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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
第二章 神を捜すは山海の地
16/102

祭の後

「……」


 目が覚めた三郎太が見たのは一面の闇だった。

 しかし、目が慣れてくると、ここが三郎太が崑崙に来て以来寝泊りをしている部屋だとわかった。

 自分が布団に寝かされていること、全身に包帯が巻かれ寝巻きが着せられていること、体中の激痛とだるさ、そこまでを自覚した三郎太は目だけを動かして辺りを見回した。

 右を見るが何もない。左を見ると、それはあった。一尺九寸の脇差、和泉守兼定。

 三郎太は腹にぐっと力を込めると、怪我人とは思えない速度で左手を突き出し、兼定をしっかりと掴み、引き寄せ――られなかった。


「おーっとっと、駄目だよ三郎太さん。動いたら傷開いちゃうって」


 三郎太の左側に座り、兼定を掴んで離さないのはアザミだった。


「ぬっ! 貴様ッ! 離さんか!」


 三郎太は痛みを無視して起き上がり、改めて兼定に掴みかかる。


「あーもう!……みんなも手伝ってくれよ!」

 

 魔石の明かりがつけられ、三郎太は少女達が自分を囲んでいたことに気付いた。


「はいはい、三郎太さん、安静にしていましょうね?」

「ちょっとスミレ、急いで持ってきなさいよ」


 クヌギが三郎太の背後から両肩を掴んで強引に寝かせ、マツリが足を掴んで押さえつけた。


「おのれ! 戯け! うつけ! 間抜け! 痴れ者! 腐女! 女郎! 飯盛! よくもこんな真似をしてくれたな、何故殺さぬ、斬れ! 殺せ! 殺さぬか!」


 三郎太の怒りようは尋常ではなかった。

 しかし、情けで生かされ、なお数人がかりで押さえ込まれるとは、三郎太にとってはあまりにも侮辱であり、怒りようは道理であった。


「持ってきたよ~。アレ入れといた~。」


 スミレが場にそぐわぬ間延びした台詞と共に盃を持ってやってきた。


「すみません三郎太さん。祭のあとはこれを飲んでもらわないといけない決まりなんです」

「祭? 祭だと! 抜かせ小娘! 人を……士分をなんだと、このっ! 薄情者!」

「私達が噛んで造ったお酒ですよ~、元気が出るから飲みましょうね~」

「誰が飲むかこの大馬鹿者が! 今すぐに手を離せ。さもなくば全員、討ち果たすぞ!」

「このままじゃ埓があかないし、しょうがない」


 アザミは兼定を三郎太の手の届かないところに置くと、三郎太の腕を足で押さえつけ、空いた両手で三郎太の口と鼻を押さえ込んだ。

 空気を吸えぬ三郎太は、堪らず苦しそうに藻掻いた。しばらくするとアザミは手を離した。そして三郎太が空気を求めた瞬間を逃さず、スミレが強引に酒を流し込んだ。三郎太としては飲まずにはいられなかった。


「ゴホッ! ゴホッ! よ、よくもやって、ゴホッ……う、うむ……」


 外からみればあまりに非道い仕打ちであった。三郎太の怒りも一線を越えて、むしろ一瞬萎えてしまうほどの仕打ちであった。


「はーい、これで祭はおしまいっ!」

「あーやっと寝れるわ」

「三郎太さんもお疲れ様でした」

「この刀はちょっとの間没収な!」

 

