路地裏の噂話 ―― 「悪役令嬢の店らしいよ」
夕方前の路地は、昼の喧騒と夜の静けさのあいだで、ほどよくゆるんでいた。
石畳を踏む靴音、どこかでパンを焼く香り、行き交う人々の話し声。その合間に、白薔薇の小さな看板が、風に揺れている。
その看板をちらりと見上げながら、旅装束の若い男が、隣を歩く商人風の男の袖をつついた。
「なあ、あの店。知ってるか?」
「どの店だ」
「ほら、あれだよ。白い薔薇の印のちっこい茶店。――昔“悪役令嬢”だった女主人がやってるって話だ」
商人は「ふん」と鼻を鳴らした。
「悪役令嬢って……あの、物語とか噂話に出てくるやつか? ドレスの裾を踏んだだの、平民を見下しただのってやつ」
「そうそう。それだ。婚約破棄されて国外追放とかなんとか……って筋書き、どこの街にも一つはあるだろう?」
「おまえ、安宿の酒場で手に入る三流の読本を、少し信用しすぎじゃないか?」
商人は呆れたように言いながらも、目だけは店の方へと流している。興味がないわけではないようだ。
別の方向から歩いてきた中年の女商人が、会話を耳にして口を挟んだ。
「あら、その話、またどこかで増量されてるのかい。こないだは『王子を誘惑して失敗した』って尾ひれが付いてたけどね」
「誘惑って、おまえ……」
「違う違う、もっとすごい噂も聞いたぞ」
今度は荷車を押していた青年が、得意げに顔を突っ込んでくる。
「実は亡国の姫で、亡命してきた先で“素性を隠して”紅茶屋をやってるとかなんとか」
「なんだそれは。物語を三本くらい混ぜたみたいな話だな」
商人が思わず吹き出す。旅人も苦笑いを漏らした。
「じゃあ本当のところは?」
「さあねえ」
中年の女商人は肩をすくめる。
「噂ってやつは、語る人間の数だけ味付けされるもんさ。『毒を盛った』『王子を騙した』『亡命した』――そこまでは一通り聞いたけど」
彼女はふと、白薔薇の看板を見上げ、その先のガラス戸越しに、店内の様子をのぞきこむように目を細めた。
「でもね、あの店――孤児院の子らも通ってるよ」
「は?」
「“悪役令嬢の店”にか?」
「そう。その“悪役”とやらの淹れる紅茶を、みんなでちびちび飲んでる。冬のあいだは、とくにね」
中年の女は、皮の鞄の紐を握り直しながら、淡々と続けた。
「“疲れた顔で入ると、ちょっとだけ楽になる紅茶が出てくる”って評判さ。荷下ろし帰りの連中も、夜番前の衛兵も、よく通う」
旅人は、看板と女商人の顔を交互に見た。
「……悪役、というより、なんだ。薬師か癒し手みたいな話に聞こえるが」
「そう言うと本人はきっと困るだろうけどね。あたしはただ、あそこの一杯で、肩こりと愚痴が少し軽くなったってだけさ」
女商人は、それだけ言うとひらりと手を振り、路地の向こうへ歩いていく。
残された旅人と商人は、しばし黙って看板を見上げた。
白薔薇は、かつて重い扉を飾っていた貴族の紋章と同じ形でありながら、今は、誰でも押して入れる木の扉の上で、静かに揺れているだけだ。
「……どうする?」
「何がだ」
「入って、噂が本当かどうか確かめてみるか、“悪役令嬢”の店」
旅人の問いに、商人は苦笑した。
「噂の真偽を確かめるにしては、紅茶一杯分の出費は悪くない。――荷の交渉まで、まだ少し時間もあるしな」
二人は顔を見合わせ、軽く肩をすくめる。
そして、白薔薇の看板の下へと歩み寄った。
扉の内側で、噂の主がどんな顔で「いらっしゃいませ」と告げるのか――それを知る者は、まだ誰も、路地裏のこの噂話には混じっていない。
閉店の札をくるりと返し、扉の鍵を落とす音が、店内の静けさに溶けていった。
リリアは手馴れた動きで机の上のカップを下げ、布巾を濡らしてぎゅっと絞る。木のテーブルを一つずつ拭いていく彼女の背を、カウンター近くの椅子に腰かけたミラが、頬杖をつきながら眺めていた。
「……そういや」
ニヤニヤと、いかにも何かを言いたげな声色。
「最近、“噂の令嬢の店”って呼ばれてますよ」
リリアの手が、ふきんを滑らせたままぴたりと止まる。
「……嫌な予感しかしませんわね」
