離騒
「やぁ」
意識を取り戻した三郎太に、シーちゃんは変わらない様子でそう言った。
「一応、釈明は聞いてあげるよ。どうして彼を誅さなかったんだい?」
祭殿の、神の座から薄笑いを浮かべながら、シーちゃんは問う。
出会ったはじめからそうであったが、シーちゃんは実に感情が読み取りがたい。
驚いた顔も、落胆した表情も、全てが作り物のようで真意が分からない。
今も、疑問形の台詞は形ばかりのもので、三郎太がそういう選択を採ることは初めから知っていたかのようにも見えたし、動揺と失望を押し殺し、誤魔化し、平静を装って三郎太に問いかけているかのようにも見えた。
「その必要がなかったからだ」
三郎太はシーちゃんを見上げて視線を逸らさずに言った。
「それを決めるのは源君じゃなくない?」
「誰であろうと構わぬ。最早あやつが世を騒がせる憂いはない。俺共々、この山から下りさせてもらう」
「わかってないなぁ源君は。言っただろう。彼は炎、秩序の破壊者。彼は一代限りの存在じゃない。繰り返し現れては装置のように宿命を果たす存在。君が個人的に彼をどう思っているのかとか、そういうのは関係ないんだよ。百歩譲って、今後蚩尤君が暴れることは無いとしよう。でもね、その次の炎はどうなるか分からないだろう。次代の炎は、やがて必ず世界を滅ぼす宿命を果たそうとする。だから、そうなる前に、この地で彼を誅してその魂を封じなきゃいけない」
「ならば、俺以外の誰かに頼むのだな」
「まぁ驚いた! 次代の炎に何人殺されるか分かったものじゃないのに。秩序の藩屏を自称する人の言葉とはとても思えないよ」
嘲りを込めてシーちゃんはわざとらしく驚いて見せる。
しかし、三郎太は何一つ意に介すことは無く、毅然として言葉を紡いだ。
「化生に唆されて友を討つ。いったいこれのどこに秩序があるというのだ」
瞬間、三人の侍女と供物を守る青年から殺気が零れた。
「友が道を誤ったのならば、まずは言って聞かせ、それで駄目なら殴って聞かせる。刃を持ちだすのは最後だ。お主らの時代ならいざ知れず。今の世には順番があり、道理がある。そしてそれこそが秩序だ」
「……やれやれ、失望させないでくれよ」
シーちゃんから表情が消えた。
一瞬だが、三郎太の見ていた景色に揺らぎが奔った。
絢爛華麗な祭殿の向こうに、恐ろしく、寂しい景色が映った気がした。
三郎太の身を冷たい恐怖が貫く。
首元を濡らす脂汗に、三郎太は顔をしかめた。
「都合のいいように秩序の尺度を変えるのかい? 守るべき世界をあとに回して、個人的な友誼を優先し、後世に災いを残すんだ?」
「次世代の事は次世代が始末をつけるべきだ。俺の預り知る所ではない。後世の頼みとは成果のみにあらず。俺に出来ることは道標となり轍となることだ。俺を導いた先人達のようにな」
「…………――」
無言の威圧に、喉の渇きを覚えつつ、三郎太は告げる。
「分からぬ道理とは言わせぬ。お主らの時代から今までに、何人のそれが現れた。俺もまた、その一人となるに過ぎぬ」
「そう。覚悟はできているんだ。まぁ、そんなものの有無とは関係ないし、背命に対する処置なんて、一つしかないんだけど――」
再び、景色に揺らぎが奔った。
「――残念だなぁ、君は『勇者』の資格無しだよ、匹夫の源。真に守るべきものを見定められず、目先の感情に囚われて、物の優劣、大小の区別もできないのなら、君は『勇者』には相応しくない。彼らを率いて西に行ったところで、無用の殺戮と混乱以外に何も生み出しはしないだろう――死にたまえ」
掲げられた手が振り下ろされ、死罪を宣したその刹那、辺りの景色は様変わりしていた。
玉の床、朱塗りの祭殿は枯れ果てた茫漠たる荒野に。満ちるのは香ではなく獣と死の匂い。
