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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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手紙 ―― 王国から届いた封筒、そこには感謝の言葉。

夕方。忙しさの波が、ようやく浅い呼吸に変わりつつある時間帯だった。


 客の姿がまばらになった店内で、リリアはカウンターをひと撫でするように見回してから、入口脇の小さな棚へと足を向ける。そこには、木の箱を転用した簡易の郵便かごが据えられていた。


「さて、本日の“紙のお客様”は……」


 戸口から入る風が、かごの端に引っかかった封筒の角をかすかに揺らす。

 リリアはしゃがみ込み、紙の感触を確かめるように一通ずつ取り上げていった。


「請求書……こちらは茶葉商会からの納品書ですわね」

「パン屋さんとこからの、新作のお知らせも来てますよ」


 いつの間にか背後に来ていたミラが、彼女の肩越しに覗き込む。

 封筒のひとつをつまみ上げれば、そこには子どもの丸い字で書かれた宛名と、色鉛筆で塗られた太陽の絵。


「孤児院の子たちから、また絵葉書ですわ」

「お、今回は何描いてあるんです? ……おお、雪だるま三段重ね。季節感迷子ですねえ」


 他愛ないやりとりに、リリアの唇も自然とほころぶ。

 紅茶店としての毎日が、そのまま小さな紙片に滲み出しているようで――こうして郵便かごをのぞく時間も、いまや一日の終わりの儀式のひとつになっていた。


 ――そして。


 指先に、明らかに“異質なもの”が触れた。


 かごの底に、ほかの封筒よりひとまわり大きく、厚みのある一通が紛れている。

 リリアはそれを慎重に引き抜いた。


 触れただけで分かる、しっとりとした上質な紙。

 白すぎない、わずかに生成りがかった色合い。

 封の位置には、重みのある赤い蝋──そこに刻まれた紋章に、一瞬、彼女の呼吸が止まる。


「……王国の紋章、ですわね」


 封蝋の縁には「王立福祉局」の小さな刻印。

 表には、癖の少ない丁寧な筆致で、宛名が記されていた。


 ――リリア・○○殿。


 そこにあったのは、公爵家の長い名でも、華美な敬称でもない。

 今、辺境の町で紅茶店を営む、一人の女主人としての「リリア」という名前だけだった。


 背後から、ミラの低い口笛が聞こえる。


「おや、それはまた、物々しい封筒が混じってますねえ。

 税金の督促じゃないといいですけど」


「……できましたら、もっと愉快な予想をしていただけませんこと」


 口ではそう返しつつも、リリアの指先には、ささやかな緊張の気配が宿っていた。


 封筒の端をそっとなぞる。紙越しに伝わる冷たさは、どこか遠い王都の空気を思わせる。


(王立福祉局から……この名前宛てに、今さら何のご用件かしら)


