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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
第二章 境の隣の神の山
87/102

名前を呼んで

「さぁ」

「我等が見届けよう」

「相応しいか否かを」

「我が盟友ともと」

「共にあり得るか否かを」


 不気味な言葉と不気味な音で三郎太は目覚めた。

 霧に包まれた林の中に三郎太はいた。あらゆる方向から巨大な何かが這いずり回る音が聞こえ、微かな腐敗臭が鼻についた。


――化生共め、念入りに俺を逃がさぬつもりか。


 三郎太の中に目覚めたのは反骨の炎であった。

 それが燃えるにしたがって先ほどまで全身を貫いていた恐怖が薄れていく。


――小僧を連れて帰る。有象無象・・・・の思惑なんぞ、知ったことか!


 覚悟を決めて、睨みつけたその先には、鏡越しに見た小さな影が佇んでいる。


「蚩尤! 何をしているか!」


 三郎太は、大音声でそう呼ばわった。


「斯様なところで油を売っている暇があるのか! 早う帰るぞ!」


 蚩尤の影は、確かにその声に応じて、此方を見たかのように見えた。

 しかし、


「うむっ!?」


 影はぼんやりと形を失いながら霧の中に消えていく。三郎太は驚きながらも、躊躇うことなく足を進めた。


「小憎たらしい我儘っ子め! 拳骨を落として首根っこを掴んでやらねば分からぬか!」


 三郎太は肩を怒らせて蚩尤の影を追いかけながら霧の中を突き進むが、いつまでたっても、行き止まりにも、影にも辿り着かない。

 そのうちに、三郎太は霧の中に微かな違和感を覚えた。

 ふと立ち止まって耳をすませた時、その正体に気付いた。


――化生の這いまわる音に、何か他の音が混じっている……これは――。


 一つは聞き覚えのある音であり、もう一つはまれに市などで聞く音。


――馬蹄と……車輪!


「近いっ!」


 三郎太はほとんど夢中で真横に飛びずさって地に伏せた。

 直後頭上を何かがひゅっと二度通り抜けた。

 一つは矢であり、三郎太を過ぎて後ろに突き立っていた。

 果たしてもう一つの正体が分からない。しかし考察する間もなく、またそれが近づいてきていた。

 今度は見失わじと、音のする方へと目を凝らした。

 三郎太に迫る巨大な影は、徐々にその音とともに正体を鮮明にした。


――四頭の馬と御者、車左の弓矢に車右の戈!


 上古、中原において天下を競い合ったという戦の車が、三郎太の眼前に迫っていた。

 ぼろぼろの旗をたなびかせ、轟音とともに塵を巻き上げるその威容にあてられて、三郎太はたまらず脇差を抜き放った――その刹那、三郎太を包む気配が明確に変わった。


 追いかければ捕まえられそうだった蚩尤の影はもう見えない。

 が、明確に三郎太を敵とし、殺そうとしていることが全身を突き刺す殺意によって理解できた。

 車左が弓矢を引き絞り、車右が戈を振り上げた。


「……っ! ええい!」


 迎え撃つ気であった三郎太は咄嗟に応じることが叶わないことを悟り、無我夢中で脇差を振るいながら横に跳んだ。

 すれ違いざまに確かな手ごたえ――しかし、果たして矢を弾いたのか戈を防いだのかも分からない。

 戦車は緩むことなく突き進み、その音を遠ざけながら霧の中に消えていった。


「斯様な山林の中で、何処から現れて、何処に消えたと言うか……」


 戦車が現れては、一撃を加えて去っていく。

 もとより常識では測れない空間にあることは理解しているが、そうぼやかずにはいられなかった。

 ほんのわずかな息つく暇も与えずに、次の気配・・・・が霧の中に充満した。


――今度は何だ! 何を仕掛けてくる!


