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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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「紅茶店 ―― 自分の店を持ち、笑う毎日」

朝の光は、まだ街全体を起こしきれずにいるらしい。

細い路地に差し込む陽射しは、石畳の上でやわらかくほどけ、その一角に建つ小さな店の窓辺を、ふんわりと照らしていた。


ガラス越しに見えるのは、数えるほどの丸テーブルと椅子。

壁際には、透明な瓶に詰められた茶葉がずらりと並び、その合間合間を、色あせつつも大切に飾られた子どもたちの絵が埋めている。雪だるま、パン、薪の束。ぎこちない線で描かれたそれらは、この店がどこから始まったのかを、ささやかに物語っていた。


まだ「CLOSED」の札がかかった扉の内側で、リリアは静かに動いていた。


火を入れたばかりの小さなかまどの上で、湯気が細く立ちのぼる。

棚から陶器のポットを取り上げると、彼女はその中を温めるように、少量の湯をくるりと回した。白い指先が、慣れた手つきで取っ手を支える。その一連の動きには、かつての舞踏会で身につけた優雅さとは別種の、地に足のついたリズムが宿っている。


カウンターの下段から、布で包まれた木箱を取り出す。

蓋を開けると、香りの違う茶葉が仕切りごとに収められていた。

エルナートで覚えた少し燻した香りのもの、この街の商人が誇らしげに持ち込んだ新しい品、そして冬の日々を支えた、馴染み深いブレンド。


リリアは小さな匙で、その日最初の茶葉を量る。

匙の上で、黒や茶の葉がさらさらと鳴り、ポットに落ちる。


「……よし、こちらも、いつも通りですわね」


ひとりごとのように囁く声は、静かな店内によくなじんだ。

そのままカウンターから身を離れ、今度はガラスケースの前へと歩く。


焼き菓子の並ぶトレイには、今朝焼き上げたスコーンと、小ぶりのクッキーが列を揃えている。表面の色を確かめるように目を細めると、リリアは胸の前で両手を軽く組んだ。


「焦げすぎもなく……ええ、今日も大丈夫ですわ」


かつては毒見役がいた。

当然のように「安全」が用意されていた場所から、随分と遠くへ来たものだと、ふと笑みがこぼれる。


彼女はカウンターに戻り、棚の上に並ぶ茶葉の瓶を一つひとつ目で追った。ラベルには、丁寧な字で簡単な説明が添えられている。


「身体を温めたいときに」

「少し疲れた心に」

「甘い話とご一緒に」


どれも、彼女が冬の街で見てきた顔を思い出しながらつけた言葉だ。


ふと、窓から差し込む光が、銀色の鍵をきらりと照らした。

店の奥、壁に掛けられた小さなフックに、今朝もきちんと吊るされている。


リリアは指先でそれを外し、手のひらにのせる。

金属の冷たさがじんわりと伝わる感触に、胸の奥が、少しだけくすぐったくなる。


(かつて、“王妃候補”のわたくしが、

 こうして自分の店の鍵を回す日が来るなどと――

 誰が想像できたでしょう)


王宮の廊下。

磨き上げられた床。

人々の視線と期待と、ささやかな悪意。

そこでは、彼女の手が触れるのは扉の取っ手であっても、開ける許可を持つのはいつも別の誰かだった。


今、鍵は自分の手の中にある。


扉の前まで歩み出ると、リリアは取っ手に伸ばしかけた手を一度止めた。

かすかに息を吐き、目を閉じる。


(ここは、“公爵令嬢の社交場”ではありません)

(“悪役令嬢の追放先”でもない)

(わたくしが、自分で選び、自分の手で整えた――

 ただの紅茶店)


