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異世界武士物語  作者: 源因幡介利貞
最終章 彼方へ轟け武士の意地
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ヴィーグリーズの戦い

「あわせろよ、エミーリア!」

「そっちこそ!」


 青春と運命を共にする二人の攻撃は、巧妙な連携をもってナックラヴィーを襲った。

 魔人の正面より、エミーリアが長剣を執って馬脚を狙い、背後よりはクリストフが魔力刺突杭パイルバンカーを構えて必殺の一撃を人体に定めた。

 魔力刺突杭パイルバンカーを背中に浴びることはもちろんのこと、仮にそれを避けえたとしても、長剣に足を払われれば、ナックラヴィーにとっては致命傷であることは変わらない。


 これまでのしばらくの間、互いに一撃も相手に与えることのない、綱渡りのような交戦が続いていた。

 クリストフとエミーリアは常に二方向からの攻撃を企図し、半包囲を保ったままあわよくば大運河に追い落とすべく激しく攻め立てていたが、ナックラヴィー駆けつ跳びはねつ適切な回避と機械のように精確で絶妙な反撃を行うために、二人はナックラヴィーを牽制し抑え込むまでで精一杯だった。

 しかし今回、繰り返されたすさまじい攻防のさなか、ついに魔人は隙を見せた。

 二人の攻撃を跳びあがって躱したナックラヴィーの左後ろ脚が、地面のほんの小さな窪みにずり落ちた。その小さな隙間に、二人は同時に飛び込んだ。

 ようやく見出した好機にねじ込んだのは単調シンプルであるだけに強力な攻勢。

 少なくとも一太刀は浴びせられると確信していた二人の希望は――たやすく砕かれた。


 ナックラヴィーは、二人の声に反応したというよりも、エミーリアの神経を走る電気信号か筋肉の蠢動を察知したかのような素早さで、ただ一歩、踏み出した。


 はたから見れば、今にも踏み出そうとしていたエミーリアの目の前に、馬脚が一本踏み出されただけである。しかし、ただそれだけでエミーリアは剣を振るうだけの間合いを失い、そこに立ち尽くすしかなくなったのである。

 そして、恐ろしい俊敏さで躍動する魔人の下半身に対して、その上に生えるようなすがたの人体は、あまりに緩慢で胡乱だった。

 この瞬間、馬体の俊敏な踏み込みの勢いに引っ張られるようにのけぞった人体は、そこに乗っているだけの人形かアクセサリーのようであったが、確かに彼の単眼は、背後より飛び掛かったクリストフの姿を捉えていた。


「――っ!」


 全身を貫いた悪寒をクリストフは躊躇することなく信じた。

 空中で強引に姿勢を変えたうえで、片足の杭まで放出することによって、無理矢理に距離をとって、クリストフはようやく虎口を脱した。

 彼が到達すべきであった場所に手を伸ばしていたナックラヴィーは、未来視じみた予測に反してその手が何も掴まなかったことに、芝居がかった所作で首をかしげて見せた。


「気色の悪い奴だぜ……」


 馬の背から人の上半身が生えたような外見の異形まじん

 の上半身といっても、体毛は毫もなく、単眼の張り付いたのっぺりとした顔の口元はだらしなく開いており、見たものはただちにそれが人であるとは受け入れられないだろう。

 黒々とした体がうすぼんやりと赤く見えるのは、体内の血管が透けて見えているからである。

 怖気立つ容貌の彼の名は『海坊主ナックラヴィー』。清浜三郎太は知らないが、その名はこの世界にあっては恐れと不安とともによく知られていた。

 いにしえの時代、世界の黎明期にあって海を拓かんとした三神の一柱に抗した海の魔。その中でも――一書に曰く――三神の一柱を弑したことで名を残した『魔』の一つ、それがナックラヴィーであった。


 そのような、神代の魔人を前にしても、二人の中には少しも怯懦の感情はうまれなかった。恐れも不安もあるが、それが彼らの両足を後ろへ退かせることはなかった。


「俺たちくらいの年齢を、ムズカシイお年頃っていうはずなんだが、どうして単純明快じゃねぇか。なあ、エミーリア」

「ええ、まったくね。名前を呼ばれて、『よし行ってこい』って言われたら、それだけでどんな魔だって退けられる気になっちゃうんだもの」


 生死を決する戦いに身を投じる二人に対して、三郎太が投げかけた言葉はただそれだけだった。しかし、だからこそ、そこには全幅の信頼があった。我こそはと名を挙げた二人である、必ず成し遂げるに違いないとの確信が、彼をしてそうさせたのである。

 だからこそ、その信頼には応えねばならないと、若き血潮は沸騰した。決意のその先に、世界を救う勇者の使命があるのだと固く信じていた。





 黒々と蠢く蚊柱が飛散しては集合する。大自然の運行に逆らうように無秩序に蠢くその中に、アルフレートは王を見た。

 長身痩躯のその男は、女のように白い肌をしており、腰まで伸びる長髪も純白で、脛まで届く真白な衣服に身を包んでいた。

 うつむきがちにゆっくりと歩を進めるさまはまるで病人であり、近寄りがたい儚さを秘めていた。

 だからこそ、不愉快な羽音をまき散らしながら、彼を押し包む蟲の塊はあまりにも冒涜的だった。

 蟲球を為すのは蠅と蚊と蝗の群れだった。かれらは主の歩幅に従って追随し、包み込んで守護しつつ、視界に獲物が入ればたちまちに群がって喰らいつくした

 ゆえに彼の歩いた跡は一目瞭然であった。蝸牛が藻類を齧って進んだ痕のように、彼の足跡をなぞって、緑が消えていた。

 これを都市に近づけてはいけないことなど、いかに学がなくともわかるというものだった。

 蝗害が一国を滅ぼした例を、歴史書から見つけだそうとするのは迂遠で愚かな処置だ。

 今この瞬間にも繁殖をくりかえし、摂理に反した速度で群体を増すかれらが都市にもたらす悪夢は――頭脳を働かせて想像する必要すらもなく――農耕に生きた生物としての本能が教えてくれる。


