兵者詭道也
「ヤバイヤバイヤバイ、やばいよサブロー!」
大声を挙げて近づいてくる、蚩尤の尋常ならざる気配を感じ、三郎太は布団を蹴り上げて跳び起きた。
――はてな、おれは昨夜、夏村の惣代屋敷に行ってから、どうやって戻って来たか……?
胸中に微かな疑念を抱きつつも、脇差を引っ掴んで三郎太は勢いよく戸を開いた。
「騒々しいぞ。如何した」
「騒々しくもなるよっ! バカっ!」
ふと見遣れば、眼下の村々も、何やら興奮と動揺に沸き立っていて落ち着きがない。
どたどたと屋敷を走る音は巫女達のものであろうか。
「何があった!」
「始めちゃったんだよ! 夏村の連中が勝手に戦争を始めちゃったんだよ!」
「何っ!?」
「夏村の惣代と一部の連中がいないんだ。なぁ後に続くのか? 守りを固めるのか!? 惣代を集めてこようか? サブローが決めるのか!?」
はっと見た南西の空。崑崙の山を越え、黒煙が幾筋もたなびいていた。
◆
その日の未明。暗闇の中を、三個都市軍の軍営に向けて、黒点がしずしずと近づいていた。
軍営の前方に設けられていた見張り小屋は、既にそこにいた彼らの為の墓標になっていた。
黒点の群れから、六つの影が前へ出て、立ち止まった。まもなく、陣営の門の左右に立っていた二人と 巡回していた四人の歩哨が、同時に崩れ落ちた。正確無比な吹き矢が、六人の首を撃ち抜いていたのである。
そして、時を置かず、内側より門が開かれた。
◆
「敵襲!」
その声に、ダレン・ジュノーは跳ね起きた。そして寝間着のまま剣を執るや天幕から飛びだした。
「おおッ!」
そして、その光景を見て、呻くように驚嘆の声を挙げた。
朝ぼらけの空には黒煙が立ち上り、燃え盛る天幕から飛び出した、着の身着のままの兵士たちが右往左往と逃げ惑う。そして、その混迷とした景色の中を、漆黒の影が駆け抜けていた。
その時、三個都市軍の陣営は既に混乱の渦中にあった。
漆黒の綿襖甲を纏った夏村の精鋭一〇〇は、さながら獣の群れの如く、音もなく、声も無く陣営に突入すると、松明を倒し、火の魔石や符術を放ちながら疾駆した。
彼らは兵士達には目もくれなかった。混乱の中、恐慌をきたした兵士が眼前に飛び出してきた時も、勇敢な騎士が進路を阻まんと立ち塞がった時も、ただ一太刀を浴びせると、その成果を確かめることもせず、陣営の奥へとめがけて走ったのである。すれ違いざまに討たれる同朋の事を気にかける様子も、見られなかった。
陣中奥深くへと突入する奇襲と、いたるところで上がった火の手は、訓練の行き届いていない徴募兵を容易く恐慌状態へと陥れた。そして、三個都市軍の編制がそれを悪化させた。
このとき三個都市軍は陣の先頭に十個に分けた部隊を配していた。ダレンが信を置くドラクルの騎士三〇と徴募兵一〇〇を組み合わせ、一つの小隊としていたのである。それは少しでも徴募兵に軍としての統率を訓練させるためでもあり、見かけ上は「騎士の十個小隊」として、敵を威圧するためのものでもあった。それは騎士の不足を補うための苦肉の策であったが、早すぎる進軍と、それに応じた早すぎる奇襲によってそれが裏目に出た。
騎士達は恐慌状態に陥った徴募兵を叱咤激励し、その混乱を鎮めながら、陣地を固めることしかできなくなり、別の小隊や、本陣の援護に回ることが出来なくなっていた。
徴募兵には開拓者が多く参加していた。なかには、一人陣地を飛び出して、果敢に夏村衆に挑みかかり、見事打ち倒す者もいたが、それも大勢を覆すには至らなかった。
