少年の質問 ―― 「悪役って、悪い人なの?」
放課後の陽は、紅茶店のガラス越しにやわらかく差し込み、テーブルの木目を金色に撫でていた。昼の賑わいがひと段落し、店内には、カップとソーサーが触れ合う音も聞こえない、静かな空気が流れている。
カラン、と控えめにドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ――」
いつもの調子で顔を上げたリリアの視線の先に、見慣れた青年の姿と、その半歩後ろに隠れるように立つ、小さな影があった。
「リリアねえちゃん、こいつが“お茶飲みながら宿題したい”って言うもんで」
入ってきたのは、孤児院出身の青年だ。かつて冬を一緒に数えた子どもたちの一人で、今は町で働きながら、時々こうして店に顔を出す。その背中に、少年がランドセルのような小さなかばんを背負い、両腕でノートをぎゅっと抱え込んでいる。
「……あの、その……」
少年は、もじもじと足元を見つめながら、カウンターの向こうのリリアをちらりと見上げた。
「質問の宿題なんですけど」
どこか「難しい荷物を抱えてきました」と書いてあるような顔だ。リリアの口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
「まあ、“宿題をするための紅茶”も、ちゃんとお淹れできますわよ」
「ほら、座れ」と青年が促し、少年はおそるおそる窓際のテーブルに腰を下ろす。かばんを椅子の横に置き、抱えていたノートをテーブルの上に置く仕草は、宝物をそっと扱うように慎重だ。
リリアはメニューを持ってテーブルへと歩み寄りながら、いつもより少しだけ歩調をゆるめる。宿題のお供の紅茶――それは、眠気を誘いすぎず、それでいて心をほどく程度の甘さがよい。
「本日は、どのような宿題のお手伝いをすればよろしいかしら?」
「えっと……」
少年はノートの表紙をめくり、その中ほどのページを指先で探る。ぱた、と開かれたところには、大きな字でこう書かれていた。
『しつもん:
悪役って、悪い人なの? 自分の考えで答えましょう』
その文字が視界に飛び込んだ瞬間、リリアの指先がわずかに動きを止める。
(……まあ)
ペン先を止められたような一瞬の間。すぐに意識して呼吸を整え、表情を崩さないように微笑を深める。
「先生が、“物語の中の悪役について考えてきてください”って……」
少年は、ノートから顔を上げて、頼りなさげに続けた。
「ぼく、よくわからなくて」
窓の外では、白薔薇の看板が、夕方の風にほんの少し揺れている。その影が、店内の壁に柔らかく映った。
リリアは一瞬だけその影に視線を滑らせ、それから少年の方へと向き直る。
「そうですのね。なかなか、先生も難しい宿題をお出しになりますこと」
くすりと笑いながら、そっとメニューをテーブルに置く。
「ではまず、“宿題を考える前の一杯”から始めましょうか。甘さはどのくらいがお好み?」
少年は、少しだけ肩の力を抜いて、指を一本立てる。
「……あまいの、一つぶんくらい」
「はい、“一つぶん”で承りましたわ」
紅茶の注文と一緒に受け取ったのは、子どもには少し大きすぎる問い。
(“悪役って、悪い人なの?”)
