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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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新しい国 ―― そこでは身分よりも誠実が重んじられていた。

 馬車の揺れが、いつもよりいくぶん長く続いていた。

 軋む車輪の音は同じでも、窓の外に流れてゆく景色は、見慣れた雪原から、少しずつ知らない線を混ぜ始めている。


 簡素な公務用の馬車。その中で、リリアは王子と向かい合って座っていた。

 今日はさらに、同乗する文官が二名。帳簿と書類の束が座席の端に積まれ、革紐できっちりまとめられている。


 王子が、その束のひとつを膝の上に置き、リリアのほうを見た。


「隣国エルナートは、人口も領土も小さいが――」

 穏やかな声が、ゆっくりと揺れに溶けていく。

「孤児や戦災孤児の支援については、わたしたちよりよほど進んでいる。彼らの制度を学び、必要なら協定を結びたい」


「協定……」


 リリアは相槌を打ちながら、窓の外へと視線を向ける。

 薄く凍った小川、雪に埋もれかけた道標。その先に、見慣れぬ形の標識が立っている。自国のものよりもやや背が高く、文字の刻み方も違う。


「わたくしが同行してよろしいのかしら、と、まだ少し不思議に思っておりますの」


 リリアがそう言うと、向かいの席で、文官の一人がわずかに身じろぎした。

 王子は気にする様子もなく、書類を一枚つまみ上げる。


「君の同行は、当然のことだと思っているよ」

 その口調は、きっぱりとしていた。

「これまでの視察は、王都の者だけで行ってきた。だが、それでは“報告書に載る数字”しか見えなかった」


 王子は、視線だけを窓へ流す。

 遠くに、小さな煙がのぼる村の屋根が見えた。リリアにも見慣れた冬の光景だ。


「わたしや文官が聞き逃す“寒さ”を、君なら拾い上げられるかもしれない」

 静かな声で、王子は続ける。

「孤児院での冬を、この目で見てきた者の意見が、どうしても必要だ」


 「寒さ」という言葉に、リリアは胸の奥をかすかに締めつけられるような感覚を覚えた。

 雪の日の配給、薪の残り本数、子どもたちの震える肩――そのひとつひとつが、喉もとまで浮かび上がってくる。


「……お役に立てるかどうかは分かりませんけれど」

 リリアは、そっと両手を重ねて膝の上に置いた。

「この冬、わたくしが見てきたものなら、できる限りお伝えいたしますわ」


 馬車が小さく揺れ、車輪の音が一段と硬くなる。

 前方の道が凍り始めた合図だと、身体が勝手に覚えている。


 窓の外には、さきほどよりも明らかに異なる影が見え始めていた。

 雪に埋もれた境界石。その脇に立つ、見慣れぬ意匠の槍と紋章。

 警備兵の鎧は、自国の兵とは装飾の仕方も布の色も違う。胸元に輝く紋章は、聞き及んでいた隣国の国章に違いなかった。


(この国において、わたくしは“公爵令嬢”ではありません)


 リリアは、ふと自分の胸元に目を落とす。

 そこには、王宮にいたころのように、家紋を誇示するブローチも、宝石もついていない。

 代わりにあるのは、寒さを防ぐための厚手のマントと、動きやすい丈のスカート。孤児院の子どもたちを外に連れ出すときと、さほど変わらない装いだ。


(“王子の元婚約者”という肩書きも、たぶん、ただの噂話の一つに過ぎませんわね)


 この国での噂話に、自分の名が挙がることなど、おそらくない。

 誰も、自分のドレスの色を、社交界での立ち居振る舞いを、審査しようとはしないだろう。


(では――わたくしは、何者としてこの地を踏むのでしょう)


 孤児院の帳簿につけた数字。

 冷え切った手を握った子どもの感触。

 王子と交わした、「誰かの幸せを紡ぎたい」という、まだ心の中だけの誓い。


 それらだけを連れて、知らない国の門をくぐる。


 自嘲とも、期待ともつかない息を、リリアがそっと吐き出したときだった。

 向かいに座る王子が、ちらりとこちらを見て、少しだけ居心地悪そうに視線をそらした。


「君は――」


 言いかけて、言葉を探すように一拍置く。

 王子は窓の外に目を向けたまま、照れ隠しのように口元をゆるめた。


「君は、ここでは“リリア”として見られるだろう」


「……“リリア”として」


「ああ」

 王子はこくりと頷く。

「それが、この国のやり方らしいからな。

 爵位や家柄よりも、その人が何をしてきたか――

 どのように約束を守ってきたかで、まず判断する国だと聞いている」


 窓の外、国境の標識が近づいてくる。

 異国の紋章が刻まれた石柱に、うっすらと雪が積もっていた。


 リリアはその光景を眺めながら、自分の名前を、心の中でそっと確かめる。


(リリアンヌ・フォン・○○公爵家――ではなく)

(ただの、“リリア”)


 王宮であれば、決して口に出さなかった、短く削ぎ落とされた呼び名。

 孤児院の子どもたちやミラが、気安く呼んでくれる、いまの自分の名前。


 それを、この国は最初に受け取るのだという。


 馬車が小さく減速し、車輪の音が変わった。

 国境の門が近い合図だ。


 リリアは、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 公爵令嬢としての完璧な姿勢ではなく、寒さと揺れの中でも呼吸しやすい、自分なりの姿勢で。


