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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
出師篇:第一章 境の向こうの女島
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誓約の征矢

「手段、方法は問わない。この島の何処かになっている黄金の林檎を落とせ」


 それが、女王アングリッサの示した試練の内容であった。

 アングリッサがそれ伝えながら三郎太に渡したのは短弓と十本の矢が入った矢筒。

 三郎太はそれを身に着けてハリマに跨り、今、密林の中を疾駆していた。


――手段は問わない……か。


 三郎太はハリマを駆けさせながら辺りを見回した。

 妨害の無いはずがない。そうでなければ、先に試練に挑んだあの男が、みすみす試練に失敗し、殺されるはずがない。

 しかし、巨木の上、苔むした岩の影、どこに視線を向けても女戦士たちの影は見えない。


 川にかかる丸太の橋を渡り、密林の奥へ奥へと進んでいく。前を遮るつたを斬り払いながら進むこと、およそ半刻ばかりが経った頃だった。

 三郎太は小さな沼にぶつかった。

 そこで三郎太は目を見張った。

 二十間ばかりを隔てて、沼の中に、小さな陸地がある。そこに映える一本の木の枝に、光る果物を見たからだった。


「まさしく……黄金の林檎!」


 黄金色のものを三郎太は好まないが、それでも一瞬目が奪われるほどの輝きをその林檎は放っていた。魔性のものと言ってもよい。

 三郎太は瞼の裏に焼きついた輝きを振り払うと、沼へと目を転じた。


「なるほど、それでこの弓と矢か」


 沼は紫がかった茶色をしていた。

 毒々しい泥沼は時折ぼこりと泡を発しており、異臭が辺りに立ち込めていた。


「侮られたものよ」


 三郎太はハリマから降りると矢をつがえた。

 確かに三郎太は弓を得手とはしていなかった。しかし経験のないわけではない。

 十本と言わず、一矢で仕留めて見せると、狙いを定め、引き絞った。


 ひゅっと放たれた矢はたがうことなく黄金の輝きに吸い込まれた……かに見えたその刹那――三郎太は驚愕に目を見開いた。

 矢は、横合いから飛んできた別の矢によって、柄の真ん中を打ち抜かれ、ぼちゃりと音を立てて沼へと沈んだのである。


「さて、私の腕前はどうかな、清浜三郎太?」

「くッ……!」


 三郎太の顔に朱が走った。

 妨害はあるものと思っていた。しかし、これほど人を侮辱した方法とは思ってもみなかった。

 三郎太からみて、左の岸辺にいた女王アングリッサは、筋肉の張った若い黒毛の馬に跨ったまま、飛翔する三郎太の矢を射抜いたのである。

 三郎太の後に彼女が現れたのだとすれば、この密林では当然それが木々に伝わる。三郎太とてそれに気づかぬはずがない。

 故に、彼女は三郎太の後を追ってこの場に辿り着いたわけではない。初めから実力を見せつけるためにこの地で待ち構えていた。とりもなおさずそれは、その気になれば、いつでも三郎太を射殺すことが出来たことを意味する。

 ハリマから降り、悠然と狙いを定めていた三郎太の姿は、どれだけ滑稽に映ったことだろう。


「さて、体は温まったか? 肝は冷えたかもしれないがな。くっくっく」

「ちぃッ!」


 三郎太はハリマに跳び付くと、わき目も振らずに腹を蹴った。

 ハリマがぐっと前へ駆け出した瞬間、三郎太の後ろの首筋を冷たいものが掠めた。


「へぇ、勘は良い。だが、躱せた・・・とは思わないでもらおう」


 三郎太は嘲りの声を背に受けながら、黄金の林檎から離れざるを得なかった。



 それから三郎太は暫くの間、一見すれば追うものと追われるものの逃走劇にしか見えぬ、戦いと呼べるかもわからぬ醜態を晒し続けることになった。

 三郎太は、うねりながら木から木へと延びる蔓や、広く鋭い葉に体を打たれながら、密林を駆け続けた。しかし、実際のところ、それを駆けた・・・というのは適切ではなかった。