ゆっくりと顔だけ振り返り、じとっとした視線を送る。
「その“噂”とやらの内容は?」
「聞きたいです?」
「聞かずに済ませるとでも?」
観念したように言うリリアに、ミラは待ってましたとばかりに指を折り始めた。
「じゃあ、人気どころからいきましょうか。“殿下に毒を盛ろうとして失敗した”説」
「……物騒な開幕ですわね」
「“実は隣国から亡命してきたスパイ令嬢だった”説」
「誰ですの、その脚本を書いたのは。お会いして、構成の甘さを指摘して差し上げたい」
「あと、“呪いの紅茶”出してる説」
「最後のは営業妨害で訴えてもよろしいかしら」
リリアはため息をつきながらも、口元だけはわずかに笑っていた。
テーブルを拭き終え、布巾を手の中でたたみながら、ふと心の中で呟く。
(“悪役令嬢”という言葉は、
たしかにあの頃のわたくしを縛る枷でしたわ)
(“ふさわしい悪役として振る舞え”
“完璧な公爵令嬢であれ”――
どれも、紋章の外側から押しつけられた“役目”)
(けれど今、その枷だけが一人歩きして、
ひどく滑稽な怪物に育っているような気もいたしますわね……)
もはや本人より、噂話のほうがずっと大げさで、ずっと安っぽい。
そんなことを考えていると、ミラが椅子の背にもたれ、足をぶらぶらと揺らした。
「まあでもですね」
「まだ何かありますの?」
「“噂を確かめに行ってみるか”って来るお客さんも、ちゃんといるわけですよ」
ミラは、ついさっきまで客が座っていた席を顎で示す。
「さっきの旅人もそうでした。“悪役令嬢の店ってここですか?”って顔で入って来て――」
「それはどんな顔ですの」
「“毒見する覚悟はできてます”みたいな顔ですね」
「本気で営業妨害で訴えますわよ」
リリアがジト目でにらむと、ミラはからからと笑う。
「でも、実物見て、一杯飲んで、“あれ? 普通にいい店じゃん”って顔して帰っていきましたよ」
その光景は、リリアの目にも浮かぶ。
おそるおそる扉を開けてきた客が、湯気と香りに肩の力を抜き、カップを空にして立ち上がるときには、来たときよりほんの少しだけ表情が柔らかくなっている――そんな姿を、彼女は何度も見てきた。
「“悪役令嬢、出世してません?”ってね」
ミラはわざとらしく肩をすくめる。
「“人を呪う紅茶”どころか、“ちょっと楽にする紅茶”出してるんですから。噂的には、だいぶ出世ですよ」
「……その出世のしかたを、あの頃のわたくしに教えて差し上げたいですわね」
リリアは小さく笑い、カウンターに布巾を置いた。
(“悪役令嬢だったらしい”――)
(その“らしい”の中に、
どれだけ尾ひれが付こうとも)
(今、この店でわたくしが差し出しているのは、
呪いでも毒でもなく、ただの一杯の紅茶)
(噂がどう形を変えようと、
この一杯の温かさまでは、きっとごまかせませんわ)
そう思うと、「噂の令嬢」という新しい肩書きさえ、どこか他人事のように思えてくるのだった。
昼下がりの陽が、窓から斜めに差し込んでいた。
白薔薇の看板の下、ちりん、とドアベルが鳴る。
「ここだろ、“悪役令嬢の店”って」
わざと声を潜めたつもりなのだろうが、店内にははっきり届く調子で、若者の声がした。
「どんな怖い顔のお嬢様が出てくるんだ……」
「噂だと、笑っただけで相手が凍りつくとか――」
「おまえ、それ半分は作り話だろ」
数人の若者たちが、興味津々といった様子で店内を見渡す。
木のテーブルがいくつかと、小さなカウンター。壁には茶葉の瓶と、子どもたちの絵。
“恐ろしい悪役令嬢の巣窟”というより、どう見ても「ちょっと落ち着ける小さな茶店」でしかない。
そんな彼らを迎えたのは――
「いらっしゃいませ」
穏やかな声とともに、トレイを抱えたリリアだった。
柔らかくまとめた髪、清潔なエプロン。目元には、客の様子をよく見る癖がうかがえるが、そこに刺すような棘はない。
「本日はどのようなお茶がお好みですか? 温かいもの、それとも、少しさっぱりしたものをお探しでしょうか」
若者Aは、一瞬、目をぱちぱちさせた。
(……あれ?)
