禊
「行くなッ! マリア!」
朝もやに包まれた崑崙の静寂を引き裂いたのは、男の絶叫と、直後に鳴った戸を突き破る音だった。
「あっ! 三郎太さんが逃げた!」
「やっぱりこうなった! アザミっ、連れ戻すわよ! ちょっとくらい怪我したってかまわないわ!」
巫女の屋敷から飛び出した三郎太は庭に鎮座していたハリマに跳び乗るや、
「行けハリマ! 神威山だ!」
と、勇ましく言ったがハリマは動かず、直後に追いついたアザミとマツリに引きずりおろされて、屋敷の中に消えて行った。
厨房で朝餉の支度をしていたクヌギとティアナは、「放せ」「行かせろ」と騒ぎながら引きずられていく哀れな男の姿に、困ったものだと同時に溜息をついた。
◆
「あのなぁ、三郎太さん。別に私達だって三郎太さんをいじめたくてこうしてるわけじゃないんだぜ。多少は気持ちもわかるけどさ、だけどやっぱりだめだよ。勝ち目のない戦いにやけっぱちに突っ込んだって、誰も誉めちゃくれないよ。あのお坊さんも浮かばれない」
清浜三郎太は柱に縛りつけられていた。三郎太の扱いには心得があるようで、アザミとマツリはたった二人で暴れる三郎太を虜囚の人に変えてしまった。
目覚めると同時に布団を蹴り上げ、戸を突き破ってハリマのもとへ駆けた三郎太も、今ではすっかり落ち着いて、うなだれながらアザミの言葉に耳を貸していた。
「まぁ偉そうにこんなこと言っても、私達に何か名案や妙策があるわけじゃないんだけどさ……」
「……妙案、名策、何もお主たちがせねばならないものでもあるまい。俺が……何とかする」
「何とかって……。私達が助けなかったら、今頃はあの山まるごと三郎太さんの墓標だぜ?」
「それについては礼を言う。しかし、後は俺のすべきことだ」
「どうやって」
「……そんなことよりも、いや、そのためにもまずは刀を返せ! どうせアザミ、お主の仕業だろう!」
太祖に気絶させられてから崑崙につくまでの記憶は曖昧で――おそらくは昼夜兼行の強行軍だったのだろうが――今朝、三郎太が飛び起きた時には既に兼定の脇差は行方知らずになっていた。
三郎太はアザミの追及を躱す様に、無理やり声を張り上げて言った。
「ええー……そうだけどだって三郎太さん、次に何かあったらお腹をバッサリやりそうだし……」
「…………」
「そこは否定してくれよぉ……」
柱にもたれかかっていたアザミは変な声を上げながらずるずると崩れ落ちた。
「スミレも何か言ってやってよ、このわからずやの頓珍漢に」
「何という言い草だ」
三郎太が悪態をつきながらも目を向けた先にはスミレがいる。
スミレは先ほどから両掌で何かを大事そうに包みながら、ニコニコと静かに座っていた。
掌中に何か隠しているようだが、三郎太にはそれが何なのか皆目見当がつかないし、アザミとのやりとりを、沈黙のまま正座でニコニコしながら眺めているさまは見ようによっては不気味でもあった。しかし三郎太は、
――もともと変わった娘であるし、何ぞ考えがあってしているわけでもあるまい……
と、たかをくくっていた。
「あっ、元気になってきた」
「……何がだ」
「んー? 三郎ちゃん見たい?」
「……」
「見たいんでしょ! うふふー、どうしよっかなー」
「…………別に見たくもない」
「………………」
「…………見せてみろ」
「しょうがないなぁ! そこまで言うなら見せてあげるね!」
スミレの放った妙な気配に気圧されて、三郎太はしぶしぶながらそう言わざるを得なかった。
「じゃーん! 今朝掘り起こしてきたばっかりの蛙さんです!」
「…………」
暦の上では二月ごろであろうか、未だ崑崙の春は遥か彼方にあり、蛙にとっては地中で惰眠を貪ることのできる安息の季節のはずであった。
哀れ、眠りを妨げられた蛙と三郎太の目が遭った。掌で温められたと言っても本調子ではないのだろうか、蛙はスミレの手の上から一歩も動くことは無く、哀愁の籠った顔で三郎太を見上げるばかりである。
三郎太はこの茶色い蝦蟇と心が通ったような心地を覚えた。