 この時、三郎太は必ずしもハリマを掌握しているわけではなかったのである。

 三郎太は手綱こそ握ってはいたものの、身を縮ませて突き出た枝を躱すので精いっぱいで、自らが今どこを走っているかさえも把握していなかった。ハリマが独りでに走れる道を探し、岩を飛び越え、沼を避けているだけなのである。

 さらに、それだけでなく、


「――ちィッ!」


 今この瞬間、三郎太が背中に猛烈な殺気を感じ取った刹那、ハリマは右前方へと跳び、三郎太の背をめがけて飛んできた手槍を見事に躱していた。

 三郎太が右の手綱を引いたのは、既にハリマが跳んだあとであった。すなわち、ハリマは三郎太が指示するよりも早く、背後に目があるかの如く、脅威を察知して躱して見せたのである。


「相棒には恵まれているようだな、三郎太! だがその白鹿にとっては不幸なことだ。このような不甲斐ない主を乗せねばならないとは!」


 背中に投げかけられた言葉に、三郎太は返す言葉が無かった。

 まさに、今なお三郎太が生きていられるのはひとえにハリマの力によるからである。


――せめて、密林を出れば! 打合い、組打ちならば負けぬぞ!


 三郎太がそう打開策を考えるこの間にも、アングリッサは木から削り出した簡易な手槍を構えて狙いを定めていた。

 それが投擲され、三郎太がそれに気づき、瞬間ハリマが跳んでそれを躱す。三郎太が手綱を引いたとき、既にハリマは宙にいた。


 三郎太がハリマを御しきれぬ一方で、アングリッサと黒毛の馬の連携は、絶技と呼ぶに相応しいものであった。まさに人馬一体、アングリッサは両の手を放して騎射を繰り出しつつ、馬の腹の挟み方、絶妙な重心の変化によって巧みに愛馬を操り、密林を縦横無尽に駆けている。

 次の瞬間、その馬術の神髄を、三郎太は目の当たりにする。

 ガッ、ガッ。と鳴った奇妙な音に、三郎太は思わずはっと振り返った。

 目に飛び込んできたのは、宙を飛ぶ黒い影であった。

 にわかに信じがたいことに、アングリッサとその愛馬は、ほぼ垂直にそびえたつ巨木の幹を一蹴り、二蹴り駆け上がると、そのまま空中へと飛び出したのである。


「これもうまく躱せるかっ!」


 太陽を背に、矢を構えながら獰猛に嗤うアングリッサの姿を、三郎太は戦慄を以て見送るしかなかった。

 頭上から襲い来る一矢を、紙一重で躱せたのは、やはりハリマの働きによるものだった。


――これではまるで狩りではないか!


 狩られるのは三郎太であり、追い立てるのと、狩るのはアングリッサである。

 三郎太が言い知れぬ恥辱に苛まれていると、ついに密林の途切れる場所に差し掛かった。

 そこは河であった。この河は、島の中ではかなりの大きさを誇るもので、幅は十六、七間ばかりある。その一方で、見渡す範囲に橋は一本しかかかっておらず、それも丸太を束ね、組み上げたものを渡してあるだけであった。


――得たり!