(もっとこう、冷たい目で見下ろしてくる“悪役令嬢”を想像してたんだけど……)
肩をすくめ合う視線が、テーブルの陰で交わされる。
「え、と……甘めのやつ、あります?」
恐る恐る口を開いた若者Bに、リリアはふわりと笑みを向ける。
「甘めでございましたら、蜂蜜を使ったブレンドティーがございますわ。
少し疲れた日向けの“ひと休み”の一杯でして」
「つ、疲れてるかどうか、そんな顔に出てます?」
「ええ、少しだけ。ですが、それに合うお茶をお出しするのが、この店の仕事ですもの」
からかいではなく、当たり前のように言われて、若者Bは照れくさそうに頬をかいた。
「他の方は、いかがなさいます?」
視線を向けられた若者たちは、どこか「観察モード」のまま、メニューに目を落とした。
(……本当にこの人が“悪役”だったのか?)
(いや、まだ油断できん。裏で毒を調合してるかもしれない――)
(おまえ、噂に毒されすぎ)
小声でひそひそとやり合いながら、結局それぞれ別のブレンドを注文する。
やがて、カウンターの中から、湯気とともに優しい香りが届いてきた。
「お待たせいたしました。こちらが、蜂蜜多めの“ひと休みブレンド”。
そちらがお腹に優しいスパイス入り、そして、少しすっきりしたい方用のハーブ混じりでございます」
テーブルに並ぶカップはどれも、縁にほどよく湯気をまとい、淡い色を揺らしている。
「……その、噂で……」
我慢できなくなったように、若者Bが切り出した。
途端に、同席の仲間たちが「言うのか!? 本当に言うのか!?」という目で彼を見る。
「噂で、何か?」
リリアは首を傾げ、特に警戒するでもなく、ただ促した。
「“昔は悪役令嬢だった”って、その……」
若者がそう言い淀むと、隣の仲間が慌てて口を挟む。
「ご、ごめんなさい! 変な話を真に受けて――」
しかし、リリアはふっと目を細め、くすりと笑った。
「ええ、“昔は少々、扱いづらい令嬢だったらしい”というお話でしょう?」
「言ったーー!!」
テーブルの上で、若者たちの肩が揃って跳ねた。
リリアは、その反応にますます楽しげな色を浮かべる。
「噂というものは、どうしても少しずつ膨らんでしまうものですわね。
わたくしがくしゃみをすれば、“王宮を揺らす雷鳴”になって語られるようなものです」
「そんな怪物クラスの噂になってるんですか」
「ええ、時折耳にいたしますの。“呪いの紅茶を出している”とか」
「やっぱり言われてるんだ、それ……」
若者Aが頭を抱え、仲間たちが小さく笑う。
リリアはそっとカップの取っ手を指先で押しやり、彼らのほうへ向けた。
「ご安心くださいませ」
声色は冗談めいているが、そのまなざしはまっすぐだ。
「こちらでお出しするのは、“今日を少し楽にする紅茶”だけですわ。
物語に出てくるような“悪役の毒薬”は、取り扱っておりませんの」
若者たちは顔を見合わせ、そしておそるおそる、それぞれのカップを口に運ぶ。
ひと口、ふた口。
熱が舌にやわらかく触れ、喉を通って胸のあたりに落ちていく。
「……あ、うま」
ぽろり、と素直な声をこぼしたのは、最初に噂を口にした若者Aだった。
「なんか、甘いのに重くない」
「こっち、スパイス入ってるのに、ぜんぜんきつくないっすね……」
「おい、なんだよ。“呪い”っていうより、“徹夜明けを赦してくれる味”じゃねえか」
わいわいと感想を言い合っているうちに、誰も“悪役令嬢”という言葉を口にしなくなっていることに、彼ら自身は気づいていない。
リリアは、カウンターの向こうからその様子を見守りながら、心の中で静かに笑う。
(“悪役令嬢の店らしい”――)
(そんな噂を、わざわざ確かめに来てくださるのなら)
(わたくしが差し出すべきは、やはりこの一杯だけですわね)
(噂がどれほど派手でも構いません)
(最後に口の中に残るのが、“ああ、来てよかった”という温かさなら――
それだけで、十分ですもの)
若者たちは、すっかり調子を崩された顔で、しかしどこかほっとしたようにカップを空にしていく。
「……なあ」
「ん?」
「“悪役令嬢”って感じ、したか?」
「いや……どっちかというと、“なんか頼れるお姉さん”って感じ」
「だよなあ」
そんな小声の会話を、リリアはあえて聞こえないふりをして、静かにポットに次のお湯を注いだ。