(――ならば、よろしゅうございますわ)


 胸の内で、そっとつぶやく。


(“公爵令嬢”としてではなく、“元婚約者”としてでもなく。

 この冬を、誰かと共に数えてきた一人のリリアとして――

 この国の門を、くぐってまいりましょう)




 馬車がゆるやかに速度を落としていく。

 窓の外に、背の低い石壁と、雪を払われた木の門が見えてきた。

 それは王都の城門のような威圧感とは違う、けれど隙のない、きちんと手入れされた関所だった。


 石壁の内側には、小さな詰所の建物。

 その前で、分厚いマントを羽織った兵士たちが行き来し、ひとりは大きな鍋の前で湯気を立てている。

 鍋の中から漂う香りは、きっと何かの薬草を入れた温かい飲み物なのだろう。

 寒さでこわばった顔に、少しだけ血色を戻させるための。


 ――実務的で、けれどどこか人の気配のある場所。


 馬車が門の前で止まると、槍を持った門番が一歩前へ進み出た。

 胸元の紋章は、この国エルナートのもの。

 彼は一礼し、その声には礼儀と同じくらい、訓練された硬さがあった。


「ようこそお越しくださいました、王太子殿下」


 馬車の扉が開き、王子が最初に降り立つ。

 地面は固く凍っているが、砂が撒かれていて滑りにくい。


「長旅、ご苦労であった」

 王子が穏やかに返すと、門番は微かに表情を和らげた――が、すぐに職務の顔に戻る。


「ご来訪を歓迎いたします、殿下。

 しかし、手続き上、通行許可証と訪問目的の書面は、すべての方にご提示いただいております」


 リリアは思わず瞬きをした。

 王子もまた、わずかに眉を上げたように見えたが、そのまま頷き、後ろの侍従から筒状の革入れを受け取る。


「もちろんだ。これが通行許可証と、今回の視察に関する書簡だ」


 門番がそれを恭しく受け取り、詰所の脇に備え付けられた台の上で手早く広げる。

 書面に走る視線は真剣で、王子だからといって「形だけの確認」で済ませる様子はない。


 彼の背後からは、別の兵士が湯気の立つ杯を抱えて現れ、待たされている文官の一人にそっと差し出した。


「冷えますので、よろしければ」

「あ、ありがとうございます」


 形式ばった威圧感の中にも、当たり前のようにそうした気遣いが滑り込んでいる。


 やがて、門番が書状から顔を上げた。


「殿下のご身分とご滞在の目的、確認いたしました。

 期間中は、首都までの移動および福祉施設の視察を許可いたします」


 王子が短く礼を返す。

 ――そこで終わり、かと思いきや、門番の視線はすぐさま王子の背後へと移った。


「では、随行の皆さまのご確認を」


 文官たちが一歩前へ出て、それぞれ身分証と書類を提示する。

 順に名前と役目を告げる声が、凍った空気に短く響き、粛々と手続きが進んでいく。


 そして、その視線が、リリアのところで止まった。


「こちらのご令嬢は?」


 問いかけは、決してぞんざいではない。

 ただ、当然の確認として発せられたもの。


 文官の一人が半歩前に出ようとしたところで、王子が軽く手を上げて制した。


「名はリリア」

 王子の声が、はっきりと関所に届く。

「我が国の辺境の孤児院で支援の現場を見てきた者だ。今回の視察において、実務面での意見を求めている」


 “公爵令嬢”でも、“元婚約者”でもない紹介。

 彼女が今、この旅に連ねられている理由だけが、簡潔に示される。


 門番は頷き、詰所の中にいる書記らしき人物へ合図を送った。

 書記は手早く帳面を繰り、何かを探し当てたように「ありました」と声を上げる。


「リリア殿……リリア・……」

 門番は書記から差し出された紙片を受け取り、目を通す。

「孤児院への支援状況についての報告書を、すでに王都から送っておられましたね」


「――え?」


 思わず、リリアの口から小さな声が漏れた。

 王都に送ったあの報告が、もうこの国の関所まで届いているなど、考えたこともなかった。


 門番は、その驚きを気にした様子もなく、ただ淡々と続ける。


「今年の冬期配給の状況。薪の備蓄と消費ペース。凍傷と病の発生件数――」

 紙面に目を走らせながら、要点だけをさらりと口にし、最後に顔を上げた。

「内容は事前に拝見しております。本視察における実務担当の一人として登録済みです。どうぞ、お通りください」


 言って、他の随行者とまったく同じように、軽く一礼して道をあける。


 リリアは、胸の奥が不思議にざわめくのを感じた。


(わたくしの“出自”ではなく――)


 視線を落とせば、自分の手が、いつか孤児院の帳簿をめくっていたときと同じように、微かにインクの痕を残している。


(“この冬に書いた報告書”で、門が開かれた……)


 王宮の門は、家格と縁談の相手で決まる。

 舞踏会の扉は、ドレスの格と社交界の評判で開閉された。


 だが、この国境の門は、彼女がこの冬に数えてきた薪の本数や、凍えた指を温めた回数――その結果を書きつけた紙で、静かに開かれているのだ。


(ここでは、“公爵令嬢”であることよりも――)