眼前にそびえたつ岩壁にはいくつもの洞窟が穿たれ、その一つ一つから、餓えた魔獣が顔を覗かせていた。
神獣の如きは、どこにもいない。
数多の王侯貴族からもたらされたのであろう貢物は、うず高く積まれた骸に変わっていた。
水に呑まれた者、生きながらに喰われた者、五体を解体されたもの。白骨の上に無造作に放られた真新しい死体の表情は、未だその死にざまを語っている。
化粧を施した若い娘。上質な衣を纏った青年。種々の祭器は髑髏の隙間から鈍く光を放っていた。
全て、人々の祈りの成れの果てだった。
――知っていたことだ。
彼らとは、こういう存在である。そんな事は、とうの昔から知っている。
――あぁ、だがそれでも……
三郎太は瞑目して彼らの無念を噛みしめた。
鯉口を切り、顔を上げる。最も高い場所に穿たれた岩窟は一際大きい。その奥で爛々と輝く二つの獣の瞳が三郎太を捉えていた。
「言って分からないのナラ、殺してでも分からせてやろウ」
地底の底から聞こえてくるような、くぐもった声が処刑の合図であった。
半人半鳥の侍女たちが翼を翻し、鈎爪を煌めかせて三方より三郎太に襲い掛かった。
「三青鳥!!!」
三郎太は気を吐くと同時にその名を叫んだ。
瞬間、血煙と共に青い羽が散った。
既に振られた電光石火の早業が、右方と背後より迫った青と大を斬り伏せていた。
「ひぃっ……」
姉二人が声を挙げる間もなく、一瞬の内に無残な姿に変わり果てたのを見て、左方より襲い掛かった少は恐怖のあまり足を止めた。
三郎太は振り返り逃げようとする少の襟首を掴むと力任せに引き寄せる。
それはまるで背後から抱きしめているようにも見えた。
三郎太の左腕が少の口を塞ぎ、右腕に提げられた脇差が右わき腹にあてがわれた。そして、ずぶりと押し込まれる。
「――――ッ!!!」
言葉にならない悲鳴が空間を劈いた。少は背をのけぞらせて痙攣し、鼻口から行き場を失った血が溢れだす。
「貴様らが、主の供物に捧げた人々の苦しみが、斯様な程度のものであったとは思わぬことだ」
崩れ落ちる少を放り捨て、三郎太は歩を進める。
その悪鬼のような振舞いに、邪龍が怒りの声を挙げて宙に飛び出した。
一度、天高く舞い上がり急降下。地を這う弾丸となった邪龍が、三郎太目掛けて吶喊する。
「ッ!」
たった一人の人間がその巨体、その速さに、真正面から挑めるはずがない。
三郎太は受けることを諦めて、身を翻してそれを躱したかのように見えた……が、そうではなかった。
邪龍が過ぎ去った後、あるべきはずの左腕が、そこには無かった。
バランスを崩して転びそうになるのを寸でのところで堪えた三郎太は、振り返り邪龍を仰いで絶叫した。
「河伯! 貴様だ! 俺は貴様が一番許せぬ!」
三郎太の左腕を咥えたまま、邪龍は舞い上がる。
「何故に処女を喰らう! 何故に田畑を呑む! 我らが貴様に何をした!?」
三郎太の叫びが届くはずもない。
およそ生命には重さがある。人が虱を思うか、蚤を思うか。圧倒的な生命の質量を持つ者は、自らに比して軽い生命を慮りはしない。
そして、三郎太が知っていたように、もとより彼らはそういう存在であった。
恵みをもたらすのも、災いをもたらすのも気分次第。弱く小さな生命の言葉に耳を貸すも貸さないも、また同じくであった。
三郎太の左腕を貪り、呑み込んだ邪龍が首をもたげて狙いを定める。そして身をくねらせながら再び三郎太に襲い掛かった。
「答えよ河伯! 貴殿こそが、最も我らに恵みをもたらした神であったのに――」
悲壮な信仰の告白を、丸ごと呑み込まんと大口を開けて飛び込む邪龍を、三郎太は今度こそ紙一重で躱した。そして、そのすれ違いざまに――。
「――何故に、我らと共にあってはくれんのだ!」
