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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
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異世界武士物語

 火焔は天を焦がすほどに立ち昇り、弾けては飛び出す火の粉は、戦士の魂を乗せて宙に踊る。

 連合首都の民は、戒厳令も忘れて城壁に上り、暗闇に浮かび上がった火焔の山を見た。

 時刻はすでに薄暮を過ぎ、当たり前の世界の法則が、夜の帳に手をかけて、今にも世界を包み込もうとしていた。


 城壁には民と兵士が混在しつつ満ちていた。軍令など行き届くはずもない雑踏の中に、声はなかった。誰もがただ一点、燃える山を見ていた。世界を震撼させた魔群の牙城が焼ける姿に、歓喜の声を挙げる者はいなかった。

 母親は知らず知らずの内に、抱えた我が子を強く抱きしめていた。苦し気にむずがる我が子にすら気づくこともなく、母親は群衆と同じように、山を見つめ続けていた。

 恐怖に目を逸らし、声を挙げることができればどれほどよかったか。ただ沸き上がる形のない大きな不安の処し方を、誰も知らなかった。


 万人の怯えを一身に浴びながら、女は孤高に佇んでいた。

 輝く銀の髪を真新しい月光に晒しつつ、美しく整った相貌は、ゆらぐ火焔の陰影に撫でられるに任せている。砦の露台に立って眺めるのは魔群どもが夢の跡。

 昼間の喧騒とは打って変わって、平原を満たすのは静寂だ。

 時折、焼かれた木々の弾ける音が、いっそうそれを引き立てた。


 いったいどこまで焼くつもりなのだろうかと、茨木童子は呆れ半分に思った。

 本来のそれではないといっても、この光景を作り出したにとってこの霊山は棲処であり、依り代であるはずだった。

 それを奪い取ったのは自身にほかならないが、それにしてもである

 雷霆に引き起こされた火焔はぐるりと山を取り巻いて、もはや羽虫の一匹すらも生かさないという構えだ。

 思い返せば、あの日に相対した彼にこれほどの力は残されていなかった。

 彼は遠く忘れ去られて、どこにでもありそうな――ともすれば『魔』とも呼ばれるような――山と森の神秘のひとつに過ぎない存在となっていた。

 だからこそ誘いをかけたのだが、彼はそれに乗ることはなく、あの男を選び、往年とまではいかずとも、十分な力を取り戻して帰ってきた。

 彼をしてそうさせたほどの、あの男の信仰いのりとは如何ほどのものなのだろうか。

 脳裏に男の姿がよぎると同時に背後で鳴った物音に、茨木童子は首を傾げて振り向いて、言った。


「……あら、満身創痍」


 のっそりと現れた渦中の男の見てくれは、戦いにつぐ戦いの果てに、みすぼらしいものとなっていた。

 インバネスさえ失い、全身に戦いの痕を負いながら、石のように固く握りしめた拳で血刀を提げる姿は幽鬼に近しい。

 表情は静謐を貼り付けようとしてむしろこわばり、肩を揺らす大きな呼吸から余裕は感じられない。

しかし、それでも――。


「清浜三郎太」


 その名を口にすると、心臓は高鳴り、血潮は沸き立つ。

 久しく忘れていた感覚に、茨木童子は笑みを浮かべた。





 彼女がそこに一人佇んでいることを、三郎太は意外には思わなかった。


「随分な有様ではないですか。落ち武者かしら。とても、勇者とは呼べませんね」


 燃える城砦に退路を断たれ、それでもなお不敵に笑う姿を、相応しいとさえ思った。


「あなたがここに現れたということは……北竟大帝は敗れましたか」

「…………」

「――いえ、一概にそうとも言えなさそうですね」


 視線は、黒く染まった左腕に向けられている。


「芯の折れるほど徹底した敗北を味わったのか、何か一つ、果たすべき欲望を見つけたのか、それとも……救いを見たのか」


 探るような視線と物言いに、三郎太は答えなかった。

「まぁいいでしょう」と、茨木童子は嘆息とともに瞑目した。

 まさか北竟大帝の冥福を祈りなどはしないだろうし、悼みもしないだろうが、それでも同胞の最期に思うところがあるのだろう。面持ちに偽りは見えなかった。

 やがて静かに眼を開いて、茨木童子は告げた。


「認めましょう。あなたを」

「…………」

「あなたは反吐が出るほど武士らしく、あらゆる手を尽くして北竟大帝を打ち破り、私の願いを踏みにじり、彼方あちらの世界を守ってみせた。――見てごらんなさい、この景色を」


