新年祭 後夜
新年祭は終わった。
セシルは模擬試合に勝利し、三郎太は鎧割りを成功させた。
鎧割り成功の瞬間、隣にいたアンリエットが驚愕のあまり目を白黒させていたのを見て、セシルは自分の事のように誇らしく思った。
あれが私たちの師匠なんだぞ。と。
万事滞りなく、理想の形で閉幕を迎えた。
にもかかわらず、セシルはその夜、ベッドの上で一人悶々としていた。
――先輩も神父も友人たちもみんな祝福してくれた。だけど足りない。一人絶対的に足りない……! あの人はあの試合を見ていたはずだ。ではなぜ何も言わない。
もしや自分が観客席に見かけた三郎太の姿は錯覚だったのだろうか。
彼はもしかすると本当に私の試合を見ていないのではないか。
「うがー!」
セシルが頭を抱えながらゴロゴロとベッドの上を転がりまわっていると、不意に窓が叩かれた。
「な、なによ……」
セシルの部屋は教会の二階である。
外から窓を叩けるはずがない。相手が人であるのなら。
「うっ……」
さらにまた、ガンガンと激しく窓が揺れる。
セシルが恐る恐るカーテンを開けると、眠そうなシユウの視線とぶつかった。
「何してんのよ」
「はいこれ」
呆れながら窓を開けると、何をどうしているのか器用に壁に張り付いたシユウがセシルに何かの紙を渡してきた。
「……手紙?」
「はい確かに渡したから。……まったく夜中に面倒なことを押し付けやがって」
シユウはぼやきながら壁から離れると、何でもないように地に降りて、あくびをしながら小屋に戻っていった。
「な、なんなのよ……」
セシルは戸惑いながらも手紙を開いた。
模擬試合の儀御見事に候
無想の心御見事に候
火中挺身御見事に候
残心御見事に候
昼夜稽古の甲斐有之候
御見事に候
清浜三郎太源朝臣
そこにあったのはミミズののたうったような汚い字だった。
まったく、古風なことに毛筆を持ち出して書いたらしい。
意味の取れない言葉もある。しかし何が言いたいのかはすぐに分かった。
これは、不器用な男から発せられた精いっぱいの賛辞だ。
三郎太は全てを見ていたのだ。
「――――~~ッ!」
セシルは急に恥ずかしくなって手紙を胸に抱えたままベッドへと飛び込んだ。
暫くごろごろとベッドの上を転がってから、もう一度手紙を開いた。
香りのついた高級な紙の上に踊る達筆は、やや右側に寄っていてバランスが悪い。
まるで続きを書こうとして中途でやめたようにスペースが空いているのだ。
三郎太がこの先に何を書こうとしたのか、セシルはすぐに察しがついた。
――女として生きるか、戦士として生きるか。ですか。
「まったく……貴方が悩むことではないでしょうに……」
慢心することなく精進しろと叱咤激励するか、剣はこれまでにして女の体を大切にしろと諭すか、三郎太はその二つに迷ったのだろう。
三郎太はセシルが火傷を負ったことに、きっと負い目を感じているのだ。それが猶の事セシルの身を案じさせた。しかしその一方で、三郎太はセシルが『魔』と戦う者としての宿命を背負っていることも、本人にその覚悟が備わっていることも、十分に承知しているのだ。
セシルは三郎太の葛藤と矛盾の染み込んだ空白をそっと撫でてから、もう一度胸に抱いて、目を閉じた。
◆
やがて、セシルは鼻をつく異臭にふと目を覚ました。
いったい何事か、臭いの方へ目を向けると、窓の隙間から白い糸のようなものが部屋の中に入り込み、ひらひらと踊っていた。
◆
三郎太は鼻をつく異臭にふと目を覚ました。
知っている異臭であった。
臭いの方へと目を向けると、扉の隙間から白い糸のようなものが小屋の中に入り込み、ひらひらと踊っていた。
「…………」
三郎太はその糸に導かれるように、ふらふらと、まるで人形のように立ち上がろうとして――出来なかった。
左の腕を、寝入った蚩尤が抱えていたからである。
三郎太は乱暴に蚩尤を振り払った。
「……ちッ!」
そして舌打ちをした。袖に蚩尤の涎がべったりとついていたのである。
