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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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約束 ―― 「私も、誰かの幸せを紡ぎたい」

 冬の午後の光は、食堂の窓をくぐるまでに、すっかり白く薄まってしまうらしい。


 遅いおやつの時間が終わった食堂には、甘い匂いと、小さな靴音の名残だけが漂っていた。子どもたちは腹をさすりながら廊下へ駆け出していき、その背を追い立てるように、ミラが空になった皿を腕いっぱいに抱えて歩いていく。


「こぼしたパンくず、ちゃんと払っといてくださいよー。あとで拾うの、けっこう大変なんですから」


「はいはい。心得ておりますわ」


 リリアは苦笑しながら、布巾を手にとった。木のテーブルには、小さな手がちぎりながら食べた白いパンくずが、星の欠片みたいに散らばっている。


 その向かい側に、まだひとりだけ、椅子に腰掛けたままの少女がいた。


「……リナ? おやつはもうよろしいの?」


 呼びかけると、栗色の髪の少女は、空になった皿を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「ねえ、リリアねえちゃん」


「はい?」


「“幸せ”って、どんなののこと?」


 布巾を動かしていた手が、ふと止まる。


「まあ。どうして、いきなりそんなことを?」


 問い返すと、リナは少しだけ首をかしげ、さっきのことを思い出すように目を上へ向けた。


「さっき、院長先生が言ってたの。みんなでお祈りするときに……

 “みんなが幸せに過ごせますように”って」


「ああ……」


 礼拝堂での短い祈りの時間。あのときの院長の柔らかな声が、リリアの耳にもよみがえる。


 リナは、皿の上を指でなぞりながら続けた。


「でもね、よく分かんなくって。

 毎日パンが食べられることとか、雪の日も部屋の中があったかいこととか……そういうのかなって思ったけど」


「ええ。それは、とても大事なことですわね」


「でも、それって“ふつう”のことじゃないの?」


 まっすぐな瞳が、リリアを見上げる。


 その言葉に、リリアはほんの一瞬、息を呑んだ。


 ――“ふつう”。


 王宮にいたころは、それこそが自分の足元だと信じていた言葉。

 毎日食卓に並ぶ温かいスープも、季節ごとに取り替えられる厚手のカーテンも、当たり前の背景として存在していた。


 けれど、ここへ来てから知った。


 “ふつう”が、どれほど祈りに近い言葉であるかを。


(王宮で、“幸せ”はもっときらびやかなものだと教えられましたわ)


 リリアは、パンくずをそっと布巾で集めながら、心の中で静かに言葉を継ぐ。


(けれどここでの“幸せ”は、パンが焦げていないことや、

 薪が今日も何束か残っていること――

 そんな、目を凝らさないと見逃してしまうような形をしていますのね)


 テーブルの上は、もうほとんどきれいになっている。

 リリアは布巾をたたみ、リナの向かいの椅子に腰を下ろした。


「ねえ、リナ」


「ん?」


「“ふつうに続いてくれるといいな”って、

 心のどこかで願ってしまうものはね――」


 言いながら、自分自身の胸の内もそっと探る。


 この街で迎える冬の朝。子どもたちがちゃんと起き上がってくること。パンが足りていること。薪の山が、いきなり底をついていないこと。

 どれも、“続いてほしい”と願わずにはいられない。


「きっと少しだけ、“幸せ”に近いのだと思いますわ」


 リナはぱちぱちと瞬きをした。


「……“ふつうに続いてほしい”もの?」


「ええ。たとえば、今日みたいに、あたたかいおやつがあることとか。

 夜、布団の中で足の先が冷たくないこととか。

 明日もきっと、この食堂でみんなで笑っていられるだろう、と信じられることとか――」


 リリアは、そっと微笑んだ。


「それは、とても“ふつう”に見えるけれど。

 実は、とても素敵な“幸せ”ですのよ」


 リナは「ふうん……」と口を尖らせて考える。


「よく分かんない」


 そう言いつつも、その頬はどこか照れくさそうに緩んでいた。

 椅子の上でぶらぶら揺れていた足が、少しだけ弾む。


「でも、リリアねえちゃんがそう言うなら……

 パンがちゃんとあるのとか、あったかいのとか、けっこういいかも」


「ええ。とてもいいことですわ」


 リリアが頷くと、リナは小走りで椅子から降りた。


「じゃあ、“ふつうに続いてくれるといいな”って、考えとく!」


 そう言い残して、廊下へ駆けていく。

 その背中を見送りながら、リリアは小さく息を吐いた。


 ふと視線を感じて振り向くと、食器を重ねた盆を抱えたミラが、遠巻きにこちらを見ていた。


「……何かしら?」


「いえいえ、なんでも」


 ミラはにやりと笑って、盆を持ち上げてみせる。


「さっきの“幸せ論”、ちゃんと聞いてましたよ。

 相変わらず、そういう話させると、元・公爵令嬢って感じですねえ」


「まあ、人をすぐに“元”でくくらないでくださいませ」


 リリアは肩をすくめ、けれどその頬は、自分でも気づかないほど柔らかく緩んでいた。


 テーブルの上には、もうパンくず一つ残っていない。

 そのささやかな“ふつう”を見つめながら、リリアは胸のどこかで、まだ言葉にならない何かが、ゆっくりと形を取り始めるのを感じていた。



子どもたちの足音と笑い声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 食堂には、食べ終えた皿と、薄くなった冬の日差しだけが残った。ミラが大きな盆をどさりとテーブルの端に置き、腰に手を当てる。


