夏のホラー2026『ブラウンノイズ』
これはね、去年の秋ごろ来た疲れた顔のお客さんが話してくれた話。
奥さんが入院したって、しんどそうに飲んでたの。
気の毒な話よ。
◇
眠りが浅くなったのは、更年期のせいかもしれない。
奥さんがそう言ってたんだって。
それでね、あちこち相談した末に、「睡眠用ブラウンノイズ」っていうのを試してみることにしたの。
滝の音とも海の音とも雑踏の音ともつかない、「ざぁー」っていうだけの動画をスマホで流して、枕元に置いて眠るやつ。
試した最初の朝ね、奥さんが「朝までぐっすり眠れた」って喜んだのよ。
それが始まりだったのね。
数日したある夜中に、旦那さんが目を覚ましたの。
部屋の中で誰かが囁いてる声がする。
どこかから聞こえるのか探したら、奥さんのスマホから聞こえてくるみたいだった。
別に大きな音でもないし、別な動画でも再生しちゃったのかなって、その日はあまり気にしないで眠ったんだって。
それからまた数日して、奥さんの様子がおかしくなってきた。
朝起きると、なにかブツブツ呟いてる気がする。
聞いたら「なんか変な夢を見るようになった」「誰かと一晩中罵り合ってた気がする」って。
そこで旦那さんは夜中の声のことを思い出したんだって。
すごく驚いてね「早く言ってよ。気持ち悪いから、もうやめる」って。
奥さんは、それからブラウンノイズは聞くのをやめたの。
でもね、体調不良は続いたんだって。
だんだんと目が落ち窪んで、やつれていく奥さんを心配してね、今度の土曜にでも病院に行こうかなんて話てたんだけど。
お互い仕事もあるし、その日は早く寝ようってことになったのね。
早く寝すぎたせいかしらね、旦那さん、また夜中に目が覚めた。
横を見ると奥さんがいないの。
トイレかなと思って自分も部屋を出たら、台所からね、声が聞こえた。
そっとのぞいてみたら、誰もいない真っ暗な部屋に向かって、奥さんがブツブツ言ってたの。
ゾッとして、恐る恐る「どうした?」って声をかけたらね、突然「うるさいっ! もうしゃべるな!」って叫んで。
両手に持ってた菜箸をね、自分の耳に突っ込んだんだって。
それからはもう大変だったらしいわ。
暴れる奥さんを血だらけになって抑え込みながらね、救急車を呼んで。
DVまで疑われて、旦那さんは取り調べを受けたらしいのよ。
まぁ疑いはすぐ晴れたらしいんだけどね、奥さんはそのまま入院することになったんだって。
お医者さんが奥さんから聞き出した話によるとね、毎晩眠るたびに耳元で「死ね」「気持ち悪い」「居なくなれ」って声が聞こえる。
耳をふさいでも遮れない。
自分の耳の穴の中で誰かが騒いでいるんだって気がついて、菜箸で潰してやったんだって。
鼓膜は破れてた。
――でもね、声はまだ聞こえてるんだって。
鼓膜が破れてるのに、あの声だけははっきりと。
その人はしばらく黙って飲んでたんだけどね。
いくら飲んでも酔わないみたいで、大きなため息と一緒に、こんなこと言ってた。
「最初に声が聞こえたときに、止めてやればよかったんですよね」
「しかたないわ。だってまさかこんなことになるなて、誰にも予想できないじゃない」
「いや、止めるべきだったんです。……だって今度は、わたしの耳元でも聞こえるんですから」
あたしはなんにも言えなかったわ。
ただね、テーブルの上にあったマドラーは、さすがに隠したわよ。
――了




