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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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.白薔薇の看板 ―― 過去の象徴を、今は誇りとして掲げる。

 倉庫兼用の裏部屋には、紅茶と木と、少しだけ埃の混ざった匂いが満ちていた。


 棚という棚に、茶葉の予備や季節外れのカップ、包装紙の束が押し込まれている。そのあいだを縫うようにして、リリアはスカートの裾を押さえながら箱を引き出した。


「……いつの間に、こんなに増えましたのかしら」


「そりゃあ、繁盛してる証拠ですよ」


 ひょい、と軽い身のこなしで木箱を抱え上げたのはミラだ。店の表ではわりと真面目にお手伝いをしてくれている彼女も、裏にまわると途端に気楽な調子になる。


 ミラは箱のラベルを覗き込むと、わざとらしく首をかしげた。


「これ、いつの荷物です? “公爵令嬢時代”ってラベル貼っときます?」


「そんな分類、誰がお願いしたとお思いでして?」


 リリアは思わず眉をひそめる。けれど、その声には以前ほどの刺々しさはない。軽くため息をつくと、彼女はミラの手から箱を受け取り、床に下ろした。


 古びた蓋を持ち上げると、長く眠っていた空気がふわりと漏れ出す。


 中から現れたのは、店とは少し雰囲気の違う品々だった。柔らかな布にくるまれた、掌ほどの木板。絹の端切れに縫い付けられた布のワッペン。黒いベルベットのケースに収められた、小さなブローチ。


 どれも、同じ意匠を宿している。


 白く彫り出された薔薇の花弁。細い蔓が優雅な曲線を描き、その周囲を飾る繊細な葉の飾り。


「……あ、これ。あんたんとこの紋章」


 ミラが木板を持ち上げ、光にかざす。薄暗い裏部屋の中で、白薔薇の輪郭がほんのりと浮かび上がった。


「ええ。正式な場では、必ずどこかに添えられておりましたわね」


 リリアは、自然と背筋を伸ばしていた。


 胸元や裾、扉の上、招待状の封緘。祝いの席にも、断罪の場にも、白薔薇は必ずそこにあった。


(“完璧な公爵令嬢”としてのわたくしを、

 いつも見張っていた、白薔薇の印)


 ふと、指先がこわばる。


 それは嫌悪というほど鋭い拒絶ではない。けれど、あの頃の自分の姿――張り詰めた肩、涙をこらえて形だけの微笑みを浮かべていた横顔――を思い出させるには十分だった。


 ミラが、そんな彼女の表情のわずかな陰りを見逃さない。


「……捨てます?」


 あまりにもあっさりと言うので、リリアは思わず目を瞬かせた。


「……いいえ」


 少しだけ間をおいて、首を横に振る。


 彼女はミラの手から木板を受け取り、指先でそっと埃を払った。長いこと箱の底で眠っていたはずの白薔薇は、それでも線のひとつひとつがくっきりとしている。


 窓から差し込む薄い光に向けて、そっと掲げる。


 硬質な白が、光を受けてわずかに柔らいだように見えた。


「……今見ると、少し大げさな意匠ですわね」


 自嘲めいたつぶやきに、ミラが肩をすくめる。


「そりゃあ、公爵家の“権威”ですからねえ。デカくて、分かりやすくて、ちょっと気取りが入ってて……ほら、ぴったり」


「最後の一言は余計ですわ」


 口ではそう返しながらも、リリアの声色はどこか軽い。


 かつては背筋をこわばらせて仰ぎ見ていた紋章を、今は自分の手の中で好きに角度を変えられる。その事実が、胸の奥でひそやかな驚きとなって広がっていく。


 布のワッペン、ブローチ、木の板。箱の中には、同じ白薔薇がいくつも眠っていた。


 リリアはひとつひとつを並べて眺める。


(あの頃のわたくしを象徴していた、この白薔薇――)


(今なら、違う意味を、与え直すこともできるのかしら)


