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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
第二章 闇夜に蠢く首都の怪
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善鸞上人往生伝 後

北竟大帝ほっきょうたいてい率いる異形の軍勢の先陣を切ったのは巨狼の群れだった。

その身に宿る魔の力は薄く、ただ駆け、ただ食らいつくことのみを得手としている。

しかし、統率された群れの狩は、これまでに歴戦の勇士を幾度となく葬り去っていた。


「畜生ならばなお一層、仏の加護があるだろうよ!」


迎え撃つ天狗衆てんぐしゅうの先陣は怪力第一の源親げんしん

かつて比叡山を逃げ出したこの男は胴丸の上に僧衣を纏い、端折はしょった袖から盛り上がる筋肉を見せびらかす。そして達磨だるま大師の生き写しと謳われた厳つい髭面を、迫る群狼に向けて一層険しくさせる。


「オン!」


 気迫と共に空気を切り裂いて飛び出した拳が、飛びかかってきた狼の顔面を打ち貫いた。

 その拳は牙をへし折り、頭蓋を砕き、内臓をかき回した後、尻から飛び出した。

 全身もとは狼だった残骸にまみれながらも一切躊躇せず、


「ウン!」


 神速で蹴り上げられた足が、二匹目の顎を砕き、


「バン!」


 振り下ろされた二つの拳が左右から同時に迫る獣を叩き落とし、


「コォォォク!!!」


 裏拳が背後に迫る死の牙を粉砕した。


「南無馬頭観音。オン・アミリトドバン・ウン・パッタ・ソワカ。さぁ参れぃ!」


 その構えは周囲を十重二十重に囲まれてもなお、微塵も動じていなかった。



 次いで迫りくるのは見上げるほど大きい巨人の軍勢である。

 腰巻一枚で大剣を提げた巨人は一見鈍重そうに見えるが、一歩一歩の歩幅が大きく、意外な速さで天狗衆を踏みつぶさんと進軍していた。

 その頭上を、錫杖を持った山伏が黒の濡羽を広げて飛んでいた。


「ふむ。どうやら北竟大帝の指揮下にあるのは狼と巨人だけらしい」


 だけ、とは言ったものの、彼らの軍勢の中核戦力がまさしくこの両種なのである。

 彼は天狗衆の名に恥じぬ本物の天狗、越後は朝日山の烏天狗からすてんぐ曇谷どんこくである。

 彼は大空から戦場を俯瞰ふかんしていた。

 先頭の源親だけでなく、既に半数近い仲間が群狼に囲まれて苦闘を演じている。

 巨人に対応する仲間もまだ控えてはいるが、彼らの総攻撃を耐えきれるかどうかは甚だ怪しいと言わざるを得ない。


「他の魔獣や魔人は北竟大帝の協力者というのが妥当だろう。指示に従う義理はないようだが……」


 油断しているのか、それとも手を下さずとも戦いの結果は見えているとでも言いたいのか。ほかの魔人や魔獣たちは戦場の外縁で戦見物にしゃれこんでいた。

 そして、さらにその外側を大蛇が囲んでいる。


「うむっ!? やはり!」


 曇谷は一瞬大蛇の目がぐるりと魔人たちを見回したのを見逃さなかった。


 「あの大蛇も北竟大帝の腹心だな。魔人共への目付というわけか」


 異形の軍勢は一枚岩ではない。それぞれの思惑があってこの計画に参加しているとみるのが妥当だろう。であれば戦力を集中すべき敵は北竟大帝麾下の巨人と群狼に絞るべきだろう。


「きっと善知識ぜんちしきは全て知りえたうえで指示されたに違いない」


 状況が最悪であることは変わらない。それでも光明が見えた気がした。


「ならば全て善知識に従おうではないか!」


 叫ぶや否や反転急降下。眼下の巨人に狙いを定めると勢いを乗せて錫杖を投擲した。

そして巨人の真横を通り抜けざま、別の一体の喉元を宝剣で斬り裂くと、再び大空へと舞い上がった。


「煩悩滅却! オン・バザラ・ヤキシャ・ウン!」


 真言を唱えた瞬間、錫杖の突き刺さった巨人の頭が破裂し、膝から崩れ落ちた。


「許しは請わぬ。閻魔の御前にまた会おう!」



 戦いは続き、天狗衆のほとんどが血煙の中に身を投じていた。

 戦いは拮抗しつつも、一見すると天狗衆が優勢に見えた。

 被害の上では北竟大帝が多くを失っている。辺り一面に広がるのは大小の狼と巨人の死体ばかりなのだ。

 だが、優勢かに見える天狗衆も一人また一人と確実にその数を減らしていた。

 狼に呑まれるもの、巨人に両断される者、興の乗った魔人の不意打ちにたおれるもの。

 その全てを見届けながら、善鸞ぜんらんはなお泰然として動かずにいた。


「あぁ……頑張っているねぇ……だけど、だけど全く届かないのさ、善鸞!!! これでまさか優勢だとは思っていないだろうね! すこし戦力を削っただけで僕の計画を挫いたとは思ってないだろうね!」

