表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/99

路地裏の噂話 ―― 「悪役令嬢の店らしいよ」

夕方前の路地は、昼の喧騒と夜の静けさのあいだで、ほどよくゆるんでいた。


 石畳を踏む靴音、どこかでパンを焼く香り、行き交う人々の話し声。その合間に、白薔薇の小さな看板が、風に揺れている。


 その看板をちらりと見上げながら、旅装束の若い男が、隣を歩く商人風の男の袖をつついた。


「なあ、あの店。知ってるか?」


「どの店だ」


「ほら、あれだよ。白い薔薇の印のちっこい茶店。――昔“悪役令嬢”だった女主人がやってるって話だ」


 商人は「ふん」と鼻を鳴らした。


「悪役令嬢って……あの、物語とか噂話に出てくるやつか? ドレスの裾を踏んだだの、平民を見下しただのってやつ」


「そうそう。それだ。婚約破棄されて国外追放とかなんとか……って筋書き、どこの街にも一つはあるだろう?」


「おまえ、安宿の酒場で手に入る三流の読本を、少し信用しすぎじゃないか?」


 商人は呆れたように言いながらも、目だけは店の方へと流している。興味がないわけではないようだ。


 別の方向から歩いてきた中年の女商人が、会話を耳にして口を挟んだ。


「あら、その話、またどこかで増量されてるのかい。こないだは『王子を誘惑して失敗した』って尾ひれが付いてたけどね」


「誘惑って、おまえ……」


「違う違う、もっとすごい噂も聞いたぞ」


 今度は荷車を押していた青年が、得意げに顔を突っ込んでくる。


「実は亡国の姫で、亡命してきた先で“素性を隠して”紅茶屋をやってるとかなんとか」


「なんだそれは。物語を三本くらい混ぜたみたいな話だな」


 商人が思わず吹き出す。旅人も苦笑いを漏らした。


「じゃあ本当のところは?」


「さあねえ」


 中年の女商人は肩をすくめる。


「噂ってやつは、語る人間の数だけ味付けされるもんさ。『毒を盛った』『王子を騙した』『亡命した』――そこまでは一通り聞いたけど」


 彼女はふと、白薔薇の看板を見上げ、その先のガラス戸越しに、店内の様子をのぞきこむように目を細めた。


「でもね、あの店――孤児院の子らも通ってるよ」


「は?」


「“悪役令嬢の店”にか?」


「そう。その“悪役”とやらの淹れる紅茶を、みんなでちびちび飲んでる。冬のあいだは、とくにね」


 中年の女は、皮の鞄の紐を握り直しながら、淡々と続けた。


「“疲れた顔で入ると、ちょっとだけ楽になる紅茶が出てくる”って評判さ。荷下ろし帰りの連中も、夜番前の衛兵も、よく通う」


 旅人は、看板と女商人の顔を交互に見た。


「……悪役、というより、なんだ。薬師か癒し手みたいな話に聞こえるが」


「そう言うと本人はきっと困るだろうけどね。あたしはただ、あそこの一杯で、肩こりと愚痴が少し軽くなったってだけさ」


 女商人は、それだけ言うとひらりと手を振り、路地の向こうへ歩いていく。


 残された旅人と商人は、しばし黙って看板を見上げた。


 白薔薇は、かつて重い扉を飾っていた貴族の紋章と同じ形でありながら、今は、誰でも押して入れる木の扉の上で、静かに揺れているだけだ。


「……どうする?」


「何がだ」


「入って、噂が本当かどうか確かめてみるか、“悪役令嬢”の店」


 旅人の問いに、商人は苦笑した。


「噂の真偽を確かめるにしては、紅茶一杯分の出費は悪くない。――荷の交渉まで、まだ少し時間もあるしな」


 二人は顔を見合わせ、軽く肩をすくめる。


 そして、白薔薇の看板の下へと歩み寄った。


 扉の内側で、噂の主がどんな顔で「いらっしゃいませ」と告げるのか――それを知る者は、まだ誰も、路地裏のこの噂話には混じっていない。




閉店の札をくるりと返し、扉の鍵を落とす音が、店内の静けさに溶けていった。


 リリアは手馴れた動きで机の上のカップを下げ、布巾を濡らしてぎゅっと絞る。木のテーブルを一つずつ拭いていく彼女の背を、カウンター近くの椅子に腰かけたミラが、頬杖をつきながら眺めていた。


