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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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白薔薇の季節 ―― 花が咲くたび、彼女は微笑んだ。

 朝いちばんの陽ざしは、湯気よりも先に、磨き上げたカウンターの木目をなでていく。


 リリアは布を滑らせながら、その光の筋を目で追っていた。窓越しに差し込む初夏の光は、まだ鋭さを知らない。やわらかく店内を照らし出し、空になったカップの列も、棚に並んだ茶葉の瓶も、みな少しだけ誇らしげに見せてくれる。


 その静けさの中で、不意にしゃばしゃばと水の跳ねる音がした。


 店の前の石畳に、水が当たる乾いた音。毎朝聞き慣れたそれに、リリアは手を止めると、布をきちんと折りたたみ、窓辺へ歩いていった。


 ガラス越しに覗くと、向かいの家の主人が、木桶から水を汲んでは庭先へ撒いているところだった。陽を受けてきらりと光る飛沫の向こうで、小さな白が、ふと視界にとまる。


 近所の家の、低い塀の内側。そこに植えられている白薔薇のつぼみが、ひとつ、ふたつと、ほころび始めていた。


 まだ緑の濃い葉のあいだから覗く、乳白色の花弁。今にもはじけ落ちそうなほど、ぎゅっと詰まっているくせに、縁だけがほんの少し外の世界に触れている。


「お、咲きましたねえ」


 背後から気の抜けた声がして、リリアは振り返るより早く、ミラが隣に来て窓に額を近づけた。


「“噂の令嬢の店の向こう側”ってことで、すっかり名物ですよ、この白薔薇」


 ミラが顎でしゃくった先には、庭の白薔薇と、軒先の看板が一枚の絵のように並んでいた。


 店の軒から吊るされた木の看板には、繊細な線で描かれた白薔薇の意匠。その下に、紅茶店の名前と、小さなカップの模様。朝の光を受けて、看板の白い薔薇も、向かいの庭の生きた花も、同じ色で輝いている。


 風が一筋、通りを抜けた。


 庭の白薔薇が、音もなく揺れる。看板の薔薇も、それを追いかけるように影だけが揺れた。生きた花と、木の板の上の印。それらが重なり合い、軒先の景色に、白い点描をいくつも散らす。


 リリアは、その光景を見つめながら、自然と目を細めていた。


「……今年も、こぼれ落ちそうなほど、白く咲きますのね」


 自分の声が、思っていたより少しだけ柔らかく響いたことに、リリアは内心で苦笑する。


(かつてのわたくしが知っていた白薔薇は、冷たい紋章の上に刻まれた図案だけでしたわね)


 磨き上げられた銀器、重く垂れたカーテン。高い塀に囲まれた屋敷の門の上で、風にも揺れず、そこにあることを命じられていた花の形。


(今こうして目の前にあるのは――

 季節が来れば、当たり前のように蕾を膨らませ、誰に命じられずとも咲いては散っていく、一輪の花)


 誰かの家の庭先で、子どもが手を伸ばして触れようとして、母親に慌てて止められる。そんな光景が目に浮かぶような、背の低い、身近な白薔薇だ。


 リリアはひとつ息を吸い込み、カウンターへ戻る前に、もう一度だけ窓の外を振り返った。


 庭の白薔薇と、軒先の看板。そのどちらもが、今の彼女にとっては――この街に初夏が訪れたことを告げる、小さな合図だった。




窓辺の席からは、向かいの庭の白薔薇がよく見える。


 午前の柔らかな光を受けて、花は数を増やしていた。昨日はまだ数えるほどだった蕾が、今日はもう、小さな冠のように枝先を飾っている。その向こうには、軒先の看板。木の板に描かれた白薔薇の印と、本物の花が、まるで鏡合わせのように揺れていた。


