策動
「まず採るべきは、断固、篭城!」
冬村惣代、余駒打知が板張りの床を叩きながら吼えた。
「食料は十分、衆徒三千気焔万丈。この地を抜くことなど到底できますまい」
「然り」
と、紅一点の秋村惣代、佐平刀自が繋ぎ、夏村惣代の杞郭明が言葉少なく頷いた。
「しかる後に、攻めあぐね疲弊しきった敵勢を逆落としに殲滅する。何十里にわたり追撃し、悉く討ち取るのだ!」
駒打知が言った。しかし、今度は同意が無かった。
「否! まずは連合の切り崩しに終始すべし! 彼らの結束は見かけ以上に脆い、攻勢に出るのは後詰の援軍を得てからよ」
反論は刀自のものだ。
「刀自、軟弱だぞ! 他の都市を頼みになんぞ出来るか!」
「謀も無しに連合と真っ向から戦って勝つことは現実的ではないわ。貴方は崑崙を滅ぼすつもりかしら」
駒打知と刀自が火花を散らして視線を交差させるなか、春村惣代の木菟吉美佐古が口を開いた。
「表面上の戦力を見れば、篭城は確かに理がある。しかし、そもそも、連合は今や魔獣の襲撃や節度使殿の言う魔人の企みによって、おのずから滅亡の道を進んでいる。大義は我らにあるのだから、神旗を掲げて堂々と進軍し首都を目指せばよいのではないか? 道中の諸都市に我らに立ち向かう余裕はあるまいし、我らと同じく連合の支配を快く思っておらぬ都市も少なくない。そのような都市を味方につければ、首都の軍勢を粉砕するのに十分な戦力は得られる」
「男共の、随分と楽観的なこと――」
これにも、刀自が反論した。
「――そう言うのなら、外征軍には春村から五〇〇人を出していただきましょうか」
「何を、それとこれとは話が違うではないか!」
吉美佐古が激しく応じた。
三者は共に意見を違え、視線を交わしながら沈黙した。
一つは外征軍の編制を巡り、一つは人員と物資供出の負担を巡り、都合三度目の沈黙であった。いずれも結論は先送りにされたままである。
三人の惣代が意見を激突させるなか、一人、杞郭明のみが、時折、相槌を打つ程度で、意見を述べることが無かった。
そんな折、もう一人の男が、嘆息と共に言葉を発した。
「このままでは、埒が明き申さぬ」
四人の惣代の目が、彼に注がれた。
「朝方より始めた軍議でござるが、結論らしい結論は何一つとしてござらん。ひとまずは休憩を取り、各々頭を冷やし、考えをまとめてから、また集まることにしては、如何か?」
険しい表情で会議の成り行きを見守っていた清浜三郎太が、苛立ちを隠しながら、そう言ったのだった。
◆
時は遡り、その日の早朝、まだ陽の上がらないうちに、崑崙の四村による緊急の寄合が開かれた。
春村惣代の屋敷にて開かれた寄合には、各村の惣代をはじめ、壮年男子で構成される『組』の三役、クヌギらを初めとする巫女達が集まった。
三郎太が屋敷に足を踏み入れた時、戸を開け放って繋がれた二つの部屋には、既に所せましと人が集まっていた。総勢は五十名をゆうに超えるだろうか。『組』の男達や引退した巫女達のことは、すでに目にしたことがあったが、四人ごとに固まった、全く見たことのない女達がいるところを見ると、どうやら各地に散らばっていたクヌギ達の先輩にあたる巫女達も、崑崙に戻ってきているようであった。
「三郎太さん」
クヌギに袖を引かれ、三郎太は振り返った。
「三郎太さんの座はあちらです。私達巫女の座は少し離れたところになるのですが大丈夫ですか? 見た目はともかく、皆、怖い人ではないので、分からないことがあれば、誰にでも聞いてください」
――子供ではないのだぞ!