「……そういや」


 ニヤニヤと、いかにも何かを言いたげな声色。


「最近、“噂の令嬢の店”って呼ばれてますよ」


 リリアの手が、ふきんを滑らせたままぴたりと止まる。


「……嫌な予感しかしませんわね」


 ゆっくりと顔だけ振り返り、じとっとした視線を送る。


「その“噂”とやらの内容は?」


「聞きたいです?」


「聞かずに済ませるとでも?」


 観念したように言うリリアに、ミラは待ってましたとばかりに指を折り始めた。


「じゃあ、人気どころからいきましょうか。“殿下に毒を盛ろうとして失敗した”説」


「……物騒な開幕ですわね」


「“実は隣国から亡命してきたスパイ令嬢だった”説」


「誰ですの、その脚本を書いたのは。お会いして、構成の甘さを指摘して差し上げたい」


「あと、“呪いの紅茶”出してる説」


「最後のは営業妨害で訴えてもよろしいかしら」


 リリアはため息をつきながらも、口元だけはわずかに笑っていた。


 テーブルを拭き終え、布巾を手の中でたたみながら、ふと心の中で呟く。


(“悪役令嬢”という言葉は、

 たしかにあの頃のわたくしを縛る枷でしたわ)


(“ふさわしい悪役として振る舞え”

 “完璧な公爵令嬢であれ”――

 どれも、紋章の外側から押しつけられた“役目”)


(けれど今、その枷だけが一人歩きして、

 ひどく滑稽な怪物に育っているような気もいたしますわね……)


 もはや本人より、噂話のほうがずっと大げさで、ずっと安っぽい。


 そんなことを考えていると、ミラが椅子の背にもたれ、足をぶらぶらと揺らした。


「まあでもですね」


「まだ何かありますの?」


「“噂を確かめに行ってみるか”って来るお客さんも、ちゃんといるわけですよ」


 ミラは、ついさっきまで客が座っていた席を顎で示す。


「さっきの旅人もそうでした。“悪役令嬢の店ってここですか?”って顔で入って来て――」


「それはどんな顔ですの」


「“毒見する覚悟はできてます”みたいな顔ですね」


「本気で営業妨害で訴えますわよ」


 リリアがジト目でにらむと、ミラはからからと笑う。


「でも、実物見て、一杯飲んで、“あれ? 普通にいい店じゃん”って顔して帰っていきましたよ」


 その光景は、リリアの目にも浮かぶ。


 おそるおそる扉を開けてきた客が、湯気と香りに肩の力を抜き、カップを空にして立ち上がるときには、来たときよりほんの少しだけ表情が柔らかくなっている――そんな姿を、彼女は何度も見てきた。


「“悪役令嬢、出世してません?”ってね」


 ミラはわざとらしく肩をすくめる。


「“人を呪う紅茶”どころか、“ちょっと楽にする紅茶”出してるんですから。噂的には、だいぶ出世ですよ」


「……その出世のしかたを、あの頃のわたくしに教えて差し上げたいですわね」


 リリアは小さく笑い、カウンターに布巾を置いた。


(“悪役令嬢だったらしい”――)


(その“らしい”の中に、

 どれだけ尾ひれが付こうとも)


(今、この店でわたくしが差し出しているのは、

 呪いでも毒でもなく、ただの一杯の紅茶)


(噂がどう形を変えようと、

 この一杯の温かさまでは、きっとごまかせませんわ)


 そう思うと、「噂の令嬢」という新しい肩書きさえ、どこか他人事のように思えてくるのだった。



 昼下がりの陽が、窓から斜めに差し込んでいた。

 白薔薇の看板の下、ちりん、とドアベルが鳴る。


「ここだろ、“悪役令嬢の店”って」


 わざと声を潜めたつもりなのだろうが、店内にははっきり届く調子で、若者の声がした。


「どんな怖い顔のお嬢様が出てくるんだ……」


「噂だと、笑っただけで相手が凍りつくとか――」


「おまえ、それ半分は作り話だろ」


 数人の若者たちが、興味津々といった様子で店内を見渡す。

 木のテーブルがいくつかと、小さなカウンター。壁には茶葉の瓶と、子どもたちの絵。

 “恐ろしい悪役令嬢の巣窟”というより、どう見ても「ちょっと落ち着ける小さな茶店」でしかない。


 そんな彼らを迎えたのは――


「いらっしゃいませ」


 穏やかな声とともに、トレイを抱えたリリアだった。

 柔らかくまとめた髪、清潔なエプロン。目元には、客の様子をよく見る癖がうかがえるが、そこに刺すような棘はない。


「本日はどのようなお茶がお好みですか? 温かいもの、それとも、少しさっぱりしたものをお探しでしょうか」


 若者Aは、一瞬、目をぱちぱちさせた。


(……あれ?)