 あの冬、眠気と戦いながら帳簿に数字を書き込み続けた夜々。

 王宮の一室で、王子と向かい合って交わした言葉。

 それらが、赤い蝋の向こう側で静かに折り重なっているような気がして、胸の奥が微かにざわめく。


 リリアは小さく息を整え、封筒を両手で持ち直した。


 いつもの請求書とも、子どもたちの絵葉書とも違う重さを、その紙はたしかに湛えていた。


 赤い封蝋に刻まれた紋章を、リリアはもう一度、確かめるように見つめた。


「……王都の、王立福祉局ですわね」


 封筒の裏側、差出人として記された名前に視線を滑らせる。

 そこには、見覚えのある肩書きと姓が並んでいた。


「差出人は……現局長殿のお名前ですわ。

 当時、副官としてご一緒したことがあります」


 その声音は努めて平静だが、わずかに輪郭が引き締まっている。

 横から覗き込んだミラが、ふむ、と鼻を鳴らした。


「“王立福祉局”ってことは――殿下の進めてた、“冬を越える仕組み”のあの辺りですかね」


 その一言で、閉ざしたはずの記憶の箱が、そっと蓋を持ち上げられる。


 雪に閉ざされた冬の町。

 冷え切った配給所で、震える手でパンの数を数えた夜。

 「足りない」という文字が、帳簿の端に何度も並んだ季節。


 暖炉の火がやっと届く狭い部屋で、少年少女たちの名前を一人ひとり書きとめた紙束。

 王宮の一室で、若い王子と向かい合い、「国の仕組みを変える約束」を交わしたあの瞬間。


 それらが、封蝋の赤の向こう側で、静かな層を成している気がした。


「……あの冬の延長線、かもしれませんわね」


 小さく息を吸い込み、リリアは封筒の端を親指で支えた。

 いつもなら茶葉の袋を開けるときに見せる、無駄のない手つき――だが今、その動きの底には、公爵令嬢として鍛えられた“公式な文書を扱うときの所作”が、ふと顔を覗かせる。


 封蝋の縁に、銀の封ナイフをそっと当てる。

 かつて王宮で、何度となく繰り返した動作。

 刃先が蝋に沈み、ぱきり、と控えめな音を立てて割れ目が走った。


 ミラが、茶化す言葉を飲み込み、黙ってその様子を見守っているのが分かる。


(配給の帳簿を前に、肩を並べて悩んだ日々。

 “冬を越える仕組みをつくる”と、殿下が言ったあの夜)


 あの約束が、本当にどこまで届いたのか――

 その答えの欠片が、この薄い紙に託されているのかもしれない。


 リリアは封筒の口を丁寧に開き、中から折りたたまれた厚手の便箋を引き出した。

 紅茶店の女主人としての落ち着きと、公爵令嬢として身につけた緊張とが、彼女の中で静かに同居していた。



 赤い封蝋に刻まれた紋章を、リリアはもう一度、確かめるように見つめた。


「……王都の、王立福祉局ですわね」


 封筒の裏側、差出人として記された名前に視線を滑らせる。

 そこには、見覚えのある肩書きと姓が並んでいた。


「差出人は……現局長殿のお名前ですわ。

 当時、副官としてご一緒したことがあります」


 その声音は努めて平静だが、わずかに輪郭が引き締まっている。

 横から覗き込んだミラが、ふむ、と鼻を鳴らした。


「“王立福祉局”ってことは――殿下の進めてた、“冬を越える仕組み”のあの辺りですかね」


 その一言で、閉ざしたはずの記憶の箱が、そっと蓋を持ち上げられる。


 雪に閉ざされた冬の町。

 冷え切った配給所で、震える手でパンの数を数えた夜。

 「足りない」という文字が、帳簿の端に何度も並んだ季節。


 暖炉の火がやっと届く狭い部屋で、少年少女たちの名前を一人ひとり書きとめた紙束。

 王宮の一室で、若い王子と向かい合い、「国の仕組みを変える約束」を交わしたあの瞬間。


 それらが、封蝋の赤の向こう側で、静かな層を成している気がした。


「……あの冬の延長線、かもしれませんわね」


 小さく息を吸い込み、リリアは封筒の端を親指で支えた。

 いつもなら茶葉の袋を開けるときに見せる、無駄のない手つき――だが今、その動きの底には、公爵令嬢として鍛えられた“公式な文書を扱うときの所作”が、ふと顔を覗かせる。


 封蝋の縁に、銀の封ナイフをそっと当てる。

 かつて王宮で、何度となく繰り返した動作。

 刃先が蝋に沈み、ぱきり、と控えめな音を立てて割れ目が走った。


 ミラが、茶化す言葉を飲み込み、黙ってその様子を見守っているのが分かる。


(配給の帳簿を前に、肩を並べて悩んだ日々。

 “冬を越える仕組みをつくる”と、殿下が言ったあの夜)