 目は頼りにならないと、耳をすませてみるが、何もない。

 三郎太はすぐにその滑稽なことを悟った。

 ただ、目の前をよく見てみるだけでよかった。

 それは亀であろうか、鼈であろうか。黒い影が、太い足で巨体を支え、長い首を伸ばして此方を睥睨していた。

 大きすぎるあまり、当然にそれとは気が付かなかったのだった。


「…………!」


 三郎太はただ歯を食いしばってその巨体を見上げるより仕方なかった。

 逃げて逃げられるとも思えず、立ち向かって討てるとも到底思えなかった。


 巻き起こったのは逆巻く波濤であった。泥も砂も石も何もかもを巻き込んだ土石流が、三郎太を呑み込まんと地響きを起こしながら霧の外から迫っていた。


――おのれっ! おのれっ! おのれっ! 俺は退かっ……――


 覚悟を確かなものとするより早く、波濤が三郎太を呑み込んだ。

 ありとあらゆる方向からかかる力に全身をもみくちゃにされながら、三郎太は確かに死への恐怖が腹の底から湧き上がるのを感じた。


――…………!?


 ただただ暴力の嵐。

 思考は何一つまとまらず、自分が何処を向いているのかも、どうなっているのかも分からない。

 しかし、口だけは開かなかった、もしも開いてしまえば恐怖が音となって現実に漏れてしまうから。

 刀だけは手放さなかった。もしも手放してしまえば、無様にも、生を求めてもがいてしまうから。

 そうして、百年とも思えるような地獄のような数十秒を、三郎太はただ耐えしのいだ。

 木か枝かに引っかかり、水が引いていくのを感じながら、三郎太が第一に考えた事は、


――死んだ! あぁ! 死んだ!


 生きているからこそ、考えられるのに、三郎太は自分に向けてそう叫ばずにはいられなかった。


「がハッ……ゴホっゴホッ……!」


 両手足をついてえずきながら泥水を吐き出す。肺に入った土砂が痛い。腹に入った水が重い。

 心臓は壊れんばかりに鼓動を上げて、呼吸はままならない。だが――


「あぁ……あァッ!」


 突如として三郎太は、体と精神の限界を超えて跳ね起きると、何度も転びながら、駆けだした。

 三郎太自身、行動に思考が追いついたのは、体を隠せそうなほどの、倒れた巨木の影に飛び込んでからであった。


――誰だ! 誰に狙われた!


 巨大な化物の影が消えたと思った刹那、三郎太の全身を襲ったのは、一本に研ぎ澄まされた殺意だった。影もなければ音も無い。だが、三郎太は霧の向こうに弓矢を構えた狩人が、二つの瞳を光らせている姿を確かに知覚した。


――放たれれば必ず当たる! 当たれば死ぬ!


 必殺・・の一語は修飾ではない。嘘偽りのなく必殺。

 姿を見せれば、その瞬間に三郎太の体躯はあっけなく射抜かれるだろう。アマゾーンの矢とは文字通り格の違うそれが確実に三郎太の命を奪うであろうことは、実証の必要もなく理解された。