「さて、と。戦場のあと片付け、開始ですね」


「戦場だなんて。みんな、ちゃんとお行儀よく食べていましたわ」


「はいはい、“元・公爵令嬢”の基準からすれば、ってやつですよね」


 ミラは茶化すように言いながら、皿を重ねていく。その口元には、からかい半分、本気半分の笑み。


 リリアは、先ほどリナと座っていた席の椅子を戻しながら、苦笑した。


「さっきの――“ふつうに続いてほしいものは幸せに近い”ってやつ」


 不意にミラが切り出す。


「なんか、いかにも元・公爵令嬢っぽい理屈こねてましたねえ」


「まあ。そんな言い方をなさらなくてもよろしくてよ?」


 手近な皿を受け取りながら、小さくため息をつく。

 しかしミラは、拭いていた皿の手を止め、くるりとこちらを振り向いた。


「でもね」


 先ほどより、少しだけ真面目な声になる。


「たぶん、この辺の子たちの“ふつう”って、リリアさんが思ってるより、ずっと“ぜいたくな夢”なんですよ」


「……“ぜいたくな夢”?」


 思わず聞き返すと、ミラは皿を布巾で拭きながら続けた。


「“今日もパンがある”“今日も凍えずに眠れる”――」


 ひとつ拭き終えるたびに、からん、と皿が盆の中で小さく鳴る。


「その“ふつう”を、あんた、最近けっこう頑張って守ってるじゃないですか」


 リリアは瞬きをした。


「わたくしが……?」


「そうですよ」


 あっさりと返ってくる。


「配給の数、帳簿つけて、足りないぶんをどこから融通してもらうか考えて。

 誰がどのくらい寒がりか覚えて、薪の割り振りも調整して」


 ミラは拭いていた皿を止め、リリアの横顔をちらりと見た。


「それ、“誰かの幸せを紡いでる”って言うんじゃないです?」


 紡いでる――。


 その言葉が、胸のどこかに、細い糸のように引っかかる。


(幸せを“手に入れたい”のではなく――

 誰かの幸せを“紡ぐ”……)


 王宮にいた頃、自分はいつも「自分がどれほど満たされているか」を測られていた。

 衣装の数、招かれる夜会の回数、笑いかけてくる人々の顔ぶれ――それらはすべて、自分がどれほど“幸せそうに見えるか”の物差しだった。


 けれど、ここでは違う。


 帳簿の数字を一つ書き換えるたび、渡せるパンの数が変わる。

 薪の束を一本減らすことを決めるたび、どこかの子どもの夜の寒さが変わる。


 誰かの一日が、ほんの少しだけでも楽になるようにと、細い糸を継いでいく作業――

 それを、ミラは今、「幸せを紡ぐ」と呼んだのだ。


 リリアは、ほんの少しだけ視線を伏せてから、わざと冗談めかして言った。


「わたくしにそんな大それたことができているのなら――」


 口元に、いたずらっぽい笑みをのせる。


「“悪役令嬢”のお役目は、とっくに務まらなくなっておりますわね」


 ミラは、ふっと吹き出した。


「だから前から言ってるじゃないですか、“悪役”は似合わないって」


 その言葉に、昨日の声が、胸の奥から静かによみがえる。


 ――君は、悪役なんかじゃなかった。


 王子の、少し掠れた声。


 ミラは、からかうように肩をすくめる。


「“今日もパンがあるように”って頭ひねってる人に、悪役やってもらうの、こっちとしても困りますしね」


「まあ……それは、光栄な“お断り”ですこと」


 リリアは苦笑しながらも、胸の奥でその言葉をそっと転がしてみる。


(わたくしは、本当に――

 誰かの“幸せ”を、紡げているのでしょうか)