 そんな景色を背景に、扉のベルが軽やかに鳴る。


「まいど、配達でーす。……ついでに、ひと休みさせてもらっても?」


 籠いっぱいのパンを抱えて入ってきたのは、いつものパン屋の夫婦だった。香ばしい焼きたての匂いが、紅茶と混ざって一瞬だけ店内の空気を変える。


「ようこそいらっしゃいませ。いつもの席でよろしいですわね?」


 リリアが笑顔で受け取り、カウンターの奥へと籠を運ぶ。パン屋の妻は、荷物を下ろしながら窓の外をちらりと見て、ぱっと表情を明るくした。


「白薔薇、きれいに咲きましたねえ」


 窓の外に視線を向けたまま、うっとりと続ける。


「……あの花が咲くと、“今年も暑くなる前に、ちょっと贅沢なお茶を飲んどかないと”って気になりますわ」


「おまえ、それ毎年言ってるぞ」


 パン屋の夫が苦笑しつつ、椅子に腰を下ろす。


「でもまあ、間違っちゃいないな。うちの娘なんか、“白薔薇が咲いたら、リリアさんとこでアイスティー”って決めてるみたいで。昨日も庭見て、“そろそろかな”って言ってましたよ」


「まあ。それは光栄ですわ」


 リリアは笑いながら、カウンターの上にグラスを二つ並べる。


「でしたら、本日はひと足お先に、白薔薇の季節記念のアイスティーをお淹れいたしましょうか。焼きたてのパンへの感謝を込めて」


「お、それはいい。なあ、おまえ?」


「ええ、ぜひ。じゃあ、いつもの“さっぱりしたやつ”でお願いします」


 氷の入ったグラスに、琥珀色の液体が静かに満ちていく。涼しげな音が、外の花の白さとよく似合っていた。


 昼へと近づくにつれ、店には少しずついつもの顔ぶれが増えていった。


 放課後には少し早い時間、孤児院出身の青年が、仕事の合間にふらりと現れる。扉のベルが鳴るなり、彼は鼻先をひくつかせて窓の外を見た。


「おお、もう咲いてる」


「白薔薇ですわね」


 リリアがそう言うと、青年は軽く肩をすくめて笑う。


「おれにとっては、“薔薇咲いた=そろそろ冷房代を気にしながら通う時期”ですけどね。ここ、つい長居しちゃうから」


「でしたら、冷房代の一部として、一杯ご注文いただけると助かりますわ」


「もちろん、そのつもりで来ましたって」


 青年がいつもの席に着くころ、孤児院の子どもたちも、数人に分かれて顔を出し始める。ランドセルを下ろした小さな背中が、窓辺の席にちょこんと並ぶ。


「ねえリリアねえちゃん、外の薔薇、すごいね!」


 一人の子が、グラスを抱えたまま窓にかじりついて言った。


「学校の帰りに薔薇の匂いすると、“あ、もうすぐ夏休みだ”って思うんだ」


「そういえば、去年も同じことを言っていましたわね」


 リリアがくすりと笑うと、別の子どもが、アイスティーのストローをくわえたまま頷く。


「うん。薔薇が咲いたら、暑くなって、川で遊んで、ここで冷たいの飲んで……って、“夏の前の合図”みたいな感じ」


 窓の外では、風に揺れる白薔薇。その手前で、木の看板が小さく軋む音がした。そこに描かれた白薔薇もまた、揺れているように見える。


 パン屋の妻は、「ほんと、ここから見る景色、好きなんですよ」と言いながら、グラスの水滴を指でなぞっていた。


「道の向こうに本物の白薔薇が咲いてて、その手前に紅茶屋さんの白薔薇の看板があって。なんだか、“今年もここで一息ついていいよ”って合図されてるみたいでねえ」


「そうねえ」


 パン屋の夫も窓を見やる。


「冬はここに来ると、“あったかいの飲ませてもらえる季節だ”って思うけどさ。今の時期は、“氷の入ったのが飲める季節だ”って感じで。……どっちにしても、薔薇の向こうに、あんたの店があるのが当たり前になっちまったな」


 リリアは、カウンター越しにその会話を聞きながら、静かに微笑んだ。


(昔のわたくしにとって、白薔薇は“公爵家の重さ”そのものでしたのに)


 紋章の上でしか見たことのなかった花。扉の上で、人々を選別する印。門の外に立つ者と内に招かれる者を、冷ややかに分け隔てる、硬い象徴。


(今の彼らにとって、白薔薇は――

 “季節”や“涼しい一杯”の合図として、何気なく口にする名前)