 本能は告げる。――逃げろ! もっと遠くへ! はるか彼方へ! さもなくば諦めろ。


 しかし、アルフレートがためらうことなく馬首を黒雲に向けるのは、本能が鳴らす警鐘をかき消すほどに、勇者の使命と貴族の務めが勇壮な調べとなって胸中に響き渡るからであった。

 アルフレートは胸の鼓動を心地よく思いながらも、一国を滅ぼす魔人に単身挑む己の姿を顧みて自嘲した。


――これは、計算にもならぬな。


 チョークをもって黒板の前に立つことすら滑稽だろう。まったくの非合理で、選択肢の一つにもならない行動を、まさか自らがとっているという現実が――アルフレートには誇りであった。


――これこそが、貴族の務めノブリス・オブリージュだ。


「『ケン』」


 生家伝来の宝剣を抜き、柄に埋め込まれた赤い魔石を拳で叩いた。

 火打石を鳴らしたときのように、小さな火花が散った。


「『ケン』『ケン』『ケン』」


 呟きながら叩くごとに魔石にはひびが入り、熾る火花は大きく強くなり、剣を包み込む炎となった。

 知恵の光、勇気の松明。一族が民を導いてきたあり方を象徴するのが、この宝剣であった。


「秤に乗せれば一目瞭然。加減のできる相手ではない。『様子を伺う』――非だ。初手から全力の強襲をもって一撃で屠る」


 疾駆――黒雲の中に身を躍り込ませる直前、アルフレートは力強く剣を振るった。

 炎の嵐が巻き起こり、黒雲に穴を穿った。

 そして、サーカスの火の輪くぐりのように、穿たれた黒円に飛び込んで、返す刀の一撃を全霊で叩きこむ。

 こちらを見上げる白き王ベルゼビュートの両目はまさに驚愕に見開かれており、その瞳に映るのは炎のまばゆい光一色であった。


――獲った!


 しかし確信は、にやりと王の口元に刷かれた悪童のような笑みに砕かれた。

 火を恐れ、離散したように見えた蟲たちは、突如として計り知れない密度の塊となってアルフレートの剣をさえぎった。

 それらを焼き焦がしつつ両断し、振りぬいた剣にはわずかに手ごたえがあったが、それまでであった。

 致命にはほど遠く、それを無念に思う暇さえない。アルフレートは王の反撃を躱さなければならなかった。

 黒雲が四方八方より沸き上がり、アルフレート包み込もうとした。

 アルフレートの頭脳は非情だが、合理的な判断を下した。

 鞍を蹴って宙に跳び、剣を振るって炎の壁で身を包んだ。身をひるがえして地に降りて、さらに飛び退いてから、炎の壁を前方に解き放った。

 彼を追った黒雲は業火に襲われて焼け落ちた。あとには「キィキィ」という不快な断末魔と異臭が残されていた。

 アルフレートが顔を挙げたその先では、ともに走り抜けた愛馬が無残な姿で横たわっていた。

 悲鳴を上げるまもなく、蟲に包み込まれたその馬は食い散らかされて赤と白と黒の斑模様の中に息絶えていた。


「許せ」


 ただ一言、アルフレートは詫びると、残りの惜別の情は打ち捨てた。そのような余裕はもはや残されてはいなかった。

 白き王は笑みを浮かべたまま、立ち止まってアルフレートをじっと見ている。

そして、思い出したように右頬から顎にかけて負わされた傷を指でなぞった。


「驚いたよ。まさか、まだ僕と語り合う民がいたなんて」

「――こちらも驚いた。まさか災厄が人語を介すとは」


 毛先から骨髄まで染み渡る寒気を抑え込みながらも吐いた軽口は、白き王の機嫌を損ねるには十分らしかった。


「君、いきなり嫌なことをいうやつだね」

「これでも小生、一流の家に生まれ、一流の教育を受け、礼を知る者に育ったつもりだ。不愉快に思うのはそちらの在り方に欠陥があるゆえと愚考するが」

「ほんとに失礼。民の在り方として間違ってる」

「間違いも大間違い。貴殿の認識の誤りだ。アルフレート・フォン・ハヴェックはか弱き市井の民ではない。民を導く灯明だ」

「……へぇ。それじゃライバルだ――ねッ!!!」


 王の指揮に従って、左右から黒雲が沸き上がって蠢いた。


「『ケン!』」


 魔石を叩き、炎を熾す。火炎の尾を牽きながら、アルフレートは駆けだした。

 鞭のように炎の刃をしならせて、蟲を焼き払いつつ、再び間合いに飛び込んだ。


「あいつの呼びかけに答えて正解だった! 不快だけど愉快だよっ、悲しいけれど楽しいよっ、死にそうだけど生きているっ、こっちに来るなと恐れていた将来、いまこのときを待ちかねていたんだっ!」

「支離滅裂!」

「さぁッ――もう一度語り合おう。かつてどこかのいつものようにっ!」


 アルフレートの剣激に従って炎は縦横無尽に暴れ、近づく蟲のことごとくを焼いた。

 戦況は圧倒的優勢だ。攻勢に白き王は後手で対処することしかできていない。

 だが、アルフレートの優れた頭脳はネガティブを発し続けていた。


――あと一歩、いや、もう半歩届かない!