 足元で燃える神威山、骸の横たわる平原。不安に沈黙する連合首都――――三郎太の道の終着点の景色。


「『本当なら燃えているのはお前たちだったはずなのに』――って、さっきまで悔し泣きしていたのよ」


 とてもそうとは聞こえない声音で、茨木童子は言った。


「けれどよかった。最後の最後に、あなたが来てくれた――これで、私の勝ち」


 にわかに、悪意が三郎太の全身を覆って、背筋を凍らせた。

 悪童のような笑みとともに吐き出された宣言は、閉じた口から、伏せた眼から、それでも隠し切れない歓喜の漏出だ。


 この鬼は、まだ何も諦めていなかった。


「生きてさえいれば……って思わない? ええ、思わないでしょうね、あなた達は」


 茨木童子は皮肉気に冷笑を浮かべて、吐き捨てるように続ける。


「私達を阻み、彼方あちらの世界を守ったところで満足していればいいものを。お仲間を集めてあの山へ凱旋していれば、あなたたちだけは安楽に過ごせたというのに。のこのことこんなところまでご苦労様。ハッピーエンドを棒に振ったのよ、あなた」


 カラリと音を鳴らしながら。茨木童子は立てかけてあった獲物を手に取った。

 装飾のない、鋲を打っただけの無骨な鉄棒かなぼう

 古の聖人を討った槍を融かして作られたというそれは、ただ壊すことしかできないが、信仰いのりさえも壊すことができる。


「生きて帰すつもりはないわ。『勇者』はここで死ぬ。世界を救い、人々を守った勇者の灯明は残さない。城壁の内を満たすのは利己心と猜疑心。世界に渦巻くのは、虐げられ、立ち上がり、なお敗北した魔物どもの怨嗟。すでに私の子飼いは戦場を離れ、各地へ散っている頃合いでしょう。あなたの積み上げたものは、あなたの死によって全て崩れ去る。すべて徒労に過ぎないのですよ――ようこそ、混迷と戦乱の時代へ」

「…………」


 茨木童子の言葉は、きっと真実だ。

 彼女は何も諦めていない。

 三郎太を殺し、その死体に唾を吐きかけて「ざまあみろ」と言い捨てて、あとはどのような手段を使ってでも燃える山から逃れるつもりだ。そうして、かつて八百年そうしたように、再び復仇の旗を掲げる機会を待つのだろう。


 そしてまた、覆水盆に返らず――起きてしまった現実は変えられず、失ったものは取り戻せない。

 人々は短くも凄烈だったしゅの戦争を忘れることなどできないだろう。

 青天に刻まれた亀裂を、繕うことなどできないだろう。

 世界は決して元には戻らないだろう。


――これが、俺の道か。


 受け入れがたい現実を受け入れて、噛みしめて、しかしそれでも心中に一つの波風も立たないことを自覚したとき、三郎太は、はじめて己に少しも生きて帰るつもりがないことを知った。そして、その直後、前触れなく脳裏に浮かんだのは、崑崙で帰りを待つ彼女たちと、敬愛してやまない二人の魔人の姿だった。


――なにも、はじめからこうするつもりではなかったのだ。


 言い訳がましく、三郎太は詫びた。

 真実、そこに帰る場所があればよいと思ったから、惰弱な性根を励ますために、彼女達を山に残したのだ。

 決して負けるわけにはいかない戦いだからこそ、このような采配となり、最後は単騎となったが、誰よりも信を置くからこそ、二人に戦場を任せたのだ。


 彼女らの姿を思い浮かべているうちに、ふと気づいた。

 柄を握りしめていた、石のように固まっていた拳がほぐれている。

 恐怖も、緊張も弛み、全身の疲労感も嘘のように消えている。

 三郎太は「単純なものだ」と、薄く微笑んだ。


「茨木童子――」


 その怪訝な視線を浴びながら、三郎太は逆安珍さかさあんちんを羽織の袖で拭うと、鞘に収めた。


「――魔人の言葉とは思えぬぞ」


 言いつつ前紐に手をかけ、今度は羽織を脱ぎ落した。


「果てなき世界の騒乱が望みであるならば、お主こそ、尻尾を巻いて逃げればよかったのだ。もっとも、『人』を憎むのも、武士を怨むのも、魔人おぬしの拘りであるのならば、しようがない。結果として、わざわざ燃える砦に俺を待っていたのも、理解できる。しかしな、仲間に意思を託して山から降ろすに至っては、承服できぬぞ」


 敵を前に籠手紐を緩めつつ語るさまは隙だらけで、武人にあるまじき振る舞いであったが、茨木童子に踏み込み撃ちかかってくる様子はない


「もしやおのれが討たれるやもしれぬと、ついに気づいたか。それにしても、次代に託すとはな。俺は同感だが、そうするのは史を刻む人間われらばかりと思うていた。お主らは、おのれ一代に欲望を背負い、それと心中するのではないのか」

