暗雲
翌早朝、三郎太はアンドレの服屋に向かった。
理由は勿論一刻も早く洋服から逃れるためである。
髷に洋服など似合うはずもなかった。
「おいおい、気がはやいな……。ちょっと待ってろ」
早朝であるから当たり前だが、面倒くさそうに出てきたアンドレは目をこすりながらそう言った。
一旦奥に行ったアンドレが暫くして、三郎太が元々着ていた服一式を抱えて戻ってきた。
それを押し付ける様にして三郎太に渡すと、店の片隅を指してあっちで着替えろといった。
三朗太は言われた通りの場所ですぐに着替えてアンドレに洋服を返した。
「そんなに俺の服が気に入らんか」
「服が云々ではない。俺に合わなかっただけだ」
「違いねぇ」
「……」
思ったことを飾らずにそのまま伝えるのは一種の美徳だと自分に言い聞かせて憤懣を抑えた三郎太は、礼もそこそこに扉を開けて外に出た。
「げっ! クロウのやろう、俺の店なんて見んじゃねぇこのやろう!」
見送りのつもりか、一緒に出てきたアンドレが突然大声を上げると、小石を拾って向かいの屋根に投げつけた。
三郎太が何事かと驚いて石の飛んで行く方向を見ると、例の痩せた烏が居た。
いきなり石を投げつけられて驚いたのか、烏はぎこちない動きで飛び立っていった。
出会い頭に邪険にされるとは尋常ではない。三郎太はその訳を尋ねた。
「不幸を運ぶって鳥だ、あいつは」
あの烏を見るのは二度目になる三郎太としては複雑な心境であった。
三郎太は特別迷信深いわけではなかったが、吉兆や凶兆といったものの存在は信じていた。
今回のを凶兆だとすれば、どう対処するべきかとぼんやりと考えていると、
「おいおいおい、なんだこりゃ! ジャン、何処に行った! 何があった!」
町の入口、門の方から叫び声が聞こえた。
◆
アンドレと共に門に駆けつけると、そこでは槍を持った初老の男が腰を抜かして座り込んでいた。
男の目の前には一面血が飛び散っている。
ただ事ではない。三郎太は柄に手をかけながら周りを見渡してみるが怪しげな人間は見えない。
アンドレは初老の男に駆け寄って事情を聴き始めた。
「どうした! 何だってんだ一体!」
「あ、アンドレか……! い、いつもならジャンが夜に門番やったら、朝の時間になると俺を起こしに来るはずなんだ、交代のために! それが来ないし、なんか自然に目が覚めちまったから、仮眠所から出てきたらこの通りだ! ジャンが! 血が!」
ジャンとは三郎太が初めてこの町に来た時に出会った門番の青年である。
三郎太はそれ以後も何度か親交があった。
手合わせをしたことは無かったが、それでも門番という職の関係もあって腕は立ちそうに見えた。
それが町の人間に危険を知らせる間もなく殺されるとはにわかに信じがたい。
それだけ相手が強者であったか、それとも無警戒なところを謀殺されたかのどちらかだろう。
三郎太としては前者の方がやりやすい。
「三郎太、とりあえず俺はこいつを連れて町長のところに行ってくる。お前はここで誰か悪さしねえか見張っててくれ」
「承知した」
すでに叫び声を聞いた野次馬が集まりつつある。
謀殺とすれば下手人は町の中の人間となる。
三郎太はこの町の人間は皆良い人物だと思っているが、そうだからといってこういった事件が起きないとは限らない。
三郎太が注意深く野次馬を制してしばらく、やがてアンドレが町の要人を連れて戻ってきた。
◆
「どうだ、マリア」
「そうね、微かに魔力が残っている。血痕は川の方、魔獣の仕業かも」
教会のマリアとサラ、町長が集まって来て現場を調査をする。
三郎太がそれを背後から見ていると、マリアが振り向いて声をかけてきた。
「ねぇ、三郎太。あなた朝食は食べた?」
「まだだ」
「じゃあこれ」
そう言うとマリアは下げていた鞄から硬いパンを取り出して投げてよこす。
突然のことで事情が呑み込めない三郎太がパンを片手に持て余していると、マリアが続けた。
「これから血痕と魔力痕を辿ってみるわ。腕の立つ人について来てもらいたいから、あなたよろしく」
「うむ。というわけで、すまんがやってくれんか三郎太さん」
マリアには嫌われているものばかりと思っていたが、腕はそれなりに買われていたらしく、至極真面目な顔で同行を頼まれた。
もちろんこの事態に当たって私情を優先する三郎太ではないし、町長にも頼まれて断れるわけがない。