 呑気に言葉を交わす四人を見て、もう三郎太はどうでも良くなった。


 ――悪夢、これは悪夢だ。そうに違いない。目が覚めたら和尚のもとへ向かおう、長兄に頼んで陰陽師でも紹介してもらおうか。近頃悪霊が悪さをしてきてたまらぬ。


「あっ、大人しくなった」

「ちょっとスミレ、アレ入れすぎたんじゃないの? 効きすぎじゃない?」

「えっちょっ、そんなことはないと思うけど……」

「三郎太さん、事情は明日全て話します。今はゆっくり休んで下さい。私達に付合わせてしまい、すみませんでした」


――おぉそうか、そうせい、そうせい。


 三郎太はもはや思考を放棄し、ただ目をつむって、悪夢が晴れるのを待った。



 翌日、三郎太は朝からずっと沈黙していた。

 クヌギが挨拶に来ても黙って目を瞑ったままで、食事にも手をつけなかった。

 包帯を換えると言ってもまったく動かず、傷の手当てをすると言っても、やはり動かなかった。

 これはどうしたことだろうか、まさか三郎太の心は本当に壊れてしまったか。それとも、厭世的になって、あとはこのまま何も考えぬ葦となって朽ちてしまおうと決心したか。

 無論、三郎太はそんなにめでたい頭の持ち主ではなかった。

 そもそも三郎太は厭世家というものを最も嫌っていた。

 少し受け入れがたい現実に直面したからといって、すぐに出家しようとする奴は腰抜けである。公家や商人ならともかく武士のすることではない。そう思っていた。

 では今、三郎太が外界からの刺激にまったく応えないのはなぜかといえば、一言で言って拗ねているからであった。

 そして、昨晩の三郎太の逃避は、限界を超えた精神が三郎太を守るために一時的に防衛機制を発動させただけであって、実質的に三郎太の心も肉体も現実逃避はしていなかった。

 その証拠に、朝、三郎太は日の出と鶏の鳴き声と、そして湧き上がる怒りとともに目覚めていた。

 しかし、段々とその怒りは萎え、今迄感じたことのない、形容しがたい感情に変わっていった。


――あやつらはとんでもない奴等だ、薄情者だ。数日とは言え、付き合いのあったものを血祭りに上げようとするなど、正気の沙汰ではない。そのくせ昨晩の態度はなんだ。まったく普段と変わらぬ様子ではないか。結局何がしたいのか。もしかするとおかしいのは俺なのか。あれがごく一般の人の感情の揺れなのか。


 三郎太はそんなことを考え、また、今日に至っても甲斐甲斐しく世話をしようとするのに理解が及ばず、ならば何故あんなことを……。と心の中で繰り返し答えを探り、そしてまた四人への不満を心の中でつぶやいたりしていた。

 しかし昼過ぎになり、尿意と空腹が限界を迎えると、それを契機として三郎太の頭の中に、わからないことは直接本人から聞けば良いではないか。という、当たり前の結論が導き出された。


「三郎太さん、気分はいかがでしょうか……」


 今までの三郎太の態度が心配になったのか、襖をちょこんと開けて、申し訳なさそうな顔でクヌギが入ってきた。


「……厠へ行く、飯も頼む」

「はっ、はい!」


 顔を明るくして三郎太を起こすクヌギ。三郎太の態度はあまり感心できるものではないが、その経緯を考えれば、三郎太だけを責めることは出来なかった。



 僅かばかり粥をすすると、すぐに食欲は失せた。

 全身の傷は痛む上、ところどころ化膿し熱を持っていた。

 また、三郎太が気づかなかったところにも、大小たくさんの傷があった。

 苦しいのは当たり前であった。しかし昨晩大暴れをして傷口を開いたのは誰であったか。

 ふとみれば、布団も寝巻きも血まみれだった。


「布団も寝巻きも替えましょう。それと包帯も。薬も塗って差し上げます」


 三郎太はクヌギの言うとおりに従った。一度起き上がってみると言葉を発するのも辛かった。


 朦朧としながらされるがままに任せていると、クヌギが漆塗りの椀を持ってきて言った。


「薬をいれた白湯です。飲んでください」

「……うむ」


 食事は摂れないが飲み物ならなんとか飲めた。

 三郎太の身につく全てが新しいものになり、横になると気分も良くなり、少し楽に感じた。


「……昨日のは、何のつもりだ」

「全て、お話いたします」


クヌギは三郎太の枕元に座ると、話を始めた。


「血と戦の儀、あれは三柱の神と黄の神剣に捧げる神事です。建前でもなんでも、私たちの使命は炎との戦い。決して戦いを忘れないようにするための神事でもあります。そして、同時に私達、巫女の通過儀礼としての意味も持っています」

「確かに、巫女と呼ばれていたな」

「はい。巫女は四つの村から一人ずつ、同じ年の同じ日に生まれた娘が選ばれます。巫女はそのまま崑崙の長に育てられ、教育され、そして十四になったら独立して四人だけで生活します」

「……」

「巫女の仕事は崑崙の外の世界を巡り歩き、情報を集めることです。外に出られるようになるには、血と戦の儀を執り行い、成功させなければいけません。私たちはもう二回それに失敗していました。戦える人を捕まえられなかったんです。崑崙の周辺に住む人々はみんな警戒していて、この時期ここに近づきませんから」


