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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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旅の同行 ―― 二人で馬車に乗る。沈黙が心地よい。

冬の朝の空は、曇りガラスのように白く曖昧だった。

孤児院の玄関前に立つリリアの吐く息が、細く空へと溶けていく。


門の前には、一台の馬車が停まっている。

王都からの豪奢な使いではなく、公務用の簡素な造りのものだが、それでもこの街の風景の中では少しだけ浮いて見えた。御者台のそばには護衛が数人、控えめな距離を保って立っている。


馬車の扉はすでに開かれており、中には王子の姿が見えた。

厚手の外套に身を包み、膝の上には手袋を外した手が落ち着きなく重ねられている。その姿が、ほんの少しだけ緊張を含んでいるようにも見えて、リリアは胸の奥がくすぐったくなるのを覚えた。


そのマフラーを、ミラが後ろからぐいっと引き寄せる。


「ほら、もうちょっと首元隠して。風がまだ冷たいんですから」


「むぐ……ミラ、少しきついですわ」


「はいはい、贅沢言わない。――で、本当に行くんですねえ、あんた」


ミラはマフラーの端を結びながら、横目でリリアをちらりと見る。


「王子様と“ふたりきりの時間が長い空間”ですよ?

 途中で逃げ出しても、たぶん追いつかれますよ?」


「その言い方はやめてくださらない? まるで罰ゲームのようですわ」


リリアは思わず苦笑しながら、マフラーの結び目を指で整えた。

胸の内では、昨夜のことが静かに反芻される。


(“同行をお願いしたい”――

 そう言われて、わたくしは迷いながらも、首を縦に振りました)


王子の使いが届けた文には、こうあった。

明日、役所から隣町の施設へ視察に向かう。その道中で、現場の話を聞きたい。

できれば、リリアにも同行してほしい――と。


(殿下と共に行く道が、

 ほんの少しでも“誰かの幸せを紡ぐ”糸に繋がるのなら)


ただ連れられていくのではなく、自分の足で「行く」と選びたい。

その小さな意地が、彼女の背筋を自然と伸ばしていた。


「リリアねえちゃーん!」


そのとき、玄関ホールから小さな足音がどっと溢れ出した。

子どもたちが雪解けの水のようにわらわらと飛び出してきて、リリアの周囲を取り囲む。


「ちゃんとごはん食べるんだよ!」と、いつも一番に皿を空にする少年が言う。


「王子様の前で、パンくずこぼさないでね!」と、ついさっきテーブルに粉をぶちまけた少女が続ける。


「それは、あなたが言えたことではなくてよ?」


リリアは思わず吹き出し、少女の頭を軽く撫でた。

子どもたちの頬は、外気と興奮でりんごのように赤い。


「リリアねえちゃん、いつ帰ってくるの?」


「今日は帰ってくるのよ。ちょっと遠くに行くだけですわ。

 夕方には、また一緒にパンを数える約束をしておりますもの」


そう言うと、子どもたちは一斉にほっとした顔を見せる。

彼らにとって「遠く」は、冬の丘を一つ越えた向こう側でさえ、もう見知らぬ世界なのだ。


ミラが腰に手を当てて、子どもたちをぐいっと下がらせる。


「はいはい、あんまりくっつかない。リリアさんが乗れないでしょう?