それに、自分が町にやってきてからこんな事件が起きたなどとなっては面白くない。
三朗太はこの穏やかな町が不幸に見舞われるのが我慢ならなかった。
「あぁ、承知した」
三朗太なりに正義感に駆られ、二つ返事で快諾した。
そうして二人はすぐに出立する。マリアは頻繁に地面を睨みつけながら、三郎太は周辺を警戒しながら、お互いに無言のまま歩き続けて川までたどり着いた。
「うーん、ここで途切れているわ」
マリアが無念の声をあげた。
「残念だけど、ここまでね」
三朗太がマリアの足元を見ると血痕は確かにそこで途切れている。
三郎太には分からなかったが、きっと魔力痕とやらも同じくそこで途切れているのだろう。
「わかったことは?」
「引きずった跡がないから余程大型の魔獣か……だけど魔獣の毛なんて一本も落ちていない。近頃は雨も降ってなかったし足跡もない」
「それでは……」
「考えたくはないけど、ええ、人の仕業……かもね。川に流した可能性もあるけど、この川じゃ適当に流したら間違いなくどこかに引っかかるわ。けれどそんな影は見当たらないわね」
マリアは背伸びをして川を眺めながらそう答える。
三朗太は魔獣がどれほどのものか知らないが、獣に近いものとすれば一切毛が落ちていないというのはあり得ないだろう。
かといって人の仕業と考えても、まき散らされた血痕と引きずった跡は、あまりに杜撰な犯行と言わざるを得ない
二人はもと来た道をもう一度確認しながら町に帰って報告をした。
「うーむ」
「ふーむ」
報告を受けた町長もサラも目を瞑って思案する。
「わかった。二人共ご苦労だった。家に戻ってゆっくり休みなさい。マリア、教会の授業はしばらく朝だけにしなさい」
「わかったわ」
「アンドレ、組合の方で仕事は遅くならないように、日没までに家に帰るように伝えなさい」
「おう」
「既に使いをニーユに送っている。そこから騎士団と教会の聖女ないし神父が来るまでは……早くて三日、遅ければ一週間かかるでしょうが、その間、門はいつもより早く閉める。役人を使って警備も厚くする。そんなところですかな」
「それで良いでしょう」
サラが頷きその場は解散となった。
以来、町の雰囲気はどうにも暗い。
小さな町である上、門番という仕事柄ほとんどの人がジャンを知っていたのだから無理もない。
死体が出れば悲しむことができただろう、憎むことができただろう。しかしそうでない今、町民は不安に向き合うしかなかった。
――こんなときに外様が町をうろうろしているのは不謹慎かもしれん。
三郎太は鬱屈とした町に出る気も起きず、あてがわれた家の裏のわずかなスペースで体を鍛え、刀を振り、日が落ちたらすぐに寝た。
◆
明け方、三郎太は外の騒がしさに目を覚ました。また一人犠牲者が出たのだった。
今度の犠牲者は役人のルイ。警備に当たっていたが、用を足すと言って一人になった所をやられた。
しかし、今度はジャンの場合と違う。切り落とされた左腕が現場に残っていた。
近頃の三郎太の頭によぎるのはエリーの事だった。
生より死だと、生きている人は嘘つきだといったあの少女のこと。
この不審な事件が起きて以来、確かに三郎太に対して町の人間の態度は僅かだが冷たくなった。
外様の人間が森から何か悪いものを連れてきたか。もしくは――、と。異常者を、よそ者を見る目であった。
三郎太は悪い方へと働く思考を振り払った。
――そんな馬鹿な話はない。小娘の戯言をきっかけに疑心暗鬼に陥るなんぞくだらない。いつか下手人には報いが下る。
三朗太はそう考えて心を鎮めた。
◆
翌日の夕方。日は傾き落ちかけている。
三郎太は肉屋で鳥を買い、帰る途中だった。
「ねぇ三郎太、ちょっとついてきて」
待ち構えていたかのように横道から出てきたマリアに声をかけられた。
その態度が以前、逆安珍について問い詰められた時のものに似ていることに気付いた三郎太は嫌な予感を感じ取りつつも、マリアについて行った。
連れてこられたのは教会の裏。誰もいない。
「この前、その刀が嫌な気を放ってるって話したわよね」
「それがどうした」
言いにくそうに、しかし三郎太の顔をしっかりと見つめて、マリアは言う。
「率直に言うわ。世の中で魔剣って呼ばれるモノにはね、所有者を乗っ取って好きなように使う奴もいるの。完全に乗っ取る奴もいるし、所有者が無意識の時、寝ている時だけ乗っ取るやつもいる。」
