彼女の答え ―― 「違うわ。自分の物語を選んだ人のことよ」
椅子を一脚ずつ、テーブルの下に戻していく木の音が、静かな店内に小さく響いていた。
カウンターの上では、伏せられたカップが光を受けて淡くきらめく。窓の外では白薔薇の看板が、夜風に揺れながらランプの明かりを受けている。
「さっきの坊や、宿題の質問、なかなか鋭かったですねえ」
椅子の背を片手でつかみながら、ミラが肩で笑った。
「“悪役って、悪い人なの?”、か。あれ、わたしでもちょっと答えに困りますよ」
「ええ。子どもの問いというものは、ときに王宮の会議よりずっと手強いですわね」
リリアは最後の椅子を整え、まっすぐに向きをそろえると、軽く手を払った。表情は柔らかいが、その目の奥には、まだどこかさっきのノートの文字が残っている。
ミラはカウンターの端に腰を預け、足をぶらぶらさせながら、じろりとリリアを見上げた。
「で、“元・悪役令嬢”ご本人としては、結局どうなんです?」
「……なんのことでして?」
「とぼけないとぼけない」
ミラはニヤリと笑い、人差し指をひょいと立てる。
「“悪役って、悪い人”なんですか? ――って話ですよ。
さっきは坊やに合わせて、やわらかい言い方してましたけど」
リリアは一瞬だけ目を伏せ、それからカウンターの中に回り込んだ。伏せてあったカップを一つ取り上げ、棚に戻す。その所作はいつも通り丁寧だが、動きの端々に、ほんの少しだけ迷いが混じっている。
「少年には、少年に必要なだけの答えをお渡ししたつもりですの」
「ええ、聞いてましたよ。“悪いことをする人って言われることが多いけれど、それだけじゃない”――でしたっけ」
「盗み聞きが趣味になりましたの?」
「店主の隣でお茶飲んでただけですってば」
軽口がひととおり交わされ、ふ、と会話が途切れる。
静けさの中で、壁に掛けられた時計の音が、かち、かち、と刻まれていた。
ミラはその音を二拍ほど聞いてから、わざとらしく肩をすくめる。
「……でも、あんた自身は誤魔化せませんよね」
「誤魔化した覚えはございませんわ」
「じゃあ、ちゃんと教えてくださいな。
“元・悪役令嬢”だったあんたにとって――」
ミラは言葉を区切り、少しだけ真顔になる。
「“悪役って、悪い人”ですか?」
リリアの手が、棚にカップを戻そうとしたところで止まった。
陶器越しに伝わるひんやりとした感触が、指先を通して胸の奥にまで届く気がする。
少年のノートに書かれていた、大きくて拙い文字列。
路地裏で囁かれる、「昔は悪役だったらしい」という噂。
そして、王宮の大広間で向けられた、冷たい視線と期待――。
いくつもの「悪役」が、記憶の中で重なり合う。
「……むずかしい問いですわね」
リリアは静かに答え、カップをそっとカウンターの上に置いた。
その音は小さいのに、不思議と店の隅々まで響いたように感じられる。
「子どもの宿題としては、きっと“そうです”と書いたほうが、丸をもらいやすいのでしょうけれど」
「でも?」
ミラが先を促す。
リリアは一度、窓の外の白薔薇の看板に視線を送った。
ランプに照らされた白い花弁が、夜の闇に淡く浮かび上がる。その輪郭の中で、かつてと今が静かに重なっていた。
「でも――今のわたくしは、もう“そうです”とは言えませんわ」
その声は小さいが、揺らぎはなかった。
「昔のわたくしは、“悪役だと言われたのだから、きっと悪い人間なのでしょう”と、どこかで受け入れていました。
周りが書いた物語の中で、与えられた役を演じることだけが、自分に許された選択肢だと、そう思っておりましたの」
ミラは黙って聞いている。茶化す言葉を挟むことなく、ただ相手の言葉が落ちていくのを待っている顔だ。
「けれど今は――」
リリアは自分の胸元に、そっと手を当てた。
「“悪役かどうか”を決める前に、“この物語を誰が選んだのか”を、先に確かめたいと思うのです」
ミラが、わずかに目を細める。
「誰かが書いた脚本通りにしか生きられないなら、その中で“悪役”と呼ばれることも、きっとあるでしょう。
でも、自分で自分の物語を選び直した人を――わたくしは、もう“ただの悪役”とは呼びたくありませんの」
そこまで言って、リリアはふっと息をつき、ほんの少しだけ照れたように笑った。
「だから、さっきの坊やの宿題には、“悪役は悪いことをする人と言われることが多い”と書くのが無難かもしれませんけれど……」
「“元・悪役令嬢”本人への問いには、別の答えを用意してる、と」
「ええ。わたくしへの問いには――」
ランプの光が、彼女の横顔を淡く縁取る。
窓の外、白薔薇の影が風に揺れ、店内の壁に柔らかな輪郭を落としていた。
「“違うわ。
