始動
不気味なほどに静まり返った神威山。その頂に築かれた砦の一角に、魔の気配を濃密に纏った者達が集まっていた。
それらは一目で魔群と見て取れることができた。翼を持つ者、角を持つ者、一つ目の者、三つ目の者、二つの顔を持つ者、数多の半獣半人の者共。
幾人かは人と寸分違わぬ見た目をしている。しかし、彼らも『魔』であった。老成した風体に反して赤子のようなあどけなさを纏った者。その逆に、幼児の見た目に、まるで百年の時をみてきたかのように達観した瞳を持つ者――。
その中に、ただ一人だけ聖性を保つものがいた。輝く銀の長髪に、修道服を着た女であった。
「――それで、神意執行会の掌握は済みましたか?」
「はっ、先ほど四番隊の屍兵化が済んだと報告がありました」
女の問いに答えたのは濃い蒼色の髪の青年だった。騎士然とした装いをしており、左眼には幾何学模様が描かれた眼帯を付けている。
「既に屍兵化を済ませた五番隊・七番隊、そして我等の六番隊、合わせておよそ八百名が幕下にあります。二番隊・三番隊は神威山周辺地域以外の開拓および連合首都の警備に忙殺されており――」
「――残る一番隊は旧貴族子弟の社交界。お見事。神の意を掲げ、魔を打ち払い世界を拓くはずの神意執行会は人を滅ぼす魔の尖兵と化した。君の手腕にはさすがの僕も感服したよ。もっとも、自作自演と言えばそれまでだが」
慇懃にそう言いながら、闇の中から現れたのは黒のコートに黒の紳士帽、全身黒づくめの男だった。
「……北竟大帝」
「そう睨むなよ、カスター・スクローイ君。整っている顔が台無しじゃないか。それに今回、屍兵化を成功させたのは僕の娘であり、彼女を導いたのはこの僕なのだから、まず初めにねぎらいの言葉があっても良いのでは?」
北竟大帝はおどけたようにそう言うが、この場で彼を快く思っていない者は、蒼髪の青年カスター・スクローイだけではなかった。彼らを取り囲む魔人・魔獣もみな一様に訝しげな視線を北竟大帝に注いでいた。
北竟大帝はわざとらしく両手を挙げて「やれやれ、ここには旧知も少ないし仕方がないか」と言った。
「北竟大帝、彼女は今どこに?」
「寝ているよ。あれだけの戦士を支配下に置いたのだ、負担は相当なものに違いない。最近は安定してきているとはいえあの子は計画の中心だ。無理はさせられない」
「そうですか……。目覚めたらご苦労様と伝えておいてください」
「ほほう。それは喜ばしいことだ。あの子が君が慈悲をかけるのに値する存在になれたとは」
「……貴方を責めるわけではありませんが……哀れな子ですよ、彼女は」
「…………」
女は一瞬見せた憐れみを翻すと、毅然として辺りを見回した。
「皆聞きなさい。報告の通り準備は整いつつあります。各々その本拠地に帰り戦の支度をはじめなさい。檄文の飛ぶその日までは雌伏の時です、それまで人への襲撃は控えること。……心配せずともそう時を置かずに我らの時代がやってきます。それまでは残り僅かとなったこの忌々しい平穏を楽しむとよいでしょう」
女の言葉に呼応して、薄暗い笑いが砦の中に満ちた。それは静かで邪悪な笑いであった。
心の底から湧き上がる狂えるほどの喜びを声にしたいのに、それは真の歓喜の時にとっておこうとして、なおこらえきれず漏れ出ているような、浅ましい笑いであった。
彼らは『魔』である。どうしようもなくこの世が憎く、三神が創ったこの世界にあってはどうしても居場所を見つけることが出来なかった『魔』である。
彼らはこの女に縋った。人の世を壊すと言ったこの女に希望を見た。本来そうあるべきであったはずの、原始の混沌にこそ、自らの居場所があると彼らは信じていた。
「しかし姫よ、一つ尋ねたい」
笑い声の合間をぬって、男の声が女に向けられた。
現れたのは巨大な老いた狼であった。
「何でしょう」
「オレはニンゲン共を食い殺せるならばそれでよいのだが、聞くところによると世界を壊すにはもう一人役者が必要だそうではないか」
「ええ、勇者殿……ですね」
そう言いながら女が浮かべたのは嘲笑であった。勇者という言葉の無邪気さを嗤いながら、その名を冠している男の姿を嘲っていた。
「北竟大帝」
「……あぁ、彼の担当はボクだったか。――そうだね、彼は今、南方にいるよ。さしずめ修行中といったところかな、じきに勇者として完成してボク達に見えるだろうよ」
「何? それはつまり未だ準備が整ってはおらぬということではないか。北竟大帝、キサマの失態か」