 まだ、その答えは形をとらない。ただ、薄暗い裏部屋の中で、白薔薇の輪郭だけがはっきりと浮かんでいた。


 それが、この先、店の扉の上で揺れることになる“看板の種”なのだと、この時のリリアはまだ知らない。



 昼下がりの光が、窓辺のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。


 店内は、いつもの賑わいがひと息ついたところだ。朝から働きづめだったパン屋の若夫婦が、向かい合って同じカップを手にしている。その隣では、かつて孤児院で「リリアねえちゃん」と呼んでいた少年が、今は青年になった姿で、椅子の背もたれにゆったりともたれていた。


「今日のブレンド、ちょっと香りが変わった?」

「ええ、新しく入った茶葉を少しだけ混ぜてみましたの。冷え込みが戻りましたから、体の芯から温まるように」


 リリアはトレイを抱え、小さく会釈してテーブルを離れる。


 そのとき、ドアベルがちりん、と軽い音を立てた。


 ふらりと入ってきたのは、旅装束の男だった。厚手のマントに、よく歩いたのがわかる靴。肩から提げた荷物袋には、何かの焼き印が押されている。


「いらっしゃいませ」


 リリアが微笑みとともに迎えると、旅人は店内を一度ぐるりと見回し、ほっとしたように息をついた。


「落ち着きそうな店だ……ひと休みさせてもらっても?」


「もちろんでございますわ。お好みは苦みのあるものと、甘みのあるもの、どちらがよろしいかしら」


 簡単なやりとりを交わして、旅人の前には、ほどなくして淡い琥珀色の紅茶が置かれた。


 ひと口飲んで、旅人は「ふぅ」と嬉しそうに目を細める。その視線が、ふと窓の外へと向かった。


「前から気になっていたんですが……」


 カップの縁を指でなぞりながら、旅人は小首をかしげる。


「この店、看板に“絵”とか紋章とか、ないんですね」


 リリアは瞬きをした。


 店の外には、木製の小さな看板がぶら下がっている。そこには店名と、簡単な紅茶カップの線画があるだけだ。街の人々にはそれで十分通じているが、たしかに、ひと目で「ここだ」と分かる強い印はない。


「そう言われてみれば」


 パン屋の旦那が笑いながら口を挟む。


「うちの店の看板には、パンと小麦の絵が描いてありますからね。遠くから見ても“ああ、あそこだ”って分かるように」


「“リリアねえちゃんの店だ”って、一目で分かる印があってもいいよな」


 孤児院出身の青年も頷く。


「遠くから来た人も、“あ、あそこがあの紅茶の店だ”って分かるみたいな」


 そこへすかさず、カウンターからミラの声が飛んできた。


「はいはいはい。出ましたよ、チャンスですよ、あんた」


「……何のチャンスでして?」


 嫌な予感がして、リリアは思わず眉をひそめる。


 ミラは頬杖をつきながら、にやりと口角を上げた。


「ほら、“悪役令嬢マーク”でも描いたら? こう、白薔薇が燃えてる感じの、ドーン!って」


「ですから、その呼び名を店の公式に採用するのは、やめてくださいませ」


 ぴしゃりと言い返すと、常連たちのあいだにくすくすと笑い声が広がる。


 “元・悪役令嬢”――かつては凍りつくような響きだったその言葉も、この店ではもう、誰かの冗談の種にすぎない。そこに込められる悪意はとうに消えている。


 旅人は、そんなやりとりを面白そうに聞いていたが、やがて真面目な顔になってリリアを見た。


「悪役令嬢、っていうのは……物語の話ですか?」


「ええ。少々、脚色の多い、昔話でございますわ」


 リリアはにこりと微笑む。そこには棘はなく、どこか「もう終わったこと」を語る余裕がある。


 旅人は、彼女の態度に納得したように頷き、続けた。


「じゃあ、その物語の肩書きじゃなくて」


 カップを両手で包みながら、ふっと柔らかく笑う。


「お嬢さん――いえ、“店主さん”の印でいいんじゃないですか?」


「……店主、の?」


「ええ。昔の肩書きじゃなくて、今のあなたを象徴する何か」


 言葉はまっすぐだった。


「この紅茶を飲んで、ほっとする人たちの顔が浮かぶような……そんな印が看板にあったら、遠くから来た人間にも、“ああ、ここはそういう店なんだ”って分かる気がして」


 パン屋の奥さんが、「いいこと言うじゃないの」と笑って頷く。


「たしかにねえ。“公爵令嬢の店”っていうより、“リリアさんのいる店”って感じだし」


「“元・孤児院のねえちゃんの店”ってのも、看板には長いしなあ」


 青年も、おどけた調子で続ける。


 カウンターの向こうで、ミラが「じゃあ、どうします? 湯気の形が白薔薇になってるカップの絵とか?」と、半分本気、半分冷やかしで提案してくる。


 リリアは思わず、喉の奥に何かが詰まったような感覚を覚えた。


(わたくしの……印)


