第四夜 淫魔
ふと、三郎太が目を覚ますと、暗闇の中に見慣れた景色が浮かび上がっていた。
清浜家の屋敷の一室。三郎太夫婦にあてがわれた四畳半。
「……」
どうやら文机を前に、肘掛に寄りかかって寝てしまっていたらしい。
日は既に落ち、障子の向こうは仄暗く光っている。
三郎太は燭台に火を灯した。
部屋に明かりが戻り、外の暗い光は姿を消す。
「……」
灯に照らされた文机には、硯と筆、そして文鎮に押さえられた紙がある。
紙の半ばほどまで文字が書かれている。
その最後には「髀裏肉生日月如流」の文字が並んでいる。
――ああ思い出した。徒然にまかせて『三国志』の書写をしていたのだ。
「っ……!!!」
突然、三郎太は目の前の紙をひったくるように掴みあげると、ぐしゃぐしゃに丸めた。
丸めた紙を、ぷるぷると手が震える程強く握りしめる。俯いて、歯を食いしばり、声にならぬ叫びを押し殺す。
――何が徒然に任せてだ。この時勢に暇があるなど……!
心中のドロドロとした鬱憤が頭をもたげてくる。
やり場のない感情を外に吐き出すのは簡単だ。しかしそれは三郎太の面目が許さない。
この鬱憤を処理するのは初めてのことではない。何度も何度も、夜毎に襲ってくる発作のようなもので、処し方は心得ている。
それに今回の鬱憤は不思議と懐かしい気がして、普段よりは不快ではないのが救いだった。
もうほんの数年で三十路に差し掛かる三郎太は、未だ無役部屋住みの身だった。
父も母も、二人の兄も皆優しい。不甲斐ない三男を嫌な顔一つせず置いてくれている。
だが、誰より三郎太自身が、この状況に甘んじていることをよしとしていないのだ。
日本は今、激動の時代にある。
腰抜け旗本に代わり郷士が己の旗を掲げ、竹光武士を差し置いて農民が二本を差す。
この時代、士と呼べるものは誰もが心中に鬱憤をため込み、そしてそれを発散しようとし、ある者は藩を抜け、ある者は黒船に乗り込もうとした。
三郎太の友の中にも、鬱憤を晴らそうとしていた者がいた。
「三郎太! いつまで強情を張っているつもりだ!」
その男は、毎日のように三郎太の家に来ては三郎太を誘った。
「清河さんも芹沢さんも、皆一流の人物だ。きっと気に入るからお前も一度会え! それにお前と同門の士も多く参加しているのだぞ。ここで一旗挙げないで何が武士だというのだ!」
男は隻眼だった。片目を爛々と輝かして、三郎太に迫った。
だがその時、三郎太はその目の輝きを嫌悪した。
そのギラつきは野心の表れだと思った。下剋上の気配を感じ取った。乱世に現れ秩序を壊す奸雄のものだと断じた。
「平山。俺の答えは変わらぬ」
三郎太は無役の身だが、それでも藩士としての自覚はある。誇りも持っている。磨き上げた剣術を武器に、天下を相手に名を上げるのは確かに男の本懐だ。平山の誘う組織も、公儀の発した命のもと結成される以上、それに参加することは武士として恥にはならない。だがそれでも、三郎太第一の願いは、藩に生き、藩に死ぬことだった。改革の礎になるよりも、秩序の犠牲になることを望んだ。
「もうよい! この腰抜け侍め! 刀錆び、腕腐りてから後悔しても遅いぞ!」
以来、友は西へ旅立ち、一度も姿を見せなかったが、現実はまさに友の言う通りとなっていた。
いつまでも用いられることは無く、流れゆく時勢に取り残され、心を腐らせている。
「…………」
三郎太を、表舞台に誘ったのは平山だけではなかった。
ある者は尊攘のため忠義を興せと迫り、ある者は独断専行の奸臣を斬れと言った。またある者は国賊井伊を斬るため助勢せよと告げた。
しかし三郎太は何れにも与しなかった。ただ己を動かすのは藩主の命のみ。そう信じて疑わなかった。そうしていつしか、激動の中にあって自ら動かぬ三郎太を誰もが見限り、その名はどこにも上がらなくなっていた。
暫くの間、文机の前で蹲っていた三郎太だが、ようやく落ち着いたのか、ふらふらと立ち上がると、障子を開いて廊下へ出た。
外を眺めていると、不意に、見慣れた景色の上に、此処とは違う何処かの景色が見えた気がした。
それは、途方もなく懐かしいような、恋い焦がれるような、念願の世界のように思えた。
――邯鄲の夢……かもしれぬな。