「『ケン!』」


 殴りつけた魔石に亀裂が走る。炎が熾り、蟲を焼く。

 前かがみに突貫し、奔る剣先は白き王に届く。しかし、浅い。

 鮮血は白い衣を美しくまた不気味に彩った。そのたびに、王は喜悦の表情を濃くした。


「話してごらん、なんでも聞いてあげる。悩み、苦しみ、僕にできることは限られているけれど解決してあげる。水がない? 食べ物がない? 僕に任せて。……今日は力比べかな? うん、やろう」


 王の足取りはたどたどしく、指揮はオーケストラ気取りで構えは児戯だ。しかし、それでも操る蟲でアルフレートの剣をいなし続けており、決定的な一撃だけは確実に防いでいた。


「ほらほら、まだまだ届いてないよ。こんなものじゃないだろう? 挑戦は受けて立つよ、命を尽くしなよ」


 黒雲がアルフレートの背後で沸き立った。


「――ッ!」


 背後に剣を振って火柱を起こす。しかし、正面からも、左右からも、蟲たちは際限なく現れるのだ。そして、日輪を遮った。


「でもほら、負けたらだめだよ。立ち止まってごらん、膝をついてごらん。全部全部もっていっちゃうからね。そしたらね、僕のことを好きなみんなに分けてあげなくちゃ――でもね僕のことを好きな人なんてもういないんだよ?」


 黒雲に押し包まれる直前、アルフレートは懐から魔石をあるだけ握りしめると、足元に叩きつけ、それを踏み砕いた。


「『ケンッ!!!』」


 絶叫と同時に全身を蟲が侵した。鼓膜が破れるほどの羽音に包みこまれ、蟲の顎が皮膚を破るべく突き立った。だが、間一髪、足元より巻き上がった最大の火柱が、身を包むすべての蟲を灰に変えた。


「へぇ……」


 白き王は感嘆の声を上げた。

 アルフレートは口の中に入った蟲を噛み殺し、吐き捨てた。


「いいよ、すごくいいよ。君。僕、君のことが好きになりそうだ」

「それは結構」


 アルフレートは手元の剣に目を落とした。

 炎のように赤かった魔石は一面を罅に覆われて、くすんだ白の向こうにようやく薄い赤が見える始末だった。


――もう何度、火を熾せるだろうか。


 怯んではいない。意気は挫けてない。恐れなど、あったとしても、それに駆られることは万に一つもあり得ない。

 しかしながら、アルフレートの明晰なる頭脳は、非情な勝率を導き出した。

 アルフレートは嘆息しつつ、人が個人の勇気と意思をもって魔人に立ち向かうことの困難を知った。

 そして、同じ困難の渦中にある友を、思わずにはいられなかった。





 クリストフが気迫を吐いて猛然と踏み込んだ。と、同時にエミーリアが跳んでナックラヴィーの間合いから逃れた。

 ナックラヴィーは標的をクリストフに定めるや、不気味なほどの機敏さで向きを変えた。そして、両手を広げ、背筋を伸ばし、覆いかぶさるようにしてクリストフへと襲い掛かった。

 それは捕食者が襲い掛かるさまというよりも、大人が幼い子供をおどかそうとしているような、滑稽さを持っていた。

 クリストフが低い姿勢のままナックラヴィーの懐に滑り込んだとき、魔の両腕は今にも彼を包み込もうとしていた。まさか相討ち――そう思われたとき、


「注意散漫! お留守な子ねっ!」


 エミーリアが風の魔法に乗せて放った魔石が三つ、弾丸となってナックラヴィーに突き立ち、爆発した。


「喰らえやッ!」


 衝撃にひるんだ一瞬の隙は、二人が交わした暗黙の了解の勝機だ。

 うなりをあげて繰り出された拳は馬の首元に吸い込まれ、駆動音が鳴り、杭が突き出された。


――捉えた!


 クリストフは飛び出す杭を凝視しながら確信した。

 ふらふらと揺らいだり、急に機敏に飛び跳ねたり、とにかくこちらの攻撃を躱し続けたナックラヴィーだったが、今度こそは致命的な隙を見せた。

 彼が攻撃の回避と抑止に傾注していた理由わけは、彼の体の虚弱さにあるのだろう。

 皮膚のない体、線の細い人体は白刃を防ぐことなど到底できそうにはない。ましてや、これから彼の身を襲うのは、魔力に押され尋常ならざるエネルギーを秘めた杭である。

 クリストフが確かな手ごたえを感じた次の瞬間、ビシャリと奇妙な音とともに馬の首がおもしろいように宙を舞った。


「っしゃぁ! 決まっ――……」

「クリスッ!!!」


 エミーリアの絶叫がクリストフの背中を打った。しかしその警鐘も彼を動かすには足らなかった。

 彼女には見えていた。爆風に隠れた魔の姿勢は少しも揺らいでいなかった。

クリストフは見た。馬首を吹き飛ばされながら、魔石の爆発にわき腹をえぐられながら、半面を焼かれながら、しかしそれでもなお、両腕を掲げて自らを睥睨する魔人の姿を。

 一瞬でも恐怖にとらわれたクリストフが、その凶腕から逃れようはずもなかった。

 クリストフの体は大きな腕に包まれて軽々と宙に攫われた。そして――


「エ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」


 全身総毛立つような恐ろしい絶叫とともに、地面へとたたきつけられた。





 決して忘れてはならないことがあった。

 自らの生きる世界の仕組み――道理とも常識ともいえるそれは、いかに輝かしき使命と誇りと、聖なるものに心傾ける無邪気さをもってしても、決して目を逸らしてはいけないものであった。

 『魔』は人を憎んだ。自分たちの居場所を奪い、心地よき混沌から闇へと日陰へと追いやった彼らを憎み――そして、それと同じだけ恐れていた。

 『魔』のかれらは程度の差はあれ、みな気づいていたのだ。いかに自分たちが気を吐こうが、魂を燃やそうが、欲望に身を任せて漂泊しようが、肥大する人間かれらを克服することなど不可能であると、その『運命』をどこかで悟っていたのだ。