 ……ほら、マフラーよし、手袋よし。あとは度胸だけ」


「それが一番頼りないと言っているように聞こえますわね」


「気のせいです」


軽口を交わしながらも、ミラの手つきはどこか名残惜しげだ。

この冬、何度も一緒に玄関先で寒さと風を数えてきた相棒を、ひとときとはいえ送り出すのだから。


馬車の中から、王子が姿を見せる。

扉の手すりを軽く握り、外套の裾を整えながら、リリアたちに向かって一礼した。


「おはよう、リリア。それに皆も」


子どもたちが「おはようございます、王子様!」と、ばらばらの声で挨拶を返す。

王子はその騒がしさに、どこか楽しげに目を細めた。


「道中、いくつか見ておきたい場所がある。

 君の目と意見を借りたい」


その言葉は、命令でも、形式的な誘いでもなかった。

「借りたい」とはっきり言われて、リリアの胸の奥が少しだけ熱くなる。


彼女は一歩、雪の残る石畳の上へと踏み出した。

誰かに押される前に、自分から前へ。


「はい。――わたくしも、この目で確かめてまいりたいと思います」


その返事は、馬車に乗る許しを請う言葉ではない。

「一緒に行く」と、自分で決めたことを告げる言葉だ。


ミラが小さく肩をすくめ、笑いながら囁く。


「……はい、覚悟決まりましたね。

 じゃ、ちゃんと戻ってきてくださいよ、“元・悪役令嬢”さん」


「ええ。

 “元・悪役令嬢”としてではなく――

 この街で冬を数えているリリアとして、戻ってまいりますわ」


リリアは子どもたち一人ひとりの顔を順に見渡し、手袋越しに軽く手を振った。

王子の待つ馬車へと歩み寄り、踏み台に足をかける。


扉の向こうには、冬の外気とは違う、少しだけ温まった空気がある。

「連れて行かれる」ための箱ではなく、これから共に進む道の一部としての空間。


リリアはその境界を跨ぎ、静かに馬車の中へと乗り込んだ。


馬車の中は、外の白い世界から一枚だけ切り離されたように、静かだった。


厚手の外套を脱いだ王子と、マフラーを軽く緩めたリリアが、向かい合って座る。

座席のクッションはほどよく柔らかいが、王都の豪華な御用馬車のような刺繍も金具もない。布地は質素で、色も地味だ。それがかえって、この旅の目的をはっきりと物語っているようだった――「飾りではない視察」であることを。


車輪が雪を踏みしめる音が、一定のリズムで響く。

時折、轍の凹みに乗り上げるたび、車体が小さく上下に揺れた。


「道が悪い。揺れは大丈夫か」


沈黙を切ったのは、やはり王子だった。

形式ばった問いではあるものの、声には本心からの気遣いが滲んでいる。


リリアは背もたれに軽く手を添え、身体の揺れを受け止めながら首を振る。


「ええ、この程度でしたら。

 ここへ来るときは、もっと粗末な荷馬車で揺られましたもの」


「……そうだったな」


王子は、ふと眉をわずかに上げる。

どこか遠い記憶を手繰るような表情で、窓の外を一瞥した。


「君はもう、王都の絨毯の上だけを歩いているわけではなかった」


「今さらお気づきになりましたの?」


リリアが冗談めかして言うと、王子は苦笑のように口元をゆるめる。それでも、どこかぎこちない影が残っていた。


窓の外には、冬枯れの畑が続く。

雪に薄く覆われた土の上に、ところどころ黒い筋がのぞいている。遠くの丘の中腹には、小さな家々から、かすかな煙が立ちのぼっていた。


リリアは、視線を外に向けたまま、ぽつりと口を開く。


「このあたりは、秋の収穫が少なかった村ですわ」


「そうなのか」


「ええ。

 それでも……あそこに、煙が見えますでしょう?」


リリアは指先で、窓の外の一点を示す。

王子も身を乗り出し、同じ方向を追った。


雪の白と空の白の境目に、小さな灰色の煙が細く立ち上っている。


「まだ薪が尽きていない証ですわね。

 朝と夕方に煙が上がっている家は、まだ余裕があるほうですの」


「……そういう見分け方を、君はいつの間に覚えた?」


「いつの間に、と申しますか――寒さが教えてくれましたのよ」


リリアは軽く微笑む。

その笑みはどこか自嘲を含みつつも、柔らかい。王宮で作っていた、完璧な曲線の微笑みとは違う。


「王都では、暖炉に火を入れるのが“儀式”のように扱われておりましたでしょう?

 舞踏会の前には、必ず暖炉の前で立ち姿を整えて……」


「ああ。あの、冬でも煌々と熱をもてあましている大広間の暖炉か」


王子の声に、かすかに苦味が混じる。

彼にとっても、それは「温もり」より「見せ物」の印象が強かったのかもしれない。


「こちらでは、火はもっと“数えるもの”になりましたわ。

 一本、あと一本、と」


「……数えるもの、か」


短いやりとりのあと、また静寂が落ちる。

会話が途切れるたび、二人とも無意識に何か話題を探そうとしてしまう。その「話さなければならない」という焦りが、むしろ空気を硬くしていた。


車輪が大きな石を乗り越え、ぐらりと揺れる。

リリアはさっと片手で座席をつかみ、もう片方の手で膝の上のスカートを押さえた。


「失礼。やはり道が……」


「本当に大丈夫ですわ。

 ここへ来る途中で、一度、車輪が泥にはまりかけたこともございましたもの」


「泥に?」


王子の目が見開かれる。

王都の馬車が泥にはまる光景など、彼の記憶にはほとんど存在しない。


リリアは、おかしそうに肩をすくめた。


「ええ。御者さんと護衛の方が一緒に押してくださって。

 そのとき、わたくしも裾をたくし上げて……」


そこまで言いかけて、リリアは自分で苦笑する。

「公爵令嬢が裾をたくし上げて馬車を押す」などという光景は、王都の誰も想像しなかっただろう。


「さすがに、殿下の前で同じことをする機会はないほうが平和ですわね」


「……いや、見てみたいような、見るべきではないような……」


王子の言葉に、二人の間に、ほんのわずかな笑いが生まれる。

けれどそれもすぐに静まり、再び車輪の音だけが残った。


沈黙。


さっきまでなら、その沈黙は「何か喋らねば」と背中をつつく種類のものだった。

だが今は、冬の景色を間に挟んで、その重さが少しだけ変わっていた。


リリアは窓の外を見つめながら、ふと胸中で言葉を探す。


(殿下と向かい合っていると、

 昔の“完璧な令嬢”のわたくしが、どこからか顔を出しそうになりますわ)