「成果を挙げればこそ勝手な行動が許されるのだ。舞台の根幹を整えられなかったとなればその責は重いぞ」
「貴殿の娘さえいれば、貴殿そのものは黄昏に不要であることも忘れるなよ」
巨狼の言葉を皮切りに、魔群の内から北竟大帝へ非難の声が浴びせられた
「やれやれ露骨にボクへのあたりが厳しいなぁ……聞き捨てならない言葉も聞こえてくるけど今夜だけは許してやるからボクのことも大目に見て信じてくれよ。勇者については筋書き通りさ、これも勝手な振舞いと非難されるかな? 彼が最後に越えるべき敵はこちらで用意させてもらったよ。もう戦ったかな? それともこれからか」
北竟大帝は敵意の嵐の中、飄々と薄ら笑いを浮かべながら応じた。
「…………この場に一人、来るべきはずの女がおらぬ。まさか、北竟大帝、キサマ……」
「おっとその憎悪は的外れだよ。彼女もそれを望んでいたんだ」
「あの女が勝ってしまえば計画は破綻する……だが……――北竟大帝、黄昏の為には仲間ですら躊躇いなく生贄にするか……!」
巨狼は歯ぎしりをしながら北竟大帝を睨む。北竟大帝も不敵な笑顔を浮かべてそれに対峙する。
だが、一発触発の沈黙を、鞘走りの音が遮った。抜き身の剣が、北竟大帝の首筋に添えられていた。
「俺も彼女の事は知っている。あれはそういう性の魔人だ。その選択は十分に考えられるし、尊重に値する。だがら俺は彼女について怒り、貴様に剣を向けているわけではない。……北竟大帝、その姿は何だ。今、貴様は誰を想っている」
「おっと……」
北竟大帝――全身黒づくめの女――は、その時初めてしまったという表情を見せた。
「これは失礼した。これではボクの忠義を疑われてしまうかな? カスター君」
「御託は良い。説明をしろ」
「説明!? 説明だって!?」
北竟大帝は目にも留まらぬ速さで、首筋に添えられた剣の刀身を掴みあげた。その手は翡翠色に輝いている。
「彼は善鸞の意思を継ぐ者だ。ボクの娘を連れて行った男の後釜だ。ボクがこれほどに彼を想う理由はこれだけで十分だろう? カスター・スクローイ!」
「くっ……」
カスターは咄嗟に眼帯を外そうとした、しかしその手も北竟大帝に掴まれてしまう。
吐息のかかるほどに顔を近づけて、北竟大帝は狂気の乗った言葉を吐いた。
「そしてボクの忠義は、ボクが今ここにいることで証明している。そうだろう? 姫」
狂気に歪んだ瞳で射抜かれながらも、女は平然と答えた。
「私たちが事を起こす前に、排除しなければいけない存在が二人……勘の良い聖女と――」
「――死にぞこないの天狗! ……君の弟にアレを殺す役回りを与えたのはボクの最大の譲歩なんだよ? そうだろう!? 分かってくれるかな、カスタ―君!」
狂気とともに、剣を掴んだ翡翠色が輝きを増す。ぴしぴしと音を立てて剣に亀裂が走り、遂に砕けた。
握りつぶされた剣の破片が、音を立てて床に散らばった。
◆
月明かりすらない暗闇の中、野山を駆けまわる。木から木へ、枝から枝へと飛び移る影は都合五人。
「吽!」
裂帛の気迫とともに吐かれた真言。飛び散った符が火球となって辺りを照らした。
追われるものは僧形の大男。
追うものは顔を隠した騎士四人。
――ぬかった。日頃よりも近づいておらぬからと油断していた。
三郎太が南方に去ってからも、善樹は繰り返し神威山の偵察に出ていた。
神威山の現況は、北竟大帝と魔の企みを知らぬものにとっても異常である。神意執行会の意を汲んだ者以外は神威山には立ち入れず、それは連合の政財界の有力者とて例外ではない。神意執行会と大聖女の意向のみが大開拓事業に反映されるこの状況が、されるがままになっているのは、ひとえに大総統がそれを追認しているからに他ならない。
大聖女に対する大総統の信頼は、それが連合の英雄伝説と符合するだけになお美しい。
大多数の連合の民がそれを許容することは、善樹も理解できないわけではない。しかし――
「――かの山に集う魔の気配はッ! 断じて容認できぬのだ!」
空中で袈裟を翻し、憤怒の形相で振り返った善樹が、背後に迫った騎士に千手院派の抜き打ちを浴びせた。
血しぶきをあげて落下する仲間には目もくれず、騎士達が地に降り立った善樹に迫る。
「貴様らは生きている! 生きてこの世の恵みを受けているにも関わらず、この世を憎んで魔に与した! 貴様らをこそ、救わねばならぬ!」
懐より符をばらまき、太刀の柄に結ばれた念珠をすり合わせて善樹は叫んだ。
「唵!」