「……いやはやこれは困った。少し急ぎすぎたかのう……」


 北竟大帝の嘲笑に、善鸞はおどけたように禿頭を叩いた。


「道化だね、善鸞。知って居るんだろう? 見たいんだろう? ならば見せてやるよ! 天狗共もこれを見て絶望するがいい! お前らの頭領が黙っていた真実だぞ!」


 北竟大帝はこれがフィナーレとばかりに大仰に天を仰ぎ、地に跪いた。


「さぁおいで。私の大事な大事な愛娘。ここがお前を受け入れてくれる……」


 北竟大帝がこれまでにないほど優しく、地に囁いた瞬間。辺り一面を地震が襲った。


「こ、これはッ! 善知識!」


 善鸞のかたわらで戦っていた善樹が咄嗟に善鸞の前に出るが、揺れから人を庇う手段など無く、あまりの揺れに善鸞だけでなく、誰もが膝をついてそれの過ぎ去るのを待った。


「善樹よ、お主はよくよく見届けるのだ。どのような理由があろうと死ぬことは決して許さぬぞ」

「善知識!? いや、これは……何かッ……!?」


 揺れは一層強くなり、地鳴りは増々近づいてくる。

 地底から這い上がる、吐き気にも似たおぞましい何かに善樹が気付いた時、既にそれは地上へと姿を現していた。

 大地を引き裂き、境界を踏み越えて現れた存在に、天狗衆も、魔人も誰もが息を呑んだ。

 北竟大帝の目の前に広がった地割れのその奥、漆黒の闇の世界から飛び出したのは一本の巨大な腕だった。青白く、醜く爛れて裂けた皮膚の隙間から腐肉を垂れ流すその腕は、一片たりとも生の気配を帯びておらず、誰が見てもこの世にあってはならないと思うような生理的な嫌悪感を抱かせる瘴気を放っていた。


「ククク……ハァーハッハ!!! あぁ……よく来たねヘル……。大丈夫ここでは誰も君を否定しない。さぁ存分に楽しもう! いや……楽しむまもなく終わってしまうかな? ククク……ぜひとも頑張ってくれよ天狗共!」


 巨腕ヘルを仰ぎ見て哄笑する北竟大帝は表情をそのままに善鸞に目を向けた。


「なぁ善鸞! 知っていたんだろうこのことを! さぁ食い止めてくれよ。ぜひとも見せてくれよ。君の意気込みが偽りで無いことを! アァーハッハッハ!!!」


 異変は巨腕ヘルが現れた瞬間から訪れていた。

 斃れたはずの巨人が、砕けたはずの狼が、ビクビクとその体を震わせると立ち上がり始めた。そして一声憤怒の激情を空に放つと、己を殺した者に復讐を果たすべく、再び進撃を始めた。



 死者が蘇ってからの戦局は一方的なものとなっていた。

 自らの命を顧みない狼たちが四方八方から源親げんしんに飛びかかり、食らいつき、押しつぶした。

 仲間を踏み台に大きく跳躍した巨人が、空の曇谷どんこくを握りつぶした。


「さぁ、境界が崩れたぞ! 死者がこの世に戻ってきた! 死者が生者を殺した! 交わらぬ二つが交わった!」


 ボルテージが最高潮に達し、狂笑する北竟大帝とは対照的に、善鸞は先ほど以上に落ち着きを見せていた。その表情には、むしろ朗らかな笑みすら浮かんでいる。


「善樹よ……見届けるのだぞ」

「あ、あぁ……!」


 善樹は歩き出した師の背中の勇ましさともの悲しさに涙をこらえることが出来なかった。

 溢れた涙は凍土の寒さに凍り付き目尻に張り付いた。



 全てわかっていたことだ。

 そう思っていても、善鸞は自らの心のざわつきを押さえることが出来ないでいた。

 弟子の前では平静を装っていても心の内ではこの通り。その惨めな事実に、苦笑する。


――ここに至って死の恐怖を克服できぬか善鸞。


 弟子の誰もが自分を善知識と崇める。生き仏だと、これ以上ないひじりであると。

 だが善鸞本人にしてみれば、思い違いも甚だしいというもの。


――不意に不老になったのをいいことに、未練たらしく生き延びてきただけだ。だからこそ、まるで、お前はもうこの世界にとって不要だと言わんばかりに、此方こちらの世界に追いやられたのではないか。