「…………」


 宿命づけられた長命を持ち、超人的な力を内包した彼女は、はっとしたように目を丸めて三郎太を見返した。

 三郎太は詭弁を自覚していた。仲間を放ったのはより広く混乱を撒くためであるとも、十全を期すためであるとも言えたはずだし、そう言われればそれまでだった。

 しかし、無意識を指摘された狼狽を見せる彼女は、まごうことなき意外の表情を浮かべていた。


「それと、お主の手下……土蜘蛛か」

「…………」

「今しがた、二人を斬った。父母に貰うたこれと引き換えにな」


 三郎太の右目は縦一文字に口の端まで刻まれた創に潰されて、その切り口は額の鉢金から始まっている。

 もしも、形見の鉢金がなければ、顔面を割られて斃れていただろう。片目を失っただけで済んだのはむしろ僥倖だった。


「あと、何人だ」


 三郎太は平然と言い放ちつつ、解いた籠手を左右に落とした。

 どちらが鬼ともわからぬ科白せりふに、茨木童子が絶句したのも無理はない。


「軽いな」


 革の胴を足元に置き、外した鉢金を懐に押し込むと。三郎太はそう言った。


「俺は俺の道を貫いたまでと思うているが、その中でも、お主らが勇者の役割と呼ぶものについては、もはやこの際どうでもよい。北竟大帝が討たれたいま、お主にとってもそれは同じはずだ。題目を云々など、今更に過ぎよう」