 さっき、裏部屋で手に取った白薔薇の紋章。


 あれは、かつての「公爵令嬢リリア」を縛る鎖のように思えていた印だ。けれど今、目の前の人々は、「昔の肩書き」ではなく「今ここで紅茶を淹れているわたくし」を、印にしようとしてくれている。


(公爵家の紋章でもなく、

 “悪役令嬢”の物語の印でもなく――)


(この店で、今日の一杯を淹れている者としてのわたくしの、印)


 胸の奥で、その言葉が静かに刺さり、そこから小さな波紋が広がっていく。


 リリアは、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。


「……そう、ですわね」


 紅茶の香りと、笑い声と、湯気が揺れる店内を見渡す。


「この店の印があっても、よろしいのかもしれませんわね」


 それはまだ、決意というほど強いものではない。けれど、否定ではなく、受け止める方向の返事。


 旅人は満足げに頷き、残りの紅茶を静かに口に運んだ。


 その一言が、この店の扉の上に掲げられる“白薔薇の看板”への、小さな一歩になろうとしていることを、リリアはまだ、完全には自覚していなかった。



 その夜、店の灯りがすっかり落ち着いたころ。


 テーブルは拭き終わり、椅子も元の位置に戻されている。窓の外には、街灯の光が静かに石畳を照らしていた。


 リリアは、裏部屋からそっと、小さな木箱を抱えて戻ってくる。


 カウンターの上に箱を置き、ひとつ息を整えてから蓋を開けた。


 中には、昼間取り出したままにしておいた、白薔薇の紋章板が収められている。木に彫り込まれた薔薇は、優雅で、少しだけ気取った線をしていた。


 リリアはそれを取り出し、カウンターの上にそっと立てかける。


 テーブルランプの柔らかな光が、白薔薇の輪郭を浮かび上がらせた。昼間、埃まみれの箱から顔を出したときよりも、ずっと穏やかに見える。


(この印は、たしかにわたくしを縛っていた鎖の一つでしたわね)


 リリアは、紋章を見つめながら、静かに目を細めた。


(“ふさわしい悪役令嬢”であれ、“完璧な公爵令嬢”であれ――

 どちらも、わたくしの内側ではなく、“紋章の外側”から求められた姿)


 白薔薇は、常に彼女のそばにあった。


 招待状の片隅に、ドレスの胸元に、馬車の扉に。公爵家の娘であることを示す、誇りと義務と、窮屈さの象徴だった。


 あの頃の自分は、その印の下で「ふさわしい」顔を演じ続けていた。


 けれど――と、リリアはランプの光の中で薔薇を見つめ直す。


(けれど、その鎖があったからこそ……)


 王宮で学んだ礼法も、政治や経済の基礎も。人の言葉の裏を読む訓練も、数字と仕組みを扱う癖も。


 すべて、この白薔薇のもとで叩き込まれたものだ。


(その鎖があったからこそ、

 わたくしは“殿下の約束”の重みを知り――)


 冬の礼拝堂で交わした、「約束は未来へ糸をかけること」という言葉。


(辺境でパンを数え、

 薪の本数を数え、

 子どもたちの名前を記憶し――)


 凍える倉庫で、震える手を押さえながら帳簿を書いた夜。配給をどうすれば一日でも長く持たせられるかを、何度も計算し直した日々。


(そして今、この店を切り盛りできているのですわね)


 日々の仕入れ、帳簿の管理、客の好みの記憶。誰かの疲れた顔を見て、その人に合う一杯を選ぶこと。


 それらすべては、「公爵令嬢としての学び」と「辺境での冬」の延長線上にあるものだった。


 リリアは、そっと紋章板に指先を伸ばす。


 木の感触は、思ったよりも温かい。指で白薔薇の輪郭をなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。


(ならば、これは“わたくしを縛っていた印”であると同時に――)