店の中には、噂話よりもずっと穏やかな、紅茶の香りだけが満ちていた。
放課後の街は、子どもたちの声で少しだけ賑やかになる時間帯だった。
石畳の路地を、背の高さの違う影が三つ、並んで歩いてくる。
「ほら、急がないと。今日の“おやつ係”の特権、逃しちゃうよ」
孤児院出身の青年が、手をつないだ小さな男の子を軽く急かす。
もう一人の少女が、くすくす笑いながら続いた。
「大丈夫、リリアねえちゃんの店は逃げないよ。
でも、あんたが迷ってる間に“今日のおすすめ”はなくなるかもね」
「それはやだ!」
小さな靴が、ぽん、と勢いよく路地を蹴る。
白薔薇の看板の下で、ちりん、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
迎えたリリアの声は、いつもどおりの柔らかさだ。
青年と少女は慣れた様子で「こんにちは」と挨拶し、奥の小さなテーブルに陣取る。
「今日は三人ですのね。
暖かいものがよろしいかしら?」
「うん、あったかいの! 外、ちょっと寒かった」
「かしこまりましたわ。では、少し甘めのものを」
リリアがカウンターに戻っていく後ろ姿を、男の子はじっと目で追っていた。
そして、ぽつりと口を開く。
「ねえねえ」
机に肘をついていた少女が「ん?」と振り向く。
「“リリアねえちゃんって悪役だったんだって?”
学校の子が言ってた」
その言葉に、空気がほんの一瞬、ぴんと張りつめた。
「ちょ――」
青年が慌てて口をふさごうと身を乗り出す。
だが、その肩に、そっと白い指が触れた。
「大丈夫ですわ」
いつの間にか戻ってきていたリリアが、トレイを片手に立っていた。
表情は、驚くほど静かだ。
「……そう、聞きましたのね」
男の子は、悪いことを言ったという自覚がいまいちないまま、こくりと頷く。
「うん。でも、ぼく、よくわかんない」
「わからない?」
「だって、リリアねえちゃん、パン分けてくれたし……
雪の日、一緒に遊んでくれたから」
青年と少女が、同時に目を伏せた。
あの冬の、白い息と、冷たい指先と、ぎりぎりで分け合ったパンの重みが、胸の奥によみがえる。
男の子にとっての「リリアねえちゃん」は、寒さの中で手を握ってくれた大人だ。
(この子にとっての“わたくし”は――)
リリアは、そっとトレイをテーブルに置きながら、心の中で言葉を継ぐ。
(物語の“役柄”ではなく、
寒い日に手を繋いだ、大人の一人)
(“悪役令嬢だったらしいよ”という噂は、
この子たちの“知っているわたくし”には、とても勝てそうにありませんわね)
湯気の立つカップが、ぽん、とテーブルに並ぶ。
「昔のわたくしは――」
リリアは、自分でも少し驚くほど穏やかな声で言った。
「少し意地悪な顔をしていた時期も、あったかもしれません」
男の子が、じっと彼女の顔を見上げる。
「いじわる?」
「そうですわね。
“こうあるべきだ”と決めつけて、周りにも、自分にも、厳しすぎたところがございましたから」
青年と少女が、思わず顔を見合わせる。
あの頃を知る者として、否定はできないが、それだけでもなかったと、言いたくもなる。
「でも、今は?」
男の子の問いは、ひどくまっすぐだった。
リリアはほんの一瞬だけ考え、それから、ふっと微笑む。
「今は――紅茶屋さんですわ」
「こうちゃやさん」
「ええ。
みなさまの“今日”を、少しだけあたためる係、でしょうか」
そう言って、男の子の前のカップを、そっと押しやる。
「今日は、学校は楽しかった?」
「うん。……でも、ちょっと、しゅくだいが多い」
「まあ、それは大変。でしたら、宿題に立ち向かう勇気を出すための一杯、ということにいたしましょう」
男の子は、真剣な顔でうなずき、慎重にカップを持ち上げる。
ひと口飲んで、ほう、と肩を緩めた。
「……あったかい」
「それが、紅茶屋さんの“おしごと”だからね」
少女が笑って言う。
青年も、安堵と誇らしさが混じったような目でリリアを見る。
「ね、リリアねえちゃんは悪役じゃないよ」
男の子が、当然のように言い切った。
「パンくれるし、あったかいお茶くれるし……
ぼくのこと、ちゃんと名前で呼んでくれるもん」
