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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
101/102

黄昏

 氷に閉ざされた世界を見た。

 炎に焼け落ちた世界を見た。


「世界の終わりを見た――」


――はずだった。


 海は荒れ狂い陸に押し寄せ洪水を巻き起こし、海を割って死者がよみがえった。

 天は裂けて破滅の光が大地を覆い、燻りだけをあとにのこした。


――終末を告げる角笛の残響は、今も胸中に。


 あれほどの賢者が一呑みにされたのだ。

 あれほどの勇者が毒に斃れたのだ。

 知りうる限りのすべてが闘い、すべてが傷つき、すべてが滅んでいったのだ。


 世界が――終わらないはずがないのだ。


 北竟大帝は悪夢のような――目覚めとともに後悔と焦燥がこみあげる――まどろみから目を覚ました。

 重苦しい暗闇に閉ざされた一室であった。異臭に淀んでいた。

 二つある大きな扉の上部に設けられた格子窓だけが、かすかに光を取り込んで北竟大帝の輪郭をわずかに浮かび上がらせていた。

 格子窓は、唯一、暗闇と外界とをつなぐ手段だった。


 いつのまにか、終末の喧騒は尻すぼみの頼りないものになっていた。

 ならば、これこそが世界の終わり――そのようなはずがないことは、北竟大帝が誰よりも知っていた。


 水底から現れたのは死者の爪の船ナグルファルではなかったし、ついに冥府ヘルの扉は開かなかった。

 世界を燃やす炎は燻りもせず、運命に紐づけられた醜い闘争心は、他者を想い労わる誰かの輝きに照らされて隠れてしまった。

 鎖と呪縛が千切れて砕け、欲望を解き放ったのは『魔』の出来事で、『人』はまだ輝く理性を規範としていた。


「不出来で、醜くて、価値がない……」


 それは何に――誰に向けられた言葉だったか。





 外観だけを見れば、人の手にかかったことが理解される程度には、その砦には権威と機能美が宿っていた。

 だが、半ば開かれた大手門と、それをくぐりぬけた先に見えた光景に、三郎太は嘆息しつつ「たわけがっ」と悪態をついた。


 そこは砦とも屋形ともいうべきではなかった。いうなれば獣の棲み処。未開の野山に穿たれた洞窟となんらの違いもない、あさましい空間だった。

『魔』の多数派であるところの魔獣がたむろすれば必然の景色といえるだろうか。

 床には糞尿がたまり、食料となった哀れな犠牲者は壁に積みあがっていた。


 もっとも三郎太を苛立たせたのは、かすかに原型を留める調度の類であった。

 善意のまま砦の建設に従事した者の置き土産であるのか、『魔』に与した者の嗜好であるのか、はたまた魔人の中に人の芸術を理解するものが一定数いたのだろうか。

 掲げられた然るべき者の絵画も、つややかに輝いていたであろう書棚、椅子、机、絨毯。今は無惨に汚されたそれらの景色が三郎太には我慢ならなかった。


――『魔』一つを気取っておきながら、お主ら自身も結局このありさまではないか!


 所詮は決定的な価値観を異にする者同士。ならば、分限をわきまえて、秩序ある交わりを保てばよい。

 もっとも、三郎太のそのような価値観も、かれらにしてみれば侵略者の詭弁と聞こえるに違いない。


 二階に上がり大扉の前に立って、三郎太は息をのんだ。

 格子窓から漂ってくる異臭の中に、彼女・・の気配を感じ取ったのだ。

 少女の病んだまなざしも、甘い声音も、そして小さな体を斬った感触も、忘れることなどできるはずもなく、未だ生々しい。

 大扉の向こう、どす黒い暗闇の中に、因縁があった。


――臆しているのか、清浜三郎太。


 高まる鼓動を抑えつつ、大扉に手をかけた。

 体重をかけながら、両腕に力を込めると、重苦しい音とともに扉が開いた。

 一瞬、湿った暗闇が、三郎太を押し包むように迫ったかに見えたが、直後に差し込んだ光が、それを押し戻した。


「やぁ。久しぶり」


 三郎太の緊張とは対極に、北竟大帝は軽薄にそういったのだった。





「何を見ている?」

「山」


 ティアナの問いに、蚩尤は短く答えた。


「何が不満なんだ」

「べつに」


 蚩尤はまたも切り捨てるようにそう言ったが、彼が不機嫌であるのは明白だった。

 岩の上に腰かけて、立てた右ひざに肘を乗せ、掌で顎を支えている。

 何もかもがつまらなく、何もかもが気に入らないといった様子で、蚩尤は戦場そこにいた。

 ティアナは苦笑した。彼の機嫌を傾かせた原因に、心当たりがあるからだった。

 血濡れの槍を携えながら蚩尤の隣に立って、ティアナも同じように『魔群』の牙城――神威山を見た。


「終わったな」

「うん」

「今となっては憐れむばかりだ。魔人とは欲望に忠実なもの――そう自ら喝破しておきながら、それがためにこの結末を迎えた」


 『人』と『魔』の決戦、その勝敗はすでに決していた。

 魔群のほとんどは征軍と炎帝に阻まれて、連合軍にたどり着くこともできず、三軍乱れての混迷の大戦を引き起こすには程遠かった。

 ともすれば、あともう一歩で縦深を突破し、連合軍に襲い掛かり、首都の壁にたどり着くことができたものも、確かにいた。

 一騎当千の魔人も、たしかに魔群にはあった。

 だが、軽くはない手傷を負ったまま、撤退中とはいえ精鋭の連合軍にあたり、万人を抱えた城壁にとりついて、何ほどのことがなせるであろうか。

 その逡巡の答えはすでに北竟大帝が明かしている。

 

 魔群かれらは、己の欲望を優先したのである。

 人を殺し、世界を滅茶苦茶にしたいという願望は、たしかに魔群に共有されていた。

 だがしかし、自らの生命を懸けてまで、北竟大帝の欲望と心中しようとする『魔』はほとんどいなかったのである。

 ただ人を殺し、人の世を混乱させるだけであれば、現下の不利の状況でする必要はどこにもない。ただ人を殺すだけ・・・・・・・・ならば、今を生き延びたあと、いつでもできるのである。