 雪明かりの下で、門番は次の馬車の到着に備え、また書類を整え始めている。

 その背中には、誰かの爵位にひれ伏す気配よりも、「記録」と「約束」を信頼している気配のほうが強かった。


(この手で積み上げた働きのほうが、先に見られるのですわね)


 リリアは、静かに息を吸い込んだ。

 そして、ほんの少しだけ、いつもより自然な歩幅で、開かれた門をくぐる。


 王子が、その隣で小さく囁いた。


「ここでは、君の“誠実さ”が、何よりの紹介状になる」


 リリアは横目で王子を見て、短く微笑む。


「でしたら――恥をかかせないよう、努めませんといけませんわね」


 白い吐息が、寒空にふわりと漂う。

 その向こうに広がるのは、爵位よりも、過去の噂よりも、「今この瞬間の誠実さ」が試される新しい国だった。


エルナートの中心街から少し外れた場所に、その建物はあった。


 石造りではあるが、重厚というよりは、端々まで手が行き届いた印象の館。

 正面の扉の横には、小さな屋根付きのベンチがあり、そこでは子どもたちが木の玩具で遊んでいる。

 中からは、紙をめくる音と、人の話し声、どこかで湯を沸かすかすかな湯気の音が混ざり合って聞こえてきた。


「こちらが、我が国の中枢の一つ――福祉局と地域センターを兼ねた施設です」


 案内役の行政官がそう告げる。

 年の頃は四十前後、落ち着いた目元の人物で、肩口には簡素な紋章付きのバッジが光っていた。


 扉をくぐると、ひやりとした外気とは違う温かさが、じんわりと頬をなでる。

 しかしそれは王宮の暖炉のような贅沢な熱ではなく、石壁に沿って張り巡らされた温風の管と、あちこちに置かれた小さなストーブから生まれる、地に足のついた暖かさだった。


 広間は、王都の役所のように机がびっしりと並んでいるわけではない。

 左右には受付カウンターと相談用のテーブル、奥には掲示板。

 手前の一角には、子ども向けの本と玩具が置かれた小さなスペースまである。


(……役所、というより……)


 リリアは思う。

(“困っている人のための居場所”と、“記録の場”が同じ場所にあるような――)


 行政官が、王子たちを奥のテーブルへと案内しながら、穏やかに口を開いた。


「我が国では、爵位や出自は“背景”として尊重しますが――」


 そこで一度、王子へ視線を向け、言葉を続ける。


「実際の権限や責任は、その人がどれだけ誠実に務めを果たしてきたかで量ります」


 リリアは無意識に背筋を伸ばした。


「誠実に……務めを、ですか」


 王子が問い返すと、行政官はこくりと頷く。


「ええ。嘘をつけば罰せられるのは貴族も同じ。

 約束を守る者には、それに見合う信用が積み重なります。

 その信用の蓄積を、きちんと記録し、評価する仕組みを――」

 少しだけ口元を緩ませて、

「孤児院支援にも応用しているのです」


 言って、彼は指先で奥の壁を示した。


 リリアが目を向けると、そこには大きな板が何枚も並んでいた。

 紙が整然と貼られ、横には数字を示す棒グラフや、色の付いた小さな印。

 まるで、誰もが見られる大きな帳簿のページを、壁に広げているかのようだった。


「こちらは……?」


「寄付や支援の記録です」

 行政官が近づき、紙の一枚を軽く指で叩く。

「どの施設に、誰が、いつ、どの程度の支援を約束し――そして実際にどれだけ履行したか。

 本人の同意のもとで、それらを公開しています」


 リリアは思わず足を踏み出し、掲示板に近づいた。


 一枚の紙には、こう記されている。


 ――『この冬、北部孤児院に薪百束を、月末までに届けることを約する』


 その下には、細かな欄が並んでいた。

 「約束した日付」「現時点で届けられた数量」「未達の数量」「理由」――。

 横には棒グラフが添えられ、約束の履行状況が一目で分かるようになっている。


「……“約束の履行状況”……?」


 リリアの唇から、自然とその言葉が漏れた。


「はい」

 行政官は、まるで当たり前のことを説明するような口調で頷く。

「“この量を、いつまでに届ける”と約束した者が、実際にどのくらい守ったか。

 その記録は本人の同意のもとで公表されます」


 リリアは、王都での“慈善パーティー”を思い出した。

 煌びやかな会場で、金額と名声を競うように掲げられる寄付の誓約。

 だがその後、本当にその分が届いたかどうかを、ここまで明瞭に“見える形”にしていた場面を、一度でも見たことがあっただろうか。


(……いいえ)


 心の中で、静かに首を振る。

(あの場では、“約束した”という事実が、すでに満足をもたらしていましたもの)


