連合首都の夜
――連合首都。
このごろの連合首都の夜は、本来そこにあるはずだった静寂を失っていた。
日が落ちると、街のいたるところに篝火や魔法石の灯が燈され、武装した騎士団と教会の人間が巡回を始める。そして時折何かを見つけた叫びが聞えると、次の瞬間には剣や鎧、魔法が織りなす戦いの調べが木霊する。本来、闇に閉ざされるはずの夜を煌々と照らし、殺伐とした空気を沈殿させた、かつての安らぎと休息に満ちたそれとは程遠い歪な夜。それが連合首都の夜だった。
清浜三郎太はそんな歪な夜を見回る人間の一人だった。
いつも通りの憮然とした表情で、五番大通りの周囲を巡る小道を練り歩く様はさながら辻斬りと言った様子だが、彼の二の腕には夜間警備を五番教会から委託された証明書が巻き付けられており、その立場は教会の信頼によって保障されている。
連合首都の夜が変質したのは、北竟大帝の宣戦布告からすぐの事だった。
――闇夜を魔に還す。
北竟大帝のあの宣言以来、連合首都には夜毎に魔獣や魔人が現れ、人を襲った。
それまで連合首都の防備は人に対しても、魔に対しても万全であった。騎士団の駐屯する三山と、それを繋ぐ長大な城壁。内部には教会や修道院、騎士団の屯所が点在し、魔の入り込む隙間はどこにも無かったはずで、実際にこれまで大きな事件は起きていなかった。少なくとも、これほどまでに連続して魔の侵入を許すなどという事は前代未聞であった。
だが現実に、魔獣や魔人はどこからか首都内に侵入している。北竟大帝らが何らかの手段をとっているのは間違いなかった。
この知らせは三郎太からマリアへ、マリアから教会へ大聖堂へと伝えられ、ついには連合の首脳部を動かし、国を挙げての対策が取られるようになった。
世界を滅ぼそうとする魔人、北竟大帝の存在は荒唐無稽に思われたからか、何れかの過程でその名を消されていたが、連合を脅かそうとする魔の一団があることには変わりなく、首脳部の判断は早かった。
騎士や聖職者を夜間の警備に充てると同時に、腕の立つ開拓者を募り、魔獣発生の原因と思われる地域のさらなる開拓を推し進め始めた。
また、新たに身分を問わず腕の立つ者を集めた少数精鋭の開拓集団『神意執行会』がアウロラ大聖女兼枢機卿のもとに設立され、その初陣として、長らく連合の目の上のたん瘤であった神威山の一斉開拓が近々行われるという。
「…………」
三郎太は一連の迅速な対応に感嘆すると同時に、ぬぐい切れない一抹の不安を抱いていた。
突如として始まった夜を巡る『魔』と『人』の争い。これこそが、北竟大帝の望んでいた混迷と破壊の序章なのではないかと思えて仕方がなかった。
そして、神威山――。
連合首都の北方やや東よりに位置するこの山が、連合首都にとって最重要の地であることは聞いていた。神威山の麓を流れる川は、他の河川と合流しながら連合首都を貫き、大運河として連合首都の経済を支えている。さらに交通にしても、軍事にしても、この山は連合首都にとって兵家必争の地とも呼べる最高の場所に位置している。それでも、これまでこの山を人のものにできなかった理由はただ一つ、この山が人の力の遠く及ばない、神によって魔に与えられた地であると考えられていたからだった。しかし今、首都を襲う魔獣たちへの反感をバネに、アウロラ大聖女の号令のもと、神威山開拓が強行されようとしている。一気呵成に『魔』を滅ぼせ、それが連合の世論だった。
神威山には善鸞が頼みとする「神威山の主」がいるはずだった。北竟大帝と戦う上で、神威山の主とやらの力が必要なのであれば、神威山開拓は吉とでるのか凶とでるのか。何れにせよ、無念なことに、三郎太には連合を突き動かす対魔のうねりをどうすることもできないでいた。
「お悩み事とお見受けいたすが如何しましたかな、お武家殿」
突然真横からおどけたような野太い声が聞こえた。
ハッと顔を向けると、寡頭に隠れてよく見えないが、間違いなくしてやったりとニンマリ笑う、僧兵体の中年の僧侶がいた。二の腕には三郎太と同じ許可証が巻かれている。
「……御坊」
「おっと、驚かせてしまいましたかな」