石畳の冷えが、扉越しに足元から伝わってくる。

けれど、その上に立つ彼女の背筋は、不思議なほど軽やかだった。


そっと目を開け、鍵を差し込む。

小さな金属音とともに錠前が回り、カチリと、今日最初の音が鳴った。


リリアは扉を少しだけ開け、外気を迎え入れる。

ひんやりとした朝の空気が、店内の温もりと混ざり合い、どこか新しい一日の匂いをつくり出す。


振り返れば、静かなテーブルと椅子。

壁の絵。

棚の茶葉。

ガラスケースの焼き菓子。


そのすべてが、「おはようございます」と彼女に挨拶しているように見えて、リリアは小さく笑った。


扉に掛けられた札に手を伸ばす。

昨夜、閉店のあと裏返したままの文字――


「CLOSED」


その札をくるりと反転させる。


「OPEN」


木製の札が定位置に収まると同時に、扉の上の小さなベルが、ちりん、と澄んだ音を鳴らした。


「さあ、本日も――“幸せの一杯”の、始まりですわ」


誰に聞かせるでもない言葉をそっと落としながら、

リリアは自分の店の中へ、ゆっくりと戻っていった。



午前の光がだんだんと強くなり、路地の人通りが少しずつ増え始めた頃。

扉についている小さなベルが、ちりん、と控えめに鳴った。


「おはようございます、リリアさん」


顔をのぞかせたのは、向かいの通りに店を構えるパン屋の若い夫婦だった。

小麦粉の粉を少しかぶったエプロンのままの旦那と、籠を抱えた奥さんが並んで入ってくる。


「おはようございます。今日も開店前からお疲れさまでしたわ」


リリアはにこやかに一礼しながら、もう手は自然と動いている。

カウンターのいつもの棚から、小さな瓶を二つ取り出した。


「本日は――“いつものブレンド”を、少し強めに、でよろしかったかしら?」


奥さんが、くすっと笑う。


「ええ、分かってしまいますか。明日は市の日で、仕込みが多くて……少し、眠気を飛ばしたくて」


「でしたら、こちらを少し足しましょうか。香りはそのままに、目を覚まさせる一杯になりますの」


匙の上で茶葉をほんのひとつまみだけ増やしながら、リリアは手際よくポットを準備していく。

旦那がカウンター席に腰を下ろし、肩を回しながらため息を漏らした。


「助かりますよ、リリアさん。ここの“いつものブレンド”を飲むと、なんだか一息つけるんです」


「それでは、“いつもの旦那さんの顔”に戻っていただけるよう、心を込めてお淹れいたしますわ」


「奥さん」でも「旦那さん」でもあるけれど、この店では誰も彼らを「職人殿」「商会長」などとは呼ばない。

リリアもまた、「公爵令嬢」でも「殿下の元婚約者」でもなく――ただの「リリアさん」だった。


湯が沸く音とともに、ベルがもう一度鳴る。


「リリアねえちゃん!」


今度飛び込んできたのは、年頃の青年と、その後ろから顔だけ出している少女だった。

どちらも、かつて冬の孤児院で、薪の数を一緒に数えた子どもたちだ。


「まあ、今日はお休みかしら?」


「うん! 今日は仕事、半日なんだ。だから、前から約束してた“あったかいの”飲みに来た!」


青年は少し照れくさそうに頭をかきながら、カウンターの端に腰を下ろす。

少女は店内をきょろきょろと見回し、壁の絵を見つけて「あ、これ、わたしが小さいとき描いたやつ!」と嬉しそうに声をあげた。


「ええ、大事に飾らせていただいておりますわ。

 ――今日は、どんな一杯がよろしいかしら? “甘いの”か、“落ち着くの”か、“これから頑張る用”か」


「“これから頑張る用”!」

「わたし、“甘いの”!」


即答する二人に、リリアは目を細める。


「承りました。“これから頑張る用”と、“甘いの”を一つずつですわね」


青年が、ふと思い出したように尋ねる。


「そういえばさ、ねえちゃん。今日は孤児院の帳簿、つけなくていいの?」


リリアは、ティーポットの蓋を押さえながら首を横に振った。


「ええ。今は、別の方が立派に務めてくださっておりますから。

 わたくしの役目は、“帳簿”から、“こちら”に移りましたの」


そう言って、カウンターの上に並ぶ茶葉の瓶とカップを、くるりと手で示す。


「でも、冬を越すお手伝いをしていることには、そう大きな違いはございませんわ。

 あちらでは“配給の帳簿”でしたけれど、こちらでは――“今日、誰の心にどんな一杯を届けるか”の帳簿ですの」


「へえ……かっこいいこと言うなあ、リリアねえちゃん」


青年が感心したように笑い、少女が「帳簿っておいしいの?」と首をかしげる。

テーブルの向こうでパン屋の奥さんがくすくすと笑い声を漏らした。


店の奥、壁の一角には、小さな手書きの紙が貼られている。

そこには、リリアの丁寧な字で、こんな文言が記されていた。


『ここでは、初めましての方には、まず“お名前”から教えてください。

 爵位や肩書きは、その次でかまいません。

 ――店主』


それに気づいた少女が、声に出して読み上げる。


「“名前から教えてください”……?」


「ええ」


ポットから立ちのぼる湯気を眺めながら、リリアは静かに頷いた。


「どこの生まれでも、どんな家の出でも、

 ここで紅茶をお淹れするとき、わたくしがお尋ねしたいのは――“あなたは、どう呼ばれたいか”のほうですもの」


パン屋の旦那がカップを両手で包み、満足そうに息をつく。


「いいですよね、ここ。貴族様も商人も、昔孤児院にいた子も、

 みんな“名前”と“いつもの一杯”で通じるんだ」


「そう言っていただけると、店主としては光栄ですわ」


リリアは、青年の前に湯気立つカップを置く。

少し力強い香りのブレンドだが、舌に残る後味は柔らかい。


「“これから頑張る用”ですわ。

 あとは、あなた次第でございます」


「おお……ほんとだ、なんか、しゃきっとする」


少女の前には、はちみつを少し加えた、丸い香りの一杯がそっと置かれる。


「“甘いの”は、“頑張ったあと用”でもありますのよ?」


「じゃあ、これ飲んだら、お皿運ぶの手伝う!」


「まあ、なんて頼もしいお客様かしら」


そんなやり取りをしているあいだにも、扉のベルはときおり鳴り、

市場帰りの女たち、小さな子どもを連れた父親、仕事前に立ち寄る役所勤めの青年など、少しずつ席が埋まっていく。


誰も、この店で人を「公爵さま」「殿下の元婚約者」などと呼ばない。

「リリアさん」「ねえちゃん」「旦那さん」「奥さん」「おじさん」「お嬢さん」――

そんな、少しだけ温度のある呼び名ばかりだ。


リリアは、ふと壁の手書きの紙に視線を向ける。


(ここでは、爵位も肩書きも、注文票には書かれません)