リリアは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……そう言っていただけるのなら、
昔の噂など、たいしたことではありませんわね」
小さく笑って、肩の力を抜く。
「さあ、冷めないうちに召し上がって。
宿題をなさるなら、そのあとに、甘い焼き菓子もお持ちしますわ」
「やった!」
子どものはしゃぎ声が、店の一角に弾む。
カップから立ちのぼる湯気は、夕方の光を受けて、やわらかく揺れた。
(噂は、きっとこれからも、好き勝手に歩き回るのでしょう)
(けれど――)
(この子たちの中にある“リリアねえちゃん”は、
雪の日に手を取った記憶と、紅茶の味でできている)
(それなら、わたくしはそれだけを、丁寧に積み重ねていけばよろしいのですわ)
リリアはもう一度、静かに微笑んで、カウンターへ戻っていった。
その背中を追う子どもの視線には、「悪役」という言葉の影は、かけらもなかった。
その日の店内は、いつもより少しだけ静かだった。
昼の賑わいが一段落し、夕方前の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
ちりん、とドアベルが鳴いた。
「いらっしゃいませ――」
リリアがいつもの調子で顔を上げ、言葉を継ごうとしたところで、ほんのわずかに目を瞬いた。
入ってきたのは、上質な生地のドレスをまとった婦人だった。
年の頃はリリアより少し上。仕立てのよい外套と、控えめながら高価そうなアクセサリー。
視線は、店の隅々をなめるように見回し、そのたびに何かを「測っている」気配がある。
(……どこかで、見たような、見ていないような)
王宮時代、似たような眼差しにさらされた記憶は数えきれない。
“誰の娘か”“誰の婚約者か”を値踏みする目。
婦人はカウンターの前まで歩み寄ると、ふわりと扇を開き、リリアを上から下まで一瞥した。
「……あなたが」
わざと間を置いてから、唇にうっすら笑みを浮かべる。
「例の“噂の令嬢”ですのね」
ミラが奥でグラスを拭きながら、ぴくりと眉を動かした。
だがリリアは、ほんの一呼吸だけ置いて、静かに微笑む。
「噂の中では、たいていそう呼ばれておりますわね」
「まあ」
婦人はおもしろがるように目を細める。
「王宮でずいぶんと……お騒がせだったとか。
殿下とのご婚約も、ずいぶん劇的な終わり方をなさったそうで」
“劇的”という言葉に、わざと甘い毒を混ぜてくるあたり、手慣れたものだ。
「当時のわたくしをご存じの方にとっては、そう映ったことでしょうね」
リリアは否定も言い訳もしない。
ただ、淡々と事実の輪郭だけを認める。
婦人は、少しつまらなそうに顎を傾けた。
もっと慌てたり、取り繕ったりする姿を期待していたのだろう。
「ふふ……“悪役令嬢”とまで囁かれていた方が、
こんなところで紅茶店を開いていらっしゃるなんて。
世の中、わからないものですわね」
「本当に、そうですわね」
リリアは、そこで一歩だけ踏み込んだ。
「ちなみに、奥様は――」
扇を持つ婦人の手が、かすかに止まる。
「どれほどの“事実”と、どれほどの“噂”をご存じでして?」
「……え?」
婦人の眉がわずかに寄った。
リリアは、あくまで穏やかな声音で続ける。
「人づてに聞かれたお話と、
ご自身の目でご覧になったわたくしと――」
まっすぐに視線を合わせた。
「どちらのほうが多いのか、少し気になりまして」
店内の空気が、ぴん、と張り詰める。
ミラが「出るべきか、見てるべきか」の顔でカウンター裏からそっと覗く。
婦人は、言葉を探すように扇先で唇をつついた。
「それは……その……
王都には、いろいろと話が――」
「ええ、存じております」
リリアはふわりと微笑んだ。
「王都の噂話は、寒さにも暑さにも負けませんもの。
わたくしも、何度かその火の粉を浴びましたわ」
婦人の視線が、揺れる。
自分の言葉が、相手を傷つけるための刃としては、あまりにも鈍かったことに、いまさら気づいたようだった。
張りつめかけた空気が、今度は違う方向に切り替わる前に、リリアはふっと息を抜く。
「……ですが、今ここにあるのは」
そっと、カウンターの上のティーカップを指で示す。
「過去の物語ではなく、目の前の一杯の紅茶ですわ」