 湧き上がるのは嘘偽りのない恐怖であったし、挑んで勝てるとも思えない絶望も確かに身を蝕んでいた。しかし、


――あぁ、いっそ、この巨木の影から出なければ……あとは腹の減り具合の勝負にでも持ち込めるものを……。


 死の瀬戸際にありながら、三郎太はなぜか、自嘲気味に薄く笑って巨木の影から飛び出した。

 瞬間、天から降って巨木を粉みじんにしたのは巨大なまさかり――王の力であり、刑罰の在処であり、将軍の証であるそれ――だった。


 三郎太が跳びずさった先では、俄かに地割れがおきていた。しかし、三郎太は躊躇うことなく、大地の縁に足を掛け、無理な姿勢ながらも思い切り跳躍した。

 辛うじて向こう側に飛び移った三郎太のもとに、また、捲土重来の響きがこだまする。


 馬蹄と車輪、たなびく旗。空気を切り裂く五兵と狂ったように響く鼓吹。

 べちゃべちゃと腐った肉が零れ落ちる音。けたけたと嗤う数多の髑髏。


 さながら車懸の陣のように、入れ替わり立ち代わり終わることなく繰り出されるエンという名の破壊の暴風に包まれながら、なぜか、三郎太の口元には苦笑が佩かれていた。



「あっ! 危ないっ!」


 シーちゃんが、覗き込んでいた鑑から目を逸らして手で顔を覆った。

 そして、指の隙間から微かに鑑を盗み見て、


「あぁ~生きてた……。いやー、今のは首がスパーンってなったかと思ったよ~」


 自らの頸をさすりながら、そう、間の抜けた声を挙げた。

 正しく、劇を見ては一喜一憂してはしゃぐ童女のような振舞い。

 偽りなく生死をかけた闘争に身を置く三郎太を眺める態度としては、不謹慎なことこのうえなかった。


「うわっ、次は水か~。こわいよねー水。ほんとに何でもかんでも呑み込んじゃうんだから。ねー」


 大きく上体を逸らして背後に眠る巨体にからかうようにそう告げる。

 巨体は片目を開けてシーちゃんを見ると、興味なさげに再び目を閉じた。


「あ~、今度はあの人の弓ね~。見てる側としては地味でつまらないんだけど、あの場にいたら怖いんだろうな~。……うわっ! こわっ! でかッ!」


 手足をばたつかせ、表情をころころ変えながら、シーちゃんは侍女の掲げた鏡を鑑賞する。


「……お、そろそろ一巡したかな? でもなんだか有効な策も思いついていないみたいだし――彼、死んじゃうかもね?」


 童女のような表情の中に、妖艶さが差し込んだ。シーちゃんが流し見た先にいたのは真っ白な衣を身に纏った女。その衣服とは対照的な射干玉の黒髪を下ろし、真赤に輝く瞳で鏡を見つめていた。


「余計なお世話かもしれないけど……いいのかな、大切な彼が死んでも」


 女は応えない。声が、耳に届いているのかも怪しい。微動だにせず、瞬きもせず、じっと鏡を見つめている。


「……東夷の方々の随分と薄情なこと」


 シーちゃんは呟き、ふぅと溜息をついた。そして、だったら好きにしたらいいと言い、鏡に目を向けた。


「私は何も知らないけれど、貴女がそうなった・・・・・理由だけは確かに分かるわ。だって貴女はずっと応えてあげなかったんでしょ? 今みたいに、誰にも、何にも。だったら、忘れられて当然よね」

「…………」


 すっと顔を上げた女が、シーちゃんを見た。表情は何一つ変わらないが、赤い眼差しには確かに怒りが籠っているように思えた。


「あぁ、訂正するわ。祟るくらいの矜持はあったのね。もっとも、貴女程度のそれじゃ、人は何も顧みないのでしょうけど。その程度の不幸は誰だって経験している。誰だって乗り越える……ってね」

「…………」

「自覚の有無なんて関係ない。そんな必要もないのに、貴女に捕まってしまったから、青春の全てを貴女にささげてきた。それなのに、貴女は平然と彼を見捨てようとしている。独占して、束縛して、この世界に引きずり込んで起きながら、貴女は見返りだけを求めている」

「…………」

「平然とではない? 見捨てたいわけじゃない? だったらどうして貴女は何もしないの? たった一度、彼が純潔を失ったから? 貴女ではない誰かに、それを捧げたから?」


 瞬間、殺意が祭殿の中を駆け巡った。

 眠っていた全ての神獣が目を覚まし、青年が戈をしごいた。


「……本当にくだらない。だったらいつまでもそうしていればいい。そうして処女おとめを犯し、喰らい。それが叶わなくなれば男に取り入り、最後は誰彼構わず襲う化生となって、忌み嫌われて、忘却されればいい。彼がどうなろうと、貴女がどうなろうと、私たちは結果さえ得られるならそれでいいから」