――巫女とは素破、間諜の類か。いや、まさに武田の歩き巫女か。


「そこにあなたが通りかかったので……」

「捕まえた……ということか」


――なるほど、あの時俺を拾ったのは、やはり温情でもなんでもなく打算。そうであろうとは思っていたがな。


「あ、すみません。ちょっと話が逸れましたね。この神事は外部の人間と巫女達が、決められた時間、戦い、血を流す。そういう神事です。結果として相手の方のほとんどは死んでしまいますが、本来は殺すことを目的としていません。出来るだけ長く、しかし出来るだけ本気で戦うことが重要なんです。」

「何故黙っていた」

「昔は説明をしていました。しかし、年が経つと段々と談合をする人が増えてきたんです。それでは意味がない。と、そういう声が出て以来、相手を捕まえるのは出来るだけ祭の直前に、そして祭が終わるまで内容を話してはいけない。そういう決まりができました」

「俺を殺そうと思えば殺せたか」

「……はい。機会はいくらでもありました」


――やはりそうか、どの傷も浅いものだった。本気でやろうと思えばいくらでも致命傷に変えることができたというわけだ。


 殺そうと思えば殺せた。その事実に三郎太は怒りはしなかった。むしろ情けで生かしたわけではないと知って僅かに安堵していた。


――己が武士の職務を全うするように、この娘たちも己の職務を全うしただけだ。


 そう思った。それにクヌギが偽ることなく真摯に答えたことも嬉しく感じた。

 しかし同時に自分の未熟も痛感していた。

 本来なら、相当の訓練を積み、一糸乱れぬ兵法を身に着けたこの四人に対して善戦したことは、誇ってもいいほどのことであるのだが。

 三郎太は次に、一番気になっていたこと、もしかすると俺を殺すことになるということに、躊躇いはなかったか。何も思わなかったのか。そう聞こうかと思ったが、よく考えてみるとあまりに女々しい質問だと思って止めた。


「ここは……アヅマか」

「その名を……知っていたんですか。……ええ、でもそれは蔑称なんです。外から、私たちに対する」


 蔑称。つまり、外から見た崑崙は人殺しや人拐いをする危険な連中。そういう印象であるということだった。


「私たちは山奥で暮らす、非常に数の少ない一族です。だから巫女は外に出て情報を集めたり、資金を稼ぐ。既に何組もの先輩達が外で活動しています。期間は決まっていませんけど、戦えなくなったら帰ってきて巫女を引退し、村で仕事をします。そして村人も老若男女問わず、皆一騎当千の強者揃いになっています」


――戦国の伊賀や甲賀に似ているのかもしれないな。


「男を篭絡したり、殺しや人拐いをして生計を立てているということか」


「殺しや人拐いのイメージは昔の、大戦の時のものなんですけどね。それと、ふふっ、男を篭絡といっても、外では三郎太さんが考えているようなことはしませんよ。事の最中無防備なのはお互い様。その後だって、対策しても出来てしまったら、しばらくその巫女は離脱しなければならなくなります。不利益も危険も大きいですからね。」


 そんなことは考えていない。とは言えなかった。一瞬、夜這いをかけてきたスミレの姿がちらついたのだから。

 それよりも気になっていた単語が出てきた。


「大戦か……。何度か聞いたことが有る。なんだ、それは」

「過去に二度起きた大きな戦争です」


 クヌギは概略を話しはじめた。


 一度目の大戦は二百年ほど前、王国内の内乱で始まった。

 いくつかの都市で、民衆が領主や王の圧政に対して蜂起し、反乱は王国全土に渡った。

 中には自ら民衆に実権を渡して反乱を支援する領主も現れ、それら都市は同盟を組み、連合を名乗った。

 それを契機に王国は二分された。そこに王国の周辺の都市国家や、中小の国家が介入したことで戦いは世界中に広まり、崑崙は連合に協力して暗殺や誘拐、情報収集を担った。

 十年間の戦いの末、王国は倒され連合が残った。そして、周辺の国々や王国の一部を切り取って急速に拡大したのは、王国の西方にある国、元都市国家ヴォルフス。魔人を擁しているといわれ、一度目の大戦では常勝無敗だったという。