(間を埋めるための言葉を用意して、沈黙を埋めて、

 気まずさを見えないようにするための微笑みを浮かべて――)


彼女は、唇にかけかけた「礼儀正しい話題」をそっと飲み込んだ。

代わりに、もう少しだけ素朴な事実だけを口にする。


「……この道、覚えておりますわ。

 最初にこの街へ来たときも、同じ丘を越えてきましたの」


王子が首を傾げる。


「君は、あの日の道のことまで覚えているのか」


「ええ。あのときは、雪がもっと深くて……

 馬車の中で、わたくし一人、ずっと黙っておりましたから。

 景色を眺めるしか、することがなかったのです」


「そうか」


王子の視線が、少しだけ柔らかくなる。

その沈黙は、先ほどとは違う種類のものだった。

「言葉を繕わないでいてもいい」と、どちらともなく了解し始めたような、そんな静けさ。


車輪のきしむ音と、馬のいななきが遠くで混じる。


王子は背もたれに軽く身を預け、窓の外に視線をやる。


「……無理に会話を繋がなくてもいいのだぞ」


不意の一言に、リリアは瞬きをした。


「殿下?」


「いや――」


王子は少し照れくさそうに口元をゆがめる。


「君と話すことが嫌だという意味ではない。

 ただ、わたしも昔は、君の前でいつも、“何か言わねば”と焦っていた気がしてな」


「まあ。殿下も、ですの?」


「当然だろう。

 完璧な公爵令嬢の隣で、間抜けな沈黙を作るわけにはいかない、と……

 そう思っていた」


リリアは思わず吹き出し、片手で口元を押さえた。


「それは、こちらの台詞でもありましたのに。

 ――わたくしも、“殿下に気に入られる令嬢”として、沈黙を恐れておりましたわ」


顔を見合わせ、二人は同時に苦笑する。

その笑いは、ほんの少しだけ、過去の自分たちを解きほぐすような温度を帯びていた。


「今は」


リリアは窓の外に視線を戻しながら、静かに続ける。


「今は、沈黙のあいだに、

 この街の冬を数えることができますもの。

 どの家から煙が上がっているか、どの畑が雪に飲まれているか――」


「わたしも、その数え方を、少しずつ覚えよう」


王子の声が、車内の空気にゆっくりと溶ける。


「君の沈黙が、気まずさではなく、

 誰かの冬を思っている時間なら――

 わたしも、それに合わせて黙っていればいい」


リリアは、驚いたように目を瞬いたあと、ふっと微笑んだ。


「ならば、殿下。

 どうぞご自由に、お黙りになっていてくださいませ」


「命令のように聞こえるな」


「殿下の“物語の役割”ではなく、

 一人の人としての殿下に、お願いしているつもりですわ」


「……それなら、従うとしよう」


そう言って、王子は軽く目を閉じる。

リリアも同じように、窓の外へ視線を投げる。


馬車の中に、再び沈黙が満ちる。

だが今度の沈黙には、先ほどまでのようなひりついた居心地の悪さはない。


外では冷たい風が、雪面を撫でていた。

馬車の中では、二人分の息遣いと、車輪のリズムが、ゆるやかに重なっていく。


「必要以上に、話さなくていい時間」

その感覚を、二人はようやく、同じ空間で共有し始めていた。


馬車が街道を進むにつれ、窓の外の景色はゆっくりと表情を変えていった。


雪に埋もれかけた畑。

痩せた木々の列。

ところどころにぽつりと点在する、低い屋根の家。


その一つひとつを、リリアは静かに目で追っていた。


気づけば、彼女の右手の指先が、膝の上で小さく折り曲げられてゆく。

一本、二本――と、見えない何かを数えているように。


「……何を数えている?」


不意に王子が問いかけた。

声は小さく、沈黙を壊さないよう、そっと置かれたような響きだった。


リリアは一瞬、はっとして自分の手元を見下ろす。

それから、少し照れくさそうに微笑む。


「煙突ですわ」


「煙突?」


「ええ」


リリアは窓の外を指さした。

白い息が、ガラスに薄い曇りを残す。


「この辺りの家は、薪が足りなくなりますと、

 暖炉に火を入れる時間を、少しずつ削っていきますの。

 朝と夜だけにしたり、子どもが寝てから火を落としたり」


王子も身を乗り出し、同じ方向へ目を向ける。


「昼間にも煙が上がっている家がどれくらいあるかで、

 だいたいの“余裕”が見えるようになりましたわ」


