太祖
「あっ、お帰りなさいませ。三郎太様」
三郎太が開拓から帰ると部屋にいたメイドが出迎える。
他に仕事があるので、いつもいる訳では無いが、最近は三郎太が帰ってくる時間には居ることが多い。
「あぁ、戻った」
――久しく忘れていた感覚だが、帰る家と出迎える人がいるというのはやはりいいものだな。
無意識の内に思い出されるのは、遥か遠くの故郷、我が家。
――鶴はどうしているか、肩身の狭い思いをしていなければ良いが、いや、もう清浜の家を出たかもしれんな。
夫婦仲など冷め切っていたが、それでも十年近く伴に生活をした相手の身ならば、多少の情は湧くというものだった。
「お疲れですか? お茶入れましょうか?」
「頼む。お主のは美味い」
三郎太は出された茶を教わった通りの方法で飲む。無骨で質実剛健な三郎太は、日本にいた頃は茶の湯など歯牙にもかけなかったが、こちらに来て多少考えが変わった。
こちらのモノはそれほど形式張っていないから馴染み安かったのもあるが、やはり伝えられる作法にはそれなりの理由があるのであって、その通りにすればその魅力を最大限に引き出せるのだと考えるようになった。
それになにより、外で修羅場をくぐり抜け、家に帰って穏やかに過ごす。そういったメリハリが生活を彩るということにも気づいた。
――仕事から帰って女中の入れた茶を飲んでくつろぐ、か。あまりに平凡で幸福だ。幸福であるが――
三郎太は使命を忘れてはいない。ここは一時の休息場。金を貯めて情報が集まればそのうちに出て行くつもりだった。
――いつまでもこうしている訳にもいくまい。普通ならば客分であるし、それほどに義理立てせずとも、ある程度開拓に協力すれば出ていくことに問題はないだろう。しかし、問題は皇帝陛下が俺に何かを期待している、何かを求めていることだ。それが分からぬ内に、捨て置いて出て行くわけにもいかぬ。
あの会食から数日、三郎太は三郎太なりに考えたり、フリードの様子を観察したり、アデーレにそれとなく尋ねてみたがどうにもわからなかった。
さらに不思議なことは隠しているというよりもまったく覚えがないといった様子であったことだった。
――何かがあるということすらも確信が持てぬ、曖昧なままではどうにもならん。
茶を啜りながら考えてもまったく名案は浮かばなかった。
三郎太が茶を飲み終わった丁度その時、部屋がノックされた。
メイドが対応に出るとそこにいたのはアデーレだった。
「陛下がお呼びです。付いてきてください」
◆
「よし、来たな。すまないな三郎太、突然呼び出してしまって」
三郎太が執務室に入ると、フリードはいつも通りに三郎太に椅子を勧めてから話を始めた。
「早速だがな、今日はそなたに頼みがあって呼び出したのだ」
「拙者にできることであれば、なんなりと」
――頼み……以前から気にかかっていたあの事か。
「そうか、それは嬉しい言葉だ。頼みというのはな。実はそなたの腕を買って、私の身辺警護の任に就いてもらいたいのだ」
「身辺警護……で、御座いますか?」
三郎太は思わず拍子抜けしてしまう。皇帝の身辺警護となれば相当の大役なのはわかっている。しかし、それがあれほどまで言葉を濁して、婉曲的に訴える必要のあることだとは思えなかった。
「勿論、そなたが客人として開拓に協力してくれているということは忘れていない。時が来て此処を去るのであれば、その時は止めはせぬ。どうだ、それまで私の頼みを聞いてくれまいか、当然だが、今まで以上に給金ははずむ」
皇帝直々に腕を認められた上、そう言われてしまうと三郎太に断る理由は無かった。
「承知いたしました。不肖三郎太――」
「失礼いたします! 『太祖』様が御見えになられました!」
三郎太が快諾し、口上を述べようとした丁度その時、突然、衛兵が慌てた様子で執務室に駆け込んできた。
「なんと……」
「……ッ!」
フリードが目を見開き、普段は全く揺らがないアデーレの表情までもが驚愕に染まる。
何も知らない三郎太は、この状況に何の反応も示すことができなかった。
ただ、この国の最高権力者たる皇帝を驚かすタイソとは、一体何者なのかと思った。
「今は何処に!」
フリードの問いに答えたのは衛兵ではなく廊下から聞こえる足音だった。
カツカツと音を立てて近づいてくる存在。三郎太は足音だけでそれがどんな人物かなんとなく察してしまった。
――尊大だ、自身に満ち溢れている。そしてそれは虚仮威しでもなんでもなく、実力と立場に保証された、支配者だ。
扉を開け放って入ってきたのは腰まで届く美しい金髪の少女だった。
フリードと同じような軍服にマントを羽織っている。そしてその少女の背後には槍を持った眼鏡の女性が、感情を感じさせない目で立っていた。
「久しいなフリード。私ばかりでなく妃にも碌に連絡を寄越さないとは、あまり褒められたことではないな」
「……申し訳ありません。なにぶん忙しかったものですから」
少女は部屋に入ってくるなり、皇帝であるフリードに大して気安く声をかける。
フリードは目を伏せて、下を向きながらそう答えた。まるで親にイタズラが見つかった子供のような態度だった。
確かにこの少女は只者ではない雰囲気を出してはいる。しかし皇帝がここまで恐縮しなければならないとはどういう訳か、三郎太の頭はまだこの状況が理解できていなかった。
「何をそんなに怯えているのだフリード、それほど恐ろしいか、私が」
「いえ、突然の訪問でしたので、何の準備も出来ておりませんし、先に連絡をいただけましたのなら相応の支度をしましたのに……」
「そうか、まぁ良い。で、そやつが例の女か」
少女は次にアデーレの方に向き、値踏みするようにアデーレの全身を眺めた。
「ハハハッ! 暗殺者には暗殺者を、か。身を守るには効果的だろうな。なにせ、下賤のやり方の全てを心得ているのだから」
「お褒めに預かり光栄です」
アデーレもまた目を伏せながら答えた。しかし、少女の言葉に含まれているのは侮蔑だ、決して手放しでアデーレを評価したわけではない。
「しかしフリード、私はお前がどんな連中を侍らせようが、それを禁ずるつもりはなかったんだが、それでも――」
そこで始めて少女は三郎太の方を見た。突然意識を向けられて三郎太は思わず見返してしまった。
そして、一瞬、目が合ってしまった。
――む、何だ!? 何かを視られた! 何を視られた!?