 そして、督戦官ヨルムンガンドの死はついに魔群の指揮を阻喪させ、もろくも敗走に転じさせたのである。


「見事な指揮ぶりだったじゃないか。お前と、お前の三郎太がやったことだ、喜んでやればいい」

「…………」

「野戦の醍醐味の最たるものだ。その最弱なるところに最強の一撃を浴びせる。すると、百万の大軍といえどもたやすく崩壊する」

「…………」

「まぁ、偶然と配下の有能に助けられたところも多いがな。これからがあるのなら、鍛えがいがある」

「あーもうっ! うるさいよさっきから!」

「いや、お前がいつまでも呆けているから」


 苛立たし気に膝を叩いてから、自棄のように蚩尤は言った。


「じゃあ聞くけどさっ! オレのサブローが、オレのおかげで勝てたサブローが、なんでオレを捨てていったんだよ。わかるかよ、先生気取りのおばあちゃん!」

「なにも捨てたわけじゃないだろうに」

「知ったことか、気に入らないんだよ! オレだけじゃない、ヴォルフスや崑崙の奴らだってそうじゃないか。お前たちが必要だって、名前を呼んで、手を握って……なのに結局最後は自分ひとりだけあればいいって……そんなのない!」


 手綱をつけた炎帝を次々と繰り出して、魔群を防いだのはいい。そうでもしなければ、魔群を止めることなどできなかっただろう。

 だが、最後まで手元に留め置かれていた蚩尤に対して告げられたのは、「ティアナとともに遊撃に加われ。しかる後、崑崙に戻れ」というものだった。


「あいつバカなのかよ!? バカなんだよ!」


 有無を言わさぬ迫力に押されて、言われた通りに与えられた役目を果たしたものの、合戦に終焉が見えてくると、見送った背中が急に頼りないものに見えてくるのだった。

 加えて、彼が最後の伴としたのが、ぽっと出のヴァルキューレだというのも最高に気に入らなかった。


「ハリマがいたとしても、一人であいつらに勝てるわけが――いでッ!」


 呆れ顔のティアナが、蚩尤の頭を槍で小突いた。


「お前が信じてやらんでどうする」

「だってよ……」

「だってじゃない。お前の記憶する限りでいい。あいつほどお前たちを抱えこんだ人間がいたか」

「むぅ……」

「それとウチの連中を一緒にするな。結局、不満の根にあるのはおまえの我儘だ。お前、エンを認められたせいで、少し気が大きくなっているんじゃないか? またあいつの厄介になるつもりか?」

「……そんなことないし」


 蚩尤は口をへの字にしてそう言う。

「本当に災害みたいに面倒なやつだな」とはさすがに言わなかったが、三郎太の尽力をしても依然として気ままな災厄の気配をくすぶらせるのは、天下を揺るがす魔人の肩書が飾りでないことの証左であるとも納得ができた。


「ところで、そのお仲間はどうしたのさ」

故郷くにに帰らせたさ。それで今度の戦争は本当におしまいだ」

「ティアナはどうするの」

「さあて、私は未来が視える魔人じゃないからな」


 ティアナは最後の問いははぐらかすのみで、答えなかった。

 蚩尤もそれ以上を尋ねようとはしなかった。

 蚩尤自身も戦争が終わってからのことはあまり考えたくなかった。

 ある種の『老い』であるかもしれない、未来に、楽天的な希望を見ることができなくなっている。それなのに、これだけの大事変が起こったあとに、もとあった日常に還ることなど望むべくもないことだけは、経験したことのように理解できた。

 そのこともまた、蚩尤の心中をざわめかせる一因であった。


「ハァ……まったく、よく平然としていられるね」

「お前が心配性なだけだ」


「それに――」と、槍を一振りしてからティアナは言った。


「――こういうのを始末するために、私とお前が残されたんだと思うとな――憎みきれんじゃないか」


 巻き起こったのは、旋風。

 すでに二人の姿は岩から消えていて、次の瞬間、岩は粉みじんになっていた。土煙の跡に残っていたのは――狼王。

 巨大な顎で岩一つを容易く砕いてその場に踏みとどまり、牙を剥いて唸る先には、跳び退いたティアナがいた。


「失敗したかも!」


 慌てた様子の声は上空から。空に逃れた蚩尤の上を、さらに巨大な影が覆っていた。

 素朴な表情を象った岩の仮面の巨人。その体躯からは想像できない意外の跳躍力で、蚩尤に掴みかかろうとしていた。


「仮面ならなァッ! こっちのほうがいかしてんだよッ!」


 顔を一撫で饕餮面におもてを包み、懐から取り出した鉄剣を巨人めがけて投擲する。


「炎帝蚩尤のお通りだ! 強いしこわいぞ!」


 剣の先には返しがついており、柄の環頭には荒縄が結ばれている。

 突き立った鉄剣と荒縄を頼りに、すれ違うように巨人の腋を潜り抜けて、その背に回り込む。


「三郎太の一〇〇倍おそいっ――『夸父こほ』! 『九黎きゅうれい』!」


 ひとりでに両手に収まった愛剣を、蚩尤は無防備な首筋めがけて振り下ろした。


「あっ、あれぇ!?」


 しかし奇妙な手ごたえとともに大剣が弾かれた。

 そんなはずはない。いつでも三郎太を懲らしめられるようにと磨き続けた大業物である。


「なんでっ!?」


 刀身を見て、蚩尤は素っ頓狂な声を上げた。刃はみるみる凍り付いて一つの氷塊となったのである。そればかりか、『夸父』を侵食する霜の冷気は、まるで意思のあるかのように柄まで迫ってきたのである。