 自問するような思いが、ふっと立ち上がる。

 けれど今はまだ、それに真っ直ぐ頷く勇気はない。


 だから、かわりに、いつもの調子で言葉を重ねる。


「とりあえずは、目の前の皿を片付けるところから、紡いでまいりましょうか」


「はいはい。“ふつうに続いてくれるといいな”ってやつ、まずは食器の山からですね」


 二人の笑い声が、白い午後の光の中に、ゆるやかに溶けていった。



その日の午後、孤児院の談話室には、いつもよりきちんとした空気が漂っていた。


 テーブルの上には、院長が大事にしている薄い茶器が並び、椅子も子どもたち用ではなく、大人用のしっかりしたものが揃えられている。

 窓の外では、冬の日がゆっくりと傾き始め、白い光が床板の上に細い帯を落としていた。


 扉がノックされ、ミラが顔をのぞかせる。


「殿下がお見えです」


 その一言に、院長がぴんと背筋を伸ばし、リリアも思わず膝の上で指を組んだ。

 昨日までよりは少しだけ深い呼吸をしてから、静かに頷く。


「お通しくださいませ」


 扉が開き、冬の冷気とともに、王子が姿を現した。

 今日は、前回よりも落ち着いた色の外套を羽織っている。装飾は控えめだが、仕立ての良さと所作の端々に、どうしても隠しきれない「王都」の気配が宿っていた。


「本日も、お時間をいただき、感謝する」


 王子は院長とリリアに一礼し、用意された椅子に腰かける。

 侍従は少し離れたところに控え、ミラは気配を消すように部屋の隅で待機していた。


 ひとしきり形式的な挨拶が済むと、王子は卓上の茶に視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。


「今日、こちらへ伺ったのは――昨日の続きとして、少し“公的な話”をさせていただきたいからだ」


 院長が、緊張を隠しきれない声で問い返す。


「公的な……と、申されますと?」


 王子は頷き、言葉を選ぶように続ける。


「王都では今、“孤児院や辺境支援の制度”について、改めて見直しが行われている」


「……制度の、見直し」


 リリアは、思わず姿勢を正した。

 王宮にいた頃、何度も耳にしてきた言葉――ただし、その多くは、机上で終わるものだった。


 王子は、苦い笑みを浮かべる。


「今までは、“慈善事業”という名目で、王都の評判を取り繕うための飾りになっていた部分も否めない。

 冬の支援も、報告書の上では立派に見えても、実際にどこまで届いているのか――正直、わたし自身、確信が持てなかった」


 院長が小さく肩を震わせる。

 それは、この冬まで、何度も感じてきた違和感と同じものだからだろう。


 王子は、そこでまっすぐリリアを見た。


「だが君は、この冬を通して、“飾りではない支援”が何かを、身をもって見ているはずだ」


 リリアの胸が、きゅ、と小さく鳴る。


(飾りではない支援――)


 帳簿の数字を睨みながら、どうにか一束でも薪を増やせないかと頭を抱えた夜。

 配給の列に並ぶ人々の顔色を見て、優先すべき家をこっそり院長と相談した朝。

 雪の降るなか、子どもたちの手を握って歩いた帰り道。


 それらが、王子の言う「飾りではない支援」の断片なのだとしたら。


 王子は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「もし願わくば――」


 言葉の端に、わずかな緊張が滲む。


「今後、王都とこの街をつなぐ役目の一端を、君の手で担ってもらえないだろうか」


 談話室の空気が、一瞬止まったように感じられた。


「わたくしの……手で?」


 リリアは思わず聞き返していた。

 王子は頷き、テーブルの端に積まれた帳簿に視線を落とす。


「君は数字も現場も見ている。

 王宮で鍛えられた判断力と、この街で得た実感を、両方持っている」


 王宮で鍛えられた判断力――

 それはかつて、「王妃候補として選ばれるため」に磨かれたものだったはずだ。


 けれど今、王子はそれを、「誰かの冬を支えるための力」として求めている。


「具体的には、制度の形を整えるうえで、現場の声を集めてほしい。

 配給の仕組みや、孤児院の運営に何が足りていないのか、“こちら側”の目で確かめてもらいたい」


 王子の言葉は、単なる慰問ではない重みを帯びていた。


「王都だけで決めてしまえば、また“都合のいい物語”の中で終わってしまう。

 だが、ここで冬を過ごしている君なら、机の上の数字と、凍える夜のあいだにある“本当の距離”を知っている」


 リリアは、自分の指先を見下ろした。


 赤くあれた手。

 王宮にいた頃には想像もしなかった、小さな傷。

 それが今、どこか誇らしいものに思えた。


「……わたくしに、“仕組み”を考えろとおっしゃるのですか?」


 慎重に問い返すと、王子は真っ直ぐに頷いた。


「そうだ。

 君の見てきた冬を、君の言葉で王都に届けてほしい。

 君の手で、“誰かの未来”につながる道を紡いでほしい」


 誰かの――未来。


 ミラの言葉が、頭の中で重なって響く。


 “誰かの幸せを紡いでるんじゃないです?”


 院長が、そっと口を開いた。


「リリアさん――」


 その声には、迷いよりも、期待の色が濃い。


「もし、あなたさえよろしければ。

 わたしは、リリアさんにその役目をお願いしたいと思います」


「院長先生……」


「わたしたちは、目の前の冬をやり過ごすのに精一杯で。

 その先の季節のことまで、なかなか考えが及びません」


 院長は、静かに微笑んだ。


「でも、あなたはきっと、“今の冬”と“これからの冬”の両方を見てくださる気がするのです。

 上の都合だけではなく、ここで暮らす人々の顔を知っている人として」


 リリアの胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく感覚があった。


(わたくしが――

 誰かの、未来を……)


 王宮では、未来とは「自分がどんな妻になるか」「どのような立場を与えられるか」だった。


 けれど今、目の前に差し出されている未来は違う。


 それは、自分だけのものではない。

 この街の子どもたちが、次の冬もパンを食べられる未来。

 この街の誰かが、「今日も凍えずに眠れた」と笑える未来。


 その一端を、「自分の手で」紡いでみないか――と、問われている。


 リリアは、そっとまぶたを伏せ、深く息を吸い込んだ。

 やがて顔を上げると、王子と院長を順に見やる。


「……すぐに、軽々しくお引き受けできることではありませんわ」


 言葉は慎重だが、その声は震えていない。


「けれど――」


 胸の奥で、礼拝堂の灯りの記憶が静かに揺れる。


(“選ばれるためのわたくし”ではなく、

 “自分で選んで歩くわたくし”でいたい)