(記されるのは、“名前”と“今日飲みたい紅茶”だけ)


カウンターの裏に置かれた小さなノートには、

「ミナ:今日は甘いの」「ハロルド:いつもの弱め」「パン屋の奥さん:少し強め」

と、丁寧な字で書き留められている。


(なんて、贅沢で――

 やっと手に入れた、“ふつう”でしょう)


湯気の向こうで人々が笑い合う。

その真ん中で、リリアは静かにポットを傾ける。


ここは、身分ではなく、名前で呼び合う店。

かつて“悪役令嬢”とささやかれた彼女が、

今はただ、「リリア」として笑っていられる場所だった。


午後の陽が少し傾きかけ、店内のざわめきが一段落した頃。

扉のベルが、気の抜けたような調子でちりん、と鳴った。


「やってますかねえ、“元・悪役令嬢の紅茶店”」


聞き慣れた声に、リリアは思わず肩をすくめる。


「その呼び方、そろそろ控えていただけませんこと、ミラ」


「へいへい。じゃあ、“今は紅茶店主様”で」


エプロン姿のミラが、ひょいと片手を上げて入ってくる。

以前より少し髪が伸びた気もするし、表情に大人びた落ち着きが増した気もする――けれど、口の悪さは相変わらずだった。


「いらっしゃいませ。今日は、いつもの席でよろしいかしら?」


「そこの角、窓際で。あ、あと“疲れてるけど甘すぎないやつ”ください」


「ずいぶん曖昧なご注文ですこと。……つまり、“いつもの”ですわね」


「そうとも言う」


軽口を交わしながら、リリアはカウンターの後ろで手を動かす。

茶葉の瓶から、ミラ好みのブレンドを計り取り、ポットに湯を注ぐ。

そのあいだに、ミラは勝手知ったる様子で角のテーブルに腰を下ろした。


近所のパン屋の若夫婦が片付けを終えて席を立ち、

入れ替わるように、かつて孤児院で一緒に冬を越した青年が「また来ます」と手を振って出ていく。


ミラは、その背中を眺めながら、ふっと目を細めた。


「相変わらず繁盛してるじゃないですか。

 “元・悪役令嬢の紅茶店”、大盛況」


「だから、その枕詞は要りませんと申し上げましたのに」


リリアが苦笑しながら湯気立つカップを運び、ミラの前に置く。


「はい、“疲れていても甘すぎないやつ”ですわ」


「ありがと」


一口飲んだミラの肩が、ほっと落ちる。


「……あー。これこれ。冬の帳簿とにらめっこしてたころ、

 “頭が煮える前に飲んでこい”って、あんたが淹れてくれた味と同じ」


リリアも、向かいの席に腰を下ろす。

午後の客足が一時的に落ち着いている時間帯。

店内には、奥のテーブルから聞こえる小さな笑い声と、茶器の触れ合う音だけが満ちていた。


「覚えていらしたのね。

 ……あの頃は、配給の数字を一つ間違えただけで、翌日の食卓が変わってしまいましたもの」


「そうそう。あんたと二人で、ろうそくの火の下でさ。

 “この薪で三日持たせるにはどうするか”とか、真顔で相談してたんですよねえ」


ミラはカップを持ったまま、天井を仰ぐようにして笑う。


「子どもたちが寝静まったあとに、“大人の内緒話”みたいな顔して帳簿囲んで。

 今思えば、あれ、けっこう楽しかったんですよ」


「当時のわたくしには、そんな余裕はございませんでしたけれど……」


とは言いつつ、リリアの口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。


「配給が足りなくて、どうにかやり繰りを工面して。

 あの冬を越えられたのは、あなたが隣で“まだいけますよ”と笑ってくれたからですわ」


「そりゃどうも。

 ……そういえばさ」


ミラがふいに身を乗り出す。


「覚えてます? 王子様が、初めてまともに馬車で揺さぶられた時」


「もちろんですわ。

 “王都の道路はもっと整備しなければ”なんて、青ざめた顔で真面目におっしゃっていましたもの」


二人は思わず、同時にくすっと笑った。


「あのあと、あんたと王子様が、同じ馬車で隣町まで行ったでしょう。

 “沈黙が心地よかった”って戻ってきたときのあんたの顔、

 こっちはニヤニヤを抑えるのが大変だったんですからね」


「ミラ!」


「はいはい、惚気じゃなくて公務の一環だって分かってますって」


ミラはおどけて両手を上げ、一口、また紅茶を啜る。

少し真面目な色が、瞳の奥に差し込んだ。


「でもさ。

 あの冬、あんたが“誰かの幸せを紡ぎたい”なんて言い出したときは――

 正直、こっちが照れくさかったんですよ」


リリアは、視線を窓の外に逃がす。