 二度目の大戦は百年ほど前、拡大を続けるヴォルフスが連合との間にある都市国家群を併合しようと迫ったことがきっかけだった。都市国家群は連合への参加を表明し、連合はそれを受け入れ、それに怒ったヴォルフスが都市国家群への侵攻を始めた。それに再び周辺の国も介入し、崑崙も連合に協力した。

 戦いは七年間続き、最終的にヴォルフスは都市国家群の併合には成功した。しかし損害はあまりに大きかったという。連合は都市国家群を守れなかったものの、元々の領地が奪われたわけではなく、被害もヴォルフスに比べれば少なかった。


「なるほど……」


 まだ碌に回復していないのに、少し活動しすぎたのか、三郎太の顔色は悪い。


「すみません、ちょっと長話が過ぎましたか」


――うーむ、話はちゃんと聞けたが、どうにもだるい、熱っぽい。


「すまぬが、少し寝る」

「はい、ゆっくりお休みになってください」


 体はだるいが心は晴れていた。崑崙のことや少女達のことを少しでも知れたことが、三郎太にとっては嬉しかったのだった。



 その後も数日間。少女達は代わる代わる献身的に三郎太の世話をしていった。

 三郎太にとって意外だったのは、最も三郎太に尽くしたのがマツリであったことだ。

 ちなみにスミレの世話の時は、三郎太は朦朧としていてほとんど何を言っているのかわからなかった。ただうるさくて面倒だった。


「すまんな、臭うであろう」

「……別にいいわよ」


 今、三郎太は厠に行くためにマツリの肩を借りていた。


――いくらか体を拭いてもらってはいるが、もう何日も風呂に入っていない。それにこの傷の膿。若い娘には堪えるだろう。


 三郎太はらしくもなく、そんな気遣いをしていた。


「あぁ、すまんな。ここで良い」


 厠の前につき、そう言って自力で歩き出す。しかし支えを失った体は、壁や扉を頼りにしなければ満足にに進めないほどふらふらしていた。


「ちょっと大丈夫なの!? あなた一人でできる? てっ、てっ、ててて手伝ってあげようかしら!?」


 顔を赤くしながら言うマツリ。


「……いらぬわ」


 何を言い出すのか、今までに何度も一人で済ましておる。

 そこまで言って、いつも通り用を済ませると再び肩を借りて部屋まで戻った。


「お主のような奴は、人の世話をするのが嫌いなのではないかと、思っていた」


 布団に横になった三郎太が言った。


「別に……そんなことないわよ……」

「そうか」

「そうよ」

「……」

「……ねぇ」

「なんだ」

「祭の日の事。私、最後のあの時、本気であなたを殺そうとしたわ」


 何が言いたいのか、何を考えているか、三郎太はなんとなく察した。


「俺もスミレを殺すつもりだったぞ。そういうものだ」

「何も知らないあなたを神事に巻き込んだこと。それについては、私は後悔してない。あの達もきっとそう。だけど、あの娘達は冷静に、あなたを殺さないように、だけど本気で、考えて戦おうとしてたわ。私はあの瞬間、一人だけ熱くなって……」

「ならば、なお良し」

「えっ……」

「俺は終始熱くなっていたわ。お主らと、ここの人間を可能な限り殺すためにな。それなのに相手は余裕綽々、段取りを考えて戦っていたなど侮辱も良いところだ。勿論、お主らには巫女として、神事を全うする責務があるのだから、それに従い、段取りを取って戦ったことを俺は責めん。もしお主が一人、冷静さを欠いたことに責任を感じているのならば、それは他の三人に向けるものだ。俺の知ったことではないわ」


 疲れた。寝る。

 珍しく饒舌に語ったことで気恥ずかしくなったのか、三郎太はそれだけ言うとそっぽを向いて寝始めた。


「まったくもう……。そうね、そうよね。ありがとう。また来るわ」


 そう言うとマツリは出て行った。三郎太は最後のマツリの言葉や雰囲気にどこか大人びたものを感じ取った。それは今までのマツリの印象と違っていたので、少し驚いたのだった。



 数日間の看病が実を結び、三郎太はだいぶ普段の元気を取り戻し、熱も徐々に引いていた。


「祭の後ってのもあって、私たちも忙しくてな~、ホントはみんなで三郎太さんの看病したいんだけど」


 三郎太の背中を拭きながらアザミが申し訳なさそうに言う。


「いや、構わぬ」


 三郎太としては一人で充分すぎるのだった。そもそも、弱った姿をあまり人に見せたいとは思わっていなかった。幼い頃、風邪をひいた時に、母がつきっきりで看病してくれたことさえ煩わしいと思うほどの男である。もちろん三郎太とて人の子、煩わしくもあるが嬉しくもあるのだ。