静かな言葉が、店内に落ちて、じんわりと染みていく。
「どうぞ、ご自由にお選びくださいませ。
噂を信じるかどうかも、同じように、お客様のご自由ですもの」
婦人は、扇をぱたりと閉じた。
視線が、一瞬だけ戸惑い、やがてわずかに沈む。
「……おすすめは、どれかしら?」
かろうじて保たれた気位の中に、ささやかな降参が混じっている。
「本日の“お疲れさま”用のブレンドがございますわ」
リリアは何事もなかったかのように、いつもの口調に戻る。
「少し渋みを抑えて、後味を軽く整えております。
“余計なことを考えすぎた一日”のあとに、よく合うお茶ですの」
ミラがカウンターの奥で「今のは完全に狙ってましたね?」と目で訴えてくるが、リリアは知らぬふりをした。
「……では、それを」
婦人は椅子に腰掛けながら、ちらりと店内を見回す。
白薔薇の看板から繋がる、小さな空間。
孤児院帰りらしい子どもたちが宿題をひろげ、パン屋の若夫婦が明日の生地の具合をひそひそと話している。
彼女の想像していた「悪役令嬢の巣窟」とは、だいぶ様子が違う。
ほどなくして、湯気をまとったカップが目の前に置かれた。
「お口に合えばよろしいのですが」
婦人は、一瞬ためらってから、カップを唇に運ぶ。
舌の上を通る温度と香りに、わずかに目を見開いた。
「……思ったより、優しい味ですのね」
「“悪役の毒薬”は、仕入れておりませんので」
リリアが冗談めかして言うと、婦人の口元が、かすかにゆるんだ。
「噂どおりでは、ないのね」
「噂どおりの人間など、そう多くはおりませんわ。
よろしければ――“今日、こちらにいらした奥様”のご印象も、噂に混ぜていただければ嬉しゅうございます」
婦人は、しばし黙ってカップを見つめる。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうですわね。
“噂の令嬢の店で、少しだけ肩の力が抜けるお茶を飲んだ”とでも」
「光栄ですわ」
それ以上、過去の話題は出なかった。
出してもよかったが、出さなくてもよい、と互いに理解していたからだ。
客が帰り、ちりん、とベルの音が遠ざかっていく。
「……やりますねえ、店主殿」
ミラがカウンターの端に肘をつき、にやにやと笑う。
「もっと刺々しい言い合いになるかと思ったのに。
あそこで“事実と噂はどっちが多いか”って聞くの、性格悪くないです?」
「性格が悪いと言うのなら、教えてくださった方がよろしいのではなくて?」
リリアは、くすりと笑ってティーポットを洗いながら肩をすくめる。
「ただ、線を引いただけですわ。
“噂だけを握っている手”と、“目の前のカップ”のあいだに」
「で、その“目の前のカップ”の勝ちってわけだ」
「勝ち負けというより……
どちらを信じて帰るかを、選んでいただいただけですわね」
窓の外では、白薔薇の看板が、夕方の風にそっと揺れている。
噂はこれからも、路地裏で好き勝手に育っていくだろう。
だが、この店の中で交わされるのは、湯気と香りと、今日を生きてきた人の体温だ。
リリアは、次のカップを温めながら、静かに思う。
(“噂の中の悪役”とやらに、負けるつもりはありませんわ)
(だって――ここにいるのは、あの頃からどうにか冬を越えてきた、今のわたくしなのですから)
白薔薇の印の下で、またひとつ、噂と現実のあいだに置かれた紅茶の一杯が、静かに湯気を立てていた。
閉店の札をひっくり返したあとも、店内には一人だけ客が残っていた。
カウンター席に腰かけ、上着を椅子の背に掛けた男。
かつて「殿下」と呼ばれていた人物は、今はすっかり「忙しい役人」の顔で、湯気の立つカップを両手で包んでいる。
「本日は、これで最後の一杯ですわね」
リリアがカウンターの中から微笑んだ。
「冷めてしまわないうちに、どうぞ」
「ああ」
王子――アルトは一口含み、ふう、と小さく息を吐いた。
店内の照明が少し落とされ、窓の外には夜の街灯がぽつぽつと灯っている。
しばし、静かな時間が流れたあと。
「……最近、街で妙な噂を聞いたよ」
カップの縁を指でなぞりながら、アルトがぽつりと言った。
リリアは、布巾でグラスを拭いていた手を止め、片眉を上げる。
「“悪役令嬢だったらしい店主がいる紅茶店”ですわね?」