「お互いに、頭のネジの数本とんだようなイカれた娘に右から左に振り回されては敵わんな」
言葉に出さずとも、大きな目がそう言っていた。
互いにそう長くはない生である、後悔のないように生きよう。と、三郎太と蛙は人畜の垣根を越えて励まし合った。
「……そやつを土の中から掘り起こして、どうするのだ。飼うのか?」
「ううん。これは神様にお供えするやつ」
「…………」
残念ながら蛙の生はここまでのようだった。
「頭のこの部分をね、刀子でこうぐさっと――」
「あー、よいよい。ならば早う行って参れ……」
――まだあまり気の付かないうちに、できれば一撃で供物に変えてやってくれ。
「はぁーい。行ってきまーす」
「気ィ付けていってこいよー」
どたどたと飛び出していったスミレの後ろ姿が見えなくなってから、三郎太は言った。
「……あれはずっとあんな感じだったか?」
「……そうだね」
「とりあえず、年頃の娘が蛙を鷲掴みにするなどと、はしたない真似はしないように、きつく言っておけ」
「……うん」
「蝶々も、クワガタもだぞ」
「……うん」
「それと、刀を返してもらえるか?」
「……持ってくるよ」
スミレの奇行によって空気が完全に弛緩してしまった代わりに、三郎太の暗澹としていた感情も、幾分か和らいでいた。
◆
「さて、それでは少し真面目な話をしましょう」
朝餉を食べ終わった三郎太は運ばれてきた茶に手を伸ばしつつ、そう言ったクヌギに目を向けた。
「真面目な話……か」
「はい。アザミ、マツリ」
神妙な――巫女の顔となったアザミとマツリが筒状に丸められた大きな紙を持ってきて、三郎太の眼前に広げた。
地図である。崑崙はつつましやかに右上の隅に描かれていた。
地図を挟んで向かい側に四人が座り、クヌギが口を開いた。
「予断を許さない今の情勢、そしてこれからの展望について、三郎太さんとお話をしておかなければなりません」
情勢――無論、心当たりがないはずがない。
今の三郎太の立場は実に不安定なものだった。蚩尤の言によれば三郎太は連合から逆賊とされているらしいが、茨木童子の姦計によって、マリアともども三郎太が魔群の統領に陥れられているのだとすれば、それも十分に頷ける。
連合の追捕の手が三郎太に迫っているのだとすれば、辺境とはいえ連合構成都市のひとつである崑崙は三郎太の処遇をどうするであろうか。
――首がいると言われれば、出してやりたいものだ。
やすやすと死ぬことが許されない身であることは重々承知している。善樹の最期の姿も、太祖の言葉も、そして、今朝見た夢も、瞼の裏に焼きついて離れることは無い。
だがそれでも、崑崙が、巫女が、太平の為にこの首を所望しているのならば、喜んで差し出したいと思うのもまた本心であった。
「ちょっと、今失礼なこと考えたでしょ。見損なうんじゃないわよ、ほんとに」
マツリが三郎太の内心を見透かしたように言った。
「……情勢であれば、ティアナも同席させたほうがよかろう。そういえば、今朝方から見ておらぬが……」
「私からもそう言ったのですが、太祖殿の曰く、『全てアイツ次第だ』とのことで、朝食を厨房で召し上がられるとそのまま自室に戻ってしまいました」
「……わかった、では聞く」
それは三郎太に全てをゆだねたティアナの言葉とも、三郎太を信じた太祖の言葉とも受け取れた。どちらにしても圧し掛かる重責に肝の冷える思いをしながら、三郎太は続きを促した。
「現在、連合を構成する各都市では、魔獣の襲撃に伴い厳戒体制が敷かれていますが、それと連動して崑崙の人間に対する締め出しも行われています」
「まぁ同じ連合とはいえ間諜紛いのことされていい気分になる人はいないよね~」
「スミレ、静かに。……スミレの言う事も一理ありますが、崑崙の人間……彼らの言うところのアヅマに対する取り締まりの強化の背景には教皇庁と神意執行会があると見るのが妥当でしょう」
「なぜそう言える」