「バカばっかりだよ、ほんとにもうっ!」


 一瞬だけ躊躇いを見せた後、蚩尤は『夸父』から手を放し、巨人の背から飛び退いた。


「小僧、魔眼だな」


 感心したように言ったのは、地上のティアナだった。

 背後に浮かんだ二つの魔法陣は、一人の騎士を捉えていた。


「兜の下から、扱いがうまいじゃないか」

「…………」


 全身を鎧に包んだ騎士は、答える代わりに剣を抜いた。

 彼の装束は死の騎士団フレデリック・バルブルースと同じものだった。


「大勢が決してもなお意地を通そうとする輩はままいる。私は結構、そういうのが好きでな」


 しごいた槍を下段に構えて、太祖ティアナは不敵に笑った。


「もう後がないんだろう? さぁ、かかってこい」





「何か言わないのかい?」


 北竟大帝は肩をすくめながらそう言った。


「宿敵との再会なんだ。言いたいこともたくさんあるだろうし、立場を考えれば、言うべきことを言う義務があるとさえいえる」


 からかうようなその言葉に、三郎太は何も返さなかった。

 無言のまま見開いた目には、かすかに動揺の色が浮かんでいた。

 北竟大帝は石棺の中にいた。石棺を満たしているのがドロドロの赤黒い液体であるのを見ると、石の浴槽というのが精確な表現かもしれない。

 彼女はその中に胸元より下を沈めながら、縁から右腕をだらりとたらしたまま、にやにやと三郎太を見返していた。

 その顔の半ばは緑がかって爛れており、力なく投げ出された右腕は赤茶色に、骨が浮かび上がるほど枯れていた。


「北竟大帝」

「うん」

「貴様、その姿は、なんだ」

「そうじろじろと見るなよ。恥ずかしいじゃないか」


 隠すように、片手で黒の外套の前をあわせる。彼女は外套の下に一糸も纏っていなかった。


「とぼけるなっ!」


 北竟大帝のわざとらしい演技を遮るように、三郎太の怒声が暗闇を揺らした。


「その半死半生の姿は何事かと聞いておるッ! それではまるで――」

「――まるで善鸞の殺したヘル。君の殺したエリーのようだ……そうだよ、その通りだ」


 無表情に北竟大帝は言った。


「君の足りない頭でも考えてもみればわかるだろう? 娘の彼女達にできて親の僕にできないことがあるものかい。そもそも死者の門を開く能力チカラは僕のものだ。ただ僕にはそれがうまく使いこなせないというだけであってね」

「それで貴様が、冥府の主の真似事をしているというわけか」

「真似事とは失礼だな……と、言いたいところだけど、残念ながら、そう言われても仕方のない有様だね、これは」

「くだらぬ。落ちぶれたものよ」

「ははは、何と比べて? ……僕が送り出せた死者は数十人だった。精鋭を選んでみたけれど、決戦に与える影響は微々たるものだろうし、ましてや世界の境界に打ちこむ楔としてもあまりに不足だ」


 自嘲してそう言う北竟大帝の姿を見て、三郎太は無性に腹が立った。

 世界を壊すその主犯を演じておきながら、いざ立ち会おうという今更に、弱々しくも枯れ果てている姿も、我欲の権化を自負しておきながら、娘達を追慕しつつ成れもせぬ冥府の主に身をやつしているのも、不愉快であった。


「北竟大帝、貴様の敗因は、娘と呼んだ者どもの異常性を見抜けなかったことだ。冥府の主が討たれたとき、貴様の敗北は決まっていた」

「あぁ? なんだい君、いまさら得意顔で。『冥府の主を討った』? エリーという少女をむごたらしく、二度殺したと言ってごらんよ卑怯者」

「もはや黄昏は成らぬぞ」

「それも、僕がさっき言ったろう? まさか君、こんな不出来な、割れるはずもない空を眺めて一喜一憂していたのかい? はははっ、ばーか。君のおかげで何もかも足りないのだから、今度も失敗だよ。よかったね、勇者サマ」


 北竟大帝の態度は開き直りに違いなかった。積み上げてきた黄昏の計画はついに失敗したと、投げやりに敗北を認めていた。

 しかしそれでも、飄々とした態度には、いかに計画が水泡に帰したとしても、清浜三郎太に屈するつもりはないというふてぶてしさが表れていた。


「……やはりいつも変わらない。勇者がエインヘリヤルを率いて僕を止める。気づいているかい? 君も所詮は運命という脚本に踊らされる駒に過ぎないんだよ。自分の意志で手足を動かしているつもりで、右に左に、世界のバランスをとる力に役割を演じさせられているだけなんだ。ほらこの通り、君は『魔』の勃興を食い止めてみせた」

「貴様、先ほどから聞いておれば、なさけないやつ。運命を壊すなどとのたまっておきながら、いざ膝を折れば途端に運命側そちらがわか。何様のつもりで、俺をさげすんでおる」

「君は運命を信じていないのかい? 凡人の君を勇者にし、ここまで導いた存在を認識しないのかい? ああそれは残念。僕はそう単純には生きられないものでね」

「貴様はやはり、ものの見方が偏っておる。なぜ見えるとおりに見ないのだ。つまるところ貴様は、今も昔もいつまでも、ここではないどこかばかりを見続けておるのだ。世界を壊すとほざき続けていても、今の世ではなく、いつかのどこかを見ておる。企みが成らぬのも道理よ。

 あてつけ代わりに、ならばと俺流に言えば、俺のそばにあったものはえいんへりやる・・・・・・・なるものではなく、金角・銀角であり、四天王であり、十勇士である。

 かようなことを、あえて貴様に言わねばならぬことも忌々しい……世を壊すと、そう俺に言ったのは貴様だぞ!」


 わだかまりを一挙に吐き出すようにまくし立ててから、三郎太は太刀に手を伸ばし、腰を沈めて鯉口を切った。


「……まぁよい、貴様と問答などしたところで埒があかぬ。――だが北竟大帝、覚えておるか」

「なにを」

「『貴様は俺が殺す』」


 はじめて、北竟大帝の表情に動揺らしきものが浮かんだその瞬間、三郎太の体はすらりと闇に飛び込んで、北竟大帝の眼前に沈んでいた。

 二尺八寸の剛剣、蛇切逆安珍へびきりさかさあんちんが唸りをあげて横薙ぎに奔る。

 棺の中の黒い影が宙に引き上げられるように跳んだ。

 北竟大帝が闇の中に消えるその刹那、三郎太は彼女が真黒い軟体の塊となったのを見逃さなかった。


――仕掛けてくるか! 