石畳の向こうを、買い物籠を提げた母親と小さな子どもが笑いながら通り過ぎていく。


「……わたくしも、あれを口にしたときは、少々、顔が熱うございましたわ」


「“悪役令嬢”だったくせに、何ロマンチックなこと言い出してんだって」


「“だったくせに”は余計ですわ」


二人の軽口に、近くの席の客たちが「ああ、また始まった」と言わんばかりに微笑む。

“悪役令嬢”という言葉も、今ではすっかり店の笑い話の一つでしかない。


ミラはカップを置き、店内をぐるりと見渡した。


「でも、結果、こうなってるわけだ」


窓際で本を読んでいる常連の青年。

テーブルを挟んで向かい合い、悩みを打ち明け合っている恋人同士。

カウンターの端では、かつて孤児院で育った青年が、仕事の合間に一杯だけ紅茶を飲んでいる。


「ほら見なさいよ。

 こうして、あんたの淹れる紅茶で笑ってる人間が、毎日ちゃんといる」


リリアは、ゆっくりと瞬きをする。


「……それを、“幸せ”と呼んでよいのなら」


言いながら、自分のためのカップに、少しだけ薄めのブレンドを注ぐ。

湯気の向こうで、ミラと視線が合った。


「わたくしは、ずいぶん贅沢な日々をいただいていますわね」


「そうそう。自覚して、ちゃんとかみしめてくださいよ」


ミラは照れ隠しのようにそっぽを向き、紅茶を飲み干した。


「冬を越えるための紅茶から、

 冬を越えた“あと”の話をできる紅茶になったわけですから」


「……冬を越えたあとの話、ですか」


リリアはその言葉を、そっと胸の内で転がしてみる。


かつては「追放された悪役令嬢」の末路として始まった冬が、

今は「紅茶店の店主として、笑う毎日」へとつながっている。


それは、遠い昔話ではなく、

目の前でカップを受け取ってくれる人々と繋がっている、今ここにある物語だ。


「ねえ、ミラ」


「ん?」


「いつか、またあの街の子どもたちを、ここに招きたいですわね。

 “冬を越えたあとには、こんなに温かい場所が待っているのだ”と、教えて差し上げたくて」


ミラは一瞬、驚いたように目を瞬き、それからにやりと笑った。


「いいですねえ、それ。

 “元・悪役令嬢の店で、冬を越えた記念ティータイム”」


「だから、その呼び方は」


「はいはい、“今は紅茶店主のリリアの店で”ってことで」


二人の笑い声が、午後の柔らかな光と湯気の中に溶けていく。


冬を越えるために必死で数えていた薪と配給の帳簿は、

今は、紅茶の種類と常連たちの「いつもの一杯」の記録に姿を変えた。


あの冬の日々は、遠い過去ではない。

たしかにここへ続く道として存在し、

今日もまた、新しい一杯の向こう側で、誰かの笑顔とつながっているのだ。


午後の光が少し傾きかけ、店内のざわめきが穏やかになったころ。

小さな紅茶店の扉の上で、ちりん、と澄んだ音が鳴った。


「いらっしゃいませ――」


いつものように顔を上げたリリアは、扉口に立つ影を認めて、ふわりと微笑む。


質素な外套に、雪を払い落としたばかりの肩。

かつて王宮で見慣れたきらびやかな礼装ではなく、今は書類束の重さが似合う、忙しい役人の姿。


「……ようこそおいでくださいましたわ、アルト様」


「お邪魔しているのはこちらのほうだよ、リリア」


かつて「殿下」と呼ばれていた男は、今、この店ではただの一人の客として――

名で呼ばれている。


常連たちは、ちらりと視線を向けて、すぐにまた自分たちの会話へと戻っていく。

(あ、いつものアルト様だ)

心の中でそう思っても、この店で「殿下」と呼ぶ者はいない。

ここでは、爵位よりも、名前と“いつもの一杯”のほうが、よほど確かな手掛かりだからだ。


カウンターに歩み寄ってくるアルトに、リリアは小さく首を傾げる。


「本日は、どのような一杯をご所望かしら?」


「そうだな……いつもの“冬のブレンド”を。

 少しだけ、甘くしてもらえるだろうか」


「承りましたわ。

 ――本日は、少々お疲れのご様子ですものね」


「隠していたつもりだったのだが」


アルトが苦笑し、肩をすくめる。

リリアはくすりと笑いながら、奥の棚から茶葉を取り出す。


ポットを温め、茶葉を計り、湯を注ぐ。

空気の中に、スパイスと柑橘と、ほんの少し蜂蜜の香りが混じり始める。


そのあいだも、店内の日常は続いていた。

窓際では、近所のパン屋の若夫婦が明日の仕込みについて語り合い、

角の席では、かつて孤児院にいた青年が、仕事帰りの一杯を楽しんでいる。


(この店では、アルト様もまた――)