 刹那、三郎太の武士の勘が策を閃かせた。

 今度は、三郎太がしゃんとハリマを操って、一目散に橋の上へとハリマを躍らせた。

 橋の上は狭く、馬や鹿といった大きめの動物であれば一頭分の幅しかない。そのうえ足元は水を浴びて滑りやすくなっている。しかし三郎太はハリマが足運びを誤るはずがないと確信して踏み込んだ。

 策は、この橋にあった。

 アングリッサは間違いなく勢いを頼んで三郎太を追いかけるだろう。しかし橋の幅は狭く馬一頭分しかない。すなわち、アングリッサが橋上に現れるということは、三郎太と一直線上のところに身を晒すという事に外ならない。その瞬間に、敵に先んじて矢を浴びせるという寸法であった。


 三郎太は進むのをハリマに任せると、鞍に架けた弓を取り、矢筒に入った矢をつがえるや、いざとばかりに体をひねって振り返った。

 そして、これまでとは比べ物にならぬほどの衝撃に身を打たれた。


――…………何と。


 三郎太の思惑とは裏腹に、アングリッサは橋上に現れなかった。しかし、確かに三郎太を追っていた。

 アングリッサは迷いなくその愛馬を河中に飛び込ませていたのである。そして愛馬は河床を蹴ったか、勢いよく水中から飛び出すや再びざぶんと着水する。右へ左へ不規則にそれを繰り返しながら、さながら水中を走るかのようなさまを見て、三郎太ははたと気づいた。


――まさか、河の中にある岩を足場にしているのか!


 河は薄茶色く濁っており、岩の影など見えようもない、そして一歩でも着地を誤れば、たちまち泥に足を掬われて流されるであろう。

 経験と信頼のなせる絶技に、三郎太は言葉を失い、あわや戦意までも喪失仕掛けそうになった。


「小癪なッ!」


 三郎太はアングリッサに呑まれそうになるのを振り払うように絶叫するや、一矢を見舞った。

 しかしそれは三郎太自身、溜息がでるほど情けない弱弓であった。

 へなへなと、あらぬ方向へ飛んでいく矢に、アングリッサは目もくれなかった。

 ただ、ひどく冷めた眼差しを三郎太にむけると、ぞっとするような声音で、


「もういい。死ね」


 と、つぶやいたのであった。

 三郎太は、奥歯が噛み砕けんばかりに歯を食いしばり、全身をつらぬいた寒気を抑え込んだ。

 それは魔人とは異なる、背筋を凍らせるような寒気だった。


 普段、殺気を送られれば倍にしてそれを返し、窮地になればなるだけ勢いを増し、侮られれば思い知らせてやらねば気が済まない性質の三郎太が、これほどまでに威圧されたのには勿論理由があった。

 三郎太がこの世界に迷い込んで以来このかた、三郎太を一瞬でも恐怖させてきた者達はみな、魔法を使える者であったり魔人であったり、魔獣であったり、とかく三郎太の常識外の、超常的な力を有したものたちであった。三郎太は彼らに対しては、「『魔の力』何するものぞ、武士の一太刀を受けてみよ」と、負けん気を奮い起こすことが出来た。

 しかし、今対している、アマゾーンの女王アングリッサは正真正銘人間であった。『魔』に由来するものなど、一切身につけず、その小さな体から湧き上がる純然たる人間の力のみで、戦っていた。それでいて三郎太を圧倒する絶技を繰り広げたことが、三郎太を、精神の面において圧倒せしめたのであった。

 それに加えて、純粋に三郎太の側にある問題は、三郎太が、彼方あちらの世界にいた時分、専ら剣の業ばかりに磨きをかけて、馬術も弓術も得意としていなかったことにある。

 であれば当然、それらを修めてなお修練を有する騎射などは、見よう見まねで出来るものではなく、振り返って矢を放つことが出来ただけでも、十分に良しとされるべきことであった。しかし当然、ここは戦場であれば、そのような評価は何の意味も持たないのではあるが。