三郎太が咎めるように御坊と呼んだ男――善樹――はいつもこのように、前触れなくぬっとあらわれる。三郎太をして気配を気づかせぬ隠形は見事と言う他ないが、このようにして黄昏時に突如として現れ、声をかけられたとしたらたまったものではないだろう。尾ひれのついた奇妙な怪談話が流布するのも納得できる。
「少し考え事をしていた」
「ほう。拙僧で良ければ浅知恵を貸して進ぜるが」
三郎太は神威山開拓の懸念を伝えた。
神威山の主とは何者なのか、無事でいられるのかと。
「ふむふむ……そうでござるなぁ……」
善樹はわざとらしく顎に手を添えて考えるそぶりをしていたが、やがて手をポンと打った。一々わざとらしい。
「話は変わりまするが、昨日拙僧がお届けした牡鹿とは、あれから何かありましたかな?」
「ん? 何かというほどのことでもないが……」
三郎太は聞かれたことについて、正直に物語った。
◆
北竟大帝の宣戦布告あった日の翌朝である。その日は屯所での剣の訓練も無く、暇な一日の始まりの朝。三郎太は表の戸を開けて、教会の裏庭を眺めていた。三郎太の背後では、同じく今日一日暇なのか、蚩尤が腕を枕にいびきをかいていた。
三郎太は黄昏ているわけでも、世の無常を嘆いているわけでもなく、ただ視線の先の一匹の巨大な白い牡鹿を睨みつけていた。
その牡鹿は昨日の夕方になって、突然善樹が寄越してきたものだった。曰く
「初めに申しておきますが、この牡鹿について詳細は話せませぬ。ただ名をハリマと申すとだけ。いつか必ず三郎太殿の御役に立つことでしょう。信じることでござる。祈ることでござる。どうか粗相のないように、真摯に対することでござる」
どこか必死な風でそういって、善樹は三郎太に牡鹿を預けた。もとより居候の身、畑を兼ねた裏庭で鹿を飼うなどもってのほかだろうと、教会の主である老神父に伝えたが、
「いやいや、随分と賢そうな鹿ではございませんか。こんなさびれた庭しか用意できぬ此方が恥ずかしいと思うほど大賢者の風格を宿しています云々……」
と、容易く、この奇妙な鹿を受け入れてしまった。
「…………」
そう。奇妙な鹿なのである。まず異常なのは馬かと見間違えるほどの巨躯。そしてわずかにくすんだ白色の体毛。天を指す立派な角は右の方が無残に折れている。
どう考えても尋常の鹿ではない。
その中でも特に三郎太が気に入らないのは目である。
瞳の奥は全くの虚無だった。感情というものが一切見えない。
勿論三郎太に獣の心情を読み解く能力などは無いが、それでも異常と思えるほど、真黒い瞳は何も映していない。
「…………」
三郎太が睨む。
「――――」
木陰に寝そべった牡鹿が見返す。
「…………」
さらに睨む。
「――――」
さらに見返す。
「…………!」
少し、気迫を込めて睨みつける。
「――――」
首を起こして見返す。
「…………ッ!!!」
もっと、怒気を込めて睨みつける。
「――――」
視線は三郎太をとらえたまま、手近な草を齧る。
「…………」
「――――」
お互いに視線を躱した沈黙の空間に、蚩尤のいびきとハリマがもしゃもしゃと草を齧る音だけが響く。
三郎太の中で何かがキレた。
「畜生風情がッーー!!!」
「わわわっ!」
大音声に飛び起きた蚩尤には目もくれず、三郎太は素足で庭に降りると、ずんずんとハリマに向かっていく。
ハリマもそれに応じる様にして立ち上がると、無表情のまま、前足で一回土を叩いた。
「かような目でッ!」
「――――」
三郎太はハリマの両角の根元を掴み、押したり倒したりし、ハリマは負けじと踏ん張りながら、逆に三郎太をつき飛ばそうと、前へ踏み出す。ハリマと三郎太の力比べが始まった。
「なにやってんのさ……」
小屋の中から、蚩尤が呆れたような声を上げた。
◆
「――と、いう事があった。勝負は互角だったぞ」
「そ、そ、そ、それは、け、結構でござる。結構でござるなぁ!」
話を終えると、何故か、善樹はひどく狼狽えていた。
「……何ぞ問題があるのなら申せ」
三郎太は半眼で問い詰めるが、善樹は何でもないと言って一つ咳ばらいをすると、落ち着いてから話を再開した。
「実を言えば、神威山の主殿にはさる場所へ身を隠してもらっているところでござる」
「さる場所? 何故」
「此度の大開拓の前……まだ拙僧が貴殿に会う前でござるが、神威山は北竟大帝の手の者に襲撃を受けているのでござる」