(――ずいぶんと、まっすぐで、そして、答えにくい宿題ですこと)
リリアは心の中でそう呟きながら、カウンターへと戻っていった。湯気の向こうで、少年の抱えるノートの白い頁が、夕暮れ色に染まり始めている。
少年はランドセルから、もう一冊、本を取り出した。
表紙には、少し大げさなドレスを着た少女と、背後に咲く白い薔薇。子ども向けらしい丸い文字で、タイトルが描かれている。
『わるいれいじょうと しろいバラ』
「……まあ」
トレイを手にしたまま、リリアの視線が思わずそこに吸い寄せられる。表紙の白薔薇は、店先の看板に揺れるそれよりも、ずっと尖った棘を持っているように見えた。
少年は、ノートの横にその本をぱたんと開いて置き、リリアを見上げる。
「この本に、“悪役の令嬢”が出てくるんです」
ページをめくる指先は、すでに何度もそこをなぞったのだろう。角が少し丸くなっている。
「いじめたり、意地悪言ったりして、最後に追放されちゃうやつ」
「追放」と口にするとき、少年の声には、まだ本当の意味を理解しきれていない、絵本の中の出来事に対する距離の甘さが混じっている。
リリアは、トレイをそっとテーブルに置いた。少年用の小さめのカップには、蜂蜜を“ひとつぶん”だけ多めに垂らした紅茶。青年用のカップも一緒に並べる。
「ふふ。なかなか手厳しい物語ですわね、その令嬢さん」
「うん……。でも、友だちが」
少年は、開いたページの上で指をもじもじと動かしながら続けた。
「“あの紅茶屋さんの人も、昔そうだったんだって”って……」
その言葉が落ちた瞬間、カウンターの方で片付けをしていた青年が、あっ、と小さく息を飲む。何か言いかけた口を、慌てて引き結んだ。
リリアの手が、カップの取っ手に伸びかけたところで、ほんのわずかに止まる。
(……そう来ましたのね)
一瞬だけ、胸の奥に古い痛みがかすめる。白薔薇の紋章、王宮の廊下、ささやかれた噂。すべてが束になって、絵本の中の「わるい令嬢」と並べられている感覚。
けれど、その痛みはかつてのように息を奪いはしない。今は、その上に幾重にも重ねられた湯気の記憶と、笑い声がある。
リリアは、いつもの微笑をほんの少しだけ深くして、少年の向かいの椅子の背に手を添えた。
「なるほど。物語と、噂と、宿題がぐるになってしまったわけですわね」
「……ぐる、ですか?」
「ええ。糸がからまってしまったみたいに」
そう言って、少年の前にカップを押しやる。
「まずは一口どうぞ。“難しい質問を考える前のお茶”ですわ」
少年はおそるおそるカップを両手で包み、ふう、と息を吹きかけてから一口含んだ。甘さが舌に広がり、強張っていた肩が少しだけ落ちる。
「ねえちゃん」
「はい?」
「“悪役令嬢”って、ほんとに、こんなふうに意地悪ばっかりするの?」
絵本の挿し絵には、ドレスの裾を踏んづけたり、ケーキに塩を入れたりする令嬢の姿が並んでいる。白薔薇の紋章が、彼女の胸元でぎらぎらと輝いていた。
(“悪役令嬢”という言葉は――)
窓の外で、店先の白薔薇の看板が、風に揺れる。その影が、店内の壁にふわりと映った。
(子どもたちの世界にも、もう物語として根づいているのですわね)
リリアは、絵本の表紙の白薔薇と、窓に映る自分の白薔薇とを見比べるように視線を往復させ、それから少年に向き直って、穏やかに微笑んだ。
「そうですわね。お話の中には、たしかにそういう“わるいことばかりする令嬢”も描かれます」
「じゃあ――」
「でも、それが“本当にその人ぜんぶ”なのかどうかは、また別のお話ですわ」
少年の目が、ぱちぱちと瞬く。
リリアは、絵本のページをそっと指先で撫でるようにして閉じた。
「物語の中の“悪役令嬢”。噂の中の“悪役令嬢”。そして、今ここで紅茶を淹れているわたくし――」
そこで一度言葉を切り、いたずらっぽく目を細める。
「似ているところも、少しはあるかもしれませんけれど。全部が同じ、とは言い切れませんわね」