符が光球となり、尾を引きながら騎士に巻き付いた。動きの閊えた先頭の騎士を袈裟斬りにし、返す刀でもう一人の首をはねる。
――あと一人――。
善樹が振り返ろうとしたその刹那、衝撃が巨躯を貫いた。
「……愚か者め」
最後の騎士は、己を縛った光の環より逃れるために、自らその片腕を斬り落としていた。
そして逃れるや否や倒れ込むようにして善樹を刺し穿ったのである。
苦悶の表情を浮かべる騎士の肩口からは呼吸に合わせて血が噴き出す。もはや死は避けられない。
それに対して脇腹から肺、そして心臓を貫かれた善樹の体から溢れるのは木の葉と土くれであった。
「――まだだ、まだ拙僧は戦える。戦わねばならぬ。あの者とともに。善知識の意思を、成し遂げねばならぬのだ――」
◆
「――しかし、その努力も今日限りだな」
狭い、洞窟の入り口に立った若い男は独り言ちた。
その髪は紅く、右眼には赤い幾何学模様の描かれた眼帯を付けている。
「燈台下暗しとは言ったもんだが、こうもうまく出し抜かれれば腹が立つより感心しちまう。――ここは神威山、俺たちの城……よくもまぁその麓に居を構えたな。天狗衆最後の一人、善樹さんよぉっ!」
男は幾何学模様の書かれた眼帯を乱暴に取り外すと、露わになった真紅の瞳で洞窟の中をギンと睨んだ。
その瞬間、なんの前触れもなく、洞窟の岩壁が発火した。
「光を曲げ、音を消し、臭いを流す。たったそれだけの小細工で獣さえも騙されちまうとはな。しかし年貢の納め時だぜ。出て来いよ善樹。その本性を見せてみろよ。死に花を咲かせることくらい手伝ってやるからさ」
男は炎に赫々と照らされる洞窟の中を、まるで熱さなど感じていないかのように、悠々と歩いていた。
「この炎は俺にとってはなんでもないが、お前にとってはこれ以上ないほど熱いだろう。前回以来俺たちの仲間を翻弄し続けた怪人が、蒸し焼きで死んじゃ恰好がつかないだろう」
男は抜き身の剣を鳴らしながら洞窟の奥へ進んだ。しかし洞窟は意外なほど狭く、目的の相手を見つけることなく行き止まりにあたった。
「……そうかよ」
男は立ち止まると目を瞑った。音もなく揺らめく炎の中に佇立して暫く、突如として目を見開くや、
「そこだァっ!」
気迫と共に、凄まじい一撃を壁に見舞った。
崩れ落ちる岩壁、露わになった横穴には、小柄な人影が結跏趺坐していた。
「それが、てめぇの正体か」
「――……」
それは小さな、骨と皮ばかりの老人であった。俯きがちに、辛うじて体の前で印を組み、ひゅーひゅーと苦し気な呼吸をしている様を見れば、それが生きていると知れるが、そうでなければ死体か木乃伊となんら変わらなかった。
身にまとう法衣はボロボロで、着ている、纏っているというよりも体に引っかかっているというほうが適切だった。
「興覚めだぜ、善樹」
「……ァ……ゥゥ……」
善樹を見る男の目はひどく冷めたものだった。これまで余裕を見せていた笑顔も、引きつった嘲笑に変わっている。
敵を目の前にして、言葉もろくに発することなく、哀れで、情けない、うめき声しかあげることのできない小さな老人が、前回、北竟大帝の計画を阻止し、それからも魔を狩り続けた天狗衆の生き残りであるという真実に、男は大いに失望していた。
「もういいっ! どのみちやることも、その結果も、何も変わりはしないんだ!」
「――……ォォ……アァ……」
「命乞いか! あの世に行ける呪文か! もう遅ぇよっ! 地獄で唱えろッー!」
突き出された長身の剣が、善樹の乾ききった細首を刺し貫き、跳ね飛ばした。
どろりとした濁った血がわずかに飛び散り、洞窟を静かに濡らしていた。
◆
「君の弟は優秀だから、もうカタはついたころかな?」
「…………」
北竟大帝は手をポンポンと払いながら、いささか落ち着きを取り戻した声音で言った。
剣を握りつぶされたカスターは顔をしかめながらも、己が主君として慕う女の手前、冷静を装いながら言った。
「ルークスは少々気が早いが、実力なら私にも引けを取らない」
「自分以上であるとは言わないんだね。いいんだよ恰好を付けたい気持ちはよくわかる」
「…………」
怒気を滲ませたカスターから目を背け、北竟大帝は女に向き直った。
「見苦しいところを見せたね、でも結果的に君の計画は順調なのだから、大目に見て欲しい」
「あとは、あの男ですか……」
「ああ、きっともうじきに――」
魔群の闇は、一層その色を濃くしながら、首都を呑み込まんとしていた。