 と、腹に力を入れたと同時に、天井で、ちらと光るものがあった。


「シィッ!」


 間髪入れずに、三郎太は横に跳んだ。

 首筋から一寸ばかりのところを、猛禽の鉤爪が通り過ぎて行った。


「北竟大帝!」


 大上段に構えを執って、北竟大帝の消えた闇に向かって気迫をあびせる。

 ついに仇敵と刃を合わせる興奮が、全身を駆け巡って力を漲らせた。

 暗闇にあって、奇妙なほど、三郎太の五感は冴えわたっていた。


 足下に這いよる気配を感じ、逆安珍を下段にうならせながら跳びずさる。

 石の床から突如として浮上した巨大な顎、鉄の歯と刃がかち合って甲高い音が鳴った。


「白々しいぞ、北竟大帝。今更になってかような仕掛け方とは、俺を侮っているのか、己を過信しているのか、どちらだ!?」

「駄目じゃないか三郎太ァ! 勇者がそんな表情かおをしたらさぁ! ――まるで殺し合いを楽しんでいるみたいじゃないか!」


 声とともに再び鉤爪が迫った。

 今度は避けなかった。鍔元で受け止めると、身をひねって背後へ受け流す。


「『飢餓スルト』」


 不吉なささやきとともに、鋭い風切り音が鳴った。

 飛翔する刀子ナイフと看破して宙に叩き落とし、お返しとばかりに小柄を放つ。

 押し殺したような哄笑が闇の中より起こった。


「あぁそうか。初めからこうすればよかったんだ」


 愉悦を隠そうともせず、北竟大帝は言った。

 文字通り、全身を闇の中に溶かしてしまったかのように、北竟大帝の攻撃は千変万化であり、その声も空間に奇妙に響いて位置を測りかねた。


「信じてもらえないだろうけど、僕は君を『勇者』にすることには反対だったんだよ」

「なにをいまさら」

「いまさらなのは違いないけれど本当のことさ。取るに足らない君を『勇者』にまつりあげてやろうというのは彼女の趣旨でね。僕は君みたいな善鸞に連なるクズ野郎にはさっさと消えてもらいたかったんだ。不吉で仕方がないからね」

「負け惜しみにしか聞こえぬな!」


 迫る猛獣の角を潜りつつ、沈めた体をバネに斬り上げた逆安珍の手応えは浅い。


「だからさァッ! 君を殺すんだよッ! 僕の失敗は僕が取り返さなきゃ……。僕はよく失敗したが、そのたびにずっとそうしてきたわけだし」

「……ええいっ!」

「そうだ、君を殺したら、その血を酒にして余さず飲み干してあげよう。肉は焼いて肴にしてあげるし、『魔』らしく骨までしゃぶってやる。エリーを目覚めさせた血肉なんだ、この世にまたとない御馳走になるだろうし、もしかしたら、今度こそ僕も冥府の門を開けるようになるかもね」


 北竟大帝の言葉に狂の色が現れ始めた。

 三郎太はその不吉から逃れるように向きを変えて駆けだした。

 そして開いたままの大扉の真向かいの位置で素早く振り返り、執った構えは奇妙なものだった。

 ちょうど人中の前で横一文字に刀を倒し、刃は天井を向いている。

 逆安珍の刀身が、か細いが外の光を反射させる格好となった。


――逆安珍!


 念じて光を向けると、闇の中に隠れる桃色の鞭ナリが、たわめた体に漲る力を吐き出そうと、微動するのが見えた。

 天にいざなわれるように持ち上がった切先が、次の瞬間、猛然と流星の如く振り下ろされた。

 三郎太をからめとろうとしたナリは、寸前で一尺あまりを切り落とされてもなお、意思のあるかのように、空中で向きを変えると再び迫った。

 逆安珍が跳ね上がり、今度もまたぬらりと光るナリは、断片を宙に散らしたが、間髪入れずに三度にわたり向きを変えて、身をくねらせながらさらに伸びるに至っては、三郎太もついにそれを防ぐことができなかった。

 足を取られたと思った時にはもう視界が逆転しており、天井に床に叩きつけられ、光の届かない奥の壁まで放り投げられていた。


「本当に、ついに剣を振る以外のことを覚えなかったのかい。こんなのが『勇者』なんてね」


 ばたんと大きな音を立てて、大扉が閉じられる。


「知恵のために片目をささげなかったのかい? 魔法のために首を縊らなかったのかい? 勇気と誠意のために、手首を犠牲にしなかったのかい。巨人の頭をかち割る運命ちからをもって生まれなかったのかい?」


 格子窓さえも黒に覆われて、ついに部屋を満たすのは闇一色となった。


「何もないだろう君には。貴族の生まれといっても世にごまんとあるうちのひとつだろう。剣の才に恵まれたといっても、探せば比肩する者の一人や二人、簡単に見つかるだろう。そんな君が『勇者』だって? 僕を止める? 笑わせてくれるよ」


 北竟大帝の精神はまとまりを欠いていた。

 つい先ほど、『勇者三郎太』に敗北を認めるようなことを言っておきながら、今度は三郎太の如きは『勇者』にあらずと蔑んでいる。ともすれば自らの敵を見失っているようにすら見えた。

 娘の代わりに冥府の主に堕ちたことの代償であるのか、それとも闇の中に変化を繰り返した反動であるのか、三郎太には判断がつかないが、理由はどうあれ、壊れかけている北竟大帝の有様に、三郎太の胸中には哀れみとも怒りともつかぬ熱く膨らむものがあった。