 北竟大帝は敗れ、此方と彼方の世界を横断する野望は挫けた。

 今、相対している二人のうちどちらが斃れようとも、現れる影響は此方の世界に留まる。

 ともすれば、火焔の中に立つ当事者だけが、興奮状態の中で陶酔に浸っているだけで、此方の世界に与える影響すらも、大勢にくらべれば微々たるものかもしれない。

 しかしそれでも、互いが一歩も譲らないのは、そこに戦う理由があるからだ。


「――その首級くびがいる」


 だからこそ、三郎太は燃える城砦に臨んだのだ。


「……ええ、そうね」


 突き詰めれば、茨木童子も三郎太と変わらない。

 武士こそが仇なのだ。武士を標榜する三郎太が憎いのだ。だから、彼を殺さねばならないのだ。


 小袖と袴だけの姿になった三郎太は、両腕をだらりと自由にしたまま。眼差しだけが、見たことのないほど据わって茨木童子を捉えている。

 それに対するように、茨木童子は双眸を鋭くして、鉄棒を得意の下段にとった。


 その時、山の頂上に広がる葦の原に、火が付いた。

 火焔は勢いを増すばかり、まさに火の原にえるがごとく、火の手はたちまちに砦の足元にまで達した。

 途端に、呼吸すらも難しくなった。三郎太は当然、茨木童子すらこの火焔から逃れられるかわからない。


「彼奴め、いよいよ命一つも残さぬつもりだな」

「そうなる前に、私があなたを殺す。……あなたという存在が、目の前から消えなければ、我慢ならない」

「迂遠な復讐よりも。よほどわかりやすかろう」

「心根をへし折る代わりに、全身を滅茶苦茶に砕いてあげる。ばらばらに引きちぎって首都に投げ入れれば、溜飲もさがるかしら」

「鬼道は知らず」


 さっと、お互い示し合わせたように歩を進める。

 あと一歩で、鉄棒の間合いだ。


「最後に一つだけ、聞かせよ」


 茨木童子は、無言で先を促した。


「お主が此方こちらに迷い込んでから、幾星霜――潜むさなかにも数多の人民とかかわり、その生涯に意味を与えてきたことも、数えるばかりとはいかぬだろう」


 彼女が、偽りであったとしても、聖女として振舞った事績の数々は顕著だ、紛れもなく連合の民を導く指標となっていた。業腹だが、救われた者もきっといた。

 限りなく、本物の『聖』に近かった。だからこそ、大総統を動かし、民衆を扇動することが出来たのだ。


「数多の人の生死を見てきたはずだ。数多の道を知ったはずだ。自覚がなくとも、お主は歴史とともに歩んだのだ。それになにより――」


 言葉尻が、女々しくなっている。


「――お主は、マリアとも、出会うた」


 だがしかし、恥を堪え、恐れを抑え、三郎太は聞かないわけにはいかなかった。


「然して、それら全ては、野望の前に掃いて捨てるほどの……塵芥であったか」

「――――」

「……左様か」


 口にすれば、やはりあまりに女々しく、愚かしい問いだった。

 返された答えは――『肯定』。

 無言の中に、確固たる意志が、燦然と輝いていた。鋼の『魔道』がそこにあった。


「茨木童子、八百年の先達よ。お恨み申し上げる」


 掲げた灯明の足元に、対極の闇があることなど、とうに知っていた。

 しかしそれでも、失われた命と、損なわれた思いに、数多の価値があったことを証立てたかったのだ。

 愚かだが、しかし捨てられぬ童心が、光があまねく闇を払う希望を、忘れられなかったのだ。


「聞け、鬼。『我が名は頼孝ライコウ――」


 だから、三郎太は『呪い』を吐いた。

 相互の無意識下の同意が魔法を発動させる。

 淫魔の『夢』や形代を用いた『厭魅』と同じ法則がもたらす魔法じゅじゅつ

 互いに互いが何者であるかを知っているからこそ、引き寄せられる必然があった。


「――ここが貴様の大江山だ』」

「あぁっ……!」


 身に起きた異変に、茨木童子はさっと一歩退しりぞいた。逃げ道を盗み見た。

 わななく右腕から力が失われ、視界は強く殴られたようにぐらついている。両の瞳に映すのは動揺と逡巡。

 しかし、それも一瞬のこと。次の刹那、彼女の脚は地も割れんばかりに踏み出していた。


横道おうどうっ……!」


無念の叫びとともに繰り出された鉄棒はむなしく空を裂く。

三郎太が逆手に抜いた脇差の銀閃が、吸い込まれるように、鬼の首を薙いだ。







 その蜂起クーデターが起きたのは、マイアの月の初日のことだった。


 魔群の騒乱が収束してからおよそ一月。魔群の組織的な活動は見られなくなり、反乱を起こした崑崙も軍兵を引き上げて静謐を保っているとはいえ、被害状況の把握と復興への道筋はいまだ暗中模索の頃の事だった。

 蜂起の発端は、その一週間前に起きた、連合大総統の自裁にあった。

 騒乱の責任を取ったとも、大聖女の死に直面して精神を病んだためとも噂されるが、ともかく、未曾有の有事に連続する権力者の突然の死は、政府内に醜い権力争いを現出させた。

 そして、勝者となったのは大教皇オケアヌス四世を戴く『教会』だった。

 大聖女の遺志の継承者を自負するかれらは、故大総統を列聖するとともに、開拓と崑崙討伐を前面に押し出したが、あの日の戦場で連合政府の公式発表とは異なる現実を目にした数多の騎士や、早期の復興と平穏を望む民衆からの支持は得られなかった。


 政争に敗れたマクシミリアン・オブライエンと麾下の近衛騎士団によって起こされた蜂起は、教会政府の不安定な立場を衝いたものであったが、しかしあまりに拙速だった。

 側近にしか計画の詳細を伝えなかったために、蜂起は連携の欠いたものとなり、一両日中に鎮圧され、マクシミリアンの首は城壁に晒されることとなった。

 それでも、マクシミリアンの蜂起は、連合に与えた、最後の致命傷となった。


 魔群の騒乱、崑崙の反乱、そして賊首清浜三郎太に対する極端なタカ派的主張と現実的な政策よりも理想の追求を掲げる政府に対する反感、なによりも、三人の女学生が明らかにした聖女マリアの死を巡る、政府の二転三転する説明に対する不信は、苦境の中で増幅しており、ついには崑崙に続いて連合から離脱する都市を生んだ。

 口火を切ったのは、都市アヴァロンであった。そして、蜂起の失敗により逃げ散った騎士、下野した元貴族の有力政治家、政争を避けた大商人が地方に移った結果、地方都市の独立は進み、アヴァロンを中心に、連合に対する『神聖同盟』が結成されるに至った。

 神聖同盟は主に連合の北東部に集中していたが、武装中立を宣言する都市もあり、地図の上では斑色の内戦の様相を呈していた。


 大総統の死の数日前、もう一つの事件があった。

 隣国ヴォルフスに置ける。皇帝フリード・ザイルの死である。

 しかし、それそのものは、必ずしも悲劇ではなかった。

 確かに、生来病弱な彼は、分裂する国家を繋ぎとめるのに、残された生命を費やしたが、ついに目的を達することなく病に倒れた。大貴族の跳梁する首都への帰還は叶わず、ハーゲンハウゼンの離宮でその短い生涯を終えた。

 だがそれでも、彼の傍には、手を握る最愛の妻があった。滂沱の涙を流して傅く臣下があった。そして、ほかならぬ彼本人の最期の表情には、未熟でも天寿の限りに為すべきこと為した満足があった。葬列は荘厳かつ勇壮で、遺詔は偽られることなく実行された。


