いかけた。
「それは……やはり魔王は、わたしたちが決戦の場に現れることを恐れていて、それを阻止しようとしていると……?」
「恐れるがために阻止……もっと単純に言ったほうが正解に近いわよ。――不都合だから殺しに来たってね」
「……嫌な言い方です。ならば、その魔王とは、誰なのですか」
「それは私よりもヴァルキューレが知っていると思うけど」
二人に視線を向けられたヴァルキューレは俯いて、沈黙したままだった。
「さて、三人とも、未来の問題は未来に解答を求めるとしよう。いまは、目の前の問いに、解答をぶつける時だ……今ッ!」
じっとズメイを睨んでいたアルフレートが、重苦しい空気を引き裂くように、鋭く言った。
傍らの開拓者の一人が空目掛けて矢を放った。今度は控えめに閃光が走った。瞬間、森の中より七本の巨大な矢が飛び出して、青空を引き裂いて駆けた。
それは、森に潜んでから三時間のあいだに設営された魔砲から放たれたものだった。魔石の力が加わり、強力な弦より放たれたそれは、アルフレートの計算と寸分たがうことなく飛翔し、いずれもが空中のズメイの翼膜を引き裂いた。
「GHAAAAAAAA!!!」
龍種の鱗は並の刃や魔法では傷つけることが出来ず、真正面から挑むには聖剣のような武器を持ち出さねばならない。それ以外で龍種を討つには鱗の無い箇所を狙うのが定石であるが、多くの龍種において翼膜と眼球は鱗の無い弱点であった。
翼膜を裂かれたズメイは悲鳴を上げながら落下する。
森の中から歓声が上がったが、アルフレートの表情は依然変わらない。
かろうじて姿勢を整えて着地したズメイは四本の足で体を支えると、その目に怒りの色を浮かべ、口元からチロチロと炎を吐きながら一声唸るや、地を這うようにして再び二人を追いかけた。その速度はかれらの操る馬よりもはるかに速い。
「準備はいいな、フィーネ、ヴァル」
「はい! いつでも!」
「……まかせて」
フィーネは設置された魔砲につくと引き金に手をかけた。
彼女の魔砲につがえられた矢は他の魔砲に比しても特別大きかった。さらに、それだけでなく――、
「いつ見ても綺麗ね、恐ろしいほど」
アデーレが呟く。ヴァルキューレが両手を掲げた大矢の鏃は淡く蒼く輝いていた。
誰一人としてそれがいかなる魔法であるのか知らなかった。身体作用とも自然作用とも、無論、呪いの類でもない。既存の如何なる魔法大系にも属さない、神秘の技であるように見えた。
アデーレは、この魔法を見た時、
――戦乙女が、勇者のために武器を打つ。
と、思わず神話の情景を重ね視たものだった。
ただ判明していることは、この光を宿した武器に対しては、あらゆる妨害や障壁が――それが魔法によるものか物理的なものであるかを問わず――意味を成さないということだけであった。
合図と同時に、引き金が引かれた。フィーネの増幅魔法によって加速された巨大な矢は、轟音とともに解き放たれ、旋回しながら大気を切り裂いた。そして、エミーリアとクリストフの二人を追うズメイの、右後ろ脚の付け根を刺し穿った。
ズメイの悲鳴が響き渡る。矢には束ねられたワイヤーが結び付けられており、ワイヤーのもう一方は根の深い巨木に結び付けられていた。突き刺さった矢はかえしが効いている。びんとワイヤーが張ったとき、ズメイの動きが止まった。
「さぁ、今だ。エミーリア」
この瞬間のために、アルフレートの作戦はあった。
地に堕ちた黒龍の足が止まったそのとき、彼女の中の英雄が目を覚ます。
アルフレートが勝利の確信を抱いたその時だった。
「GHAAAAAAAAAAA!!!」
「――むっ……」
足を止めたズメイが、空に向かって大きく吼えた。
聞くものを震え上がらせる、怨嗟と憤怒の込められた咆哮であった。
そして、ズメイは歩きだした。