 パン屋の娘にとっては、「白薔薇が咲いたらアイスティーの日」。


 孤児院の子どもたちにとっては、「夏休みが近いと教えてくれる匂い」。


 青年にとっては、「冷房代を気にしながら長居する時期のお知らせ」。


 そのどれもが、「公爵家」でも「悪役令嬢」でもない、街と店の中で育った白薔薇の意味だった。


 窓の外で、白い花弁がふわりと揺れる。看板の上の白薔薇も、同じ風に揺られているかのように、影を震わせた。


 リリアは、その重なり合う白を眺めながら、そっとポットを傾けた。


 今この街で「白薔薇」と言えば――かつて彼女を縛っていた紋章ではなく、「この季節に、少し贅沢なお茶を飲みに行きたくなる目印」のことを、誰もが思い浮かべるのだろう。


 そのことが、胸のどこかを、ひどくやわらかく温めていた。



 昼の喧騒が少し落ち着き、店内にゆるやかな静けさが戻り始めたころ。


 窓際の席に、一人の旅人が腰を下ろしていた。街道の埃をまとった外套は椅子の背にかけられ、小さな鞄が足元に置かれている。テーブルの上には、まだ湯気の残る紅茶のカップと、焼き菓子がひとつ。


 彼はふと手を止め、窓の外へと視線を向けた。


 そこには、道を挟んだ向かいの庭で咲き誇る白薔薇と、軒先に掲げられた木の看板――その両方に、同じ形の白い花が揺れている。


「……いい花ですね、あの白いやつ」


 旅人はカップを持ち上げたまま、感心したように言った。


「ここらでは、あの季節になると、どこもかしこも咲くらしいじゃありませんか」


 ちょうどカウンターから様子を見ていたリリアは、穏やかに微笑んで近づく。


「ええ。少し歩くだけで、どこかしらに白い花が見つかりますわ」


 彼女も窓越しに視線をやり、花々の連なりを眺めた。


「昔から、このあたりは“白薔薇通り”と呼ばれていたそうですの。最近は、もっぱら“白薔薇と紅茶の通り”などと、勝手なあだ名も付けられておりますけれど」


「なるほど」


 旅人は目を細め、今度は店の軒先の看板に目を留める。


「店の看板にも白薔薇が描いてある。……店主さん、その花が好きなんですか?」


 何気ない問いだった。彼にとっては、ただ目についたものを口にしただけの一言。


 けれど、その言葉は、リリアの胸のどこか深いところに、そっと触れてくる。


 リリアはほんの一瞬だけ、窓の外の本物の花と、木の板に刻まれた白薔薇の印とを見比べるように、視線を行き来させた。


 そして、旅人の方へ向き直り、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「そうですわね……」


 カップを持つ彼の前に、新しいポットをそっと置きながら、口元に柔らかな笑みを浮かべる。


「“好きになり直した花”とでも申しましょうか」


「……なり直した?」


 旅人が、興味深そうに首を傾げる。


 リリアは、小さく頷いた。


「昔は――少しだけ、眩しすぎましたの」


 窓の外を見やる瞳に、一瞬だけ遠い日の景色がよぎる。高い塀の内側で見上げた白薔薇。冷たい石畳に映える、完璧な紋章の形。


「眩しくて、重たくて、“こうでなければならない”という形ばかりが目についてしまって。とても、“好き”などとは思えませんでしたわ」


 そこでふっと息をつき、今度は、道の向こうで風に揺れる花弁を見つめる。


「けれど今は、こうして季節の風と一緒に眺められますもの」


 塀も、門も、格式ばった扉もない。通りを行き交う人々が、立ち止まっては香りを吸い込み、また歩いていく。その向こうで、自分の店の白薔薇の看板が、同じ風に揺れている。


「誰でも通りすがりに見上げて、“ああ、今年も咲いたな”と笑ってくださる。その景色の中で揺れているなら――」


 リリアは、目元を少しだけ細めた。


「今はとても、好きな花ですわ」


 旅人はしばし黙ってその横顔を見つめ、それから、ふっと口元を緩めた。


「……いい言い方だ」


 そう言って、彼はカップを唇に運ぶ。琥珀色の紅茶が、白薔薇を映した窓辺の光を受けて、わずかに揺れた。


「“好きになり直した花”、か。旅の途中で、またひとつ、いい言葉を覚えましたよ」


「それは光栄ですわ」


 リリアは一礼し、カウンターへ戻ろうと一歩下がる。その足を、ふと窓の外の白さが引き留めた。


(紋章として見上げていた頃には、知らなかった季節の表情)