ゆっくりと、吐息のような言葉だった。


王子は窓ガラスに手を添え、細く立ち上る灰色の線を数え始める。

二、三軒並んだ屋根のうち、煙を上げているのは半分ほど。


「なるほど……王都の地図には載らない情報だな」


その呟きに、リリアは小さく笑う。


「王都の地図には、王宮と貴族の屋敷は立派に記されておりますものね。

 でも、ああいった小さな家々は、余白の白でまとめられてしまう」


彼女はまた一本、指を折る。


「余白に見えるところにも、

 ちゃんと、冬をしのいでいる人の数だけ煙が立つのですわ」


馬車はゆるやかにカーブを描き、丘を回り込む。

視界が開け、小さな集落が見えた。


リリアが、前方の斜面にある小さな屋根を指さす。


「ほら、あの小さな屋根」


「どれだ?」


王子が目を凝らすと、白い斜面の中ほどに、ぽつりと一軒だけ、低い屋根が見える。

その家の煙突からは、ごく薄く、けれど途切れずに煙が上がっていた。


「あれか」


「はい。煙は薄いですが、それでも途切れておりませんでしょう?」


リリアの声が、わずかに柔らかくなる。


「――あそこには、小さな子がいますの」


「小さな子?」


「以前、この孤児院に身を寄せていた子の弟ですわ。

 おば夫婦に引き取られましたけれど、冬になると、

 ときどき“薪が心細い”と聞こえてまいりますの」


王子は、屋根から立ちのぼる細い煙を、じっと見つめる。

白い世界の中で、かろうじて消えずにいる一筋の灰色。


(この一本の煙の向こうに――

 リリアの知っている顔が、一つあるのか)


彼の胸中に、ぼんやりとした数字の塊だった「辺境の支援対象」が、

不意に、一人の子どもの「息」のイメージを帯びて浮かび上がる。


(リリアの口から語られる“冬”は、

 報告書の数字ではなく、一つひとつの家の息遣いなのだ)


馬車の揺れと、車輪の音だけが、しばし二人のあいだを満たす。


リリアは、窓辺で組んだ手を軽くほどいた。

指先の数え癖が抜けず、また無意識に折れ曲がりそうになるのを、そっと抑える。


(“何軒”と数えるたび、

 その向こうに一人ひとりの顔を思い浮かべるようになってしまいましたから)


彼女は、窓の外に目を向けたまま、心の中で続ける。


(殿下が見ておられる“国”という景色に、

 わたくしが見ている“冬の煙”が、どこまで重なるのか――

 それを確かめる旅なのかもしれませんわね)


隣で、王子もまた、窓辺から視線を放さない。

先ほどまでの「会話を続けねば」という焦りは、少しだけ影を潜めていた。


「……君は、いつもこんなふうに景色を見ているのか」


唐突な問いかけに、リリアは目を瞬かせる。


「こんなふう、とは?」


「煙の有無で冬を量り、

 見えない誰かの顔を想像しながら、道を眺める、という意味で」


「あら。殿下も、いつもそんなふうに王都をご覧になっているのではなくて?」


王子は苦笑した。


「残念ながら、わたしの目はまだそこまで届いてはいないようだ。

 ……宮廷に届く報告書の数字を、

 “それなりに妥当なもの”として眺めているのが精一杯だった」


「でしたら」


リリアは、少しだけ身体を前に傾け、窓の外を指でなぞるように示す。


「今日のところは、殿下の“目”を、わたくしと半分ずつ分け合うということで

 いかがかしら」


「半分ずつ?」


「殿下の見ておられる“制度の目”と、

 わたくしの見ている“冬の煙の目”と。

 どちらか片方ではなく、同じ窓から重ねてみるという意味ですわ」


王子はしばし考え、それから小さく頷いた。


「――悪くない提案だ」


それきり、二人は再び口を閉ざす。

しかし、沈黙はもう、さっきまでのように居心地の悪い空白ではなかった。


リリアは、窓の外の屋根と煙を追い、

王子もまた、その視線の先を辿る。


言葉は少ない。

だが、その少なさが、むしろ二人の視界を近づけていく。


(こうして、同じ窓から同じ景色を見ているだけで――)


リリアは胸の内でそっと思う。


(言葉を尽くさなくても、

 少しだけ伝わるものがある気がしますわ)


王子もまた、どこか似た感覚を抱いていた。


(沈黙のあいだに、

 君が数えているものを、わたしも一緒に数えてみるだけで――

 “国”という輪郭が、少し違って見える)