――逆手に持った脇差で、邪龍の脳天から地面までを刺し貫いた。
「ガフゥ……!」
断末魔は短い。即死であった。
邪龍の体は地面に縫い付けられた頭を軸に、慣性に従って土埃を巻き上げながら異形の神殿と供物の山を滅茶苦茶にした。
そして、息つく暇も無く――邪龍の死体を飛び越えて、戈を掲げた青年が推参する。
「もはや容赦せん! 控えろ人間、この場をなんと心得る!」
「貴様が控えろ、大行伯! 人の世ぞ!」
邪龍の頭蓋から引き抜いた脇差を右に担いで、三郎太は大行伯の懐めがけて跳躍した。
一思いに戈の間合いから逃れようと言う算段であったが、急速に血を失いつつある体は三郎太の思い通りには動かない。
「……ぐぬぅ!」
猛然と弧を描いた戈が三郎太の首を穿った。そのまま大行伯が戈を引けば三郎太の首は跳んでいたであろう。
だが三郎太は、ほんの一瞬それよりも早く、自ら進んで前に出た。
首の肉が後ろにはじけ飛び、血が溢れだす。
それを意に介さぬ三郎太決死の片手突きが、大行伯の心臓を、革の鎧ごと刺し貫いた。
「に、人間、お前は何処へ行く……!」
答えず。速やかにその首を刎ね、三郎太はゆっくりと、前へ進んだ。
「さぁ……いざ……」
足元がおぼつかなければ手負いであるなどと侮られてしまう。
三郎太は確かめるように一歩一歩足を運んだ。
「……次は誰だ」
三郎太は切先を向けながら、岩壁の洞窟一つ一つを睨みまわした。
「玉兎か!」
玉兎は仙薬の壺を落としてピクリとも動かなくなった。
「九尾狐か!」
九尾狐が毛を逆立てて三歩下がった。
「蟾蜍か!」
蟾蜍は二本の脚で立ち上がると、踵を返して駆けだした。そして二度と振り返ることは無かった。
「……ならば」
ゆらりと、三郎太が顔を上げた。
視線の先には、一際巨大な岩窟。二つの瞳が爛々と輝いている。
「貴様を――」
「跪ケッ!」
瞬間、見えない圧力が三郎太の全身を襲った。
「うぬっ……!」
耐えきれず膝をついて、初めて三郎太は足元に血だまりが出来ていることに気付いた。
「これまでダナ」
「…………」
「……此処でお前は死ぬ。無意味な戦いだッタ。人間」
「俺は、死なぬ……」
「死体は出ン。向こう側でハ、失せ人になってお終いダ」
「言ったはずだ……後世の頼みは……成果だけではない。無論……形ある物とも限らん」
脇差を杖代わりに、震える膝を鼓舞して三郎太は立ち上がった。
「人は弱い。ただ一度、不作の年があるだけで、何人が飢え死にするか分からん。山に行けば獣に喰われ、海に出れば波に呑まれる。祈らなければ、明日をも知れぬこの世を渡る事など到底できまい。だから……お主らを頼む。畏れ、敬う」
「ならバ、どうしてお前はそうしなイ」
ふと、その声音が変わったことを、既に意識のおぼつかない三郎太は聞き逃した。
「困難に当たったのならば我らを頼めばイイ。苦難を乗り越えられぬのなら、我らに願えばイイ」
「…………」
「人間達で分かち合うことのできるそれヲ、どうして我等とそうしようとしなイ」
「…………」
「供物をささげて、頭を垂れル。それだけでよいのダ」
「そうだろうな。お主らはそういうものだ。だがな」
三郎太はもう一歩も動くことが出来ない。渾身の力を振り絞っても、構えをとるだけで精一杯だった。
「俺のしていることが、特別などと思っているのなら……それはお主らの思い違いだ。俺は、当たり前のことをしているに過ぎぬ。命に代えても守りたいと思っている宝を、お主らに捧げて悲しまぬ者が何処にいる。懸命に生きた証を、容易く壊されて嘆かぬ者が何処にいる。……その哀れな姿を見て、怒らぬ者が何処にいるッ!」
