対面
「疲れた」
そうパソコンのメモ帳に書き残した。ニュースによればこれだけで遺書として成立するらしい。派手な死に方はいらない。生命保険も入らなくていい。どうせ受取人は妻のみだ。僕をいかにして早く殺そうかと企んでいるあんな女に、僕が死して尚得するような事だけはごめんだ。
どうせ生きていることに意味などない。会社に使われ、妻に煙たがられる毎日だ。唯一申し訳なくなるのは、両親に貰った命を自ら断つことだ。あの世で謝ろう。そんな世界があればの話だが。
首に縄をかけ、玄関のドアノブにひっかけた。第一発見者は妻だろう。驚いた顔が目に浮かぶ。それと同時に、葬儀で偽物の涙を流す姿もだ。何度この決意をし、何度この行動を取ったのだろう。その度にあの悪辣な皮肉を言う表情が思い出され、あんな女に最後の瞬間を見られるのかと思うと悔しくなって踏みとどまった。思い返してみれば、妻が原因で踏みとどまった、妻に救われた命と言っても過言ではない。
そういった情けなさに今回は嫌気が差して死にたくなったのだ。
あと少し、力を込めれば首の縄は締まる。36年。こんな世知辛い現代で、よく生きた方だ。さあ、死のう。中腰の姿勢になり、足に体重をかける。グッっという表現が一番しっくりくる感覚が、喉を圧迫する。まだ、苦しい程度だ。これでは死ねない。徐々に足に力を入れる。死んでやるのだ。絶対に。
そこで、インターホンが鳴った。
誰だ。よりによってこんな時に。妻ではない。妻ならいちいちインターホンなど鳴らさない。当然だ。妻にとってもここは我が家だからだ。つまり、来客か集金か宅配である。宅配便なら一度鳴らして留守だと判断すればそのまま不在通知を残して帰るだろう。しかし、インターホンはもう一度鳴った。可能性は二つに絞られた。集金か来客だ。
我が家は一軒家であり、ここは既に他界している両親の家である。世間的に見れば相当の金持ちであり、玄関とは離れたところに門が設置され、インターホンはそこについている。金持ちであり、と言ったが、正しくは金持ちであった、である。遺産は既に使い果たした。妻のくだらないオカルト趣味によって、膨大と言っても過言ではないほどの金額が奇妙な面や不気味な本に消えて行ったのだ。
この玄関にも、趣味の悪い仮面が一つ飾られている。見ていると不安になるような表情で僕を看取ろうとしている。
掛けられている時計をちらりと見た。時刻は昼の11時。この時間ならばおそらく新聞の集金だろう。佐前田さんか大川山さんあたりだ。すまないがもう僕が払うことは無い。今日の夕刊か明日の朝刊に載るから許してくれ。くだらないことを考えているうちに、三度インターホンが鳴った。こんな時にでもユーモアがある自分に関心していたのに、それを打ち消すなんて。なんて無礼な奴なのだ。紐の余裕を活かして振り返り、玄関の鍵が閉まっているか確認する。体の向きを変えるときに強く首の圧迫を感じた。踏ん張るのに限界を感じたら体をひねればいいのか、と新しく知識を得たことを喜ぶ。これでまた死に近づいた。
振り向いて確認したが、そんなことそもそも必要あるのか疑問に思えた。門を抜けて来るような不躾な知り合いなどいない。あの集金の鬼であるNHKでも、インターホンを三回押して出なかったら、大抵はそこで帰る。さあ、改めて死のう。体をドアとは反対に向け、力を入れる体制に戻った。これで面倒な喧噪にも、妻のつまらない嫌味にもおさらばだ。
そう思った矢先、体を後ろに引っ張られた。ノブにかかった紐に、だ。玄関が開いたのだ。首を強く締め付けられる。誰がドアを開けたのだ。苦しい。何が起こっている?どうなっているのだ。
まさにパニックだった。仰向けの体制に転んだ。なおも引っ張られ、首は締まり続ける。完全に窒息するまでしまっているようで、呼吸なんてできそうもない。望んでいた死を前に、僕が取った行動は必死に首と紐の間に指を入れ、なんとか息を繋ごうとすることだった。転んだ先を見上げると、男が立っていた。スーツに手袋で、驚いた顔をしていた。
「お、おい!おい!あんたどうした!大丈夫か!?」
僕に声をかけてくる。それはそうだ。ドアを開けたらそこから、首を紐で結ばれた男が転がって来たのだ。男に見覚えはなかった。小奇麗な格好で、整った顔立ちをしているが、僕より老けている。45か6、といったところだろう。仰天を絵に描いたような表情で僕を見下ろしている。僕はさぞみっともない格好をしているだろう。口の周りが冷たく、中はもわもわする。泡でも吹いているのだろうか。ゆっくり視界が暗くなっていく。ああ、もしかしてこのまま死んだら、他殺になってしまうのだろうか。すまないことをした。どういう経緯で我が家を訪ねたのかは知らないが、この人の対応次第では最高で殺人、通常で過失致死くらいにはなってしまうかも知れない。だからそっと死にたかったのに。なぜドアを開けたのだ。 い や 待 て。
なぜドアは開いたのだ。
鍵は閉まっていたのに。