EP 65
港町の夜、禁断の生魚と冷酒
アルクス伯爵、佐藤太郎には秘密があった。
卵かけご飯という禁忌を犯してなお、満たされぬ日本人の業。
それは――。
(刺身が……食べたいッ!!)
新鮮な魚の切り身に、醤油とわさびをちょんとつけて口に運ぶ。そこへキリッと冷えた日本酒を流し込む。
想像しただけで唾液が止まらない。
しかし、この世界で魚といえば「しっかり焼く」か「煮込む」か「干す」のが常識だ。生魚を食べるなどと言えば、「正気か? 腹を壊して死ぬぞ?」と白い目で見られるだろう。
最愛の妻たち、サリーやライザに「太郎様が野蛮人になっちゃった……」と引かれてしまうかもしれない。
(でも! 食べたい! どうしてもだ!)
太郎の欲望は限界に達していた。
そこで彼は、ある邪な計画を思いついた。
「そうだ……港町に『視察』とか適当な事を言って、現地でこっそり釣って食べよう」
海なら新鮮な魚が手に入る。誰にも見られずに処理して食べてしまえば完全犯罪だ。
執務室にて、太郎はキリッとした顔でマルスに告げた。
「マルス。港町ポートセーリの視察に行きたいんだが」
「はぁ? ポートセーリですか? あそこはアルクス領から少し離れていますが……」
「あぁ。今後のアルクスの食糧事情を考えると、農業だけでなく漁業との連携も重要だ。新鮮な魚介類の流通ルートを確保したいんだよ」
もっともらしい理由を並べ立てる太郎。
マルスは少し考えたが、主人の真剣な眼差し(実は食欲)に感服し、頷いた。
「……流石は太郎様。常に領地の未来を考えておられるのですね。畏まりました、直ちに手配致します」
(やったぜぇぇぇ!!)
太郎は心の中でガッツポーズをした。
数日後。太郎、サリー、ライザの一行は、海風薫る港町ポートセーリに到着した。
磯の香り。カモメの鳴き声。
太郎のテンションは最高潮に達していた。
しかし、ここで誤算が生じた。
「ようこそ! 救国の英雄、アルクス伯爵様!」
「歓迎致しますぞー!」
町を挙げての大歓迎を受けてしまったのだ。
S級冒険者にして伯爵の来訪は、田舎の港町にとって一大イベントだった。
その夜、町長主催の盛大な歓迎会が開かれた。
「さぁさぁ! 特産の魚の塩焼きですぞ!」
「こちらは魚介の煮込みスープです!」
テーブルには豪華な料理が並ぶ。どれも美味しい。美味しいのだが……太郎が求めているのは「加熱された魚」ではない。
(ありがたいけど……こんな事をしに来たんじゃないッ!)
太郎は笑顔で対応しながらも、心の中では泣いていた。
宴もたけなわとなり、人々が酒に酔い始めた頃。
「ちょっと夜風に当たってくるよ」
太郎はそう言い残し、こっそりと会場を抜け出した。
人気のいない夜の防波堤。
月明かりが海面をキラキラと照らしている。
「ここなら誰にも邪魔されない!」
太郎はスキルウィンドウを開き、『釣り竿セット』と『強力集魚灯(LED)』を取り出した。
さらに『冷酒(300ml瓶)』を氷水が入ったバケツで冷やしておく。準備は万端だ。
「来い! 来い! 俺の刺身!」
太郎は怨念にも似た気迫で糸を垂らした。
すると、竿先がグググッとしなる。
「きたぁぁぁッ!!」
ビチビチビチッ!
釣り上げたのは、銀色に輝く背中の青い魚。アジか、サバの仲間のようだ。
「よっしゃああ! 青魚だ! 脂が乗ってるぞ!」
太郎はその場で**『刺身包丁』と『まな板』**を取り出し、手際よく魚を三枚におろした。
皮を引くと、銀色の身とピンク色の血合いが美しいコントラストを見せる。
「盛り付け完了!」
皿の上に並べられた刺身。
小皿に醤油を垂らし、チューブのわさびを添える。
太郎は震える手で刺身を箸でつまみ、たっぷりと醤油をつけて口へ放り込んだ。
「んんっ……!!」
プリプリとした食感。噛むほどに溢れ出す魚の脂の甘味。それを醤油とわさびが引き締める。
すかさず、キンキンに冷えた冷酒をキュッ。
「くぅぅ……最高だろ! こりゃあ堪らんなぁ!」
波の音をBGMに、生魚と酒。これ以上の幸せがあるだろうか。
太郎が独り言ちながら、二切れ目に手を伸ばした、その時だ。
「……太郎様? 何をしているのですか?」
背後から、氷のような冷たい声が聞こえた。
「ひぃッ!?」
振り返ると、仁王立ちするサリーとライザの姿があった。
「探しましたよ! 式を抜け出して! 主賓がいなくなって町長さんが困っていたんですよ!」
「全くですわ。こんな暗いところで一人で……」
「い、いや……その……ちょっと涼みに……」
太郎は刺身を背中に隠そうとしたが、サリーの目は誤魔化せない。
「あぁ〜! また何か食べてる! 自分だけ!」
「本当ですわ。……ん? それは……」
ライザが皿の上を見て絶句した。
「そ、それは……焼いていない、生の魚ではありませんか!? まさか、そのまま食べるおつもりで!?」
「もう食べてたわよ! 太郎様、お腹壊しちゃうわよ!?」
二人の顔は青ざめている。やはり反応は予想通りだ。
だが、太郎は引かなかった。
「美味しいんだって! 本当に! この魚は新鮮だから大丈夫なんだ!」
太郎は必死に力説した。
「騙されたと思って、一口だけでいいから! 日本ではご馳走なんだよ!」
「えええ……? 生魚がご馳走……?」
サリーは疑り深い目で刺身を見たが、醤油の香ばしい匂いに鼻をヒクつかせた。
卵かけご飯の時も、結果的には美味しかった。太郎の味覚は信用できる。
「……分かりました。一口だけですよ?」
サリーはおっかなびっくり、刺身を箸でつまみ、口に入れた。
「んぐっ……」
咀嚼するサリー。
……ん?
サリーの目がパチクリと見開かれた。
「あらやだ……美味しい!」
「えっ? 本当に?」
「身が甘くて、全然生臭くないわ! お醤油と、このツーンとする薬味が合うの!」
「嘘でしょう……?」
ライザも半信半疑で一切れ口に入れた。
「…………!」
ライザは驚愕した。
「美味しいわ……。火を通した魚より、魚本来の旨味がダイレクトに伝わってきます。それに、この冷たいお酒との相性が……恐ろしいほどです」
「だろ〜?」
太郎はニカッと笑った。
「さぁ、どんどん釣るよ! 今夜は刺身パーティーだ!」
「私はもっと大きいのを釣りますわ!」
「太郎様、お醤油とって!」
結局、港の片隅で、伯爵夫妻による深夜の宴会が始まった。
翌日、ポートセーリの魚市場では「生で魚を食うのが最新の貴族のトレンドらしい」という謎の噂が広まることになるのだった。