「皆、落ち着け! 敵は小勢であるぞ! 包み込んで確実に討て!」
ダレンはそう叫んだが、この命を伝える者が、傍にいないことに気付いた。天幕の周囲にはジョンヴィレの騎士五〇を配したはずであったが、彼らの姿はどこにも見えない。仕方なく、馴染みの騎士の名を呼ぼうとして、彼らには最前線で小隊を任せたことを思い出した。
「おのれおのれおのれぇ! アカネ! オヒト! ウマカリ! これはどういうことだ、何処にいるッ!?」
その時、ダレンの背後から、ケイ・イーグルが現れた。整った顔立ちを憤怒に歪めながら、悪しざまに崑崙衆を罵った。
「アヅマ人め、この卑怯者! 恥を知れ! 三神の大命を奉じての戦いだぞ、これは! お前らの薄汚い戦い方で、汚して良いものか!」
「イーグル君、落ち着け」
「私は落ち着いている! 総督殿こそ何をしております。はやく指揮をお執りなさいませ!」
「伝令がいない。君が行ってくれ。二個小隊をここまで引き戻せば十分だ」
ダレンの落ち着いた物言いに、ケイも僅かに冷静さを取り戻した。
「総督殿はどうなされます」
「もう少しここで頑張ってみるよ。すぐに後方の者達がやってくるだろうし、逃げ散った者も、戻ってくるだろう」
「旗を降ろします。目立ってはいけない」
「いや、構わないよ。本陣が揺らげば、混乱は収拾がつかなくなる」
「――責めは負います。あのアヅマ人共を信用したがために、この事態を招いた」
「なぁに必要ないよ。もとより油断があったのは僕も同じだ。それに、将軍というのは勝利の栄誉を独り占めにする権利と引き換えに、敗北の汚名を負う義務を負っているのでね」
「……どうか御無事で」
ケイが、マントを翻して前線に向かおうとした時だった。
「裏切りだーッ! 輜重隊が寝返ったぞーッ!」
「違う、ジョンヴィレの騎士団だ! ジョンヴィレはアヅマについたぞ!」
混乱する陣営の中から、その声だけが鮮明に聞こえた。
驚愕に目を見開く二人のもとへ、一人の兵士が駆けこんできた。
「総督殿、裏切りです! 後方の部隊が敵に寝返りました! ご指示を!」
「キサマ! 伝令ならば情報は確実に、はっきりと言え! 後方の部隊とは何だ、ジョンヴィレ騎士団か!? 勝手に退却したのか、それとも此方に向かってきているのか!? 偽情報を流布したのであれば処罰があるぞ!」
ケイが、兵士の胸倉を掴んで詰め寄った。
「わ、わかりません! 物資集積所が燃やされたようです。煙が上がっているのが見えました!」
「キサマ自身は、裏切り者を確認していないのか!?」
「は、はい。緊急事態であるので、すぐに本陣に伝えるようにと言われ……」
「誰にだ!」
「わ、わかりません! 騎士の御方だったと思います!」
「クソっ!」
伝令の兵士を突き飛ばし、ケイはダレンと顔を見合わせた。
「こうなっては仕方あるまい。イーグル君は先ほど言った通りに。君は後方の部隊に対して、その場に踏みとどまって陣を堅守するように、総督からの命はそれのみであると伝えてくれ――」
ダレンはそう言うと、自然体のまま、振り返りざまに剣を振るい、背後に迫ったアヅマ人の胴を断った。
「総督殿ッ!」と、ケイがダレンに危険を知らせる声が響いたのは、アヅマ人が崩れ落ちるのと同時だった。
「――夜も明けた。この程度の奇襲、長続きはせん」
◆
「何っ!?」
――それはどういうことだ! 誰が仕掛けた!?