 彼の身重の妻――皇太后が子を産むまで、ヴォルフス皇帝は空位となった。

 皇帝の近臣であった閣僚の合議で決せられる政治に、フリードと対立していた大貴族は反発を強めた。

 貴族の選挙による皇帝の選出を望み、それが容れられぬとなると、大貴族たちは地盤となっていた都市に拠って独立を宣言し、ヴォルフス連邦を名乗った。

 おもてだって軍事衝突は起きなかった。連邦は帝政の自壊を待っていたし、事実、帝政の屋台骨はボロボロで、連邦を制圧する武力など持ち合わせていなかった。


 事態を急変させたのは、誰も想像だにしていなかった、太祖の帰還だった。

 盲目の姿となって帰還した太祖は、ハーゲンハウゼンの離宮において自らを追ったフリードの遺詔の支持を表明し、皇太后と未だ生まれぬ赤子の後見人となることを宣言した。

 太祖の帰還は熱狂的な保守派の帰順とザイル一族の結束をもたらした一方で、急進的な自由主義者の離反を招いた。

 ヴォルフスは帝政、連邦制、共和制の三つに分かたれたのであった。


車轔轔馬簫簫くるまりんりんうましょうしょう、行人の弓箭各々腰にあり――」


 連合もヴォルフスも世界全土が、混迷の渦中にあった。

 はるかに頭上を覆う偉大なる天は、魔群の騒乱に疲れた世に平穏を許さなかった。


「――諸人、相交伐して世上あたかも戦国の如し」


 神仙魔獣の跳梁跋扈する神代の秩序は覆された。

 人の世の、戦乱の時代の到来である。


「それでも戦国は、人の業だ。おのれらの為したことと思うでないぞ。――茨木童子」


 戦乱とはおよそ似つかわしくない、穏やかな陽光の差し込む、山間の集落クニ

 集落を見渡す山の斜面に、ぽつんと建てられた無銘の石塚を睨み据えながら、清浜三郎太はそう言った。





 あの日、燃える城砦から如何にして逃れえたか。実のところ、三郎太自身も覚えていない。

 明確に記憶しているのは、斃れ伏した茨木童子の首を掻き切り、扉に打ち据えて梟首としたところまでである。

 それから、せめて身体からだはどこかへ埋めて供養してやろうと、肩に背負って歩き出そうとしたところで、視界は暗闇に包まれた。次に目を覚ましたときには、崑崙衆に囲まれて、板に縛り付けられた状態で運ばれていた。


「――節度使殿……? せ、節度使殿っ! 節度使殿、わかりますか!?」

「……田上たがみ

「ええそうです! 節度使殿、ご加減は!?」

「……田上、参陣の衆は、みな、揃うているか。討たれた者の亡骸も、取り返したか」

「……ええ、ご安心ください。フヨウさんだって、生きています」

「神宝は……旗と、胴はあるか」

「ええ、ございます」

「刀は、あるか」

「はい。どちらも、三郎太さんに脇にございます」

「……帰路は、お主が指揮を執れ。誰一人欠かすことなく、崑崙に届けよ」

「はい。……お休みください、節度使殿。もう数日のうちに、あなたの故郷さとです」


 崑崙には、茨木童子の身体も運ばれていた。

 三郎太の希望により、石棺に封じられたのち塚が築かれた。名を刻むことは憚られたが、無縁墓地の一角に彼女の居場所は設けられた。

 三郎太はよく、その石塚を詣でた。敗北した鬼と決めつけられて、「横道おうどう」と無念を叫んで散った彼女の、悲痛な表情が忘れられなかった。


 三郎太の回復を待って、ささやかながらやしろにて凱旋式が行われた。

 そして、その翌日の夜。三郎太は自決を試みた。


 凱旋式の翌日、まだ日の高い時分に、三郎太は自らの左腕を切り落とそうとしていた。

 肘から先の、真黒に染まった異形を忌んだためであるが、これはまだ、自らの死を企図しての事ではなかった。

 二の腕には固く布を巻いていたし、火鉢には熱した鏝もあった。監視役として、ティアナと蚩尤もいた。

 三郎太が、いざとばかりに脇差をあてがったとき、奇怪なことが起きた。

 左腕が、刃から逃れるように、ひとりでに動いたのである。


――惰弱な意思の、無意識に為すことか!


 振り下ろされた神速の業が真実を顕かにした。

 刃は、僅かに肌に沈んだが、奇妙な弾力に阻まれて、跳ね返された。

 真黒の肌には傷一つなく。無論、血の一滴も出ていなかった。

 その夜に、三郎太は自決を試みたのである。


――生かしてはおけぬ。


 己の中に巣食った魔性の正体は明白だった。


――後の世に禍根を残すくらいならば。


 と、意を決するのは早かった。

 己が己であり、武士であることを誇りとしてきた身である。

 魔性を宿し、人の尋常の道を離れることも耐え難かった。


――もとより、神威山にて灰燼となるべき命だった。


 しかし、腹に突き立てようとした脇差は、俊敏に割って入った左腕に阻まれた。


「おのれっ」


 咄嗟に刃を返し、喉を突こうと試みたが、それもまた、割って入った黒腕に塞がれた。

 三郎太は恐怖した。己の身体が、己の支配下になく。別の誰かによって動かされている。

 そうさせているものの正体とその悪意を知っているために、三郎太は途方もなく恐ろしくなった。そして同時に、燃える神威山から誰が己を救ったのかを知った。


「それが、貴様の執念か――」


 月光に照らし、忌むべき黒腕を睨む。


「――北竟大帝……!」


 三郎太を生かそうとする北竟大帝の狙いはただ一つ。

「清浜三郎太の価値セカイの全てを壊す」ことに他ならない。


 守りたいものはいくつもあった。全てを守ることはできなかったが、それでも守れたものは僅かではない。

 ともすれば、この黒腕はそれらすべてを、破壊してまわるために生れ落ちたのかもしれない。

 もしもこのまま、自決することなく寝入れば、瞬く間に意識を奪われて、清浜三郎太の体は太刀を引っ提げて崑崙に仇なすかもしれない。

 そのような短絡的な復讐でないのだとすれば、人として、武士として秩序の藩屏を名乗り続けた男に、魔性の証を刻みつけ、世に放逐することで、生き恥をさらさせようという企みかもしれない。

 いずれにせよ、


――もはや、生きてはいられぬッ!


