獄中の三郎太
三郎太が牢の中で目覚めてから数日が経った。
目覚めた牢は狭く、不衛生だった。
明かりといえば通路の奥から微かに届く松明の灯のみで、空気がどんよりと淀んでいることを鑑みれば、おそらくここは、牢は牢でも地下牢なのだろうと判断がついた。
唯一の救いはこの町が新しいように牢もまた新しく、屍臭や怨念といったものがこびりついていなかったことだけだった。
食事は一日一度、不定期で運ばれてくるため、既に三郎太の時間の感覚など消え失せた。
三郎太は牢の中ではほとんど禅を組んで、心を落ち着かせていたから、発狂こそしなかったものの、それを辞めるとすぐにムラムラと怒りが湧いてきた。
――アデーレの奴とは必ず再戦せねばならぬ。女に負けたままでいられるものか。
三郎太はアデーレがなぜ攻撃してきたのか、その見当はとうにつけていた。
あの少女が言った「ドブネズミ山」というのが、崑崙を指していることは察しがついた。
きっとアデーレは三郎太が崑崙の間者だと判断して、フリードの身を守るためにああしたのだろうとわかっていた。
しかし、三郎太が崑崙から来たことを隠していたのには、三郎太なりの理由があった。
三郎太は崑崙がかつて大戦の折にヴォルフスと敵対していたことを知っていた。
それに崑崙は、味方であった連合からもアヅマと呼ばれて疎んじられていることも知っていた。
故に旅をする身としては、遺憾ながらその素性を大っぴらにすることは都合が悪いと判断したのだ。
――それに素性を、実力を隠していたのは、奴も同じではないか。あの動きは只者ではない。あの少女が言った「暗殺者」というのも気になる。
気に入らないことを挙げだせばキリがなかった。とにかく三郎太はアデーレに負けたままではいられなかった。
それは、この世界の女が三郎太の世界の女と違い、十分に強者であることを知っても、なお変わらない三郎太の信念がそうさせた。
三郎太にとっては女が強かろうが弱かろうが、とにかく負けることは恥だった。それに加えて、アデーレの奇襲に対してまったく反応できなかった己の未熟を恥じているというのも、三郎太が強く再戦を望んでいる理由の一つであった。
――あの少女……いや、小娘も絶対に許さぬ。士分の頭を踏みつけておいてただで済むと思うなよ。
あの時の屈辱は、思い出すだけでも腸が煮えくり返るほどの怒りを呼び起こした。
――奴が何者だろうが構うものか、勝ち負けも知らぬ、必ずや一矢報いて見せる。成せずに死ぬとしても必ずや祟りを残してくれるわ。
三郎太はなんとなくではあるが、あの少女が只者ではないことと自分以上の実力を秘めていることを悟っていた。
しかし、怒りのあまりに冷静さを失い、敵の分析をすることもなく、唯々己の名誉のために戦うことだけを考えていた。
三郎太は袴の裾を握り締めて怒りをこらえると、再び禅に入った。
――冷静になれ、好奇を見計らえ、今はその時ではない。
三郎太の最優先目標はどちらかといえば、あの謎の少女の方だった。
いつか処刑される時が来て、外に出ることができたなら、その時が好機である。
勿論、刀は両方ともここにはない。そのため、手段はその時考えねばならないが、あの尊大な少女が、処刑の瞬間を見ようと出張ってくるのは察しがついた。
確実に殺されるとしても、意地だけは見せつけるつもりだった。
三郎太が完全に禅の世界に入り、無の境地に至った頃。にわかに地下牢の入口が騒がしくなった。
「なんだガキ、どうやってここっ……」
「どうしっ……」
「むっ……」
三郎太は、ただならぬ事態に意識をこちらに戻して外の様子を探ろうとした。牢番の声は止み、足音と気配だけが、何者かの存在を知らせた。
そして、松明の明かりを遮ってこちらに近づいてくる影。その影には見覚えがあった。
「これは、まさか……!」
「やっほ。サブロー久しぶり」
◆
時刻は僅かに遡り、早朝。皇帝執務室。
そこにはいつもの通りにフリードとアデーレがいた。
「報告によれば、まだ彼の健康状態に問題はないそうです。わからない程度に食事に改良をしているからかもしれませんが、それでもいつまで持つか……」
「そうか……急がねばならんな」
「重ねて……申し訳ありません。なんとお詫びをすればいいか……」
アデーレは沈痛な面持ちで謝罪の言葉を口にする。
三郎太が崑崙から来たことを聞いて、反射的に捕縛してしまったが、それによりむしろ状況は悪化してしまっていた。
「いや、気にするな。そなたはそなたの仕事をしたまで。きっと彼にやましい狙いはなかったのだろうが、それでも素性を隠していたのは彼の落度だ」
