恐ろしき母
「――――っ!」
夜半、三郎太はにわかに跳ね起きるや脇差を手に辺りを伺った。
突如として全身を猛烈な魔の気配に包まれた心地がしたのである。
しかし、起きてみれば己を狙う気配など何処にも無い。まさしく夢幻のように消え去っていた。
三郎太は一呼吸置くと腰を下ろし、再び目を凝らしてあたりの暗闇を見た。
三郎太は島を去り、対岸の漁村に世話になった礼を述べると、すぐさまその足で帰途についた。
そして、島に向かう途中、風邪に倒れた三郎太を介抱した娘の家に立ち寄った。
「お主のおかげで命を拾い、本意を全うすることが出来た。手土産などは用意できぬが、礼だけは伝えねばと立ち寄った。……御免」
そう言って立ち去ろうとする三郎太を、娘は手を取って止めた。
「まぁ! 勝ったのね、超えたのね! すごいわ、流石だわ! ねぇ今日も泊まっていってよ。このまま進めば森の中で日が暮れちゃうわ」
「……返す物もない。これ以上厚意に甘えるわけにはいかぬ」
「お礼なんていらないわ。貴方の気が済まないのならば、試練に打ち克った貴方の物語を聞かしてちょうだい。それが宿泊代の代わり。ね、いいでしょう? それに無理してこの先の道で倒れたって、そこに私みたいに親切な人がいるとは限らないんだから」
その言葉に押され、三郎太は再びこの農家の軒先を借りることとなった。
三郎太に試練の話をせがむ娘の姿は幼い子供のようだった。
三郎太の語るいちいちに目を輝かせるその様を、三郎太は知っていた。
それは軍記物語に燦然と輝く英雄たちを見る三郎太であった。
三郎太は自らを英雄視する娘の視線に、気恥ずかしさと、僅かな誇りを覚えていた。
遅くまで語りあい、暖炉の前の寝床に就いたのは、つい先ほど事である。暖炉の炭はまだ赤々としている。
――強い娘だ。この辺境にあってあれほど純粋さを失わぬとは。
祖父に引き取られてからはずっとここに住んでいたのだろうか。それだけでも若い娘の苦労は偲ばれるが、祖父の死んだ後ならばそれは猶更であろう。
――娘の明るさを、少しでもあの漁村に分けてやりたいものだ。
そんな、ささやかな嫌味が、不意にこぼれた。どちらも苛酷な環境に身を置くもの同士である。自然と比較され、そしてどちらの居心地が良いかと言えば――――…………。
――――違う。そうではないのだ。あの漁村はあれで良いのだ。あの漁村には明るさが、優しさが無かったとでも言うつもりか! 否! あの地にも確かにあった。村の片隅で咲いていた笑顔を、見なかったことには出来ぬ。長旅の俺を何も言わずに迎えたのは優しさだ。島より帰った俺を見た者達の瞳には、為し難きことを為した者に対する憧憬があった。彼らにも人の心の機微はある。周囲を取り巻く魔獣にも、移り気な自然にも負けない強かさが、彼らであり、人ではないか!
瞬間、三郎太の周囲を再び魔の気配が取り巻いた。
いや、それは今あらためて巻き起こった気配ではない。この家に踏み込んで以来、ずっと三郎太を包んでいた。ただ、今までそれに気が付かなかっただけなのだ。
――ならばあの娘はどうか。ありのまま人であるか!? この家を見よ、壁にかかった斧はあの娘が振るうにたえるか!? 手袋は、長靴は、あの細い手足に見合っているか!? そして何より、あの娘の掌は美しすぎる。農耕に努めるもののそれではない!