人は弱い。彼らが災いを振りまくたびに供物をささげ、畏れ敬い続けていては、いつか畏怖に囚われたまま、隷属して二度と頭を挙げることはできなくなるだろう。
だから、誰かが立たねばならないのだ。たとえ相手が人智で計り知れぬ存在であったとしても挑むことはできるのだと、守るべき百姓に伝えるために。
そうしてきた数多の先人達に励まされて三郎太はここに居る。
自らに勇と力があり、武士という身分に生まれた。帯刀してこの世に出ることを約束されたのだから、三郎太にその道を継ぐことへの躊躇いは無い。
「傲慢ナ」
「傲慢でなくて、士分が務まるか」
「そして、愚かナ……」
牙をすり抜ける嘆息が聞こえた。
「酔っているのだオマエハ。自らの武を振りまく大義が欲しかったカラ、秩序の藩屏などト、声高に叫んでいる」
「…………」
違うとは三郎太は言わなかった。太平の世に生まれ、乱世の訪れを見た。そして自らの剣技を発揮する場に恵まれず、鬱屈した感情を溜め込んでいたのは事実であった。人の世を脅かす魔の存在に直面して、己の運命をこの地に定めたのも事実であった。
「英雄なんてものは何処にもいない。……オマエの運命の成れの果てを教えてやル」
◆
東の国に男が居た。男は王であった。妻がいて、幼い二人の子がいた。民がいて、人々の暮らしは安らかだった。
だが、彼らの隣人は彼らの都合など顧みはしなかった。
ただ、そうしたかったから、地を揺らし、灰を降らせた。
地の揺れるところ乱れない家は無く。灰の降るところ枯れない作物は無かった。
地を揺らし、灰を降らせた隣人が、次に火を噴くことを、人々は知っていた。
人々は王のもとへと集まり、口々に告げた。
彼と対話できるのは王だけであると。
彼を宥め、鎮めることが出来るのは王だけであると。
そして、彼を殺すことが出来るのも、王だけであると。
王は頷いた。その心中を誰も知らぬ。
王は民を安全な隣国へと逃がし、妻と子と四人だけで国に残った。
王は国中の貢物を祭殿に集め、一心に彼に祈った。
どの様な祈りを言祝ぎ、何を願ったのか、誰も知らぬ。
きっと、それは真摯であったはずだ。しかし、王の祈りは届かなかった。彼は再び地を揺らし、灰を降らして火を噴いた。
王はたちまち立ち上がり矛を執った。妻は目を伏せ、その腕に抱かれていた子は泣いた。
「――――!」
王は祭殿を蹴り飛ばし、供物を踏みつぶして、何かを叫んだが――その言葉を誰も知らぬ。
◆
「この男を、オマエは知っているカ」
「…………」
「知るはずもあるまイ! こやつは何一つとして残さなかった。名前も、名誉モ!」
「…………」
「ダガ! こやつは、オマエ達が知っていなければならなかった男ダ! 伝えなければならなかった男ダ!」
「…………」
「オマエもそうなる。誰一人としてオマエを顧みる者など現れぬ。人の世に、何一つとして残すことは無く、闇に消える――それが嫌ならば、英雄気取りは止めることダ。凡夫のように振舞えばイイ。
……これが最後だ、己一人で炎帝を滅することが出来ないと言うのなら、我の手を取レ。北竟大帝を討てぬのナラバ、我を呼べ。大義を果たすのダ。源」
彼女は言う。凡夫のように、祈りを捧げて助けを請えと。そうすれば、存分に力を貸してみせると。きっと、その言葉は真実であった。
――腹立たしいほどに、彼らであるなぁ……
三郎太は厳しく釣り上げていた眦をわずかに下げて――すぐにカッと見開いた。そして、
「与太話は終わりか!」
と、告げた。語気には有無を言わせぬ決別の意思が読み取れた。
「何を躊躇う。何を待っておる。この期に及んで、まさか俺一人を怖れはすまい」
――なんと、かたじけない話であろうか――
「世に名を残し、歴史の光明に照らされる者もいれば、残さずして闇に消えていく者がいる。お主に諭されるまでもない、自明の理だ」