口元までせり上がってきたその言葉を、三郎太は瀬戸際で堪え、飲み下した。代わりに口をついて出たのは、
「――よぉし! やったか!」
という台詞だった。
なぜ、そんな言葉が出てきたのか、その瞬間には三郎太にも分からなかった。
ただ、天啓が下りてきたかのように、こうするべきだという閃きが脳内で静かに弾け、この突然の状況に、奇妙な納得をもたらしたのだった。
それは、兵法を志した一流の達人が、あるとき、ふと奥義・兵法の極意に辿り着いたときに覚えるのと同じ、他人には決して説明のできない、閃きであった。
「はぁ!? サブロー、お前なにか知ってんのか!? それとも頭がどうかしたか!?」
「たわけ! 蚩尤、この事、誰がどこまで知っておる!?」
「え、えーと、今朝はなんかざわざわ落ち着かなくて目が覚めて。散歩でもしようかと思ったら遠くで煙が見えたから、巫女を起こして事情を聞いたら何も知らないって。一応、村の連中に聞きに行ってみたら夏村の事が分かって、あわてて戻って来た。だからたぶん、今頃は村中に知れ渡っていると思う」
「よし、お主はハリマの支度をせよ。他の者は全員集まれい!」
三郎太はこの瞬間を好機と掴んだ。それの正体を、三郎太自身この時はまだ理解していなかったが、決して放してはならない好機であることは判った。
言わば、突如として暗闇の岩窟に閉じ込められて、誰もが落ち着きを失い惑うなか、三郎太ただ一人が、一条の光の差し込む間隙を見つけ、そこに身を飛び込ませたのである。
三郎太は集まった皆を見回してから、まず、静かに戸にもたれかかっていたティアナに向けて、言った。
「ティアナ。ここに此度の外征軍の編制と、それに必要な物資が書かれている。全て不足なく集めよ。これには夏村惣代、杞郭明殿の同意がある」
懐から紙束を取り出し、広げて見せた。視界の隅に、目を丸くするマツリの姿があった。
三郎太も今初めて見る。昨晩、郭明に見せたその紙束には、郭明のしたものと思われる訂正がいくつか入っており、末尾に彼の名と印が記されていた。
「他の村々が何と言おうとも、とにかく供出させるのだ。躊躇えば、崑崙が滅ぶと言ってよい。最終的な物資の集積、軍の編制は坤平原で行う。だが、鼓と旗は最優先だ。準備のできた最初の一隊にあらんかぎりの鼓吹と旗を与え、押したて打ち鳴らし、鯨波を挙げて山から降りさせよ」
ティアナは紙束を受け取り、素早く目を通すと、ふっと笑って言った。
「あぁ、承ったよ。だが巫女を二人貸せ。私一人では時間がかかる」
「クヌギ、アザミ」
「は、はい……!」
「と、とにかくやればいいんだな、やれば……」
巫女達も、未だ状況が掴めていない。全てが予定されていたことであるかのように、手早く指示を飛ばす三郎太の勢いに押され、自然と従うことになった。
「スミレ、マツリ。お主らは村々を廻り、これはと思う巫女を集めよ。数人でよい、地勢を心得、腕に覚えがあり、清浜三郎太とともに死ぬる覚悟のある者を選べ。これもすぐに山から降ろせ」
「よくわかんないけど、りょーかいです!」
「あー、もうッ! わかった、わかったわよ!!」
そこに、ハリマに馬具を付けながら、蚩尤が戻って来た。騒ぎを聞きつけたヒツとホウの双子の兄妹も一緒であった。
「なぁおい、少しは説明してくれよ。まさか一人で夏村に続くわけじゃ――」
「よし、打って出るぞ! 蚩尤、伴をせい!」
三郎太はハリマの上に飛び乗ると、近くにいたホウの襟首を掴んだ。
ホウは、さながら親猫に咥えられた子猫のように持ち上げられ、三郎太の前にちょこんと載せられた。
「――???」
「お主は案内じゃ! 最短の道で山を下りるぞ!」
三郎太は目を白黒させるホウの背後から手綱を取り、さらに、