 だが、この壁に貼られているのは――約束したという“宣言”ではない。

 約束がどこまで守られているか、という“途中経過”と“結果”だ。


「約束を守りきれなかった場合は?」

 王子が口を開いた。声には、興味と、ほんの僅かな緊張が混じっている。


 行政官は、隣の紙を指さした。


「その場合は、“なぜ守れなかったのか”をきちんと報告していただきます」

 そこには、「輸送路の雪崩により遅延」「予定していた資金源の破綻」など、具体的な理由が記されていた。

「事情がやむを得ないものであれば、信用はさほど傷つきません。

 むしろ、状況を隠さず伝え、代わりの手立てを提案した者は、誠実さを示したとして高く評価されます」


「なるほど……」

 王子の視線が、掲示板を行き来する。

「“結果”だけでなく、“向き合い方”も見ているわけか」


「ええ。約束をした以上、結果を出そうと努めることは当然です。

 しかし、世の中にはどうしても予定通りいかないこともある。

 そんなときに、顔を伏せて消えるのか、それとも正面から事情を説明し、別の道を探すのか――」


 行政官は軽く肩をすくめる。


「我々は、そこにこそ、その人の“誠実さ”が表れると考えています」


 リリアは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


(約束を“見える形”にする……)


 彼女の脳裏に、王都で見た“慈善事業”の書状がちらつく。

 署名と印章がいくつも押されているのに、実態が伴っていなかった計画。

 見栄えの良い数字だけが先行し、寒さの中の人々には、ほとんど届かなかった温もり。


(言葉だけの慈善に、これほど鋭い鏡を突きつける仕組みがあるなんて……)


 リリアは、掲示板の端に貼られた小さな紙に目を留めた。


 そこには、こう書かれていた。


 ――『約束は、力です。

   守られた約束は、次の信頼を生みます。

   守られなかった約束は、その理由を明かすことで、なお尊ばれることがあります。

   嘘をついた約束だけが、この国で最も重い罰を受けます』


 簡素な言葉。だが、その一文に、この国の根っこにある価値観が凝縮されているように思えた。


「……嘘をついた約束は?」

 リリアが確かめるように口にすると、行政官の目が僅かに厳しさを増す。


「それは、“人から預かった未来”を踏みにじる行為です」

 淡々とした声。だが、その奥にある冷たい怒りは隠せない。

「身分の高低に関わらず、厳しく裁かれます。

 爵位は、その裁きを軽くはしません。むしろ――」


「むしろ?」


「高い立場にある者ほど、多くの未来を預かっている。

 ゆえに、嘘をついたときの罰もまた、重くなります」


 その言葉に、王子の肩が、ほんの僅かに強張ったのをリリアは見た。


(高い立場にある者ほど……多くの未来を……)


 王子が、自国で背負わされてきた“役割”。

 リリアが、王妃候補として身にまとっていた“期待”。

 それらが、この国では「何をどこまで果たしたか」という“実績”と“誠実さ”で測られる。


 リリアは、自分の胸に問いかける。


(ここでわたくしは、“公爵令嬢”でも、“元婚約者”でもなく――)


 壁に貼られた紙の一枚に、自分の名があることを思い出す。

 “冬期支援報告書・作成者:リリア”


(“この冬、帳簿と現場を見て、報告を書いた者”として見られているのですわね)


 王宮で積み上げてきた礼儀作法や教養は、決して無駄ではない。

 けれどこの国では、それ以上に――


(約束を守るために動いた日々。

 寒さを数え、薪を数え、子どもたちの指先の色を見続けたことが――

 わたくしという人間の“証拠”になる)


 ほんの少しだけ、足元がふわりと浮くような感覚がした。

 同時に、どこか心地よい重みが、肩にそっと乗る。


 王子が隣で、小さく息を吐いた。


(……この仕組みを、そのままわが国に持ち込むのは難しいだろう)


 彼は心の中で考える。

(しかし、“約束を見える形にする”という考え方は――

 王都の“飾りだけの慈善”を変えるための、大きな鍵になる)


 視線を横へ向けると、リリアが真剣な眼差しで掲示板を見つめているのが見えた。

 その横顔は、かつて舞踏会の明かりの下で見たものとは違う。


 ここでは、“誰かに選ばれるための顔”ではなく――

 “約束を守るかどうかを問われる一人の人間”として、壁の紙を見ている顔だ。


 王子は静かに思う。


(この国で、彼女がどんな“誠実さ”を見せ、どんな約束を結ぶのか――

 それを、最後まで見届けたい)


 新しい国の空気が、静かに二人の肺に満ちていく。

 爵位よりも、噂よりも、「どう生きてきたか」と「これからどう生きるか」が問われる場所で――

 リリアの物語は、またひとつ、新しいページをめくられようとしていた。



エルナートの中心街から少し外れた場所に、その建物はあった。


 石造りではあるが、重厚というよりは、端々まで手が行き届いた印象の館。

 正面の扉の横には、小さな屋根付きのベンチがあり、そこでは子どもたちが木の玩具で遊んでいる。

 中からは、紙をめくる音と、人の話し声、どこかで湯を沸かすかすかな湯気の音が混ざり合って聞こえてきた。


「こちらが、我が国の中枢の一つ――福祉局と地域センターを兼ねた施設です」


 案内役の行政官がそう告げる。

 年の頃は四十前後、落ち着いた目元の人物で、肩口には簡素な紋章付きのバッジが光っていた。


 扉をくぐると、ひやりとした外気とは違う温かさが、じんわりと頬をなでる。

 しかしそれは王宮の暖炉のような贅沢な熱ではなく、石壁に沿って張り巡らされた温風の管と、あちこちに置かれた小さなストーブから生まれる、地に足のついた暖かさだった。


 広間は、王都の役所のように机がびっしりと並んでいるわけではない。

 左右には受付カウンターと相談用のテーブル、奥には掲示板。

 手前の一角には、子ども向けの本と玩具が置かれた小さなスペースまである。


(……役所、というより……)