それでも呑気に寝ている蚩尤を蹴飛ばしてやりたい衝動をぐっとこらえて、三郎太は顔を上げた。
その先で、白い糸はひらひらと踊っている。
そこでふと三郎太は、なぜ俺はあの糸を追おうとしているのか。と我に返った。
三郎太は思い出した。
かつても同じように、この怪しげな臭いと糸に誘われて危うく窮地に陥りそうになったことを。
あの時は二人の童子に救われたが、もしあのまま闇の中に足を踏み入れていたらどうなっていたか。
三郎太は今度もまた己を罠に嵌めようとしている敵がいることに激怒した。
畢竟、敵とは北竟大帝の手下に違いないのである。
――身の程知らずの奸物めが、素っ首叩き落としてくれる。
袴をつけ、大小を差した三郎太が表に出ると、ちょうど教会から出てきたマリアと鉢合わせた。
「あっ三郎太! ちょっと大変なの!」
酷く慌てた様子で駆け寄ってきたマリアは言った。
「セシルが居ないの、教会に泊まっていたノエリアとシオーネも」
「なに…?」
「まだ怪我も治りきっていないのに、なにやってんだか……。なーんかただ夜遊びに出かけたとかそんなあまいものじゃなくて、魔が絡んでそうな気がするのよね、サイアクなことに……。私は三人を探しに行くところだけど、貴方は?」
こんな夜更けに出歩こうとする三郎太を、訝しげにマリアは覗き込む。
全て合点のいった三郎太は、なお一層怒気を滲ませながら、言った。
「丁度……痴れた人さらいを斬りに行くところだ」
◆
マリアは白い糸も、異臭も何も感じないと言う。
三郎太が先導しながら糸を辿っていくと、大通りの一角にたどり着いた。
白い糸は建物と建物の間、空き地の地面から生えていた。
近づいて覗き込んでみると、確かに僅かな隙間が空いている。
「なるほど……この穴からその糸っていうのが生えているのね?」
「そうだ。何か心当たりがあるようだが、この下に人が入れるような空間が――」
あるのか。そう問いかけようとして三郎太は気づいた。
見ると地面には亀裂が入っており、それに沿って四角く浮き上がっていた。
糸の出ている隙間も亀裂の一部のようだった。
「まぁ見てなさい……よっこらしょっ」
マリアはベルトから剣を抜くと亀裂に差し込み、梃子のようにして地面を持ち上げた。
亀裂に沿って浮き上がった地面の下には、階段が続いている。
「地下墓地。もうずっと昔に閉ざされたものだけど、同じことをして人が入った跡があるわね」
埃の上に足跡が残っている。
「奴らか」
「たぶんね」
狭い入り口に体を滑り込ませ、階段を慎重に下っていくと、突然、通路の両側に灯がついた。まるで三郎太達を導くように、灯は奥へ奥へと続いていく。
魔石の灯に照らされたのは、壁一面に積み重ねられた朽ちかけの骨。それは墓地の名に恥じない凄絶な光景だった。
「……南無阿弥陀仏。しばし騒がしくなるが、許せ」
三郎太は手を合わせると小さくそう言った。
「死者への祈りかしら? もしかして怖いとか?」
「馬鹿を言え」
「冗談。……別に、私たちは彼らを粗末に扱っているわけではないのよ。貴方の眼にはこんな狭い場所に無造作に押し込めて、残酷な仕打ちに見えるかもしれないけれど」
「俺がいままで何人を野ざらしに葬ってきたと思っておる。ただの礼儀だ」
「ならいいわ。どうやらこの歓迎っぷりからすると、奥に誰かが待ち構えているのは間違いないようだし、先を急ぎましょ」
階段を降り、骸骨の迫る狭い通路と幾分か広い部屋を繰り返し三つほど超えた先に、一際大きな部屋が広がっていた。
天井も高く、地下の狭苦しさを感じさせない空間であった。
「三郎太! 上ッ!」
マリアが何かを見つけて指をさす。
「むッ!」
三郎太は天井を見上げ、唸った。
探していた女学生三人が、まるで蜘蛛に捕らわれた羽虫のように胴を簀巻きにされて吊るされていたのである。
「さァさァ、ようやくおいでなすったか。一人、招かれざる客がいらっしゃるがまァ仕方ない」
部屋の奥の暗がりからそう言いながら現れたのは、極端な猫背の異相の男だった。