「各都市や行商に潜入していた巫女達が既に帰還し始めています。その情報によれば、です。今回の……三郎太さんが大聖女を殺害し、魔獣を扇動したという事件の起こるよりも前から、神意執行会の意を受けた開拓者からの監視や追及を受けていたらしく、身の危険を感じた巫女は早くから崑崙に向かっておりました」
「大聖女を殺害とは……ぬかせッ!」
瞬間、激情のままに拳で床を叩いてみるが、何も変わることは無い。ただ姦計に陥れられた己の未熟が明らかになるだけである。
アウロラがまさしく茨木童子であるのならば、崑崙がいかなる存在か、日本に生を受けたものにとって如何に親しみやすい地であるかは十分に承知していたことだろう。
三郎太がこの地と縁を結んでいたか否かを知っているか否かに関わらず、崑崙という存在を唾棄し、警戒していたことは想像に難くない。
「……すまぬ。しかし、大義があるまい」
「いいえ、あるのです。連合にとって崑崙とは人と魔がともに暮らす地……実態がどうあれ、そう思われている以上、対魔の布石として、崑崙衆を締め出すことは正当性を持ちます」
「輩めが……」
三郎太が憤ったとしても、この世界では、それが現実であった。
「崑崙衆に締め出しについてはおよそ主要都市の全てで行われていますが、特に警戒を要するのが対魔の布石とは異なって、軍兵や食料の徴発など、まるで戦争の備えをしているような都市です……アザミ」
「はいよ」
クヌギに応じて、アザミが立ちあがり、赤い駒を次々と地図上に都市に落としていった。
それは、見事なまでに崑崙を半ば囲い込むように配置された。
「これはっ……!」
「はい。彼らの崑崙に対する警戒心……いえ、敵対心はもはや確信といっても差し支えは無いでしょう」
「馬鹿な……崑崙は、仮にも連合の一味ではないか……」
「……昨晩遅くに帰還した、ニーユの巫女の伝えるところによると、首都より派遣された教皇庁と騎士団からなる五十人の一団が、清浜三郎太の追捕および魔獣撃退の督戦の為にニーユに入城したとのことです。そう時を置かず、おそらくは今日中に、崑崙にもその使者が訪れることでしょう」
目を伏せながらそう言ったクヌギを見た瞬間、三郎太は反射的に口走っていた。
「ならばっ……俺の首を取れ! お主らの為ならば、何も惜しくは――」
「黙りなさいこの馬鹿!」
三郎太が言い終わるよりも先に、白い駒が、三郎太の額めがけて飛んできた。
「何をするッ! マツリ!」
「もー! クヌギは順番通りにやろうとしてまどろっこしいのよ! だからこの馬鹿が突っ走って馬鹿なことを馬鹿みたいの言うのよばか!」
「だってマツリ……」
「だってじゃないわよ! いいこと、よく聞きなさい。赤い駒が三郎太、貴方の敵よ。そして白い駒が貴方の味方!」
「う、うむ?」
青筋を走らせながら立ち上がったマツリは腕まくりをしながら地図の上に立った。
「そして貴方の味方はこうでこうで、こうよ!」
そして、白い駒を四つ、崑崙の上に叩きつけるように置いた。
「崑崙の四村は全て貴方の味方よ! 残念だったわね、貴方の思っているほど崑崙の親父どもは賢くないのよ!」
「ちょ! マツリ! やばいって正式決定も惣代会議もまだなんだからそんなこと言っちゃ!」
「うっさいわよアザミ! あの馬鹿親父共は「これ幸い奇貨居くべし」って喜んでるじゃないの! こんなまどろっこしいやりかたできるかっての!」
暴れるマツリをアザミが取り押さえ、額を押さえながらクヌギが口を開いた。
「えーと、マツリが先走ったのだけど、何から話したものかしら……」
「巫女の意思ではなく、崑崙四村の意思か」
「あぁそうです。困ったことに、そもそも独立の気風が強い崑崙は、今回の争乱を幸いとばかりに連合から抜け出すつもりなのです。このあたりはスミレ、お願い出来ますか……あぁ 頭が痛い……」
頭を抱えてしまったクヌギに変わって、スミレが口を開いた。
「はーい。別にそんなに難しい話じゃないよ。そもそもずっと独立自立していた崑崙が大戦で連合に協力したのは、その時の大総統さんと個人的な友誼が深かったから。それがなんということでしょう。大戦が終わってから、一時的な同盟のつもりがいつのまにか連合構成都市のひとつに数えられていて、四村の惣代はぷんぷん怒りながらも太平の世界ではそのほうが案外諸々やりやすいかもしれないということで連合の傘下に加わることにしたのです!」