 心の中で、言葉をひとつひとつ選ぶ。


(“ここまで歩いてきた証”でもあるはずですわ)


 白薔薇の下で演じた日々も、

 “悪役令嬢”と囁かれた夜も、

 追放同然に辺境へ向かった馬車の揺れも。


 そのすべてが、今この紅茶店へと続いている。


(忌み嫌って隠すより――)


 リリアは、紋章板を少しだけ起こし、カウンターの端に立ててみる。まるで、客席のほうを見ているように。


 ランプの光の中、白薔薇はふっと表情を変えたように見えた。かつての「権威の印」ではなく、小さく笑う店主の過去をそっと示す、控えめな飾りのように。


(わたくし自身の手で、意味を塗り替えたい)


 “完璧な公爵令嬢”のための薔薇ではなく。


 “悪役令嬢”という物語のための薔薇でもなく。


 冬を越えてきた一人の女が、自分で選んだ場所で紅茶を淹れる――その物語の一片としての、白薔薇に。


 リリアは小さく微笑み、紋章板に向かって、誰にともなく囁いた。


「……あなたも、あの頃のわたくしの一部ですものね」


 その声は、もう嫌悪でも拒絶でもなく、通り抜けてきた時間への、静かな和解の響きを含んでいた。


翌日、昼下がり。


 店内の賑わいがひと段落して、カウンターには片付け待ちのカップがいくつか並んでいる。窓から差し込む光が、湯気の消えたポットを鈍く照らしていた。


 そのカウンターの一角に、白薔薇の紋章板が置かれている。


「……で。これを、看板にくっつけるってわけです?」


 片腕まくりのエプロン姿で、ミラがひょいと紋章板をつまみ上げた。指先でくるりと回し、表と裏を眺める。


「“わたくしの印”として……考えないでもないのですけれど」


 リリアは布巾を畳みながら、少しだけ視線を伏せた。


 白薔薇は、ランプの光を受けて静かに輝いている。その姿は、やはりどこか「公爵家」の香りをまとっていた。


「でも?」


 ミラがニヤリと片眉を上げる。


 リリアは、紋章板に目をやりながら、胸の内にある言葉をゆっくりと掬い上げた。


「この印を見て、“公爵家の娘”だけを見る方も、きっといますわ。

 なかには、“悪役令嬢”の噂話を引っ張り出す人も、いるでしょう」


 “元・悪役令嬢の紅茶店”――そんな物語めいたフレーズで、面白半分に語られる自分の過去が、目に浮かぶ。


 それが、もう致命的な痛手になるとは思っていない。それでも、少しだけ胸の奥がざわつくのも事実だった。


「せっかく、“ここでは名前で呼び合う”と決めたのに……」


 壁の片隅には、「はじめましての方は、お名前から教えてください」と書かれた小さな紙が貼られている。


「わたくし自身が、こうして過去の肩書きを掲げ直すのは、矛盾しているのではなくて?」


 問いかけというより、自分への確認に近い言葉だった。


 ミラはしばらく黙って、白薔薇を指先で弾きながら考え込むふりをする。


 そして、あっけらかんと笑った。


「いいじゃないですか」


 その一言に、リリアは思わず瞬きをする。


「……よくなくてよ?」


「そのとき、“ええ、昔はそうでしたけど、今は紅茶屋です”って笑って言えばいいんですよ」


 ミラは、紋章板をカウンターにコトンと立てかけた。


「“公爵令嬢でしたけど、今は店主です”って。

 “悪役令嬢と呼ばれてましたけど、今は蜂蜜多めのブレンドをおすすめしてます”って」


「そんな自己紹介、聞いたことありませんわ……」


「じゃあ、あんたが最初にやればいいんです」


 さらりと言い切る声に、からかい半分と、本気が半分混じっている。


 ミラはふっと真顔になり、紋章板を軽く指で叩いた。


「あんた、もう“隠さないと壊れちゃう人”じゃないでしょう?」


 その言葉に、リリアの手がぴたりと止まる。


 かつての自分が脳裏に浮かぶ。


 噂から身を守るために、

 “完璧な微笑み”という鎧を着込み、

 一言一句、失敗しないようにと息を詰めていた日々。


 過去を知られることが怖くて、

 “悪役令嬢”という言葉に触れられるだけで、心がきしんでいた頃。