 再び、脇差を握りしめ、黒腕に向けて告げた。


「姑息な真似を……。言ったはずだぞ、勝ったのは俺だ!」


 脇腹に刃を突き立てる。

 剣に伏す。

 腕でだめなら肩ごと切り落とす。

 ここならば届くまいと足首を薙ぐ。


 しかし、その全てが阻まれた。

 自決しようとしていながら、自ら抵抗するという、相反する行動のために、三郎太の身体は操り人形のように滅茶苦茶にのたうち回った。

 そして、同じ屋敷に起居する彼女たちが、それに気づくのは必然だった。


「あーまた! あんたって人は!」

「待て! 近づいてはならぬッ!」

「うっさい!」


 躊躇う素振りを少しも見せず、アザミとマツリが床を蹴る。

 三郎太は咄嗟に脇差を手の届かないところに放り投げた。

 直後、三郎太は蹴り飛ばされ、圧し掛かられ、スミレによって縛り上げられたのち、クヌギの平手打ちをくらった。


 蝋燭一本も灯さない暗闇の一室で、詰問が始まったが、事情の全てを白状すればそれまでだった。

 不意に降りた沈黙の中で、するりと、縄が解かれた。

「おい」と抗議を挙げるまもなく、異形の腕が優しく包まれた。


「わかりますか。三郎太さん」

「…………」


 ひとり、またひとりと、三郎太の腕に手が重ねられた。


「ほら大丈夫。なにも、起こらないじゃないですか」


 しんとした部屋にクヌギの声が透き通る。

 三郎太は強く、強くその手を握り返した。

 黒腕から伝わる柔らかで暖かな感触に、三郎太はただこうべを垂れるしかなかった。





 ティアナが崑崙を去ったのは、ヴォルフス皇帝崩御の知らせが崑崙に届いた数日後のことだった。

 彼女は崑崙の三人の若者の手引きで、誰にも悟られることなく崑崙を離れた。

 彼女に同道したのは夏景かけい、ツバキ、石行いわつらで、いずれも崑崙の中では実力者として知られており、征軍に従った勇士でもあった。

 三人がティアナに与していたことは、崑崙にとっては寝耳に水の事であり、かれらの上役はもちろん、家族ですら知らなかった。

 惣代らはヴォルフスの太祖の鮮やかな調略の手並みに舌を巻くとともに、崑崙の中から裏切り者が出たことに少なからぬ衝撃を受けていた。そしてその衝撃は、繰り出された追手が、かれら三人の抵抗によって手傷を負わされ、撃退されたことで戦慄に変わった。


 この間、三郎太は周囲が首を傾げるほどに、落ち着き払っていた。

 太祖一行に追手を差し向けることが決まったときも、顔色一つ変えることなく、


「崑崙の法に、従うのみでござる」


 と答えただけだった。

 その様子に、三郎太は太祖一行の逃亡を知っていたのではないかと疑った者もいたが、そうではなかった。


「……人たらしめ、いつのまに――」


 三郎太は何も知らされていなかった。別れの言葉は無かった。ただ、三郎太の枕元には一枚の半紙と一房の髪が残されていた。

 半紙には、


『大道を征く』


 と、記されてあった。


 意外にも最も狼狽したのは蚩尤だった。

 崑崙に戻って以来、蚩尤とティアナは三郎太に対することについては、行動を共にすることが多かった。

 怪我の治りきらない三郎太に「鬱憤晴らし」と言って殴りかかったときもそうであったし、自決未遂を聞きつけたあとも、三郎太を折檻するべく、二人は並んで乗り込んできた。


 大抵の場合、蚩尤が手を出し、ティアナが口を出す。三郎太も負けてはいない、蚩尤とは殴り合いになるし、ティアナにだって言い返す。無論、勝てたためしはない。


 微かな平穏のあいだには、太祖の姿はなりを潜め、童女のような振舞が多く見られた。

 よく三郎太に背中を拭くことや、目を覆う手拭の交換を求めていたし、そうするあいだには、必ず武勇伝を聞かせたがっていた。

 また、いつかのように三人だけで寝食を共にすることをねだることもあった。


 二人が、穏やかで、もはや過去となった日常を取り戻そうとしているのだと、三郎太にはすぐにわかった。二人が、決してそれが叶わないことを自覚していたことも、よくわかっていた。しかしそれでも、三郎太にとっては満ち足りた日々だった。