三郎太も馬鹿ではない。
自分の予想が当たり、やはりそういうことだったかと妙に納得してしまった。
しかし、同時に悲しいような悔しいような腹立たしいような感情がこみ上げてくる。
そのこと自体もまた三郎太を苛立たせた。
精神の乱れは剣を鈍らせる。忌むべきものであるから。
「……」
「私はあなたが――」
マリアが何かを言っている。
しかし、三郎太の頭の中に響いているのはエリーの言葉だった。
下らない下らない、お主は黙っておれ。いや、こんな程度のことで心を乱されている俺がおかしいのだ。
自分に言い聞かせる三郎太だが、決定的な言葉が三朗太の頭の中に響いた。
「生きている人は嘘つき。みんなあなたを怖がっている」
その瞬間。
「戯言を抜かすな、小娘!」
それが誰に向けての言葉かは知らず。
ともかく三郎太は激昂し、荷物を捨てて逆安珍を抜いた。
この町の人間から、マリアから直接疑いをかけられたことに対して、複雑な感情が湧いた。
また、この程度のことで、斯くも容易く心が揺さぶられた己が許せなかった。
「三郎太!」
マリアも即座に聖剣白鱗を抜く。
そのまま互いに睨み合い、構えを崩さないまま、いつかの剣闘試合のように時間だけが過ぎた。
先に動いたのは三郎太だった。しかし、斬り込んだのではなかった。
三朗太はおもむろに足元に転がっていた、肉屋で買った鳥を掴むとそれを宙に投げた。
そして、重力に従って落ちるそれが目の前を通った時、さっと一閃。
「俺ならばこう斬る!」
そう怒鳴ると三郎太は二つに分けられた鳥をマリアの足元に向けて蹴りつけた。
確かに、それはぼろぼろだったルイの左腕の断面とはまったく異なる、鮮やかな、達人の切口であった。
三郎太は逆安珍を懐紙で拭ったあと鞘に収め、地面に置くと、踵を返して立ち去った。
◆
「あ~これはやっちゃったかな~……」
マリアは頭を掻きながら、逆安珍を拾う。
さっきまで三郎太とその刀が犯人ではないかと、半ば確信していたのが嘘のように崩れていく。
冷や水をかけられたように興奮が冷めていくにつれて、恐ろしいほど冷静に頭が働く。
突然現れた謎の男と不審な刀、不審な殺人事件は容易に結びついてしまった。いや、結びつけてしまったと言うべきか。
しかし今、マリアは三郎太の態度を目の前にして余りにも早計だった。余りにも浅慮だったと思い始めていた。
さっきまでの熱は急に引いていき、よく考えれば三郎太が犯人ではない証拠がちらちらと思い浮かんでくる。
これもまた浅慮だなぁ。と予想以上に使い物にならない自分に、マリアは自己嫌悪に陥った。
マリアがこの町に赴任して約一年。町の人とも馴染み始めた頃にこのような事件が起きたため、かつて学友から心臓に毛が生えているとまで言われたマリアも動揺していたのかもしれなかった。
「小娘……か。あーそっか、まずったな〜」
「マリアや」
マリアが空を見たり地面を見たりしながらうなっていると、いつの間にかサラが近くにいた。
「わっ!?……なによもう、驚かさないでよ……」
「ルイの左腕を精査した結果が出たが、ちょっと面倒なことになったの……」
「ん? 新しいことが分かったの?」
「死霊魔術の痕跡が見つかりました」
「ッ!? そんな!?」
『死霊魔術』その名を聞いてマリアはハッとした。
死霊魔術は禁術だ。死体を意のままに操り、死者を冒涜し、生者を殺す。
大戦以来全世界で禁じられた。今になってその名を聞くとは思わなかった。
マリアが連合首都の大聖堂で魔法を習った時には、既に失われた魔法として扱われていたのだ。
「詳しい話は今日の夜、集会を開いて決めますが……集会まで、まだ時間がありますよ。マリア」
「あーもうっ、はいはい、わかってるわよ」
マリアはバツが悪そうにそう言いながら、三郎太が消えて行った方角に目を遣った。
◆
家に着いた三郎太は後悔の念に打ち震えていた。
――なぜ、あんな事をした! 情けなくないのか!
床に座りこんで俯きながら、己を責め続けていた。
――あのような疑いをかけられて、したことが弁明か! 刀まで抜いておきながら情けない! すぐにあの場で腹を切るべきだった。身の潔白を証明するべきだった!
そう思うなら今すぐに腹を切ればいい! なぜそうせぬ! 一度生き存えたら命が惜しくなったか卑怯者!