「そこまでセットで聞いているのか」
半ば呆れたように、半ば苦笑を含んだ声が返ってくる。
アルトは心の中で、静かに言葉を継いだ。
(かつて、彼女はたしかに“悪役”と噂された)
(婚約者として隣にいながら、その噂から目を背けずにはいられなかったのは――他ならぬ、このわたしだ)
(けれど今、こうして)
視線の先では、リリアがカップを片付け、テーブルを拭き、椅子の向きを整えている。
その動きひとつひとつが、店を「明日もまた人を迎えられる状態」に整えていく、静かな仕事だ。
(ここで人々の“今日”をあたためている彼女を見て、
それを“悪役”と呼べる者が、果たしてどれほどいるだろうか)
アルトはカップを置き、ゆっくりと口を開いた。
「“あの人、昔は悪役だったらしいよ”――」
リリアが「来ましたわね、その台詞」と言いたげに目を細める。
「そんなふうに囁く声もあるらしいが」
カウンター越しに、真正面から彼女を見つめる。
「今の君を見て、同じ言葉を口にできる人間は、きっとそう多くはないだろう」
リリアは、ほんの一瞬だけまばたきを忘れた。
それから、くすっと喉の奥で笑う。
「まあ。殿――いえ、アルト様にそこまで言われてしまっては」
軽く肩をすくめてみせる。
「でしたら、“だったらしい”の“らしい”のあたりで、そっと笑っていればよろしいですわね」
「“らしい”のあたりで?」
「ええ。噂というものは、“らしい”がついた途端、途端に頼りなくなりますでしょう?」
布巾を畳みながら、さらりと言う。
「“悪役だった”と断じるのであれば、
せめて当時のわたくしの顔を、きちんと覚えていていただきませんと」
「それは……かなり難しい条件だな」
アルトが苦笑する。
「当の本人でさえ、“あの頃の自分の顔”を――今の君とは、別物のように覚えているから」
「そうですわね」
リリアは少しだけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「噂は噂。
わたくしは、わたくしのお湯の温度と茶葉の分量にだけ、責任を持ちます」
それが、この店の主としての答えだった。
アルトは、その言葉を噛みしめるようにもう一口、紅茶を飲む。
「……きっと、それが一番、信用できる“噂”だな」
「まあ。どの口が“信用”などと」
リリアが少し意地悪そうに目を細める。
「王宮時代、わたくしの評判に関して、どれほど“噂”に振り回されていらしたことか」
「耳が痛いな」
アルトは素直に頭をかいた。
「だからこそ、今は、目で見て決めるようにしているつもりだ。
今日、ここで何杯の“お疲れさま”が出て、何人が少し笑って帰ったのか――」
視線で、店内をぐるりと示す。
「それは、噂ではなく事実だろう?」
「そう言っていただけるのなら」
リリアは、カウンター越しに軽く会釈した。
「“昔は悪役だったらしい”も、“今は紅茶屋をやっているらしい”も、
そのうち、どちらも“あの店で少し楽になった”という話に紛れていくかもしれませんわね」
「紛れて、そして残る」
アルトは小さく頷く。
「君が、ここで淹れ続ける限りは」
リリアは、その言葉に直接の返事はしなかった。
代わりに、彼のカップに残った紅茶をちらりと見て、微笑む。
「そろそろ、温度が落ちてしまいますわよ」
「ああ。……君の責任範囲の問題か」
「ええ、“今のわたくし”の責任ですもの」
二人のあいだに、小さな沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、かつて王宮で交わした気まずさとは違う。
噂に貼られたラベルでもなく、昔の役柄でもなく。
今この場で、湯気の向こう側にいる「リリア」と「アルト」として、ただ同じ時間を分け合う沈黙だった。
窓の外では、白薔薇の看板が夜風に揺れている。
(“悪役だったらしい”――)
アルトは心の中で、その言葉をもういちど転がし、静かに手放した。
(そんな曖昧な言い方では、とても追いつけない。
今の君を言い表すには、あまりにも足りない)
カップの底に残った最後の一口を飲み干し、そっと置く。
「ごちそうさま。……今日も、いいお茶だった」
「それは何よりですわ」
リリアは微笑み、カップを受け取る。