 あの日、自分に誓った言葉。


「もし、わたくしの見てきた冬と、この街で触れてきた小さな幸せが、

 誰かの未来を紡ぐ糸の一本になれるのなら――」


 リリアは、ゆっくりと微笑んだ。


「その役目について、考えさせていただきたく存じます」


 王子の表情が、ほっと緩む。


「それで十分だ。

 今すぐ返事を迫るつもりはない。

 ただ――」


 彼は言葉を区切り、真摯な声で続けた。


「君が“考えてみよう”と思ってくれたことだけで、今日は来た甲斐があった」


 ミラは部屋の隅で、こっそりとガッツポーズを作る。


 リリアは、胸の内でそっとつぶやいた。


(わたくしも、いつか――

 誰かの幸せを、形として紡げる日が来るのでしょうか)


 それはまだ、確かな答えにはならない。

 けれど、「そう願ってみてもいいのかもしれない」と思えたこと自体が、彼女にとって、小さな一歩だった。


夜は、いつの間にか本格的な雪へと変わっていた。


 孤児院の小さな部屋。

 粗末なベッドと、小さな机と、冷たい窓ガラス。

 そのすべてを、外からの薄い月明かりと、手元のランプの灯りが、静かに浮かび上がらせている。


 リリアは、肩に毛布をかけたまま机に向かっていた。


 机の上には、見慣れた孤児院の帳簿と――その隣に、今日、王子が置いていった書類の束。

 王都の印が押された、少しだけ上等な紙。そこに細かい文字と数字が、容赦なく並んでいる。


 彼女は一枚を手に取り、目を通した。


「……“王国慈善支援・孤児院支援枠”……」


 声に出して読んでみても、その響きはどこか空々しい。

 「支給予定数」「対象地域一覧」「配分率」――どの言葉も、整いすぎていて、少しも雪や冷気の匂いがしない。


 指先で紙の端をなぞりながら、リリアは内心でつぶやく。


(この数字の一つひとつに、本来は顔と名前があるはずですのに)


 “配分対象:孤児院 ×軒”

 その記号の向こう側には、リナや、パンを大事そうに抱える子どもたちの姿がある。

 凍った指で薪を割る大人たちの姿も、本当は含まれているはずだ。


 リリアは手元の帳簿を開いた。

 そこには、インクがかすれた数字と、彼女自身の走り書きのメモが並んでいる。


 「薪:今週残り ○束」

 「来週分、他村から融通相談」

 「配給:一家あたり パン○個→○個に変更検討」


 王都のきれいな数字と、孤児院のかすれた数字。

 ページを行き来しながら、彼女はどこが噛み合っていないのかを探し始めた。


 「ここは……“支給済み”とありますのに、この街には届いておりませんわね」


 小さく独りごち、紙端にさらさらとメモを書く。


 ――現場未到達

 ――報告書上のみ?


 ふと、ペン先が止まる。


 ミラの声が、耳の奥でよみがえった。


 『“今日もパンがある”“今日も凍えずに眠れる”

  その“ふつう”を、あんた、最近けっこう頑張って守ってるじゃないですか』


 『あれ、“誰かの幸せを紡いでる”って言うんじゃないです?』


 “紡いでる”。


 リリアは、無意識のうちに胸に手を当てていた。


(わたくしが……誰かの、幸せを?)


 そんな大それたことをしているつもりはなかった。

 ただ、目の前の数字を揃え、足りない分をどうにか埋める方法を探していただけだ。


 けれど――


 窓の外で、風が雪を揺らす。

 白い粒がガラスに当たり、かすかな音を立てた。


 王子の声も、重なる。


 『だから――君には、物語の“悪役”として終わるのではなく、

  物語の外側で、生きていてほしい』


 『リリアという、一人の人間として』


 物語の外側。

 役割や脚本ではなく、「名前」として生きる場所。


 リリアは、ペンを握り直すと、そっと目を閉じた。


(“選ばれるためのわたくし”ではなく、

 “自分で選んで歩くわたくし”として、生きると決めましたわ)


 礼拝堂で灯した、小さな光。

 あのとき、自分で自分に結んだ約束。


(ならば――)


 彼女は目を開き、窓の外の雪を見つめる。

 冷たい世界の中で、孤児院の灯りだけが、ぽつりと暖かく滲んでいた。


(この冬をどう乗り切るかだけではなくて)


 机の上の帳簿へ視線を落とす。


(この冬の先――来年の冬、そのまた次の冬。

 そのたびに、少しでも“ふつうに続いてほしいもの”が増えるように)


 胸の奥で、言葉が形を取っていくのを、彼女ははっきりと感じた。


(わたくしも、誰かの幸せを――

 この冬だけではなく、その先の季節まで続く幸せを――

 少しずつでも、紡いでみたいのです)


 それは、誰かに与えられた役ではない。

 自分で選んだ、初めての「目標」のようなものだった。


 リリアは、静かに息を吸い込み、心の内で、もう一度はっきりと言う。


(“私も、誰かの幸せを紡ぎたい”――)


 そう宣言した瞬間、胸の奥で、小さな灯りがまた一つ、ぽっとともった気がした。


 冷え切った世界の真ん中で、ほんのりと暖かい火が増えていくような感覚。

 その温度を確かめるように、リリアはそっと胸元を押さえ、微笑んだ。


「……ではまず、この支給枠のずれから、正していただきませんとね」


 いつもの帳簿の端とは別に、白紙を一枚引き寄せる。


 ――現行制度と実際の配給との差異

 ――支援が届いていない地域の洗い出し

 ――孤児院の必要数(現場からの試算)