三郎太は憤然としながらも、当たり前のように自らの席が用意されていることに、少しばかりむず痒さを感じた。
血と戦の儀を経れば崑崙の一員として認められると聞かされてはいたが、己はまだまだ外様であると思っていたのである。
寄合は、まず惣代が崑崙を取り巻く状況を説明し、各地から情報を集めた巫女が、それを補足した。そして、最後に、三郎太の名が呼ばれた。
「この中に、此度の連合内部での政争につき、大聖女を殺害したために罪人として指名手配されているものがいる。清浜三郎太、そうだな」
三郎太は静かに立ち上がると、集まった崑崙衆を見回してから、自らが連合首都で見てきたことの全てを語った。
北竟大帝と大聖女アウロラ……もとい茨木童子の企み、善鸞が残した使命。
三郎太はあえて身の潔白を主張するようなことはしなかった。事実を述べたのち、こう告げた。
「――故に、拙者は、大聖女と呼ばれていた女に刃を向けた。この身を賭しても彼奴を討とうとしたが、口惜しきかな、果たせなかった。そして、巫女の手を借り、この地まで惨めにも逃げ帰って来た。斯様な経緯によって、確かに、拙者には追捕の手が迫っている。連合は、この首を欲している」
誰もが三郎太を見つめていた。
三郎太は、崑崙が三郎太の首を差し出すことによって、安寧を維持する道を選ぶということも、十分に覚悟していた。
「……皆の者、御覧ぜよ」
春村惣代、木菟吉美佐古が、扇で右の戸を指し示しながら言った。
その引戸が開かれた瞬間、どよめきが奔った。三郎太とて、思わず息を呑んだ者の一人であった。
庭に建てられていたのは旗であった。
朝焼けに照らされた純白の地の中心には陰陽の太極図が描かれ、左右には登り龍と下り龍が配されている。黒塗りの竿の先にヤクの毛が取り付けられた、まさしく旗旄であった。
「これは昨日の朝、当番の者が神殿の中に見つけたものじゃ」
「古伝の言うところによれば――」
冬村惣代、余駒打知が繋いで言う。
「――魚の如き形の白と黒の図像、交差しながらも決して混じることなく、相対しながらも相補い合うかのような図、これを太極の図という。そして、太極の図とは三神の子らが炎を討つに及んだ際、神剣と共に三神より下賜されたもの。すなわち神勅!」
「その義は魔性の邪悪を破り、人民の正義を顕かにすることに他ならん!」
三郎太は言葉も忘れて、はためく旗旄を見つめていた。微かに顔を覗かせた陽に照らされて、輝く純白の何と美しいことか。太極図の示す永劫不変の秩序のなんと尊いことか。両翼に配された龍のなんと神々しいことか。
――やはり、彼らは、共にあってくれた!
真相は分からない。だが、三郎太はこの旗は神仙の彼らが下したものと理解した。
そして、決別とは言いながらも、この旗を崑崙にもたらした彼方の隣人に、思いを馳せずにはいられなかった。
「さぁ、引き立てよ!」
立ち上がった吉美佐古が何者かに合図をした。すると言葉通り、男女が二人、後ろ手を縛られたまま引き立てられてきた。そして、旗の前に据えられた。
「皆の中には知っている者もいるだろうが、この者らは、昨晩訪れた連合よりの使者である。崑崙への弾劾状を持参してきた、三個都市軍総督ダレン・ジュノーからの使者である!」
「弾劾だと? 何を要求してきた!」
「そうだ、何とほざいた!」
「都市軍を編成しておいて、白々しくも何と言った!」
連合の使者と聞き、三郎太を除き、ほぼ全員の目の色が変わった。駒打知の強い口調にあおられて、熱が崑崙衆を包み込んでいくのがありありと見えた。
「謀叛人清浜三郎太を、崑崙が匿っていることは既に把握している。すみやかに引き渡せ。――それが彼らからの要求である。断れば、都市軍はその使命を果たすとも、彼らは言った! しかし、皆この旗を見よ!」
駒打知が腰の直刀を引き抜き、太極図を指し示す。
「三郎太の言葉が嘘偽りで無いことは、この神勅が証明しているではないか!? ならば、嘘偽り、権謀術数を弄し、卑劣な手段で三郎太のみならず、崑崙にまで謂れのない害を為さんとしているのは誰か!?」