少年のノートの問い――『悪役って、悪い人なの?』が、テーブルの上で静かにこちらを見上げているようだった。
リリアは、客のいなくなった静かな店内を一度見回してから、少年の向かいの椅子にそっと腰を下ろした。
テーブルの上には、湯気の上がる小さなカップと、開いたノート、そして「わるいれいじょうと しろいバラ」の本。
少年はカップを両手で包み込みながら、不安そうに、しかし期待も混じった目でリリアを見つめている。
「……先生が、“自分の考えで答えましょう”って言ってたけど……ぜんぜん浮かばなくて」
そう言って、ノートに書かれた問いを指さした。
『しつもん:
悪役って、悪い人なの?』
リリアは、その文字列を一度目でなぞり、ふう、と小さく息を整える。
「そうですわね……まずは、“教室での答え”からお話ししたほうがよろしいかしら」
「きょうしつでの、答え?」
「ええ。──たしかに、物語の中で“悪いことをする人”を、悪役と呼ぶことは多いですわね」
リリアは、指でテーブルを軽くとん、と叩きながら、ひとつひとつ数えるように続けた。
「誰かを傷つけたり、嘘をついたり、約束を裏切ったり……」
少年は、こくこくと大きくうなずく。
「うん、先生もそう言ってた。“主人公のじゃまをする人”とか、“わざと悪さをする人”って」
「そうですわね。それも、まちがいではありませんわ」
リリアは微笑み、少年のカップの縁をちょん、と指で示した。
「たとえば──今、あなたの紅茶に、こっそり塩を入れたらどうなります?」
「えっ……やだよ」
「でしょう? そんなふうに、わざと人の困ることをする人は、お話の中ではたいてい“悪役”と呼ばれます」
少年は、想像したのか、少し顔をしかめてから、改めてカップを大事そうに持ち直した。
「だから、“悪いことをする人”という答えは、間違いではありませんの。でも──」
そこでリリアは言葉を区切り、ゆっくりと少年の目を見た。
「それだけでは、少し足りない気もいたしますの」
「足りない?」
少年が首をかしげる。
リリアは、ノートの「悪役」の文字の上に、空中でそっと円を描いた。
「たとえば、この本に出てくる“悪役令嬢”は、どうして悪いことをしているのかしら?」
「え……どうして?」
「ただ“悪い人だから”、でしょうか。それとも、怒っていたり、さびしかったり、誰かに見てほしかったり──そういう気持ちが、どこかに隠れていると思います?」
少年は、「どうかな」と言いながら、本のページをぱらぱらとめくる。リリアは続けた。
「悪役はたしかに、“悪いことをする役”かもしれません」
「うん」
「けれど、“悪いことをしたことのある人”が、みんな悪役かといえば──そうとも限らないでしょう?」
少年のまぶたが、ぱちりと跳ねる。
「たとえば、宿題をさぼったことのある人。あなただけではありませんわよね?」
「……ある」
「では、宿題をさぼった人は、みんな“悪役”ですの?」
「それは、ちがう……」
「でしょう?」
そこでリリアは、ほんの少しだけ声音をやわらかくした。
「わたくしが思うに──“悪役”というのは、“悪いことをした人”そのもの、というよりも」
「よりも?」
「“物語の中で、そう決められてしまった役目”のことを指すことが多いのですわ」
少年の顔に、「わからない」と「もう少し聞きたい」が半分ずつ混ざった表情が浮かぶ。
リリアは、それを確認してから、またゆっくりと言葉を紡いだ。
「だから、“悪いことをする人”という答えも正しいけれど──それだけでは、その人がどんな気持ちだったか、どんなふうに変わるかまでは、まだ見えてこないのです」
少年はノートを見下ろし、鉛筆を握りしめた。
『悪役って、悪い人なの?』
その問いの文字が、さっきよりも少しだけ、違って見えてくる。
「……じゃあ、“悪いことをする人”って書くだけじゃ、足りないってこと?」
「ええ。せっかく“自分の考えで答えましょう”と先生がおっしゃったのですもの。そこから、もう一歩だけ踏み込んでみてもよいかもしれませんわね」