(もっとこう、冷たい目で見下ろしてくる“悪役令嬢”を想像してたんだけど……)


 肩をすくめ合う視線が、テーブルの陰で交わされる。


「え、と……甘めのやつ、あります?」


 恐る恐る口を開いた若者Bに、リリアはふわりと笑みを向ける。


「甘めでございましたら、蜂蜜を使ったブレンドティーがございますわ。

 少し疲れた日向けの“ひと休み”の一杯でして」


「つ、疲れてるかどうか、そんな顔に出てます?」


「ええ、少しだけ。ですが、それに合うお茶をお出しするのが、この店の仕事ですもの」


 からかいではなく、当たり前のように言われて、若者Bは照れくさそうに頬をかいた。


「他の方は、いかがなさいます?」


 視線を向けられた若者たちは、どこか「観察モード」のまま、メニューに目を落とした。


(……本当にこの人が“悪役”だったのか?)

(いや、まだ油断できん。裏で毒を調合してるかもしれない――)

(おまえ、噂に毒されすぎ)


 小声でひそひそとやり合いながら、結局それぞれ別のブレンドを注文する。


 やがて、カウンターの中から、湯気とともに優しい香りが届いてきた。


「お待たせいたしました。こちらが、蜂蜜多めの“ひと休みブレンド”。

 そちらがお腹に優しいスパイス入り、そして、少しすっきりしたい方用のハーブ混じりでございます」


 テーブルに並ぶカップはどれも、縁にほどよく湯気をまとい、淡い色を揺らしている。


「……その、噂で……」


 我慢できなくなったように、若者Bが切り出した。


 途端に、同席の仲間たちが「言うのか!? 本当に言うのか!?」という目で彼を見る。


「噂で、何か?」


 リリアは首を傾げ、特に警戒するでもなく、ただ促した。


「“昔は悪役令嬢だった”って、その……」


 若者がそう言い淀むと、隣の仲間が慌てて口を挟む。


「ご、ごめんなさい! 変な話を真に受けて――」


 しかし、リリアはふっと目を細め、くすりと笑った。


「ええ、“昔は少々、扱いづらい令嬢だったらしい”というお話でしょう?」


「言ったーー!!」


 テーブルの上で、若者たちの肩が揃って跳ねた。


 リリアは、その反応にますます楽しげな色を浮かべる。


「噂というものは、どうしても少しずつ膨らんでしまうものですわね。

 わたくしがくしゃみをすれば、“王宮を揺らす雷鳴”になって語られるようなものです」


「そんな怪物クラスの噂になってるんですか」


「ええ、時折耳にいたしますの。“呪いの紅茶を出している”とか」


「やっぱり言われてるんだ、それ……」


 若者Aが頭を抱え、仲間たちが小さく笑う。


 リリアはそっとカップの取っ手を指先で押しやり、彼らのほうへ向けた。


「ご安心くださいませ」


 声色は冗談めいているが、そのまなざしはまっすぐだ。


「こちらでお出しするのは、“今日を少し楽にする紅茶”だけですわ。

 物語に出てくるような“悪役の毒薬”は、取り扱っておりませんの」


 若者たちは顔を見合わせ、そしておそるおそる、それぞれのカップを口に運ぶ。


 ひと口、ふた口。

 熱が舌にやわらかく触れ、喉を通って胸のあたりに落ちていく。


「……あ、うま」


 ぽろり、と素直な声をこぼしたのは、最初に噂を口にした若者Aだった。


「なんか、甘いのに重くない」


「こっち、スパイス入ってるのに、ぜんぜんきつくないっすね……」


「おい、なんだよ。“呪い”っていうより、“徹夜明けを赦してくれる味”じゃねえか」


 わいわいと感想を言い合っているうちに、誰も“悪役令嬢”という言葉を口にしなくなっていることに、彼ら自身は気づいていない。


 リリアは、カウンターの向こうからその様子を見守りながら、心の中で静かに笑う。


(“悪役令嬢の店らしい”――)


(そんな噂を、わざわざ確かめに来てくださるのなら)


(わたくしが差し出すべきは、やはりこの一杯だけですわね)


(噂がどれほど派手でも構いません)


(最後に口の中に残るのが、“ああ、来てよかった”という温かさなら――

 それだけで、十分ですもの)