 蚩尤の動揺は、目的においても手段においても二人が珍しく一致していたからこそだろう。

 ティアナの置手紙を見せたとき、蚩尤は、涙さえ浮かべて「裏切りやがった!」と、痛ましいほど取り乱していた。

 一方で、三郎太は淡々とその現実を受け入れていた。

 むしろ、この結末は必然とすら思っていた。

 彼女は、すでに太祖だったのだから。





 穏やかな春が、終わろうとしていた。

 初夏の訪れを思わせる日差しの下を、清浜三郎太は歩いていた。

 大小を差し、脚絆をつけた真新しい羽織袴の出で立ちで、編笠を被り、傷つけられた右目は黒の練革の眼帯で覆い、左の黒腕には無地の綿布を巻いていた。

 そして、背には小さな荷包が結んであった。

 三郎太は人目を避けるように、集落の外縁の山際の道を進んでいた。

 坂道を登り切ったところで、三郎太は立ち止まり、一息を入れつつ、集落を見渡した。

 崑崙は一面新緑に包まれていた。生命いのちの季節が訪れていた。

 三郎太は、桜舞うほんのひとときの穏やかな時間の全てを崑崙に捧げ、いま、その終わりとともに崑崙を去ろうとしていた。


 集落の出口に差し掛かったところで、三郎太は、待ち構えていたかのように木陰に立つ、小柄な人影を見とめた。

 眉を怒らせた蚩尤が、口をへの字に結び、腕を組んでそこにいた。


「蚩尤」

「……なんだよ」

「少し、歩くか」


 集落を出た二人は、並んで山道へと入っていった。

 崑崙を構成する山々はそれ自体が巨大な城である。

 三郎太が歩む道は、上下左右にうねりつつも崑崙の外へと繋がる道であるが、そこにも縄張りの工夫がある。

 三郎太も、案内なく下りられるようになったのは最近のことである。


「また、こうやって、勝手に出ていくんだな」


 隣の蚩尤が、拗ねたように言った。


「またとはなんだ。此度のは違うだろう」


 蚩尤が詰ったのは三郎太の過去の所業である。

 三郎太は自らの過ちも悪癖も十分承知している。だからこそ、今度の出立については、惣代をはじめ、田上やフヨウなど崑崙の多くの面々に伝えていた。

 特に、クヌギ、アザミ、スミレ、マツリの四人については、ひとりひとりに決意を言い含め、許しを得ていた。


「俺は何も聞いてない!」

「お主のほうから、逃げ出したのではないか」


 三郎太は、蚩尤についても、四人と等しく別れを告げるつもりだった。

 だが蚩尤は、三郎太が話を切り出そうとすると、すぐにそれを察して逃げ出してしまうのだった。


「何度、お主を呼び止め、訪ねたと思っておる。三顧ではきかぬぞ」

「だって、だってさ……」


 蚩尤が足を止めた。

 三郎太は振り返り、うつむく蚩尤の顔をじっと見つめた。


「サブローが何を言っても、オレは絶対に納得しないから……」

「…………」

「けど、今日は、聞くだけは、聞いてやる……」


 今にも、泣き出しそうな顔で、蚩尤はぽつりとつぶやいた。


「なんでまた、出ていかないといけないんだよ。もう十分だろ。やるべきことは、やっただろ」

「――意地だ」


 蚩尤の問いに、三郎太は毅然とそう言った。


「意地……?」

「異形を抱えて身で、人間じんかんに安穏と坐すことは出来ぬ」

「そんなの、誰が決めたんだよ」

「俺だ」


 三郎太には蚩尤の言わんとしていることが痛いほどわかる。

 巫女も蚩尤も、三郎太の居場所はここにあるのだと、言葉に出さずとも、いつも示してくれていた。


「この腕は、北竟大帝からの挑戦だ。頭から爪先まで、母の股から生れ落ちた人の身で、人の世の外縁に立って武士の旗を掲げ、秩序の藩屏を名乗り、『魔』と戦った。その男に、異形を与えて、さてどうすると、ほくそ笑んでいるのだ。ならばこちらも意地だ。応とも、受けて立つ。魔の異形を得たのだから、人間じんかんは離れる。しかしそれでも、刻む道は武士の道だ。あくまで秩序の藩屏であり続けるのだ。人の世を脅かす『魔』がいるのならば、それと戦い続けるのだ」


 茨木童子が世界に撒いたという、騒乱の芽も気がかりだった。

 かれらが、再び立ち上がるつもりならば、三郎太は、その尽くを討ち果たすつもりだった。


「それに、連合のことも、気がかりだ」


 崑崙の密偵がもたらした情報によれば、あの戦いの後、大総統は大教皇と再編された神意執行会クルセイダーズを伴い、燃え尽きた神威山に入ったという。そして、焼け焦げた砦の露台に、梟首された茨木童子の首を見つけ、それを回収したのだという。

 彼女の首は、生きていたときと変わらず瑞々しかったとか、大総統をはじめ、彼女の首を直視したものの多くが発狂したとか、真偽の定かならぬ噂も聞こえたが、その中でも、連合が清浜三郎太を討つための刺客を養っており、すでに一部は放たれているという情報は聞き流すわけにはいかなかった。


 大聖女アウロラの仇討ちと言われればその通りであるが、大聖女そのものが偽りであることを知っている以上、無益な争いのようにも思えた。しかしその一方で、


――たわけ共が、推参なり。来るなら来い!