血のあふれ出る右脚は千切れても構わない、ただ目の前の勇者を貪ることが出来るのならば。そう言わんばかりの、限界を超えた進撃を始めた。
黒龍の、プライドをかけた抵抗の前に、ワイヤーが限界まで張られ、巨木が傾いだ。
「ま、まずいっ!」
「ダメですっ、危ない!」
メキメキと音を立てて倒れる巨木に、咄嗟に駆け寄り手を伸ばそうとしたアルフレートの体を、フィーネが抱えて後ろに倒れ込んだ。間一髪、抉りだされた巨木は土をまき散らしながら、暴れ牛のように大地を滑った。
「計算違いだ! これでは二人がっ!」
「ちっ!」
アデーレは短槍を掴むと、風の魔法を纏わせて投擲した。
旋風を宿した短槍が、引きずられていく巨木を貫いて地面に縫い付けたが、それはさしたる抵抗にもならず、ズメイの顎がエミーリアとクリストフに迫っていた。
◆
「ハハハ! やっぱりこうなったな、『幸運のエミーリア』!」
「笑ってる場合!? あいつの動きが止まっていなきゃ、私の魔法は……!」
血潮を流しながら追いかけるズメイから距離を取るために、クリストフとエミーリアの二人は必死に馬を駆けさせていた。しかし、辺りに身を隠せそうな場所は無く、馬の脚にも衰えが見え始めており、いずれ追いつかれるのは明白だった。
クリストフが背後を振り返った時、ズメイの燃えるような赤い瞳と目が合った。
「――ッ!」
意思の通じ合うことのない、世界の隔絶した化物の殺意を浴びて、クリストフは初めて自らに本物の死が迫っていることを自覚し、その恐怖に背筋の凍る思いをした。
「……クリス、二手に分かれましょう。このままじゃ二人ともやられるだけだけど、アイツがどちらかに喰いつけば、もう一方は自由になる」
「おいおい、分かってるだろ? 間違いなくあのトカゲそっちに行くぜ。自己犠牲のつもりか?」
「バカね。一人が自由になれば、そこが反撃の起点になるでしょ。勝つためにはこれしかない」
エミーリアが、言った。
クリストフは、見えないように唇を咬んだ。
外見ばかり空元気を装って、内心では恐怖に震えている自分と比べて、彼女のなんと強いことか。狼狽え、焦っているように見えて彼女の芯は少しもぶれていない。
――畜生、やっぱり勇者だなぁ、こいつは。
クリストフは思う。彼女の勇者たる理由は、芯の強さにあるのではない。今のように、行動でいとも容易く仲間を導くところにあるのだと。
「……ハッ! アルフレートが俺をこっちにつけたのは、こんときのためだろうがッ!」
「ちょっと!? クリス!?」
クリストフはエミーリアの静止も待たず、叫ぶや馬首を返して地に降りた。
「野郎……クソトカゲ……『鋼のクリス』の異名は伊達じゃないって教えてやるぜ……」
クリスは呟きながら震える膝を両手で叩いた。彼の右手には三角柱状の装置が取り付けられている。その無骨に角ばった装置の内側から顔を覗かせるのは、鋭利な杭。それが彼の相棒――魔力刺突杭であった。
同様の装置が、彼の両足にも取り付けられていた。
「クリスっ!」
「エミーリア、四の五の言ってる場合じゃねぇ! 俺が食い止めるから、そこにアレを叩き込め!」
「――ッ! 出来るのね!?」
「あぁ! 報酬には、胸でも揉ませてくれりゃあそれでいい!」
「バカッ!」
エミーリアは距離を開けてからクリストフの背後に降りると、失われた言語で詩を唱え始めた。
その声を聴きながら、クリストフは大口を開けて迫るズメイに対して構えをとった。
黄ばんだ鋭い歯の奥に、真赤な口腔が蠢いていた。
――馬鹿野郎、怖えじゃねえかよ、ハネアリトカゲ。だけどよ……
理性の失った血走った瞳をぎらつかせ、破かれた翼膜と、穿たれた右脚から鮮血を流しながら、ただただ吶喊をする様には、地に堕ちた黒龍の、もう後のない哀愁があった。
――そんな、もう未来はございませんってェ面してるような奴に、俺たちが負けるわけがねえだろ!