 若者たちは、すっかり調子を崩された顔で、しかしどこかほっとしたようにカップを空にしていく。


「……なあ」


「ん?」


「“悪役令嬢”って感じ、したか?」


「いや……どっちかというと、“なんか頼れるお姉さん”って感じ」


「だよなあ」


 そんな小声の会話を、リリアはあえて聞こえないふりをして、静かにポットに次のお湯を注いだ。


 店の中には、噂話よりもずっと穏やかな、紅茶の香りだけが満ちていた。


 放課後の街は、子どもたちの声で少しだけ賑やかになる時間帯だった。

 石畳の路地を、背の高さの違う影が三つ、並んで歩いてくる。


「ほら、急がないと。今日の“おやつ係”の特権、逃しちゃうよ」


 孤児院出身の青年が、手をつないだ小さな男の子を軽く急かす。

 もう一人の少女が、くすくす笑いながら続いた。


「大丈夫、リリアねえちゃんの店は逃げないよ。

 でも、あんたが迷ってる間に“今日のおすすめ”はなくなるかもね」


「それはやだ!」


 小さな靴が、ぽん、と勢いよく路地を蹴る。

 白薔薇の看板の下で、ちりん、とベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 迎えたリリアの声は、いつもどおりの柔らかさだ。

 青年と少女は慣れた様子で「こんにちは」と挨拶し、奥の小さなテーブルに陣取る。


「今日は三人ですのね。

 暖かいものがよろしいかしら?」


「うん、あったかいの! 外、ちょっと寒かった」


「かしこまりましたわ。では、少し甘めのものを」


 リリアがカウンターに戻っていく後ろ姿を、男の子はじっと目で追っていた。

 そして、ぽつりと口を開く。


「ねえねえ」


 机に肘をついていた少女が「ん?」と振り向く。


「“リリアねえちゃんって悪役だったんだって?”

 学校の子が言ってた」


 その言葉に、空気がほんの一瞬、ぴんと張りつめた。


「ちょ――」


 青年が慌てて口をふさごうと身を乗り出す。

 だが、その肩に、そっと白い指が触れた。


「大丈夫ですわ」


 いつの間にか戻ってきていたリリアが、トレイを片手に立っていた。

 表情は、驚くほど静かだ。


「……そう、聞きましたのね」


 男の子は、悪いことを言ったという自覚がいまいちないまま、こくりと頷く。


「うん。でも、ぼく、よくわかんない」


「わからない?」


「だって、リリアねえちゃん、パン分けてくれたし……

 雪の日、一緒に遊んでくれたから」


 青年と少女が、同時に目を伏せた。


 あの冬の、白い息と、冷たい指先と、ぎりぎりで分け合ったパンの重みが、胸の奥によみがえる。

 男の子にとっての「リリアねえちゃん」は、寒さの中で手を握ってくれた大人だ。


(この子にとっての“わたくし”は――)


 リリアは、そっとトレイをテーブルに置きながら、心の中で言葉を継ぐ。


(物語の“役柄”ではなく、

 寒い日に手を繋いだ、大人の一人)


(“悪役令嬢だったらしいよ”という噂は、

 この子たちの“知っているわたくし”には、とても勝てそうにありませんわね)


 湯気の立つカップが、ぽん、とテーブルに並ぶ。


「昔のわたくしは――」


 リリアは、自分でも少し驚くほど穏やかな声で言った。


「少し意地悪な顔をしていた時期も、あったかもしれません」


 男の子が、じっと彼女の顔を見上げる。


「いじわる?」


「そうですわね。

 “こうあるべきだ”と決めつけて、周りにも、自分にも、厳しすぎたところがございましたから」


 青年と少女が、思わず顔を見合わせる。

 あの頃を知る者として、否定はできないが、それだけでもなかったと、言いたくもなる。


「でも、今は?」


 男の子の問いは、ひどくまっすぐだった。


 リリアはほんの一瞬だけ考え、それから、ふっと微笑む。


「今は――紅茶屋さんですわ」


「こうちゃやさん」


「ええ。

 みなさまの“今日”を、少しだけあたためる係、でしょうか」


 そう言って、男の子の前のカップを、そっと押しやる。


「今日は、学校は楽しかった?」


「うん。……でも、ちょっと、しゅくだいが多い」


「まあ、それは大変。でしたら、宿題に立ち向かう勇気を出すための一杯、ということにいたしましょう」


 男の子は、真剣な顔でうなずき、慎重にカップを持ち上げる。

 ひと口飲んで、ほう、と肩を緩めた。


「……あったかい」


「それが、紅茶屋さんの“おしごと”だからね」


 少女が笑って言う。

 青年も、安堵と誇らしさが混じったような目でリリアを見る。


「ね、リリアねえちゃんは悪役じゃないよ」


 男の子が、当然のように言い切った。


「パンくれるし、あったかいお茶くれるし……

 ぼくのこと、ちゃんと名前で呼んでくれるもん」


 リリアは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


「……そう言っていただけるのなら、

 昔の噂など、たいしたことではありませんわね」


 小さく笑って、肩の力を抜く。


「さあ、冷めないうちに召し上がって。

 宿題をなさるなら、そのあとに、甘い焼き菓子もお持ちしますわ」


「やった!」


 子どものはしゃぎ声が、店の一角に弾む。

 カップから立ちのぼる湯気は、夕方の光を受けて、やわらかく揺れた。


(噂は、きっとこれからも、好き勝手に歩き回るのでしょう)