 今は――紅茶の湯気の立つこの店で、客たちと笑いながら、その話を冗談まじりに受け流している自分がいる。


「この印、あんた以外の誰のものでもないんですよ」


 ミラは、白薔薇を指さして続ける。


「昔は“公爵家のもの”だったかもしれないですけど、

 あの冬を越えて、この店まで持ってきたのは、あんた自身でしょう?」


 リリアは、思わずミラを見つめた。


 ミラの瞳は、茶目っ気をにじませながらも、どこかまっすぐだ。


「誰かのものじゃなく、自分のものとして掲げるなら――」


 ミラは肩をすくめ、言葉をまとめる。


「それって、十分“今のリリアの印”だと思いますけどね」


 カウンターの上で、白薔薇の影がゆらりと揺れた。


 リリアは、胸の奥で何かがほどけていくのを感じる。


 “公爵家の紋章”としての白薔薇。

 “悪役令嬢”と囁かれた頃の象徴としての白薔薇。


 そのどちらでもなく――


 冬を越え、約束を覚え、紅茶店を開いた「リリア」という一人の人間が、自分の物語ごと抱きしめて掲げる印。


「……相変わらず、肝心なところで刺してきますわね」


 小さく息を吐いて、そう言うと、ミラは満足そうに口角を上げた。


「誉め言葉として受け取っときます」


 軽口とともに返ってくるその一言が、リリアの背中を、もう一押しだけ押してくれる。


 リリアは、カウンターに立てかけた白薔薇の板に手を伸ばした。


 指先でそっと撫でながら、今度は、ほんの少しだけ誇らしさをこめて微笑む。


「……そうですわね。

 “公爵家の紋章”ではなく、

 “紅茶店の看板”として掲げるのなら――」


 その続きは、まだ口には出さない。


 けれど、心の中ではもうほとんど決まっている。


 この白薔薇を、過去の鎖ではなく、ここまで歩いてきた証として。


 店の扉の上に、ささやかに、けれどはっきりと掲げる未来を。


裏部屋の机の上に、古びた白薔薇の紋章板が一枚、静かに横たわっていた。


 その周りには、小さな絵具皿と刷毛、細筆、布切れ。

 紅茶屋の裏とは思えない、ちょっとした画室のような光景だ。


「……ほんとうに、やるんですねえ」


 入り口の戸にもたれかかりながら、ミラが腕を組んでいる。


「ええ。ここまで持ってきた以上は、中途半端にはできませんもの」


 リリアはエプロンの裾を少しだけたくし上げ、椅子に腰掛けた。

 目の前の白薔薇を、まっすぐ見つめる。


 真っ白な花弁。きっちりと刻まれた、貴族の紋章らしい厳格な輪郭。

 それは、長いあいだ「公爵家」の象徴であり、同時に「彼女を型にはめる枠」でもあった。


「このままでは、ただの“公爵家の紋章”ですものね」


 そっと、指先で花弁の彫りをなぞりながら、リリアはつぶやく。


「わたくしが今、何を選んでいるのか――

 それも一緒に描いておきませんと」


 小さく息を吸い、細筆を取る。


 皿の上の絵具は、派手な色ではない。

 柔らかな茶色と、淡い灰色、ほんの少しだけ紅茶色の赤みを帯びた、穏やかな色たち。


 リリアは、手を止めないようにと意識しながら、そっと筆を走らせた。


 白薔薇のすぐ下に、小さなティーカップのシルエットを描き込む。

 横から見た、丸い縁と取っ手。その上に、細い線で、ゆらゆらと立ちのぼる湯気。


 その湯気が、白薔薇の輪郭へとふわりと触れ、

 固かった線を包み込むように、柔らかな曲線を重ねていく。


 緊張で、筆先がわずかに震える。


「……手が震えてますよ」


「震えもデザインの一部ですわ」


 軽口で誤魔化しながらも、額に薄く汗がにじむ。

 一度描き足した線は、簡単には消せない。元の紋章にも、今の自分にも、誤魔化しは利かないのだ。


 それでも、筆は進む。


 白薔薇の葉の輪郭を、ほんの少しだけ丸くし、

 棘のように見えていた鋭い線を、柔らかいカーブに変えていく。


 元の形は崩さない。

 けれど、そこに「人を裁くための印」ではなく、「人を迎えるための印」としての表情を足していく。


 いつのまにか、孤児院出身の青年が、裏口からひょっこり顔を出していた。