キッと三郎太が悪寒に振り向いた先に、女の影が立っていた。
「寝れないのかしら? 遅くまで話過ぎちゃった? それとも枕が変わると寝つきがわるくなるとか……」
女の声は驚くほどに平静だった。兼定の脇差でもその胴を両断することは容易かったが、己を包み込む魔の気配と悪寒の正体が、この娘であるか否か、三郎太は一瞬戸惑った。
三郎太の躊躇の隙をついて、女は三郎太にしなだれかかった。
「もうおやすみなさい。母が傍にいてあげますから……」
三郎太の大腿に跨るように覆いかぶさりながら、女は優しく、奇妙な言葉を囁いた。
「お、お主は……」
三郎太は、まるで己が捕食されているかような感覚を覚えた。本来おぞけ立つべきそれは意外にも心地よさを伴って三郎太の心に染み込んだ。
三郎太を現実に引き戻したのは、突如として足を襲った激痛だった。
「うぬっ!」
女を突き飛ばしざま後ろへ転がり、逆安珍を拾い上げ、抜き打ちを浴びせる――はずだったが、三郎太にとっても不可解なことに、抜き放った逆安珍は三郎太の手元を離れて、無様な音を立てて床へと落ちた。
足を襲った痛みのあまりの出来事だと思いたかった。手元が狂ったとも、手が滑ったとも、まさにその通りであるが、剣を修めた者の不覚としてはあまりに惨めだったからである。
距離を取ったときに兼定は置き去りにしている、三郎太は徒手空拳で向かい合わねばならなかった。
「おのれ……」
三郎太はいまだ痛みのやまぬ左足を見て、絶句した。
膝よりわずか上のあたりが、三寸ばかり、袴ごと喰い破られていた。傷口には細かな歯型が生々しく刻まれている。
跳ね上がるように顔を上げた三郎太。その時、女の足の内側をつたう一筋の血を見た。
それが意味することを察し、三郎太は恐怖と嫌悪と怒りで吐き気を覚えた。
「おのれぇ……若い娘に化けて旅人を食らう山姥め。卑怯とは呼ばぬ。所詮は化生の執る手段よ」
三郎太は顔を引きつらせながら虚勢を張ることしかできなかった。この女が山姥の如き低俗な妖怪でないことは、三郎太の全身を通り抜ける寒気が伝えていた。
この女はもっともっと深淵の存在だ。人と魔の間に分かたれている溝のもっと奥深く、遥か先祖が立ち向かわなければならなかった強大な存在。その残滓だ。
「く、これは……」
刀がなくとも柔術で――そう構えていた三郎太の視界が不意に揺らめいた。異常の源は喰い破られた左膝であった。傷口から、まるで蛇か百足が体内を這いまわるかのように痺れが広がっている。
遂にその場に立っていることさえできなくなり、三郎太は床に崩れ落ちた。
――毒の類か!
痺れは舌先にまで達し、言葉すらも発することが出来なくなった。
「もういいのよ。もう充分。貴方は充分に駆け抜けたわ」
女の言葉には、およそ敵意と呼べるものが含まれていなかった。
真心から三郎太をいつくしみ、その身を案じているような慈悲の籠った声音である。
「人一人が一生に背負える荷物なんてたかが知れているの。それを越えて抱え込もうとする人を、世界は勇者だなんて呼んだりするけれど、決してそれは称賛されるべきものでも、栄光を伴うものでもないわ。
栄光と期待という虚飾を纏った勇者、最後は荷物の重さに耐えきれなくなって、捨ててはいけないものを捨てて、失いたくないものを失って、してはいけないことをして、転んで、潰されて、おしまい。誰も見向きなんてしてくれないわ。世界は勇者のことを容易く忘れる。無かったことにする。そしてまた別の勇者を探す――作り出す――。」
――勇者! 俺を勇者と呼ぶか! こやつもまた北竟大帝の手の者に違いない!
この女は斬らねばならぬ! 三郎太はそう決心したがしかし、体は一向に言う事を聞かない。それどころか三郎太の体には新たな異変が発生していた。体がひとりでに女の足元をめがけて這い進みだしたのである。
「う……ぅあ………」
決死の力を込めて己の体を制御しようとするも、口から情けないうめき声がこぼれるばかりで、体は前へ前へと進んでしまう。
その姿はさながら母を求めて這う赤子のようだった。
「世界を背負って魔に立ち向かうなんてのはね、とても貴方一人に出来ることではないのよ。人間の全てが、何百年、何千年と月日を重ねながら背負わなければいけない課題。誰かを勇者に仕立て上げて、全てを背負わせるなんて、間違っている。その先にあるのは悲劇だけよ」
「――――ッ!」
――化生ごときが俺を値踏みするな!
三郎太はそう叫んだつもりだったが、やはり言葉にはならなかった。
「私は、悲劇を迎える勇者なんてもう見たくない、勇者をつくろうとするこの世界も大嫌い。だけど頑張る勇者の事は好き。貴方を最後に、次の世界では勇者なんて生み出させないから。だから、ね? もう楽になりましょう。母のところに還っておいで。ここが貴方の安息の地よ」
なんという我儘な女なのかと、三郎太は半ば呆れた。
お前の人生の結末は悲劇に違いない。私はそれを見たくないし、お前もそれを迎えるのは嫌だろう。だから絶頂期の内に死んでおけ。この恐ろしき母はそう言っているに他ならない。
――何たる我儘、何たる身勝手、何たる傲慢。
三郎太が恐怖のまっただ中でそう呆れてしまったのは、この女が、このような狂人の戯言を本気で言っていたからだった。
偽りなく三郎太を想っていることが、今まさに殺されんとしている最中であってもはっきりと伝わってきてしまっていたから、三郎太は思わず、
――この傲慢さ、世の母が幼児を見守る心持ちとは、まさか斯様なものなのであろうか。
などと考えてしまっていた。
しかし、どれほどその思いが真摯であっても、どれほどその言葉が真実の慈悲から発したものであっても、三郎太は女陰に喰われて胎内に還るなどまっぴらごめんだった。
だが、自由の利かない体は吸い寄せられるように女を求めて這い進む。
女はその場にしゃがんで手招きをするばかりで動こうとしない。三郎太が自ら近づき、近づき、あともう一歩で手が届く――無念と思う傍らで、安心感のようなものを抱いたその時――。
「だぁぁらっしゃあ!!!」
――嵐が、扉をぶち破って飛び込んできた。
霧を纏ったその嵐に蹴飛ばされた三郎太は面白いように宙を舞い、調度品をめちゃくちゃにしながら転がった。
――この霧、この声は!