(けれど――)


(この子たちの中にある“リリアねえちゃん”は、

 雪の日に手を取った記憶と、紅茶の味でできている)


(それなら、わたくしはそれだけを、丁寧に積み重ねていけばよろしいのですわ)


 リリアはもう一度、静かに微笑んで、カウンターへ戻っていった。

 その背中を追う子どもの視線には、「悪役」という言葉の影は、かけらもなかった。


 その日の店内は、いつもより少しだけ静かだった。

 昼の賑わいが一段落し、夕方前の柔らかな光が窓から差し込んでいる。


 ちりん、とドアベルが鳴いた。


「いらっしゃいませ――」


 リリアがいつもの調子で顔を上げ、言葉を継ごうとしたところで、ほんのわずかに目を瞬いた。


 入ってきたのは、上質な生地のドレスをまとった婦人だった。

 年の頃はリリアより少し上。仕立てのよい外套と、控えめながら高価そうなアクセサリー。

 視線は、店の隅々をなめるように見回し、そのたびに何かを「測っている」気配がある。


(……どこかで、見たような、見ていないような)


 王宮時代、似たような眼差しにさらされた記憶は数えきれない。

 “誰の娘か”“誰の婚約者か”を値踏みする目。


 婦人はカウンターの前まで歩み寄ると、ふわりと扇を開き、リリアを上から下まで一瞥した。


「……あなたが」


 わざと間を置いてから、唇にうっすら笑みを浮かべる。


「例の“噂の令嬢”ですのね」


 ミラが奥でグラスを拭きながら、ぴくりと眉を動かした。

 だがリリアは、ほんの一呼吸だけ置いて、静かに微笑む。


「噂の中では、たいていそう呼ばれておりますわね」


「まあ」


 婦人はおもしろがるように目を細める。


「王宮でずいぶんと……お騒がせだったとか。

 殿下とのご婚約も、ずいぶん劇的な終わり方をなさったそうで」


 “劇的”という言葉に、わざと甘い毒を混ぜてくるあたり、手慣れたものだ。


「当時のわたくしをご存じの方にとっては、そう映ったことでしょうね」


 リリアは否定も言い訳もしない。

 ただ、淡々と事実の輪郭だけを認める。


 婦人は、少しつまらなそうに顎を傾けた。

 もっと慌てたり、取り繕ったりする姿を期待していたのだろう。


「ふふ……“悪役令嬢”とまで囁かれていた方が、

 こんなところで紅茶店を開いていらっしゃるなんて。

 世の中、わからないものですわね」


「本当に、そうですわね」


 リリアは、そこで一歩だけ踏み込んだ。


「ちなみに、奥様は――」


 扇を持つ婦人の手が、かすかに止まる。


「どれほどの“事実”と、どれほどの“噂”をご存じでして?」


「……え?」


 婦人の眉がわずかに寄った。


 リリアは、あくまで穏やかな声音で続ける。


「人づてに聞かれたお話と、

 ご自身の目でご覧になったわたくしと――」


 まっすぐに視線を合わせた。


「どちらのほうが多いのか、少し気になりまして」


 店内の空気が、ぴん、と張り詰める。

 ミラが「出るべきか、見てるべきか」の顔でカウンター裏からそっと覗く。


 婦人は、言葉を探すように扇先で唇をつついた。


「それは……その……

 王都には、いろいろと話が――」


「ええ、存じております」


 リリアはふわりと微笑んだ。


「王都の噂話は、寒さにも暑さにも負けませんもの。

 わたくしも、何度かその火の粉を浴びましたわ」


 婦人の視線が、揺れる。

 自分の言葉が、相手を傷つけるための刃としては、あまりにも鈍かったことに、いまさら気づいたようだった。


 張りつめかけた空気が、今度は違う方向に切り替わる前に、リリアはふっと息を抜く。


「……ですが、今ここにあるのは」


 そっと、カウンターの上のティーカップを指で示す。


「過去の物語ではなく、目の前の一杯の紅茶ですわ」


 静かな言葉が、店内に落ちて、じんわりと染みていく。


「どうぞ、ご自由にお選びくださいませ。

 噂を信じるかどうかも、同じように、お客様のご自由ですもの」


 婦人は、扇をぱたりと閉じた。

 視線が、一瞬だけ戸惑い、やがてわずかに沈む。


「……おすすめは、どれかしら?」


 かろうじて保たれた気位の中に、ささやかな降参が混じっている。