馬車はなおも、冬の道を進んでいく。

ひたすら白いだけだった雪景色が、

二人のあいだでは、少しずつ「煙のある家」と「煙のない家」という違いを帯び始めていた。


会話よりも先に、

「共有される視界」のほうが、静かに二人を近づけていく。


そのことに、彼ら自身がはっきりと気づくのは、もう少し先のことだった。



ChatGPT:


馬車が、ひときわ大きくきしんだ。


冬の道は、雪解けと凍結がまだら模様に続いている。

滑らかなはずの轍に、ところどころ、固く凍りついた塊と、ぐずぐずにぬかるんだ穴が混じる。


車輪がそのひとつを踏みしめた瞬間――


 がくん、と。


座面が斜めに傾き、車体が大きく揺れた。


積んであった書類箱が、どさりと横に滑る。

リリアは思わず身体を支えようとしたが、想定以上の揺れに足元を取られ、バランスを崩した。


「きゃっ――」


視界がわずかに傾きかけた、そのとき。


ぐい、と、腕をつかまれる。


反射の早い手だった。

王子が身を乗り出すようにして、リリアの片腕をしっかり支えていた。


ほんの一瞬、馬車の内側が、自分の鼓動の音で満たされる。


揺れがおさまり、車体が再び水平を取り戻したころには――

二人の距離は、それまでより、ひと呼吸ぶんだけ近くなっていた。


王子の外套の布地が、かすかにリリアの膝に触れている。

冷えた空気の中で、その手の温度だけが、妙にくっきりと意識に残った。


「……!」


リリアが息を呑んだのと、王子がはっと我に返ったのは、ほとんど同時だった。


王子はすぐに手を放し、背筋を正す。

けれど、その瞳にはまだ、さきほどまでの揺れを確かめるような、わずかな緊張が残っていた。


「すまない。怪我は?」


「い、いえ……」


リリアは、少し遅れて返事をする。

握られていた腕のあたりが、薄く熱を持っている気がして、そこを見ないようにしながら、ぎこちなく微笑んだ。


「ありがとうございます。

 少々、油断しておりましたわ」


王子は、彼女の顔色を確かめるように一度だけ視線を滑らせ、それからふっと息を吐いた。


「君のほうが、こうした揺れには慣れているものと思っていたが」


冗談めかした声音だったが、その実、安堵が混じっている。


リリアは、かすかに肩をすくめる。


「慣れてはおりますけれど――」


ほんの一拍置いて、口元に笑みを浮かべた。


「殿下の前で転がるわけにはまいりませんもの」


その言い回しに、王子が思わず目を瞬き、次の瞬間には小さく吹き出した。


「それは……たしかに困るな」


二人の間に、さっきまでの「揺れの余韻」と、「触れてしまったことの照れ」とが、薄く漂う。


けれど、それは不快さを含むものではなかった。

むしろ、互いが互いを「支え得る存在」として、少しだけ確かめ合った後に訪れる、静かな間のような。


馬車は、なおも悪路を進んでいく。


車輪のきしむ音と、ときおり小さく跳ねる感触。

それに合わせて、二人の身体もわずかに揺れるけれど――

さきほどよりも、その揺れは恐ろしくなかった。


リリアは、膝の上でそっと指を握りしめる。


(殿下の手に、頼ってしまいましたわね)


自嘲にも似た思いがよぎるが、不思議と、それを恥ずかしいとは感じなかった。


(“誰かに支えられる”ことを、

 “弱さ”だと決めつけるのは――もう、やめたいのですもの)


窓の外を見やると、白い地面が遠ざかり、別の丘の稜線が近づいてくる。

その変化を追う視線の隅で、向かいの席に座る王子もまた、同じ景色を確かめているのが見えた。


言葉は、さっきより減っている。

けれど、沈黙が「何か話さなければ」という義務ではなく、


――大きく揺れたときには、手を伸ばせる相手が、ここにいる。


そんな、ごくささやかな安心と一緒に、馬車の中に落ち着いていく。


揺れる座面の上で、二人はそれぞれの姿勢を整えなおし、再び窓の外へと視線を向けた。


沈黙は続く。

だがその沈黙は、もう、さっきまでほど冷たくはなかった。


馬車の揺れが、いつの間にか穏やかな子守歌のようになっていた。


先ほどまできしんでいた車輪の音も、今は一定のリズムを刻んでいるだけだ。

窓の外には、冬の陽が傾きかけた淡い光。

雪を薄くかぶった畑が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


向かいの席で、リリアは背筋を伸ばして座っていた。

しばらくのあいだ、窓の外の景色を真面目な顔で眺めていたが――


(いけませんわね……)