「諸々……」
「ところがぎっちょん!」
「ぎっちょん……?」
「政治の話は面倒なのでいっぺんに省くけど、とりあえず今の惣代連中は連合から見下されるのが嫌で嫌で、いっそ連合とヴォルフスで戦争が起きたら今度こそ独立してやるのになーって思いながら日々を過ごしていたところに、今回の争乱っぽいのが起きたので、いっそ独立しちゃう? って感じなのです!」
「ま、まって三郎太さん! スミレの説明はやっぱだめだ! おっさんたちがそう考えてるのは大筋毎違い無いんだが、それでもやっぱりおっさんたちは優柔不断で三郎太さんの処遇についてはまだ決まってないんだ!」
何かがキレたのかカーッとまくしたてるマツリ、いつも通り天衣無縫なスミレ、それを押さえるアザミとどう収拾したものか頭を悩ませるクヌギ。
四人の姿が、あのころと変わっていないことに、三郎太は安堵を覚えた。
そしてやはり、
――こやつらに、心を奪われては敵わぬな。
と、確信を覚えたのだった。
「もうよい」
三郎太は、喧噪に比して静かにそう言ったのだが、四人はたちまち沈黙して三郎太に視線を向けた。
「あとは天命と、この俺の行く道のなせる事よ。お主らには、言葉では言い尽くせぬほど、世話になった」
三郎太はそういって、立ち上がった。
三郎太は、己の心を焦がすこの激情が、決して己一人のモノでないことに気付き始めていた。それでいて、やはり目を反らし、
「あとは煙に聞け!」
とばかりに、この場を去ろうとした。
「三郎太さん、貴方の心は、もう決まっているのですね」
「そうだ。為すべきことは、十分に分かっている。きっと、お主らにも崑崙にも迷惑をかける。だが、俺は俺で先に進む」
クヌギの問いに、手短に答えつつ、三郎太は戸を勢いよく開いた。
「独りよがりと責めてくれて構わぬ。見損なってくれて構わぬ。こればかりは宿業とでもいうべきものだ。どうにもならん。だが、お主らには何度救われたか分からぬ。そのことは……うむ……」
感謝の念を、言の葉に載せるのは気恥ずかしくて、三郎太がそのまま足を踏み出そうとした時だった。
「だったら、惣代に頼まれた公的な話し合いは終わりだな」
アザミの不穏さを湛えた一言と同時に、スミレとマツリによって、今しがた開けたばかりの戸が閉められた。
「おい、何をする」
「な、に、を、す、る~?」
三郎太の抗議をものともせず、マツリが三郎太の肩に手を回して強引にその場に座らせた。
「それじゃぁこれからは私的な話し合いに遷ろうか……三郎太さん」
「お、おい、アザミ! なんだこの真似は! クヌギ!」
「…………」
クヌギが目を逸らす。
三郎太は抵抗する間もなく、いつぞやのように、マツリとアザミによって柱に縛りつけられていく。
「忘れたとは言わせないわよ」
「私たちを放って勝手に出て行ったこと」
「後悔は先にたたないよね~」
スミレが妙な威圧を込めながら言ったその一言が、三郎太のミソギの嚆矢であった。
「さーて、きりきり白状してもらいましょうか」
「あの日、あの朝、三郎太さんは何を思って何をしたのか……」
マツリとアザミが三郎太の縛り付けられた柱の周りをぐるぐると周り、スミレは三郎太の目の前、膝が触れんばかりの距離に座って動かない。
「何をしたのかだと……お、俺が言うのは筋違いだと知ってはいるが、それでもお主らのその拘りようは何なのだ。山を降りるのには時間がかかる。故に早くに出立しなければならなかっただけの事。酒のせいか記憶は曖昧だが、大方前日に騒ぎすぎて寝坊をしたのだろう。そんなお主らを起こすのも忍びない。無礼とは思うが、それだけのことだ!」
「…………」
「へーぇ、記憶が曖昧……?」
「ほんとこの男は……」
スミレは微笑したまま沈黙。三郎太の右肩にはアザミが、左肩にはマツリが、それぞれ背後から手を置いて体重をかける。
――重い……!