どれだけの時間そうしていたか。やがて、自問自答の末についに心が決まったらしかった。
三郎太は立ち上がるとボウルに汲んでおいた水で布を濡らし、体を清め始めた。
三朗太が上半身を拭き終わったあたりで突然扉を叩く音が聞こえた。
「三郎太、いる?」
――邪魔が入ったか、間の悪い……だが、出なければ怪しまれるか。
三朗太は苦虫を噛み潰したような顔をして一瞬迷ったが、すぐに布を片付け、服装を整えてから、「開いておる」と返事をした。
「ちゃんと出迎えなさいよ、もう」
入ってきたのはマリアだった。
三郎太はマリアが結局押しかけてまで自分を始末しにきたのかと思い、ひそかに刀の鯉口を切ったが、マリアに敵意が感じられないため、どういうつもりかわからずそれ以上どうすることもできなかった。
「落し物、持ってきたの」
三朗太が視線を下げると、その手には鍋と、あの場に置いてきた逆安珍がある。
「一緒に食べましょ」
「う、うむ?」
突然予想外の申し出を受けておもわず承諾してしまった三郎太だが、何が起きているのかは理解できていなかった。
◆
「さっきはごめんなさい。私がどうかしてたわ」
「いや……」
ようやく三郎太はこの女が冤罪の詫びを兼ねて、己があの場においてきた肉と刀を返しに来たのだと理解した。
――よくもぬけぬけと、切り替えの早い女だ。それに詫び方も態度も軽い。いやしかし……そのほうが気安くていいかもしれぬ。しみったれた態度をとられても困る。
三郎太は素直にそう思った。
三郎太は人付き合いが得意な方ではない。
相手がこういったさっぱりした性格ならば、思った通りに気兼ねなく振る舞うことができる。
逆安珍を受け取ったあと、三郎太はマリアと鍋の乗った机を挟んで椅子に座っていた。
「ひとまず、あなたの疑いは晴れたわ。犯人はある魔法を使えることがわかったの。……なんて、疑っていたのは私だけだったかもね」
「そうとは……限るまい」
三郎太が思い出すのは町の人々の視線。
――きっと誰もがそう思ってたはずだ、そういうものだ、むしろ外様の俺が信頼を得ていないことについて、町の人を薄情者だと言う方がおかしい。
「あなたからそう言って貰えると助かるわ。でもあなたも悪いのよ、碌に自分のことを話さないし、それ以外でも無口だし」
――途端にこれか、これはこれで問題のある性格だな……。
マリアが適当に話しかけ、三郎太が適当に相槌を打つといったようにして互いに鍋を突く。
「ちょっと、お肉食べ過ぎよ。私全然食べてないんだけど」
「俺の買った肉だ」
「町長のお金でね」
「……」
――貴様は何をしにここに来た。貧乏人から集りに来たか、謝りに来たのなら少しは相応の態度を見せてみろ。
悪態は心の中にとどめておいた。
久しぶりの誰かと一緒に摂る食事に、知らず知らずの内に三郎太は心の平静を取り戻していた。
食事も終わり、帰り際。外に出ようとするマリアへ三郎太は途中考えていたことを伝えた。
「おい、今日から町の警備に俺も参加する」
「あらいいの? 苦労をかけるわね、そうしてくれると助かるわ」
そうすれば疑いも晴れるだろうと三郎太は思った。
また冤罪という形で自分にも危害を加えた下手人が許せなかった。それを己の手で始末したいという気もあった。
◆
その晩、町の警備はいよいよ物々しくなっていた。
「おい、お前絶対に俺から離れるなよ」
「わかってるよ、お前は火を絶やさないことに集中しろ」
「絶対だぞ!」
「わかったって!」
多少武器の使い方に覚えのある役人でさえも、正体のわからない相手に戦々恐々としている。
三郎太は役人たちと互いに監視できる範囲を巡回していた。
三郎太とて短い間だったがこの町に愛着が湧いていた。下手人が出れば、いの一番に駆けつけ始末するつもりで警備に当たっていた。
夜の闇は静かなもので、何事もなく、時刻は刻々と過ぎて行った。
「すみません! 警備の方々!」
「なんだ、何か出たか!」
突然現れた婦人に近くの役人が近づく。よく見れば肉屋の婦人である。
「部屋を覗いたら家の子がいないの! もしあの子に何かあったら……」
婦人が泣き崩れる。
「なにぃ!? 家から出すなと指示があっただろう!」
「二人一組になってもっと散れ! 探せ!」
役人に指示が飛び、一気に辺りは騒々しくなる。
三郎太はその指示を聞くよりも早く、闇に飛び込んでいた。