リリアは、ポットからカップへと慎重に紅茶を注ぎながら、胸の中でそっと思う。


(“王子殿下”ではなく、“約束を守り続けてきた一人の人”として席に座ります)

(国の仕組みを変えると誓った約束。

 冬を越える人々のことを忘れない、と交わした約束。

 ――あの頃、馬車の中で未来へとかけた細い糸は、今も静かに繋がっているのですわね)


「お待たせいたしました。

 ――冬のブレンド、少しだけ甘めに」


リリアがカップを差し出すと、アルトは両手でそれを受け取る。

立ち上る湯気を一度、静かに眺め、それから口を付けた。


「……ふう」


一息ついた彼の表情から、少しだけ硬さが抜けていく。


「やはり、君の淹れる紅茶は――」

アルトはカップの中を覗き込みながら、遠くを見るような眼差しをした。


「冬の終わりを、思い出させてくれるな」


「冬の終わり、でございますか?」


「君が、“誰かの幸せを紡ぎたい”と言った冬だ。

 そして、わたしたちが、馬車の中で黙って同じ景色を見ていた冬でもある」


リリアも、思わず笑みをこぼす。


「……あの頃は、紅茶どころか薪の数まで数えておりましたのに。

 今では、こうして“冬の味”を好みで選べるのですもの。

 ずいぶん贅沢になりましたわ」


「贅沢であってほしい。

 君の毎日が」


アルトはそう言うと、ふと視線を巡らせる。

店の隅々まで、何度も見たはずの光景――

けれど見るたびに、そこには少しずつ違う人々の笑顔がある。


「この店は、よく笑い声が響くな」


「ええ。

 ここでは、重たい話は入口の外に置いていただく決まりですの」


リリアは冗談めかして肩をすくめる。


「国の情勢や、冬の備蓄の話をなさりたいのでしたら、役所へどうぞ。

 ここは、“冬を越え続ける人”が、紅茶一杯分だけ肩の力を抜く場所でございますから」


「それは、王子にも適用される決まりか?」


「もちろんですわ。

 アルト様にも、きちんと守っていただいております」


そう答えると、カウンターの端の席を、顎で示す。

そこは、いつの間にか“アルトの席”として店に馴染んでいた。


「どうぞ。

 紅茶がお冷めにならないうちに、少しお休みになってくださいませ」


アルトは素直に頷き、席に腰を下ろした。

カップを両手で包み込むように持ち、ひとくち、またひとくちと口に運ぶ。


(紅茶一杯分の時間だけでも――)


リリアは、カウンターの内側から、そっとその横顔を見守る。


(“王子殿下”ではなく、“アルト様”として、ここで息をついてくださるのなら)

(そのささやかな余白のために、この店を続けていく価値が、きっとあるのでしょう)