大口が眼前一杯に広がり、生臭い吐息が全身に降りかかった瞬間、クリストフは半身をその口の中に飛び込ませた。
傍から見れば、それは自殺行為に等しかった。龍種の、牙きらめく口中に入り込んで、無事でいられるはずがない。噛み砕かれて、彼の腹をほんの僅かに満たすだけになるはずだった。
「どりゃああああ!!!」
だが、クリストフはそうなってはいなかった。
両腕で上顎を支え、右脚で下顎を押さえつけて、閉じようとする大口の中で身を強張らせていた。
「どうだ、トカゲ野郎。生憎、俺にはこれしかないもんでねッ!」
この業は、彼の唯一得意とする魔法によるものだった。
身体作用の魔法――かれのそれは自らの硬質化に特化していた。
彼は、自らの肉体を、一時的にではあるが、鋼のようにすることが出来た。
「というわけで……――止まれやあああああああ!!!」
そして、左足を地に着けたときだった。
両足の刺突杭に取り付けられた魔石が爆発し、オリハルコンの杭が打ち出された。一方は地に打ち込まれて体を支え、一方は内側から下顎を穿って地に縛り付けた。
「GYHAAAAAA!!!」
打ち込まれた二本の杭が抵抗となり、みるみるうちにズメイの速度が下がる――が、
「まだ、足りねえ!!」
クリストフはさらに体を口内に傾けた。そして、上顎を支えていた右腕を離した。
当然、上顎を支えることは出来なくなる。クリスは今にも押しつぶされそうな姿勢になりながら、背中で牙を支えた。
「これで、終いだ!!」
そして、肉体に限界が来る寸前に、引き絞った右腕を、下顎に叩き込んだ。
一際大きな爆発で打ち出された杭が、ズメイの細長い舌を吹き飛ばしながら、さらに下顎を地面に縫い付けた。
「GHAA……!」
それでもずるずると、ズメイは、前へ、前へと、歩みを止めなかった。しかし――、
「……もう充分だろうがよ、てめぇも、なぁ、エミーリア」
「ええ、十分よ。ありがとう、クリス」
呟いた彼女は、今にも倒れそうなクリスの背後に、静かに立っていた。
「『インカーネーション――』」
彼女の抜き放った剣の刀身は、淡い光に包まれて大剣と化し、満ちる魔力の光芒で空を突いていた。
「『――ジークフリード』!!!」
振り下ろされた龍殺しの聖剣が、黒龍の首元から足の付け根までを、袈裟懸けに、両断した。
断末魔の声を挙げる暇さえない。黒龍ズメイは、全身を包む光芒が消えたあと、微動だにせず地に伏せていた。
◆
「クリス、臭い」
魔力が切れたために、黒龍の大口に上半身を取り残されたクリストフを助けだしてから、涎まみれの彼に向けて、エミーリアが放った言葉がそれであった。
「……あんまりだぜ」
「冗談よ。ありがとう」
ハンカチで顔を拭ってやってから、エミーリアが立ち上がった。
「やっぱり私、貴方達が居なきゃダメ見たい。一人で勇者なんて、できないよ」
「そりゃそうだ」
クリストフも立ち上がり、砂を払いながら言った。
「俺もそうだし、アルフレートも、フィーネもそうだ。――俺たちは、チームで勇者だ。今までもそうだったし、これからだって」
「ええ、そうね――あ、見てクリス」
黒龍の亡骸の向こうから、アルフレートやフィーネ、ヴァル、そしてアデーレが駆け付けていた。みな 口々に、その無事を確かめるために、エミーリアとクリストフの名を呼んでいた。
その奥からは、森から撤収を終えた開拓団が続いている。
「さぁ、プロローグは終わりだ。本番はこれからだぜ、勇者サマ」
「ええ、物資も焼かれたことだし、もっと厳しい道中が待ってそうね、勇者殿」
二人は顔を見合わせて、笑った。
かれら一人一人は決して完璧ではなかった。だが、かれらは互いが互いを補い、支え、高め合っていた。それが、彼らという勇者であった。
◆
「貴方に会わせたいのがいる」
アデーレは、久々の再会にも何の感慨も湧かないというふうに、いつか見た憮然とした面持ちで、そう言った。
清浜三郎太もアデーレにならうように、彼女らが何故にこの場に現れたかを問うことはせず、その背中に従った。
案内された場所には、四人の若者と、彼らの背後に、守られるようにして立つ少女がいた。
少女は頭からローブを被っていて、その表情は影に隠れている。
ふと、少女が顔を持ち上げた。その蒼い瞳と三郎太の目があった。
瞬間、三郎太は、少女が己の中の、己でない何かを見ようとしたことに気付いた。
「……貴方は――」
「俺を、『勇者』などと呼ぼうものなら、許さぬ」
少女の透き通るような声を遮って、三郎太は毅然と告げた。
弾かれたように驚く四人。一人の少年が少女を庇うように前に出た。
「許さないって、どう許さないつもりなんだ。あぁ?」
声音には敵意があった。
三郎太はハリマから降りると、少年を見返してから言った。
「清浜三郎太だ」
「あ?」
「名だ。姓を清浜、名を三郎太という。お主は」
「……クリストフ、クリストフ・ミュラー」