リリアは、少年のカップの中の紅茶を指さした。
「ほら、さっきまで“ただの紅茶”だったものが、蜂蜜をひとさじ足しただけで、少し違う味になるでしょう?」
「うん。あまい」
「答えも同じですわ。“悪いことをする人”という言葉に、あなたの考えという“ひとさじ”を足してみましょう。きっと、先生の“よく考えましたね”をいただけますわ」
少年は、ぱっと表情を明るくし、ノートに小さく書き込み始める。
リリアは、その手元を邪魔しないように立ち上がりながら、心の中でそっと付け足した。
(──たしかに、“悪いことをする人”を悪役と呼ぶことは多いです)
(けれど、それだけで語られるほど、人も物語も、単純ではありませんものね)
次に続く言葉を胸の内で温めながら、リリアはカウンターに戻って、もう一杯ぶんの湯を静かに沸かし始めた。
少年がノートに何かを書き込んで、ひと区切りついたころ。
リリアは、そっと自分のカップにもお湯を足し、窓の外にちらりと目をやった。軒先には、夕方の光を受けて、白薔薇の看板が静かに揺れている。
(……悪役、ですか)
ほんの一瞬だけ遠い目になったあと、彼女はすぐに意識をテーブルへ戻し、少年に向き直った。
「もうひとつ、お話してもよろしいかしら」
「え?」
「さっきは、“悪いことをする人が悪役と呼ばれることもある”とお話ししましたわね」
少年がこくんとうなずく。
リリアは、ノートの余白を指先で軽くなぞりながら、言葉を選んだ。
「でも、物語の中には、“本当に悪いことをしたから悪役”になった人もいれば──」
そこで、少しだけ言い方を変える。
「“誰かから見て、都合が悪かったから、悪役にされてしまった人”も、いるかもしれませんの」
少年の眉が、きゅっと寄る。
「“された”? 自分でじゃなくて?」
「ええ」
リリアは、少年にも分かる例を探して、そっと問いかける。
「たとえば──学校で、人の前ではっきり思ったことを言ったら、“生意気だ”って言われてしまったこと、ありませんか?」
少年は、はっとしたように目を丸くし、それから気まずそうに視線をそらした。
「……ある」
「そのとき、その人の物語の中では、あなたは“悪い子”に見えたのかもしれません」
リリアは、指先で湯気を指し示す。
「でも、あなた自身の物語の中では──どうですの?」
少年は、少し考えてから、小さな声で答える。
「……ぼくは、ただ、“ずるいのはイヤだ”って言いたかっただけ」
「でしょう?」
リリアは、ふわりと微笑んだ。
「つまり、同じ一つの出来事でも」
彼女は、ノートの中央に小さな点を描き、その左右に丸を二つ描くような仕草をしてみせる。
「この人から見れば“悪い子”──こっちの人から見れば“ただの正直な子”。見る場所によって、その子の“役”は変わってしまうのですわ」
少年は、その空中の丸をじっと目で追っている。
「それで、その人の物語の中では、あなたは“悪い子”にされてしまう」
リリアは、少年の目をやさしく見つめた。
「けれど、あなた自身の物語の中では──ただ“言いたいことを言った自分”のままかもしれません」
少年は、唇をきゅっと結んだ。
「……なんか、ずるい」
「ずるいですわね」
リリアは、あっさりと認めるようにうなずいた。
「だからこそ、“悪役”という言葉を聞いたときには──“誰の物語の中の話なのかしら”と、少し考えてみるとよろしいかもしれません」
少年は、ノートに鉛筆の先を落としかけて、ふと顔を上げる。
「リリアさんは……」
一度、言いよどみ、それから意を決したように続けた。
「リリアさんは、“悪役にされたこと”ある?」
カップの湯気が、ふわりと揺れる。
リリアは、その揺らぎを眺めるような目をしてから、静かに笑った。
「そうですわね」
彼女は、自分の胸元にそっと手をあてた。
「“物語の中”では、そう呼ばれていたこともあったかもしれません」
「……やっぱり」
