第二夜 善樹
「おいっ! 起きろよ、朝!」
体を揺らす振動に、三郎太が目を覚ますと、そこには蚩尤の顔があった。
普段ならば、近づく気配だけでも飛び起きる三郎太にしては、珍しいことだった。
既に朝食も仕上がっていた。
「……」
「……」
「……」
沈黙の食卓で、三郎太は昨晩の事を思い出した。
――まるで夢現の出来事のようだった。
確かに自分の意思で外に出たはずだが、どこか、誰かに操られ、誘われていたような気がしていた。
――あの童子も、一体……。
首都の怪談話に顔を突っ込んでから、不可解なことに立て続けに遭遇している。
しかし、それは裏を返せば、怪談話がただの怪談話ではないという事の現れでもあった。
三郎太は、黙々と食事をとる二人の同居人を見た。
普段、特別会話の多い家でもないが、今日は一層静かである。
ティアナは澄まし顔で普段とあまり変わらないが、蚩尤の方は明らかに怒っているようだった。
――もしや、昨日夕餉を食わなかったことを根に持っておるな。
酒を呑み、必然的に肴にも手を出していた三郎太は、昨日は蚩尤の用意した夕飯を断っていた。
「蚩尤」
「……なにさ」
「お主の飯は美味い。これからも頼む」
「……!」
――いつかの威厳なんぞ欠片も無いな……。
目に見えて顔を輝かせる蚩尤を尻目に、食事を終えた三郎太が外に出ようとして、腰を上げた時、ティアナがそれを呼び止めた。
「おい、どこへ行く」
「……剣を振ってくるだけだ」
「では早めに切り上げてこい。昨日の夜の事で話がある」
◆
三郎太はティアナの言葉に僅かばかり驚いたが、思い返してみれば、狭い室内で三人肩を寄せ合って寝ているのだから、両隣の二人が三郎太の外出の気づくのは自然である。
むしろ、出る時も、帰ってくるときも、二人を意識しなかった三郎太の方こそ不自然であった。
「お前、昨日の夜は何処に行っていた」
いつになく真剣に、ティアナはそう尋ねた。
興味がないのか、蚩尤は居なかった。
「……俺は、どれだけ外に」
「二時間だ」
「……」
これもまた意外なことであった。三郎太の感覚では、ほんの数分だけ外に出ていたつもりだった。それならば、厠とでも誤魔化せようが、二時間となればそうはいかない。
三郎太はやむなく、昨晩の仔細を話すことにした。ただし、童子兄妹については伏せた。
「……ふ~ん、別に、私はお前が他所に女を作ってようが責める気はないのだが……」
「そのようなことは、断じてあり得ぬ!」
「なに冗談だ。そう怒るな。……だが、隠し事はしているな?」
「むむ……」
腰を浮かせて抗議した三郎太も、秘密を見抜かれていると聞かされて勢いも萎え、所在なく座り直した。
「仕方ない。ならば私は私で、お前に知っている限りのことを教えておく。それを生かすも殺すもお前次第だ」
ティアナは改まって話し始めた。
「お前、エンプーサは知っているか」
「え、円……木彫りの……」
「違う。よく知らんが違う。メスならばエンプーサ、サキュバス、リリス。オスならばインキュバス。呼称は様々、本来種の異なる魔獣共だが、もはやその区別はつかん」
「知らぬが、それで、そやつらが何だというのだ」
「こいつらは、人の夢に現れては精を食らう魔獣だ。相手は男だけではないぞ。女も同様だ」
「精だと……?」
「まぁ、お前の想像していることで間違いない。エンプーサは夢に現れて人間を誘惑し、交じり合うことでその生命力を奪ってゆく。初めは一年分、次は二年、四年、八年とな。仮にエンプーサに魅了された男が、毎夜、夢の中でお楽しみに興じたとすると、その男は一週間もしないうちに死ぬ。どうだ恐ろしいだろう?」
「ふん、たわけたことを。俺には関係のない話だ。そもそも獣相手に盛るとは畜生の所業。そのような人の風上にも置けぬ輩は死んで当然というもの」
「ククク……。まぁそう言うだろうと思っていたとも。面白いのはここからだ」
ティアナは口元を弧に歪めて、凶悪な笑みを浮かべた。
三郎太が苦手とする顔だった。
「こいつらは夢の中に現れる時、必ず相手の理想の姿となって現れる。……お前は夢の中で、意思をもって体を動かしたことがあるか? できないだろう。そんな夢うつつの中で理想の相手が求めてくるのだ。これに抗える奴はなかなかいまい」
「うむむ……」
「それともう一つ、こいつらが精を奪えるのは夢の中に限った話ではないのだ」
「何? ならば、それこそ相手は獣の姿ということではないか。まさかそのような……」
「……まぁ居たのだろうな。そのような輩が」
「……」
「いつからそれが始まったのかはもうわからん。だが確実なのは、奴らが繰り返し現実の世界で人と交わり、代を重ねるごとに人間に近づいていったということだ。そのせいで奴らは、今では種の境界を失ったばかりではなく、種として絶滅の危機まで迎えている。人間の血が濃すぎる。羽や角を持つ者もいるにはいるが、あれはもう人間とほとんど変わらん。……皮肉だとは思わないか? 人間の姿に近づいたことで、現実でも夢の中でも精を奪い、個としての力は強大なものになったというのに、種そのものは滅びつつあるとは」
「やけに詳しいではないか」
「それはお前、私は一国の主だったんだぞ。それに何年生きてると思ってるんだ。……まぁそれと、実はとっておきの話があるんだが……聞きたいか?」