 しかしだ。それが人の『魔』への優越を証するものであるなどと、思ってはいけない。まさか、そのようなことを吐かすのは、酒場のよっぱらいか、扇動者以外にあり得ない。

 人の眼に映る『かれら』とは恐怖そのものだ。

 それはなぜか、答えはあまりに単純明快――『人』は『魔』に敵わないからである。

 人の大勢を占める一般人は、魔に太刀打ちすることなど到底できないのである。

 人口のうち一握りの騎士や開拓者たちが徒党を組んで、ようやく『魔』に抗することができるが、その彼らさえ、魔人一人の指の一振りで、ものいわぬ血肉に変えられてしまうのだ。

ときに例外が結果を成して『勇者』と呼ばれることはあっても、人は、『魔』に敵わないのが、この世界の、決して忘れてはならない道理であった。


 だから、深き黒き森の宮殿の主、古王ピコリュスが、二頭のたくましい牛に牽かせた戦車を駆って勇ましく反航戦に挑み、手にしたブラヴァでたちまち壬軍の戦車三駟を粉砕し、バルトロメウスの戦斧を砕いて彼に致命傷を負わせたことも、砂漠の女帝ゴモリーが、麾下の軍団を巧みに指揮して、炎帝辛の三師を食い止めたことも、冥府の女神に忠誠をささげた死の騎士団――フレデリック・バルブルースの先頭を行く騎士が、投槍でヨーゼフを殺し、続く騎士が鮮やかな剣技でユリアの首を刎ね、いくつもの騎士が戦車を引く馬に飛びついて、その首をねじ切って足を止め、瞬く間にフィーネの意気を挫いたことも、みな必然と肯ぜられても、意外なことではなかったのである。


 魔群の中央突破を果たし、神威山の山裾までたどり着いた清浜三郎太も、例に漏れることなく、満身創痍だった。

 牙と爪に切り裂かれた羽織袴の裾は数条の短冊となってたなびき、手甲も鉢金も革の胴も、蚩尤のインバネスにさえ、縦横に傷が入っていた。

 ハリマの白毛も三郎太の衣服も、砂と汗と誰に由来するかもわからぬ血潮にまみれて、重苦しく濁った光を放っていた。

 しかしそれが敗残兵の姿に見えないのは、彼の爛々と光る瞳の仕業であった。


 大きく見開かれた両眼は叫んでいた。――しかしそれでも。と

 戦況は利あらず。世の道理を知り、幽玄にして遠大な『運命』なるものを察しつつも、『人』の愚かさと『魔』の正当な憎悪を理解しつつも、それでもなお平然と、恥じ入ることなく、勝利を確信していた。


「――とくと見たか」


 振り返って見遣った先に、蒼き戦乙女――ヴァルキューレがいた。

 三郎太とは対照的に、汚れ一つまとわない清浄な姿は、戦場そこにあってないような、この世のものではない気配を漂わせていた。


「覚えたかヴァルキューレ。さてお主、この度の合戦の最中、幾度、俺の死を予感した。幾度、俺を手助けせんと、傲慢な考えを起こした」


 フードの下、ヴァルキューレの瞳は厳しく三郎太を睨みつけていた。


「俺はお主らの如きが気に喰わん。清浜三郎太の刃の切れ味は、清浜三郎太の修練こそが決めるのだ。加護だなんだのと――たわけめが」


 人ならざるものに、高所より見下され、品定めされるのはもうたくさんだと、三郎太は敵意さえ滲ませながら、吐き捨てるように言った。


「だから、のう。――あの日の邂逅よりの問い、答えは得たであろう。いよいよ見定めたであろう」


 三郎太はアデーレからヴァルキューレの由来を聞いている。

 彼女は何者かに誑かされて、清浜三郎太を魔王と信じ、その討伐のためにヴォルフスの勇者を結集し、策動していたところを、捕まったのだという。

アデーレと、皇帝フリードのいうところによれば、「牧羊犬ヴァルキューレ号は鼻かぜをひいている」と。


「しかし、俺に言わせてみれば、清浜三郎太は『魔』か『勇者』か――その題目がそもそも間違っているのだ。俺は初めからそのどちらでもないのだから。つまり、お主は鼻かぜではなくて、熱病に侵されていたのだな」


「働いておらぬのは、頭の方だったわけだ」得意げに語る三郎太に対して、眉一つ動かすことなく、ヴァルキューレは不吉な沈黙を保っていた。


「理解したのならば、とく去ね。かくも異形を率い、外道の合戦を行い、混迷を起こし、無謀を起こすものが、『勇者』であるはずがあるまい。お主はまことにお主が尽くすべきもののために、尽くすべきだ。いつまでも高みの見物とはいかぬぞ、お主の戦場は用意されておる」


「それとも」と、三郎太は逆安珍の太刀を立てながら、言った。


「いよいよ病に頭をやられ、俺を魔王と断じるのならば、さような無礼は捨て置けぬ。手討ちにいたすぞ!」


 しかしヴァルキューレは三郎太の威嚇に動じることなく、むしろ一瞬だけくすりと笑ったようだった。

 しかし、すぐに元の厳しい表情に戻ると、言った。


「ねぇ、今も私のことが怖い?」


 静かに、それでいて断ずるように告げられたそれは、三郎太の自尊心を深く傷つける台詞であり、事実だった。

 魔人ヴァルキューレが三郎太の肝を冷やすことは、邂逅以来片時も変わらぬことであった。

今度は、三郎太が押し黙ることになってしまった。


「答えなくてもいいよ。これは本当に意地悪な質問だから」

「…………」

「私もね、あなたのことは大嫌い。あなたは本当に嘘つきだから。だけど私は、本当のことを言うよ、あなたのためにも」


 三郎太は太刀を構えたまま、動くことができなかった。ヴァルキューレは白馬にまたがったまま、ただ手綱を握っているだけなのにも関わらず、三郎太は、のど元に不可視の槍を突き付けられている気さえしていた。