(今こうして、“好きですか?”と問われて――“好きになり直した”と答えられる自分になれたことが)


 ひどくささやかで、それでいて、とても大切な変化のように思えた。


 窓の向こうで、白薔薇が風に揺れる。

 その手前で、白薔薇の看板もまた、一軒の小さな紅茶店と、その店主が歩いてきた季節の数だけ、静かに軋んでいた。



 夕方の風が、通りの熱をやわらげはじめる頃。


 ミラは店先に出て、片手に持った布で白薔薇の看板をせっせと拭いていた。磨かれた木板の上で、薔薇の意匠が夕陽を受けて、かすかに光る。


 ふと手を止め、隣家の庭に目をやる。そこでも、白い花弁がこぼれそうなほどに咲き誇っていた。


「毎年思いますけどねえ……」


 ミラは布を肩にかけ、両手を腰に当てて、わざとらしくため息をつく。


「ほんとよく咲きますねえ、あんたの呪いの花」


 ちょうど中から出てきたリリアが、ぱちりと瞬きをした。


「呪いの花だった覚えはございませんわ」


「えー? してた顔がもう、“呪い”って雰囲気でしたけどねえ、昔は」


 ミラは笑いながら、看板の下端をきゅっきゅと磨き直す。


 その横で、リリアも軒先に視線を向ける。

 看板の白薔薇と、その向こうの生きた白薔薇。二つの白が、同じ風に揺れていた。


 ミラはからかうように目を細め、それでも声色だけは少し真面目になる。


「でも、最初にここ来た頃のあんた――」


 布を指先でくるくると回しながら、ちらりとリリアを横目で見る。


「白薔薇見ると、なんかちょっと睨んでましたよね」


「……睨んでなどおりません」


 即座に返ってきた否定に、ミラは「はい出た」とばかりに笑った。


「してたしてた。

 “また勝手にくっついてきましたわね、この紋章”みたいな顔」


「そんな台詞、一言も口にしておりませんわ」


「顔に書いてありましたもん。“高級そうな花ですね”って言われるたび、眉が一ミリ上がってた」


 図星を刺されたように、リリアはわずかに目をそらし、視線を足元へ落とす。


 隣家の塀越しに、白薔薇の香りを含んだ風が流れてきた。

 かつては窓の向こう、高い塀の中でしか見なかった花。今は、軒先から手を伸ばせば、届きそうな距離にある。


(たしかに、あの頃のわたくしは――)


 心の中で、リリアはそっと過去形で言葉を紡ぐ。


(白薔薇を見るたびに、“公爵家の娘であれ”という声を思い出していましたわ)


 咲くたびに、誇りと義務と期待と噂を、一度に背負わされる花。

 視界に入るだけで、背筋が強張るような気がしていた。


(今は――)