 ペン先が、迷いなく走り出す。


 王宮で学んだ文字と数字の扱い方。

 この街で知った、冷えた指先と足りない薪の重み。


 その両方を使って、「誰かの幸せを紡ぐための紙」を、今度は自分で書いていく。


 窓の外では、相変わらず雪が降り続いている。

 けれど、彼女の小さな部屋の中には、ランプの火と、胸の灯火が、静かに二つ並んで揺れていた。


冬の空は、今日も薄く曇っていた。


 けれど、昨日まで肌を刺すようだった風は、ほんの少しだけ和らいでいる。

 孤児院の玄関先、小さな中庭。

 雪かきされた地面の端に、まだ固く踏み固められた白い塊が残っていた。


 リリアはマントの前を押さえながら、その上にうっすらと残る雪の名残を眺める。

 遠くから、蹄の音が近づいてきた。


 門の向こうに、見慣れてきた馬車の姿が現れる。

 初めてこの街に来たときほど仰々しくはない。それでも、王都から来た者の証としての紋章は、冬空の下で控えめに輝いていた。


 やがて馬車が止まり、王子が姿を現す。


 今日は、昨日よりもさらに簡素な外套姿だった。

 肩口にはうっすらと雪が残り、遠路を歩き回った気配がある。

 それでも、背筋はまっすぐで、歩みは迷いがない。


「短い時間しか取れないのだが――顔を出さずにはいられなくてな」


 玄関先まで出てきていたリリアに、王子は少し苦笑を向ける。


「お忙しい中、ようこそお越しくださいました、殿……いいえ」


 言いかけて、リリアは一瞬だけ言葉を飲み込んだ。

 昨日、廊下で交わしたやり取りが頭をよぎる。


(いつか、名前で呼べる日が来たなら――)


 彼女は、ほんの少しだけ表情を和らげる。


「……お越しいただき、ありがとうございます」


 王子もまた、その小さな言い直しを察したように、目元を和らげた。


 中庭の片隅では、子どもたちが雪玉を丸めようとしていた。

 「転がらないよー」と嘆く声を、ミラが必死でなだめているのが見える。


 だが、玄関先に立つ二人の周囲だけは、不思議と静かだった。


「街を発つのは、もう少し先になる」


 王子が、真面目な声音で切り出す。


「だが、その前にどうしても、君に伝えておきたいことがある」


 リリアは姿勢を正し、まっすぐに彼を見る。


 王子の視線が、ふと孤児院の建物へと向かう。

 窓の内側には、子どもたちが描いた拙い絵が貼られている。

 雪だるま、パン、焚き火――そして、小さく“リリアねえちゃん”と書かれた紙片。


 彼はそれらを見やった後、静かに言葉を続けた。


「制度の見直しには、どうしても時間がかかる」

「王都の役人たちも、簡単には動かないだろう」


 それは、王子としての現実的な見通しでもあった。


 だが、その次の一文は、王子としてではなく、一人の人間としての宣言のようだった。


「それでも――きちんと進めることを、ここで約束しよう」


 リリアは、胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。


 政治の場では、約束は紙の上にいくつも書かれる。

 けれど、その多くは“都合次第”でいくらでも変わることを、彼女は王宮で知っている。


 今、目の前の王子が口にした約束は、紙には残らない。

 だが、その分だけ、彼自身の意志の重さが直に伝わってくる。


「冬の終わりに、もう一度ここへ来る」


 王子は、言葉を区切って続けた。


「そのときまでに――君の意見も含めた案を、必ず形にして持ってくる」


 “必ず”。


 軽々しく使われがちなその言葉を、彼は慎重に、選び取るように口にしていた。


 リリアは、そっと息を吸い込む。


 昨夜、自分の胸の内で結んだ言葉が、再びよみがえってくる。


(わたくしも、誰かの幸せを紡ぎたい――)