夢の中のもう一人の己は、今一瞬見えたような、何処かの地で本懐を遂げているのかもしれない。自身の思うままに、その生の意味を全身で感じているのかもしれない。
「旦那様」
そんな事を考えていると、背後から声があった。
振り返ると、見知った顔がそこにある。妻のお鶴だった。
「お布団を敷きましたが……どうかなさいましたか? 目を丸くされて……」
夫婦の仲とは到底呼べない冷めきった関係であっても、十年以上一つ屋根の下で暮らした妻である。その顔を忘れるわけがない。
だが、今はなぜか、お鶴がここに居るという事が非常に不自然なことのように思えた。いや、不自然なはずはないのだが。
――この女も随分と強い女だ。
お鶴は三郎太の幼馴染だった。それは同時に歳の近い三郎太の次兄、峰次郎とも幼馴染という事であり、昔は三人でよく一緒に遊んだものだった。
お鶴は峰次郎に恋し、むしろ三郎太の事は嫌ってさえいたが、何の因果か、武士の社会はままならぬもので、峰次郎は他家の婿養子となり、お鶴は、当時はまだ剣の道で身を立てるものと目されていた三郎太に嫁ぐことになった。
お鶴も武家の子。嫌いな相手との不本意な縁談であっても、武家の娘としての務めを果たすのは当然であると、三郎太も、峰次郎も、誰もがそう思っていた。
しかし、お鶴は初夜に三郎太を拒絶し、三郎太も以降、お鶴に手を出さず、いつしか十年以上も月日が経っていた。
子を産んでいないからか、二十の半ばに差し掛かっても、未だ十代の生娘のような、幼さと美しさを保っている。
「お鶴。俺は少し……いや、長い間、夢を見ていたような気がするのだ」
「夢……でございますか?」
普段、顔を合わせても碌な会話をしないというのに、今日に限っては、妙に語り合いたい気分だった。
それは子供がその日の武勇伝を、母に自慢しようとするときの心情に似ていた。
「何処かもわからぬ地でな、俺は一人、愛刀だけを頼りに、旅をするのだ」
つらつらと、思考を経ずに、次々と言葉が溢れて止まらない。
「沢山の人に出会った。周りは異人だらけでな、暮らしていく手掛かりもないが、助けを借りながら懸命に生きた」
女の身には分からない話かもしれない。だがそれでも三郎太は続けた。
「化物も居ったし、妖術を使う人間も居た。しかし俺はそやつら相手に一歩も引かず、戦ったのだ」
「旦那様はお強いですから」
「何度も死にかけたし、何度も嫌な思いをした。投げ出しそうになったが、いつも必ず踏ん張れるのだ。俺は武士だからな。清浜の家だけでなく、藩と、公儀の面目も背負っていると、心中、密に自負して居ったのだ。故に、何者にも、俺自身にも負けることがあってはならぬと、そう信じて居る」
不意に、三郎太の肩に手がかかった。
「もうそのあたりで、遅いことですし、今宵は眠りましょう」
優しく、最愛の妻が、三郎太を閨へと導く。
――そうだ、これがいつもの営みだ。俺は恵まれている。父母に兄、そして妻。なんの不足も無い一族に囲まれて、何不自由なく暮らしていけている。この小さな世界さえ守れるのならば、ほかに顧みる必要のあるものなど何もない。
「さぁ、旦那様。いつものように鶴を可愛がってくださいませ……」
懐で悶える妻の顔は、ひたすらに真摯で、淫靡で、愛に溢れていて――。
「……違う」
「えっ……」
違う。こんな馬鹿なことがあるはずがない。
こんな痴れた振舞いを、清浜三郎太が知るはずがない。認めるはずがない。
「お主は……誰だ……」
世界がガラガラと揺れて、ブレて、崩れ始める。
「清浜三郎太を識っていて、清浜三郎太を知らぬ、お主は何者だ」
「くッ……!」
すぐ近くにあった妻の顔が、見知らぬ誰かに変じたかと思うと、妻だった誰かは尋常ならざる速度で布団を飛び出し、障子も雨戸も突き破って外へと転がり出る。
女の降り立った場所は何もない暗闇で、崩れゆく部屋の壁の向こうにも、同じ暗闇があった。
「貴様は……お鶴ではない……」
ゆらりと、怒りをにじませながら、三郎太が立ち上がる。
いつの間にかその手には、愛刀、蛇切逆安珍が握られていた。
「お鶴が……お鶴が一度として、俺にあのような表情を見せたことがあったか!!!」
悲壮な宣告と共に、四畳半の小さな世界は完全に崩壊した。
三郎太はその直前、
スパンッ!