少年の目が、好奇心と少しの不安で揺れる。
けれどリリアは、その視線をやさしく受け止め、首を横に振った。
「でも、それは“誰かの物語の中”のお話ですわ」
彼女は、テーブルの上のノートを軽く押しやるようにして、少年のほうへ返した。
「わたくしの内側にある毎日は、ちゃんと泣いたり、笑ったり、反省したりしながら──“どうしたら、もう少しうまくやれるかしら”と考えていた、一人の人間の物語でしたもの」
心の中で、リリアは静かに思う。
(かつてのわたくしもまた、多くの物語の中で“悪役令嬢”にされていましたわね)
(けれど、それは“誰かの物語”の中の話。わたくしの内側に流れていた日々まで、すべてが悪だったわけではありません)
口には出さず、その代わりに、少年にだけ届くくらいの声で付け足した。
「だから──“悪役って、悪い人なの?”と聞かれたら」
「うん」
「“悪いことをした人のことを、そう呼ぶこともある”」
リリアは、一度そこで切り、
「“それから、ときどき、誰かから見て都合が悪くて、悪役に“されてしまう”人もいる”──わたくしは、そう答えますわ」
少年は、ゆっくりとノートに視線を戻し、その言葉を自分の言葉に変えようとするように、鉛筆を走らせ始めた。
リリアは、その様子を見守りながら、窓の外の白薔薇の看板に、ちらりと目をやる。
あの印もまた、誰かの物語の中では“悪役令嬢の紋章”だった。
けれど今は──紅茶の香りとともに、「今日の一杯」を淹れる店の印として、静かに揺れている。
(“悪役にされた誰か”にも、きっと、その人自身の物語がありますものね)
そう胸の内で呟きながら、リリアは新しいポットに湯を満たし、少年の宿題が進むあいだの“おかわり”を、ゆっくりと準備し始めた。
青年が別の席で、心配そうにこちらをちらちら見ているのを横目に、リリアは目だけで「大丈夫」と合図を送った。
そして、少年に向き直る。
「先ほどの質問に、もう少しだけ続きがあってもよろしいかしら?」
少年は、空になりかけたカップの縁を指でなぞりながら、こくりとうなずいた。
リリアは、声の調子をひとつ落として、やさしく問いかける。
「あなたはどうかしら?
“悪い子だ”と言われたことは、あります?」
その言葉に、少年の肩がぴくりと揺れた。
「……ある」
「どんなとき、ですの?」
催促というより、「話してもいいのですよ」と背中を押すような調子だった。
少年は、唇を尖らせてうつむき、机の木目をじっと見つめる。
「この前、クラスで……」
途切れがちな声で、ぽつりぽつりと言葉が落ちていく。
「先生に、“ちゃんと並んでください”って言われたときがあって……
ぼく、ちゃんと並んでたんですけど」
リリアは黙って聞いている。
「後ろの子が、ずっと押してきて。
背中、ぐいぐいって。痛くて」
小さな手が、背中を押される感覚を思い出すように、服の上から自分の肩甲骨あたりに触れた。
「だから、“やめて”って言ったら──」
少年の声が、少し震える。
「先生に、“騒がないの”って怒られて。
押してた子は、何も言われなくて」
そこまで言うと、少年は悔しさをこらえるように、きゅっと拳を握った。
「あとで、その子に」
喉の奥に引っかかった言葉を、無理やり押し出す。
「“おまえばっか怒られてて、悪い子だな”って言われて……」
テーブルの上のノートの文字が、少し滲んで見える。
離れた席の青年が「そうだったのか」と小さく息を呑みかけるが、リリアがそちらに視線だけを向けて、首をほんのわずかに横に振った。
──今は、少年とこのテーブルの上の話だ。
「そのとき」
リリアは、少年の目線まで自分を少し低くしながら問いかける。
「あなたは、本当に“悪いこと”をしようとしていましたの?」
少年は、少しのあいだ黙っていたが、やがて首を横に振った。
「……してない」
「ええ」
「ただ、押されると痛いし……
前にいた子、ちっちゃい子だったから、転びそうで……」
自分のしていたことを整理するように、ぽつぽつと言葉が続く。