 それを押し殺すようにして、三郎太は静かに闇に言葉を投げた。


「娘の仇が、ここにおるぞ」


 闇の中に、灯が熾った。翡翠色の灯であった。

 まばゆい翡翠の槍ミストルティンを右手に纏った北竟大帝の姿は、腐りつつも三郎太の知っている彼女だった。

 切れ長の瞳に、切りそろえられた黒の長髪。黒の紳士帽をかぶり、黒の外套を纏った北竟大帝は、距離さえ見失いそうになる一面の暗黒のなか、ぽつりと無表情に立っていた。

 その姿を見て三郎太は、


――亡霊だな。


 と思った。

 こびりついてはがれることのない、年期の入った頑固な汚れのように、未練がましく世に残り続ける哀れな亡霊。

 もはや何が自らの未練なのかさえ判然としなくなって、世界に災厄を振りまきながらさすらう憐れむべき怨霊。彼女の姿はそう見えた。


「清浜三郎太の名。忘れてはおるまいな」


 北竟大帝が左腕を前に突き出すと、闇の中で再びナリが蠢いた気配があった。

 三郎太が素早く逆安珍を鳴らすと、ナリは恐れおののいたように、何度も向きを変えて遠回りをしてから。三郎太の胴に絡みついた。そして三郎太を壁に押し付けると、鉄のように固まって動かなくなった。

 ナリは粘性と軟性を駆使して三郎太を苦しめた姿からは想像もできない強固さで三郎太の動きを止めた。

 しかし、三郎太の両腕は自由であった。


「殺してやるよ」

「推参」


 逆安珍の太刀がすっと正眼に据えられて、闇に縫い付けられたように動きを止めた。

 鶺鴒はない。三郎太はゆらりと構えて山の如く。

 翡翠の輝きが一筋の電光となったその時、三郎太の両眼がカッと見開かれた。





 傾き始めた陽光が、幾重にも交わされた剣戟の残光を再生する。

 ティアナとカスター・スクローイの戦いは、意外にもティアナの防戦一方となっていた。

 カスターが仕掛けたのは徹底したインファイトだった。

 近接戦となると、ティアナの魔眼たる魔法陣は取り回しが悪い。視るための魔法陣としてひとつは確保しなければならず、もう片方で火力まかせに魔法を放っても、それが外れた場合には致命的な隙を生んでしまう。

 一方でカスターの魔眼は、派手さはないが応用が利いた。

 ティアナの槍を、足元を、ときに体を凍結させて自由を奪いつつ、思考を読まれたとしても対処しきれない速さで、剣を振り続けていた。

 ティアナも凍結させられるたびに魔法で火を熾して対抗し、刀槍の対決の技量においてはむしろカスター以上のものを発揮していたが、敵はカスターだけではなかった。

 狼王が、憎しみとともに繰り出す爪牙にも対処しなければならない。


――二対一じゃ不公平だろ!?


 縦横に槍を振り回し、踊るようにステップを踏みながら、ティアナは悪態をついた。

 向けられているのは蚩尤である。

 蚩尤は巨人の攻撃を跳びまわりながら躱しつつ、ときおり攻撃に転じてはいるが、いかんせん得意の獲物を封じられているために、即席の武器で戦わなければならず、致命傷は一つも与えられていなかった。


――戦場で武器を選ぶな二対一と一対一じゃなくて三対二しろまわりをよく見ろ!


 相手より多い戦力をぶつけるのは戦いにおける常道だ。敵を責める気にはなれないが、味方は別だ。

 不満を噛み殺しつつもティアナの槍は冴えた。

 機先を制した突きがカスターの踏み込みを阻み、タイミングずれで飛び込んできた狼王の鼻先を踏み台にして、ようやく距離を空けることに成功した。


「……おいワンコロ。まさかこいつは怨恨か?」

「――――」

「確かに私はおまえたちとよく戦ったし、滅ぼしもした。しかし一族を構えた獣に対してはまず交渉から入るようにしていたが、お前はどうだった?」

「――――」

「悪いが私には見覚えがない。毛並みも臭いもヴォルフスの森の誇り高きかれらとは違うようだし――そういうことだろう」


 狼王が歯をむき出しにして唸り声をあげた。憤怒と憎悪を絞り出し、心臓を限界まで稼働させようとしている。息を吐くたび、白い蒸気が大口の両脇から立ち上り、牙の隙間からは涎が零れ落ちた。

 カスターも、肩で息をしながら、充血した魔眼を兜の下からぎらつかせていた。


「ほかの一族と同調もせず、さりとて縄張りを守る力も無く、追われて逃げて、ゆるやかに滅びを迎えようとしたのだろう。お前らが選んだ結末だ。いまさら鬱憤晴らしに人間のせいにされても迷惑な話だし、私に恨みを向けるのは筋違いも甚だしいな。それになにより――一族の滅亡の責任は、王たるお前が負うべきだろうが」


 狼王の姿が一瞬にして消えたと見えたその刹那、ティアナとカスターの周囲を粉塵が覆った。


「知っているかよ、人間はなぁ! 失政の王を自分たちの手で殺すんだぞ!」


 巻き上げられた土砂が、砕かれた岩が、四方八方よりティアナめがけて放たれた。


「――つくづく業が深い」


 足元に移した魔法陣に槍の石突を立て、そこを軸に大渦の嵐を巻き起こす。

 大胆な魔法の行使と対照的に、ティアナのつぶやきはか細く、悲痛な響きがあった。


「ただ生き残るだけなら、人間に尻尾を振っていればよかったんだ。そうすれば可愛がってもらえたろうに、牙を剥けば狩られるのは当然――こんな侮辱を、誇り高いお前らが受け入れるはずがないと知っていながら、益体もなく考えてしまうんだ」