 再び卑下の感情が善鸞の心中に芽生えたが、その瞬間に、その上を大いなる感情が塗りつぶした。


――いや、しかし、たとえこの身がどれほど惨めであろうと、成さねばならぬことは成さねばならぬ。伝えねばならぬことは伝えねばならぬ。儒も仏も神も関係なく、人間善鸞がやると決めたからやるのだ。勇気を示すと決めたから、前へ踏み出さねばならぬのだ。


「――国を護るは『最勝経』――」


 静かに呟き、善鸞は手にした経典を地に投げた。

 それが地に突き立った瞬間、そこを中心に光の波紋が地上を走った。


「んん……?」


 北竟大帝は異変に気が付いたようだったが、それが何を意味するか理解するまでには至っていない。


「――人を救うは『蓮華経』――」


 再び、何処からともなく現れた経典が善鸞の手を離れた。


「――王を導くは『仁王経』――」

「これはッ!?」

「――併せて『護国三部経』――」


 北竟大帝がようやく何が行われようとしているかに気付いた時には全てが遅かった。


「――……末法まっぽうの世にで秩序を紡いだ高僧よ。この身は愚禿ぐとく。世界の一つも救えぬ故に、どうか力をお貸しくだされ。『法然』、『親鸞』、『栄西』、『道元』、『一遍』、『日蓮』――」


 善鸞が、名を一つ称えるごとに力強く一歩踏み出すや、その足元から不可思議な力が広がった。

 その力は辺りに散らばる死体を優しく外へ外へと押し出してゆく。

 さらには生きている魔獣が、巨人が、天狗衆が、魔人が、そして北竟大帝までもがその力によって外へ外へと押しやられる。

 気が付けば、先ほどまで広がっていた凄惨な戦場の痕跡はどこにも無く、善鸞を中心とした一切穢れのない清浄な空間がそこにあった。そしてその中で、唯一穢れた瘴気を放つ巨椀ヘルと善鸞だけが向かい合っていた。


「――護り給え『方便浄土』


 善鸞がそう締めくくった瞬間、地に突き立った三つの経典より光輪がはしった。

 それが善鸞と巨腕ヘルを囲むと、たちまち光の壁が現れ結界を成し、二人を内に閉じ込めた。


「善鸞ッ! お前!」


 北竟大帝が怒りのままに結界に拳を打ち付けるが、光の壁には波紋一つ広がらない。

 それどころか、殴りつけた北竟大帝の方にも衝撃は届かず、まるで拳と接触した事自体が無かったことにされたようだった。


「……善鸞……娘に手を出してみろ……貴様を生と死の狭間に縛り付け、内臓を引きずり出し、永劫毒蛇の猛毒を滴らせ続けてやるぞ……!」


 天狗衆どころか異形の軍勢までもが震え上がるような憎悪を受けても、善鸞は意に介した様子がない。


「……はてさて一刻も持てば御の字なのだが……」


善鸞はゆっくりと歩を進め、そそり立つ巨椀の目の前まで来ると、そこに座した。


「お初にお目にかかるな冥府の姫。知っておるかもしれぬが儂が慈信房じしんぼう善鸞じゃ。そなたの母とは相争わねばならぬ宿業らしくてな。今はしばし喧嘩をしておる」

「ohhhhhhhhnnnnnnnnnn!!!」


 善鸞の口上にヘルが恐ろしい悲鳴で答えると、巨椀のそそり立つ地割れの奥から真黒い瘴気が飛び出し、善鸞を襲った。


「ぐっ……なるほどなぁ……ゴホッ!!!」


 瘴気にあたった善鸞が吐血する。

 飛び出した瘴気はまさに病の暴風。それをまともに浴びた善鸞の臓腑は一瞬の内に腐り始めた。

 だが善鸞は、苦しみをもろともせず、すぐに姿勢を正すと鋭い眼差しでヘルを見上げた


「……冥府の姫よ。何故なにゆえそのように嘆く。何故そのように憤る。何故そのように恐れて居る。何故この世に現れようとする。死者が生者の境界に踏み入り、分限を越えて渡り来ようとすれば、その苦しみは言語を絶するであろうに」