まぶたの裏が、じわりと重くなる。


(昨夜、帳簿と殿下の資料を見比べていたせいで……

 少々、眠りが浅うございましたわ)


自分で自分を叱るように心の中でつぶやくが、睡魔は容赦なくやってくる。


こくり、と、頭がわずかに揺れた。


すぐにハッとして持ち直す。

だが、数拍も経たないうちに、また、こくり。


王子は、その様子を視界の端でとらえた。


最初は、真剣な横顔と窓の外の景色を交互に見ていたのに――

徐々に、その長いまつげが落ちかけていく。


(……)


思わず、口元に笑いがこみ上げる。


(“悪役令嬢”と囁かれていた彼女が――

 こんなふうに、気を抜いて居眠りしかけるとは)


かつて王宮で見ていたリリアは、常に姿勢を崩さなかった。

舞踏会でも、謁見の場でも、背筋はまっすぐで、表情は完璧に整えられていて――

隙というものを、ほとんど見たことがなかった。


その彼女が今、馬車の揺れに合わせて、少しずつ首をかしげていく。


やがて、窓の外を見ていたリリアの視線が、そのままふっと宙にほどけた。

まぶたが半分ほど閉じ、焦点があやふやになる。


次の揺れで、彼女の肩が、窓のほうへと寄った。


「……」


王子は、思わず身じろぎした。

支えに手を伸ばすべきか迷う――が、先ほど転びかけたときとは違い、今は危険なほどではない。


彼は、代わりに視線を少し横にずらした。


窓枠の上、折りたたまれた薄い毛布が一枚。

長距離移動のために備え付けられている簡素なものだ。


王子はそれを手に取り、できるだけ音を立てないように立ち上がる。

馬車が揺れるのに合わせて、バランスを取りながら、そっとリリアの前にしゃがみ込んだ。


「……失礼」


聞こえるか聞こえないかの囁き声で告げ、彼女の膝の上に、そっと毛布を掛ける。


リリアは、かすかに身じろぎしただけで、目を開けなかった。

頬に落ちた髪が、揺れに合わせて細く揺れる。


(起こさずに済んで、よかった)


王子は、ほっと胸の内で息をつき、元の席に戻る。


向かい合う位置から見ると、リリアの表情は、いつもの整えられた微笑みとも、孤児院で子どもたちと笑うときのそれとも、少し違っていた。


少しだけ口が弛み、眉間の皺もほどけている。

ただ「眠い」とだけ訴えている、年相応の横顔。


(こんな顔も、するのだな)


彼は、その事実だけを、静かに胸の中にしまった。


馬車の中には、車輪のリズムと、時折きしむ木枠の音だけが満ちている。

さっきまで「何か話さなければ」と探していた言葉は、今はどこにも浮かんでこない。


(この沈黙は、もう“逃げ場のない気まずさ”ではないのだな)


王子は、窓の外を見るのを一度やめて、改めてリリアのほうに視線を向けた。


毛布の端を、彼女の指が無意識に軽くつまんでいる。

冷えた指先が、布の上からでも分かる気がした。


(言葉を交わさずとも――

 同じ馬車に揺られている時間そのものを、

 心地よいと思えるようになったのだから)


窓から差し込む光が淡くなり、室内の明るさは半歩ぶん落ちていく。

それでも、薄闇はやさしく、まどろむ横顔を包んでいた。


リリアは、半分眠り、半分起きている境目で、ふと、心の中にかすかな言葉を浮かべる。


(……馬車の揺れが、こんなにも静かに感じられるのは)


意識の底で、誰にともなくつぶやく。


(初めてかもしれませんわ)