「勝手な人、考えるたびにほんとうにむかつく。――さっきだって、私たちの手助けなんていらない、高所から見下すなって言っていたけれど……信仰を失ったことなんて一度としてなかったくせに」


「まぁそれはいいとして、本題なんだけど」ヴァルキューレは続けた。


「ねぇ、あなたが『勇者』の称号を毛嫌いするのは、その称号を受け入れたとき、あなたは本当に『此方こちらの勇者』になってしまって、『彼方あちらの武士』ではいられなくなるから。……そうでしょう?」


 いつのまにか、フードの下のヴァルキューレの表情かおには、きわめて嗜虐的な笑みが浮かんでいた。


「あなたの逡巡、よくわかるよ。でもほら、あなたと一緒にいるうちに、最悪なご飯を食べさせられて、寝心地の悪いところで寝かされて、日に何キロも歩かされて、急で無茶な命令に従っているうちにさ――私、風邪、治っちゃったから」

「…………」

「魔人だから、やっぱり欲望には素直になっちゃうし――」


 三郎太はヴァルキューレの背後、彼方の戦塵を見た。

 敵を指し、名を呼んで、討てと命じた。それに従ったかれらがいた。

 死闘に身を投じる若人の姿が、目前に浮かんだ。

 己でさえ・・・・この戦場にこれほどまでに苦戦したのである。かれら若者が対している苦難は想像して余りある。

 血を吐き、骨を折り、刃の欠けるほどに闘争心を燃やし、信じるものを信じ続けるかれらの姿は、痛みをともなって三郎太の心中にあふれた。


――俺は、秩序の藩屏だ。


 三郎太は揺るがぬ決意を復唱した。そして、守るべき秩序に、彼らの存在を認めた。


 少年少女の姿が、あまりにも輝かしく、尊く、愛おしいのだ。

 平凡なる日常と、青春とに幸あれと叫びたいのだ。どうか争いにも、憎しみにも、苦難にもあってくれるなと願いたいのだ。

 それでも譲れぬもののために立ち上がり、あえて戦いに身を投じる勇気に称賛を浴びせたいのだ。

 街中に咲く、老若男女の幸福を、営みをこそ、守りたいのだ。


 上は天朝を下は民草を――秩序を守るために幕藩があって、武士があった。

 だがいまや、世界は境界に分かたれて、彼方のことは声も聞こえず見えもしない。それでも武士おれがいて、守るべきものは明白だった。


――そのためなら、いまさら彼方あちらとの決別がなんだというのか。秩序の藩屏――清浜三郎太の武士道は、確かにここにあるのだ!


 うなずいて、受け入れたそれは、意外なほど素直にすとんと胸に落ちた。


「――ヴァルキューレ、申し付ける。あの者どもに『祝福』を」


 肯いて、ヴァルキューレは両手を握りしめた。


「天にまします父なる一柱、その娘の名において使命を果たすために――了解、『私の勇者マイ マスター』」





「へへ……残念だったなぁ……!」


 弱々しい呟きは、エミーリアの耳にはっきりと届いた。


 ナックラヴィーは足下に気を失ったクリストフを人質とし、その場から動くことなく、エミーリアを翻弄していた。

 エミーリアは何度もクリストフを救おうと攻めかかったが、俊敏なるかの魔人には、懐に飛び込んで、男一人を抱えて離脱するほどの隙などありはしなかった。

 肩で息をしながら、それでもエミーリアは決してあきらめなかったが、戦いがこのまま続くとしたら、勝敗が明らかであることは、理解できた。

 万事休す。掲げた剣の切先が地面を指し始めたその時に、彼の不敵な声が聞こえたのだった。


「勝利の女神サマは俺たちの側にあったんだぜ、ずっとずっとなぁ……!」

「ァー……?」

「目ぇ逸らしてんじゃねぇぞ。俺からも、現実からもッ……!」


 クリストフは左腕の杭で体を地面に固定して、右腕でナックラヴィーの脚をつかんでいた。


 蒼き光の祝福は、勝利と希望を掴み取った、彼の右腕に宿っていた。


「もうとっくに終わりだろうがよ……お前らの時代は……――やれっ! エミーリア」

「……っ! 『インカーネーション――」


 ナックラヴィーは暴れた。叫んで吠えて、暴れに暴れた。

 地団太を踏んでクリストフをめちゃくちゃにし、天を仰いでおぞましい悲鳴を上げてから、また下を見て、それでも己を捉えて離さない小さな生き物を目にし、恐怖の叫びをあげた。


「――ペルセウスッ!』」


 横薙ぎに放たれた聖剣の光芒が、海の怪――ナックラヴィーを上下に断った。

 宙に舞ったナックラヴィーはそれでも生きていた。べしゃりと地面にたたきつけられても、上半身だけで這って、何処かへ逃れようとした。

 精根尽き果てた二人の若者に、彼を追う力は残されていない。だが、それでも、二人の表情は勝者のそれであった。


 エミーリアは『幸運』なのである。


 二人の勝者が拳を突き上げて互いを讃えあったその直後、文字通り這う這うの体で逃れようとするナックラヴィーを呑み込んだのは、大運河の闘争から溢れた淡水の大波だった。


 そうして『祝福』は勇あるもの、聖なるものに降り注ぐ。


 バルトロメウスの戦斧は確かに砕けた。飛び散る破片は深々と突き刺さって血を滲ませた。しかしそれでも、自らに課せられた使命を遂げようとする信念は聊かも揺らいではいなかった。


 戦車が一駟また一駟とピコリュスにぶつかっては砕かれた。

 怪物的な力の牛が頭を振るえば両角が馬を串刺しにし、魔人の膂力で振り下ろされるブラヴァは車人の頭を割った。

 それでも、炎帝の兵士たちは、ちぎれた腕で車輪をつかみ、引き抜かれた頭で噛みついた。貴人までもが、己が血煙と果てるのと引き換えに、強烈な戈を胴に打ち込んだ。


 壬軍の十五駟が全滅した直後、静寂が訪れた。ピコリュスは疲労とおのれにとりつく壬軍の残骸のために戦車を止め――貴人の戦車の傘の陰から飛び出したバルトロメウスは空中にあった。

彼のピコリュスを討つ方策は極めて拙劣だった。武器もなければ魔石もない。拳を頼りに力を振り絞るには血を流しすぎた。


――おれも勇者だと息巻いておきながら、このザマかよッ!