「リリアねえちゃん、ミラさんが裏で“重大儀式中”って――うわ」


 紋章板を覗き込んだ青年の目が、思わず丸くなる。


「……おお。なんか、前より優しくなったな、このバラ」


 ミラが「でしょう」とばかりに顎を上げる。


「“人を裁くための紋章”って感じじゃなくなりましたねえ。

 ちょっと、“お茶でもどうぞ”って言ってる顔になってきたというか」


「紋章に“顔”という表現をするのは、あなたくらいですわ」


 言いながらも、リリアの頬はわずかに緩んでいた。


 白薔薇の花弁は、そのまま白のまま。

 しかし、花の背後には薄く茶色が差され、

 まるで木のカウンターの上に置かれた一輪の花のように見えてくる。


 ティーカップから伸びる湯気は、白薔薇の周囲を包むように描かれ、

 どこか店内の湯気と重なって見えた。


 元の紋章を、塗りつぶしたわけではない。

 輪郭も、花の形も、きちんとそのまま残っている。


 けれど、少し線が柔らかくなり、

 周りに描き足された茶と湯気が、印全体の空気を変えていた。


 ミラが腕を組み、ふうん、と感心したように鼻を鳴らす。


「ねえちゃん、これ、もう“公爵家の紋章です”って出されたら、違和感ありますね」


「そうですか?」


「“リリアの紅茶屋の印です”って言われたほうが、しっくりきますよ。

 なんていうか……“叱られる前に、まず一杯飲みなさい”って顔してる」


「それはそれで、妙な印象ですわね……」


 三人分の笑い声が、狭い裏部屋にふわりと広がる。


 リリアは、その音を背中で聞きながら、最後にもう一度だけ筆を動かした。


 白薔薇の根元に、小さく小さく、一文字。


 『R』


 誰にも気づかれないくらいの、大きさのサイン。

 公爵家の紋章には、本来ありえない“個人のしるし”。


(あの頃のわたくしも、

 たしかにこの白薔薇の内側で生きていました)


 王宮の廊下。

 舞踏会の光。

 冷たい視線と、形だけの賛辞。

 “悪役令嬢”という言葉が、彼女の背中に貼り付けられていた日々。


(だからこそ、その時間ごと否定するのではなく――)


 紅茶の香りに包まれながら、パンを数えた冬。

 馬車の中で分け合った沈黙。

 エルナートで見た、「誠実さ」を量る仕組み。

 そして今、こうして自分の店の看板を自分の手で描き直している時間。


(こうして、紅茶の湯気と一緒に、今のわたくしの色を足していきたい)


 筆を置くと、紋章板の上の白薔薇は、もう昔と同じ顔ではなかった。


 公爵家の権威を示す印でも、

 “悪役令嬢”を象徴する鎖でもない。


 冬を越え、約束を紡ぎ、小さな紅茶店を開いた一人の女主人が、

 自分の歩いてきたすべての日々を抱きしめたうえで掲げる――


 そんな、ひとつの「看板」になっていた。


 穏やかな午後の陽が、石畳の路地をやわらかく照らしていた。


 リリアの紅茶店の前には、ちょっとした人だかりができている。

 常連のパン屋夫婦に、孤児院出身の青年、近所の子どもたち。

 そして、店主のためにと、簡易脚立をしっかり押さえているミラ。


「……それでは、持ち上げますわよ」


 脚立の上で、リリアが新しい看板を両手で抱えなおした。


 木板に描かれているのは、店の名前と、

 その横に、小さくあしらわれた白薔薇――


 かつて公爵家の紋章として掲げられていた印を、

 紅茶のカップと湯気で包み直した、新しい「白薔薇のしるし」。


「よし、もうちょい左。……そのまま、そのまま!」


 地上からミラが声をかける。


「もう少し上ですね、リリアねえちゃん! 通りからも見えるように!」


 青年が、通りの真ん中まで下がって位置を確かめながら叫ぶ。


「ええ、こんなところでしょうか」


 リリアは慎重に釘を押し当て、金具を固定していく。

 木槌を打つたびに、軽い音が街路に響いた。


 カン、カン、と規則的な音の合間に、

 ふと、彼女の視界が少しだけ遠くを映す。


(かつて、この印を掲げていた屋敷は――

 高い塀に守られていましたわね)