 善鸞の語り掛けに反応してか、地上へ這い上がろうとする巨椀の動きが緩やかになった。


「分かっておるよ、冥府の姫。寂しいのだろう? 自分一人、暗く湿った冥府の底で待ち続けるのは耐え難かろう。己の苦しみを誰一人として理解せぬことが悔しかろう。地上にあって輝きと共に生きる生者が羨ましかろう。故にこそ、そなたは無辜むこの魂を冥府へと誘ったのだろう。そなたの冥府にはそなたの誘った魂しか詰まっておらぬ。そして例外なく、その魂はそなたへの怨嗟を叫んでおる。その孤独はさぞやそなたを追い詰めたであろう」


 瞬間、さらなる瘴気の暴風が善鸞を襲った。そしてそれにつられるようにして、割れた地の底から、亡者の魂が飛び出し始めた。

 亡者たちを突き動かすものは、支配者ヘルに対する恐怖、行くあてのない怒り、そして恨みだけであった。

 亡者たちはヘルから逃れようとして善鸞の敷いた結界を壊さんとし、また、かつて誰に向けてのものだったのかも忘れた、行くあてのない怒りと恨みを晴らさんとして善鸞に襲い掛かった。


「善知識!」


 結界の外にいる天狗衆が声を上げるが、彼らには何もできなかった。

 亡者が傍を通るたびに体が裂け、血が噴き出るが、善鸞は全く動じていない。


「……か、か、か、物知り顔で語るなとでも言いたいか。であれば姫よ、そして亡者共も聞くが良い……そなたらの望みは怒りを発散することではなく、恨みを晴らすことでもない。ましてや現世に現れたいなどとはつゆも思っておるまい。そなたらに最早そのような余裕は残ってはおるまい。そなたらの望みはただ一つ……『救われたい』のだろう?」

「娘をかどわかすな! 善鸞!!!」


 絶叫と共に、初めて結界が揺れた。

 見れば北竟大帝が、翡翠色の槍を結界に突き立てていた。


「ヘル! わかるだろう! ボクは君の母だ、一番の理解者だ! 君がどれだけ寂しく辛い日々を送って来たか痛いほどわかる。だからこそ、こうして君を迎えようとしているんじゃないか。今はまだ苦しいだろう、この世界はまだ君を拒んでいる。だからともに苦しくない世界を創ろう! 下らない境界を打ち砕いて、原初の混沌に還そう! そうすれば生者と死者の違いなんてものはなくなる。みんなが幸せに、対等に暮らせる楽園ができるんだ!」


 北竟大帝は、善鸞へと視線を移した。


「……だからヘル。そいつを殺せ。今、君を苦しめているのはそいつなんだ」


 だが、やはり善鸞は北竟大帝がまるで存在せぬかのように、粛々とヘルに語り掛けた。


「救われたいのであろう。されば救って進ぜよう」

「…………――uhhh……!」

「か、か、か、何を恐れる必要がある。何を迷う必要がある。法蔵ほうぞうの本願は皆真実、さにあらずんば何故なにゆえ阿弥陀がそこにある。阿弥陀の光は無辺光むへんこう、どうして届かぬところがある」

「…………――」

「罪なき衆生を損なったことを悔いて居るのか。今まで目を背け続けた足下そっかの亡霊の事を初めて想うたか……なるほど罪業と言えば罪業であろう。許されぬ行いかと言えば許されぬ行いであろう。しかしそれと阿弥陀の救いは何も関係あらぬ。そなたの行いはただそなたの意思だけで出来るわけではない。どうしようもなくそのようなえんを得てしまったからそうなってしまったに過ぎぬのだ。故にこそ阿弥陀は哀れな衆生をお救いになられる。恐れずともよい。ただ任せよ」

「ヘル! そいつの言葉に耳を貸すなぁ!」 


 しかし、激昂する北竟大帝の言葉に、二人の間に入る余地は無かった


「…………!」

「西方浄土は寂しからず……されど言葉だけでは空虚であろう、故に証を立てる。……この善鸞がそなたを阿弥陀のもとへと導こう!」


 そう言うと善鸞は手を合わせ、念仏を称え始めた。

 すると、徐々に結界の中に光が溢れ始めた。そして宙を舞っていた亡者たちは動きを止め、空に向かって伸びていたヘルの巨椀は、うなだれる様にして善鸞の目の前に掌をついた。