と、背後で襖が開く音を聞いた。
◆
「ッ……!!!」
目を覚ますと、まず最初に、全身を濡らす不快感に襲われた。
そして、目の前には見慣れた二人の顔がある。
「……まったく、世話をかけさせるな」
「安眠妨害はんたーい」
ティアナと蚩尤、二人とも憎まれ口を叩くが、その表情からは、三郎太の事を心配していることがありありと伺える。
「……何があった」
乱れた呼吸を整えながら尋ねる。
「こっちが聞きたいくらいだよ。夜中にいきなり呻きだしたかと思ったら寝汗はすごいし、刀を抱いて離さないし、暴れて殴ってくるし意味わかんない」
――当然か、全ては夢のこと。だが――
夢の内容はすべて覚えている。それは確かに夢だった。しかし、全て三郎太が避けてきた現実だった。
……そしてそれを見せた下種な誰かがいる。
「――容赦せぬ……」
「おい!」
「え、ちょ、どこに行くのさ!?」
「ここで待て!」
蚩尤もティアナも一瞬ハッとするほどの怒りを滲ませて立ち上がった三郎太は、二人の静止も聞かず、着流しに刀一本を差すと、そのまま外へと飛び出した。
◆
その女――エンプーサは一人、静寂に包まれた夜の外周区を疾風となって駆けていた。
――何よ何よ何なのよッ!
黒と白のフリルのついた、煽情的だがあどけなさも兼ね備えたドレスを身にまとい、目元に赤いラインを入れている。見る人によっては、真っ先に娼妓を思い浮かべるかもしれない。そんな雰囲気を醸し出す女は、今は必死の形相で、何かから逃げるようにして走り続けている。
――おかしい! おかしいッ! こんなことがあるはずがないッ! あいつと私だけの夢だったはずなのに、どうしてッ!?
ほんの数分前の出来事だったはずなのに、もう何度も何度も脳裏でフラッシュバックしている。一つの光景。
獲物が夢から覚めるのは珍しいが、確立は決してゼロじゃない。
問題はそこではなく、獲物が夢から覚める直前、扉を開けてその背後に現れた、異様な存在。
長い黒髪、真っ白なアヅマ風の見慣れない服装に、それと対照的な真っ赤な瞳を持った女。
一目見て格が違うことを悟った。戦えば死ぬ。いや、見られたら死ぬ。
何人もの獲物から精を搾り取り、もう百年近くこの世を謳歌してきたエンプーサをして初めて出会った存在だった。
姿形こそ人間だが、あれは間違いなく人では無い。いやむしろ生物かすらも怪しい。真っ赤な瞳はどこまでも空虚で果たしてこちらを認識しているかもわからない。そのくせ出会った瞬間、こちらの全身に余さず殺意をぶつけられたような気さえした。
――アレは……アレはなんだ!? なぜアタシが、どうしてッ……!
恐慌が思考の混乱を呼び、混乱が恐怖を煽る。
見えない何かから逃れるように、ひたすらに足を動かし、外周区の住宅街の一角を折れた時、エンプーサはぎょっとしてあとじさった。
「…………」
不思議なほどに人気のない、静寂に包まれた夜の住宅地。そこに、月を背にして獲物がうっそりと立っていた。
この獲物が迷うことなく自分を追いかけてきたこともそうだが、既に行先に回り込んでいたことにエンプーサは少なからず驚いた。
しかし、この時のエンプーサにとっては、この獲物の出現はむしろ救いだった。
――下等生物が、調子にのってノコノコと……。
下等生物に対する優越感が、得体のしれない恐怖を紛らわすのには最適だった。
もし待ち構えていたのがあの女だったら、エンプーサはその場で卒倒していたか、最悪それだけで死んでいたかもしれない。
だがそうでないという事は、もうアレは獲物と自分の関係に入り込むことは無く、現実に現れることもまずないだろう。
エンプーサの心中に余裕が生まれ始めた。
「あらあら~、さっきはごめんなさ~いっ! 気に入ってもらえると思ったんだけど~怒らせちゃったみたいでぇ……」
「…………」
「もしよかったらぁ、何がイケなかったのか教えてくんない~? そしたら今度は楽しませてア・ゲ・ル」
完全にとまではいかないが、相手の記憶にアクセスして夢を作り上げるエンプーサは獲物が何に怒って夢を拒絶したのかなどとっくに知っている。
特に、この獲物が夢を拒絶した最高に情けない理由については、獲物自身が最後に言っていたように、非常に分かり易い。
しかし、そんな挑発に獲物は反応を示さない。エンプーサも少しムッとした。