 視線を上げると、そこには、夕陽の色を受けた白薔薇がある。ただ今年も、季節どおりに咲いた花。


「“今年も咲きましたわね”と、そう思えるようになりましたもの」


 リリアは小さく息を吐き、肩の力を抜きながら呟いた。


「睨む必要など、もうどこにもありませんわ」


「お、本人の口から認めた」


 ミラは満足そうに頷き、布をぱんっとはたく。


「ま、今のあんたは――」


 看板と隣の庭を見比べながら、にやりと口角を上げる。


「“うちの店の看板が負けないように”って顔して見てますけどね」


「……それは、それで心外ですわ。

 わたくし、花と競争するつもりはございませんもの」


「はいはい。“負けないように丁寧にお茶を淹ぐ係”ってことでしょ」


 ミラの軽口に、リリアは苦笑を漏らす。

 けれど、その視線はやはり、少し誇らしげに看板へ向けられていた。


 隣の庭で、白薔薇が風に揺れる。

 その手前で、板に刻まれた白薔薇もまた、同じ風を受けて、かすかに軋む。


 かつては睨みつけていた花を、今はただ、季節の訪れとして見上げる横顔を、ミラは横からちらりと眺めた。


「……ま、前よりずっと、いい目つきですよ。リリア嬢」


 聞こえるか聞こえないかの小ささで漏らされたその言葉に、リリアは振り向かず、ただ微かに口元を緩めた。


放課後の鐘の余韻が、まだ街のどこかに残っているような時間。


 白薔薇通りの角の扉が、勢いよく開いた。


「リリアねえちゃん! 白薔薇、咲いたよ!」


「だから、今日“アイスティーの日”でしょ?」


 弾む声と一緒に、学校帰りの子どもたちがなだれ込んでくる。

 制服の襟は少し曲がり、靴には砂ぼこり。手には、教科書とノートが詰まったかばん。


 その後ろから、孤児院出身の青年が、苦笑しながらついて入ってきた。


「おいおい、扉はもうちょっと静かに開けろって言ってるだろ。

 ……ったく、去年も同じこと言いながら来たな、お前ら」


「だってさー」


 子どもAはぐいっと窓の外を指さす。


「あの白い花が咲いた日に飲んだ、冷たいお茶のこと、覚えてるんだもん」


「“白い花が咲いた日に飲んだ冷たいお茶”って、なんかすごく覚えやすいよね」


 子どもBも、うんうんと勢いよく頷く。


 窓の外では、隣家の庭の白薔薇が、今年もこぼれ落ちそうなほどの花をつけていた。

 軒先の看板に描かれた、白薔薇の意匠。その向こうで揺れる、生きた花弁。


 カウンターの内側で、その光景を一枚の絵のように眺めていたリリアは、ふっと目を細める。


「まあ。元気なお客様がいらっしゃいましたわね」


 布巾を置いて、前掛けを整えると、カウンター越しに子どもたちを見渡した。


「では本日、特別に――」


 わざと少しもったいぶった口調で、ゆっくりと告げる。


「“白薔薇の日のアイスティー”にいたしましょうか」


「やったー!」


「名前ついてる、名前ついてる!」


 子どもたちの歓声に、青年が肩をすくめる。


「お前ら、去年も一昨年も同じ反応してたぞ」


「いいの! 何回でもうれしいの!」


 カウンターの上には、背丈の低いグラスが並べられていく。

 リリアは氷の入ったピッチャーを手に取りながら、子どもたちの方へ顔を向けた。


「お砂糖は控えめにしておきますわね?

 あとでちゃんと夕ごはんが召し上がれなくなっては困りますもの」


「はーい!」


「ぼく、ちょっとだけ甘くしていい?」


「あなたは去年も“ちょっとだけ”と言って、二杯目をおかわりなさいましたわね」


 くすりと笑いながら、リリアは一人ひとりのグラスに、琥珀色の液体を静かに注いでいく。

 氷が触れ合う小さな音が、店内に涼しげに響いた。


(彼らにとって、白薔薇はきっと――)


 窓の外の白い花と、目の前のグラスを見比べるようにしながら、リリアは胸の内で言葉を紡ぐ。


(“昔の公爵家”ではなく、“この店に来る合図”として、記憶されていくのでしょう)


 グラスの表面に、うっすらと水滴が浮かぶ。

 子どもたちの瞳には、その冷たさと甘さと、窓の外の白薔薇が一緒に映り込んでいる。


「はい、“白薔薇の日のアイスティー”でございます」


 一つずつ手渡していくたびに、「ありがとう!」と小さな声が返ってくる。


(それは少し、くすぐったくて――)


 子どもたちがストローをくわえ、一口飲んで「おいしい!」と笑う。

 その笑顔につられて、自分の頬も自然と緩んでいることに気づき、リリアはそっと指先で口元に触れた。


(それでもやっぱり、少しだけ、誇らしいのですわ)