 静かな闘志が祭殿を満たす。

 そうさせた両者の感情の正体を、誰も知らない。



 戦車の突進、放たれる矢、迫りくる戈。

 逃げ場のない濁流。必中必殺の弓矢の気配、振り下ろされる鉞、割れる大地。

 その他、数え上げることのできぬ数多の剣戟。

 手を変え品を変え、繰り返される攻撃を、三郎太は常にすんでのところで躱していたが、有功な反撃も、打開策も、何一つとして得てはいなかった。

 死の危険を幾度となく潜り抜けながら、三郎太に去来する感情は絶望ではなかった。

 殺されそうになるたびに、ふっと恐怖が沸き起こるが、それは表には出なかった。

 繰り返されるのは既視感と、「あぁそうだったのか」という奇妙な納得感であった。


 今、迫り来たのは四頭立ての戦車であった。それまでとは趣が異なり、車左は威厳ある玉の装飾をこらした豪勢な衣服を纏いながら弓矢を構え、車右は矛や戈の代わりに車左の為の傘を掲げていた。

 夢中で三郎太は脇差をふるい、奇跡的に矢を斬り落としながら、戦車の突進を躱した。

 ボロボロの旗をたなびかせながら霧の向こうに消えていく戦車の姿を見送りながら、再び生きながらえたことを安堵するとともに、


「やはりか」


 と三郎太は呟いた。


「善鸞上人、善樹。おれが此方の世界に迷い込んだことが、仏や神の導きであり、必然であったと言うのならば、それは、今、この瞬間のためであったのかもしれぬ」


 そしてまた、言った。


「蚩尤よ。お主がエンをおそれ、炎となることを忌避した理由が、ようやく分かったぞ。

……この程度の言葉は、もはやお主らには届かぬのだろうが、お主らは確かにエンであって、エンではない。そして、じゃれる・・・相手に俺を選んだのは正解だった」


 霧から現れる破壊の暴風を、まとめてエンと呼ぶのは簡単だ。

 だが、そのような安易な行いを許せないほどに、三郎太は彼らを知って居た。



 「夏桀殷紂」という言葉がある。己の国の滅亡を自ら招いた二人の暴君、桀と紂。彼ら二人の名を貶め、その所業を伝えることで、学者も王侯も臣下も、城を傾けることのないように自戒する。

 この四字を以て鑑戒かんかいとするのは、武士という身分。為政者の側にあるものとして、三郎太にとっても当然のことであった。


 暴政は忌むべきだ。暴君は許し難い。それらは秩序にとって害悪だ。

 だから、もしも主君がその道を誤るようなことがあれば、それは諫めなければならない。

 もしもそれで主君が変わらぬというならば――そのようなことを考えることすら、臣下の道に反する行いではあるが――腹を切ってでもお諫め申し上げる……そういう選択もあり得るかもしれない。

 三郎太の秩序を想う心は、真実それほどに深かった。

 しかし、その一方で、「夏桀殷紂」と聞けば、三郎太はある一つの光景を思い浮かべてしまう。

 それは、万民に恨まれ、諸侯に叛かれた暴君が、周囲を軍兵に囲まれて、怨嗟の歌が響く中、今まさに燃える楼閣の上で最期を迎えようと、孤独に佇んでいる姿。

 三郎太はその景色を見ると、わぁっと泣き叫びたい感情に襲われて、こう思ってしまうのである。


――俺がもしも彼の王の臣下であったなら、最期まで傍にいるものを!