「たしか、兼定を取っていったのはお主だったな」

「うん、私が持ってるけど……」

「返してくれぬか、別に悪さなどせん。そもそもこの体でお主らに勝てるものか」


――どうにも近くに刀がないと落ち着かぬ。


「いや、別に三郎太さんが私たちになんかするんじゃないかって思って取り上げたわけじゃなくてさ……」

「ではなんだ」

「お腹の傷」

「むぅ……」


 神社で気絶した三郎太の服を剥いで手当をして、寝巻きに変えたのはこの少女達なのだから、傷の存在を知らないはずがなかった。そして少女達は戦いのことも武器のことも教育されている。腹に刻まれた真一文字の意味するところを、およそ察したのであろう。


「やっぱり、アレは自分でやったんだな」

「そうだ、命より名を選んだ。それだけの話だ」

「ふ~ん、あの夜も、私が取り上げなかったら名を選んでたのか?」

「そうだ」


――嘘偽りを言ったところで無駄であろう。きっとこの娘達の洞察力の前には無力だ。

 

 そう判じた三郎太だが、三郎太の嘘は特別バレやすいから娘達の洞察力は関係ない。


「いッ……! な、何をする、馬鹿者!」


 突然傷口に指を押し当てられて、三郎太は悶絶した。


「はぁ~あ。ま、いいや。今回は何であの刀を返して欲しいんだ?」

「刀がないと落ち着かぬ。いつか手入れもせねばならん」

「……嘘もついてないし良いけどさ。でもその代わりに、まだそんなに動いちゃダメだぞ。手入れはまた今度だ」


 アザミになんとか妥協してもらうことに成功した三郎太は、これで落ち着いて養生に励むことができる。そんな奇妙で呑気なことを考えていた。



 しばらくしてアザミは兼定を持ってきた。


「はい、これ。一応回収したあとキレイにはしてあるから、傷んだりってことはないと思う。いいか? くれぐれも……」

「わかったわかった」


 三郎太は本心から今、腹を切るつもりは無かった。

 アザミが出て行ったのを確認してから、なんとか上体を起こし、兼定を抜いた。

 その傷付き、所々欠けた刀身を見た三郎太はしみじみと思う。


――この刀は、きっとこうして今までずっと、その身を犠牲にして先祖の刃となり盾となり、忠を尽くしてきたのであろうなぁ。


 この和泉守兼定は三郎太の祖父から三郎太に渡された、先祖伝来の名刀だった。

 しかし、三郎太が蛇切逆安珍を手にして以来はずっと日陰者だった。

 兼定にしてみれば、清浜家にずっと仕え続けている己が、若輩の主人に、時には手入れを忘れられ、時には貴様の背丈では不足じゃ。と言われて冷遇されるなど我慢ならないことであろう。

 しかし、兼定は忠臣だった。若輩の主人が腹を切ろうとした時には、まだその時にあらず。と、天に働きかけて決して主人の命を奪わなかった。また、その主人が愛刀を失い、都合よく己に頼ろうとした時でさえも、不満の様子は一切見せずに、今までの主人にしたようにその身を捧げた。

 三郎太は暗愚の主人ではない。どうして忠を以て仕える者に、信を以て応えないことがあろうか。


――天晴れ天下の忠臣よ、いや、忠剣か。真にこの三郎太に過ぎたる名剣。家宝としないでなんとするか。


 三郎太の賛辞は、彼にしては大仰すぎるというか、おべんちゃらにも聞こえるが。どれも本心であるし、三郎太の心は正しく兼定に伝わっているのだから問題はない。

 三郎太はたまらなくこの刀に親愛の情が湧き、今すぐにでも手入れをしてやりたいと思ったが、狡猾なりアザミ。三郎太が知らない内に荷物袋ごと手入れ道具を持って行ってしまっていた。

 どうしようもない、近いうちに手入れをしてやろう。欠けた部分も腕のいい所に修理に出してやろう。そのために一日でも早く回復しよう。そう心に決めて、もう一眠りすることにした。

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