 再び密林の中に飛び込んだ三郎太は、その時、背後から迫る殺気が消えていることに気が付いた。蹄が地を蹴る音も聞こえない。


 ――と、三郎太が獣じみた勘で前方に視線を遣った刹那、三郎太の眼前に、アングリッサと黒毛の馬が現れた。

 今にも突き出されんばかりに構えられた短槍。三郎太が死を覚悟したそのとき、疾駆する黒い獣――その姿に、なぜか、猛り狂った猪を幻視した。


『――猛きししも人に逢いては止む。逆射まちい且刺またさしとどめしよ』


勅命こえが聞こえた気がした。


その瞬間。


「ッ……! 無礼者ッ!」


 三郎太の腰元から、白刃が一閃飛び出した。

 腰に差された打刀は馬上では抜きがたい。

 にもかかわらず、飛び出した逆安珍は、繰り出された短槍が三郎太を貫くよりも早く、その切先を斬り落とし、さらには返す刀でアングリッサの首に迫っていた。


「なっ!?」


 その早業に、さしものアングリッサも目を見開いた。

 しかし、馬上にあって上体を大きく反らし、三郎太の刃を躱したのは流石であった。

 三郎太は、振り返りもせずそのまま駆け抜けた。

 そして、次第に、意識が薄れていくのを、他人事のように感じていた。




 鎧に身を固め、ほこを大地に突き立てて、湿原に向かい合った。

 目の前に広がる広大な葦の原から、ぎらつく瞳が顔を覗かせる。

 その瞳に魅入られれば必ず死ぬ。そう、聞いていた。

 恐ろしい、幾百とも知れぬ瞳の光に、全身が震えるのを感じた。

 だが、眼前の瞳の何倍もの数の民草おおみたからが、我が背中を、期待と不安を込めて見つめているのを知っていたから。

 鉾を取り、刃を振るった。


「此処より下は人の地であるから、大いなる神々よ、けして恨み給うな。祟り給うな」



 鎧に身を固め、鉾を大地に突き立てて、大刀たちを抜いて、深い深い谷の真中に立っていた。

 眼前に広がる生い茂る木の上には、憎しみにぎらつく瞳を覗かせて、彼を睨む、幾百の影があった。

 その瞳に睨まれれば必ず死ぬ。なんと恐ろしいことだろうか。全身が震え、鎧の小札こざねが音を立てそうになる。

 しかし、眼前の瞳の何百倍もの百姓おおみたからが、我が背後にいることを知っていたから、天の下を治め給う大王おおきみが、その大徳を以て天下にさきわいを恵み給うことを知っていたから。


「貴様らッ! 有象無象の地祇ちぎ風情が、何故なにゆえ大王おおきみの徳に従わぬ! この地を拓くのは全て百姓ひゃくせいを活かすがためであるぞ! 逆らうのならば容赦はせぬ。今より動くもの、逆らうものは悉く打ち殺すぞ!」



 先ず、兄弟を殺した。天下を治めるために内憂など抱えてはおられぬから。

 次に、逆らうものは同族であろうと、大豪族であろうと決して容赦はしなかった。焼き、斬り、射って殺した。

 支配した敵のむすめは宮に入れ、財は倉へ納めた。それこそが、天下を治める第一歩であるから。

 鎧に身を固め、兜をかぶり、大刀たちを振るい、馬を駆けさせた。

 四方の化外の全てを支配する。それこそが、おれの使命であった。

 神であろうが、土蜘蛛であろうが、構うものか。逆らうものは悉く。


「驕りし大王きみよ、ゆめゆめその傲慢な野望の叶う事を信じるな」


 おれの支配に逆らい、猛り狂う神がいた。

 無礼者めが。弓で刺し、踏み殺した。

 足下に大いなる大地の神の依り代をびつけた。その雷のごとき眼差しを受け止めて、なおのこと、このおれこそが、天下を統べ、人民おおみたからの先導者でならねばならぬことを知った。この瞳に睨み据えられ、正気でいられるものなど、おれしかいないはずだから。