 最後の投石を防ぐと同時に、嵐が止んだ。

 次の瞬間、砂煙の粉塵を突き破って、大口を開けた狼王が、ティアナの背後に迫った。


「そのうえな――」


 ティアナは自嘲するように、口元に三日月を作った。そして――、


「――『誇り高い』なんて形容しながら、お前たちの畜生らしい選択を、疑いもなく確信しているんだよ。私達は……」


 言いながら、ティアナは大口の迫る背後に身を投げた。


 それを見た瞬間、カスターは駆けだしていた。

「遅すぎた!」と唇を噛みながら。

 のうのうと太祖に挑発を吐かせたのも失策。

 暴走気味に仕掛けた狼王に追随しなかったのも失策。

 笑みを浮かべながら、死地に身を放り込もうとする太祖に動揺し、一瞬でもためらったことも失策。

 太祖は死ぬとして、その首は彼女への手土産に残したいなどと、もはや別れを告げたくせに、還る場所など残っているはずがないのに、弟の罪を拭うために、命を捨てて二度と戻らないと誓ったくせに、未練がましく思考を割いたのも失策。

 全ての失策が重なって、カスターは致命的に出遅れた。

 そして、哀れな狼王を止めるためか、太祖に斬りかかるためか、理由はどうあれ、前に踏み出したことも、失策だった。


 大口を閉じようとして差し込まれた槍に脳を貫かれた狼王の口中で、上顎を支えながらでも、まっすぐに突っ込んでくる相手を射抜くことなど、ティアナにとってはわけもない。


「もう逝け」

「――ッ!」


 恐ろしい熱量を持った光線に、胴を抉られた瞬間に、カスターの視界は暗転した。

 倒れこんだ拍子に、兜が外れて転がった。

 久々に嗅いだ土のにおい、頬を撫でる、生きた小さな草の感覚が、あまりに懐かしい。

 熱いものが通り過ぎていくのと引き換えに、冷たいものが体に入り込むのを感じて、カスターは笑った。


――結局、生きていた。


 そして、カスターの意識は暗闇に溶け込んで、二度と形を持たなかった。


 僅かに遅れて、もう一方の戦いにも決着がついた。

 仮面の隙間から差し込まれた剣に両目を喪いながら、巨人はなお戦っていたが、全身をまんべんなく切り刻まれて、血の川が何本も体を走る有様となっては、さすがに動きも緩慢となり、跳びまわる蚩尤をほとんど見失っていた。

 そうかといって、対する蚩尤も、無傷ではいられなかった。ただ一度、巨人が降りぬいた拳が左腕を打った。空中の出来事で、衝撃も受け流したはずが、左腕はひしゃげて折れた。


 血に酔い、獣のような凶暴性に身を任せつつ、蚩尤は得意の獲物が凍結の呪縛から解き放たれた瞬間を見逃さなかった。


「来いッ! 『夸父』!」


 吠えるようにを呼んで、巨人の腕を駆けあがると、蚩尤は大剣をその首元に叩きつけた。

 一度では、鋼の筋肉は切り裂けず、大木の如き骨は揺るがない。

 二度三度、やがて吹き出し始めた血にも構わず、蚩尤は大剣を振り下ろし続けた。

 巨人が斃れてからも、しばらくそうし続けていた蚩尤だが、ついには腕の疲労の限界を覚えて、大剣を取り落とした。


「…………」

「おいこら、正気だろうな」


 呆然と、血の海に立ちすくむ蚩尤。

 その後頭部を小突いたのはティアナだった。

「涎まみれだ」と苦笑しつつ、蚩尤の顔を覗き込みながら、言った。


「終わりだよ。帰ろう。な?」

「…………」

「戻ったら、あいつのことをぶん殴ろう。怒るだろうが、許してくれるさ」

「…………」

「それに、私達二人が凄めば、あいつはびびって何も言えんさ」

「……なぁ」

「ん」

「また三人で、飯、喰いたいなぁ……」

「……あぁ、そうだな」


 ティアナにも分かっていた。日常は戻らない。

 しかしそれでも、安寧は、そこにあったのだ。





「こんなのはおかしい。あり得ない。だってこれじゃあすべてすべて何もかもが予定されていたことみたいじゃないか……」


 刀身をつたわった血は鍔からも溢れ、三郎太の拳を生暖かく濡らす。

 とめどなく漏れ出すそれは、やがて三郎太の足元に滴って、北竟大帝の震える独白の隙間に響いた。

 逆安珍の太刀は、北竟大帝を袈裟懸けに、胸下まで斬り下げていた。


「ははは、そうか。やはり運命の脚本……。だってそうだろう、君はまるで恐れるそぶりを見せなかった。自分が死ぬだなんて、まるで思ってもいなかったじゃないか」


 それに対して、北竟大帝のミストルティンは三郎太に届いてすらいなかった。

 三郎太は、間違いなく己の心臓を穿つはずだった翡翠の槍が、前膊ごと消し飛ぶその瞬間に、明朗闊達な『唵』の一声を、確かに耳にしていた。


――見事だ、御坊。


 たった一度の好機に一瞬の勝機をねじ込むために、善樹の仕掛けた符術は最高の形で発動した。


「この状況で、それはあり得ないんだよ。なぁ、三郎太。冷静になって考えてもみなよ。君が、何の力も持たない君が、僕に勝てるわけがないだろう。僕は世界をひっくり返し、運命に挑む魔人で、君は棒切れ一本を振り回すことができるだけの人間だ。勝負にならないんだよこれじゃあ」