 悔恨と恐怖が沸き上がった。

 もっと修行を積んでさえいれば。もっと戦術の座学に打ち込んでいたら。

 恐ろしいのは自らの死ではない。敗北――ただそれだけが何よりも恐ろしかった。


 清浜三郎太の声は、貴人の笑みは、どちらもバルトロメウスの勝利を疑っていなかった。

 そうして轍を示した者がいたのだ。かれらの期待を裏切り、その歩みを無価値にすることは許されない。

 輝かしき少年少女の雄姿に魅せられて、かくあらんと決意し、俺も勇者だと叫んだのだ。

 そうしてちっぽけな勇気をかき抱いて自ら前に進んだのだ。

 それを、いつかこの日を振り返った誰かが、「さても凡人が背伸びをしたものよ」などと、残された草花に嘆息されるのは我慢ならない!


 だからバルトロメウスは、ただ徒手空拳でピコリュスに飛び掛かった。

 思慮分別もなく、自らを勇者たらしめる勝利――それだけを掴み取るために、右手を伸ばした。


 その俗物的な祈りは、しかし、ひねくれものを放っておけない彼女にはしかと届いていた。

 蒼光は雷霆のごとくして、振り上げたバルトロメウスの右手に収まって、柄の短い戦鎚となった。

 バルトロメウスにはそれが破魔の鎚と気づく余裕すらもなかった。ただ精一杯に振りぬいて、ピコリュスの頭蓋を砕いたとき、雷鳴の轟音を聞いたのみだった。





「さてさて、まさか今生の終わりに、かくも美しいものを見せられるとは……」


 ゲオルグ・アイヒマンは、三方より輝く剣に貫かれながら、そう言った。

 右手を落とされれば左手で剣を握り、左手を落とされれば口で。飄々とした態度とは裏腹の鋼の執念で戦い続けたゲオルグも、ついに剣を取り落とし、動きを止めた。


「一人は確かに嫌悪していた。彼の粗暴にして、野卑野蛮なるを。憎んで恨んで……しかし、敬愛する聖女を失うや、彼女に向けていた憧憬を、彼女と運命を共にしていた、嫌悪すべき男に向けた」

「…………」

「一人は確かに憎悪していた。彼の恩人を殺めるを。薄汚く、理不尽な陰謀に巻き込まれた無力な女子、それを救う者は英傑だ。兄と慕うのは肯けるが……その英傑を殺したものを慕うとは、どういうわけだ? 陰謀の根源、汚泥の中に安寧を得れば、かくも変節するものなのか?」

「…………」

「一人は確かに恐怖していた。彼の破壊と暴力と揺るがぬ価値観とに。痛みは誰もが恐れるところだ。圧迫は誰もが忌避するところだ。それを疎ましく思うのは道理だ。価値観の対立は最悪の闘争だ。しかし、それにむしろ快を感じるものがいるという。不可解なことだ」

「…………」


「あなたには、わからないでしょうね」


 三人の、蒼く輝く剣を握る手に力が籠った。


「私は出来た聖女なので、無様に苦しみもがいて、懊悩しながらも、それでも自分の道を突っ走ろうとする愚か者には、嫌悪感以上に哀れみを抱いてしまうんですよ。おせっかいをやくには、追いかけて、追いつかないといけない。そうでしょう?」


「あんたは難しく考えすぎなんだよ。私は嘘が嫌いなだけ。大人はみんな嘘つきだ。特に、嘘をついて善いことをしたなんて思ってるやつはサイテーでサイアクだ。だから、嘘を暴いて真実を明らかにして、その傍にいるんだ。だからまずは、あいつをぶちのめさなきゃいけない――正々堂々と」


「どうして、あなたたちもあの人も、好んで殺し合いなんてするんですか。どうして非日常の中に身を置き続けるんですか。平凡な幸せが、日常そこにあるんだから、戻ってきてって思うことは、間違ってなんかないですよ!」


「クヒヒ……キヒヒ……いいですねぇ……素晴らしい変節だ。感情は反転し増幅し、いまでは彼の四肢をへし折ってでも、彼を監視下に、いや、飼育下に置きたいと思っている。そう――」


 断ち切られるように、声は途絶えた。

 ゲオルグの首は地に落ちて、それ以上を言うことはなかった。


「――だから、あなたたちにはわかりませんよ。永遠に」


 みな、満身創痍であった。それでも鋭い剣尖を見せたセシルが『赤口』を納めて言った。

 ノエリアもシオーネも、しょぼくれた顔で立ちすくんでいた。ゲオルグの声が胸の内で反響しているに違いなかった。


「まぁ、急場で口が回らぬのは仕方がないか」


 そう言ったのは、これまた満身創痍――どころか、瀕死のオブライエンだった。


「皮肉な話だ。混沌に焦がれる魔の味方をしておきながら、おのれは単純な生き方しかできなかったのだ。人の心は営みの中で気づく間もなく移ろうもの。だから、お前らは、こういってやればよかったのだ。『ざまあみろ。これが人間だ』とな」