 あの約束が、本当にどこまで届いたのか――

 その答えの欠片が、この薄い紙に託されているのかもしれない。


 リリアは封筒の口を丁寧に開き、中から折りたたまれた厚手の便箋を引き出した。

 紅茶店の女主人としての落ち着きと、公爵令嬢として身につけた緊張とが、彼女の中で静かに同居していた。


 便箋を読み終えたあと、店の中に、しばし紙の擦れる音さえ途切れた。


 リリアは手紙を持ったまま動かない。

 驚きと照れ、それから、胸の奥でじんわりほどけていく安堵――

 いくつもの感情が一度に浮かんでは消えていくような、なんとも言えない表情だった。


 沈黙に耐えかねたのか、あるいはわざとなのか。

 カウンターの向こうで様子をうかがっていたミラが、口角を上げる。


「へえ。

 “悪役令嬢”やってた頃の働きが、立派な制度の土台になってるんですねえ」


 わざとらしく感心した声色で、続けた。


「出世しましたね、リリア・○○嬢。

 “怪しい令嬢”から“王国公認・冬を救った人”に大昇進じゃないですか」


 リリアは、ゆっくりと瞬きをしてから、じとりとミラをにらむ。


「……そのように要約されますと、

 ひどく居心地が悪くなりますわね」


 言いながらも、きっぱりとした否定にはならない。

 頬のあたりに、ほんのり赤みが差していた。


(あの冬、わたくしはただ――必死でしたわ)


 心の中で、静かに言葉が続く。


(パンを数え、薪を数え、

 “今年の冬”を越えることで精一杯で)


(あの帳簿も報告書も、どれもこれも――

 目の前で震えている人たちの顔から、目をそらさないための、苦し紛れの数字に過ぎなかったはずなのに)


 便箋に書かれていた「制度の基礎」「研修資料」「死亡者数の減少」という整った言葉と、

 雪の匂いが染みついた小さな部屋の光景が、頭の中で重なる。


(それでも――)


 リリアはそっと、手紙を胸のあたりに引き寄せた。


(その“苦し紛れ”が、どこかで誰かの役に立ち、

 何度もの冬を越えた先から、こうして戻ってくることもあるのですわね)