フリードも三郎太が崑崙の間者である可能性を疑い、三郎太のここに来て以来の行動を調べてみたが、まったく怪しい振る舞いはなかった。
しかし、フリードはなぜ、そこまで三郎太のことを気にかけ、三郎太にこだわるだろうか。
三郎太ほどの実力の人間であったとしても、ヴォルフスでも、連合でも探せば見つかるはずだった。
目の前のアデーレも奇襲であれば三郎太には負けないほどの実力を秘めている。
しかし、やはり、三郎太にこだわる理由はあった。
――彼女を殺すには彼女のことを知らない人間でなければダメだ。感情を視ることができる彼女は、意識されればすぐに気付いてしまう。そして彼女がここに来てしまった以上は謀を長引かせるのは自殺行為だ。いま私が持てる最高の駒は、三郎太、お前なのだ。
◆
ザイル朝ヴォルフス建国の母。生きた英雄。『太祖』。
その言葉の全てが、かつて幼いフリードの胸を高鳴らせた。ヴォルフス建国物語を、英雄譚を、フリードはページが擦り切れる程に何度も何度も読み返した。それになにより、英雄本人から直接聞かされて育った。
300年前、都市国家リドル朝ヴォルフス。その郊外に生まれた少女が、ある日突然魔眼を発現させ、魔人になった。少女は魔人を恐れた皇帝により投獄された。過酷な獄中生活。魔人となってもその力の使い方を知らないか弱い少女はだんだんと衰弱していった。哀れに思ったのは牢番の青年だった。ある日、彼は監視の目をくぐり抜けて少女をつれてヴォルフスを出た。
それから数十年後、少女の生んだ双子の息子はヴォルフス政府の中でも重要なポストについていた。
そして、魔人となって歳を取らなくなった少女は長男の孫と身分を偽ってヴォルフス内に入り込み、瞬く間に台頭。そしてクーデターを経て実権を握り、少女の直系の孫がヴォルフス皇帝の座についたことで、ザイル朝ヴォルフスが建国された。
そして1度目の大戦でヴォルフスを大勝利に導き、2度目の大戦の折には既に表舞台からは退いてはいたが各地の戦場で活躍し、ある時は突然戦場に現れた魔人の炎を討ち取る戦果を上げた。
バイコーンに跨り、身の丈の倍もある槍を振るい、そして魔眼から無詠唱で発動される大魔法の数々で、次々と敵を打ち破る様は味方を奮起させ、敵の士気を挫いた。
的確に政敵を除き、国家に空前の繁栄をもたらした大英雄。
民間に語られる伝承はここまでだが、フリードは知っていた。
彼女の持つ魔眼の真の能力、それは見ただけで相手の感情を読み、目を見れば相手の考えていることも、過去も何もかもを読み取る、あまりに恐ろしい能力であり、政治家達にただひたすらに太祖を信奉することだけを教えた、忌むべき能力であるということを。
魔人の支配からの脱却。古い国家体制の変革。それこそがフリードの悲願であった。
そのためならば、国家の英雄であっても殺して見せる。親殺しの大罪だって犯してみせる。それほどにフリードの決意は固かった。
「それにしても遅い……」
思い出したように呟くフリード。
太祖はこの街に来て以来、毎朝フリードの執務室を訪ねては適当に挨拶や歓談を交わしていた。それが今日に限って来ない。
何か不都合があってはいけないと、誰かに様子を見てくるように命じようとしたその時だった。
「申し上げます!」
執務室に衛兵が駆け込んで来た。ひどく焦り、狼狽している様子であった。
「何事だ」
「それが……そのぉ……太祖様が、太祖様が陛下の馬車を使って開拓に出てしまいました!」
衛兵は沈痛な面持ちで報告した。
「申し訳ありません! 番兵もなんとかお留めしようと試みたのですが」
「……行き先は」
「黒い森のゼーブックまで行くには良馬でなければ夜までに帰って来れない。と仰っていました。ですのできっと……」
そこまで聞いてフリードは体が震えるのを感じた。それは恐怖と歓喜が入り混じった武者震いに似たものだった。
フリードがこの街に来る際に、選りすぐりの忠臣を連れてきたのは正解だった。この報告が正しくフリードのもとに届かなければ、もしかすると本当に何もかもが終わっていたかもしれなかった。
「よし、ご苦労だった。下がれ。……アデーレ、報告の真偽を確かめて参れ」
「はっ!」
今迄の人生の中で最も長く感じた時間だった。まだかまだかと、年甲斐もなくそわそわしながら待つこと数十分。アデーレが戻ってきた。
「報告は確かです。太祖はゼーブックまで、陛下の馬車を出して向かわれました」
フリードは遂に時が来たことを確信した。あまりに急に、立て続けに転がり込んできた窮地と好機。今しかなかった。
「アデーレ、やるぞ。三郎太を牢から出せ」