王都へ向かう道で揺られたときの、あの硬い揺れとは違う。

“どこへ連れて行かれるのか”分からない不安に、全身を固くしていた頃とも違う。


今、同じ揺れの中にいるのは――

自分の足で「行きます」と言って乗り込んだ馬車であり、

「共に見たい」と願ってくれた王子と並んで進む道だ。


眠りかけた意識のさらに奥で、胸の灯火が、小さくゆらりと揺れる。


王子は、その変化を知ることはない。

ただ、向かいの席から、静かな沈黙の中で、その横顔を見守るだけだ。


やがて、彼もまた、窓の外へ視線を戻した。


二人の間に言葉はない。

だが、沈黙は冷たくなく、空っぽでもない。


――同じ方向へ進む車輪の音と、

 同じ冬の景色をくぐり抜けていく時間だけが、

 そっと二人をつなぎ合わせていた。



馬車が、ゆっくりと速度を落とし始めた。


ごとん、ごとん、と一定だった揺れが、少しずつ小さくなる。

わずかな減速の気配に、リリアのまぶたがかすかに震えた。


「……」


薄く閉じていたまつげが、ゆっくりと持ち上がる。

ぼんやりとした視界の中に、木枠の天井と、淡い光が差し込む窓。

そして、向かいの席に座る王子の姿が、輪郭を取り戻していく。


「……失礼いたしました」


自分の膝に掛けられた毛布を認めた瞬間、リリアは小さく息を呑んだ。


「つい、居眠りを……」


寝起き特有のわずかなかすれを帯びた声で言いながら、彼女は毛布の端を指先でつまむ。


「これは……?」


王子は、さしたることでもないというように、ふっと視線を外の景色に流してから答えた。


「冷え込んできたからな」


窓の向こうには、淡い雪雲。

先ほどよりも陽は傾き、空気はじんわりと冷えている。


「風邪をひかれては困る。

 ――君には、まだ聞きたいことが山ほどある」


たった一文。

けれどその声音には、任務だけではない、静かな気遣いが滲んでいた。


リリアは一瞬、返す言葉を探してから、素直に頭を下げる。


「ありがとうございます、殿下」


毛布を丁寧に整えながら、ふと小さく笑みをこぼした。


「……不思議ですわね」


「何がだ?」


王子が首を少し傾ける。


リリアは、窓の外に流れていく冬景色へ一度だけ視線を向け、それから王子のほうを見た。


「殿下と同じ馬車に乗っているのに、

 以前のように、息苦しさを感じませんの」


その言葉には、責める色はない。

ただ、自分でも驚いていると告げるような、静かな響きだけがあった。


王子は、短く息を吐いてから、どこか照れ隠しのように口元を緩める。


「それは――」


少し考える間を置く。


「わたしが、“都合のいい王子”をやめつつあるからかもな」


リリアの目が、ぱちりと瞬いた。


「“都合のいい王子”……?」


「王家や周囲にとって、物語の中で動きやすい王子だ」


自嘲まじりの声音だったが、そこには昨日までになかった開き直りのような強さもある。


「笑顔も言葉も行動も、全部“こうあるべきだ”で塗り固められた役どころだとな。

 それを守っていれば、誰も表立っては責めない――そんな役だ」


リリアは、ほんの一瞬、遠い日の自分を思い浮かべる。

“こう笑うべき令嬢”“こう振る舞うべき王妃候補”――同じ型紙の上で踊らされていた日々。


それから、くすりと喉の奥で笑った。


「それでしたら――」


柔らかな瞳で王子を見つめながら続ける。


「わたくしも、“悪役令嬢”をやめつつあるから、ということにしておきましょうか」


王子がわずかに目を見開き、それから肩の力を抜いたように笑みを返す。


「そうか」


「ええ」


声を上げて笑うほどではない。

けれど、互いの口元に宿った小さな笑みは、どこか似ていた。


かつて王宮で交わしていた、形だけ整った微笑みとは違う。

誰かに見せるためではなく、自分たち自身のためにこぼれた笑顔。


馬車の揺れがさらに弱まり、停車の予感が近づく。


窓の外には、目的地である隣町の施設の屋根が小さく見え始めていた。

煙突からは、細い煙がまっすぐ立ち昇っている。


リリアは毛布をそっとたたみ、自分の隣の席に置いた。


「殿下」


「ん?」


「先ほどは――本当に、ありがとうございました」


今度の「ありがとう」は、毛布への礼だけではなかった。

眠りかけていた自分を、言葉で責めることなくそのまま受け入れ、

沈黙を埋めようともせず、ただ同じ時間を共有してくれたことへの感謝も、そこには含まれている。


王子は、そのニュアンスをきちんと受け止めたように、真面目な顔つきで小さく頷く。


「こちらこそ」


「こちらこそ……?」


「君が一緒に乗ってくれたからこそ、見えてきた景色がある」


窓の外に一瞬視線を移し、それから再び彼女の瞳をまっすぐに捉える。


「今日の道のりは、わたし一人では、ただの“視察ルート”で終わっていた」


リリアは、その言葉に少しだけ頬を染め、それでも目をそらさなかった。


「でしたら――」


「?」


「この先も、殿下が“都合のいい王子”をやめられる手助けを、

 できる範囲で務めさせていただきますわ」