連合だ。――そう、誰ともなく声が挙がった。
この熱狂に、三郎太は一抹の不安を覚えた。それは、知らず血と戦の儀に巻き込まれた時に覚えた、この異質な集落への違和感にも近いものだった。
思わずクヌギ達四人の巫女を探したが、立ち上がった人々に遮られて見つからない。
「されば、我らは神勅に従い、大義を顕かにし、世の秩序を正すべし! その旗手――『節度使』には……清浜三郎太が相応しい! 誰よりも早く、北竟大帝と矛を交えた、この男が相応しい!」
駒打知が叫び、直刀が振り上げられた。声を挙げる暇も無い。びゅんと刃風が唸るや二人の使者は崩れ落ちて、どくどくと溢れる血潮が地面を濡らした。
熱狂が歓声となって屋敷を揺らした。
三郎太は、自らがこの熱狂に取り残されていることを自覚しつつも、太極図の旗頭が、己となったことを認め、彼らを率いる覚悟を抱いた。そして、間もなく先の軍議が開かれたのだった。
◆
「やっぱ、将器っていうのかな~。サブローなら崑崙を束ねるのも当たり前だとオレは思うぜ。先頭を切って走る男には相応の格が宿るっていうかさ~従う者もまさしく虎賁っていうかさ~……なぁサブロー!」
「なんだ、その気色の悪い懐き方は……」
「まぁ、ティアナには分からないよね。ふふーん、そのうちわかるよ。オレのサブローは、太祖だっけ? あんたなんかよりもよっぽどすごいんだから」
「きも……」
半刻(一時間)の休憩を乞い、巫女の屋敷へ戻る道すがら、三郎太はずっと険しい顔をしていた。
その後ろでは、蚩尤とティアナが取り留めも無い会話をしていた。
「お飾りの大将なんぞに甘んじられるか……だが……篭城……篭城……やはり篭城に理がある……」
「太祖だか何だか知らないけど、机上の軍略には自信があるそうじゃん? 違うんだよな~。大将っていうのは、そういう理屈じゃなくて、とにかく人を惹きつける器がなきゃいけないんだよ。有能な配下を自在に操る器がね? サブローにはそれがあると思うよ? いやまぁオレがそう思っているか否かはともかくね? 客観的に見てね?」
「なるほど、何があったのかは知らないが、お前はこいつの、その器とやらに惚れているわけだ」
「ぷぷぷー。やれやれ、その程度のレベルの話をしているんじゃないんだよ。なぁサブロー、言ってやれよ、この時代遅れの、過去の栄光に縋っているおばあちゃんにさ」
「お前、ほんとにキモイな」
坂を登りきった三郎太は屋敷の裏手から厨房の戸をくぐった。
袖を結んだクヌギが昼食の用意をしているところだった。
「あ、もう軍議は終わったのですか? お昼はもう少しかかりますが……」
「いや、まだだ。すぐに戻らねばならん。湯漬けをくれ」
言って、腰を掛けた三郎太は再び険しい顔に戻って、ぶつぶつとつぶやき始めた。
「悠長な手段は執ってられぬ……篭城して都市軍を跳ね返すのを待つほど、時間に余裕はない。だが……打って出た場合、立ちはだかる連合の軍勢がいかほどかも、それを打ち破る算段も、皆目見当がつかぬ……!」
「何か、軍議のことでお悩みですか?」
クヌギは、茶碗を差し出しながら、尋ねた。湯漬けの上には昼食に出す予定であった川魚の塩焼きのほぐし身が乗っていた。
三郎太はちらとクヌギの顔を覗いてから、
「いや、まさか。気にするな」
と、言った。
周りの者にとって、聞える独り言ほど気になるものもない。
ただ三郎太はこのとき、自らの苦悩が外に漏れているとは露とも思っていなかった。そして、戦の事で、女子に相談するようなことはありえないとも思っていた。
「お、三郎太さん戻ってたのか。なに難しい顔してんだ? 肩揉んでやろうか?」
物音を聞きつけたのか、アザミとマツリ、スミレも厨房にやって来た。
「構わんでいい」
言って、湯漬けを啜る三郎太。アザミは三郎太の言葉を無視して肩に手を置くが、三郎太もそれを払いはしなかった。