ボロボロのシャツとズボンを身を身に着け、右腕は薄汚れた布で包まれている。
髪の毛一つない禿げ頭に、左目は醜く潰れて隻眼であった。
三郎太はこの男を知っている。
「安心してくだせェ旦那。上の三人娘は死んじゃァいませんぜ。ありゃ旦那を誘うための餌ですから」
「……三郎太。アンタ、友達は選んだ方がいいわよ」
マリアが剣呑な笑みを浮かべながら皮肉を飛ばす。
「……クニマロ、ならばお主が用のあるのは俺一人だろう。上の娘共は放してやれ」
「へぇへぇ、いいですとも」
意外にもクニマロは快諾し、布に包まれた右腕を振るった。すると、三人を吊るしていた糸がほどけて、三人は自重で落下した。
「ちょっと、あの高さじゃ……!」
三郎太とマリアは急いでその場所へ駆け寄った。
しかし、懸念とは裏腹に三人を包んでいた糸がクッション代わりとなって落下の怪我は無いようだった。
「うっ……先輩……?」
「セシルッ! よかった無事なのね」
「私……ノエリアとシオーネに会って……一緒に糸を追いかけて……ッ! 二人は!? あの気持ち悪い男は!?」
目覚めたセシルが慌てて飛び起き、しかし、怪我の痛みで膝をつく。
「大丈夫。二人とも意識は失っているけど生きてる。それより貴女は自分の心配をしなさい」
「でもッ……先輩! あいつは……」
セシルはクニマロを睨みつけた。
「そう睨みなさんなって。自分のあまっちょろさを他人のせいにしちゃァいけません。それと気色悪いのは生まれつきなもので、こればっかりはどうしようもありませんわ。しかしうら若い女性に言われると意外と傷つくなァ、え? 旦那ァ? 嫌われたくもねぇし、こういうときは一応謝っておきますか、こいつァ失敬!」
奇怪な容貌に無邪気な笑みを浮かべながら、クニマロは慇懃に腰を曲げた。
「さてとまぁ、こっちはさっきも言った通り旦那に用事があるんでさァ。そっちの方々はどうします? 旦那ァ」
問われて三郎太はセシルへと視線を遣った。
「……立てるか」
「清浜……三郎太……私はっ――」
戦います。貴方の弟子として、負けたままでは引き下がれない。
セシルがそう続けようとしたのを遮るように、三郎太はその眼前に兼定の長脇差を差し出した。
「お主の剣は拾っておく。これを使ってマリアと一緒に寝惚けている連中を担いでここを出ろ」
「ちょっ何を言って……!」
「そうよ、あんな得体のしれない相手に、アンタ一人を置いていけるわけがないでしょ」
セシルも、マリアも三郎太の言葉に鋭く反発したが、これは三郎太の予想の範囲内だった。
「二度目だな、マリア」
「何がよ」
「再び、俺の因果だ。俺が良からぬものを引き寄せた。それだけではない。これまでの首都での怪事には、北竟大帝だけではなく、きっとあの娘も絡んでいる。……そう聞けばお主は余計放ってはおけまいが、されどここは俺に始末をつけさせよ。我儘と心得ているが聞いてもらうぞ」
「……なるほど、あの時と同じって言いたいわけ」
三郎太はかつて、エリーという一人の哀れな少女の狂気を暴き、それが起こした事件の責任を果たすべく少女を斬った。
マリアはその時、それが自らの職務に反することを知りながら三郎太を信じて見送った。
今もまたそうしろと、三郎太は言っていた。
マリアは嘆息してから、厳しい視線で三郎太の顔を見据えた。
三郎太も、負けじとマリアから目をそらさなかった。
「……気絶してるのが二人、怪我人が一人、足手まといになるのは、ごめんよね」
「先輩……?」
「立ちなさいセシル。ノエリアをお願い」
シオーネを担ぐや迷いなく来た道を引き返すマリアを、ノエリアを担いだセシルは慌てて追いかけた。
「いいんですか先輩!? あの人はたしかに強いですけど、あの気持ち悪いのはきっと魔人です! いくらあの人でも……」
「大丈夫よセシル。死ぬ気になったアイツは死なないから。それと、言っておくけどこのまま楽には戻れないわよ。預かった剣に恥じないように。ね?」
そういってマリアは勇ましくセシルに微笑みかけた。