 窓の外で揺れる白薔薇と、店の中で笑う子どもたち。

 その真ん中で、グラスに注がれた琥珀色の一杯が、静かに初夏の記憶を刻んでいく。


 夜の帳が、白薔薇通りを静かに包み込んでいた。


 店内には、もうお客様の姿はない。

 カウンターの上で、小さなランプだけが、丸い光の輪をつくっている。


 その光の中で、リリアは最後の帳簿にペンを走らせた。

 一日の売上、仕入れの分、氷と茶葉の残量。

 数字を一通り埋め終えると、ぱたん、と帳簿を閉じる。


 そして、その下に重ねていた、もう一冊のノートを開いた。


 そこには、数字ではなく、短い言葉が並んでいる。


 ――「ひさしぶりに来たパン屋の奥様、“今年も白薔薇がきれいね”と笑っていた」

 ――「学校帰りの子どもたち、“白薔薇の日のアイスティー”を楽しみにしていた」

 ――「旅人の男性、“好きになり直した花”という言い方を気に入ってくれた」


 今日のページは、まだ一行だけ空いている。


 ノートの端には、一通の手紙が挟まれていた。

 厚手の紙。王国の印。王立福祉局から届いた、あの封書。


 リリアは視線でそっとそれをなぞり、そして、ペン先を静かに紙に落とす。


「本日――

 白薔薇が、今年も咲き始めましたわ」


 一行、そう書き添えたところで、ふとペンを止めた。


(この街で白薔薇が咲くのを見るのは……これで、何度目でしたかしら)


 ページの上で、視線だけが遠くをさまよう。


(最初の年は、まだ“公爵家の紋章”の形を、どこかで探しておりましたわね)


 あのとき、軒先の看板に描かれた白薔薇を、庭先の花に重ねて見ては、

 胸の奥で、古い義務の重さを思い出していた。


(二年目は、“看板としての白薔薇”を、ようやく素直に眺められましたの)


 この店の印としての花。

 「元・公爵家」ではなく、「紅茶屋リリア」の白薔薇として。


(そして今年は――)


 リリアは、そっと目を閉じて、夕方の喧噪を思い出す。


(路地の子どもたちが、“アイスティーの合図”として笑っている)


 白い花が咲いたから、冷たいお茶を飲みに行こう。

 その程度の、ささやかで、愛おしい合図。


(冬を越えるたびに、あの頃の痛みは少しずつ遠のき、

 代わりに、“今年もここで春を迎えられた”という安堵が、少しずつ増えていきますわ)


 扉の向こうには、もう冷たい夜気が広がっているはずだ。

 けれど、ここカウンターの内側は、ランプの灯りと、片づけ終えた茶葉の香りで、まだほんのりと温かい。


 リリアはペンを置き、ノートをそっと閉じる。


 それから立ち上がり、ランプを持って窓際へと歩み寄った。

 ガラス越しに、隣家の庭の白薔薇が、ぼんやりと浮かび上がっている。


 昼間は眩しいほどの白さだった花弁も、今は夜の青とランプの金に溶けて、柔らかな色に見えた。


「……今年も、よく咲きましたわね」


 誰に聞かせるでもなく、小さくそう呟く。


 それは、花そのものに向けた言葉であり、

 また、ここまで何度も冬を越してきた自分自身に向けたものでもあった。


 白薔薇が咲いた。


 それは、この街にとって季節の合図であり――

 リリアにとっては、「またひとつ冬を越えた」という、静かな印だった。


 彼女はガラスに映る自分の顔を見つめ、ほんのりと綻んだ口元に気づいて、少しだけ照れくさそうに視線を外す。


(きっと、これからも――

 白薔薇の季節が来るたびに、わたくしはこうして、数えてしまうのでしょうね)


