アマゾーンの女王
海沿いの集落は、遠目に見た時から既に寒々しい印象を放っていた。
三郎太はそれを季節と天気のなせる錯覚だと思っていたが、そうではなかった。
抱いた印象は正しくこの集落の持つ個性であり、色であった。
余所者である三郎太が白鹿に跨って集落に踏み込んだ時も、道行く人々は一瞬、陰鬱な視線を投げかけるだけで、すぐにうつむきがちになって日常に帰る。
この集落の人々の酷薄な性質は、三郎太が訪れた古老もやはり備えていた。
「灼熱の島へ渡りたいのだが、ここで間違いはないか」
「…………」
老人は頷いた。
「いつ渡れる。島など何処にも見あたらぬが」
「明日の、日の出」
「そうか。ところであの海の化物は一体なんだ。何故にあの若い男女が捧げられねばならなかった。差し出がましいとは知っているが、なぜだ」
「魔獣は魔獣。罪人は罪人。辿り着くべき場所に辿り着く」
「……俺より先に、島に渡った者は」
「一人」
その古老はフィニスというこの小さな漁村の村長であるらしかった。
海岸で漁から上がった一団に、この地の代表者を教えてくれと頼んだところ、彼らは無言で一見の古びた小屋を指し示した。そこにいたのがこの老人であった。
干した魚と獣の皮以外、何もない部屋で、俯きがちに、暖炉に薪をくべるだけの老人。
三郎太はさっそくこの村に嫌気がさしていた。
この村の住人はあまりに薄情で、人間味が薄すぎる。まるで人ならぬ何かに囲まれているような気さえする。
崖の上の狂ってしまった老婆などは、この村の連中の中ではまだまともな感性の持ち主だったとさえ思えていた。
――しかし、もしかするとこの村の者共は、あの老婆と同じように、すぐ隣にある異界に恐怖するあまり、暗然たる状態に陥ったのかもしれぬ。
この寒村で生計を立てるには海に出るしかないだろう。
その海は恵みの海。彼らにとっての生きる糧。しかし一歩境界を越えればそこは魔獣の跋扈する異界となる。
隣人に化物を持つ暮らしが、人々の精神を逼塞させることは無理からぬことだった。
「生憎だが泊まる場所がない。世話をしてもらえるか」
「…………」
返事はない。三郎太はだんだんとむかっ腹が立ってきた。
そっちがその気ならと三郎太は返事も待たず、暖炉の前に、老人と向かい合うように座り込んだ。
老人は、無言で、欠けた盃に葡萄酒を入れると、三郎太に差し出した。
三郎太は乱暴にそれをひったくると、一気に呷った。
◆
翌朝、三郎太は老人に伴われて、未だ日の上がらぬ浜辺にやってきた。
ハリマの轡を取りながら、打ち寄せる波の音に耳をすませていたその時だった。
「むっ!」
朝日が顔を覗かせて、一条の光が集落に差し込んだ。
三郎太の目が光にくらんだその刹那の間に、海の景色は一変していた。
目の前に、島があった。
黒く、ごつごつとした肌を持つ巨大な山を中心に、緑の裾を広げた島が現れた。
そして、まるで三郎太を誘うかのように、潮が引いていく。
「さあ」
「うむッ!」
三郎太はハリマに跨るや鞭をくれた。
躊躇っていては間に合わぬと直感が告げていた。
未だ潮の引ききらぬ砂浜を、ハリマが飛沫と砂を蹴って駆けていく。
何かが変わった――いや、何かを踏み越えたと三郎太が思うのと、寒風が熱風に転じたのは同時だった。
――やはり異界か! 魔族の地か!