「でもでもでも~。流石に元カノさんを完全再現しろっていうのはちょっとムリだし~、アナタのそれをもっとタちやすくしろっていうのもちょっとサービス外かな~。ごめんなさ~いっ」
媚びと挑発と誘惑をごちゃまぜに、弱みとトラウマにぐさっと一刺し。
プライドの高いタイプの獲物を逆上させるにはこの手に限る。
しかし、獲物は顔色一つ変えなかった。それどころか、
「畜獣風情がよく喋る。それほど人の真似事が愉快か」
「調子乗んなよ、アタシらの餌にすぎない下等生物がッ……!」
逆に、エンプーサを逆上させる一撃を放ってきた。
エンプーサは自らにかけていた偽装の魔法を解き、二対の黒い羽と、捻じれた角を露わにする。
「分限を越えた報いを受けよ」
獲物はそう言うと、そうするのが当たり前といった風に、刀を抜き放つ。
「たかがニンゲンがアタシに勝てると思ってんの?」
エンプーサは身を沈め、両手を地面につく。そして右の足を後ろに伸ばす。
すると、伸ばした右足に魔力が集まり、赤茶色に輝きだした。
――アタシがこれまで生き延びてきたのは搾精に優れているからじゃない。磨き上げたこの一撃。これで敵を倒し続けてきたからよ。
剣も鎧も魔法の障壁も難なく砕く必殺の右足、魔力のマの字も感じさせないこの獲物では、きっと触れただけで粉々になるだろう。
向かいあった二人の間に、決闘の沈黙が舞い降りた。
◆
向かい合ってすでに数分が経つ、この間どちらも動くことなく、戦いは緊張を一層高めながら、膠着状態にあった。
いつものように、正眼に構えた三郎太は、隙を伺うために、じりじりと間を詰めることもできないでいた。
迂闊に動けば、瞬間女の右足が跳ね上がり、こちらの五体は砕け散るだろう。
――この女は、強いッ……!
それは紛れもなく研鑽を積んだ達人の構えであり一撃だった。
畜獣淫魔との嘲りが、真実の兵法家に対する畏怖へと変わっていく。
着流し姿の薄着には冬の夜は恐ろしく寒いのに、一筋、背中に汗が流れるのを感じた。
相手と立ち合う最中でありながら、三郎太の脳裏には別のことが浮かんでいた。
それは夢の内容だった。
目を背けようとして背けることが出来なかった。忘れようとして忘れることが出来なかった。
夢は、全て、真実だった。
彼方の三郎太は、誰にも必要とされず……いや、必要とされたにも関わらず、すべてふいにしてきた。
そこに後悔が無いと言えば嘘になる。だが間違いであったとは思っていない。
もし仮に何れかの道を選んでいたとしても、その道に後悔がないはずがなく、またその道が正しいという保証もないからだ。それに、結局は全て過去の事で、今どれだけ悔いても取り返しはつかないのだ。
――だが、清浜三郎太よ! お前には今、目の前に広がる道が見えるはずだ! マリアが、崑崙の巫女達が、炎が、ヴォルフスの皇帝が、太祖が、確かにお前を必要としていたことを覚えているか! そして今、二度と出会うはずがないとさえ思っていた同郷の者が、善樹が、善鸞上人が拓いた道が、目の前にあることを、確かに見ているか! 見えているのならば――。
三郎太は不意に、構えを解いた。
「なに? 命乞い? 悪いけどもう遅いから、アナタは殺すわ」
女の声は先ほどまでと打って変わって、真剣みを帯びている。
エンプーサ本人はまだ自覚していないかもしれないが、その心の奥底では三郎太を確かに武芸者として認めていたのだ。
「先ほどの侮辱、どうか許されよ。偏に己の不明であった」
三郎太はそう言うと、今度は逆安珍を上段へと持ち上げた。
「……常州は水戸藩、清浜三郎太。北辰一刀流免許皆伝。参るッ!」
三郎太の名乗りに、女は少し困ったように破顔して、構えを解いた。
「……アハハっ、何それ。ふーん、アナタってそういう見方をするんだ。面白いニンゲン」
女は再び、先ほどと同じように構えをとる。そして少し照れながら言った。
「エンプーサのクラリス・アグライアよ。この一撃に私の業の全てをかけるわ」
そしてまた、先ほどとは比べ物にならないほどの緊張が、場を支配した。
――あぁそうだ。道は既に開けている。あとは一歩、踏み出す勇気!
三郎太が目を見開き、全身から剣気が迸る。
クラリスの右足が、それにつられて跳ね上がる。
逆安珍の剣先が揺らいだ。
――今、雄飛の時! この一撃を、三郎太が門出の一撃とする!
飛び出した二つの影が交差して、一瞬の沈黙。
斃れたのは、羽のある影だった。




