神威山
連合首都より北東20㎞。平原を挟んで山がある。
傾斜は緩やかで、いくつもの峰を抱き、その裾をおおらかに広げている。
最も高いところでも標高は1700mほどで、登るのに決して難しいという山ではない。
それに、東方より連合首都を目指す者からすれば、この山を越えることが首都への最短距離となるから、交通の面でも有用に思えた。
しかし、今この時代、この山を越えようとするものは一人としていなかった。
昔よりこの付近には言い伝えがあった。
『峠には荒ぶる魔獣がいて、通る者の半分を殺す』
言い伝えがある以上、それでも昔は登る者があり、生き延びる者があった。
「頂上付近には湿原が広がっていて、そこで白い魔獣に助けられた」
「気づかぬうちに、仲間が消えていた」
「仲間が霧に食われた」
噂は広まり、やがて為政者の耳に届く。
不届きな魔獣を懲らしめようと、騎士団より討伐隊が編成された。
だが、討伐隊は何の成果もあげられず、ただ言い伝えに則したのみだった。
この事件が決め手となって、人々は山を避けるようになり、東との往来は山を大きく迂回する街道を使うことが専らになった。
いつしか誰一人として近づかない魔獣の山となったこの場所を、人々はこう呼んだ。
太陽となり、月となり、海に身を捧げ、人のための世界を切り拓いた三神が、魔獣の生きることを許した山――神威山――と。
◆
晩秋から初冬への移り変わりを知らせるかの如き寒風の吹く神威山。
人の世からすれば魔獣の根城たるおどろおどろしいこの山も、自然の一部であることは変わらないようで、温かみのある秋の色づきを微かに残していた。
その中を、一人の女が歩いている。
人の近づかぬ神威山においては、ただそれだけで異常事態であるが、女の恰好がまた異常であった。
修道服に、己の身長ほどもある六角に削られた鉄の棒を持っているだけである。底の浅そうな皮の靴も、なだらかであるとはいえ、山道を登るには適さないように見える。
だが女はなんら苦の様子を見せることなく、ベールからこぼれる銀髪を靡かせて、ときに背丈以上もある草花を鉄棒で薙ぎ払いながら、獣道に悠々と歩を進めているのであった。
異常はまだ終わらぬ。
山は、静かすぎた。
人を寄せ付けぬ魔獣の山が、闖入者に対して何の反応も示していないのである。
通る者の半数が殺されるのならば一人で行けば良い――そのようなとんちがまかり通ったとしても、異常と感じざるを得ない静けさであった。
山は死んだような静けさを保ったまま、女を頂上の開けた湿原へと導いた。
湿原には大きな木ほとんどが生えていないが、代わりに人を覆い隠すほどまでに成長した植物の塊がまばらに点在している。
「さぁ、来てあげましたよ。出てきなさい」
女は湿原の縁に立ち、鉄棒を地に突いて、朗々と言った。
「――まさか、ここに至ってもまだ事態が呑み込めていないとは言わないでしょう?」
声が響いてからしばらく、女の向かい側にある、湿原の中の背の高い草々がゆさゆさと揺れ始めた。
女の丁度反対側から生まれたその揺らめきは、徐々に女に近づいていき、やがて茂みの終わりと共にその正体を現した。
ぬぅっと、草の中から体を出したのは、馬ほどの大きさを持つ巨大な白毛の牡鹿だった。
否応なく山の主の風格を携えた、神秘的な獣であった。
牡鹿は、枝分かれしながら天を指す二対の角を揺らしながらのそのそと歩き、湿原の中の池を挟んで女と対峙した。
湿原は周辺より低い位置にあるため、自然と縁に立つ女が牡鹿を見下ろす形となった。
「初めましてごきげんよう。……こちらから訪ねておいてなんだけれど、貴方の事はなんとお呼びすればよいのでしょうか?」
「……」
女が鹿に話しかける、奇妙な絵面であった。
当然、牡鹿が答えるはずもなく、ただ無表情に女を見つめるだけであった。