――男児に生まれて使命を遂げて、それでもなお名が残らぬとは、化けて出ても果たされぬ至上の無念――
「高座より見下ろすお主らにとっては、我らは、小さな駒にでも映るのであろう。それが思うように動かぬとならば、さぞ不愉快なことであろうな」
――されど、人の世に名が伝わらずとも、彼らは見ていた、知っていた。東の王が一命をかけて遂げた使命は、彼らの魂に刻まれて消えることは無く、そして後世となってこの俺に伝わった。かの王は確かに本懐を遂げた!――
「不愉快ならば、気に入らぬのなら早う殺しに参れ! 誅罰、神罰、祟り。大層な題目を掲げて、己の欲望を果たして見せろ。俺も、お主らが気に入らぬから受けて立つ」
――俺は生きるぞ、東の王と同じように。いかにも彼らはずっと我等の隣にいた。そしてこれからもそうだろう。まことに彼らがいるという現実は震える程恐ろしく、母の腕に抱かれているかのように心地よい――そして、だからこそ、甲斐がある――。
「俺はまだ死ぬわけにはいかぬ。貴様を討って、麓へ戻る。生きて使命を遂げねばならぬ!さぁ化生、いざ参れ!」
――恵みも災いも、彼らがもたらすその全てに、人として全力で応えよう!
三郎太が足を拡げて腰を落とし、霞に構えを執った瞬間、岩窟の中から薄汚れた衣を纏った毛むくじゃらの化物が飛び出した。
――その状は人の如く、豹の尾、虎の歯をもち、善く嘯き、蓬髪に勝を戴く。
化物は四肢を拡げて三郎太目掛けて跳躍する。
その場に留まれば圧潰されるのは必定であったが、三郎太の足はもはやその場から一歩たりとも動けない。残された全霊はただ一刀の切先にのみ向けられた。
必死必殺の思いで化物を見上げた三郎太。爛々と光る獣の眼に射竦められたとき、抗い難い恐怖が、冷たい電撃となって全身に奔った。
「おぉッー!」
強張る体を鼓舞するように叫びながら、乱杭歯の覗く獣の顔面目掛けて片手突を繰り出した。しかし、化物は獣の如き俊敏さと、武芸者の如き冷静さで、首を少し傾げただけでそれを躱した。
――仕損じた!
そう思った時には、既に全身は獣の匂いに包まれていた。
走馬灯の類であろうか。ゆっくりと流れる景色一杯に広がるのは恐ろしい化物の姿。
三郎太は、せめてその姿から目を背けるようなことだけはすまいと、これでもかと目を見開いた。
次の瞬間、それは驚きのためのそれに代わっていた。
「――――!」
覚悟していた衝撃。己を圧潰すはずのそれは「トン……」とあまりにも軽いものだった。
「――ありがとう」
かぐわしい香の薫りと、絹の優しい心地に包まれた三郎太の耳元で、そう、囁くものがあった。
「怒ってくれて、恨んでくれて……信じてくれて、ありがとう。君がいつも想ってくれるから、私たちも君たちの傍にいられる。こんなことを言ったら、君はまた怒るのだろうけど、私たちは人間の泣いている顔も、怒っている顔も、大好きなんだ。勿論、笑顔だって」
「し、シー――」
何事かを言おうとした三郎太の口は、彼の頭を抱きしめる腕に遮られて途絶えた。
視線をあたりに向けてみれば、茫漠たる荒野と、忌むべき祭壇は何処ぞへ消え失せ。初めに見た絢爛華麗なる神殿が再び広がっていた。
「正しいことが何なのかなんてわかるもんか。感情のままに動いたとして、誰にそれが責められるって言うんだい。物の大小の区別なんて、人間は規矩じゃないんだから、いつも正確に測るなんてできっこない。でもね――」
三郎太を解放し、地に降り立ったシーちゃんが三郎太の顔を覗き込んで言う。
「――それはそれでいいじゃないか。いつも正しく、世界を救うのが『勇者』だって言うのなら、そんなものに君はならなくていい。私の知っている君たちは、いつもみっともなく間違い続けていたからね」