「噂に混ぜていただくなら、その一言も、どうかお忘れなく」
「約束しよう」
それは、王子としてではなく、一人の客としての約束。
ちりん、と静かな店内に響くベルの音とともに、
“悪役だったらしい”という曖昧な噂の上に、またひとつ、小さな事実が積み重ねられていった。
その日最後の客は、まだ若い旅の途上らしい青年だった。
噂を聞きつけて来たのだろう。
最初に扉を開けたときの目つきには、好奇心と、少しの警戒が混じっていた。
けれど今、空になったカップをそっと受け皿に戻しながら、その目はすっかり和らいでいる。
「……ごちそうさまでした」
「こちらこそ、お越しくださってありがとうございました」
リリアがいつもの微笑みで頭を下げると、青年は少し口を迷わせてから、ぽつりと言葉を落とした。
「……噂と、違いました」
「まあ」
リリアは首をかしげ、わざとらしく小さく目を丸くする。
「どの噂と比べられましたの?」
青年は気まずそうに視線をそらした。
「もっとこう、冷たくて……人を見下す“悪役令嬢”だって」
「まあ、それはそれは」
リリアはくすりと笑い、軽く肩をすくめる。
「残念ながら、本日のメニューには載っておりませんわね」
青年は一拍置いてから、堪えきれないように笑い声を漏らした。
「ですよね……」
笑いが落ち着くと、少し真面目な顔に戻って続ける。
「でも、“疲れた時に寄ると楽になる紅茶屋”って噂は、たぶん本当です」
その言葉に、リリアの胸の奥で、静かに何かがほどける。
「それでしたら、その噂は――」
カウンター越しに、柔らかく目を細めた。
「少しだけ広がってくださると、嬉しいですわね」
青年は照れくさそうに頷き、「じゃあ、また疲れたら来ます」と言って扉へ向かった。
ちりん、とドアベルが鳴る。
外の冷たい空気が少しだけ流れ込み、すぐに閉まる。
ガラス越しに、青年が路地に出て、店先の白薔薇の看板を一度振り返る姿が見えた。
彼は何かを独り言のように呟きながら、足取りを少し軽くして歩き去っていく。
リリアはドアに「CLOSED」の札をかけ直し、静かに息をつく。
(“あの人、昔は悪役だったらしいよ”)
どこか遠くで、誰かが囁いているような言葉が、ふと頭をよぎる。
(――好きに囁けばいいのです)
カウンターの中から、窓の外の白薔薇の看板を見上げる。
夕闇と夜の境目のような空の下で、看板は街灯の光を受けて、柔らかく輪郭を浮かび上がらせていた。
(今日ここでどんな紅茶を淹れ、
誰がどんな顔で帰っていったかは――)
さきほどの青年の、少しほどけた表情が思い浮かぶ。
その前には、疲れ切った職人の伏せた肩、眠そうな目をこする子ども、仕事帰りの役人の深いため息。
(噂ではなく、わたくしとお客様だけが知っている“事実”ですもの)
リリアは店内の灯りを一つずつ落としていき、最後にカウンターの上の小さなランプだけを残した。
棚に並ぶ茶葉の瓶が、橙色の明かりに照らされている。
夜の路地では、白薔薇の看板がわずかな風に揺れ、
その下を、「噂の令嬢の店は悪くなかったよ」と笑い合う人々が通り過ぎていく。
その会話のどこかに、かつての“悪役”の二文字が混じることがあったとしても――
リリアの願いは、ひとつだけだ。
(いつの日か、その噂話よりも先に、
“あの店の紅茶がおいしかった”という記憶のほうが、人々の胸に残るように)
彼女は明かりを落とした店内で、明日のための茶葉の瓶をそっと整える。
ラベルの向きを揃え、残量を確かめ、手帳に小さなメモを取る。
ここで過ごした一日分の「おいしかった」と、「少し楽になった」を、
誰に見せるでもない形で、静かに心にしまい込むように。
最後の瓶の位置を直し終えると、リリアは窓の方へ目を向けた。
ガラス越しに、白薔薇の看板が小さく見える。
かつて“悪役令嬢”と囁かれた少女が背負っていた紋章は、今、ひとりの紅茶屋の歩いてきた道の印として揺れている。
「さて――」
誰にともなく、リリアは小さく呟いた。
「明日は、どなたの“今日”をあたためてさしあげましょうか」
そう言って微笑み、店の最後の灯りを落とす。
闇に溶け込む直前まで、白薔薇の看板は確かにそこにあり、
やがて訪れる新しい一日と、新しい一杯の紅茶を、静かに待ち続けていた。