「本日の“お疲れさま”用のブレンドがございますわ」


 リリアは何事もなかったかのように、いつもの口調に戻る。


「少し渋みを抑えて、後味を軽く整えております。

 “余計なことを考えすぎた一日”のあとに、よく合うお茶ですの」


 ミラがカウンターの奥で「今のは完全に狙ってましたね?」と目で訴えてくるが、リリアは知らぬふりをした。


「……では、それを」


 婦人は椅子に腰掛けながら、ちらりと店内を見回す。

 白薔薇の看板から繋がる、小さな空間。

 孤児院帰りらしい子どもたちが宿題をひろげ、パン屋の若夫婦が明日の生地の具合をひそひそと話している。


 彼女の想像していた「悪役令嬢の巣窟」とは、だいぶ様子が違う。


 ほどなくして、湯気をまとったカップが目の前に置かれた。


「お口に合えばよろしいのですが」


 婦人は、一瞬ためらってから、カップを唇に運ぶ。

 舌の上を通る温度と香りに、わずかに目を見開いた。


「……思ったより、優しい味ですのね」


「“悪役の毒薬”は、仕入れておりませんので」


 リリアが冗談めかして言うと、婦人の口元が、かすかにゆるんだ。


「噂どおりでは、ないのね」


「噂どおりの人間など、そう多くはおりませんわ。

 よろしければ――“今日、こちらにいらした奥様”のご印象も、噂に混ぜていただければ嬉しゅうございます」


 婦人は、しばし黙ってカップを見つめる。

 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……そうですわね。

 “噂の令嬢の店で、少しだけ肩の力が抜けるお茶を飲んだ”とでも」


「光栄ですわ」


 それ以上、過去の話題は出なかった。

 出してもよかったが、出さなくてもよい、と互いに理解していたからだ。


 客が帰り、ちりん、とベルの音が遠ざかっていく。


「……やりますねえ、店主殿」


 ミラがカウンターの端に肘をつき、にやにやと笑う。


「もっと刺々しい言い合いになるかと思ったのに。

 あそこで“事実と噂はどっちが多いか”って聞くの、性格悪くないです?」


「性格が悪いと言うのなら、教えてくださった方がよろしいのではなくて?」


 リリアは、くすりと笑ってティーポットを洗いながら肩をすくめる。


「ただ、線を引いただけですわ。

 “噂だけを握っている手”と、“目の前のカップ”のあいだに」


「で、その“目の前のカップ”の勝ちってわけだ」


「勝ち負けというより……

 どちらを信じて帰るかを、選んでいただいただけですわね」


 窓の外では、白薔薇の看板が、夕方の風にそっと揺れている。


 噂はこれからも、路地裏で好き勝手に育っていくだろう。

 だが、この店の中で交わされるのは、湯気と香りと、今日を生きてきた人の体温だ。


 リリアは、次のカップを温めながら、静かに思う。


(“噂の中の悪役”とやらに、負けるつもりはありませんわ)


(だって――ここにいるのは、あの頃からどうにか冬を越えてきた、今のわたくしなのですから)


 白薔薇の印の下で、またひとつ、噂と現実のあいだに置かれた紅茶の一杯が、静かに湯気を立てていた。


 閉店の札をひっくり返したあとも、店内には一人だけ客が残っていた。


 カウンター席に腰かけ、上着を椅子の背に掛けた男。

 かつて「殿下」と呼ばれていた人物は、今はすっかり「忙しい役人」の顔で、湯気の立つカップを両手で包んでいる。


「本日は、これで最後の一杯ですわね」


 リリアがカウンターの中から微笑んだ。


「冷めてしまわないうちに、どうぞ」


「ああ」


 王子――アルトは一口含み、ふう、と小さく息を吐いた。

 店内の照明が少し落とされ、窓の外には夜の街灯がぽつぽつと灯っている。


 しばし、静かな時間が流れたあと。


「……最近、街で妙な噂を聞いたよ」


 カップの縁を指でなぞりながら、アルトがぽつりと言った。


 リリアは、布巾でグラスを拭いていた手を止め、片眉を上げる。


「“悪役令嬢だったらしい店主がいる紅茶店”ですわね?」


「そこまでセットで聞いているのか」


 半ば呆れたように、半ば苦笑を含んだ声が返ってくる。


 アルトは心の中で、静かに言葉を継いだ。


(かつて、彼女はたしかに“悪役”と噂された)