 彼女は、今度は受け身ではなく、自分の側から言葉を返した。


「でしたら、その日までに――」


 王子の視線が、彼女へと戻る。


「わたくしも、この街で見聞きしたことを、できる限り言葉にまとめておきます」


 王子の目が、わずかに見開かれる。


「この冬をここでどう過ごしてきたのか」

「どこに支援が届かず、どこに小さな工夫が生まれているのか」


 リリアは、ためらわずに続けた。


「“ここで生きる人たちの幸せ”が、ただの数字になってしまわないように」


 その一文には、王都の書類と、孤児院の帳簿の両方を見てきた者にしか持ち得ない重みがあった。


 冬の光が雲間からわずかに漏れ、二人の立つ場所を薄く照らす。


 王子は、短く息を吐いたあと、静かに頷いた。


「……ありがとう」


 言葉はそれだけだった。

 けれど、その声音には、政治的な礼ではなく、対等な協力者への感謝がにじんでいる。


 リリアもまた、小さく首を下げる。


「こちらこそ。わたくしに、その役目を任せてくださるのなら」


 次の言葉を口にする前に、ほんの一瞬だけ、彼女は空を仰いだ。

 白い息が、薄い冬空へと溶けていく。


「わたくしは、“元・王妃候補”としてではなく――」


 視線を王子へ戻し、まっすぐに言う。


「この街で冬を共にしている一人の“リリア”として、その約束を受け取りますわ」


 王子の表情が、わずかに緩む。


 そこには、かつて婚約者として隣に立っていたときの、形式ばった微笑みはもうない。

 代わりにあるのは、“同じ方向を見ようとしている者”同士の、ささやかな共感の色だった。


「では――冬の終わりに、また会おう」


 王子が右手を胸に当てて、簡素な礼をする。


「そのときには、君の紡ぎ始めたものを、ぜひ見せてほしい」


 リリアも、深くではなく、しかし丁寧に一礼を返した。


「ええ。その日までに、少しでも形にできるよう努めておきます」


 馬車のほうから、侍従が小さく合図を送ってくる。

 王子はそれに気づき、名残惜しそうに中庭を一望した。


 雪の塊で遊ぼうとする子どもたち。

 それを遠くから見守るミラと院長。

 そして、玄関先に立つ一人の“リリア”。


 この冬の景色を、彼は目に焼き付けるように見つめてから、もう一度だけリリアに向き直った。


「約束だ、リリア」


 今度は、誰の前でもない、“彼女一人”に向けられた声で。


 リリアの胸の中で、小さな灯火がふくらむ。


「……はい。約束ですわ」


 二人の言葉は、白い息となって冬の空に溶けていく。


 王子が馬車へ向かって歩き出す。

 鈍い光を反射する紋章が、角を曲がるまで、リリアはじっとその背を見送った。


 やがて馬車の姿が見えなくなると、彼女はそっと息を吐く。


(冬の終わりに、もう一度)


 そのとき、この街はどれほど変わっているだろう。

 配給の帳簿は、少しでも“余裕”という文字に近づいているだろうか。


 そして――


(そのときのわたくしは、どれほど“誰かの幸せを紡ぐわたくし”になれているのでしょう)


 胸元に手を当てると、そこには確かに、昨夜よりも少しだけ大きくなった灯りの感触があった。


「リリアねえちゃーん! 雪、丸くならない!」


 中庭のほうから、子どもの声が飛んでくる。


 リリアは振り返り、ふっと微笑んだ。


「まあ、大変。では、約束の“雪だるまの手伝い”を果たしに参りませんとね」


 彼女はマントの裾をつまみ、子どもたちのもとへ駆けていく。


 王子と交わした「冬の終わりの約束」と、子どもたちと交わした「今この瞬間の約束」。

 大小さまざまな約束が、一本の糸のように、静かにリリアの足元から未来へとのびていく。


 その糸を、彼女は自分の手で――誰かの幸せへと続くように、少しずつ、丁寧に紡ぎ始めていた。


 王子の馬車が、角を曲がって見えなくなった。


 窓ガラス越しにその背を見送っていた子どもたちは、名残惜しそうに外を眺めていたが――やがて誰かが先に我慢できなくなる。


「ねえ、リリアねえちゃん!」


 廊下に出たリリアのもとへ、ぱたぱたと小さな足音が押し寄せてくる。

 上着もちゃんと着ないまま飛び出してきた子どもたちが、口々に声を上げた。


「王子様、また来るの?」

「春になったら、ほんとに来る?」


 丸い目が、一斉に期待で輝く。

 そのまっすぐな光に、リリアは思わず微笑んだ。


「ええ。――“約束”なさいましたもの」


 子どもたちの間に、小さなどよめきが走る。


「やっぱり!」

「ほんとに言ってたもんね、“また来る”って!」


 はしゃぐ声が、冬の廊下に弾む。

 冷えた空気さえ、少しだけあたたかく感じられた。


 けれどリリアは、彼らの期待にただ便乗することはしなかった。


 彼女自身、王宮で「約束」という言葉がいくつも紙切れになっていくのを、何度も見てきたからだ。


 だからこそ――今ここで、別の形の“約束”を教えておきたい。


「けれどね、みなさん」


 リリアは、しゃがんで子どもたちと目の高さを揃えた。


「約束というのは――待っているあいだにも、自分のほうでできることをしておくものですのよ」


 子どもたちが、きょとんと目を瞬かせる。


「できること?」

「待ってるだけじゃだめなの?」


 リリアはくすりと笑い、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「“王子様が来るから”幸せになるんじゃなくて――」