毒気を抜かれたように名乗るクリストフ。三郎太は視線で、後ろの四人にも名乗るように促した。
「エミーリア・リヒテル」
「アルフレート・フォン・ハヴェック」
「フィーネ・ブランケ」
そして最後に、
「……ヴァルキューレ」
と、蒼い少女が名乗った。
「ヴァルキューレ。ただの一目では、人を図ることなどできまい。お主はこの四人を、ただ一目見ただけで見定めたのか」
ふるふると、ヴァルキューレが首を振る。
「ならば、俺の事も、もう少し見定めてから判断をすればよかろう。それならば、俺はそれを責めぬ」
――お主という魔人を前に、肝を冷やしている俺の如きを知ってからな。
三郎太は自嘲気味に、心中で呟いた。
三郎太はヴァルキューレと名乗った少女が魔人であることに、すぐに気づいた。しかしながら同時に、ただの魔人ではないような気もしていた。
――この魔人は……人とともにあるぞ。
そう、根拠もなく思いながら、瞳は自然と四人の姿を映していた。
――ならば、その、人とは……。
四人は、戸惑いの表情を浮かべながらも、確かな信念の籠った瞳で三郎太を見返していた。
「いいのね? ヴァルキューレ」
そのとき、三郎太の背後から、アデーレがそう問いかけ、ヴァルキューレは頷いた。
「結局、白黒はっきりつかないままですが……久しぶりですね、三郎太」
アデーレの言葉を聞き、三郎太の表情に複雑な色が浮かんだ。
ヴォルフスが政情不安定な今、アデーレが遠く陛下の傍を離れていることに、不安を覚えたのだった。
「陛下は、如何なされている」
その問いに答えるように、アデーレは一通の書簡を、三郎太に差し出した。
三郎太は、恐る恐る、巻かれた羊皮紙を開いた。
『三郎太よ、息災か。この頃、そなたについて耳を疑うような噂を耳にした。そなた、魔王三郎太は三神の世を否定し世界を滅ぼすという大きな夢を掲げているそうだな。そなたが連合を震撼させるほどの大物になったと聞いて、それならばあの者を預けたのも、間違いではなかったと、あらためて確信した。存分に連合を騒がせてくれ、近頃、暗君の仕業により雲行きの怪しい隣国は、連合の混乱を歓迎するだろう。
……冗談である。わたしは、そなたがそれほどの大物であるなどと、露ほども思っていない。そなたは、大きな体をしているくせに、わたしやあの者に叱責されれば縮こまって首を垂れるような小心者で、居丈高な態度をとっておきながら、心のうちでは燃え盛る子供じみた夢を追いかける夢想家だ。そなたごときが、数え切れぬほどの先人たちが、生命を賭して築き上げてきたこの世界を壊すことなど、到底出来ないと、わたしは確信している。
しかしだ、暗君の確信に、一体なんの保証があるだろうか。三郎太よ、もしも、そなたがまことにおのれの道を誤ったというのならば、少しでも、邪な思いと、後悔がよぎったのならば、わたしのもとへ参れ。今でもそなたはわたしの臣だ。わたしが直々に、裁いてやろう。
だが、もしも、いかなる逆風があろうとも、燃え上がったおのれ自身の志を、最後まで信じ抜き、それを遂げようと言うのならば、顔を上げよ』
三郎太は涙にぬれて今にもしわくちゃになりそうな顔に、必死の力で毅然とした表情を張り付けて、顔を上げた。
『そこにいるのが、わたしだ。わたしの剣であり、盾であり、そして、そなたと共に世界を救いたいと考える、いつまでも英雄に憧れる、わたしの童心だ。
わたしが傍にいるのだ。気が引き締まるであろう? 前にも言ったが、半端な真似は許さぬ。励め。
あの者の戦記や、三神の神話に比肩するような、荒唐無稽な朗報を噂に聞く日を待つ。』
――天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん!
三郎太は途端に、書簡をぐしゃりと畳むと懐に押し込み、ハリマに跳び付いた。
そして、ヴォルフスの援兵を見回すと、叫んだ。
「遠路はるばるの行軍、ご苦労である!」
涙に濡れたその顔を、虚を突かれたように眺める四人が居た。
「これより進むは大道大義の征路である。世を脅かす邪を祓い、人の世の正しさを示す。諸君らと、我が志は同じだと信じている」
清浜三郎太は叫んだ。ヴォルフスの援兵だけでなく、崑崙勢にも聞こえよとばかりに。
「俺は征く、俺の正しいと信じたこの道を! されど、俺もまた人の子である。誤れば、お主らが正せ! 言上、進言、全て聞く。お主らは、皇帝陛下の耳であり目であることを忘れるな。我が過ちは、陛下に代わって正せ!」
四人の勇者は思った。この男は決して魔王などではない、――志を、命と共に燃やす凡人であると。
「遺恨は、今は、捨て置け。俺に続け! 天下を揺るがし、秩序を震わす大戦に、俺とともに参陣せよ!」
三郎太は鹿首を返すや陣へと戻った。彼と、ヴォルフスの援軍の接触はこれだけであった。それでも、皇帝の書簡に涙を流し、かれらに向けて志を開陳した彼に対して、心を打たれなかったヴォルフス人は、この場にはいなかったのである。