「何ッ!」
初耳であった。すでに北竟大帝は手を打ち、神威山を手中に収めているとうことであろうか、そうであったとしたら、善鸞上人の計画は大きく修正せねばならない。
「そこで主殿は傷つき身を隠され、以後の神威山がどうなっているのかは、拙僧にもわかりませなんだが、今回の開拓で人のものになるとすれば……主殿のものであることが最善であることは変わりませぬが、魔の手に渡るよりは幾分ましでござろう」
「そもそも神威山の主とは何者だ」
三郎太には引っかかるものがあった。今の善樹の言い分でいけば、神威山の主は人でも魔でもないということになる。善鸞の遺言で神威山の主を挙げながら、未だ三郎太はその姿、正体を何ら知らない。
「今は姿を隠されてござる。こればかりは……ご勘弁を」
善樹は深々と頭を下げる。
それを見た三郎太にそれ以上追及する気は起きなかった。
「……分かった。今は良いがいずれ……」
いずれ話してもらう。そう言おうとして、三郎太は口をつぐみ、立ち止まった。
「……御坊」
「うむ」
善樹も何かに気付いたように、立ち止まる。
話をしながら巡回していたところ、気づけば五番大通りに繋がる細い道に立ち入っていた。
大通りを照らす光の届かぬ、細道の中程に、異様な空気が立ち込めている。
「Gruuuuuu――」
獣のうめき声、闇の中に赤く光る点が四つ並んでいる。
「犬か」
「そう申せば可愛く聞こえますがな、魔犬でござろう。それも双頭」
夜間警備では2人組以上で行動し、魔獣を見つけた際には周辺へ声をかけるのが通常だが、この程度ならば応援を呼ばずとも二人で倒せると判断した三郎太は、そのまま柄へ手をかける。
「御坊。先ずは俺が行き、奴の背後に出る。挟み撃ちにするぞ」
そういって飛び出そうとする三郎太を、善樹が手で制した。
「ひとまず、此処は拙僧にお任せ下され、一応は拙僧が役に立つところを見せておかねばなりませんからなぁ」
善樹はそう言うと一歩前に出る。
三郎太は今まで気づかなかったが、善樹の腰には一口の太刀が提げられている。長さは二尺八寸ほどもあろうか。漆に塗り固められた黒漆の拵のため、薄暗い夜に溶け込んでいたのだろう。
「……出来るのか。御坊」
三郎太は兵法家の業として、善樹の立ち居振る舞いを気にしていたが、剣術を修めている風には見えなかった。しかし、虚仮脅しの太刀にも見えない。
「天狗衆が一人、親綽より受け継いだ太刀は無銘なれども千手院の大業物。お武家殿にお見せして恥ずかしくはござるまい」
◆
「GRUUUUUUUUUAAAAAAAA!!!」
魔獣が絶叫し、闇より飛び出す。
双頭の口から獰猛に飛び出した涎が地面に滴り落ちる。
善樹と魔獣の距離は50メートルばかり。
「うむっ!」
善樹は一声気合を入れると、懐に手を突っ込み、無造作に紙の束を掴むと宙にばらまく。
そして、片手拝みに気迫を吐いた。
「吽!」
声に応じて、宙を舞う紙片に火が付き、それはたちまち火球となった。
「これはっ!」
三郎太は驚きの声を上げる。
この技、この魔法は崑崙の巫女が使った符術と酷似している。
空中で生成された火球は駆ける魔獣へ向けて飛んでいく。
しかし、
――狙いが甘い。
三郎太は咄嗟に、逆安珍を抜き、前へ出ようとする。
このままでは迫る魔獣に善樹は対応できないだろう。
しかし、三郎太はすぐさま自らの過ちに気付いた。
――違う! これは。
火球は魔獣の後ろ足の近くに着弾し爆発するが、魔獣は意に介さず前へと進む。
前へ――前へ――ただ獲物を食い殺すためだけに。
道の狭いことを活かし、魔獣は壁に飛び移り、獲物をかく乱しようとして――できなかった。
一見、あらぬ方向へ放たれたかに見えた火球は魔獣が跳ぼうとした壁にぶつかりはじけ、魔獣の行動を阻止する。そのまま魔獣は右へ左へ、火球を躱しながら前へ前へと進み。やがて善樹の目の前に出て――。
「むん!」
善樹の、およそ剣の心得があるとは到底思えない、無造作に振り下ろされた太刀に、真正面から両断された。
「御覧の通り――」
善樹は血を払いながら、いたずらの成功した子供のような笑顔で振り向く。
「――拙僧、剣も妖術も半端者でござるが、小細工だけは達者なのでござるよ」