「ま、まてっ! お待ち……下され……俺は――」
いつの間にか、三郎太の左腕は何事も無かったように五体に帰還している。
首元には傷一つなく、血だまりも消え失せていた。
「俺は、この場には、相応しく――」
「めっ!」
何かを言わんとした三郎太の口を手で塞ぎ、そして、三郎太の頬に手をそえながら、シーちゃんは言う。
「男の子に二言は無いはずだよ。君は君を貫きたまえ。その先に幸せがあるかどうかを、私はもう保証してはあげられないけれど、せいぜい見守っていてあげるからさ」
そして、三郎太に応じる暇も与えず、トンとその肩を押した。
とても弱い力であったにも関わらず、三郎太は思わず後ずさりし――真っ逆さまに虚空へと落下した。
「おぉッ!?」
「向こうで、蚩尤君に伝えておくれ。『羨ましいよ蚩尤。寄る辺を見つけたのだから、二度と迷うな』ってね」
「嗚呼っ! 俺は、俺はッ――!」
葛藤の中に言うべき言葉が見つからず、顔を歪めて悲し気な視線を向ける三郎太に、シーちゃんも、ほんの少しだけ目を伏せて、別れの言葉を告げた。
「怒らずに、こう呼ぶことを許しておくれ。私達の勇者、その道に幸あれ」
◆
「ん……あぁ――」
目を開けた蚩尤は、飛び込んできた空の青さに目を細めつつ、言った。
「なんか、久しぶり、こういうの」
大の字に寝転がった体を包むのは、冬の間に乾ききった落ち葉の山であった。
ふいに首筋にチクリと触れた枯れ枝に、蚩尤は顔をしかめた。そして、そんな自分に驚いた。
野山に暮らすのが当たり前であったかつてでは、考えられないことだ。
いつのまにか、この程度のことが不快に感じるほどに人並みの暮らしを得ていたらしい。
「ははっ、つーか、なんで俺はこんなところに……」
言いながら、体を起こし、首を捻って――見遣った先に清浜三郎太がいた。
腕を組み、仁王立ち。眉間にしわを寄せて、蚩尤を睨みつけていた。
「――えっ」
瞬間、引く波のまた押し寄せるように、記憶が蚩尤の脳内に奔流した。
「いっ――! やっ……――」
霧に包まれた男を蹂躙する。自らに備わった暴力を、思うがままに発露する。
天下の大丈夫を敗北の屈辱にまみれさせ、邪知暴虐の道へと引きずり込む。
『楽しかっただろう』
そう、記憶の中の蚩尤でない炎が囁いた。
「違う……違うんだサブロー……。俺は、そんなつもりじゃなくて、あんなひどいこと、したくてやったんじゃなくて……」
「…………」
「ごめん……ごめんよ! な、殴らないでっ……!」
近づき、拳を振り上げる三郎太を見て、蚩尤は咄嗟に頭を抱えた。
しかし、いつまでたっても衝撃は訪れない。
――あぁ、でも、そういえば……
蚩尤は、押し寄せた記憶の中から光明を見つけ出した。
清浜三郎太という男は、あらゆる暴虐を見せた自分の過去を、ひとつひとつ名前を呼ばわりながら、自分の事でなくても恥ずかしくなるような称賛を浴びせていたではないか。
そして何より、
――俺のこと、友達だって……。
「さ、サブロー。お前やっぱ――」
「たわけ!」
「――いだいっ!!!」
隙を見せた蚩尤を見逃さず、無慈悲な拳骨が、甘い考えに鈍った脳を揺らした。
「いたいっ! 何すんだよバカサブロー!」
「斯様な非常の事態に、昼寝を貪る愚か者が、人を指して馬鹿とは何事か!」
「ひ、昼寝って……だって、サブロー、俺は……」
「黙れ。行くぞ。俺は腹が減った」
三郎太は蚩尤の不満足気な視線をにべもなく斬り捨てて、踵を返して山を下りようとする。
蚩尤の記憶に鮮明に残っているあの激闘を、本当に蚩尤一人の記憶にしたまま、何処かへ行ってしまいそうだったから、蚩尤は三郎太を引き留めるべく立ち上がり、そこで、気づいた。