「まあ、名前を交換し合うのは交渉が済んでからでも遅くはないですか……。それに、名前なんて元来貴方のような存在には不必要なものでしたね。貴方方からすれば、むしろ存在を縛る『呪い』ですらあるのでしょう?」
女は一人得心したように頷いた。
「さて、貴方が気づいていたかどうかは知りませんが、結果はこの通り。この山の魔獣は全て私達の側につきました。これが現実です。貴方の祟りを恐れて私に従わなかった魔獣も幾らかはいましたが、命を投げ打ってまで貴方に付き従おうというものはいない」
一見丁寧に語り掛ける女だが、その言葉には明らかに侮蔑が含まれていた。
結果ありきの交渉。儀礼と化した降伏勧告。
圧倒的に優位な立場にある者が、下位の者に語り掛けるそれであった。
その挑発が意図したものか否かに関わらず、並の人間ならば眉根の一つも寄せそうなものを、やはり牡鹿は無表情に見つめ返すだけであった。
神威山の異常の原因は我にありと公言する侵入者。それ見る漆黒の瞳は全くの無表情である。
孤立無援の状況を諦観しているわけでもなく、憤怒の激情を隠そうとしているわけでもない。その瞳は一種神秘的な『無』の凄味を発していた。
「……ですがそれは世の流れというもの。いつまでも変わらないものなど存在しないのです。一度は貴方のもとに集ったものが、今離れていくのは自然の道理。貴方だけの責任でも、問題でもない」
そこまで言って、女の様子が変わった。
悠然と語り掛けていた先ほどまでとはうって変わって、厳しい表情になると、まるで自分に言い聞かせるように、毅然と言い放った。
「そう……時代の流れ、諸行無常とはよく言ったものね。確かに時代は変わるわ。移り行く。だけど勘違いをしてはいけないわ。世界を変えるのは時代でも、時間でもない。世界を変えるのは『誰か』よ。変化する世界の転換点で、最後の一撃を放つ『誰か』が必要なのよ」
女は真摯な瞳で牡鹿に向かい合った。
そこにもはや侮蔑の意は含まれていない。
「私は世界を変えます。そのためには貴方の力が必要。だから私に従いなさい。かつて誉田別と戦い、敗れた貴方なら! 私の思いは――!」
「『非』」
女の言葉を遮るようにして、それは鳴った。
まるで地の底から這い上がってきたような、低い低い男のしわがれた声だった。
女の声を打ち消すほどの声量ではなかったのにも関わらず、それは辺り一面に広がり、有無を言わせぬ余韻を残していた。
突然のことに目を丸くした女が、何かに気付いたようにハッと牡鹿を見てみると、そこには先ほどまでとは違う景色があった。
牡鹿が、己の舌をべろんと出して、それを咬むように歯を立てている。
子供染みているが分かり易い、明確は拒絶の意思だった。
鹿がするには不気味すぎるその動作に、女は面食らった。だが、すぐに冷静さを取り戻すと、
「……そう」
失望したように呟き、手に持った鉄棒で地面を軽く叩いた。
すると突然地面が泡立ち、
「では死になさい! 老害!」
土砂が濁流となって牡鹿に襲い掛かった。
跳躍して攻撃を躱す牡鹿。それを逃がさじと女は追撃を行う。
「『ウィンドカッター』!」
鉄棒を横なぎに一閃、切り裂かれた空間から不可視の刃が飛んでいく。
「所詮は時代遅れね。それとも大泊瀬と手を組んだことをまだ後悔しているのかしら。古い古い古い! 最早貴方はこの世界からも不要!」
「『電』
再び、辺り一面を不気味な声が通り抜けたかと思うと、牡鹿の蹄より電撃がほとばしり、空中で風の刃と混じり合って轟音と共に弾けた。
「『雹』」
今度は突然山の天気が急変し、暗雲が立ち込めたかと思うと、氷の礫が恐ろしい速さで女に向かって降り注いだ。
「ぬるいっ!『ファイヤーウォール』」
詠唱通り、女を守るように炎の壁が現れ、ぐるりと囲む。
その火力はすさまじく、葉を貫き、木すらもなぎ倒そうかという自然の暴力をいともたやすく溶かしつくし、滴となって地に落ちる暇さえも与えずに霧散させた。