 ……その神と向かいあうことが、このおれが天下に生をうけた、真の意味であることを悟った。

 かつてが曽祖父が、挑みながらも克服できなかったこの神をおれが従える。


「貴様は誰だ」


 人里離れた奥深い山で出会った、支配者たる風格を備えたその貴人に、おれは対等以上に問いかけた。その正体を知りながら、全身の震えと恐怖を押さえながら。

 彼は答えて言った。己は神であると。

 おれは言う。決して、ひるむことなく、臆することなく。


「朕こそが、――幼武尊わかたけのみことなり」



 ……なんと人の生涯の短いことか。

 天下を駆け抜け化外を打ち倒し、大中華にいまこそ我が名を轟かせんとし、仇なす神々を従え、……気づけば病を得ていた。もう既に見飽きた天井を眺め、今はただ死を待つばかり。

 気がかりなのは、後継者の事。おれの亡きあとは、決してアレに油断するなと言いつけたが、はたして。

 嗚呼、間に合わぬ! 尽きてしまう、我が命が! 聞こえる、おれを呼ぶ声が!



 兄弟を殺し、臣を殺し、神を殺した! 猜疑に歪んだ大王きみよ!

 民を生かし、化外を従え、神々と並び立った! たける大王きみよ!


 その名は『大悪』!

 その名は『有徳』!





「斯様なものをッ!」


 三郎太は、目が覚めると同時に絶叫した。そして、鞍から崩れ落ちるように浜辺に転がり落ちた。

 気が付かないうちに密林を抜けていたらしい。 

 喉の渇きが凄まじい。

 三郎太は這うようにして、波打ち際に近づき、海水を一口含んだ。

 塩辛いが、それがかえって三郎太の意識を目覚めさせた。


「お主か、見せたのは……」


 肩で息をしながら、見遣った先にはハリマがいる。

 三郎太は、ハリマいつもの泰然自若とした瞳の奥に、このとき初めて意思の光を感じた。


「俺は誰だ。お主は何者だ。何故あのような記憶を俺に見せる!」


 三郎太はハリマに詰め寄った。

 善樹がもたらしたこの奇妙な白鹿が日本と無関係ではないことは薄々感じていたが、今見せられた記憶――上古を駆け抜けた英雄達のそれはあまりに常軌を逸している。

 その記憶をもって、この白鹿は、何を伝えようとしているのか。ハリマは何も答えない。いや、答える必要が無かった。答えは全て既に三郎太の中で決している。


「……余計なお世話というものだ、ご老体。この体に、征夷の血が流れていると否とにかかわらず、貴殿が全てを見てきた隣人であると否とにかかわらず――俺の使命は変わらぬっ!」