「あれ、これって……」
三郎太が立っていた近くの巨木に、何かが刻まれていた。
邅吾道夫崑崙
路脩遠以周流
揚雲霓之晻藹
鳴玉鸞之啾啾
朝發軔於天津
夕余至乎西極
鳳皇翼其承旂
高翺翔之翼翼
刃物で木の肌を削って刻まれたそれは、肌の色の具合から見てまだ真新しい。
それは、たぶん字であり、詩であった。蚩尤は見たことのないそれを、なぜか読むことが出来た。
「……邅って吾れ夫の崑崙に道すれば、路脩遠にして以て周流す。雲霓の晻藹たるを揚げ、玉鸞の啾啾たるを鳴らす」
崑崙へと道をとり行けば、路ははるかにめぐりめぐる。車上に挙げた雲や虹の旗は日を蔽い、玉の鈴の音はさわやかに鳴り響く。
「朝に軔を天津に發し、夕べに余れ西極に至る。鳳皇翼しんで其れ旂を承げ、高く翺翔して翼翼たり」
早朝に彼方の渡し場から車を発し、夕方には西の果てまで行く。鳳凰はつつしんで旗を捧げ持ち、空高く駆けてゆったりと従い来る。
「ねぇ……これは、サブローの詩?」
「違う」
いつの間にか、蚩尤の背後に立っていた三郎太が、答えた。
「刻んだのは俺だが、俺が詠んだわけではない」
「じゃあ、これを詠んだのは誰」
「……蚩尤、なぜ泣く」
振り返った蚩尤の瞳からは滂沱の涙が流れていた。
「ダメだよ、ダメだよこの詩は」
「どうして、そう思う」
「だって、旅立ったこの人は、もう、帰ってこない」
「…………」
「なんでだよ、サブロー。なんで、こんな詩を。いやだよ、俺は……」
「…………」
三郎太は自らが刻んだ、彼らへの決別の詩を睨みつけ、蚩尤に視線を落とした。
「この男は、誇り高い男だった」
「え――」
「一人で戦い、一人で散った。過ちと手を結ぶのを良しとせず。心中の幻想と共に果てた。愚かさの証かもしれぬ。だが、習うべき清らかさでもある。だからこそ、この男の志は後世に消えぬ炎を灯した」
「…………」
「だが、凡夫の俺はそうはいかん。衆を率いなければ、何も成せぬ。だが、それでも、率いたのならば必ず成すぞ!」
三郎太は袖を翻して斜面を跳び下りる、そして振り返り、言った。
「涙を拭え、そして、二度と迷うな炎帝蚩尤。告げたとおりだ、お主ら全員、俺が連れて行く」
「サブロー……」
「合戦だ。神仙魔獣の跳梁跋扈する神代の秩序を覆すぞ!」
◆
「あーあ、行っちゃった」
シーちゃんは、朱塗りの欄干に寄りかかりながら、弱水の水面を見つめて、そう言った。
そこには、山を下りる、三郎太と蚩尤の後ろ姿が映っていた。
「本当に、よかったのですか」
「んー? なにが?」
戈を携えた青年、大行伯が、水面に視線を向けながら、尋ねた。
「炎帝は寄る辺を得た。しかし貴女様は、もう二度と、彼方に戻ることも、此方に顕れることもできないのでは……」
「二度とだなんて、そんな油断していていいのかなー。それに、私だけじゃなくて君たちも一緒だし」
「仮に次にこのようなことが起きたとしても、何千年、何万年後になるか」
「明日かもしれないし、今かもしれないよ? 人の心は複雑怪奇、移ろいやすいものだから」
「まったく、貴女様は……」
シーちゃんは、遠ざかる背中を満足げに見送っている。自らの採った選択に後悔など少しも無いようだった。
「禍を転じて福と為す……彼らの得意技、彼らにしかできないこと。炎帝が選ばれたのは、必然だったのかも」
「彼は、ついぞ貴女様の名前を呼びませんでした」
「失礼しちゃうよね」
シーちゃんは目を伏せてため息をついた。
「最初から最後まで『自分はこの場に相応しくない、自分がこの場に呼ばれるはずがない。だからあの人は俺の知っている彼女ではない』って思いこんでいたよ、彼。」
「気持ちの分からないわけでは無いですが……」