「リリア」


呼びかけられて顔を上げると、アルトが穏やかな笑みを浮かべていた。


「この店を開いてくれて、ありがとう」


「……お礼を言われるほどのことではございませんわ。

 わたくしが、わたくしの居場所として選んだだけですもの」


「その居場所に、時々こうして座らせてもらえるのは、光栄なことだ」


「でしたら――」


リリアも、微笑みを返す。


「季節を問わずお越しくださいませ。

 この店は、“冬を越え続ける人”のためにございますから」


アルトは静かに頷き、残りの紅茶を味わうように飲み干した。


紅茶一杯分の距離。

それは、昔のように「王子と婚約者」としての距離でも、

「追放された悪役令嬢」と「同情を向ける王子」としての距離でもない。


同じ冬を数え、同じ方向を見て歩いてきた者同士が、

ひととき肩の力を抜いて並んでいられる、穏やかな距離。


店の扉の向こうでは、また次の客の気配がする。

ベルが鳴れば、リリアは笑顔で迎え、

アルトは空いたカップをそっとカウンターに戻すだろう。


それで十分だ、と二人とも知っている。

今日もまた、紅茶一杯分の時間を分け合いながら、

それぞれの場所で、“誰かの幸せ”へ続く仕事に戻っていくのだから。


昼下がりの光が、ガラス戸越しにやわらかく差し込んでいる。

小さな紅茶店の前の石畳を、行き交う人々の足音が通り過ぎていった。


木製の看板には、今日も変わらず、店の名前と小さなティーポットの絵だけが描かれている。

「元・悪役令嬢の紅茶店」などという、刺激的な文句はどこにもない。


ちりん、と扉の上の鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


振り向いたリリアの前に立っていたのは、旅装束の青年だった。

外套の裾には長旅の土埃がつき、肩には小さな荷物袋。

いかにも「どこかの街から噂を拾ってきました」という風情である。


「あの……」

青年は店内をきょろきょろと見回しながら、遠慮がちに口を開いた。


「“元・悪役令嬢の紅茶店”って、この店のこと……ですよね?」


カウンターの奥でカップを拭いていたミラが、ぴたりと動きを止めた。


「……はい出ました。

 誰ですかねえ、そんなキャッチコピー流したの」


「ミラ」


リリアは苦笑をこらえきれず、小さくため息をつく。


「まったくもう。

 そのような看板、どこにも出しておりませんわ」


「えっ、でも……」

青年は慌てて入り口のほうを振り返る。


「さっき泊まった宿で聞いたんです。

 “この街には、昔物語になった悪役令嬢がやってる紅茶屋がある”って。

 てっきり、そういう看板が出てるのかと……」


「物語、ねえ」


ミラが肩をすくめる。


「宿の主人、多分あれですよ。

 昔流行った読み物、好きだったんでしょうね。

 “冷酷公爵令嬢が追放されて辺境で更生して、いつの間にか国の制度まで変えましたー”っていう、あれ」


「…………」


視線が、そっとリリアに向く。

当の本人は、にこやかに微笑んだまま、ティーポットを用意していた。


「ご期待に添えず申し訳ございませんわ。

 ここにございますのは、ただの紅茶店ですの」


「い、いえ! 別に、その……がっかりとかではなくてですね」


青年は慌てて手を振る。


「ちょっと、物語みたいな“悪役令嬢”がいるのかなあ、なんて。

 ほんの少しだけ、気になっただけで……」


「もしもここが、物語の中の“悪役令嬢”の店だとしたら――」


リリアはくすりと笑い、カウンター越しに首を傾げた。


「きっと、もっと意地悪な味の紅茶をお出ししているところでしょうね」


「い、意地悪な味?」


「そうですわね……たとえば、香りだけやたらと甘くて、

 飲んでみたらびっくりするほど渋い、とか」


「それはそれで、ちょっと飲んでみたい気もしますけど……」


青年が苦笑すると、リリアはふるふると首を振る。


「ご安心くださいませ。

 ここでお出しするのは、“今日を少しだけ楽にするための一杯”だけですわ」


「今日を……少しだけ楽に」


「ええ。

 長い旅の道のりでも、日々のささやかな疲れでも。

 紅茶一杯ぶんだけ、肩の力を抜いていただけるように、と思っておりますの」


青年はあらためて店内を見回した。


窓際の席では、近所の夫婦が穏やかに笑い合い、

奥のテーブルでは、どこかの職人風の客が本を片手にカップを傾けている。

壁には、子どもたちが描いた拙い絵と、手書きの紙が一枚。


『ここでは、初めての方には“お名前”から教えてください』


「……なんだか、思っていたより、ずっと居ごこちがよさそうな店だ」


青年は照れくさそうに頭をかきながら、カウンター席に腰を下ろした。


「じゃあ、その“今日を少し楽にする一杯”ってやつを、

 旅人でも頼めますか?」


「もちろんですわ」


リリアは満足げに微笑む。


「よろしければ、お名前を伺っても?」


「え? あ、えっと……ノエルといいます」


「ノエル様。

 では、ノエル様に合う一杯を、お淹れしてまいりますわね」


ノエルが名乗った瞬間、「旅人」だった彼は、この店にとっての一人の客になった。

紅茶の注文票に記されるのは、“出自”でも“物語の役柄”でもなく、

ただ“ノエル”という名前と、「今日飲みたい紅茶」の印だけだ。


ミラが、こっそりリリアの耳元で囁く。


「……で、“元・悪役令嬢の紅茶店”って噂、否定しちゃってよかったんですか」


「わたくし、商売のために“悪役”を名乗る趣味はありませんもの」


「でも、あんたが追放されてどうこうって話、

 だいぶ尾ひれついて広まってますよ? もう完全に別ジャンルの物語になってますけど」


「そうでしたらなおのこと、放っておくのが一番ですわ」


リリアは穏やかに笑い、ノエルのためのブレンドを用意しながら、心の中で静かに言葉を結ぶ。


(“悪役令嬢”という言葉は、もうわたくしを裁くための烙印ではありません)

(時々こうして、誰かの冗談の種になることはあっても――

 それを笑って受け流せるだけの、毎日の紅茶と笑顔が、ここにはありますから)