 リリアは思う。

(“困っている人のための居場所”と、“記録の場”が同じ場所にあるような――)


 行政官が、王子たちを奥のテーブルへと案内しながら、穏やかに口を開いた。


「我が国では、爵位や出自は“背景”として尊重しますが――」


 そこで一度、王子へ視線を向け、言葉を続ける。


「実際の権限や責任は、その人がどれだけ誠実に務めを果たしてきたかで量ります」


 リリアは無意識に背筋を伸ばした。


「誠実に……務めを、ですか」


 王子が問い返すと、行政官はこくりと頷く。


「ええ。嘘をつけば罰せられるのは貴族も同じ。

 約束を守る者には、それに見合う信用が積み重なります。

 その信用の蓄積を、きちんと記録し、評価する仕組みを――」

 少しだけ口元を緩ませて、

「孤児院支援にも応用しているのです」


 言って、彼は指先で奥の壁を示した。


 リリアが目を向けると、そこには大きな板が何枚も並んでいた。

 紙が整然と貼られ、横には数字を示す棒グラフや、色の付いた小さな印。

 まるで、誰もが見られる大きな帳簿のページを、壁に広げているかのようだった。


「こちらは……?」


「寄付や支援の記録です」

 行政官が近づき、紙の一枚を軽く指で叩く。

「どの施設に、誰が、いつ、どの程度の支援を約束し――そして実際にどれだけ履行したか。

 本人の同意のもとで、それらを公開しています」


 リリアは思わず足を踏み出し、掲示板に近づいた。


 一枚の紙には、こう記されている。


 ――『この冬、北部孤児院に薪百束を、月末までに届けることを約する』


 その下には、細かな欄が並んでいた。

 「約束した日付」「現時点で届けられた数量」「未達の数量」「理由」――。

 横には棒グラフが添えられ、約束の履行状況が一目で分かるようになっている。


「……“約束の履行状況”……?」


 リリアの唇から、自然とその言葉が漏れた。


「はい」

 行政官は、まるで当たり前のことを説明するような口調で頷く。

「“この量を、いつまでに届ける”と約束した者が、実際にどのくらい守ったか。

 その記録は本人の同意のもとで公表されます」


 リリアは、王都での“慈善パーティー”を思い出した。

 煌びやかな会場で、金額と名声を競うように掲げられる寄付の誓約。

 だがその後、本当にその分が届いたかどうかを、ここまで明瞭に“見える形”にしていた場面を、一度でも見たことがあっただろうか。


(……いいえ)


 心の中で、静かに首を振る。

(あの場では、“約束した”という事実が、すでに満足をもたらしていましたもの)


 だが、この壁に貼られているのは――約束したという“宣言”ではない。

 約束がどこまで守られているか、という“途中経過”と“結果”だ。


「約束を守りきれなかった場合は?」

 王子が口を開いた。声には、興味と、ほんの僅かな緊張が混じっている。


 行政官は、隣の紙を指さした。


「その場合は、“なぜ守れなかったのか”をきちんと報告していただきます」

 そこには、「輸送路の雪崩により遅延」「予定していた資金源の破綻」など、具体的な理由が記されていた。

「事情がやむを得ないものであれば、信用はさほど傷つきません。

 むしろ、状況を隠さず伝え、代わりの手立てを提案した者は、誠実さを示したとして高く評価されます」


「なるほど……」

 王子の視線が、掲示板を行き来する。

「“結果”だけでなく、“向き合い方”も見ているわけか」


「ええ。約束をした以上、結果を出そうと努めることは当然です。

 しかし、世の中にはどうしても予定通りいかないこともある。

 そんなときに、顔を伏せて消えるのか、それとも正面から事情を説明し、別の道を探すのか――」


 行政官は軽く肩をすくめる。


「我々は、そこにこそ、その人の“誠実さ”が表れると考えています」


 リリアは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


(約束を“見える形”にする……)


 彼女の脳裏に、王都で見た“慈善事業”の書状がちらつく。

 署名と印章がいくつも押されているのに、実態が伴っていなかった計画。

 見栄えの良い数字だけが先行し、寒さの中の人々には、ほとんど届かなかった温もり。


(言葉だけの慈善に、これほど鋭い鏡を突きつける仕組みがあるなんて……)


 リリアは、掲示板の端に貼られた小さな紙に目を留めた。


 そこには、こう書かれていた。


 ――『約束は、力です。

   守られた約束は、次の信頼を生みます。

   守られなかった約束は、その理由を明かすことで、なお尊ばれることがあります。

   嘘をついた約束だけが、この国で最も重い罰を受けます』


 簡素な言葉。だが、その一文に、この国の根っこにある価値観が凝縮されているように思えた。


「……嘘をついた約束は?」

 リリアが確かめるように口にすると、行政官の目が僅かに厳しさを増す。


「それは、“人から預かった未来”を踏みにじる行為です」

 淡々とした声。だが、その奥にある冷たい怒りは隠せない。

「身分の高低に関わらず、厳しく裁かれます。

 爵位は、その裁きを軽くはしません。むしろ――」


「むしろ?」


「高い立場にある者ほど、多くの未来を預かっている。

 ゆえに、嘘をついたときの罰もまた、重くなります」


 その言葉に、王子の肩が、ほんの僅かに強張ったのをリリアは見た。


(高い立場にある者ほど……多くの未来を……)