「だから、“やめて”って言っただけで……」
リリアは、ゆっくりと息を吸い、吐き出す。
「そうですわね」
彼女は、少年の前にあるノートをそっとこちらに引き寄せ、余白に小さな丸をひとつ描いた。
「そのとき、本当に起きていたことは──」
丸の上に、丁寧な字で書き込む。
『前の子が転びそうで、押されるのが痛くて、“やめて”と言った』
「きっと、こんな感じでしたのでしょう?」
少年は、その言葉を読んで、もう一度こくりとうなずいた。
リリアは、その丸の左側に、もうひとつ丸を描く。
そこには、こう書く。
『先生から見えた“騒いだ子”』
右側に、さらにもうひとつ丸を描き、
『押していた子から見えた“怒られた悪い子”』
と書き添える。
「その瞬間、“騒いだ子”という役を、あなたが押しつけられてしまったのかもしれませんわね」
少年は、三つの丸を見比べた。
「でも──」
彼は、一番真ん中の丸を指さす。
「これが、“ほんとうにあったこと”」
「ええ」
リリアはうれしそうに微笑む。
「真ん中の丸が、あなた自身の物語。
左右の丸は、“誰かの物語の中での、あなたの役”ですわ」
少年の喉が、ごくりと鳴る。
ノートの表紙には、さっきからずっと開かれていた宿題のページ。
『しつもん:
悪役って、悪い人なの? 自分の考えで答えましょう』
その文字を、少年は改めてじっと見つめた。
「……じゃあ、ぼくは」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「そのとき、“悪い子”って言われたけど……
ぼくの物語の中では、“ただ、押されるのがいやだったぼく”……?」
「そうかもしれませんわね」
リリアは頷き、問いを重ねる。
「あなたは、そのとき“誰かを困らせてやろう”と思っていましたの?」
「思ってない」
「“いじめてやろう”と思っていましたの?」
「思ってない……」
少年の顔に、ほんの少しだけ悔しさの色が薄れていく。
リリアは、そっと言葉を添える。
「それでも、先生の物語の中では、あのときのあなたは“騒いだ子”にされてしまった」
「うん……」
「そして、後ろの子の物語の中では、“怒られた悪い子”にされたのですわね」
少年は、ぎゅっと握った拳を、少しずつほどいていく。
「それが、さっきお話しした──」
リリアは、さきほどの自分の言葉を、少年にも分かるようにもう一度なぞった。
「“悪役にされてしまうこともある”ということですわ」
ノートの上で、鉛筆が震えながら動き始める。
『ぼくは、わる役って
「わるいことをした人」だけじゃないと思う。
その人のことを ちゃんと見てない人が、
かってに「わるい子」ってきめちゃうこともある。』
少年なりの言葉が、ぎこちない字で並んでいく。
リリアはそれを覗き込み、満足そうに目を細めた。
(そう──)
(この子にとっての“わたくし”は、物語の悪役ではなく、冬の日にパンを分け、今、紅茶を淹れている誰か)
(そして、この子にとっての“自分”もまた──誰かに貼られた“悪い子”ではなく、自分で選び取ることのできる物語であってほしいのですわ)
「とても、すてきな答えになりそうですわね」
そう告げると、少年は少し照れくさそうに笑い、でもどこか誇らしげに、ノートの続きを書き始めた。
青年は、離れた席でその様子を見守りながら、小さく安心したような息を吐く。
テーブルの上では、湯気の立つカップが、少年の震えが収まっていく心を、静かにあたため続けていた。
店の奥から差し込む夕方の光が、テーブルの上のノートとカップの縁をやわらかく照らしていた。
湯気はさっきより少しだけ落ち着き、紅茶の表面に、窓枠の影がゆらりと映る。
リリアは、少年のノートの端を指先で「とん、とん」と軽く叩いた。
「宿題の答えとしては――」
彼女は、ノートに書かれた大きな文字を見やる。
『しつもん:
悪役って、悪い人なの? 自分の考えで答えましょう』