「まぁ、あの人らの相手をするのは疲れるだろ」
「いつも偉そうなのが唯一の取り柄よ、惣代達の」
「滅多なことを言うな。お主たちの惣代なのだ、敬って、よくよく言う事を聞け――」
茶碗をクヌギに差し出して、二杯目を頼みながら、三郎太は続けた。スミレの「偉そうに言うけど、三郎ちゃんにとっても惣代だよぉ……」という台詞は無視した。
「――しかし、と言っては見たが……いかんせん、少しばかり血の気が多くはないか、ここの連中は!?」
「だからこのあいだも言ったじゃない。結構馬鹿よ。惣代って」
「今更、外に戦を始めるには、覚悟も、準備も不足しているとでも言うつもりか、言わせぬぞ……」
三郎太は、小さく、惣代へ向けて罵倒を浴びせた。
「戦争や軍略についてならば、それこそ太祖さんに相談すればいいじゃないか」
この四人は、短いやり取りの中で何が三郎太を悩ませているか、すでに察しがついている。
アザミが誘導するように、太祖へ話を振った。
「聞かずとも、分かっておる。どうせ盗み聞きをしておったのだ。篭城だろう。お主は」
待ってましたとばかりに、ティアナの口元に弧が描かれた。
「ほう、お前も私が分かってきたな。だが惜しいぞ、私ならまだ戦争なんぞ始めん。のらりくらり追及を躱しながら戦いの準備を整え、使者の能力を見極めて、使えるのならば、知らず知らずのうちに間諜に仕立て上げたり、偽の情報を流させたり、此方の良いように操る。まぁ、使者を斬った今更に、『もしも』なんてのはナンセンスだが」
「まったくだ」
憮然とした表情で、三郎太は答えた。
「崑崙の連中は、お前を旗頭に団結しつつ、連合から離脱することを最優先とし、北竟大帝の事はその次の問題と捉えている。だがお前は旗頭としてではなく、実際に外征軍の指揮官として、連中を率いて北竟大帝と決戦に及びたいと考えていて、むしろ崑崙が連合と全面対決するような事態は回避したい」
「…………」
「難儀なことだな。惣代の連中の横面を叩いて、自分こそが総大将だと言い張るか、あくまで崑崙の方針に従い、まずは篭城戦によって都市軍の撃退を試みるか……。北竟大帝や茨城童子はお前との決戦を望んでいるようだったし、時間はかかるが、後者でもかまわないんじゃないか?」
「それでは、遅い。なるほど奴らは待つだろう。世界はまだ、壊れはしないだろう。だが、その間に何人が、誰が殺されると思う。無辜の民は当然、カドリ、セシル、ノエリア、シオーネ。奴らは、俺にまつわるもの全てを殺す。そして人をあざ笑う。そうなる前に、始末をつけねばならぬ。妙案はないか」
「……んー、多分、悪いが今回私は役立たずだ。崑崙の連中が、動員できる人員の数、食料の備蓄や諸々の軍需物資の現状を全て私に明かしてくれるなら必勝の軍略を見せてやれるが――なぁ?」
いたずらっ子のような表情が巫女達に向けられる。巫女達は困ったように笑うしかない。
「そんなこと言ったってなぁ……?」
「一応、あの太祖さんだもんねー」
崑崙にとって、今でも彼女はヴォルフスの太祖なのである。幾度も矛を交えた敵国の首領に、そのような機密を明かせるはずもない。この場にいることを許容すること自体が、崑崙にとっては大きな譲歩であった。
「では、惣代の中で最も軍略に通じているのは」
三郎太が、三杯目の湯漬けを所望しながら言った。
「そうですね……」
茶碗を受け取ったクヌギの視線は、マツリに向けられた。
つられて三郎太もマツリに目を遣るが、マツリは「ふん」と鼻をならすとそっぽを向いてしまった。
「夏村惣代、杞郭明。たぶん、戦争についてはこの人が一番詳しいんじゃないかな」
「カクおじさん。マツリちゃんの本当の叔父さんだよ」
それは本当かと、三郎太は怪訝な表情をマツリに向けた。
彼は、寄合では一言も言葉を発さず、軍議においても時折、中身の籠っていない相槌を打つ程度であった。常に伏し目がちに難しい顔をしていて、惣代の中でも何を考えているのか分からない人物筆頭である。