 鉄の門、警備兵、敷き詰められた白い石畳。

 招かれた者だけが通される、大きな玄関扉。


 その上に掲げられた白薔薇は、

 外から覗き見るだけの、遠い場所にあった。


(今、同じ白薔薇が掲げられるのは――)


 リリアは釘を打つ手を止め、そっと下を見下ろした。


 脚立のすぐそばで、ミラが見上げている。

 パン屋の奥さんが、陽射しを手でさえぎりながら微笑んでいる。

 子どもたちが、「ねえちゃん、落ちないでね!」と半分笑いながら心配している。


(誰でも扉を開けられる、小さな紅茶店の入口)


 そう思うと、胸の奥が、きゅうっと締めつけられるように痛んで――それから、じんわりと温かくなった。


「リリア、最後の一箇所、打ったら終わりですよー」


「ええ、今……」


 最後の釘を打ち終えると、看板はしっかりと、店の上に固定された。


 リリアが脚立を慎重に降りると、ミラがぱん、と手を打つ。


「はい、完成。どうです、店主殿」


 リリアは少し離れたところまで歩き、みんなと並んで見上げた。


 路地の空の下、木造の庇の上。

 穏やかな色合いの板に、店の名前と、

 湯気をまとった白薔薇が、静かに揺れている。


「……ええ」


 リリアは、胸の前でそっと手を組んだ。


「悪く、ありませんわね」


 ミラがにやりと笑う。


「“悪役令嬢”から、“紅茶屋のマーク”に昇格ってわけですねえ」


「その言い方は、どうにかなりませんの……?」


 常連たちの笑い声が、ふわりと広がった。


 そのとき、たまたま通りかかった通行人が、立ち止まって看板を見上げる。


「おや、あれ、公爵家の紋章じゃないか?」


 隣の友人が、首をかしげながら目を細める。


「いや、ちょっと違うぞ。

 薔薇のまわりにカップが付いてる。……なんだ、紅茶屋の印か」


「ああ、本当だ。茶の湯気まで描いてある。

 へえ、公爵家の印を真似た、洒落た看板だな」


 ふたりは軽く笑いながら、そのまま路地を歩き去っていく。


 “公爵家”“紋章”――

 そんな単語がちらりと風に混じる。


 けれど、その会話の終点は、もう「閉ざされた屋敷」ではない。

 今ここにある、小さな紅茶店の印として、受け止められて終わる。


 ミラが、横目でリリアを見る。


「聞きました? ちゃんと“紅茶屋の印”って言ってましたよ」


「ええ。……少し、肩の力が抜けましたわ」


 リリアは小さく笑い、看板を見上げたまま、心の中でそっと言葉を結ぶ。


(これは、“公爵令嬢だったわたくし”だけの印ではありません)


( “悪役令嬢”と噂された日々も、

 冬の配給を数えた夜も、

 馬車の中で沈黙を分け合った時間も、

 隣国で“誠実さ”という物差しを見た旅も――)


(そのすべてを通って、今ここで紅茶を淹れている、

 “リリア”という一人の人間が歩いてきた道の印)