「なまんだーぶ、なまんだーぶ、なまんだーぶ……――」

「…………」


 善鸞が念仏を称えるたびに、光は輝きを増していく。


「何を……した……。善鸞! キサマ一体何をしたぁぁ!!!」


 結末を予感した北竟大帝が悲痛な叫びをあげた時、善鸞は初めて北竟大帝の方を見た。

 そしてにっこりと微笑んだ。


「お、お前は……なんだ……まさか……!?」


 善鸞に正面から見据えられた北竟大帝は、何かに気付くとぎょっとして後ずさった。

 そしてあり得ないものを見たかのように、震える指で善鸞を指さした。


「まさか、お、お前は人の身でありながら魔人となり、魔人でありながらこのボクと並び立とうというのかッ!?」

「まさか。今でも愚禿善鸞は煩悩具足の凡夫にござれば。御身おんみに比肩することなど到底かない申さぬ」


 その声には、北竟大帝を挑発し、また無視していた今までの態度とは打って変わって無量の慈悲と敬意が込められていた。


「詭弁だッ! 偽るなッ! そうでなければ……一介の人間ごときに止められるはずがない! 黄昏は必ず成るッ!!!」

「……まだそのようなことを仰せられるか、もしも御身の言う通り、御身が愚禿と同じものを見ているのならば、その不可能なことは気づいておられるだろうに……」

「違う! 不可能ではない! すでにボクは一つ世界を壊している。ボクにしかできなかったことだ! ボクだからできたことだ!」

「……それは、最後まで、お見届けになられたか」

「……くっ、ああ確かに、最後まで見届けることは叶わなかった。それでも世界は確かに燃え尽き永遠の冬に閉ざされた! あの黄昏は確かに成ったのだ!」

「なるほど、過去の事は知り申さぬ。されど、御身が今目指す黄昏、すなわち混沌が原初の姿と知っておられるのであれば、今の世界が混沌より陰陽に分かれ、乾坤が定まって生まれたものということも――」

「黙れッ! その目で見るな! 仮に、仮に今黄昏が失敗しようとも、必ずボクは成し遂げる。今だけが黄昏ではない! 沈まぬ太陽は無い! 沈まないというのならば、何度だってボクが沈めて見せる!」


 黄昏の計画が破綻を迎えようとしていることを北竟大帝は決して認めたくはなかった。と同時に大切な一人娘までもが手元から離れようとしていることも北竟大帝には受け入れ難かった。

 もしも、この結末が当然のものであると自覚してしまったのならば、こうなることが当たり前なのだと理解してしまったとしたら――……。


――自分は一体……――。


「……諸行無常、滅ぶものもあれば興るものもあろう。沈まぬ太陽は確かにないが、昇らぬ太陽もまた存在せぬ。……悲しいかな、御身は世のことわりを成す機構の一端を背負わされたに過ぎぬ」

「ぜぇぇんらぁぁぁぁん…………!」

「人との出会いは無限にござる。人と対し、人と並び立ち、願わくは、御身が寄る辺を見つけられんことを」


 言って、善鸞は再び念仏を称え始めた。

 そして光が結界を埋め尽くした時。


「救った!!!」


 一声、声が響き渡り、光が結界と共に弾けた。

 その場の全員の視界を奪う、激しくも暖かい光が晴れた時、そこには巨腕も冥府に繋がる地割れも、跡形もなく消え失せていた。


「あいつを殺せぇぇ! ミストルティン!」


 北竟大帝が、気迫と共に翡翠色の槍を投擲する。


「させぬッ!」


 善鸞へと真っすぐに突き進む槍を弾こうとして、善樹が符を投げつける。

 火球となった符は狙い通りに槍を弾き飛ばしたが、その槍は空中で向きを正すと、再び善鸞へと迫り、その心臓を貫いた。

 だが、貫かれた善鸞は晴れやかな笑みを浮かべると。


「勝った!」



 善樹は斃れかけた善鸞を担ぐと一心不乱に駆けていた。


「全軍! アイツを逃がすなァ! 必ず殺せ! まだ高みの見物に興じようというやつは全員ヨルムンガンドの腹の中だ! さっさと行け!!!」


 激昂した北竟大帝の追撃が後方より迫るが、天狗衆の生き残りが一人、また一人と盾になり、敵の追撃を食い止める。


――不甲斐ない! 俺には何も出来なかった! 兄弟子と善知識は命を賭して世界を救い、善樹は逃げるだけか! なんと不甲斐ない!