「“悪役は、物語の中で悪いことをする人、と言われることが多い”……と書けますわね」
「……うん」
少年は少し考え込むように頷く。
リリアは、そこで微笑を深めた。
「けれど、あなた自身の毎日の中では、もうひとつ、別の問いも大切ですの」
「べつの問い?」
少年が顔を上げる。瞳の中に、窓からの光が小さく揺れた。
リリアは、ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「“周りからどう呼ばれるか”ではなく――
“自分を、自分の物語の中でどう呼びたいか”、という問いですわ」
少年は、きょとんとした顔で瞬きをした。
「……“悪い子”って、呼びたくない」
ぽつりと落ちた、その一言に、リリアの表情がやわらぐ。
「そうですわね」
彼女は、ノートの真ん中に描いた小さな丸――“ほんとうにあったこと”と書かれた丸を指先でなぞる。
「でしたら、あなたの物語の中のあなたは、“悪役”ではありませんわね」
少年は、その丸をじっと見つめる。
「じゃあ……なに?」
問い返す声には、さっきまでの重さは少し薄れ、代わりに小さな好奇心が混じっていた。
リリアは、くすりと笑う。
「そうですわね――」
ペンを手に取り、その横に新しい余白を作る。
「たとえば、“前の子が転ばないようにした子”とか」
さらさらと書きながら、もうひとつ。
「“押されて痛かったって、ちゃんと言えた子”とか」
少年の目が、少しだけ丸くなった。
「……そんなふうに呼んでも、いいの?」
「ええ」
リリアは頷く。
「名前で呼ぶのも、素敵ですわよ。
“◯◯は、ちゃんと嫌なことは嫌って言えた”――と」
自分の名前をそこに当てはめることを想像したのか、少年の頬に、かすかな赤みが差す。
「……それ、宿題に書いてもいいかな」
おずおずとした問いに、リリアは迷いなく答えた。
「ええ、もちろん」
彼女は、ノートを少年のほうに押し戻す。
「“悪役って、悪い人なの?”に対するあなたの考えですもの。
誰かの“正解”を写すより、ずっと価値がありますわ」
少年は、ぎゅっと鉛筆を握り直し、大きく息を吸った。
そして、ゆっくりと書き始める。
『ぼくは、悪役は
「わるいことをした人」だと おもう人もいるけど、
ぼくはちがうとおもう。
人のことをちゃんと見ないで、
かってに「わるい子」ってきめるとき、
その人の中で その人が悪役にされてしまうことがある。
でも、ぼくは じぶんの物語の中で、
自分のことを「悪い子」って よびたくない。
ぼくは 前の子がころばないようにした子で、
いやなことを「いやだ」って言えた子だ。』
字は少しゆがんでいるけれど、ひと文字ひと文字に迷いの跡が残っている。
書き終えて顔を上げると、リリアが静かに拍手をした。
「とてもすてきな答えですわ」
少年の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
リリアは、最後にそっと付け足した。
「ねえ、もうひとつだけ――
これは、わたくしからの小さな約束です」
「……やくそく?」
「ええ」
彼女は、少年の胸のあたりを、空中で軽く指し示す。
「これから先、誰かに“悪い子だ”と言われることが、もしかしたらまたあるかもしれません」
少年は、少しだけ顔を曇らせる。
「そのときは、一度だけで構いませんから――
今日、ここで書いた“自分で決めた名前”を思い出してくださいませ」
「……“前の子がころばないようにした子”とか?」
「ええ。それでもいいですし」
リリアはふわりと笑う。
「“ちゃんと嫌なことは嫌って言える◯◯”でも、構いません」
少年は、自分の名前を心の中でそっと当てはめてみたのか、くすぐったそうにうつむいた。
「それができるかぎり、あなたはきっと――
自分の物語の中で、自分を“悪役”にはしません」
「……うん」
今度の返事は、はっきりとしていた。
「じゃあ、約束ですわね」