「や、別に聞きとうな――」
「分かったよく聞け」
ティアナはずいっと三郎太に近づいて、小声になって話始めた。
相変わらず、口の端は凶悪に歪んでいた。
蚩尤が往古の威風を失っていくのに反して、ティアナの方は『太祖』であった頃を取り戻しているかのようだった。
「私がまだ『太祖』だったころだ。ヴォルフス首都内でインキュバスの報告が相次いでな、男衆が妻に相手にされなくなったと陳情してくるまでに被害が広がったことがあった。それまでに私はインキュバスを見たことがなかったんだが……まぁ、夫を亡くして久しかったしな、それに若気の至りというやつだ。私に従っている魔獣共の中に、ちょこっと噂を流させて、インキュバスを誘い込んだのだ」
「まっ、まさかお主……!」
狼狽する三郎太を押さえるとティアナは話をつづけた。
「最後まで聞け。それで私の作戦通り、まんまとインキュバスが私の閨にやってきたのだ。水も滴るいい男だったぞ。それでいざことが始まろうかとしたときだ。奴め、なんといったと思う?」
「どうでも良い! そんな話は聞きたくもないわ!」
何が悲しくて他人の情事など語り聞かされなければいけないのだろうか。
嫌がる三郎太だが、ティアナを邪険に突き放すことはできなかった。
「『お待たせ。寂しくはなかったかい? 子猫ちゃん?』だぞ。ハッハッハ! それはもうキザったらしく言い放っていたぞ。傑作ではないか。余程自分に自信があったのか、それとも世相に疎いのか、あの『太祖』に向かってよくも言えたものだ!」
「……それで、如何」
久しぶりに楽しそうに笑うティアナに、三郎太は呆れ半分ながら、もう少し付き合ってやることにした。
三郎太の手の中には、未だ『太祖』を地上に引きずりおろした感覚が残っていた。
「ん、ああ、そのあとか。つい笑ってしまってムードも気分もぶち壊しだったからな。無礼にも腹がたったし、五体を裂いて城門に晒した」
三郎太の気分もぶち壊しだった。
「……与太話はもうよいだろう。結局何が言いたいのだ」
「分からんか? つまり私は、お前がエンプーサに狙われているのかもしれないと踏んでいるのだ。昨晩の記憶は確かか? ともすれば既に……」
「――ッ! お主は!」
途端、三郎太が顔の色を変えて立ち上がった。
「お主は、この俺が、淫売に、それも獣のそれに! かどわかされたとでも言いたいのか!」
「夜の夢遊はその兆候だと言っているだけだ。何も辱めようとか、責めようとかいうのではなくてだな……」
「甚だ心外至極! 侮辱も良いところ!」
また癇癪を起したかとティアナは困り顔を浮かべた。
こうなると、この男はなかなか鎮まらない。
「分かっておる! 許せぬのはその淫売の獣! 誰に手向かったかを教えてやるっ……!」
――間違いない! あの白い糸の向こうに、エンプーサが待ち構えていたのだ!
その理解は、つまるところ、自分がエンプーサの誘惑に引っかかっていたことを意味する。
童子達の助けがなければ、どうなっていたか、想像するだけでもおぞましい。
その不覚に、三郎太は憤っていた。
「おいッ、待て何処に行く!」
羽織を付け、両刀を差し、ブーツに足を突っ込んだかと思うと、もう三郎太は飛び出していた。
◆
夜。日が沈んでよりおよそ一時間。
昼の間はいくら捜し歩いても手掛かり一つ見つからなかったというのに、黄昏時になった途端、ソレは現れた。
夕方の喧噪に包まれた大通りを歩いていると、ふと人込みの中から此方を伺う気配があるのに気が付いた。
以来、それは巧みに身を隠しながら、ずっと背後をついてきていた。
今、既に日も暮れ、人通りはまばらとなった。
三郎太は人目につかない郊外の、裏道に入ると足を止めた。
「……貴様だな……?」
「……」
「市井を騒がす人畜生!」
三郎太は振り向くや否や、抜きつけに斬りかかった。
「ッ!?」
背後の気配の正体は、筋骨隆々とした四十頃の男だった。
多少腕に覚えがあるらしく、三郎太の一撃を、驚き慌てながらも、手にした杖で頭上に受け止めていた。
「人に化けた魔獣! 怪談の根源! 一体何人をその腹に納めた!」
「い、いや拙僧は――」
「昨晩、俺を誘い出したのも貴様だな! さあその正体を明かしてみろ、淫獣が!」
「い、淫獣!? 先ずは話を――」
「聞かぬ! 言い訳は閻魔の前で存分にするが良い! 今は三郎太に手を出した己の不心得を恨め!」
「三郎太……!? やはり貴方様は――」
「如何にも! 俺は清浜三郎太。精々地獄で語りつげ!」
気迫と共に、逆安珍が唸った。
三郎太に胴を薙ぎ払われた男は、よろめきながら後ろに下がると、苦し気に片膝をついた。
「むっ、貴様!」
三郎太はぎょっとした。深々と切り裂かれた男の胴は、ぽっかりと黒い空間を覗かせるばかりで、血の一滴も滴っては居なかったのである。
「やはり……貴方様が……」
男は自身を斬った相手を、まるで百年の宿願の叶ったかのように、憧憬の眼差しで眺めた。
「清浜三郎太殿。今宵のご怒りはごもっとも。拙僧の非礼でござった。拙僧の名は善樹。日を改めて参上いたす!」
言い終わるや、一陣の風が吹いたかと思うと、男の跡には木の葉と、胴の斬られた人形だけが残されていた。