 その王の前に躍り出て、攻め来る寄せ手を力の限り斬り伏せて、彼はまさに稀代の君主。我が忠節を捧げて何の悔いもない名君であったのだと叫んでやりたい。汚泥にまみれたその名に、針穴一つ分でもいいから清浄な痕を残してやりたい。そんな衝動に駆られるのである。

 秩序の破壊者を忌避しながら、それでもそれに惹かれてしまうという矛盾する感情。

 此方の世界でも幾度となく経験した感情を、三郎太は道理に合わないものであると自覚しつつも、なおそれを抱えて生きていくのだと決めていた。



 ハリマの前で誓ったそれは、今、まさに彼の操る戦車とすれ違った瞬間に、さらに強固なものになっていた。


「なるほど、彼ら全てをまとめてエンとするか、秩序の破壊者と呼ぶか。いかにも分かり易い理解よな、俺自身も頷きかけたぞ――たわけが!」


 三郎太はそう一喝すると立ち止まった。

 迫りくる破壊の暴風に挑むでもなく、こらえるでもなく、逃げるでもないような、不思議な態度でそこに佇んだ。


「どいつもこいつも! 字面だけを追い、口伝を弄びおって! 相対してみた時、去来する感情はこうも違うものか! あぁこの場に立って、やはりまた己が暗愚であることを悟ったぞ!」


 向きを変えた戦車が、再び三郎太に迫る。

 三郎太は脇差を眼前の地面に突き刺して、徒手空拳で仁王立ちとなり、その行く手を遮った。


「史記に曰く、帝紂は酒を好み淫楽し、婦人をへいす。賦税を厚くし、以て鹿台の銭をたし、而して鉅橋きょきょうぞくたす。鬼神を侮り、酒を以て池と為し、肉をかけて林となし、男女をしてはだかにしてその間をあい逐わしめ、長夜の飲をなす。百姓怨望し諸侯叛く者あり!」


 戦車の男が、憤ったように見えた。宝剣を高々と掲げて、誅戮の命を下したようだった。


「墨子に曰く、昔三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、此れ天意に反きて罰を得し者なり」


 霧の影から幾台もの戦車が現れた。

 王者の従える三師の戦車が王に仇なす敵を粉砕せんがために、戈を掲げて疾駆する。


「荀子に曰く、其の善者少なく不善者多きは桀・紂・盗跖なり。

 孟子に曰く、桀・紂の天下を失えるはその民を失えばなり。その民を失うとはその心を失うなり」


 三師の先頭を征く彼は、夏の桀であろうか、殷の紂であろうか。ともすれば、そのどれでもないのかもしれない。

 彼らという炎は、時代に現れて、時に幽と、時に厲と呼ばれ、秩序を自ら破壊する役割を担わされ、悪名と共に歴史に刻まれた。史実がそうであったか否かとは無関係に、後世がそうであったと決めたのだ。

 言わずもがな、清浜三郎太も、彼に悪名を担わせた人間の一人であった。


 だが三郎太は、今、思う。

 王朝の最後に現れて、滅亡を加速させる暗君――三郎太が当たり前のように受け入れてきたそれは、果たして真実であっただろうか?

 天命によるものでもなく、暴君の所業によるものでもなく、どうしようもなく滅ぶ条件が、腹立たしいほど理路整然と整ってしまったがために、国は滅んだのではないだろうか? それは聖帝・名君と呼ばれる君主を以てしても回避できるものではなかったのではないだろうか?

 滅ばんとする国を、最後まで保とうとしていた彼ら暴君こそ、秩序の守護者ではなかったか?


 三郎太は、自らの内から湧きでる疑問が真実であることを証明する材料を持たない。

 彼方の世界では、暗君を鑑戒とするのは当たり前のことで、それ自体が秩序を守るための方法でもあったし、また、彼の王の真実を語るものは、未だ地中深くに眠っていて、三郎太は勿論、後世の者も、しばらくは知り得ない。だから、三郎太はこう言うしかなかった。


「論語に曰く、子貢の曰く、紂の不善も是の如くこれ甚だしかざるなり! 是を以て君子は下流に居ることをにくむ。天下の悪、皆、これに帰すればなり!」


 戦車の足が、僅かに緩まったように見えた。


「嗚呼! 貴殿はやはり暴君だ! 悪政の象徴だ! 長夜の飲に酒池肉林、焙烙の刑に聖人の処刑。いずれも忌むべき所業であり、戒めるべき鏡だ!