乾いた冬の寒風とは打って変わって三郎太を襲ったのは湿り気を含んだ夏の潮風だった。
加えて急激な速さで潮が満ちはじめた。
「せいやぁっ!」
三郎太は化物のいる海中に取り残されてはたまらぬとハリマを急がせた。
島の砂浜に辿り着くころには、ハリマの足は完全に海の中にあり、ざばざばと音を立てながら上陸したときには三郎太は汗と海水まみれであった。
そして――。
「…………」
「…………」
辿り着いた砂浜には一人、年増の女が立っていた。
女は植物の繊維を編んで作ったと思われる粗い衣服で腰と胸元を隠しているだけの恰好であり、日に焼けた肢体を惜しげもなくさらしていた。
しかしそれでいて「女」というものを少しも感じさせぬほどその視線は鋭く、手に持った肉厚の剣は鈍く輝いていた。
◆
年増の女に導かれるままに、三郎太は島の奥へと進んでいった。
三郎太はびしょぬれになったインバネスと羽織を鞍に掛けると、自身はハリマの轡をとって、女の後を追って道なき道を歩いた。
じめじめとした密林によって頭上は覆い隠され、太陽の光はまばらに差し込む。
巨大な昆虫が地を這い、木に登る。聞いたことのない鳥の鳴き声、獣の咆哮が密林に木霊す。
つくづく異界にきたものだと、三郎太は人知れず脂汗を拭った。
やがて密林を抜けると、切り拓かれた広場に辿り着いた。
目の前には高床式の木造神殿。広場にはその神殿を拝するように、左右に一列ずつ、案内をした年増の女と同じ格好の女戦士たちが着座していた。
そして、三郎太の気を引いたのは、神殿から地面に伸びる階段の中程に座った一人の女だった。
それはまだ十代後半程度にしか見えない少女であった。
黒髪は無造作に後ろで結ばれ、恰好は他の者と変わるところがない薄着。
腰に差した剣も、装飾の面で他のもののそれと異なるところはない。
少女は、立てた右膝に右肘を置き、掌を顎にそえながら、愉快そうに口元に笑みを浮かべていた。
「…………」
三郎太がその笑みに抱いた印象は、「獲物を前にした獣」であった。
そして、同時に感じた呼吸が苦しくなるような覇気の正体を、三郎太は嫌というほど知っていた。
ヴォルフスで初めて出会ったときの太祖、彼女がまさしくこの支配者の風格というものを備えていた。
「オマエはあそこだ。早く行け!」
立ち止まって進まぬ三郎太にいら立ったように、年増の女が広場の中心を指し示した。神殿の正面にあたるその場所には、円座のようなものが敷かれている。
あの少女の前に――居並ぶ戦士に囲まれる広場の中心に行けと言う。
――面白い。
紛れもなくそこは死地だと三郎太は思った。いや、もっと正確に言うならば、まな板の上の鯉、市場に並べられた魚に近い。
しかし、死地に行けと言われるほど、窮地に陥るほど、俄然、反発心がむくむくと頭をもたげてくる。
三郎太はハリマを女に預けると、中央の円座に着座した。
「ようこそ御客人。我らの地、忘れられた灼熱の大地。試練と欲望の女島。アマゾーンの楽園へ。私は女王アングリッサ=ムスペル」
階段に腰かけた少女は、笑みを張り付けたま、自らを女王と名乗った。
「我らは灼熱の子らアマゾーン。貴方が強き者であるかぎり、我らは貴方を歓迎する」
女王は形式ばった挨拶文句を並べた。
「ここは試練と欲望の島。願いを述べられよ。試練を乗り越えることが出来たとき、その願いはきっと叶う」
三郎太はこの島が如何なる島かほとんど無知のままであったし、無論のこと、この島の礼も知らないままであったから、促されるがまま口を開いた。
「されば、無作法と思われるかもしれませぬがご容赦を。拙者の名は清浜三郎太。ある者を追ってこの島へ罷りこした次第にござる。恥ずかしながら、拙者はその者が男か女か、老いか若きか知り申さぬ。が、弓術に長け、このような矢を使う者であることは、先立って身をもって知り申した」
三郎太は懐から鏃を取り出すと地面に置いた。
「そして、重ねて恥ずかしながらその者がこの島に来て何をなそうとしているのかも、拙者は仔細を知り申さぬ。しかし間違いなく、『北竟大帝』という名を――」
北竟大帝――そう、三郎太が口にした瞬間だった。
突如として、地面が鳴動した。
鳥獣が騒ぎたち、居並ぶ女戦士達に動揺が走った。
微動だにせず、平静でいるように見えるのは、三郎太と女王アングリッサのみであった。
しかしその三郎太も、偶然というには不可解な地震に眉を顰めており、アングリッサの笑みには苦笑が混ざったように見えた。
「……気にするな、つづけろ」
アングリッサは意味深にほほ笑みながら続きを促す。
「……右の者に心当たりがあるのならば、今すぐに引き渡していただきたい」