(婚約者として隣にいながら、その噂から目を背けずにはいられなかったのは――他ならぬ、このわたしだ)


(けれど今、こうして)


 視線の先では、リリアがカップを片付け、テーブルを拭き、椅子の向きを整えている。

 その動きひとつひとつが、店を「明日もまた人を迎えられる状態」に整えていく、静かな仕事だ。


(ここで人々の“今日”をあたためている彼女を見て、

 それを“悪役”と呼べる者が、果たしてどれほどいるだろうか)


 アルトはカップを置き、ゆっくりと口を開いた。


「“あの人、昔は悪役だったらしいよ”――」


 リリアが「来ましたわね、その台詞」と言いたげに目を細める。


「そんなふうに囁く声もあるらしいが」


 カウンター越しに、真正面から彼女を見つめる。


「今の君を見て、同じ言葉を口にできる人間は、きっとそう多くはないだろう」


 リリアは、ほんの一瞬だけまばたきを忘れた。

 それから、くすっと喉の奥で笑う。


「まあ。殿――いえ、アルト様にそこまで言われてしまっては」


 軽く肩をすくめてみせる。


「でしたら、“だったらしい”の“らしい”のあたりで、そっと笑っていればよろしいですわね」


「“らしい”のあたりで?」


「ええ。噂というものは、“らしい”がついた途端、途端に頼りなくなりますでしょう?」


 布巾を畳みながら、さらりと言う。


「“悪役だった”と断じるのであれば、

 せめて当時のわたくしの顔を、きちんと覚えていていただきませんと」


「それは……かなり難しい条件だな」


 アルトが苦笑する。


「当の本人でさえ、“あの頃の自分の顔”を――今の君とは、別物のように覚えているから」


「そうですわね」


 リリアは少しだけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。


「噂は噂。

 わたくしは、わたくしのお湯の温度と茶葉の分量にだけ、責任を持ちます」


 それが、この店の主としての答えだった。


 アルトは、その言葉を噛みしめるようにもう一口、紅茶を飲む。


「……きっと、それが一番、信用できる“噂”だな」


「まあ。どの口が“信用”などと」


 リリアが少し意地悪そうに目を細める。


「王宮時代、わたくしの評判に関して、どれほど“噂”に振り回されていらしたことか」


「耳が痛いな」


 アルトは素直に頭をかいた。


「だからこそ、今は、目で見て決めるようにしているつもりだ。

 今日、ここで何杯の“お疲れさま”が出て、何人が少し笑って帰ったのか――」


 視線で、店内をぐるりと示す。


「それは、噂ではなく事実だろう?」


「そう言っていただけるのなら」


 リリアは、カウンター越しに軽く会釈した。


「“昔は悪役だったらしい”も、“今は紅茶屋をやっているらしい”も、

 そのうち、どちらも“あの店で少し楽になった”という話に紛れていくかもしれませんわね」


「紛れて、そして残る」


 アルトは小さく頷く。


「君が、ここで淹れ続ける限りは」


 リリアは、その言葉に直接の返事はしなかった。

 代わりに、彼のカップに残った紅茶をちらりと見て、微笑む。


「そろそろ、温度が落ちてしまいますわよ」


「ああ。……君の責任範囲の問題か」


「ええ、“今のわたくし”の責任ですもの」


 二人のあいだに、小さな沈黙が落ちる。

 けれどその沈黙は、かつて王宮で交わした気まずさとは違う。


 噂に貼られたラベルでもなく、昔の役柄でもなく。

 今この場で、湯気の向こう側にいる「リリア」と「アルト」として、ただ同じ時間を分け合う沈黙だった。


 窓の外では、白薔薇の看板が夜風に揺れている。


(“悪役だったらしい”――)


 アルトは心の中で、その言葉をもういちど転がし、静かに手放した。


(そんな曖昧な言い方では、とても追いつけない。

 今の君を言い表すには、あまりにも足りない)