「……まあ、“立派な制度の土台”とまで言われますと、むずがゆくて仕方ありませんけれど」


 ようやく口を開き、半分は照れ隠しのようにそうこぼす。


「でも?」


 ミラがニヤリと促す。


 リリアは、ほんの一拍置いてから、小さく笑った。


「……でも、“役に立った”と言っていただけるのは、

 やはり、少し――嬉しく、ございますわ」


 その言葉には、昔の公爵令嬢の虚勢ではない、

 いまの紅茶屋の女主人としての、素直な誇らしさがにじんでいた。




 ミラがカウンター越しに腕を組み、にやりと笑った。


「でも、よかったじゃないですか。

 あんたが夜通し帳簿とにらめっこしてた冬、

 ちゃんとどこかで誰かの役に立ってるって、王国公式のお墨付きですよ」


 わざと軽く言っているのは分かる。

 それでも、その言葉の芯には、きちんとした敬意があるのも、リリアには分かっていた。


 彼女は指先で便箋の端をなぞりながら、小さく息を吐く。


「……“公式のお墨付き”だなんて」


 懐かしい響きに、思わず苦笑が漏れる。


「昔はその言葉が、あれほど重く感じられたのに」


 王宮の印が押された書類。

 公爵家の紋章入りの命令書。

 そこに付く「公式」という言葉は、いつも義務と責任と、少しの窒息感を連れてきた。


 今、手元にあるのは同じように立派な封筒でありながら、

 紙の重さが、あの頃とは違って感じられる。


 リリアは封筒と手紙を見比べてから、ふっと目元を緩めた。


「今は少し、違って聞こえますわね」


「どんなふうに?」


 ミラが首をかしげる。


 リリアは、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


「“あの頃のわたくしも、無駄ではなかった”と」


 その声音には、ほんのわずかな震えと、確かな温度が混ざっている。


「それを――ようやく信じてもいいのだと。

 王国の印に頼らず、わたくし自身が、そう思ってもいいのだと。

 そんなふうに、ですわね」


 ミラはしばらく黙って彼女を見つめ、それから肩をすくめた。


「……ったく。

 そうやって素直に言えるあたり、

 “元・悪役令嬢”も、ずいぶん丸くなりましたねえ」


「誰のせいかしらね?」


 リリアが軽く睨み返す。

 二人のあいだに、小さな笑いがこぼれた。


 王国からの封筒は、もう「裁く側」の印ではない。

 紅茶店の薄明かりの下で、それは過去と今の両方をそっと認める、小さな証のように、リリアの手の中に収まっていた。



ミラが椅子の背にもたれ、わざとらしく感心した声を上げた。


「これ、持って王宮に行ったら、勲章のひとつやふたつ、

 ぶら下げてもらえるんじゃないですかねえ」


 リリアは手紙を指先で整えながら、ほんの一瞬だけ考えるふりをする。

 王宮の大広間、式典の光景――胸元で光る金属の勲章。

 そんな場面が脳裏をかすめて、すぐに遠のいた。


「そうですわね……」


 彼女は小さく笑って、首を横に振る。


「けれど、今さら胸に金属をぶら下げるより――」


 視線は、カウンターの上に置かれた、使い慣れたポットとカップへと落ちる。


「わたくしは、ここで“今日の一杯”をお淹れしている方が、

 ずっと性に合っていますの」


 そう言って、リリアは空のカップをひとつ手に取り、何も入っていないそれを、そっと自分の前に置いた。

 まるで、見えない勲章の代わりに。


(王国の制度の中で、たくさんの冬をまとめて支えることと――

 この小さな店で、目の前の一人の今日をあたためること)


(どちらか一方だけが正しいわけではありませんわね)


(ただ、今のわたくしは、後者を選んでいる。

 それもまた、わたくしの“物語の続き”なのでしょう)


 窓の外では、夕闇がゆっくりと深まり、白薔薇の看板を照らすランプの光が、にじむように揺れている。


 王都から届いた一通の手紙は、遠く離れた場所で続いている「大きな冬を越える物語」の報せだった。

 そして、リリアが今いるここは、小さなテーブルの上で「今日を越える一人ぶんの物語」を支える場所だ。


「じゃ、勲章代わりに、もう一杯いいです?」

 ミラが空のカップを突き出す。


「……しょうがありませんわね。

 “制度の土台を作った元悪役令嬢”のサービスということで」


 リリアは苦笑しながらポットを取り上げる。

 金属ではなく、陶器同士が触れ合う、控えめな音が店内に響いた。


 その音は、どんな勲章よりも、今の彼女にはしっくりと馴染んでいた。



 ミラがカウンターにもたれ、ひと仕事終えた顔で封筒を顎でさした。


「それ、どうします?