冗談めかした口ぶり。

けれど、その奥には「共に歩む意志」が、たしかに灯っている。


王子は、苦笑混じりに眉を下げる。


「それは、なかなか骨の折れる役目だな」


「“役目”ではなく、“約束”にしておきましょうか」


リリアがそう返したところで、馬車が大きく一度揺れ、やがてゆるやかに止まった。


外から御者の声がする。


「殿下、到着いたしました!」


静かな沈黙と、ささやかな笑いを連れてきた馬車の時間は、そこでひとまず区切りを迎える。


だが、二人のあいだに生まれた距離は――

乗り込む前より、わずかでも近くなっている。


「行きましょうか、殿下」


リリアが毛布を整え、扉のほうへと体を向ける。


「――ああ」


王子も立ち上がり、扉が開かれるのを待ちながら、ふと横目で彼女を見る。


さっきまで眠りかけていた面影をわずかに残しつつ、

それでも凛として前を向く横顔。


“悪役令嬢”でも、“都合のいい王子”でもなく――

同じ冬の道を歩く、二人の人間として。


ささやかな「ありがとう」が、ため息のように溶けた馬車の中には、

もう、あの息苦しい沈黙はどこにも残っていなかった。


馬車が、もう一度だけ小さく揺れた。


ごと、ごと、と刻まれていた車輪のリズムが、わずかに変わる。

外の景色も、白いだけの野原から、人の気配を帯びた建物の並びへと移り変わりつつあった。


窓の向こうに、小さな屋根と、黒い点のような人影が見え始める。

目的地となる施設の近くに、馬車が差し掛かっているのだと分かる。


けれど、馬車の中では――

しばしのあいだ、誰も口を開かなかった。


向かい合って座るリリアと王子。

膝と膝のあいだに、小さなテーブルも、分厚い帳簿もない。

あるのは、ほどよい距離と、揺れに合わせて揺らぐ視線だけ。


リリアは、組んだ両手を膝の上に置いたまま、静かに息を整える。


(殿下と向かい合って座っているのに――)


馬車の揺れに合わせて、彼女の心の声も、ゆるやかに波打つ。


(何も話さなくても、胸が苦しくありません)


かつて王宮へ向かう馬車の中では、沈黙は常に「間違い」のように扱われた。

沈黙が訪れれば、すぐに誰かが“正しい話題”を探し、

王妃候補の令嬢として相応しい受け答えを演じなければならなかった。


けれど今、この狭い空間を満たしている沈黙は――

埋めるべき「空白」ではなく、ただ分け合う「余白」に近い。


(わたくしたちはもう、“役柄”の台詞で沈黙を埋める必要がないのですわね)


彼女はそう思いながら、そっと視線を上げる。


王子も同じように、窓の外に視線を向けていた。

雪をいただいた屋根、その間を歩く人々の姿を、目で追っている。


(君と同じ馬車に揺られながら――)


王子は、心の中でだけ言葉を紡ぐ。


(何も言わず、ただ同じ景色を眺めていられることが、

 これほど安らぐとは思わなかった)


“王子”という役に縛られていた頃の沈黙は、

常に「次に何と言うべきか」を探すための緊張を伴っていた。


だが今は、探さなくてもいい。

無理に気の利いた言葉を置かなくても、目の前の彼女は、窓の外を見ている。

その視線の高さも、向かう先も、ほとんど同じだ。


馬車が、さらに速度を落とす。

ゆっくりと、ゆっくりと――車輪の音が間隔を広げていく。


リリアは、ひとつ呼吸を深くしてから、そっと王子のほうを見る。

ちょうど同じタイミングで、王子も視線を戻した。


「――」


どちらも、言葉を探そうとはしなかった。

ただ、互いの存在を確かめるように、短く目を合わせる。


その短い視線の交差の中に、

「ここまで一緒に来た」という実感と、

「これから同じ場所へ向かう」という静かな覚悟が、確かに宿っている。


扉の向こうから、御者の声が小さく聞こえ始める。


「殿下、まもなく到着いたします!」


それでも、馬車が完全に止まるまでのわずかな時間、

二人は再び窓の外へと視線を戻した。


これから会う人々の暮らし。

これから聞くことになる声。

これから改めて見つめ直す、「冬」の現実。


そのすべてに向けて、自分たちがどんな言葉を選び、

どんな「約束」を紡いでいくのか――


まだ答えは出ていない。

けれど、その途上にある自分たちを、誰も「物語上の役柄」に閉じ込めてはいない。


車輪の音が、ふっと止む。


ほんの一瞬だけ訪れた、完全な静寂。

それを破ったのは、扉の外から響く、金具の外れる微かな音だった。


二人は同時に、息を吸う。

これから向き合う仕事と、人々と、冬の続きのために。


かつて「王子」と「悪役令嬢」として座っていた場所で――

いま、彼らは初めて、「同じ揺れと景色を分け合える相手」として並んでいる。


車輪の音が止むまでのあいだ、

二人のあいだには、言葉よりも穏やかな沈黙が流れていた。


王子と“元・悪役令嬢”という役柄を脱ぎ捨てた、その少し先で――

ただ同じ揺れと景色を分け合える相手として、

彼らは初めて、同じ馬車に座っていた。





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