「お待たせいたしました、ノエル様」


ほのかな柑橘と蜂蜜の香りをまとった紅茶が、そっとカウンターに置かれる。


ノエルは一口飲んで、目を瞬かせた。


「……あ。

 なんか、肩が抜けていくみたいな味がしますね」


「それは何よりですわ」


リリアが微笑むと、ノエルもつられて笑った。


店のどこを見渡しても、“悪役令嬢”を名乗る看板はない。

あるのは、小さなティーポットの絵と、

「名前を教えてください」と書かれた紙と――


今日を少しだけ楽にするための、一杯の紅茶だけだった。



夕方の光が少しだけ色を変え、窓の外の石畳が、ゆるやかに朱を帯びていた。

一日の喧騒がゆっくりと静まりはじめる時間――紅茶店にとっては、「ほっと息をつく客」が増えるひとときだった。


ちりん、と控えめに扉の鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ」


リリアが顔を上げると、そこに立っていたのは、少し疲れた表情の女性だった。

外套の胸元には、小さな染み。腕には布包み――中から、ぐずぐずと小さな泣き声が漏れている。


「す、すみません……」

女性は申し訳なさそうに頭を下げた。


「赤ん坊が、どうしても泣きやまなくて……

 少し、外の空気を吸おうと思って歩いていたら、このお店が見えて。

 あの、その……今日は、少し、甘めのものをください」


ぐったりとした声音に、リリアはそっと微笑んだ。


「かしこまりましたわ。

 苦い一日には、蜂蜜をひとさじ増やしましょう」


女性を窓際の椅子へ案内し、「こちらにどうぞ」と軽く会釈する。

赤ん坊はまだ、心細げにぐずっている。

だが、店内のあたたかさと、どこか落ち着いた香りに、泣き声は次第に小さくなった。


リリアはカウンターに戻ると、棚の茶葉を眺めた。

疲れの滲む顔、子どもを抱えた肩の張り、声のかすれ方――

ほんの短い会話でも、その日の重さは、湯気のように立ちのぼってくる。


(今日は、少し柔らかく、少し甘く。

 でも、ただ甘いだけでは、きっと明日へは続きませんわね)


手は迷いなく動く。

渋みをやわらげる穏やかな葉に、香りの明るいものをひとつまみ。

湯を注ぐと、ぽうっと立ち上る蒸気が、彼女の鼻先をくすぐった。


カップをそっと盆に載せ、窓際の席へ運ぶ。


「お待たせいたしました。

 今日は、少しだけ“がんばりすぎた日向け”の一杯にいたしましたわ」


「……そんな紅茶があるんですか?」


「ええ。わたくしが勝手にそう呼んでいるだけですけれど」


リリアは紅茶を女性の前に置き、赤ん坊が気にならないよう、カップの位置を少しずらした。

泣き声は、いつのまにか鼻をすする程度に収まっている。


「どうぞ、ごゆっくり」


それ以上、何も言わない。

「子育ては大変でしょう」も、「きっと大丈夫です」も、ここでは余計な言葉だと知っているから。


女性は両手でカップを包み込み、一口、そっと飲んだ。

そして、ふっと息を吐く。


「……ああ」


小さな吐息に、わずかに笑みが混じった。


「なんだか……不思議ですね。

 ここに来る前は、“ああもう、明日なんて来なければいいのに”って思ってたのに」


カップの中の紅茶を見つめながら、ぽつりと言葉がこぼれる。


「今は、ほんの少しだけですけど……

 “ちゃんと明日もやっていけそうだ”って、思えてきます」


リリアは、カウンターの向こうから静かに会釈した。


「それなら、この店の“約束”は、少しは果たせているようですわね」


「約束、ですか?」


「ええ」


リリアは布巾を畳みながら、目だけで微笑む。


「“ここにいるあいだだけは、少し楽でいていい”――

 この店は、その約束を守りたいと思っておりますの」


女性はしばらく黙ってカップを見つめていたが、やがて、ふっと目尻をぬぐった。

それから二口、三口と、ゆっくり紅茶を飲み干していく。


カップの底が見える頃には、表情のこわばりはかなりほどけていた。

腕の中の赤ん坊も、すっかり眠り込んでいる。


「……ごちそうさまでした」


会計を済ませ、外套の襟を整えながら、彼女は深く頭を下げた。


「また、来てもいいですか」


「もちろんですわ。

 明日が少し苦くなりそうな日には、いつでもお立ち寄りくださいませ」


扉が閉まり、鈴の音が遠のく。


夕暮れが、ゆっくりと群青へと移り変わっていく。

店内はひと呼吸ぶん静かになり、湯気の細い筋だけが、まだ空中に残っていた。


リリアはカウンターの端に置かれた、小さな厚手のノートを手に取る。

表紙には、控えめな金の文字でこう記されていた。


『今日の一杯の覚え書き』


ページを開き、空白の行にペン先を滑らせる。


『本日の覚え書き:

 泣きそうな目で来た人が、

 一杯飲み終える頃には、少し笑って帰っていった。

 ――紅茶一杯ぶんの“幸せの糸”を、確かに紡げたはず。』


書き終えて、ペンを置く。

胸の奥で、小さな灯がまたひとつ、静かに明るさを増したような気がした。


(あの冬、配給のパンを数え、薪の本数を数えながら、

 “誰かの幸せを紡ぎたい”と願った日々)


(国の制度を変える約束も、隣国の仕組みも――

 たしかに大切で、遠くまで届く糸でしたわ)


視線が、棚に並んだ茶葉の瓶と、窓際の椅子へと移る。


(でも今、わたくしの前にあるのは、紅茶の茶葉と、湯気と、笑う顔)

(規模は小さくとも――

 この店が誰かにとっての“冬を越える灯り”であるなら、

 それで十分だと、今は思えますわ)