胸の内に何かがスッと入り込むような、もしくは、頭の中に冷たいものが入り込んできたような、そんな不快感を、三郎太は感じた。
悪寒が走り、思わず身構えてしまう。
少女は口を歪ませて凶悪な笑みを浮かべた。
「――それでも、ドブネズミ山の者はいただけないなぁ!」
「ッ! そういう事ね!」
少女の声に反応して飛び出したのは意外にもアデーレだった。向かった先は三郎太の懐。
「なにをっ! ぐっ……」
三郎太の鳩尾にアデーレの肘が入った。思わず背を丸める三郎太に、アデーレは追撃をかけて、床に引き倒すとそのまま押さえつけた。
三郎太は突然のことに全く反応ができず、あっという間に無力化されてしまった。
「これはッ……どういう……!」
「薄汚い顔を上げるなよ」
「ぐっ!」
三郎太が顔を上げようとしたところを、少女が足で踏みつける。三郎太は視界一面に広がる床を睨みつけて恥辱に耐える他なかった。
「太祖様、御御足が汚れてしまいます」
「ここに来るまでに何匹か魔獣を狩ったからか、昔を思い出してな。汚いものだろうがなんだろうが、耐えに耐えたあの日々が懐かしいのだ」
眼鏡の女に少女は笑いながら応えた。
「こいつの反応を見るに、お前はこのドブネズミの素性を知らなんだな?」
「……はい。まさかこやつが、そうとは……」
「ふん、未熟者め。よし、こいつは牢に放り込んでおけ、今の時期ではまだ届くまでに腐ってしまうだろう。晩秋を待ち、バラして飾った後、送り返してやろう」
「はっ!」
アデーレは三郎太の首を絞めて気絶させると、そのまま肩に担いで部屋から出て行った。
「さて、フリード。私達は私達で積もる話もあるだろう。ゆっくり語り合おうではないか」
見るもの誰もが凍りつく凶悪な笑みを浮かべて、少女はそう言った。
◆
「はぁ……」
執務室から少女とその護衛のベルタが出て行ったのを見送り、フリードは大きくため息をつきながら、崩れるようにして椅子に座り込んだ。
――視られたか、いや、きっと誤魔化せたはずだ。油断か慢心かは知らないが、太祖は私の目を見ようとしなかった。ならば太祖から視えたのは、恐れと畏れ、それだけのはずだ。それでも……それでもこの状況は……。
大変なことになった。最悪のタイミングだ。なにもかもが終わった。この世の終わりといった様子のフリードは、椅子から立ち上がると眉間に指を当てながら部屋の中をぐるぐると歩きまわる。
フリードの元々あまりよくない顔色は、さらに悪くなっていて蒼白に近く、今にも倒れそうであった。
――なぜこのタイミングで……。三郎太もだ、なぜ崑崙から来たことを隠していた。どうする……。
暫く部屋を歩き回っていたフリードだが、やがて立ち止まると、何かを決心したように顔を上げた。
――何を今更迷っている。構うものか、使えるものならば何だろうと使え、この国のためならば何だろうと犠牲にしろ。冷酷になれ。失敗すれば私は死ぬ。しかしどの道この国を変えられないのならば私の生に意味などないのだ。奴がここに来たのはむしろ好機。焦らず、しかし早急に、確実に成し遂げてみせる。
フリードの顔はまさしく皇帝のものだった。
自棄か、若さに任せた蛮勇かはともかくも、正しく民を思う皇帝のそれだった。
覚悟を決めた一人の男により、今事態が動き出そうとしていた。