 何度、冬を越えたか。

 何度、この場所で春と初夏を迎えたか。

 何度、誰かの「今日の一杯」に笑顔を見つけられたか。


 窓ガラスにそっと指先を添えてから、リリアはカウンターへ戻る。

 ランプの灯りを少しだけ絞り、明日の朝のために茶葉の瓶を確かめる。


 帳簿は閉じた。ノートも閉じた。手紙も静かに挟まれている。


 けれど、心の中では、まだ一つの数を数え続けていた。


 ――白薔薇が咲いた年を、ひとつ。

 ――この店で過ごした冬を、ひとつ。

 ――ここで「おいしい」と言ってもらえた一杯を、ひとつ。


 そうして積み重ねた数だけ、きっとまた、次の季節にも微笑める――

 その予感が、胸の奥を、そっと温めていた。


 夜のカーテンを、リリアは指先でそっとつまんだ。


 店内の灯りは、ほとんど落としてある。

 残っているのは、カウンターの上の小さなランプと、窓辺ににじむ、外灯の淡い光だけ。


 カーテンを少しだけ開くと、夜の路地が切り取られた。


 隣家の庭先で、白薔薇が夜風に揺れている。

 花弁は月の光を含んだように、かすかに淡く光り、その向こう――

 軒先には、この店の看板に描かれた白薔薇が、同じようにランプの明かりを受けていた。


 生きた花と、板に描かれた花とが、重なる角度。

 まるで一輪の白薔薇が、空中でふわりと浮かんでいるように見える。


(花が咲くたび、わたくしは、あの頃のわたくしを思い出します)


 リリアはガラス越しに外を見つめながら、静かに目を細めた。


(王宮の廊下。

 冷たい大理石の床。

 紋章に刻まれた白薔薇を、“背負わなければならないもの”だと信じていた日々)


 胸の奥に、かつての痛みの形が、うっすらと浮かぶ。

 けれど、それはもう、鋭い棘ではなかった。


(けれど今、その記憶は――

 胸を刺す棘ではなく、“よくここまで来ましたわね”と微笑みかけるような、遠い景色)


 白薔薇は、たしかに過去の象徴だ。

 「公爵家」「悪役令嬢」「噂の令嬢」――

 そういった言葉たちと、いつもセットで語られてきた。


 けれど、窓の外で風に揺れる花は、そんなことを知らない顔をしている。

 ただ、今年も同じ季節に、同じように白く咲いているだけ。


(白薔薇は、たしかにわたくしの過去の象徴)


 リリアはそっと、口元に笑みを浮かべた。


(けれど、それが咲く季節を重ねていけるのなら――

 この先も、何度でも、微笑んで眺めていきたいのです)


 その花は、昔のように彼女を縛る紋章ではない。

 冬をひとつ越えたことを知らせてくれる、静かな合図。


 白薔薇が咲いたから、アイスティーを楽しみに来る子どもたちがいて。

 「白薔薇の季節ですね」と、パンを届けながら笑う夫婦がいて。

 旅の途中で立ち寄った誰かが、「いい花ですね」と窓の外を眺めていく。


 もう、「公爵家の令嬢の証」としてこの花を口にする人は、ほとんどいない。


 それが、少しだけくすぐったくて、たいそう嬉しい。


 リリアはカーテンを戻す前に、最後にもう一度だけ、外を見た。

 夜風に揺れる白薔薇の花弁が、看板の白と重なって、ひとつの静かな光の輪をつくっている。


 カウンターに戻ると、そこには湯気の立つ小さなカップが一つ。

 片づけの合間に、自分のために淹れた、今日最後の一杯だ。


 リリアはそのカップを両手で包み込み、ゆっくりと口をつける。


 温かさが、舌から喉へ、胸の奥へと、静かに流れ込んでいく。


 花が咲くたび、彼女は過去を思い出し――そして、微笑む。

 その微笑みの隣には、いつも湯気の立つカップがあり、

 明日もまたこの店で、誰かの今日をあたためる一杯が淹れられるのだと――


 白薔薇の季節は、そのことを、そっと教えてくれている。


 リリアは小さく息をつき、ランプの火を少しだけ絞った。

 窓の外の白薔薇は、相変わらず静かに揺れている。


 彼女はその光景を胸の内にそっと仕舞い込みながら、

 明日の朝もまた、この店の扉を開ける自分を思い描き、

 ふわりと、もう一度だけ、微笑んだ。





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