約束は、未来へ細い糸をかけること。

遠くの国と街全体を結ぶ太い糸もあれば、

たった一人の、今日と明日をつなぐ細い糸もある。


この店でリリアが紡ぎ続けているのは、後者のほうだ。


「さて――もう少しで、夜のお客さまの時間ですわね」


小さく独りごちて、リリアは湯を沸かし直す。

ポットから立ち上る白い蒸気が、店の明かりに溶けて揺れた。


その光の下で、今日もまた、誰かの一日を少しだけ楽にするための一杯が、そっと用意されていく。



閉店のベルを鳴らしたのは、とうに日が沈んだあとのことだった。


石畳の路地には、街灯の淡い光がぽつりぽつりと落ちている。

そのいくつかが、ガラス越しに店内へと入り込み、木のテーブルの上に柔らかな四角い光をつくっていた。


「さて、と」


リリアは小さく息をつきながら、椅子をひとつずつテーブルの下へ収めていく。

今日もいろいろな人が、この椅子に腰掛けて、一日ぶんの疲れを降ろしていった――その重みが、まだほんのり残っている気がした。


テーブルを拭き終え、カウンターに戻る。

そこには、整えられた本日の売上袋と、端が少しだけめくれた覚え書きのノート、それから半分ほど残ったポットが並んでいた。


ふと、入口にかけた札へ目が向く。


『OPEN』から『CLOSED』へと返された小さな板。

それを見て、リリアは自然と微笑んだ。


(王宮では、“社交の予定”が終わるたびに、

 ほっとしたような、空虚なような、どちらともつかない気持ちになっておりましたわね)


(けれど今は――)


視線を店内へ巡らせる。

昼間は笑い声で満ちていた空間に、今は静けさだけが広がっている。

それでも、その静けさは冷たくはない。


(“ありがとうございました”と、“また来ます”と、

 それから、数えきれないため息と、小さな笑顔と……

 そうしたものが、一日分、この空気の中に溶け込んでいます)


リリアは自分用のカップを取り出し、ポットから紅茶を注いだ。

少しだけ濃く、香りも強めに――これは、一日を終えた自分へのささやかなご褒美だ。


カップから立ちのぼる湯気を眺めながら、彼女はカウンターの一角に腰掛ける。

視線の先には、壁に並ぶ茶葉の瓶と、常連の子どもたちが描いた絵。

雪だるまや、湯気の立つカップや、意味もなく丸がいっぱい描かれた紙――どれも、ここを「自分の居場所」と呼んでくれた証のようだった。


(この店は、

 “悪役令嬢ではないリリア”が選んだ場所)


(誰の脚本にも書かれていなかった、

 わたくしだけの物語の続き)


かつての自分――

完璧であることを求められ、王子妃としてふるまうための笑顔ばかりを練習していた少女を思い出す。


(あの頃のわたくしが見れば、

 “王妃の座を逃して、小さな紅茶店にいる自分”を、どう思うかしら)


想像して、くすりと笑みが漏れた。


(きっと、“負け”だと考えるかもしれませんわね)


(けれど――)


扉の向こう側で、ちいさな影が動いた。

窓越しに見ると、近所の子どもが二人、家路につく途中で店を見上げている。

一人が、こちらに気づいて手を振った。


リリアも思わず、カップを置いて立ち上がる。

窓辺に歩み寄り、ガラス越しにそっと手を振り返す。


子どもたちの顔がぱっと明るくなり、何かを言い合いながら駆けていった。

その様子を見送ったあと、リリアはゆっくりと席へ戻る。


(今、ここでカップを持って笑っているわたくしは――

 王宮で必死に笑い方を覚えていた頃より、

 ずっと、ずっと“素”に近い表情をしているはずですわ)


心の奥で、かつての声がよみがえる。


『君は、悪役なんかじゃなかった』


あの日、冬の街で、王子が告げてくれた言葉。

それは、追放された令嬢に対する慰めではなく、

“役柄”から自由になれ、という優しい宣告でもあった。


そして、それに応えるように、自分で選んだ言葉もある。


『私も、誰かの幸せを紡ぎたい』


リリアはカップを両手で包み込み、一口、紅茶を口に含んだ。

香りと温かさが、ゆっくりと喉を通り、胸の奥へと広がっていく。


(あの時願った“幸せを紡ぐ”という言葉は、

 国の制度や大きな約束の形にもなりましたけれど――)


(今はこうして、

 一杯の紅茶で誰かの肩の力を少しだけ抜く、

 ささやかな糸として続いています)


窓の外には、今日もまた、誰かの帰り道を照らす灯りが並んでいる。

その片隅で、小さな紅茶店の看板は、静かに夜風に揺れていた。


“悪役令嬢”と呼ばれた物語は、とうの昔に幕を閉じた。

けれど、そこで終わりではなかったのだと、今ならはっきり分かる。


代わりに続いているのは――

自分の店を持ち、誰かと笑い合う日々という、穏やかでささやかな、新しい物語。


リリアは、もう一口、ゆっくりと紅茶を飲む。

その温もりを味わいながら、心の中でそっと呟いた。


(明日もまた、ここで“幸せの一杯”をお淹れいたしますわ)


その小さな約束を胸の真ん中に結びなおすと、

彼女はカップを置き、ランプの明かりをひとつずつ落としていった。


明日も、また扉を開くために。

自分の店を持ち、笑う毎日を、続けていくために。




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