 王子が、自国で背負わされてきた“役割”。

 リリアが、王妃候補として身にまとっていた“期待”。

 それらが、この国では「何をどこまで果たしたか」という“実績”と“誠実さ”で測られる。


 リリアは、自分の胸に問いかける。


(ここでわたくしは、“公爵令嬢”でも、“元婚約者”でもなく――)


 壁に貼られた紙の一枚に、自分の名があることを思い出す。

 “冬期支援報告書・作成者:リリア”


(“この冬、帳簿と現場を見て、報告を書いた者”として見られているのですわね)


 王宮で積み上げてきた礼儀作法や教養は、決して無駄ではない。

 けれどこの国では、それ以上に――


(約束を守るために動いた日々。

 寒さを数え、薪を数え、子どもたちの指先の色を見続けたことが――

 わたくしという人間の“証拠”になる)


 ほんの少しだけ、足元がふわりと浮くような感覚がした。

 同時に、どこか心地よい重みが、肩にそっと乗る。


 王子が隣で、小さく息を吐いた。


(……この仕組みを、そのままわが国に持ち込むのは難しいだろう)


 彼は心の中で考える。

(しかし、“約束を見える形にする”という考え方は――

 王都の“飾りだけの慈善”を変えるための、大きな鍵になる)


 視線を横へ向けると、リリアが真剣な眼差しで掲示板を見つめているのが見えた。

 その横顔は、かつて舞踏会の明かりの下で見たものとは違う。


 ここでは、“誰かに選ばれるための顔”ではなく――

 “約束を守るかどうかを問われる一人の人間”として、壁の紙を見ている顔だ。


 王子は静かに思う。


(この国で、彼女がどんな“誠実さ”を見せ、どんな約束を結ぶのか――

 それを、最後まで見届けたい)


 新しい国の空気が、静かに二人の肺に満ちていく。

 爵位よりも、噂よりも、「どう生きてきたか」と「これからどう生きるか」が問われる場所で――

 リリアの物語は、またひとつ、新しいページをめくられようとしていた。


エルナートの中心街から少し離れた、小高い丘の中腹に、その施設は建っていた。


 石と木で組まれた二階建ての建物は、大きくはないが、隅々まで掃き清められている。

 窓辺には色とりどりの紙飾りが吊るされ、廊下には子どもたちの絵がびっしりと貼られていた。

 雪だるま、家族の絵、見たことのない動物たち――拙い線で描かれた世界は、冬の灰色をやわらかく塗り替えている。


「ようこそ、お越しくださいました」


 玄関で出迎えたのは、優しげな瞳をした中年の職員だった。

 肩に掛けたエプロンには、子どもの手形らしき色の跡がいくつも残っている。


「ここが、我々の孤児施設の一つです。戦で親を失った子もいれば、病や事故で家族を失った子もいますが――」


 職員は一度、廊下の向こうに目をやる。

 走り回る小さな足音と、笑い声が聞こえてきた。


「ここでは、子どもたちに“国籍”を尋ねる前に、“名前”と“今日の気分”を聞くようにしています」


 リリアは、思わず瞬きをした。


「国籍よりも……名前と、今日の気分を?」


「ええ」

 職員は穏やかに微笑む。

「どこから来たか、どの国の戦の影響を受けたか――それも大切な情報ではあります。

 ですが、それより先に、“今どうしたいか”を尊重したいのです」


 王子が小さく頷く。


「“どんな過去を背負っているか”より、“今をどう生きているか”……か」


「はい」

 職員は、王子にも特別な遠慮を見せることなく、同じ調子で続ける。

「ここでは、子どもたち自身が『今のわたしはこうです』と名乗ることを、大事にしています。

 それは、彼らがこれから積み重ねていく“誠実さ”の、最初の一歩ですから」


 その言葉に、リリアの胸の奥が、かすかに震えた。


(自分で、自分を名乗る……)


 公爵令嬢だった頃の彼女は、常に「公爵家の娘」「王妃候補」として紹介されてきた。

 “リリアンヌ・フォン・○○公爵家令嬢”、長々しい称号付きの名乗り。

 そこに、「今日の気分」など、差し挟まれる余地はなかった。


 そんなことを考えているあいだに、廊下の向こうから、小さな影がいくつも駆けてくる。


「だれか来たー!」


「おきゃくさん? おきゃくさんだ!」


 十人ほどの子どもたちが、わらわらと集まってきた。

 年の頃は五歳から十歳くらいまで。

 服は繕いを重ねているが清潔で、みな頬を赤く染め、好奇心いっぱいの目で客人たちを見上げる。


「こらこら、走らない」

 職員がやんわりと注意するが、子どもたちは勢いを殺しきれない様子で、足踏みしながらも前のめりになっていた。


「すごい服!」「帽子がひらひらしてる!」


 王子のマントや、随行の文官たちの服装に目を輝かせる子もいれば、

 リリアのコートの裾をじっと見ている子もいる。


 そのうちの一人――黒髪をお下げにした少女が、するりと前に出てきた。

 ぱちぱちと瞬きをしてから、真正面からリリアを見上げる。


「お姉ちゃん」


 そのまっすぐな呼びかけに、リリアの胸が、ふっと温かくなる。


「はい?」


「名前は?」


 あまりに当たり前の問いかけに、リリアは一瞬だけ言葉を失った。


(名前……)