「ヒツ、お主は空を駆けよ! 戦況を逐一知らせ!」
空を指しながら、ヒツに向けてそう言った。
そうして矢継ぎ早に指示を与えるや、誰の返事も聞かず、三郎太はハリマの腹を蹴ったのだった。
◆
「勝った! 勝ったぞ!」
「はやいって! サブローっ……というかハリマ!」
一陣の風となって山を駆け降りる三郎太。その背後には、木々に飛び移りながら懸命に三郎太を追いかける蚩尤の姿があった。
「つ、次は、右の道……ですっ……。進むと、岩が塞いでますが、飛び越えてっ……!」
「うむッ!」
手綱に合図をくれれば、それだけでハリマは意を汲んで高々と跳び上がり巨岩を越えた。
鮮やかに、衝撃を殺しながら着地すると同時に、三郎太が吼えた。
「次はッ!」
「ひっ、次は、真っすぐです……ずっと……! 道が現れても、無視してっ……」
耳元で叫ばれる大音声とその勢いに圧倒されながらも、ホウは必死に、小さな声を精いっぱい張り上げて三郎太に応えた。
ホウは、かつてないほど清浜三郎太に密着した今になって、兄や自らの仕える巫女達が、あれほどまでに気に掛ける人物とはどのような人間なのか知りたくなり、振り返って、その顔を見上げてみた。
「な、なぜ。このようなときに、笑っているのですか……?」
振り返って映ったのは、微かに髭の生えた、男らしく角ばった口元。それはさもこの状況を楽しんでいるかのように笑っていた。だが、頬が微かに引きつっているようにも見えるから、幾分の緊張はあるのかもしれなかった。
「気持ち悪い顔しやがって!」
頭上の木々まで追いついた蚩尤も言った。
だが、どことなく、そう言う蚩尤もこの状況を楽しんでいるようだった。
「戦陣に身を置く。男児の本懐だ。この瞬間を、夢にまで見た」
「でも……」
ホウは、手綱を握る三郎太の腕に触れてみた。敢えてそうせずとも、密着した体から伝わっていたが、三郎太の体は小刻みに震えていたのである。
「武者震いだ!」
三郎太は即座にそう断じてから、続けた。
「この合戦、十のうち八までは勝てると踏んだが、その程度ではまだどう転ぶか分からぬ。ゆえにその不安……いや、戦慄が、こうさせるのかもわからん」
「ほんとうに、勝てると……?」
「勝てる。俺はな、今朝、兵法というものを知った」
「……それは」
「『兵は詭道なり』だ。こんなもの、俺の世界では誰でも知っているが、俺は今日、それを真の意味で知った。真後ろから頭蓋を殴りつけるような衝撃! これが虚を突く兵法というものであると、身を以て、知ったぞ! ホウ、そこは特等席だ、よく見ておれ!」
その時、空から一羽、紅白の神鳥が舞い降りてきた。その姿のヒツの声を聞けるのはホウだけである。兄の言葉を、ホウは告げた。
「次々と、火の手が上がっている。夏村の姿は、よく、見えない。と、兄が……!」
「でかした!」
三郎太は一層ハリマの速度を上げると、頭上の蚩尤を見上げて言った。
「蚩尤! いよいよ我等の初陣だ。あれを試すぞ!」
◆
早朝の奇襲攻撃に対して有効な反撃を講じることのできなかったものの、それでも三個都市軍は陣営を放棄することなく、なおその場に留まっていた。
本陣の周囲にも総督を守るべく騎士が集いはじめており、混乱は僅かだが確実に収束しつつあった。
機を見計らい攻勢に転じることが出来れば、あとは数の利によって奇襲部隊を殲滅できるかもしれないと、ダレンの頭にも勝機がよぎった。
しかし、その時であった――。
突如として、北東方面に砂塵が立ち昇った。それは馬蹄の響きを伴いながら、確実に三個都市軍に近づいていた。崑崙の搦手より押し出した一〇〇〇に近い騎兵が、三個都市軍の側面を突いたのだと、ダレンだけでなく、多くの騎士の面々が思った。