 善樹の胸中に焦りと情けなさがこみ上げてくる

 しかし、未熟者ならば未熟なりに、逃げることだけでも成し遂げなければならぬ!

 善樹は善鸞の胸のあなに、薬師如来の真言の記された符をあてがうと、一瞬涙をぬぐい、あとは何も考えず、ただひたすらに駆け抜けた。


 いつしか善樹は凍土を抜け、何処いずこの山の谷間にまで来ていた。後方から追ってくるものは何もない。


「ここらで、よかろう」

「善知識! 喋ってはなりませぬ!」


 ただ正面のみを見据えて駆けまわる途中、ふと、善鸞の弱々しい声が聞こえ、善樹は我に返った。


「じきに都市に着きまする。すぐに医者を呼び、養生すれば必ず……」

「もうよい、冥府の姫とも約束したことじゃ。頼む、善樹」

「くっ……!」


 善樹はやむなく足を止めると、師を大木の蔭に横たわらせた。

 傷を塞ぐはずだった薬師如来の符はぐっしょりと血に染まり、穿たれたあなを癒すには至っていない。それに善鸞を蝕んでいるのは胸の傷だけではなく、冥府の瘴気によって腐らされた臓器でもあり、亡者によってつけられた全身の傷でもあった。

 既に善鸞の命運は決まっていた。


「随分と、遠くにきたのぅ……」

「……はっ」


 それは凍土から逃げてきたことに対しての言葉なのか。それとも、これまでの生涯を締めくくる言葉なのか。

 善樹はそれが後者であってくれるなと思わずにはいられなかった。


「善樹、もう少し、近うよれ」


 善樹はそれに従って、善鸞の頭のすぐ隣まで膝を進めた。そこで師の顔を覗き込んだ時、ハッとしてのけぞった。


「善知識……その目は……」


 善鸞の瞳の中には黄金の光の塊があった。それは方々に輝きを放ちながら微かに揺れていた。


「あぁ、よく見えるのだよ。よぉく見えるのだ……」


 それは、北竟大帝もその正体に気づき、そして恐れた光だった。

 善樹はその正体に気づいた時、考える間もなくその場に平伏していた。

 その輝きが決して己には届かない崇高なものであることを悟り、畏怖すると同時に、師がその境地に至ったことへの喜びで体を震わせた。


「……よく聞け、善樹。北竟大帝はまだ何も諦めて居らぬ。儂が阻止できたのは生と死の境界の崩壊のみ。奴は何年かかっても、どんな手を使っても、必ずや黄昏を成そうとするだろう。そこでお主はまず、神威山かむいやまへ行け。そこで神威山の主に力を借りよ。北竟大帝はあの山の麓に広がる平原が決戦地と考えていた。ヴォルフスと連合そして魔の軍勢。三つ巴の戦いの中、混沌を生み出そうとしていたのじゃ。しかし、神威山の主が山を鎮めている限り、その策を阻止することは容易い」

「神威山の主……とは?」

「彼の者の名はおいそれと口にできぬ。いつかお主もその名にたどり着くことがあるやも知れぬが、気を付けよ。名はモノの存在を縛る。彼の者の場合は特にな。……あれは頑固で気難しい老人だが、だからこそ境界を鎮めることに関しては誰よりも五月蠅い。それにどうしようもなく人間が好きで、勇者と語らうことを至上の楽しみとする。きっとお主らの力になるだろう」

「お任せ下され善知識。この善樹、身命を賭して彼奴の蛮行を阻止して見せまする」

「……いや、善樹よ、儂の跡を継ぐのは、お主でも、天狗衆の誰かでもない。いつか現れる、儂のように、此方こちらの世界に追いやられてしまった哀れな人間が、きっと世界を救うだろう。この法螺貝が、その勇者を……示してくれる。お主は、神威山の主と共に、その勇者、を、助けよっ……!」


 善鸞は、最後は途切れ途切れになりながらもそう言うと、彼方の世界からずっと腰に提げていた法螺貝を善樹に渡した。そして小さくため息をついた。


「は、はっ! お任せ下され、お任せ下され! 必ずやッ! 必ずッ……! ああ! 善知識!」


 善鸞の五体から力が抜けていくのと同時に、瞳の中の輝きが増していく。

 最後に、うつろな言葉を遺して。


「嗚呼……父上……善鸞は……」


 善鸞、大往生。

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