リリアがそっと手を差し出すと、少年は少し照れながらも、その手に自分の小さな手を重ねた。
「やくそく」
ぱちん、と静かな音を立てて、二人の指先が一瞬だけ触れ合う。
店の外では、白薔薇の看板が、夕方の風にかすかに揺れていた。
“噂の悪役令嬢”とささやかれるその店の中で、
ひとりの少年は、自分の物語の中の自分の呼び方を、そっと選び直していた。
少年が帰る頃には、窓の外はすっかり夕方の色に染まっていた。
机の上のノートには、まだ書き慣れない字でびっしりと考えが並んでいる。
最後の一口を飲み干し、少年は椅子から勢いよく立ち上がった。
「ねえ、リリアさん」
カップを下げようとしていたリリアが、顔を上げる。
「はい?」
少年は、少しだけ恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐな目で言った。
「もし、誰かが“リリアさんって昔悪役だったんだって”って言ってたら――
ぼく、“紅茶おいしい人だよ”って言っておきます」
一拍、空気が止まる。
リリアは、胸の奥で何かがきゅっと鳴るのを感じた。
喉の奥に言葉が引っかかって、それでも、どうにか微笑みに変える。
「……それは、ずいぶんと贅沢な紹介ですわね」
ようやくそう答えると、少年はぱあっと笑った。
「じゃあ、また来てもいい?」
「もちろんですわ。宿題がなくても、紅茶だけでも」
「うん!」
青年がそんな少年の頭を軽く小突く。
「ほら、暗くなる前に帰るぞ。お世話になりました、リリアねえちゃん」
「こちらこそ、ありがとうございました」
二人が扉へ向かう。
ドアベルがちりんと鳴って、冷たい外気が一瞬だけ店内に流れ込んだ。
路地へ出た少年は、ふと足を止める。
軒先に揺れる白薔薇の看板を、見上げた。
(……“悪役の令嬢”の、しるし)
本の表紙に描かれていた“恐ろしいお嬢さま”の絵が、頭の中にちらりと浮かぶ。
けれどすぐに、今日テーブル越しに見た、紅茶を淹れる人の笑顔が上書きする。
(ちがう。
“紅茶おいしい人”だ)
少年は心の中で小さくそう呟き、かばんを背負い直して、急ぎ足で家路をたどっていった。
店の中から、その後ろ姿をリリアは静かに見送っていた。
カウンター越しに、扉のガラスに映る自分の姿が重なって見える。
(“悪役って、悪い人なの?”)
さっき少年がノートに書いた問いが、そのまま胸の内で反響する。
(――きっと、その答えは、これからも何度も揺れるのでしょう)
物語の中の悪役。
誰かの都合で「悪い役」にされてしまう人。
本当に誰かを傷つけてしまった人――。
どの答えも、きっと一面だけの真実でしかない。
リリアは、ふと窓の外に視線を向ける。
夕暮れの光を受けた白薔薇の看板が、淡く金色に縁取られていた。
(けれどわたくしは、願わくば――)
彼女は、カウンターの上に置かれた今日のポットを見つめる。
さっきまで少年が口をつけていたカップの輪が、まだほのかに温かい。
(噂の中の役柄ではなく、“リリア”という名前と、
“今日の一杯”の味で、誰かの記憶に残りたい)
誰かが路地裏で言うだろう。
「あの人、昔は悪役だったらしいよ」
その囁きは、これからも完全には消えないのだろう。
けれど――。
「……ふふっ」
リリアは小さく笑い、空いたカップを丁寧に洗い桶へと運んだ。
窓の外では、少年が一度だけ振り返り、白薔薇の看板を見上げる。
“あの店の紅茶、おいしかったな”と心の中で呟きながら、足早に路地の角を曲がっていった。
「悪役って、悪い人なの?」
その小さな問いに、今日この店で用意できた答えは、
たった一杯の紅茶と、いくつかの言葉だけ。
それでも、リリアは十分だと思う。
いつか少年が、自分自身を“悪役”ではなく、
ちゃんと名前で呼べるようになる日まで――。
この店で、今日を少しあたためる一杯を淹れ続けよう。
そう静かに心に決めながら、
リリアは灯りを少しだけ絞り、明日のために並べる茶葉の瓶を、一本ずつそっと整えていった。