 白き王ベルゼビュートにしてみれば、急転直下意外の出来事であった。

 ともすれば戦局の不利に絶望し、弱々しくうつむいていた小さな民が、矢庭に魔法ルーンを叫んで魔石を砕き、蒼炎を纏って稲妻の如く地を奔ったのである。

 不意を衝かれたのもあるが、その速さは並ではなく、声を発する間もなく、彼は白き王の目の前にいた。


 だがそれも、アルフレートにしてみればなんのこともない。

 ただ、勝機――戦乙女の微笑み――を得たその瞬間に、為すべきことを為したまでである。


 黒雲の如き蟲の群れが沸き立った。満たされることを知らない貪食の蟲達が、主の盾となり、刃となるべく、アルフレートの眼前に充満した。

 幾度となく繰り返した攻防だ。そのたびに、アルフレートの刃は僅かに白き王に届かなかった。

 今度もそうなるに違いないと、白き王に冷笑が浮かんだそのとき――まさしく、黒雲に雷が奔った。

 蒼電一閃、真一文字に黒雲を切り裂いて、燃えつつ焦げつつはらはらと残骸が落ちていく――その向こうに、傷だらけの全身に力を漲らせ、見開いた目に必殺を浮かべた勇者がいた。


「この結末は、小生一人の罪ではない。むしろ、小生一人が貴殿の生涯に責任を負おうなどとは……傲岸不遜にもほどがあるというものだ」


「しかし……なぁ」そう言いながら、アルフレートは糸が切れたように座り込んだ。

 残ったのは悪臭ばかりだ。蟲の焦げる臭い……人の焼ける臭い。


「このぬぐい切れぬ悔恨と罪悪感は、貴殿の最期を看取った小生一人のものだろう――語り合わなかったこと、どうか許せ。いにしえのようにはいかないのだ。貴殿も、我らも」


 大の字に俯せて、燃え続ける王だったもの、万人に仰がれたもの。

 蒼炎は決して大きくはないが、衰えることもない。無惨であり、哀れな景色であった。





 鯀と共工が大運河を逆巻かせ、濁流を巻き上げて水の魔獣を押し出し、食い止めているその上空を、魔の一団が越えようとした。

 有翼の魔獣たちは確信した、「かれらは強い!」

 同朋のような姿形でありながら、得体の知れない気配を漂わせ、由来も正体も分からない。だが間違いなくかれらは敵であり、並々ならぬ強敵であると、理解した。ゆえに魔獣が目指したのは柔肌の人々であった。

 大運河に暴れる化生の向こうでは、奇怪なほど静まり返った川面に並べたはしけを渡る幾千の連合軍がいる。それらであれば、さらには、その先の首都の中にいる人間であれば、蹂躙するにはたやすく、阿鼻叫喚の中に、混沌と混迷の世界が現れるはずだった。

 そんな彼らの目の前に、濛々と雨雲が湧きたったのは、環境の偶然がなす自然現象の一部であったか、それとも、ある男の悲壮で真摯な信仰の告白に心を揺さぶられた移り気な神の落とした、大粒の涙がなした祥瑞であったか。

 雨雲を仰いだ壬軍と癸軍の中からどよめきのような、祈りの歌が唱えられ始めた。そして、壬軍の主は哀れなる一本足の牛の皮から作った太鼓を雷獣の骨で打ち叩き調子をとって、癸軍の主は、役目を果たしたにも関わらず故郷を追われた哀れな竜のすがたをまねて舞い、雨雲を讃えた。

 黒々とした雨雲はたちまち内に雷霆を抱きながら、暴風雨とともに広がって、有翼の魔獣を呑み込んだ。


 そして、まさにその暴風雨の下に突入する数十騎があった。遠目に見れば一丸となって大運河の左岸を下るその集団は、砂漠の女帝ゴモリーとその軍団。炎帝辛と辛軍、壬軍、戊軍、己軍。死の騎士団フレデリック・バルブルース、そしてフィーネとコンラート、甲軍、丁軍からなっていた。

 一団はまるで一塊となって、敵味方相乱れているのかと思いきや、そうではなかった。

 砂漠の軍団と死の騎士団は常に大運河の側を走り、征軍は常にその外側を走っていた。

 両軍は火花を散らしつつ並走し、ややもすると征軍が魔群を今にも追い落とそうとしているかのような形勢となっていた。

 この事態を生み出したのは、フィーネであった。蒼光を放たんばかりに鋭い眼差しは、精緻にそして怜悧に戦場を見据えていた。


 三郎太の突破口を切り開いたまではよかったものの、死の騎士団とぶつかるや、フィーネに預けられた軍勢は瞬く間に一撃を浴びせられて出鼻を挫かれた。意気揚々と采配を振るったその結果、同郷の者が声もなく散った。

 にわか仕立ての軍勢に、巧妙な攻撃など望むべくもない。しかしかといって同じ攻撃を繰り返せば犠牲だけが増えていく。

 フィーネは極めて冷静に――開き直った。


 手元の戦力で勝利が見込めないのであるならば、他の何か・・を外から連れてくるしかない!


 そうして集めたのが砂漠の軍団であり、炎帝辛の戦車隊だった。

 時折、騎士団の中から二、三人が、一塊となって囲みを破るべく戦車隊に打ちかかってきた。そのたびに戦車隊は緩やかに距離を空けつつ、弓矢を放って騎士団を牽制した。

 騎士も深追いはせず、群れの中に戻っていく。孤立すれば、たちまちに囲まれて討たれることは必定であった。

 これを指揮するのは帝辛であった。

 フィーネは地の利を得ることに注力した。時には戦車隊が間合いを誤って、隙を生むことがあった。戦場を俯瞰しつつ、それを抑えるのはフィーネの役割だった。個別の戦いは、それぞれが本領を発揮してくれている。