 「公爵令嬢」「王妃候補」「元婚約者」――

 喉の奥には、これまで自分を縛ってきた肩書きが、条件反射のように浮かびかける。


 王宮ならば、まず家名を名乗り、相手の出方をうかがうところだろう。

 辺境では、“孤児院の書き手”として見られることが増えた。

 だが、この国で自分をどう名乗るか、まだ決めかねていたはずなのに――


 少女の瞳は、そのどれも求めていなかった。


 ただ、そこに立つ一人の人間の「名前」を尋ねている。


「……リリア、と申しますわ」


 気づけば、肩書き抜きの名が、素直に唇からこぼれていた。


「リリア!」


 少女の顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ、リリアねえちゃん!」


 あまりにも自然に付け加えられた「ねえちゃん」に、リリアの目が丸くなる。


「ねえちゃん……?」


「うん! こっち、こっち! 雪だるまの絵、見て!」


 少女はリリアの手を取ると、廊下の壁に貼られた絵の前までぐいっと引っ張っていく。

 そこには、丸が三つ重なった雪だるまと、その隣で手をつないでいる小さな人影が描かれていた。


「これ、わたしが描いたの! こないだ、初めて雪がいっぱい降ったときの」


 誇らしげに胸を張る少女を見下ろしながら、リリアは微笑んだ。


「まぁ、素敵ですわ。

 雪だるまの顔、とても優しそうですこと」


「へへっ。リリアねえちゃん、顔がやさしいって!」


 褒められたのが自分ではなく雪だるまのほうだと分かっているのかいないのか、少女は満足げに笑う。

 その後ろで、ほかの子どもたちも口々に声を上げた。


「ぼくのも見て!」「こっちのは星!」「これはね、パン!」


 あっという間に、リリアの周りは小さな手と紙だらけになった。


 その様子を、少し離れた場所から王子と職員が見守っている。


「……早いですね」

 王子がぽつりと漏らす。


「何がでしょう?」

 職員が首をかしげる。


「いや――」

 王子は苦笑し、リリアのほうを一瞥した。

「彼女が“リリア”として受け入れられるのに、こんなに時間がかからないとは」


「子どもたちは、肩書きよりも先に、“今目の前にいる人”を見ますからね」

 職員は肩を揺らして笑う。

「きちんと挨拶をして、目線を合わせてくれる人には、だいたいすぐ“ねえちゃん”と“にいちゃん”の称号が与えられますよ」


 王子は思わず吹き出しそうになり、こほんと咳払いでごまかした。


 一方、絵だらけの壁の前で、リリアは子どもたちに囲まれながら、胸の内でそっと言葉を紡いでいた。


(この子たちは――)


 少女が腕にしがみつき、別の少年が袖を引っ張る。


「リリアねえちゃん、雪合戦したことある?」


「雪、こっちのほうがふわふわなんだよ!」


(“公爵令嬢”だからと構えることも、

 “悪役令嬢”だと噂することもありません)


 彼らにとって、彼女がどこの国のどの家の生まれかなど、今はどうでもいい。

 目の前で、自分たちの絵にちゃんと目を向けてくれる“ねえちゃん”であることが、何より大事なのだ。


(ただ、名乗った名前を、そのまま受け取ってくれる……)


 「リリア」と呼ばれるたびに、胸の奥で何かがほどけていく。

 王宮でその名が呼ばれるとき、常にまとわりついていた重み――

 それが、この国では不思議なほど軽やかだ。


(なんて、贅沢で――)


 リリアは、雪だるまの絵の端に描かれた、拙い「リナ」という署名に気づく。

 ああ、さきほど名乗った少女の名だ、と理解する。


(そして、当たり前であるべきことなのでしょう)