と、闘志が赫々とするのも、事実だった。


「闘いを避けるにしろ、受けて立つにしろ、このまま崑崙に居座るのは、甚だ都合が悪い」


 神聖同盟とも対峙しなければならない連合に、崑崙を攻める力はない。

 狙うとなれば三郎太ただ一人であって、三郎太が崑崙を去れば。崑崙に危害が加わる可能性は低くなるだろうという思惑もあった。


「――と、まぁ。恰好をつけた科白を、つらつらと並べてはみたがな……実のところ、理由は他にもあるのだ」


 三郎太は照れ隠しに、編笠はずして、額を拭った。


「俺が、生来なさけない性根の持ち主であることは、お主は重々承知していよう」

「だから、サブローは俺や巫女の傍にいなきゃだめなんだよ。ティアナはあんなだから、どっかに行っちゃったけど、それは放っておけばいい。天下とか国とかさ、そんなのは、サブローには似合わないよ」

「しかし、それでも――もう一度、会いたいと思うのだ」


 蚩尤は唇を噛んで、口を噤んだ。

 口惜しさと同時に、やっぱりそうかというあきらめも、見えた。


「恐ろしいとも。ティアナが太祖として君臨する姿を見るのは、やはり恐ろしい。もはや俺の知る彼女ではないかもしれないし、知っている通りで、俺ごときには全く相応しからぬ御仁のままかもしれぬ。会うてみて、頭を垂れるか刃を抜くか、それとも、いつかと変わらぬままか、俺にも分からぬ。それでもまた、会うてみたいのだ。それに、勇者どもの面構えも気にかかる」


「それとな――」三郎太はつづけた。


「手紙が、届いたのだ。アヴァロンから……カドリからだ」

「カドリから? そんなの聞いてないけど……」

「カドリが、崑崙の協力者に接触し、書を託したのだ。田上から俺が直接受け取り、一読後に火中に投じたから、内容は、俺のほか誰も知らぬ」

「……なんて書いてあったの」

「あの戦いのあと、カドリは財産を集めてさっさと首都を逃げ出したらしい。セシル、ノエリア、シオーネ、みな、無事だという。あの男、私財をはたいて貴族や学生の亡命を手助けしたらしい。大した商人ぶりだ」

「それだけじゃ、ないんでしょ」

「……あぁ」


 三郎太は、外していた笠を目深に被りなおした。


「……マリアも、アヴァロンに眠っておる」

「…………」

「あの三人が見つけ出してくれたのだ。もう未熟者とは呼べぬ。今更あわせる顔もない。何と言われるかもわからぬ。途方もなく恐ろしいが、やはりそれでも――いや、だからこそ、俺はあやつらに会わねばならぬ」


 蚩尤は、ついに、三郎太を止めることが出来ないと、悟った。


「泣くな、蚩尤」


 困ったように笑いながら、三郎太は言った。


「なにも今生の別れではない。たまには、崑崙にも顔を出す」

「…………」

「俺は、お主のことを刎頸の友と思い、頼りにしていた。無茶もよく言ったと思う」

「……うん」

「だが、まことは、そればかりではない。お主は、それでも俺にとっては先人であり、鑑であった。轍であった。そして……こういうのは、あまり好かんのだがな……俺は、お主の事を、真実、俺の兵主神ひょうずのかみ、俺の軍神いくさがみと信じていた。万難に立ち向かうときも、八幡と叫んで死地に飛び込むときも、諸神に祈って矢をつがえるときも、必ず祈りの先にはお主がいた。人の身に超えたことを、ずいぶんやったと自覚している。それも、我が背の守護の頼みがあればこそだ」


 三郎太は、依然不安を浮かべる蚩尤に、秘めた信仰いのりを、あえて口にした。

 一人の凡夫と肩を並べて信を結び、そのうえで「南無我が神」と信仰いのりを託されたのだから、炎帝蚩尤が、ただ世を壊し天下を覆すだけの魔人であるはずがないのだ。

 その炎帝蚩尤が、凡夫の情けない祈りを仕方がないと受け入れて、笑ってその背を見送ってくれるのならば、高楊枝ばかりの凡夫も胸を張って無双の勇士となれるのだ。


「だから俺は、此度も頼むぞ。俺がおらぬあいだ、お主が崑崙を守れ。なればこそ、俺もまたこの地に帰ることができる」

「うんっ……! うんっ……!」


 もはや、三郎太は振り返らなかった。背中に、わずかばかりの寂寥感を纏いつつも、これが異世界に刻む清浜三郎太の道であると、威風堂々、胸を張って山を下って行く。

 蚩尤は、何度も涙をぬぐいながら、三郎太の姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。


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