「あの御仁と、お主が……?」
「悪かったわね。あんなのが唯一の親類で」
――悪いとも言っておらんし、唯一の親類なのは初めて聞いたぞ。
機嫌の悪いマツリに歯向かってもいいことは無い。三郎太は心の声を発しはしなかった。
「村の馬鹿親父どもはあの人のことをそう評価しているけど、そんなのどうせ嘘よ。なに考えているのか分からないし、何が気に入らないのか、いつも眉間に皺を寄せて、まるで自分以外の全員は馬鹿だと思っているみたいな、見下したような目をしてるし」
「おい、どこかで聞いたような特徴だな、ええ?」
脇腹を突っつくティアナを鬱陶しげに払いながら、三郎太は呟く。
「杞郭明殿……か」
――ともすれば、あのような御仁にこそ兵法が備わっているのかもしれない。
兎にも角にも、腹芸をしている時間はないのだから、こちらの考えを開陳するより他ないと三郎太は考えた。
三個都市軍……彼らが、本格的に崑崙征伐に動き出す前ならば、少数の精鋭を崑崙から出撃させることくらいは、出来るかもしれない。精鋭部隊で連合の諸都市の間隙を縫いつつ、奇襲的に神威山を落とす。それが三郎太の戦略であった。
三郎太は再び春村惣代の屋敷に向けて坂を下った。
屋敷まで目と鼻の先に辿り着いた時、血の匂いが風に乗って微かに届いた。
瞬間、駆け出し、屋敷に飛び込んだ三郎太が見たものは、部屋の中央に寝かされた血まみれの女だった。
三郎太は、惣代に囲まれたその女が戦傷を負っていることに、気づいた。手当はされているが、今も血の染みは拡がり続けている。
「郭明様、すみませぬ……。ヒマワリは……ここまでにございます……」
ヒマワリと名乗った女は、枕元に坐った郭明の手を握りながら、言った。
「それで」
応じる郭明の声は、普段と変わらず、抑揚が無かった。
「敵勢は、およそ、四〇〇〇。すでに、坤平原の十五里先に布陣しております」
「陣立を書け」
郭明は横たわるヒマワリを起こすと、その手に筆を握らせた。
ヒマワリは苦し気に呻きながらも、筆先を紙の上に載せた。
「敵は……いくつもの……騎士の小隊を先頭に並べ……」
だが、小刻み震える線はやがて大きな墨だまりを作って立ち止まり、それから動かなくなった。
「申し訳……ございませぬ……郭明様……」
最期まで、ヒマワリは謝罪の言葉を口にしながら、郭明の胸元に寄りかかるようにして息絶えた。
「そうか」
郭明はそう言うと、ヒマワリを横たわらせてから、惣代と三郎太を見回した。
「聞いての通り、斥候が捉えた情報によると、既に敵は崑崙攻撃の備えをしておるよう。先の戦略を議論している時間は無いとみえる。各々方は持ち場に戻り、戦の支度をするべきであると愚考するが――如何か?」
その問いは、早すぎる連合の攻勢に絶句する三郎太に向けられていた。
三郎太の描いた戦略は脆くも崩れ、戦いは篭城に委ねられた。
◆
「ふぅ。まったく、陣地を築くのだけで精一杯だ……」
ドラクル、グユント、ジョンヴィレ三個都市軍総督ダレン・ジュノーは額に浮き出た玉の汗を拭いながら、深々と椅子に体を沈めた。
「イーグル君、都市の方から援軍についての連絡は来たかい」
「いえ、まだのようです。しかし食料については、数日のうちにグユントから運び込まれるはずです」
ダレンの問いに答えたのは、神意執行会から、参謀として派遣された、ケイ・イーグルという若い男だった。
ダレンは再び大きくため息をつくと、横目にケイを見つつ、言った。
「僕ももう若くは無くてね。たった一人で戦争なんてできやしないんだよ。一〇〇〇や二〇〇〇の援軍を寄越せとは言わないけどね――いや、本当は欲しいんだけど――せめて、グユントやジョンヴィレの副統領くらいには出張って来てほしいものなんだがね」
ダレンは飛び出た下っ腹を撫でてみせた。とても、一軍を率いて剣を振るえるような人物には見えなかった。