 三郎太がキッと睨んだ先には、今しがた密林を抜けたアングリッサがいる。

 境界に立ち、眼前に敵を、背後に民を。三郎太の在り方は秩序の藩屏であること唯一つ。


「神坂峠、足柄山、鹿咋山、はたまた何れでもない何処か。その真の名は問わぬ」


 三郎太は、ハリマに跨るやいなや、その腹を蹴り、叫んだ。


「だが、ひとたび清浜三郎太をその背に載せたのであるならば! 我が使命の旅の終わりまで、我がともであれっ! ■■■ハリマ!」


 何処の山の白鹿は、その呼びかけに答えるように、力強く大地を蹴った。


 そして――。


「最後はやけっぱちか。蛮勇の士に相応しい最後だな、三郎太」


 白刃を掲げて砂浜を猛然と駆ける三郎太に対し、その進路上で馬上に悠然と構えるアングリッサは冷淡に呟きながら矢をつがえた。

 アングリッサの手元には七本の矢。必中の距離から放てるのは三本ばかり。全てを外せばその瞬間に距離の優位は無くなり、アングリッサは窮地に陥る。

 しかし、アングリッサにとっては十分すぎる条件であった。

 せめて最後は真正面から勇者・・の叶わぬ夢を砕いてやろう。と。

 鏃の先は、迫る三郎太の胴に定められ……ふっと、放たれた。



さてその浜辺の争いは、それを見守るアマゾーンの戦士達にとって、贔屓目を差し引いたとしても、女王の勝利に帰すべきことが明白な戦いであった。

百発百中の射手に対し、鹿上で白刃を掲げ、雄叫びを上げながら突進するなど正気の沙汰ではない、自殺行為であった。しかし――。


――一射、技量は気迫に断たれ――


――二射、膂力は呼吸の間を過ぎゆき――


――三射、一念はなお鋭き一念に貫かれた。


一瞬、一瞬の事であった。アマゾーンらの抱いた勝利の確信が、敗北の予感へと転じたのは。


「えいやァッ!」


 駆け抜ける勢いのままに振りぬかれた逆安珍さかさあんちんを、アングリッサは咄嗟に鞘ごと掲げた短刀で受け止めたが、支え切れずに砂浜の上に落馬した。

しかし、


「ッ! まだだ!」


 アングリッサは受け身を取ると、三射目が両断された瞬間投げ捨てていた弓を拾い、さらなる一矢を見舞った。狙いは三郎太ではなく、三郎太の腰に吊るされた矢筒であった。

 ぐんぐんと離れていく三郎太に追いついた矢は見事、腰に結ばれた紐を断ち切った。


「まだだ、今の一瞬で、終わったなどと思われてはッ……私はっ……!」


 私はまだ負けていない。アングリッサは喘ぐようにそう言いながら。すぐさま三郎太を追いかけた。

 咄嗟に矢筒を狙ったのは、黄金の林檎が落ちるまで勝負は決しないのだと、己を奮い起こすためだった。そうでもしなければ、自分はきっと、この十秒にも満たない攻防で三郎太が見せた業に呑まれ、膝を屈してしまいそうだったから。ただの戦士であればそれも良いかもしれないが、女王には許されない。

 アングリッサは女王の矜持だけをもって、三郎太の背中を追いかけた。



 矢筒を結んだ紐が断たれ、辛うじて掴んだ一矢以外、残り全ての矢が零れ落ちた。

 三郎太は先ほどの川原での戦いの直後、気を失った際に弓を失っているから、林檎を射落とす手段は矢一本のみとなっていた。

 しかし三郎太の表情に絶望はない。三郎太は先ほどとは打って変わって自らハリマの手綱を操り、ある場所を目指していた。

 辿り着いたのは密林の間にぽっかりと切り拓かれた広場。そこには未だ放置された男の死体がある。そして、その死体の中にはあの男が使っていた大弓が突き立っていた。


 背後には追いかけるアングリッサの気配。三郎太は振り向きざま一閃、飛来する矢を断ち切ると同時にハリマへ合図を送った。ハリマは頭を下げると、速度を落とすことなく駆け抜けながら、左の角を大弓の弦に引っ掛けて拾い上げた。


「……しばし、借り受けるぞ。名も知らぬ魔人よ」


 三郎太は大弓に矢をあてがうと、目を閉じて口中で呟いた。


「南無八幡大菩薩、南無東照大権現、南無諏訪南宮法性上下大明神、鹿島、香取、宇都宮。鎮西八郎が如く、那須与一が如く、金刺盛澄が如く――」


 まず、背後に迫る殺気が消えた。

 次に、騒々しかった密林の雑音が消えた。


「――守護まもり給え、さきわえ給え。この道を過ちと思召し給うのならば我を見放したまえ――」


 目を開けた時、世界から色が消えていた。

 無色無音の景色がゆっくりと流れていく。

 未だ毒沼は遠く、黄金の林檎は見えない。しかし三郎太はやがて左手に見えるはずの毒沼を睨み据え、打越しから流れるように引き絞る。

 静寂の中、ハリマが苔むした岩に足を掛け、宙へと跳び上がった。

 高く舞い上がった人鹿一体。視線の先に、草々の狭間に、黄金の輝きが見えた。


「彼方の諸仏天神地祇も、たがいなく三郎太こそこの道を遂げるべしと思召し給うのならば、この矢よ当たれ!」


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