「そりゃ、姫満君や劉徹君と比べればとんでもなく格が落ちるけどさ、それと、私が誰かとは関係ないじゃん。分かっているなら言いなよって。自分を卑下しているつもりかもしれないけど、私に失礼じゃん」
「…………」
史上の英傑と神仙の世界に、自らを加えることは、それだけでとても勇気のいることである。
この山の中で、最も人の心の分かる大行伯は、少しばかり三郎太に同情を示した。
それを察してか、シーちゃんの矛先は大行伯らに向いた。
「というか、ちょっと失望するわ~……」
シーちゃんが口を尖らせて見遣った先には、団子のように固まった三人姉妹の侍女がいる。
青は座り込んで、断ち切られたはずの首元を、所在を確かめるようにさすっており、大は脇腹から斬り上げられた胸元を抱え込んでいる。なまじ意識を失う前に、こぼれ出た中身を見てしまったために、ちゃんと必要なものが全て体内に収まっているのか不安であった。
一番悲惨だったのが少で、背を丸めてひたすらえずいていた。時折、青と大がその背中を撫でるのが一層哀れであった。
「おーい、大丈夫ー?」
「だ、だい……無理です……」
「あの、本当に、全部戻ってますよね……?」
「…………」
「はぁ、人間一人にいいようにやられちゃってさぁ、私がいなければどうなっていたか」
「はは……」
無論、大行伯に彼女達を責めることは出来ない。自らも、油断があったとはいえ、彼に討たれているのだ。
「負けるのはいいけどさぁ、いつまでそれを引きずっているのさ」
――内臓を乱される苦しみは、たぶん、なかなか忘れられないものだと思いますが。
賢明な大行伯、勿論、声には出さなかった。
「彼女達も河伯君くらい思い切りがよければいいのに」
「いや、彼は彼で……」
シーちゃんと大行伯が遠い目で弱水を眺めた、ちらと光った空間を見れば、はるか遠くで身をうねらせる河伯がいた。
「泣いているね、彼」
「ええ、大粒ですね」
河伯は泣いていた。大粒の涙で弱水の水面を揺らし、身をくねらせては空に吠えていた。
「誰の事を思い出していると思う? 西門豹かな?」
「子羽だと思いますよ。恐れることなく剣を振るうさまは、彼に似ていました」
「ははは。あの子らと喧嘩したときはあんなに怒っていたのに、今は泣くんだね」
「今は、後悔しているのでしょう。彼らや、多くの人々にしたことに。本当は彼の祐けになってやりたいのに、それが叶わず悔しくて泣いているのだと思いますよ」
「気分屋だなぁ、相変わらず。ま、あんな告白をされちゃ、そうなるかもね」
それから、シーちゃんはもう一度三姉妹を見て、大行伯に告げた。
「玉兎たちのところへ行って、薬湯でも作ってきてあげてよ。少しは楽になるんじゃないかな」
頷いた大行伯が去ってから、シーちゃんは、独り言のように言った。
「彼は成し遂げたよ。私の手を取らず、貴女の力も借りず」
言葉は、傍らに立つ、白衣の女に向けられていた。
女は、その赤い瞳で、遠ざかる三郎太の背中をじっと見つめていた。
「貴女はどうするの? 貴女は私達と違って、まだあの世界に縁がある。出来ることはたくさんあるはず」
「…………」
「認めるよ、強情者。君は確かに、呼ばれ、祈られ、願われる存在だ。今更その在り方を変えるのが、難しいというのも、まぁわかるよ」
「…………」
「だけどさ、たまには気紛れもいいじゃないか。呼んで、祈って、願って――私を見ろって彼に伝えてみなよ」
「…………」
「普通のやり方じゃ、きっとダメだ。彼の度肝を抜くような、派手なことをしてあげなよ」
「…………」
「私が言うのも変な話だけど、心のままに、やってみろってね。――情念に任せて男を追いかけまわすのも、私は悪くないと、思っているよ?」