「願いはそれだけか?」
「されば、右の者が何を願ったのかも教えていただきたく」
「そうか……ふむ……おい、リッダ。あれを」
アングリッサは一瞬悩む素振を見せた後、女戦士に何事かを指示した。
やがてリッダと呼ばれた女戦士が一抱え以上もある布を背負って戻って来た。そして、リッダはしかめ面をしながら、その中身を三郎太の目の前にぶちまけた。
「むっ……」
蠅と腐臭が同時に舞い上がった。
現れたのは男の死体――。
それも、全身を細かく分断された蛆の温床であり、白濁した目は鳥獣にやられたものか、一つはすでになく、一つは飛び出して糸を引いている。
腐り、膨れた死体のなかで、三郎太が異常と気づいたのは腕の長さであった。
関節を境に切断されたと見える右腕は、それより先だけで常人の腕より長い。二の腕も足せば、常人の二倍はあるだろうか。
「御客人のお目当てはこれだろう」
三郎太は眼前に広がる凄惨な死体をじっと見ていた。これが目当ての人物であることはすぐに分かった。
常人とは異なる体。それを自ら異形、異端、魔の象徴と認めた彼ら。
この男はあの長い腕からあの強弓を生み出していたに違いない。それに何より、動かぬ証拠として一際大きな弓が、死体の中に混ざっている。
追っていた敵の使者が、死んでいる。それ以外に、自分は何を思うべきなのであろうか。
三郎太は死体から目をそらさずに、そう、自らに問うていた。
夜襲を仕掛けられたことに対して、一度は敵愾心を燃やしたが、それでも顔も名前も知らぬ敵である。歎き悲しむ理由はないし、自らの獲物を取られたからといって怒り狂うほど三郎太は己を律しきれていないわけでもない。無論の事、死体一つに今更動揺するはずもない。
「……弔いの仕方を知らぬと見えるな、禽獣共」
しかし、口をついて出た言葉は三郎太自身驚くほど敵意に満ちたものだった。
それを聞いたアングリッサは、その反応を楽しんでいるように、くつくつと笑った。
「なぜ怒る? これは御客人にとっては敵なのだろう? なぁ『勇者』殿」
「何をッ……!」
『勇者』――その呼称を三郎太は何度も耳にしている。そのうちの何回かは三郎太を指して用いられていることも気づいている。
三郎太はその呼び方があまり好きではなかった。『勇ある者』、『勇ましき者』、決して不名誉な呼称ではない。しかし、決まってその名で呼ぶものは、三郎太のなかに三郎太ではない何かを見出して呼んでいる。それが三郎太にとっては不愉快であった。
加えてもう一つ――、
「随分と物知り顔で申すのだな」
その言葉には、必ずと言っていいほど北竟大帝ら『魔』の一味が絡んでくる。
その言は看過できぬと、三郎太の目が剣呑に光った。
しかし、三郎太に睨まれても女王は平然としていた。
「そういきり立つなよ御客人。まだ私はこの男が何を願ったのか、語ってはいないだろう」
この男の願い、それはつまり北竟大帝らがこの島で何を成そうとしていたかを意味する。
三郎太は首肯した。
「この男が願ったもの、それは――」
女王アングリッサは、背後にそびえたつ、黒々とした裸の山を指さした。
「――我らの神の、出陣だ」
◆
「…………」
三郎太は眉をひそめながら、無言で、アングリッサの背後へと視線を向けた。
そこにそびえたつのは島に渡る前から見えていた、巨大な山。
黒々とした岩肌を露出させた山には草木の一本も生えておらず、そこに生命があるとはとても思えなかった。
しかし、そこに神がいるというアングリッサの言葉を、三郎太は、馬鹿げていると切り捨てることができなかった。
「その男は言った。『我らが世界を巻き込む乱を起こす。貴殿は南方より怒涛の如く進軍されたし。大乱により秩序を破壊し、世界を渾沌へとかえすことが出来れば、貴殿もこの牢獄から抜け出すことが出来る。もう一度やろうではないか、我らの黄昏を。貴殿の盟友、北竟大帝より』……とな」
やはり。と三郎太は思った。
秩序を破壊し、世界を渾沌へと還す。北竟大帝の狙いは一貫してそれだ。
「まさしく、北竟大帝の言に相違いない。して、そちらは何とするおつもりか」
言外に、頷くならば容赦せぬという威圧を込めた問いに対し、
「興味がない」
と、アングリッサはきっぱりと断言した。なんの迷いもなく、含みもない拒絶の意思を振り下ろした。
「今、なんと?」
三郎太はあまりの呆気なさに面食らって、思わず聞き返した。
「興味がないと言ったのだ。全てを聞いた。世界を壊したい北竟大帝一派がいる。それを阻止したい『勇者』一派がいる。秩序の破壊、そのために種々の小細工を弄した。その集大成として我らの神の力がいる。南方より出陣して、森も山も都市も構わず、世界を蹂躙してほしいと」