両肩にかかる圧力も、精神にかかる圧力もである。
三郎太は己一人では抗しきれなくなり、クヌギに助けを求めた。
言わずもがな、あの朝を共有しているのは、クヌギただ一人である。
「クヌギ、お主からも何か言ってやれ!」
「そうね、クヌギはあの朝一人澄ました顔で、『三郎太さんはもう出られましたよ』なんて言ってたし、それから折に触れて聞いてものらりくらりと……。丁度いいわね、私達の間に隠し事は無しよ!」
マツリのよく響く声音の追及を受けて、クヌギは、
「…………別に」
と、顔を反らしながら小さく言った。
「なぁ~にが『別に』よ! やっぱり何かあるんじゃないの! ほんとに隠し事!? 私達姉妹のように一緒に育ってきた仲じゃないの!?」
「というかクヌギ大丈夫か!? やましいことがあるなら猶更もうちょっとうまく躱さなきゃダメだろ巫女として!」
「隠し事なんてしてませんし……」
「クヌギ!?」
子供のようにぷいっとそっぽを向いて押し黙るクヌギ。
素でこうなってしまっているのならば、各地に散らばり諜報を担う巫女としては大問題だが、もし誤魔化すためにやっているのならばそれはそれで恐ろしいと三郎太は思った。
「もうっ! 埒が明かないな! あれを使うぞ、マツリ!」
「ええ!」
マツリはわざとらしく拳を鳴らした後、勢いよくパンパンと柏手をうった。
何事かと三郎太が怪訝に思ったとき、先ほど閉められた戸がサッと開かれた。
「むぐー! むぐー!」
「…………」
そこにいた人物は二人。一人は後ろでに縛られ、猿ぐつわをかまされたヒツ。もう一人はヒツを縛り上げる縄を手にした双子の妹、ホウであった。
「あの朝のことを知ってそうな奴に声をかけたら、まさかの一人目でビンゴ。少しカマをかけてやったらすぐにボロを出したわよこのお兄ちゃんは。いいわよ、ホウ。外してあげなさい」
ホウは無言のままヒツの猿ぐつわを外す。
「実の兄にむかってこの仕打ち……ひどいぞホウ!」
ヒツは涙目で抗議の声を上げる。そして、ちらと三郎太の方を見た。
そのとき、三郎太はヒツと目が合った。そして互いにしまったという表情をした。
――そうか! あの時俺を案内した黒子はヒツであったか! ……泣き顔は見られていないだろうな。
――ああもう駄目だ。この男は馬鹿だから誤魔化しなんてできないし、クヌギ様は想い人と巫女とどっちを立てればいいか判断できずに壊れかかっているしもう駄目だ。
一人は得心、一人は絶望。考えていることは異なり、表情に出た感情も微々たるものであったが、それを見逃す巫女ではなかった。
「やっぱり何かあるんじゃないのー!」
「もう隠していたって無駄だぞ! 後になればなるだけひどくなると思えよ! いろいろと!」
マツリとアザミがやいのやいのと騒ぎ立て、クヌギはあらぬ方向を見ており、三郎太は冷汗を流しながら苦悶の表情を浮かべる。
ただ一人、沈黙していたスミレが、そこで初めて声を上げた。
「あのさ、とりあえずさ」
「う、うむ」
騒ぎの中を透き通る声色に、皆が沈黙し、視線を向けた。
「三郎ちゃん。言う事があるよね」
やはり、その妙な気迫に圧倒されて、三郎太はもはや抗うことが出来ず、
「……す、すまなかった……!」
そう頭を垂れるより他なかった。
そして、そう言葉にしてしまえば、後は何の障害も無いのであった。
三郎太はあの朝、己の中に芽生えた弱さが、巫女達に知られてしまい、そしてもう一度己自身も自覚してしまうようなことがあれば、己の心は遂に巫女達に捕らわれて逃げられなくなるのではないかと恐れていただけであった。