さらに女は炎の壁を解除すると、鉄棒を構えて跳躍し、牡鹿の目の前に迫った。
「さようなら」
鉄棒が突き出される。
眉間に迫る鉄棒を、牡鹿は辛くも角で受け止めたが、その代償に右の角が砕けて折れる。
衝撃にのけぞった牡鹿は、そのまま向きを変えると一目散に駆けていく。
そして、
「『風』」
「『雨』」
「『霧』」
立て続けに声が通り抜け、言葉通りの現象が巻き起こった。
角を折られてはたまらなかった。敗走の為の時間稼ぎであった。
「ふん、逃げましたか……」
しかし効果はてきめんで、女は額に手を当てて牡鹿の逃げた方を見続けたが、それ以上追うことはしなかった。
◆
牡鹿は山を駆け降りる。
足取りは軽やかで、迷うことなく風を切って走る。突き出た岩も、茂った藪も障害とはならない。
彼にとっては何十年、何百年と住んでいた我が家である。
獣道に拠らずとも、最短距離で山を降りることができる。
大地は、植物はいまだ彼の味方であった。
だが山の住人たちはそうではなかった。
「――――!」
突然巨木の陰より猪が現れた。巨大な魔猪である。
魔猪は木々を挟んで牡鹿に並走しながら、金切り声を上げて牡鹿を威嚇した。
さらに牡鹿の進行方向を遮るようにして、もう一匹魔猪が現れる。
それだけではない。気づけば数十匹の老猿達が木から木へと飛び移りながら、じわじわと牡鹿を包囲し始めている。
山の主に牙を向く――その背徳感からか、牡鹿を囲む魔獣たちは皆一様に熱に浮かされたように、息も荒々しく興奮していた。だがやはり、当の牡鹿は無表情だった。
牡鹿は道を遮る魔猪を容易く飛び越えると、例の声を発した。
「『雷』」
瞬間、三条の稲妻が空を覆う暗雲より降り注ぎ、二匹の魔猪と数匹の老猿に直撃した。
稲妻に撃たれた魔獣は黒焦げになって地に倒れたが、生き残った老猿達はまだ牡鹿を仕留めようと追跡をやめない。
しかし、その時、老猿達の目の前に、奇怪な文字の書かれた符がひらひらと現れた。
「吽!」
何者かの声に反応して、符は全て光球と変わり、激しく光を発した。
それを目の前で受けた老猿達はたまらず悲鳴を上げて転げ落ちていく。
「異変を感じて馳せ参じたが間に合いませなんだ!」
木の上より山伏姿の男が現れ、牡鹿の横に並んだ。
鋼というのが相応しい、筋骨隆々とした肉体の男だった。
手には錫杖を持ち、腰には黒塗鞘の太刀を佩いている。
「おいたわしや……。いつかこうなるのではないかと分かっていながら、何の手も打てず……無念でございます」
「……」
牡鹿は相変わらず無反応である。
「しかし、吉報も。善鸞殿が縁、結ばれましてございまする。奴らの動きが活発化し始め、我らも北竟大帝の攻撃に限界を迎えつつある今、天運が定まりましてございまする! この機を除いて他はありませぬ。■■■様! 是非貴方様にも――」
男がその名を呼んだ時、牡鹿は初めて男を見た。
無の瞳が男をとらえた。
「っ……!」
吸い込まれそうな瞳に、男は思わず息をのんだ。
気道が鷲掴みにされたように、息苦しい。
このまま息ができなくなり、死ぬのではないかと思いながらも、なんとか声を絞り出した。
「……かしこみかしこみ、申す……」
それを聞き、牡鹿はようやく前を向いた。
そして、
「『是』」
と返し、
「『ハリマ』」
と重ねて告げた。
ハッと、何かに打たれたようにのけぞる男。しかし、その言葉の意味するところを察すると、沈痛の面持ちながらも、理解を示したようだった。
「それは……。いえ、それではこれよりハリマ殿と。……ハリマ殿には一旦、拙僧のもとに来ていただきます。拙僧も未だ彼の者にはあっておりませぬゆえ、それが済み次第ハリマ殿をご案内致す。では此方へ」
男が方向を変え、ハリマはそれに従った。
この日、神威山より一匹の牡鹿が失われた。