 決め手には欠くが、砂漠の軍団も死の騎士団も互いが互いを圧迫し、地形も相まって、ただ前へ進むほかに身動きが取れなくなっていた。


 そして、最後のピースは必ず埋まると、フィーネは確信していた。

 それは蒼い電撃のような天啓であり、現実味のある予測であった。

 なにせこれは天地を震わす異形の大戦争であり、人魔の大決戦であるのだから、人智も常識も超えた出来事が起こるに違いないのだから。


 ずずずずず――異色の地鳴りが内臓を揺るがしたその瞬間に、フィーネは大運河から離れるように叫んでいた。


「みんな離れて! 一秒でも早く……一歩でも遠くッ……!」


 御者が必死の形相で鞭をくれた。恐るべき何者かに道を譲るかのように、外へ外へと距離を空けた。

 砂漠の軍団も死の騎士団も気づいたが、遅かった。


 必死に避けて――否、逃げて、恐る恐る顔を挙げたフィーネの視界一面に映ったのは鱗のきらめきであった。


 フィーネの眼前に現れた地響きを鳴らす長大な鱗の壁――それこそ龍蛇、北竟大帝の忠実なる下僕、邪龍ヨルムンガンドだった。

 敵も味方も区別なく、道を阻むすべてを押し流し、圧し潰し、蹂躙しながら、彼の猛り狂う

縦に裂けた眼はただ一点――連合首都の城壁を見据えていた。

 城壁を崩して、中にいる小さく弱き生物を殺し尽くせば、この空も割れるに違いないと、元来無機質無感情な眼に憤怒をいっぱいに宿しながら、彼はひと時も休むことなく破壊の行軍を続けた。

 その巨体の猛威を止められる戦力は、もはや征軍には残されていないかのように見えた。

 連合軍の殿しんがりがいよいよ覚悟を決めたとき、最後の伏兵が現れた。


「「「呵呵呵呵呵呵!」」」


 聞くもおぞましい九つの声が響き渡った。

 蛇体の頂にたわわに実った老若男女九つの頭を持つ異形――相柳氏。

 かれの表情は友たる『エン』が寄る辺を見つけたことを見届けた喜びに、不気味に歪んでいた。


「あっぱれ清浜三郎太」

「吠えただけのことは成す。士大夫の気概とはかくあるべきよ」

「山のものどものために使送させられるのは気に喰わないが」

「我らが炎帝に万歳あれ|」


身をくねらせて叫ぶかれらは、この戦場においても存在感だけは第一流であった。

ヨルムンガンドと比べてみれば、むしろかれらの方が、世界に仇なす魔獣然としていた。


 しかしその体躯はヨルムンガンドに比べれば一回り以上も小さい。

 個の争いであるのなら、体躯の大きさこそが勝敗を分ける決定的な要素である。野生の掟に反さず、勝負は一瞬にして決まった。

 ヨルムンガンドは北竟大帝の直臣の面目躍如ともいえる恐ろしい機敏さで、あっという間に相柳氏を締め上げると、大口を開けてそのあたまを飲み込むように噛みついたのである。


 異形の化け物が、音を立てつつひしゃげながら体液をまき散らし、かみ砕かれるさまは身も凍るような景色であり、見るものにはこれから起きる殺戮の序幕のように映った。

 だが予想に反し、ヨルムンガンドは相柳氏に食らいついたまま離れず、やがて、こわばった全身から力を抜いて、だらしなく、身体を横たえたのである。

 まもなく強烈な腐敗臭が、絡み合う二つの巨体から放たれ始めた。

 ヨルムンガンドは相柳氏の毒によって死んでいた。





「気に入らんぞ」


「してやったり」と悪辣な笑みを浮かべるヴァルキューレに向けて、三郎太がそう言った。


「結局のところ、行き着く先は同じではないか」


 三郎太はヴァルキューレをして『勇者』である彼らを『祝福』させようとしたのだが、ヴァルキューレが望んだのは『勇者』である三郎太に命じられて、彼らを『祝福』することだった。


「言ったでしょ。私、魔人だし、あなたのこと嫌いだし」


――こやつのいいように弄ばれた。


 そう不満に思いながらも、しかし三郎太の表情は穏やかだった。

 三郎太が送り出した勇者達かれらは為すべきところを為した。

 失われた命に口惜しさを覚える一方で、犠牲に見合うだけの多くの命が救われたことに、凡人然とした安堵があった。


「それに、同じなんかじゃないよ」


 言い含めるように、ヴァルキューレは告げた。


「あなたがあなたらしくあったから、私は導かれた。こうしてみんなを助けることができた。だからあなたは武士それを捨てる必要なんかないし、勇者の称号だって嫌わないでほしいな。あなたと繋がったすべてが、きっとそれを望んでいる」


『怒らずに、こう呼ぶことを許しておくれ。私達の勇者(・・・・・)


 西なる神の山で、そう言った彼女の表情は、泣きそうな笑顔だった。


 彼女たちの言葉は決して呪いではなかった。

 勇者という型に三郎太を押し込もうとしたのではなく、勇者という役を、舞台に演じさせようとしたわけではない。三郎太の在り方に勇者を見つけたにすぎないのだ。


 もしも後世が、三郎太の道程を顧みて、「是ハ勇者ナリ」と注釈を加えるのだとすれば、三郎太はそれを誇りとするだけである。


「達者でな。やつらを頼むぞ、ヴァル」

「うん。またね、マスター」


 蒼光とともに、彼女は消えていた。

 大好きなかれらのもとに、向かったのだろう。


「さて――仕上げにかかるか、ハリマ」


 三郎太は友の首を撫でながら、言った。

 目の前にそびえたつ神威山は怨敵の牙城であり、魔の棲処だ。

 しかしそれ以前に――、


「――おぬしの山だ。■■■ハリマ


 駆けだすと同時に、空より数条の雷が降りそそぎ、山に火の手が上がった。

 つぶて混じりの暴風が吹き荒れて、残る魔を襲った。

 焔は、全てを清算するかのように燃え広がりながら、清浜三郎太の道を顕した。


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