自分の物語を選んだ人のことよ”――と、そう答えたいのですわ」
リリアは一度、口を開きかけて――そこで、そっと視線をカウンターに落とした。
磨き込まれた木目に、ランプの光が長く伸びている。
「昔のわたくしは……そう思っておりましたの」
指先で、カウンターの端をなぞりながら、静かに続ける。
「“悪役”と呼ばれたなら、わたくしはきっと悪い人間なのだと」
言葉と一緒に、胸の奥から、遠い冬の空気がふっと立ちのぼる。
――王宮の廊下の隅で、ささやかれる声。
(王宮で囁かれた噂。
社交界で向けられた視線。
“あの子は悪役令嬢になるわよ”と、面白がる声――)
顔を合わせれば微笑み、背を向ければ、押し殺した笑いとひそひそ話。
そのすべてが、「そういう役にする」という合図のように感じられた。
(あの頃のわたくしは、誰かの決めた台本に従って、
“ふさわしい悪役”を演じようとしていたのかもしれません)
冷たい瞳に見合うように、表情を固く整える。
期待されるとおりに皮肉を言い、わざと棘のある言葉を選ぶ。
そうしていれば、「やはりね」と笑う誰かの顔に、説明がつく気がしたから。
――悪役と呼ばれるのなら、せめて“ふさわしい悪役”でいよう。
そんな諦めに似た意地が、確かにあの頃の自分にはあった。
リリアは小さく息をつき、カウンターの木目から目を離した。
向かいで腰を掛けているミラは、腕を組んだまま、何も言わずに耳を傾けている。
いつもの軽口も、茶化すような笑いも、この瞬間だけは挟まない。
ただ、そこにいて、最後まで聞くつもりでいる――そんな静かな気配だけが、店内に満ちていた。
少しのあいだ沈黙が落ちたのち、リリアはそっと顔を上げた。
窓の向こう、夕闇の中で白薔薇の看板がランプに照らされ、ゆらりと揺れている。
「でも、今は――少し違う答えを持っていますの」
その横顔に、ミラが「ほう」と声を漏らす。
椅子の背にもたれていた身体を起こし、肘をカウンターについた。
「聞きましょうか、“今のリリアの答え”」
リリアは小さく笑い、言葉を選ぶように一呼吸置く。
「“悪役って、悪い人なの?”と問われたら――
きっと、昔のわたくしなら“そうかもしれません”と答えたでしょうね」
かつて、噂に押しつぶされそうだった自分の影が、ほんの一瞬、瞳をよぎる。
だがすぐに、その影を追い出すように、彼女ははっきりと首を振った。
「けれど今は、こう答えたいのです」
カウンター越しに、ミラの方へと視線を戻す。
ランプの灯りが、金の瞳に柔らかく映った。
「“いいえ。違うわ。
自分の物語を選んだ人のことよ”――と」
ミラが、ぽかんと口を開けた。
「……説明してもらっていいです?」
半分冗談、半分本気の声音。
リリアはくすっと喉の奥で笑い、白薔薇の看板の方を視線だけでもう一度見やった。
「他の誰かが書いた台本の中で、“あなたはここで意地悪をなさい”と決めつけられて、
それに従っているだけなら――たしかに、“悪役”と呼ばれるのだと思いますの」
言いながら、自嘲ではない微かな苦味が、その笑みに混ざる。
「でも、ある日ふと、“本当にこれは、自分の望む物語かしら”と立ち止まって……
“いいえ、違うわ”と、台本を閉じてしまう人がいます」
ミラが黙ってうなずく。
リリアは指先で、カウンターの上に見えない線を描いた。
「“悪役”だと指さされても、
“それでもわたくしは、この人たちの冬を数えるほうを選ぶ”とか」
パンと薪を数え続けた夜を、そっと指先でなぞるような声。
「“物語の中では悪役でも、わたしはわたしの約束を守る”とか」
馬車の中で交わした、幼い王子との約束が胸をよぎる。
「誰かに与えられた役ではなく、自分の物語を選び直した人は――
もう、“ただの悪役”ではないと、今は思うのです」
そこまで言ってから、リリアは少しだけ、照れくさそうに肩をすくめた。
「だから、もし誰かがまた“あなたは悪役だ”と言うのなら……
わたくしは、こう返して差し上げたいですわね」
ミラが身を乗り出す。
「なんて?」
リリアは、柔らかな笑みを浮かべた。
「“いいえ。違うわ。
わたくしは、わたくしの物語を選んだ人間ですの”――と」
「物語の中の“悪役”は、たしかに誰かを傷つけたり、
主人公の邪魔をしたりする役割を与えられますわ」
カウンターの上に伏せた椅子を整えながら、リリアは静かに続ける。
ミラは作業の手を止め、カウンターにもたれて腕を組んだ。
「けれど、その台本を書いたのは、たいてい――当の本人ではありませんの」
「まあ、そりゃそうですねえ。“作者”とか、“周りの人間”とか」
ミラが肩をすくめると、リリアは小さく頷く。
「ええ。
“あなたはこう振る舞いなさい”“こうあるべきだ”と、