「ドラクル、グユント、ジョンヴィレ。いずれも魔獣の襲撃が比較的軽微であるとはいえ、今後もそうとは限りませんから。駐留騎士の本隊や都市の統領達は、まだ不安に駆られているのでしょう」
「僕は出てきているじゃないか」
「誰もが、総督に期待しているのですよ――ドラクル公」
ダレン・ジュノーは都市ドラクルの統領であり、その家系は連合が王国であった頃から、代々ドラクルを領してきた貴族であった。
今では元貴族という扱いになっているが、都市民の同意と民主的な選出により、結果としてドラクルの統領の職を世襲してきた。
ドラクル公とは、ただドラクルの領主であることを意味するだけでなく、二度の大戦において、赫々たる戦果を挙げた軍事指揮官の称号でもあった。彼もまた、祖父や曾祖父と同じく類稀な軍才を受け継いでいると信じられていた。
「ドラクルから騎士が三〇〇、徴募兵二〇〇〇。グユントから騎士が一〇〇、徴募兵が一〇〇〇。ジョンヴィレからは騎士が五〇、徴募兵が一二五〇。合計して三個都市軍四七〇〇。アヅマを攻め落とすには、この十倍は必要だよ、君」
ダレンは、目を細めて、そびえたつ崑崙の山々を睨みつけた。裾の広い四つの山が、互いに身を寄せ合うように連なった異端の都市。
彼らが坤平原と呼び、ダレンらがアヅマ平原と呼ぶ地に、三個都市軍は布陣していた。
「流石。先々代のドラクル公はアヅマ兵を遊軍として自在に操り、ヴォルフスの名将クラウス・ルントシュテットを討ち取ったと聞きますが。やはり総督も、アヅマ通でありましたか」
「アヅマ通でも何でもなくても、こんなものは誰だって分かる。見えないのかね? 神意執行会殿」
少し苛立ったように、ダレンは崑崙の山々を指さした。
「あの魔獣の跋扈する山々に、アヅマ人がひしめいている。おそらく戦える人間は多くとも二〇〇〇。それでも厄介だが、連合に届け出ている戸籍は偽りかもしれない、ともすれば四〇〇〇……いや四五〇〇、我らと同数ほどの戦士がいる。それをこの……戦争を知らない三個都市軍で攻め抜くなど、不可能だよ。攻城戦というのはね、戦いながらする土木工事だよ。包囲を完成させた後、壕を掘り、拠点を築きながら、少しずつ、一歩ずつ、敵の拠点を潰しながら攻めなきゃならん。加えて今度の相手は自給自足ができて、水にも困らないんだ。こんなもの、数年がかりでも陥とせやしないよ」
まくしたてるダレンに対して、ケイは涼しい顔で、くつくつと笑った。
「総督殿、勘違いしてはなりませんよ。これは戦争であって、戦闘ではない」
「…………」
「確かにアヅマを降伏させるには兵の質も量も不足かもしれない。しかし、アヅマとて連合と本気で戦争をするには何もかもが、我々以上に不足している。それに、アヅマという都市は決して一枚岩ではない――そうだろう」
ケイが振り返った先に、いつの間にか三人のアヅマ人が跪いていた。
「総督殿。我らが大聖女の遺言と、大総統から発せられた命令を覚えておりますか?」
「……君のそれは気に入らない物言いだが、覚えているとも。魔人清浜三郎太の追捕こそが三個都市軍の目的だ」
「その通り、アヅマと戦う必要など何処にも無い。生きていようが死んでいようが、清浜三郎太さえ捕まえればそれでよいのです。そして、このアヅマ夏村の人々は、清浜三郎太を差し出す代わりに、アヅマの安寧を望んだ。とても常識的な判断です」
「そして、この早急な進軍は、アヅマ全体に与える丁度いいプレッシャーとなる……か」
御明察。そう言いたげにケイが微笑んだ。
「二度の大戦において、アヅマは連合と共に戦いましたが、一部のアヅマ人はヴォルフスに金で雇われ、連合に刃を向けたと聞きます。私はこのような性質の彼らを責めるつもりはありません。目先の報酬と契約に忠実であるのも、自己保身に走るのも、人間だからこそ。売る者がいれば買う者がいるのが人の世の法則です。ならば、我らは彼らを買えばよい」
勝利を確信し、不敵にほほ笑むケイ・イーグル。