 カップの底に残った最後の一口を飲み干し、そっと置く。


「ごちそうさま。……今日も、いいお茶だった」


「それは何よりですわ」


 リリアは微笑み、カップを受け取る。


「噂に混ぜていただくなら、その一言も、どうかお忘れなく」


「約束しよう」


 それは、王子としてではなく、一人の客としての約束。


 ちりん、と静かな店内に響くベルの音とともに、

 “悪役だったらしい”という曖昧な噂の上に、またひとつ、小さな事実が積み重ねられていった。



その日最後の客は、まだ若い旅の途上らしい青年だった。


 噂を聞きつけて来たのだろう。

 最初に扉を開けたときの目つきには、好奇心と、少しの警戒が混じっていた。


 けれど今、空になったカップをそっと受け皿に戻しながら、その目はすっかり和らいでいる。


「……ごちそうさまでした」


「こちらこそ、お越しくださってありがとうございました」


 リリアがいつもの微笑みで頭を下げると、青年は少し口を迷わせてから、ぽつりと言葉を落とした。


「……噂と、違いました」


「まあ」


 リリアは首をかしげ、わざとらしく小さく目を丸くする。


「どの噂と比べられましたの?」


 青年は気まずそうに視線をそらした。


「もっとこう、冷たくて……人を見下す“悪役令嬢”だって」


「まあ、それはそれは」


 リリアはくすりと笑い、軽く肩をすくめる。


「残念ながら、本日のメニューには載っておりませんわね」


 青年は一拍置いてから、堪えきれないように笑い声を漏らした。


「ですよね……」


 笑いが落ち着くと、少し真面目な顔に戻って続ける。


「でも、“疲れた時に寄ると楽になる紅茶屋”って噂は、たぶん本当です」


 その言葉に、リリアの胸の奥で、静かに何かがほどける。


「それでしたら、その噂は――」


 カウンター越しに、柔らかく目を細めた。


「少しだけ広がってくださると、嬉しいですわね」


 青年は照れくさそうに頷き、「じゃあ、また疲れたら来ます」と言って扉へ向かった。


 ちりん、とドアベルが鳴る。

 外の冷たい空気が少しだけ流れ込み、すぐに閉まる。


 ガラス越しに、青年が路地に出て、店先の白薔薇の看板を一度振り返る姿が見えた。

 彼は何かを独り言のように呟きながら、足取りを少し軽くして歩き去っていく。


 リリアはドアに「CLOSED」の札をかけ直し、静かに息をつく。


(“あの人、昔は悪役だったらしいよ”)


 どこか遠くで、誰かが囁いているような言葉が、ふと頭をよぎる。


(――好きに囁けばいいのです)


 カウンターの中から、窓の外の白薔薇の看板を見上げる。

 夕闇と夜の境目のような空の下で、看板は街灯の光を受けて、柔らかく輪郭を浮かび上がらせていた。


(今日ここでどんな紅茶を淹れ、

 誰がどんな顔で帰っていったかは――)


 さきほどの青年の、少しほどけた表情が思い浮かぶ。

 その前には、疲れ切った職人の伏せた肩、眠そうな目をこする子ども、仕事帰りの役人の深いため息。


(噂ではなく、わたくしとお客様だけが知っている“事実”ですもの)


 リリアは店内の灯りを一つずつ落としていき、最後にカウンターの上の小さなランプだけを残した。


 棚に並ぶ茶葉の瓶が、橙色の明かりに照らされている。


 夜の路地では、白薔薇の看板がわずかな風に揺れ、

 その下を、「噂の令嬢の店は悪くなかったよ」と笑い合う人々が通り過ぎていく。


 その会話のどこかに、かつての“悪役”の二文字が混じることがあったとしても――

 リリアの願いは、ひとつだけだ。


(いつの日か、その噂話よりも先に、

“あの店の紅茶がおいしかった”という記憶のほうが、人々の胸に残るように)


 彼女は明かりを落とした店内で、明日のための茶葉の瓶をそっと整える。

 ラベルの向きを揃え、残量を確かめ、手帳に小さなメモを取る。


 ここで過ごした一日分の「おいしかった」と、「少し楽になった」を、

 誰に見せるでもない形で、静かに心にしまい込むように。


 最後の瓶の位置を直し終えると、リリアは窓の方へ目を向けた。


 ガラス越しに、白薔薇の看板が小さく見える。

 かつて“悪役令嬢”と囁かれた少女が背負っていた紋章は、今、ひとりの紅茶屋の歩いてきた道の印として揺れている。


「さて――」


 誰にともなく、リリアは小さく呟いた。


「明日は、どなたの“今日”をあたためてさしあげましょうか」


 そう言って微笑み、店の最後の灯りを落とす。


 闇に溶け込む直前まで、白薔薇の看板は確かにそこにあり、

 やがて訪れる新しい一日と、新しい一杯の紅茶を、静かに待ち続けていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