 大事な手紙だし、金庫でも用意します? “王国公認・立派な過去”ってことで」


 からかう響きはあるが、声の底には、ちゃんとした敬意も混じっている。


 リリアはしばし封筒を見つめ、それから視線を店内に巡らせた。

 レジの引き出し、裏部屋へ続く扉、そして――カウンター奥の小さな棚。


 棚の一角には、使い込まれた一冊のノートが立てかけてある。

 表紙の端はすり切れ、角は少し丸くなっている。


 そのノートには、こう記されている。


 『今日の一杯で、誰が少し笑ったか』


「いえ」


 リリアはそっと首を振り、封筒を胸の前で持ち直した。


「金庫にしまい込むほど、堅苦しいものではありませんわ」


「へえ? 王立福祉局印の封筒にしては、ずいぶん気楽な扱いですねえ」


 ミラの茶化しを軽く受け流しながら、リリアはカウンター奥の棚を指さした。


「あのノートの隣に、はさんでおきましょうか」


 彼女は棚からノートを取り出し、ぱらりとめくる。

 ページのどこかには、きっとこんな一文がある。


『泣きそうな顔で来た人が、一杯飲み終える頃には、少し笑って帰っていった』


 リリアはそのページの裏側に、丁寧に手紙を差し込んだ。

 封筒の端だけが、ノートから少し飛び出して見える。


「この店が紡いできたものと、あの頃の仕事が繋がっている証として」


 そう呟いて、ノートをそっと棚に戻す。


 王国からの正式な謝意の書状は、

 豪奢な硝子ケースに飾られることも、

 鍵付きの箱に厳重にしまわれることもなかった。


 代わりに、「今日の一杯で誰が笑ったか」を記す、

 何気ない覚え書きのすぐ隣に置かれる。


 遠い王都で形になった制度と、

 この小さな紅茶店で積み重ねてきた毎日が、

 一冊のノートと一通の手紙として、肩を並べる。


「……なんか、いいですね」


 ミラがぽつりと漏らす。


「“昔の立派な功績”ってより、“ここまで来た道のり”って感じで」


 リリアは静かに頷いた。


「ええ。

 過去の栄光として祭り上げてしまうには、

 あまりにたくさんの失敗と、情けない顔と、迷いが混ざっておりますもの」


 少しだけ自嘲気味に笑ってから、言葉を継ぐ。


「ですからこれは、

 “あの頃のわたくしも、今のわたくしも、同じ一本の線の上にいる”という――

 ただの、小さな証拠で十分ですわ」


 棚の上、ノートの背表紙と封筒の白が、並んで夕闇の光を受けている。


 窓の外では、白薔薇の看板が、ランプに照らされて揺れていた。

 それは公爵家の紋章であり、紅茶店の印であり――

 そして、冬を数えた少女と、今日の一杯を淹れる女主人の物語を繋ぐ、静かな標だった。



 片づけがひと段落し、店内の灯りが一段階落とされた。

 天井から下がるランプの光が和らぎ、カウンターの木目に、ゆるやかな陰影が浮かび上がる。


 リリアは、先ほど棚から戻した封筒を、もう一度カウンターの上にそっと置いた。


 厚手の紙に押された、王立福祉局の印章。

 封はすでに切られ、中身は読み終えている。


 それでも彼女は、指先で封筒の縁をなぞる。

 まるで、紙越しに、何度目かの言葉を読み取ろうとするかのように。


 指先は、最後に押された署名のあたりで止まり――

 軽く、トン、と封を押さえ直す。


「……さて」


 小さく息を吐き、リリアはその手で自分のカップを取った。

 わずかに冷めかけた紅茶から、まだ薄い湯気が立ちのぼっている。


 視線を上げると、窓ガラスに夜が映り込んでいた。

 その向こう、軒先には白薔薇の看板がランプの光を受けて揺れている。


 かつて王都の屋敷に掲げられていた紋章と同じ形――

 けれど今そこにあるのは、公爵家の権威ではなく、

 一軒の小さな紅茶店と、その店主が歩いてきた道の印。


 リリアは、カップの縁にそっと唇を寄せながら、胸の内で言葉を紡いだ。


(あの冬、わたくしが紡ぎたかった“誰かの幸せ”は、

 思いがけない形で、王国のどこかに届いていたのですわね)


 雪と風に晒された倉庫の匂い。

 凍える指で繰った帳簿の紙のざらつき。

 パンの数と薪の束を、必死に数え続けた夜――。


 それらが今、遠い場所で「制度」という名の形になり、

 誰かの冬を支えているという事実。


(けれど今、わたくしの手の届く場所にあるのは――

 この店で笑ってくれる人たちの“今日”)


 白薔薇の看板の下を、誰かが通り過ぎていく影が、窓越しに揺れた。

 ここで疲れをほどいて帰った常連たちの顔が、ふと脳裏に浮かぶ。


 雪の日に一緒に遊んだ子ども。

 帳簿の読み方を覚えた青年。

 噂と違うと首をかしげながら、二杯目を頼んでいった新しい客。


 王都のどこかで積み上がる数字と、

 この店のノートに書き留められた「今日の一杯で少し笑った人」の記録。


(その両方を抱えたまま、明日もまた、

 ここで一杯の紅茶を淹いでいけるのなら――)


 それは、かつて“悪役令嬢”と囁かれた少女が選び直した、

 自分だけの物語の続きだ。


 リリアはカップを飲み干し、静かに席を立つ。


 カウンターの片隅には、封を切られた一通の手紙が、

 ランプの光を受けて薄く輝いていた。


 窓の外では白薔薇の看板が揺れ、

 その内側では、一人の元“悪役令嬢”が、

 明日の茶葉の瓶を一本一本、確かめている。


 王国から届いた感謝の言葉も、

 ここで淹れる一杯の紅茶も――


 どちらも、彼女が“冬を越えたい”と願った日の先にある答えなのだと、

 リリアは静かに、胸の内で受け止めていた。



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