「それを全て承知の上で……?」
「ああ、下らん。興味がないと言ったのだ」
冷静になって考えてみれば、その答えは当たり前のように思えた。
女王アングリッサは既に使者を斬っているのだ。
使者を斬っておきながらその申し出を受け入れたためしなど聞いたことがない。
三郎太は肩の荷が下りたように、心中安堵していた。
南方の神を動かす。それが一体何を意味するのか、北竟大帝の真意は分からないが、その目論見があっけなくも崩れ去ったことだけは確かであった。
――ならばもうこの島に用はない。
三郎太は礼を述べ、辞去しようとして立ち上がった。
その刹那――。
三郎太は不意に腰をひねりざま蛇切逆安珍を抜き放つと、右足を軸にして、猛然と一回転しながら、電光石火の早業で刃を振るった。
それだけで、木陰より飛来した三本の矢は、何れも二つに折れて空しく落下した。
「これは如何なる仕業か!」
「流石だな、この島に足を踏み入れるだけの事はある」
三郎太の喝破を受けながら、矢を射かけさせた張本人であるアングリッサは平然とそう言った。
「忘れてもらっては困るな御客人。ここは試練と欲望の島。試練を乗り越えた者――強者だけがその願いをかなえることが出来る。
我らがそこの男の願いに興味が無いといったのは、その願いが、試練を乗り越えることのできなかった弱者の妄言であるからだ。強者こそが絶対。弱者は木石と比べても劣る。それが、永劫変わることのない我らの在り方。尤も、この点からすれば、世界の興亡とやらに興味が無いのは事実であるがね」
「ならば、試練に打ち克った者が世界を壊せと言えば、貴様らは喜び勇んでそうすると言うか!」
「そうだ。そして、この島に来ておきながら試練を受けないということは、あり得ないのだよ御客人。そして弱者ならばそこの男のように大地の肥やしになり、見込みがあるのならば種だけを吐かしてから殺す。強者ならば存分に願いをかなえて進ぜよう」
淀みなく続けるアングリッサに対し、三郎太はますます激昂を見せた。
「何たる蛮夷の習俗か、弔いを知らぬ貴様らのそれは戦でも試合でもない。形を整えたとしても、秩序などあったものか! 禽獣共がただ生き、ただ子を残すために醜く爪を立て合うのと変わらぬ!」
三郎太は切先をアングリッサに向け乍ら、峻烈に周囲の女戦士を睨め回した。
かかってくるならば来い、一人余さず斬り捨ててくれるとの気迫に、辺りの者も、一瞬たじろいだように見えた。
「くくく……落ち着けよ御客人」
やはり、その中にあってもなお平然としているのは女王アングリッサであった。
「では一つ、御客人が試練に乗り気になるような話をしてやろう」
「何ッ!」
アングリッサは背後の黒山を、指差しながら言った。
「私達にとって世界の興亡などどうでもいい。あぁそれは本当だ。嘘じゃない。では我らの神はどう思っていると思う? ……猛っているのだよ。この男が島にやって来た時、そして御客人がこの島にやって来た時、二度この島は鳴動した。これまでになかったことだ。初めて、我らの神が、我らに意思を明確に示されたのだ。ならば、我らがその意思を奉斎して世界を滅ぼしに出かけるのもまた一興」
「馬鹿げたことを!」
三郎太は白刃を煌めかせて踏み出した。
「人が何をしようとも、大地は揺れ、山は火を噴くものだ。河が氾濫することも、陽が大地を焼くことも、そうなるようになっているからに過ぎぬ! 神意などであってたまるものか!」
「己を偽るのが下手だな、御客人!」
立ち上がり、三郎太に負けじと声を張り上げる。
それは初めてアングリッサが感情を露わにした瞬間だった。
「先の地震の時、誰よりも早く山を仰ぎ見たこと、見抜かれていないとでも思ったのか。今ようやくお前という人間が分かった気がするよ、清浜三郎太。『魔』の連中がお前のようなたかが一個の人間を気に掛ける理由もな。
……覚悟を決めろ。どのみち試練を乗り越えねばこの島からは出られんのだ。ならば勝って我らの神を阻止してみろよ」
その時三郎太は、女王アングリッサの瞳に、不思議な魅力を見た。
三郎太の浅慮で短絡的な振舞い、本心を偽る愚かしさ侮蔑している傍ら、その実力に期待しているようであったし、今この場に立っている己に、誇らしさを感じているようでもあった。
「……良いだろう。蛮夷共めが、悪習をもって三郎太を試したこと後悔させてくれる!」
三郎太は、己がその魅力に取りつかれそうになるのを感じながらも、なお偽って、常のように、啖呵を切ったのだった。