 俺はそう信じてきたし、今もそう思っている。しかし同時に、一つの疑念も抱くのだ。史書の語る貴殿らの姿は果たして真実であるのか? 貴殿らは、壊れゆく秩序を最後まで守っていたのではなかったか!?

 口惜しきかな、俺はこの疑念を証明する術を持たない。だが疑念が存在していることを証明することはできる。孔子の門弟、子貢が貴殿らを覆う汚泥の上に、ただ一滴だが疑念の清水を落としてより二千年。書を伝わって清浜三郎太まで、その疑念は確かに存在しているぞ! 殷の紂王、いや、商の帝辛よ! だからどうか、その旗を――擦り切れて、文字も読めなくなったその旗を、今はまだ持ち続けてくれ! 俺には出来ぬが、いつか、誰かが! 貴殿を汚名の中から見つけ出すその日まで!」


 泣きそうな顔で叫んだ三郎太の前で、戦車は立ちどまった。

 霧に遮られて、その表情は伺えない。だが、居丈高にふんぞり返った偉丈夫は、戦車のうえから三郎太を睥睨して、満足そうに鼻を鳴らすと、婦人と共にそのまま霧の中へと消えていった。


――あぁ、まさか。俺が暴君を想い、暴君に惹かれる日がこようとは。


 三郎太は自嘲する。だが、これまでの道を振り返ったとき、意外にもそれは必然であったのではないかと思えた。

 彼方の世界、三郎太が無役部屋住みの身を腐らせていたときのこと。

 三郎太の周りには大きくうねる時代の中で、世を変えるのだと、日本を新しくするのだと、そう言って憚らない士が数多くいた。

 三郎太は彼らを――それが友であれ――嫌悪した。秩序を変えようとする者、秩序の外に我が道を見つける者と、三郎太は決して道を同じくしようとは思わなかった。

 だが三郎太は、心のうちでひそかに思っていた。


――その道に幸あれ!


 西洋の学問に触れようとも。国学を知ろうとも。尊攘の志士の扇動を、確かに一理ありと解そうとも、断固としてちつじょを守り保つ。

 如何なる時勢にあっても、信じた秩序の傍にあろう。

 それが滅びゆくとしても、この身は文天祥のように、張昶のように気高くあろう。

 すなわち、『改革の礎になるよりも、秩序の犠牲になることを望んだ』。それが清浜三郎太であった。

 結局のところ、こういう性格が此方の世界においては魔を憎みながらも魔に惹かれたり、太祖を怖れながらもその傍に仕えたいと思慕したりという、情けない矛盾となって現れているのだろう。


――そしてそれを、大傲慢にも丸ごと抱えて生きていく。


 誓を確かめて三郎太は目を閉じた。そこに映ったのは見えるはずもない光景。


 燃え落ちる弘道館の中に、手負いの清浜三郎太がいる。そして、晴れやかな顔で「無念」と言って腹を切って斃れた。


 そんな、あり得たかもしれない自身の未来を見て、三郎太は、


――やはり俺は、世界がどうあろうとも、このどうしようもない性根を貫き通さねばならない宿命にあるのだな。


 と、確信した。そして、滅びゆく彼らに寄り添い、向かい合うのに、最も適しているのは、この俺に外ならないと悟り、言った。


「許せ、炎をつくったのは人間おれたちだ。名君がいれば暗君がいる。昼があれば夜があり、光があれば影がある。迎えるべき新たな秩序があれば、破壊されるべき古き秩序がある……。それらの陰を一つの型に流し込み、汚泥で以て蓋をしたのは紛れもなく人間おれたちだ。だから、小人なりの償いだ。俺の知りうる限りに、その名を呼ぼう!」