クヌギは、あの朝三郎太が見せた弱さを、自分だけが知っていることに僅かばかりの優越感を覚えていた。そしてそれを、三郎太を想うあまり、三郎太が望んでいないからという理由で他の巫女に秘密にしたことに大きな負い目を感じていた。あの朝抜け駆けめいたことをしたことについても、同じであった。
あの朝を隠した二人の都合は、たったそれだけのものであった。そしてそれそのものは、マツリとアザミとスミレにとってはあまり大事ではないのである。
三人が気に入らないことの第一は三郎太が何も言わずに去ってしまったこと。そしてそこから大きく間を空けて、二人だけの秘密というのが、仲間外れにされているみたいで気に入らない。ただそれだけであった。
だから、ただ一言、三郎太から謝罪の言葉があったら、それだけでよかったのである。
なにせ、既に三人は自分自身の心も、三郎太の心も、十分に承知しているのだから。
◆
時折、わからなくなる。この胸を焦がす欲望の正体は何なのか。
暴れたいのか、暴れたくないのか。
狂いたいのか、狂いたくないのか。
戦乱を望むのか、平穏を願うのか。
考えるたびに気分が悪くなるから、今までは目を逸らしてきたが、再びこの地に足を踏み入れた以上、きっとそれは許されないのだろう。
「そうだ、思い出せ」
「我が一族には永劫走り続けても成し遂げねばならぬことがある」
浮かび上がる言葉が漠然として広すぎるから分からなくなるのだ。もっと目先の事を考えればいい。
願いは単純だ。あの男の力になってやりたい。
それはなぜか――あの男に野垂れ死にされたら困るから。
それはなぜか――あの男が居なければ、自分は狂ってしまうから。
「盟友よ」
「朋友よ」
「王よ」
「臣よ」
ではあの男を死なせないためにはどうすればいい。
「共に戦うよりほかあるまい」
「弱きものをそのままにするわけにはいくまいよ」
共に戦う――自分にそれができるだろうか。人の血を見れば衝動が抑えられなくなるような欠陥品が自分なのだ。
あいつは連合と戦争をするつもりなのだろうか、魔群と殺し合いをするつもりなのだろうか。いずれにしても、自分が役立てるとは思えない。それどころか、足手まといにもなるだろう……最悪、俺自身があいつを殺してしまうかもしれない。
「友よ、何を悩む必要がある」
「欲望のままに! 衝動のままに!」
「それが我等ではないか。存分に救おう」
「あの男を、天下を揺るがす英雄にしてやろうではないか!」
「何なんだよ、お前らはさっきから……!」
声が止まない。耳を塞いでも、老若男女の哄笑が脳裏で響き続けている。
「もはやこの地に残った盟友は」
「我しかいないと言うのに」
「あまりなことではないか」
「あの女は約束した」
「一つ条件を成し遂げれば」
「我をこの地より解放するとな」
「喜べ盟友よ!」
「これで再び軍を興せるぞ!」
「嫌だ、そんな事はしたくない! 俺は戻りたくない! あそこは……あそこは寂しくて空しくて……怖いんだよぉ……」
「おかしいな」
「困ったな」
「これでは我等の欲望が叶えられぬ」
「あの男も救えぬ」
「盟友の願いも叶えられぬ」
「妙案がある」
「ほう」
「如何に」
「如何に」
ずるずる、ずるずると、草木を倒し、石を砕き、触れるもの全てを腐らせながら何かが周囲を這いまわっている。
独り言のような言葉を繰り返し発しながら、その影は徐々に近づいてきていた。
「であれば盟友よ」
「いっそあの男を迎えてしまうか」
「我等、炎の眷属に」
「王の臣に」
「あぁそれがいい。あの男を救い、盟友の願いが叶い」
「我等の欲望も果たされる」
大蛇の影が、狂ったように踊りだす。葡萄のように、たわわに実った房から色とりどりの笑い声を響かせながら。