 北竟大帝は焦点の定まらない瞳で三郎太を見上げながら、わななく声で言った。


「ほらだって、足りていないのはこれだけだ」


 北竟大帝は翡翠の残滓が揺らぐ右腕を、三郎太の胸に押し当てようと差し伸べてみせるが、先の失われたそれは断面からどす黒い血潮を吹き出すばかりで、三郎太には届かない。


「だからこれは運命の采配さ。惜しかったなぁ……今度もまた負けてしまったけれど、次がある」

「いや、これまでだ」

「……は?」


 三郎太の表情かおは、沸き上がる熱を抑えようとして凄絶だ。

 北竟大帝の瞳の中から、清浜三郎太が失われている。

 その心得違いを正すべく、言葉は重く吐き出された。


「軽々しいぞ北竟大帝。三代かけてようやく届いた一太刀ぞ――」


 北竟大帝が並べる弁明は現実に即してはいないが、あながち的外れとも言えない。

 清浜三郎太が北竟大帝と真正面から対峙して勝つべき理由がないのは事実だ。

 しかしそれはあくまでお互いに一個人のみの実力を勘定した場合の話である。

 現実はさにあらず。北竟大帝はしがらみから存在の半ばを冥府に置き、清浜三郎太は紡がれた歴史の上に立っている。

 善鸞がヘルを往生させ、善樹がその喪失を忘れさせず、絶命の間際に置き土産を残した。

 そうしてようやく、三郎太の致命の一太刀が届いたのである。


「――貴様に立ち向かった矮小共の太刀の重き……覚えたかっ!」


「ひっ」と短く悲鳴あげて、北竟大帝はあとずさろうとした。


「おう、逃がさぬぞ」


 身をよじって離れようとする北竟大帝の肩を掴み、さらに深々と太刀を突き刺す。

 北竟大帝が呻きを挙げるのも構わずに、三郎太は言った。


「灯りを点けろ北竟大帝。ここは貴様の体内も同然。その程度、造作もなかろう。そして隠れるな、俺を見よ」

「あぁ……君は……」


 呻きつつ、指を鳴らすと壁の燭台に火が付いた。

 壁は抉られ、床はめくれ、天井は崩落している。闘いの痕跡の残る一室が露わになった。

 一室を囲むようにとぐろを巻いていたナリは萎びて枯れ果て、力なく身を横たえていた。


「運命、世界と大言壮語ばかりをよくも……。世界を壊す魔人だと? 貴様の如きが、さようなものであるはずがなかろう」

「何を言っているんだい? 僕のことは僕が一番わかる。君の太祖がそうであるように、僕は世界を壊す欲望をもって生まれた魔人だ」

「ぬかしおるわ。世界とやらを語る前に、足下を見遣れ。人間清浜三郎太に貫かれている己の姿を顧みよ」

「だから、その君を動かしているのが運命なんだろう」

「俺を見ろと言ったぞ!」


 突き刺した刃を押し下げたために、再び血があふれ出し、北竟大帝は苦悶を漏らす。


「運命を信じているかと問うたな。答えてやる――天命、神意、いかにもあろう。仏の導きもまたしかり。この世には、人の身にはどうにもならぬ運命さだめがある。

 されど、善神もあれば悪神もあろう。清浜三郎太は悪神の導きにむざむざ従いはせぬ。一身を一念に満たし気魄をもって鬼神を退ける。克てぬならば腹を切るまで、運命とは己が見定めて取ったそれだ。

 俺の運命は秩序の藩屏。天下の大丈夫、天下の武士に生まれたのだから、天下の広居にあって秩序を守ると誓ったのだ。だから、この異世界にたった一人、武士として世に立つと決めたのならば、あるべき己は天下無双! 貴様如きの跳梁に怯むか、慄くか! ――目を逸らすなッ!」


 さらに、鍔元まで太刀が押し込まれ、北竟大帝は苦しみながら、逸らしかけた目を再び向けた。二人の距離は抱き合うばかりに近い。

 北竟大帝はまさしく目を逸らしたかった。耳を塞いで三郎太の言葉を聞きたくなかった。

 三郎太が傲慢にして確固たる己を叫ぶたびに、北竟大帝は自らが矮小になっていくのを自覚せざるを得なかった。


「あまりにひどいじゃないか」と血反吐まじりに抗議する北竟大帝を「貴様が悪い」と切り捨てて、三郎太はつづけた。


「よく聞け、北竟大帝! 貴様は忘れてはならぬことを忘れたぞ。侮辱めおってからに。俺の運命はかくのごとく。善鸞の跡を継いで道を立てた。だがな、貴様! 俺が貴様と事を構えんと決意した所以はな――」


 ひと呼吸を挟みつつも、三郎太はためらうことなく告げた。


「――ほかならぬ貴様自身が、俺を敵と見定めたからだぞ!」

「……ッ!」

「貴様こそが、俺の運命を動かしておきながら、おのれはっ、なんとほざいた、ええ、いまも先の妄言が、ぬかせるかッ! それとも貴様自身が、運命の奴隷を認めるつもりか!? 俺が選び、貴様も選んだ。その果てにあるこの場を、他の何者かに譲るかっ!?」


 北竟大帝の表情は雷に打たれたように、呆然自失一色となった。

 やがて、見開いた瞳から大粒の涙を零しながら、震える声でつぶやいた。


「いやだ、いやだ、こんなのってないよ……」


 北竟大帝は清浜三郎太を思い知らされた。

 あの日あの時、北竟大帝が芝居がかった宣戦布告をし、三郎太が『貴様は俺が殺す』と応えたあの瞬間が、二人の運命であり、それ以上でも以下でもなかった。

 世界がなんだのと修飾を凝らしていたのは北竟大帝一人であり、三郎太は頑固に、愚直に運命を追いかけ、達したのである。

 もはや狂信に近い三郎太の信念が、北竟大帝は恐ろしくなった。

 『武士』に対する信仰。そして、皮肉なことに、三郎太こそが、誰よりも北竟大帝を討つべき魔王かたきと信じていたのである。

 哀れであった。もはや、陰謀家の余裕は消え失せていた。 

 残ったのは、自らを嘲り、誤魔化すための泣き笑いの表情だけだった。


「あんまりだ……。それなら僕はなんなんだい……?」


 世界と運命とを敵に回すのだと自覚したときから、北竟大帝は自らをほかの『魔』と一線を画すものと自負していた。言い換えれば、公言こそしなかったものの、自分こそが魔の総帥と誇り、『魔』の存在意義を証明するのは自身に他ならないと思っていたのである。