 立ちはだかった巨大な影。それは亀か、鼈か、はたまた神獣か。――そのどれでもないことを、三郎太は知っている。

 波濤が地響きを挙げて迫るなか、三郎太は動じることなくその影に叫んだ。


「山を為ること九仞きゅうじん、功を一簣にく!」


 三郎太に出来ることは、挑むことではなかった。ただ、言葉を投げかけることだけだった。


婞直けいちょくにして以て身を亡し、終に屍を野に晒すいえども、息壌を盗み洪水を埋めたるは仁。民の欲するところに従いて功を成すを求めたのみ!

 阻窮して西に行くはただ耟黍きょしょを播かしめんがため。違命にも稽廃にもあらず。

 五行に反し水を防ぐといえども、堤を築くは田畑を守らんがため。断じて無道にあらず。

 嗚呼、無念の内に黄熊となり黄能となった君よ。万民の讃える声が聞こえぬのならば、彼の人の詩を忘れたのならば! 俺が何度でも叫ぼう。帝よ、何ぞこんを刑する!」


 三本足の巨大な鼈は、恨みに我を忘れた巨大な黄熊は、陽炎のように揺らいで消えていく。

 あとに立っていたのは中年の男、どこにでもいそうな、真面目で、頑固そうな男だった。そして、ただ一度礼をすると、そのまま霧の中へ消えていった。


 現れたのは純粋で静かな殺意。恨みが籠っているわけではない。怒りがあるわけではない。

 狩人が獣を狩るような、微かで、それでいて鋭い、殺すためだけの殺意。

 三郎太は全身が縮み上がる思いをしながら、やはり不動。


「有窮氏、有窮国の王よ!」


 そも、祟る荒魂に挑むことなど、初めから間違っていたのだった。

 荒魂は祀り、畏れ敬うべきもの。その怒りを鎮めて、どうか祟って下さるなと祈るもの。

 しかしながら、どうにも三郎太はそのような思いを、言の葉に載せているようではなかった。


「帝位を簒奪するは大逆なれど、陽が大地を焼けば金烏を堕とし、大河が人を喰らえば白蛇を射殺し、帝が暴政を敷けばこれを追う! いずれも民の憂いをあらためんがためなり! 民は尊し、社稷これに次ぐ! その武を讃えてその名を永劫に語り伝えよう。羿よ夷羿よ大羿よ! 弓箭の道は我が道、貫革の勇を慕わせてくれ! その名は后羿!」


 はっしと放たれた矢は、三郎太の心臓を貫く寸前で霞となって掻き消えた。

 三郎太は、決して追いつけぬであろう英雄が、ほんの僅かばかり、己を認めて笑ってくれたことに、至上の誇りを抱きながら、消えていく彼を見送った。


 そして、その余韻すら吹きとばさんばかりに、巨大な鉞が三郎太めがけて振り下ろされた。


「有徳に至らずして武を以て帝位を伺うは許されざる覇の道にして暴虐。されど進みて死せず退きて生きず。長剣を帯びて首は身を離れるといえども心は懲りず。その勇は死しても伝わり後世の魂魄に鬼雄を宿す」