肩書きや噂や期待が、役を決めてしまうのですわ」
ランプの灯りが、二人の影を床に長く伸ばす。
外では夜風に揺れる看板が、かすかに軋んだ。
「……その役を、そのまま演じ続けるなら、
たしかに“悪役”と呼ばれることもあるでしょうね」
そこで一拍、言葉を切る。
リリアは自分の両手を見つめ、その指先をそっと重ね合わせた。
「でも、ある日それをやめて――」
声が少しだけ柔らかくなる。
「“わたくしは、わたくしの物語を選びます”と立ち止まったなら。
その瞬間、その人はもう、“誰かが書いた悪役”ではなくなりますわ」
ミラは何も言わず、じっと彼女を見つめている。
からかい半分の笑みは消え、真剣な眼差しだけがそこにあった。
「わたくしが紅茶店を選んだのは、
“悪役の罰”として追放されたからではありません」
リリアはゆっくりと顔を上げ、店内を見回す。
磨かれたテーブル、並んだ椅子、棚の茶葉の瓶。
そのすべてが、今の彼女の日常だ。
「ここで、“誰かの今日を少しあたためたい”と願った――
わたくし自身の選択ですの」
内心に、静かな回想がよぎる。
(公爵令嬢としての台本も。
悪役令嬢としての噂話も。
それらすべてから、いったん降りて――)
(“リリア”という名前で、物語を書き直すと決めた日に)
(きっと、わたくしは
“誰かに与えられた悪役”から、少しだけ自由になれたのですわ)
ミラがふうっと息を吐き、小さく笑った。
「……なるほど。
“悪役かどうか”より、“台本を誰が書いてるか”って話なわけですね」
「そうですわね」
リリアも微笑みを返す。
「他人の書いた台本の中で、与えられた悪役を演じ続けるのか。
それとも、自分で物語を書き直して、“今日をあたためる人”でありたいと思うのか」
カウンター越し、二人の視線がふっと重なった。
「わたくしは、後者を選びましたの。
ですからもう、“悪役かどうか”でわたくしを測る必要は、あまり感じておりませんわ」
「……はいはい。
“悪役にされかけたけど、自分の物語を選んだ紅茶屋さん”ってことで」
ミラが茶化すように言い、片目をつぶる。
リリアは小さく肩を揺らし、ランプの灯りの中で、穏やかに笑った。
閉店の札を裏返しにして、カチリと金具の音が鳴った。
夜の気配が路地に降りてくる。窓の向こうでは、白薔薇の看板がランプの灯りを受けて、柔らかく浮かび上がっていた。
店内には、ふたりきり。
ミラはカウンターの中ほどに腰を乗せ、リリアは椅子をテーブルの脚元へ軽く揃えていく。
「つまり……?」
ぽりぽりと頬をかきながら、ミラが首を傾げる。
「“悪役って、悪い人なの?”って聞かれたら――結局どう答えるんです?」
リリアは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げて、ふっと笑った。
「そう聞かれたなら、今のわたくしはこう申しますわ」
言葉を確かめるように、ひとつひとつを丁寧になぞる。
「――“違うわ。
自分の物語を選んだ人のことよ”」
ミラが片眉を上げる。
リリアは続けた。
「たとえ、誰かの物語の中で悪役にされていても――
自分で、自分の日々を選び直した人のこと」
その声音は、少年に向けたときよりも、少しだけ深く落ち着いている。
誰かを説得するためではなく、自分自身に言い聞かせるような響きだった。
数拍の沈黙ののち、ミラが「やれやれ」と肩をすくめる。
「……相変わらず、元・悪役令嬢のくせに、主人公みたいなこと言いますねえ」
「まあ。主人公のように生きてはいないつもりですけれど」
リリアは苦笑して首を振る。
ミラはくすりと笑って、指先でカウンターをとん、と叩いた。
「自分の脚本、自分で書いてる時点で、十分それっぽいですよ。
“自分の物語を選んだ人”なんて、ね」
ふたりの視線が、同じ方角を向く。
窓の外、夜風に揺れる白薔薇の看板が、ランプの光を受けてかすかに揺れた。
(“悪役”と呼ばれた日々も、
わたくしの物語の一部であることに変わりはありません)
リリアは心の中で、そっと言葉を結び直す。
(けれど――その続きを、どう書いていくかを選ぶのは、
いつだって自分自身)
(あの日、紅茶店という日常を選んだわたくしを、
もう“悪役”とは呼びたくないのです)
片づけを終えたカウンターに、自分のカップをひとつ置く。
底にわずかに残った紅茶を、リリアは静かに口へ運んだ。
夜のガラスに映る自分の姿を、しばし見つめる。
そこにいるのは、公爵家の令嬢でも、“悪役令嬢”と囁かれた少女でもない。
白薔薇の看板は、もはや彼女を縛る紋章ではなかった。
一軒の小さな紅茶店と、自分の物語を選び直した一人の女主人の印として、
静かに、路地の夜道を照らし続けている――。