さらに、示し合わせたかのように、崑崙山中より鯨波が上がった。自らの勝利を確信し、祝うかのようなその声が三度響き、突撃の鼓が乱調子に打たれはじめたとき、ついに三個都市軍の士気は挫けた。
まず、最前線で踏ん張り続けたドラクル騎士団の小隊が潰走を始めた。潰乱はたちまち伝播する。我先にと逃げ出す軍勢の激流に呑み込まれ、本陣の旗もついに倒れた。
奇襲がなされてより、二時間と経たないうちの出来事であった。
◆
三郎太が蚩尤とヒツ、ホウを伴って戦場に辿り着いた時、すでに大勢は決しており、陣営に残されたのは夏村衆と負傷した連合軍のみであった。
「追撃は無用、真に命を懸けるべき大戦はこれからぞ! 直ちに集まり、点呼をとれ!」
三郎太はそう触れ回りながら陣営を駆けたあと、三個都市軍の本陣と思わしき場所を、臨時の本営と定めた。
綿襖甲を血でぐっしょりと濡らした夏村衆が戻ってくるたびに、「ご苦労だった」「よくやってくれた」と声をかけて労っていた三郎太のもとに、自らを呼び止める声が聞こえた。
「田上か」
「節度使殿、こちらを」
田上は膝をつくと同時に、生首を二つ、差し出した。
「三個都市軍総督ダレン・ジュノー。同じく参謀ケイ・イーグル。ともに討ち取りましてございます」
「うむ。見事!」
三郎太は確かにそれを見て、頷いた。
「郭明殿は何処に?」
「こちらへ」
三郎太の問いに、田上は顔色一つ変えずに応じた。
田上に従って三郎太が辿り着いた先には、四人の男女が丁寧に横たえられていた。
「あちらが、郭明様です」
「…………」
いったいどれほど長い間、剣戟の中に身を置けばそうなるのであろうか。郭明の全身は膾のように切り刻まれていた。その顔も、戦傷にまみれており、昨晩に顔を合わせたからこそ、三郎太は辛うじてそれと判別することができた。
三郎太の全身は真冬に冷や水を浴びせられたかのように冷え切った。戦勝の興奮など何処ぞへと消え失せ、ほんの数十分前の「勝った、勝った」と浮かれていた己の頬桁を打ちぬいてやりたい衝動にすら駆られた。
――ただの一太刀。一朝の奇襲。一度の戦。そして、一人の命。たったそれだけで、未熟の節度使に、兵法の妙、詭道を教えるとともに、兵の凶事たることを、叩き込んだと言うのか!
その深謀遠慮に、己は相応しいのかと自問自答し、相応しくあらねばならぬと三郎太は意を決した。
これでもかと目を見開き、三郎太はその無残に変わり果てた姿を、一人の兵法者の死を魂に刻んだ。
「初見となりましょう。こちらから馬借、アカネ、雄人。先んじて連合に取り入り、此度の奇襲を成功させました。内側より門を開き、流言を撒き、物資集積所に火をかけたのです」
三人とも、己の命を懸けて任務を全うしたに違いない。敵中にあって工作を成功させる苦労を、三郎太は知らない。だが、一命を賭してそれを果たし、この大勝利をもたらした功を、三郎太は確かに受け止めた。
「戦功第一だ」
「はい」
「俺は、崑崙のしきたりを知らぬ。この功に報いるには、どうすればいい」
「御存念のままに」
「ならば、この者らの名を永劫に伝えよ。そして、家族には一生に困らぬ見舞を」
「はっ」
「それと、一つ我儘を聞いてはもらえぬか。あの鉢金を、譲り受けたい」
三郎太は、郭明の額を守っていた、傷だらけの鉢金を所望した。
それまで、従順に、淡々と三郎太の言葉に従っていた田上が、なぜかその申し出に対しては、すぐに返事を返さなかった。そして、堪え切れないといった様子で肩を震わせて、声を押し殺して笑いだした。
「なぜ笑う」
咎めるように言ってから、三郎太は思わず口を噤んだ。
田上は確かに笑っていたが、笑いながら、瞳から涙を流していたのである。