 国籍より先に、名前を聞く。

 爵位より先に、「今日の気分」を尋ねる。

 生まれや背負った過去ではなく、「今ここにいるあなた」を認めるところから始める。


 そんな当たり前のはずのことが、自分にはどれほど遠かったか。


「リリアねえちゃん、今日の気分は?」


 ふいに、リナがくるりと振り返り、真似をするように問いかけてきた。

 職員がさきほど話していた言葉を、しっかり聞いていたのだろう。


「今日の……気分?」


「うん! わたし、今日は“うれしい”なの。

 だって、えがおのお客さんが来たから!」


 リリアは、一瞬だけ言葉に詰まり――それから、胸に手を当てた。


「そうですわね……」


 窓の外には、まだ白い雪が積もり、空気は冷たい。

 けれど、この部屋の中には、子どもたちの笑い声と、ささやかな灯りが満ちている。


「わたくしは――“少し、胸が温かい”気分ですわ」


「むね、あったかい?」


「ええ」

 リリアは微笑む。

「名前を呼んでいただけるのは、とても嬉しいことですもの」


 リナが照れくさそうに笑い、他の子どもたちも「じゃあ、ぼくも“うれしい”」「わたしは“おなかすきそう”」と、思い思いに今日の気分を口にし始めた。


 その輪の中心で、「元・悪役令嬢」は、ただの「リリア」として笑っていた。

 国境を越えたこの国で――国籍より先に、名前を呼ばれ、肩書きより先に、「今日の気分」を尋ねられる一人の人間として。


 その夜、エルナートの簡素な宿舎の一室には、異国の木の匂いと、蝋燭の小さな明かりが満ちていた。


 壁は白く塗られ、余計な装飾はない。

 低い天井の下、小さな机と寝台がひとつずつ。

 窓の外には、見慣れない街の灯りが、点々と連なっている。


 リリアは、備え付けの机に腰掛け、今日受け取った粗い紙の帳面を開いた。

 孤児院で使っているものより少しざらついた紙だが、不思議と落ち着く手触りだった。


 ペンをとり、ゆっくりと一行目を書きつける。


『本日の記録:

 エルナート国境通過。』


 そこで一度、ペン先を持ち上げる。

 インクが紙の上で小さな点になり、じわりと染み広がった。


(ここで、何を書き添えるべきかしら)


 窓の外へと視線を向ける。

 街灯が一定の間隔で並び、その下を、肩を寄せ合うように歩く二つ三つの影がゆっくりと通り過ぎていく。


 門番の、穏やかながら揺るがぬ声が耳によみがえった。


『リリア殿の記録はこちらに――ああ、

 孤児院への支援状況についての報告書をすでに王都から送っておられましたね』


(わたくしの“出自”ではなく――)


 再びペンを紙に落とす。


『ここでは、わたくしの“出自”よりも――

 この冬に何をしてきたかを問われた。』


 書き終えてから、その一文をしばらく眺める。

 墨の黒がまだわずかに濡れている。


(この冬、わたくしがしたこと)


 孤児院の寒い廊下。

 パンの焼ける匂いと、薄いスープの湯気。

 焚きつけ用の薪の山を前に、子どもたちと一緒に数を数えた朝。


 そして今日、この国の会議室で、行政官たちはこう尋ねてきた。


――“この冬、どのように過ごしてきたか、あなたの口から聞かせてほしい”。


(“どこの公爵家の娘か”ではなく、“どんな冬を数えてきたか”を)


 胸の奥が、ほんの少し熱くなる。


 ペンを置き、リリアはゆっくりと窓の外へ向き直った。


 見慣れない街路の先で、灯りがひとつ、またひとつ瞬いている。

 その下で、どれほど多くの人々が、それぞれの約束を守りながら生きているのだろう。


(この国でなら――)


 胸の中で、言葉が自然と形を取る。


(この国でなら、わたくしはただの“リリア”でいられる気がいたします)


 “公爵令嬢”でもなく、

 “王子の元婚約者”でもなく、

 “悪役令嬢”と囁かれた物語の登場人物でもなく。


(今日、子どもたちの名前を聞き、

 明日の薪の数を数える一人の人間として)


 窓ガラスに映る自分の顔は、王宮の鏡に映っていた頃よりも、ずっと素朴で、少しだけ逞しく見えた。


 ふと、隣の部屋の方から、紙をめくるかすかな気配が聞こえてくる。


 王子もまた、机に向かっているのだろう。

 今日見た仕組みや言葉を、祖国にどう持ち帰るかを考えながら、報告書を書いているに違いない。


(殿下は、きっと思っておられますわね)


 爵位の有無ではなく、

 約束を守り、誠実に働く者に信用が集まる国――


(いつか、自分の国も、

 “君は悪役なんかじゃなかった”と胸を張って言える場所に近づけたい、と)


 そう想像すると、胸の奥で、何かが静かに響き合うのを感じた。


 わたくしはこの国で、“ただのリリア”として見られる。

 殿下はこの国を見て、“都合のいい王子”ではない自分の形を探している。


 それはどちらも、身分ではなく、誠実を基準にした、新しい物差しだ。


 リリアはもう一度、帳面に目を落とした。


『――ここで学んだ“誠実の物差し”を、

 わたくし自身の歩みにも刻みつけておきたい。』


 そう小さく書き添えてから、ペンをそっと置く。


 蝋燭の火が、ふわりと揺れた。

 窓の外には、見慣れない街の灯りが点々と続いている。


 その下では、爵位の高低よりも、

 小さな約束を守り続ける者たちの誠実さが、静かに積み重なっているのだろう。


――“この国でなら、わたくしはただのリリアでいられる”。


 その言葉を胸の内でそっと繰り返しながら、

 リリアは新しい国での最初の夜の記録に、指先で軽く触れた。


 そして静かに帳面を閉じ、灯火を見つめる。


 明日もまた、名ではなく行いを問う人々のもとへ出向くために。

 “公爵令嬢”でも“悪役”でもない、自分自身として歩くために。


 彼女はようやく、ペンから手を離し、

 異国の夜にそっと、まぶたを閉じた。





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