 白薔薇の輪郭は、たしかに昔のままだ。

 けれど、その周りを包む湯気とカップは、今の彼女が自分の手で描き足したもの。


 過去を隠すためではなく、

 過去に自分の色を重ねるために掲げる看板。


「さ、店主殿。せっかく新しい看板付けたんですし、今日も働いてもらわないと」


「そうですわね。――本日最初の、“白薔薇の印をくぐったお客様”を、お迎えしませんと」


 リリアはくるりと振り返り、店の扉へ向かった。


 頭上では、新しい看板が、午後の風に小さく揺れている。


 それはもう、「彼女を縛る紋章」ではない。

 彼女が自分で選び、掲げ直した――


 これからも、この路地で紅茶と笑い声を紡ぎ続けていくと誓う、

 一つの約束のしるしだった。



 午後の光が傾き始め、街角の紅茶店の窓ガラスには、淡い橙が映り込んでいた。


 カウンターの中で、リリアはふと手を止め、窓の外に視線を向ける。


 ガラス越しに見えるのは、店の軒先に揺れる、新しい看板。

 柔らかな木地の上に描かれた店名と、その横に、小さく咲く白薔薇――

 ティーカップと湯気に抱かれた、その薔薇は、夕暮れの光を受けてほんのりと輝いている。


(……本当に、掲げてしまいましたのね、わたくし)


 少しだけ照れくさくて、少しだけ誇らしい。

 胸の内でそんな感情が混ざり合う。


 ちりん、とドアベルが鳴った。


 振り向くと、旅装束の若い客が、袋を肩に下げて立っていた。

 道中の埃を払うように軽く身を震わせ、彼は窓の方をちらりと見てから、リリアに尋ねる。


「失礼します。この白い薔薇……店の外に出ていた印は、何かの紋ですか?」


 リリアは一瞬だけ言葉を選び、それから穏やかに微笑んだ。


「ええ。

 わたくしが、昔から背負ってきたものの――名残りですわ」


 客は目を瞬かせる。


「昔から、ですか?」


「かつては、公爵家の娘としての印でございました。

 “ふさわしい令嬢”であれと、わたくしを外側から形づくっていたものでもあります」


 そこまで言って、リリアはふっと表情を和らげ、続けた。


「ですが今は――」


 彼女は窓越しの看板に、視線だけをそっと向ける。


「“公爵家の娘”というより、

 この店の紅茶と、ここで過ごしてくださる時間に責任を持つ者の印として、掲げております」


 客はしばし看板の白薔薇を見つめ、それから口元に笑みを浮かべた。


「なるほど。じゃあ、その印の店のお勧めを、一杯いただけますか」


「かしこまりましたわ」


 リリアはお辞儀をして、カウンターの奥に下がる。


 茶葉の瓶を選び、ポットを温める。

 沸き立つ湯が静かに茶葉を撫で、琥珀色の液体が少しずつ姿を現していく。


(白薔薇は、たしかにわたくしの過去の象徴)


 ポットからカップへと紅茶を注ぎながら、リリアは胸の内で静かに言葉を紡ぐ。


(けれど今、それを掲げる手は――

 “悪役令嬢になり損ねた少女”のものではありません)


 冬を数えた夜。

 配給のパンを、薪の本数を、必死に数えた日々。


 馬車の中で、沈黙を分け合った誰かの横顔。

 隣国で見た「誠実さ」という物差し。

 孤児院の子どもたちが教えてくれた、名前で呼び合う温かさ。


(冬を数え、誰かの幸せを紡ぎたいと願い、

 そして、紅茶店を選んだ――)


 カップの取っ手を、そっと客の前に向けて置く。

 湯気が立ちのぼり、ふわりと柔らかな香りが広がった。


「当店お勧めのブレンドでございます。

 道中のお疲れが、少しでもほどけますように」


 客は一口飲み、ほっと息を吐く。


「……いい香りだ。

 たしかに、この薔薇の印に恥じない一杯ですね」


 その言葉に、リリアは小さく会釈した。


(――一人の、リリアの手)


 窓の外には、相変わらず白薔薇の看板が、街角の風に揺れている。

 かつては重かったその形が、今は店の灯りと同じように、どこか柔らかく見える。


(その過去を、誇りとして掲げられるようになったことが――

 きっと今のわたくしにとっての、いちばんの“晴れ舞台”なのですわ)


 リリアはそっと微笑み、カウンターの内側で姿勢を正した。


 ちりん、とまたドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 彼女の声は、晴れた日差しのように明るく店内に広がる。


 窓の外、軒先に揺れる白薔薇の看板に、夕暮れの光がやわらかく差し込んでいた。

 それはかつて、公爵家の権威を飾っていた紋章と同じ形でありながら、

 今はただ、一軒の小さな紅茶店と、

 その店主が歩いてきた道のりを静かに示す印である。


 新しい客を迎えながら、リリアは胸の奥で、そっとその印を誇った。



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