「郭明様は、節度使殿が、誰よりも先にこの場に現れることも、郭明様や皆の亡骸を見て何と言うのかも、全て予想しておりました。それが、全て当たっているので、思わず笑ってしまったのです」
「田上……」
「お許し下され。郭明様も節度使殿も、やはり、我々が命を捧げるに惜しくない御方であったと、それが分かったことが、私は何よりもうれしいのです」
◆
三郎太からおよそ一刻(二時間)ほど遅れて、小荷駄隊が必要な物資と共に坤平原に辿り着いた。
それまでの間には、着々と三郎太と郭明が定めた外征軍に必要な人員が集まっていた。
「やってくれましたな。郭明、節度使殿」
小荷駄隊と共に惣代達も山を下って来た。
中でも冬村惣代の余駒打知が、肩を怒らせながら近づいてきたときには、三郎太も何と言いくるめてやろうかと覚悟したが、予想に反して、続いた言葉は穏やかなものだった。
「業腹だが、三個都市軍四〇〇〇を一朝に破った事実、これは変わらん。今更問答するつもりもない。これが全て郭明と節度使殿の策略だというのならば、それでよかろう」
「何と言い訳しようとも、我々では、このようには出来なかったのは事実」
秋村惣代、佐平刀自が言った。
ここにきて、郭明の策は清浜三郎太に節度使の実質さえをも与えたのだと、三郎太は気づいた。
「もはや、われらに節度使殿を止めることは出来ません。お好きなようになされるがよい。しかし、外征軍に集った命は、崑崙のものであることは、お忘れなきよう」
「心得ており申す」
「本当にわかっているのですか? 節度使殿、貴方の命も、崑崙のものだと言っているのです。勇気と蛮勇を履き違えるようなことはないように」
「まことに、かたじけない。……ところで、吉美佐古殿は?」
「崑崙に残っておる。一時的とはいえ、惣代が全員崑崙を留守にするわけにはいかぬ」
ただでさえ、惣代の一人である郭明が死んだばかりである。崑崙の不安定な立場も、依然、変わらない。
「……勝ったとはいえ、此度はご迷惑をおかけした。供出には、無礼も無理もあったと思いまする」
「無礼や無理で済んだと思っているのか」
「全くね。私達が太祖の言う事に従うなんて、虫唾が走るどころではないけれど、可愛い巫女の頼みだもの、仕方ないと割り切りました」
「……かたじけない」
刀自が恐ろしい笑顔で言い。三郎太は恐縮して頭を下げた。
「我らは崑崙を守る……節度使殿」
駒打知が三郎太の肩を叩きながら、言った。
「勝たれよ」
三郎太は強く頷き返したのであった。
◆
まもなく、外征軍の編制を終え、いざ出師というその時であった。
「節度使殿! 北方、南方、南西より敵勢! その数各々一〇〇騎、都合三〇〇騎にございます!」
「いずかたの敵か!」
「不明! 装備は不統一。旗も掲げられておりませぬ」
「旗旄を中心に守りを固めよ。北方は冬村衆、南方は春村衆、南西は秋村衆が応じよ。陣を固め、打って出ることまかりならん!」
崑崙衆に奔った微かな動揺を鎮めるように三郎太が指示を飛ばす。
まもなく、緩やかな丘を越えて三方向に軍勢が姿を現した。
――敵の援軍か!? だが、騎兵三〇〇。逆襲に転じるには、遅きに失したぞ!
しかし、いつまでたっても軍勢からの攻撃は無い。突撃は勿論の事、魔法による攻撃の準備すらない。むしろ、あちらこそがこちらとの遭遇が想定外の事であったかのように、出方を伺っているように思えた。
ふと、三郎太は北方の敵集団の、その先頭に立つ者の、一本に結ばれた茶色い髪のたなびくのを見た。
瞬間、既視感に襲われた三郎太はハリマを走らせて陣を飛び出していた。
そして、その人物を確かに視界に捉えるや、
「アデーレッ!」
と、叫んだのであった。