 一拍、言葉を切る。


「“王子様が来ても来なくても、今日をちゃんと生きること”が、いちばんの“約束”ですわ」


 子どもたちは、いっせいに首をかしげた。


「……むずかしい」

「今日をちゃんとって、どうするの?」


 予想通りの反応に、リリアは柔らかく微笑む。


「では、もう少し分かりやすくしてみましょうか」


 彼女は立ち上がり、手近な窓辺へ歩み寄る。

 外には、灰色の空と、ところどころ溶けかけた雪。

 庭の隅には、今朝子どもたちが作ろうとして諦めた、いびつな雪玉が残っている。


「たとえば――今日の薪の数を一緒に数えて、冬の終わりまで足りるように工夫する」


 リリアは、ちらりと子どもたちを振り返った。


「それも、“自分の幸せを紡ぐ約束”の一つですわ」


「まき数えるのが、しあわせ?」


 小柄な少年が、眉を寄せる。


 リリアは頷いた。


「ええ。今日、薪がどれくらい残っているかを知っていれば――」


 指を折りながら続ける。


「使いすぎないように気をつけられますし、足りなくなりそうなら、早めに大人に相談できますわね?」


 少年は、ゆっくりと考えるように目線を落とし――やがて顔を上げた。


「そしたら、すごく寒い日でも、火をつけられる?」


「そうですわ」


「じゃあ、それって――」


「うん、なんか“しあわせの準備”って感じする!」


 横から別の子が割り込んできて、半ば強引に話をまとめた。

 その無邪気な一言に、リリアは思わず、声を立てて笑ってしまう。


「ええ、とても上手な言い方ですわ。“幸せの準備”」


 リリアは、子どもたち一人ひとりの顔を見回す。


「他にもありますわよ。たとえば――」


 指をさりげなく、食堂の方向へ向ける。


「おやつのとき、パンの粉をあまりこぼさないように気をつける」


「えーっ、そんなの?」


 女の子たちが不満そうな声を上げる。

 リリアはくすぐったそうに微笑んだ。


「粉が床にたくさん落ちてしまうと、掃除が大変になりますわね? そのぶん、誰かの手が余計に冷えてしまうかもしれません」


「たしかに……ミラねえちゃん、いつも“なんでこんなに落とすんですか!”って言ってる」


 どこからともなく聞こえてきた声に、廊下の端で耳を澄ましていたミラが「ちょっと! そこだけ真似しない!」と慌てて飛び出してくる。


 子どもたちの笑い声が、どっと弾けた。


 リリアは笑いがひと段落するのを待ってから、静かに続けた。


「こうして、みんなが少しずつ“できること”をしておけば――」


 その先の言葉を口にする前に、窓の外へ目をやる。


 雪の向こうにある、まだ見ぬ春を思うように。


「王子様がこの街に来られるころには、きっと今より少し、温かい場所になっていますわ」


「そしたら、王子様も“ここ、あったかいね”って言うかな?」


「言わせてみましょうか、“ここはいい街だ”って」


 子どもたちの表情が、一斉にぱっと明るくなる。


「じゃあ、ぼく、薪数えるの手伝う!」

「わたし、今日からパンの粉こぼさないようにする!」

「ぼく、靴並べる! 玄関つめたいから、早くはけるように!」


「わたし、ちいさい子に毛布ちゃんとかけてあげる!」


 それぞれが思いついた“小さな誓い”を、競うように口にしていく。

 大げさな夢ではない。

 けれど、一つひとつが確かに、誰かの冬を少しだけ楽にする約束だった。


 その様子を見ているうちに、リリアの胸の中にも、言葉にならない誓いが積み重なっていく。


(“王子様が約束を守るかどうか”だけに、幸せを預けてしまうのではなく――)


(“この子たちと一緒に、雪の向こうの春まで歩いていく”と、わたくしも約束したい)


 彼女は小さく息を吸い、子どもたちへ向き直った。


「それでは――」


 まるで、王宮で舞踏会の段取りを告げるときのように、けれど今はずっと柔らかい声で言う。


「“王子様がまた来られる日”までに、それぞれ一つずつ、“自分の幸せを紡ぐ約束”を続けてみませんこと?」


「つづけるって、毎日?」


「できる日だけで結構ですわ。ただ――」


 リリアは、自分の胸元をそっと押さえた。


「雪の向こうの春まで、“あきらめずに続ける”と、自分にだけは嘘をつかないように」


 子どもたちが、顔を見合わせる。

 やがて、一人の少女が、勢いよく手を上げた。


「じゃあ、“雪の向こうの春までの約束”って名前にしよう!」


「なにそれ、かっこいい!」


 子どもたちは、その言葉が気に入ったらしい。

 口々に「雪の向こうの春まで!」「オレの薪!」「わたしのパン!」と、よく分からない掛け声を作り始める。


 ミラが半ば呆れ顔で頭を抱える横で、リリアはそっと目を細めた。


(そうですわね――)


(わたくしたちの約束は、きっとそのくらいがちょうどよろしいのかもしれません)


 王子と交わした、制度や未来をめぐる大きな約束。

 子どもたちと交わした、「雪の向こうの春まで」の小さな約束。


 どちらも同じ一本の糸の、両端のようなものだと、リリアは思う。


 彼女は、窓の外、白く曇った空を見上げた。


 雪はまだ止む気配を見せない。

 けれど、その向こうには必ず春がある――そう信じてみたいと思える程度には、胸の灯火が温かい。


(雪の向こうの春まで――)


(わたくしもまた、ここで誰かの幸せを紡ぎ続けると、約束いたしますわ)


 そう心の中でそっと誓いながら、リリアは子どもたちと一緒に、薪の数を数えに廊下の奥へと歩き出した。

 小さな足音と笑い声が、白い冬の空気の中に、確かなぬくもりを刻んでいく。



 その夜、街は静かに雪に包まれていた。


 孤児院の小さな窓の外、白く煙るような闇の中で、街灯だけがぼんやりと橙色の輪をつくっている。

 昼間には子どもたちの声が響いていた中庭も、今は雪に薄く覆われ、王子の馬車が通った跡も、ほとんど見分けがつかなくなっていた。


 リリアは、窓辺に椅子を寄せて腰掛けると、しばらくその景色を眺めていた。


(……すっかり、足跡も消えてしまいましたのね)