衝撃のあまり気絶しかけながらも、三郎太の視界が捕らえたのは見知った姿だった。
身の丈をほどもある刀身の大剣と、脇差に似た短剣を持ち、おどろおどろしい鉄の仮面を被ったその者は――
「ま、間に合った……サブロー生きてる?」
――炎帝蚩尤。その人であった。
◆
「あなたは……」
「急いでこっちに来てみれば、大嫌いな臭いがするからまさかとは思ったけれど……うんざりするよ。アンタみたいなのが、まだ残っているなんてさ」
女もまた三郎太と同じく突然の闖入者に驚愕の表情を浮かべていた。
だがすぐに何かに気付いたように、キッと眦を釣り上げると蚩尤を睨みつけた。
「あぁ、そう……。あなたなのね。行き場を失って、みっともなくその人に取り憑いているのは。ずっとずっと昔、風の噂に聞いたことがあるわ。誰かが生み出した失敗作が、どっちつかずの出来の悪い暴れん坊に育ったって」
「うっさい。こっちはアンタの事なんて知ったこっちゃないね。だけど臭いでわかるよ。アンタは亡霊だ。いつまでも子離れできずにいるとびっきり質の悪い亡霊」
「願われて、祈られて、そうして見守り育んできた命だもの。私達が最後まで責任を持って何が悪いの」
「何が責任を持つ、さ。いらないって言われたのならとっとと消えろよ。アンタたちは子供が好きなんじゃなくて子供が好きな自分が好きなんだろ。そうじゃなきゃ、存在している意味がないから!」
「だったらあなたは!」
初めて、慈悲に満ちた女が怒りを露わにしたと三郎太には見えた。女の真黒い影が盛り上がり、そこから細い触手のようなものが鎌首をもたげた。
「あなたが存在している意味は!? ただ暴れて、壊すだけの存在のくせに!」
「俺はアンタみたいなのが大嫌いだ! お高く留まって、すました顔して、そのくせ子供に覆いかぶさってなきゃ何もできないヤツ!」
掛け値なしに憎しみを込めた言葉の応酬は、当然の結末として闘争を出現させた。
蚩尤は懐に忍ばせていた鉱石をたちまち小さな鉄剣に変えると連続で投擲し、ほぼ同時に大剣を振り上げて地を蹴った。そしてダメ押しとばかりに短剣を投擲する。
女の影から飛び出した無数の触手は飛来する鉄剣に絡みつき、喰らいつき、全てを阻止した。しかしタイミングズレの短剣を防ぐのに気を回した、その一瞬の隙に飛び込んできた蚩尤に抗する手段はなかった。腹部を穿たれ、壁に縫い付けられた女は、最期の瞬間、三郎太に悲哀の籠った視線を向けて息絶えた。
三郎太は自由の利かない体を鼓舞しつつ、必死の思いで眼を見開き、一瞬の攻防の全てを見ていた。
――悲劇、悲劇とのたまいおったが、これこそ悲劇ではないか。
三郎太は両者が意味深に交わした言葉の真意を理解することはできなかった。
しかし、この二人が、互いに互いを中途半端にしか知らないがために、似た者同士であるにも関わらず、いやそうであるからこそ、どうしても殺し合わねばならなかったということだけは、理解できた。
きっと蚩尤は三郎太を助けると言う名目が無かったとしても、あの女に会えば殺し合いを始めていたのだろう。
「サブローっ!」
女に向けた視線を遮るようにして、駆け寄った蚩尤が三郎太を抱き起こした。
「おいっ! 生きてんのか!? 何とか言えよ!」
――たわけ! 見ればわかるであろう!
頬をぱしぱしと叩く蚩尤に、抗議の視線を向けた。
「毒? だったら――」
蚩尤は薬袋から黒い丸薬を取り出すと三郎太の口の中に無理やり押し込んだ。
「――噛んじゃだめ。舌の裏側に入れて溶かして。その方が効くから」
蚩尤は三郎太を引きずって外に出すと、ハリマの背に載せた。そして自らハリマに跨ると手綱をとって駆けだした。
――一体なぜお主がここに居る。これはどういうつもりだ。
そう問いたいが、声にならない。そんな三郎太の思いを察したのか、蚩尤は泣きそうな声で呟いた。
「サブロー、ごめん……。北竟大帝にティアナが攫われた。マリアも騎士団に連れていかれて帰ってこない」
――ティアナが……? なぜマリアが騎士団に……。善樹は何をしている――。
蚩尤はごめん、ごめんと涙を流しながら繰り返す。それが事の重大性を知らせていたが、ただ言葉で事実を伝えられても、それだけでは実感など湧きようもない。
何の思考も解決策も湧かない空虚な脳裏に、この先には悲劇しかないと言った女の寂しげな顔が、こびりついて離れなかった。