神威山事件の生き残りだという神意執行会の男に、ダレンは冷汗を流しながら、言い知れぬ戦慄を覚えた。
◆
四つの惣代屋敷は、いずれも決して高いとは言えない板塀と門、水路というほうが適切なささやかな堀によって囲まれていた。
崑崙において、惣代は世襲ではなく二年ごとに村内の寄合で選出される。惣代となりうる有力者たちの顔触れはある程度固定化されるものの、家柄で選ばれるわけでもなく、権門の家というのも興りえないようだった。
それに加えて、崑崙では何よりも伝説上の神々――三神の子等が優先された。権威は彼らにあり、神の社を越える屋敷を建てることは、不文律として避けられていた。
しかしそれでも、惣代はその村の支配者としての威厳を知らしめるために、屋敷に工夫を凝らす。寄合と軍議に使われた春村の惣代屋敷は、惣代の几帳面な性格を反映して、全てが真新しく見えるように手入れと掃除が行き届いていた。茅葺は整然と揃えられ染み一つ無く。門前には砂が撒かれて、雑草は一本も生えていなかった。
それに比べて、三郎太の見上げる夏村の惣代屋敷は悲惨なものだった。
屋根に葺かれた茅は、鳥類の巣に持っていかれて激しい凹凸を成し、板塀は砂ぼこりにまみれ、門柱には蔦が伸びていた。
「お待たせしました」
門が開き、取次の青年が顔を出した。彼は夏村蘇芳組の副組頭、田上と言い、早朝の寄合にも参加していた。少し、迷惑そうな顔をしているのは、三郎太が屋敷を訪れたのが、もう少しで日を越えるかという深夜であったからである。
節度使は崑崙にあっては惣代の直下にあってその命に従い、崑崙の外にあっては惣代に代わって賞罰を行う。大概の崑崙の人間は、今や三郎太よりも下の立場にあるのだが、それでも、俄かにその立場を得た三郎太は、彼らに対して引け目を感じざるを得なかった。
通された客間で待っていると、戸が開いて杞郭明が現れた。紫の、朝服のような出で立ちであった。
「夜分遅くに、失礼つかまつる」
郭明は三郎太を一瞥しただけで応えず、座ってから、
「用向きは」
と、短く告げた。
「戦の事で、相談したき儀がござる」
三郎太は懐から数枚の紙を取り出し、差しだした。
「外征軍の編制と、小荷駄隊に担わせる物資の一覧にござる」
三郎太は両手をついて、郭明を見据えた。
「何卒、お力添えをいただきたい! 拙者に、精鋭三〇〇をお貸しくだされ。さすれば、崑崙の北東より出撃し、敵勢を掻い潜って神威山に迫り、節度使の使命を遂げてみせまする!」
郭明は暫時じっと紙面に目を落としてから、顔を上げて、言った。
「戦装束か」
三郎太は普段の袴と羽織に加えて、いつ合戦が始まってもいいようにと、脚絆と籠手を着けていた。
「常在戦場――そのような題目を掲げるには遅きに失しておりますが、もはや一時の油断も許されませぬ」
「この頃は、一日中、村々を廻って、戦の備えを検分しているようだな」
戦いが篭城に決してから二日間、三郎太は村中を廻って、主戦力となる組の若者たちや、武具の状態を見て廻っていた。
「ならば、冬村の駒打知から、崑崙の守りについては聞かされたであろう」
崑崙に篭城するとは何を意味するか、いかなる備えがあるのか。郭明の言う通り、駒打知から聞かされていた。
「崑崙四山の攻め口は六十四通り、その全てが互いに機能し合い、奇門遁甲の術を凝らした鉄壁の魔陣となっている。山々に曲輪は一つもなく、すべてが自然のまま。而して敵勢は道を失い、崑崙衆は自在に疾駆する。示し合わせたわけでは無いが、ある時は山々の魔獣が追い立てた敵を崑崙衆が討ち、またある時は人々が追い立てた敵を魔獣が喰らう。崑崙四山全てが一体となり、領域に侵入した外敵を迎え撃つさまはまさに鉄壁……と」
「以前、炎がその守りを容易く抜いたことは、例外であるとも言っていただろう」
「まさに」