 それを今、三郎太の言葉と太刀が粉砕した。


 欺瞞でもない、運命の傀儡でもない、一人の人間清浜三郎太が意志によって魔人北竟大帝を打ち破ったという現実が、嫌というほど北竟大帝の精神を砕きにかかった。

 三郎太の言った通り、この一太刀は三郎太一人が成したものではない。しかし、だからこそである。

 あの日、あの時、見届けることのできなかった黄昏の以降、積み上げ、繰り返してきた世界への挑戦の結末が、結局この瞬間に集約するのだとすれば、この生涯の意味はなんとなる。


「……お主は、お主自身が描いた脚本の中で、役を演じ、踊っていたにすぎぬ」


 つまるところ、お前は『世界を壊す魔人』『運命に立ち向かう魔人』を気取っていただけの『道化の魔人』に過ぎないと、三郎太は言った。


 過去を振り返れば、北竟大帝の信奉者や同調者は少なくなかった。世界を滅ぼしうるのだと自覚するだけの記憶を持っていたし、縁もあった。

 しかし、今回の戦争の有様を見てみれば一目瞭然だ。

 北竟大帝の掲げた使命に共鳴する魔は少なく、ほとんどの『魔』はむしろアウロラの立ち上げた、人間への復讐という目的に同調していた。そして北竟大帝は一人残されて、結局共々敗けている。

 これでは運命の存在を前提にしようがしまいが、北竟大帝は道化である。

 自らを高尚な存在に擬していただけの、道化ナルシストの魔人。

 かつてのどこかの景色、黄昏えいこうが忘れられず、いつまでも舞台から下がらない三流役者。残り少ない身内をすりつぶし、家族さえも犠牲にして、ようやく一人で踊っていたことに気づいたのだ。


 しかしそれは北竟大帝にとっては受け入れがたい侮辱だった。


「……ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな」


 つい直前まで現実に震えていた北竟大帝からは想像も出来ない声音が、三郎太の耳をうった。

 三郎太が反射的に柄を握る手に力を込めて、北竟大帝を断ち切ろうとしたのは、差し迫った脅威を感じたからであったが、太刀は逆安珍が宿っているにも関わらず、北竟大帝の体内に喰いつかれたようにびくともしない。


「いったい何様のつもりだい、偉そうに。君ごときに、僕の存在が否定されてなるものか」


 特異な力を持たない三郎太を動かしたのが矜持であったように、全て失った北竟大帝に残ったのは、魔人としての矜持だった。

 三郎太は戸惑い、一瞬、恐れすらした。

 それは北竟大帝の瞳と声に宿るものが、魔人らしい刹那的な快楽主義のものではなく、かといって地底の底から沸き上がるような、どす黒く、ねばついた冥府の憤怒でもなく、むしろ、誇りともに剣を執った剣客のそれに近かったからである。いうなれば、『貴様は俺が殺す』と言った三郎太自身を鏡写しに見ている


「そうか、わかった。そこに君があるんだね。確固として揺るがない、一つの世界キミが――」


 だらりと下がっていた北竟大帝の左腕が、俊敏に持ち上がり、肩を掴む三郎太の左腕に噛みついた。北竟大帝の五指は、万力の如き力で三郎太の腕を締め上げて、皮膚を破り、肉を裂き、骨に爪を立てたのである。


「お。おのれ……貴様、なにをっ!?」


 異常はそれだけではない。今度は、三郎太の左腕が、掴んでいた北竟大帝の肩に呑み込まれ始めたのだ。


「なめやがって。何様のつもりで僕を否定した。僕は世界を壊す魔人だ。運命に挑む魔人だ。これは真実で、絶対に揺るがない」

「くっ……!」


 北竟大帝の腕が三郎太の中に、三郎太の腕が北竟大帝の中に沈んでいく。

 融け合い、混ざり合い。灼熱の痛みが三郎太を襲った。


「ククク……泣きわめいて、叫んでごらんよ、大丈夫。ここには僕しかいないから」


 そう言いながらも苦痛は北竟大帝も同じであるらしかった。

 とめどなく涙を流しながら、顔をゆがめている。しかしそれでも、自らが勝者だと言わんばかりに、ひきつった不敵な笑みを浮かべていた。


「ぬかせッ……! 貴様の負けだ北竟大帝。貴様に俺は降せぬぞ。おとなしくせっ! 潔く地獄へ落ちろ!」

「これでも君の価値観セカイは揺るがない……あぁ、いいさ。絶対に絶対に絶対に壊してやる。君の決意、誇り、信念。君がこの世に生れ落ちてから育み続けた価値のすべてを、君の世界をつくる何もかもを否定して壊してやる。僕の存在価値を証明してやる。――そうさ、運命キシンを退けてでも」


 激流が、三郎太の左腕を襲った。生皮を剥がされて塩を擦りこまれているかのような激痛。全身の神経を貫く衝撃に目の裏がちかちかとして、前後不覚となり、三郎太は倒れこんだ。





 無限に、暗闇の海中でもがいていたような気さえする。

 どれほど時が経ったか、もしかするとほんの数秒そうしていただけかもしれないが、やがて三郎太は立ち上がり、おぼつかぬ足取りと、纏まらぬ思考のまま歩き出した。

 壁を頼りに、廊下を進む。

 ちらと視界の端に映った左腕は真黒に染まっていた。「やってくれた」と思いながらも、それを直視する余裕はまだなかった。

 角を曲がり、螺旋階段が見えたあたりで、三郎太は立ち止まった。

 男女二人が、道を阻むようにして、立ちふさがっていた。


「土蜘蛛クロワシ――ヘルマン・ロート」

「同じく、土蜘蛛ナツハ――ファラフナーズ・アミニ」


「節度使鎮狄将軍――清浜三郎太」


 名乗りを返し、太刀を提げて、三郎太は床を蹴った。

 討つべき敵は。あと一人――。


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