 つい数時間前まで、ここに馬車の車輪の跡と、護衛たちの足音が残っていたはずなのに。

 冬の雪は、面倒で厄介で、それでいて、過ぎていくものをあっさり覆い隠してしまう。


 彼女は小さく息を吐き、視線を机へと戻した。


 古くなった木の机の上には、いつもの帳簿が一冊。

 その横には、王子が置いていった王都の支援制度に関する資料が、丁寧に束ねられている。

 そして――その隣に、今日、新しく開いたばかりのノートが一冊。


 ノートの一ページ目には、リリアの整った筆跡で、こう記されていた。


『冬期支援記録と提案書(草案)』


 その下に、少し小さな文字で、もう一行。


『――誰かの幸せを紡ぐための覚え書き』


 リリアはペン先でそっとその一行を指し示し、それからためらうように指先でなぞった。


「……少し、気取ってしまいましたかしら」


 思わず、ひとりでくすりと笑う。


 かつて王宮では、もっと堅苦しく、飾り立てた言葉ばかりを書いてきた。

 「王家の威光」「公爵家の責務」「民の安寧のため」――どれも正しいはずなのに、自分自身の体温がどこにも宿っていない文言。


 けれど、今、目の前にあるこのノートの一行だけは、間違いなく“自分のための言葉”だと感じられた。


(わたくしはもう、“悪役令嬢の末路”としてここにいるのではありませんわ)


 胸の内で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


(王宮で学んだことも、この街で覚えた寒さも――

 誰かの幸せを紡ぐために使えるのなら、

 ようやく、“生きてきた意味”を自分で選べますもの)


 かつては、「選ばれるため」の努力ばかりを重ねてきた。

 王妃候補としてふさわしい礼儀、知識、微笑み方。

 それらはすべて、「どの役を与えられるか」によって価値が決まるものだった。


 けれど今、彼女は役を待ってはいない。

 自分の手で、細い糸を一本ずつ紡いでいる。


(約束とは、きっと――)


 彼女はノートから顔を上げ、窓の外の冬空を見上げた。


(まだ形のない未来へ、細い糸をかけること)


 王子が言った、「冬の終わりに、もう一度ここへ来る」という約束。

 子どもたちと交わした、「雪の向こうの春まで、自分の幸せを紡ぐ約束」。


 そのどれもが、まだ結果の見えない“未完成な未来”へ向けて伸ばされた糸だ。


(殿下が交わした約束も、わたくしが子どもたちと交わした約束も――

 その糸を、誰か任せではなく、自分の手でも支えていたい)


 机の上に置いていたペンを取り上げる。

 新しいページを開き、日付を書き添えたあと、ゆっくりと行を下ろしていく。


『本日の記録:

 殿下と、冬の終わりに再訪の約束を交わす。

 わたくし自身も――“誰かの幸せを紡ぐ者でありたい”と、

 心に誓う。』


 最後の「誓う」の一文字を書き終えたとき、リリアはそっとペンを置いた。


 胸に手を当てる。


 礼拝堂で灯し直した、小さな灯火――あの日から、自分の内側に確かに灯っていたものが、今日さらにひとつ、強くなった気がした。


(“悪役令嬢”でいる方が、楽だった頃もありましたわね)


 王宮で、誰かにとって都合のよい“冷たい公爵令嬢”を演じていれば、

 切り捨てられたときも、「物語の悪役なのだから」と、自分で自分を簡単に片付けられた。


 けれど今は、その安易な言い訳を、王子にもミラにも、そして自分自身にも許されなくなった。


(“君は悪役なんかじゃなかった”――)


 王子の言葉が、胸の奥でやわらかく反響する。


(ならばわたくしは、この街で、別の物語を紡がなくてはなりませんわ)


 王妃でも、悪役令嬢でもない。

 「リリア」という一人の人間として、冬を越え、春を迎える物語を。


 窓の外に視線を移すと、雪は相変わらず静かに降り続いていた。

 白く覆われた街路の先に、春の気配はまだどこにも見えない。


 けれど――机の上では、確かに何かが始まりつつある。


 開いたノートの上で、いくつもの約束が、細い糸のように未来へと延びていく。

 王都とこの街をつなぐ糸。

 孤児院の子どもたちの今日と明日をつなぐ糸。

 そして、“悪役令嬢”だった自分の過去と、“リリア”として歩くこれからをつなぐ糸。


(“私も、誰かの幸せを紡ぎたい”――)


 その一文を、心の中で、あらためてはっきりと結び直す。


 それは、誰に聞かせるためでもない。

 ただ、自分自身に向けて告げる、小さな誓い。


 ランプの灯を少し絞り、寝床へ向かう前に、もう一度だけノートを振り返る。


 そこに並んだ文字は、まだ拙く、形になりきらない草案ばかりだ。

 それでも、たしかに“誰かの幸せ”を思って書かれた、最初の一歩。


 リリアはそっと明かりを落とした。


 窓の外では、静かに雪が降っている。

 白く覆われた街路の先に、まだ見ぬ春の気配はない。


 けれど、閉じかけたノートの間からは、細い糸のような文字たちが、ひそやかに未来へ手を伸ばしている。


 ――「私も、誰かの幸せを紡ぎたい」。


 その小さな願いを胸の真ん中に結びなおしながら、

 リリアはまた明日の冬を迎える準備のために、そっと目を閉じた。





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