三郎太が崑崙に出入りするときは、必ず崑崙の誰かが付き添っていたために、その本質に気付いていなかったが、思い返してみれば崑崙の山道は、獣道とほぼ変わらず、土地勘がある者でなければ、たちまち迷ってしまうものと思われた。それに、山城のような守りの為の曲輪が無いことは、敵の足溜まりとなる拠点が無いことも意味し、攻めにくさに拍車をかける。
「それに、そもそも――」
郭明が言った。
「――報告によれば、敵勢はおよそ四〇〇〇。もとより崑崙を攻め落とすには到底足りぬ。それが分からぬ節度使殿ではあるまい」
「されど――」
「そして、三個都市軍は自らの基盤であり、かけがえのない故郷を、いつ牙を向き、いつ終わるとも知れない魔獣の狂騒に脅かされている。このような軍勢が、長々と包囲などできようはずもない。敵が手を引くのに、そう時間はかかるまい」
「…………」
「我らは焦らず待てばよい。初めからこの戦争は三つ巴。敵の敵は存分に使うことが肝要。連合と対すれば魔群を使い、魔群と対すれば連合を使う。そして最小の犠牲で、最後に相対的な勝利を得るのが最上の軍略というもの」
それは、三郎太の常識においてでも、全く反論のしようのない正論であった。しかし、三郎太はそれでも、退くわけにはいかなかった。
「如何にも、郭明殿の言には、理があり申す。されど、拙者は二つの理由から、郭明殿の軍略には、従いかねる!」
「それは」
「一つは、拙者の我儘にござる。――拙者にとっては、もはや数日さえも惜しい。時が経てば経つほど、拙者にとってかけがえのない者達の命が、魔群によって脅かされる! 拙者は、それを坐して待つことなど、到底でき申さぬ!」
「その短慮は実に危険だ。将として、真っ先に敗北を呼び込む気質だ」
「分かっており申す。この短慮が、崑崙衆を、ともすれば死地に追い込むかもしれぬということは、分かっており申す」
「いや、分かっておらぬ。そのような心持のままであるのならば、私は君を節度使として認めるわけには――」
「この志は、あの旗に誓ったものにございまする! 人々を弄び、尊厳を踏みにじる魔群の暴虐を、断固として許さぬと、崑崙の山の神々に、誓ったものにございます!」
スゥーっと、郭明の目が細められた。それは、これまでの、どこか感情の読めない表情とは異なっていた。
「そして二つ目。郭明殿、貴殿が今、拙者に語った軍略には、確かに理がござった。されど、拙者には、そこに、貴殿の真意は込められていないように見えた」
「…………」
「郭明殿、貴殿を崑崙一の軍略家と見込んでのことにござる。貴殿の真意をお教えいただきたい。さすれば、もはや拙者は、この無理を強いようとは、思いませぬ」
しばらく、郭明は無言だった。努めて感情を表さないように、無表情を装っているように三郎太には見えた。
しかし、突如として、ふっとそれがほころんだ。
「ときに、姪は、元気かな」
三郎太は一瞬、郭明が何を言っているのか分からなかったが、すぐに郭明がマツリの叔父であることを思い出した。
「はぁ、マツリは……いや、マツリ殿は……」
「構わん」
「失礼。マツリは……ふむ……元気すぎるくらいかもしれませぬ。拙者の手には負えぬくらいには」
「そうか。あやつは私の手にも負えん」
「しかし、紛れもなく、拙者を救ってくれた者の一人でござる。あのさっぱりとした性格は、迷うた己を、実に小気味よく一刀のもとに斬り捨ててくれる。マツリだけでなく、拙者を崑崙に導いた四人は、まったく拙者に過ぎたるものにござる。――失礼、いささか口が滑り申した」
「そうか。さて、残念だが、時間切れだ」
突然、郭明はそう言うと、立ち上がった。
「……? 時間切れとは」
「節度使清浜三郎太。まったく、間の悪い御仁だ」
「何を――」
言葉の端々に、不審なものを感じた三郎太が思わず腰を上げた時、ふっと首元を何かが撫でたような気がした。
「さあ、あとの事は、君しだいだ」
郭明がそう冷ややかに言い切るのを待たず、三郎太は意識を失い、崩れ落ちていた。
「アカネ、雄人、馬借。任せたぞ」
郭明は、一人残された部屋で、虚空に向けてそう呟いた。