 三郎太の言葉に乗っているのは、ただの憧れであった。

 嗚呼、貴方達はこんなにも眩しい。戒めではない、習うべき鑑として燦然と輝いているのだから、我もまた斯くあらねばならない。

 そんなわらべのような、無邪気な心が、言葉の半ばを占めていた。


「猛志はもとより常に在り! 勇者、斯くあるべし! 栄誉を以てその名を呼ぼう。刑天、又の名を夏耕!」


 首の無い巨人が、振り上げた鉞をゆっくりと下ろした。

 そして、三郎太をじっと見降ろしたあと、鉞で西を指し示した。


『さぁ行け、将よ! 我も行く!』


 巨人が手ずから進撃の鼓を打ち、三郎太を激励する。

 それだけで、三郎太は涙が出るほど心が奮い立つのだった。


 巨人が消えるとともに、大地が揺れて裂け目を作り出す。

 恐るべき猛威に、やはり三郎太は叫んだ。


「乱を起こすこと四度。天帝に抗うは大逆。その名を四罪に堕とすといえども、憑怒ひょうどして地に穴をあけ、天柱を折りて太陽月星を再び動かし、民に再び昼夜陰陽の区別を与えたるは正しく太極の理にして、秩序の運行! どうして道に反することがあろうか。天の秩序にあらず、人の秩序を信じた者、その名は共工! 又の名は康回!」


 無邪気な憧れが、言の葉に載せられた祈りの半ばであるのならば、もう半分は何であろうか。

 それから三郎太は幾度も現れる暴威一つ一つの名を呼ばわり続けた。

 そして、遂に、霧の中から小柄な影が飛び出した瞬間に、言の葉に込められた、もう一つの祈りが爆発した。


「蚩尤! お主というやつは!」


 飛び出したのは紛れもなく蚩尤。

 霧に映る影ではない。三郎太は確かにその姿を捉えた。

 夸父こほ九黎きゅうれい、大小の双剣を掲げた蚩尤。その表情は全てを貪り喰らう暴虐の仮面に遮られて分からない。


「蚩尤! この慮外者め! 大戯けめ! うつけめ! まぬけめ!」


 三郎太は確かに怒っていた。爆発したのは怒りであった。その証に、眼前に突き刺したはずの脇差に手を伸ばしていた。


「蚩尤! お主というやつは、俺がお主の事を語ることを望むのか! だとすればお主は天下第一の愚物であるぞ!」


 蚩尤は止まらない。魔人の力で三郎太を貫き殺すまで。


「蚩尤! 俺がお主のことで知っていることといえば、お主と出会って以来のお主だけだ! それ以外のお主のことなど、何一つとして知りはせん! 手癖の悪い、我儘な小僧っ子! それ以外に、俺の知っているお主がいるか!?」


 だが、蚩尤は止まらない。


「蚩尤! お主こそ俺の名を呼べ! お主の、今生こんじょうの確かな証である、この俺の名を呼んでみろ!」


――俺が、何度お主に助けられたと思っている。お主がおらねば、俺もここにはいなかった。だが、俺の兵主神、俺の軍神いくさかみなどと、お主は呼ばれたいか!? 蚩尤!


 しかし、蚩尤は止まらない。


はな垂れ小僧め、俺の名を忘れたか!? ならばよく聞け! そして、この声、この顔を思い出して二度と忘れるな!」


 地面に突き刺した脇差の柄を握りしめる――。


「清浜三郎太は、お主の友の名だぞ!」


 言の葉に載せた怒りとは信。道を誤った友にささげるそれだった。

 真下から跳ね上がった脇差が、眼前に迫った蚩尤の青銅の仮面だけを切り裂いた。

 勢いのままに飛び込んできた蚩尤を片腕で抱きとめる。

 割った仮面の下にあった蚩尤の表情が、泣きそうで、それでいて安心しきった表情であったから、三郎太は己の道が間違っていなかったことを、確信した。


 霧が晴れると同時に、山林の景色は蜃気楼のように揺らぎだす。

 消えかける世界で再び見失わないように、蚩尤を固く抱えたまま、三郎太は振り返り叫んだ。


「相柳氏! 貴様も連れて行くぞ!」


「おぉ」

「おぉぉ……!」

「信か!」

「信にて結ぶか!」

「我を知り」

盟友ともを知り」

「それでいて、なお我等を呼ぶか!」

ともよ!!!」


 狂喜乱舞する蛇体を最後の景色に、三郎太の意識は再び遠のいていった。


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