対話 ―― 「君は悪役なんかじゃなかった」
冬の昼下がりの陽射しは、ここでは贅沢品だ。
薄く曇った窓ガラスを通して、それでも昨日より幾分か柔らかい光が、孤児院の廊下に斜めの帯を落としていた。
「――殿下がお見えです」
院長の声に、談話室の隅で帳簿をまとめていたリリアは、そっと顔を上げた。
外からは、小さくざわめく声が聞こえてくる。
子どもたちの囁きは、昨日よりいくらか落ち着いている。
「ねえ、また王子様だよ」「本物だったんだ……」「服、昨日とちょっと違う?」
くすくすと笑う子どもたちの気配に、リリアはふっと口元だけで笑みを作る。
帳簿の端に差し込んでいたしおり代わりの紙片を挟み直し、立ち上がった。
窓辺へ二歩ほど歩き、指先でカーテンを少しだけ押し上げる。
中庭越しに見える玄関先には、王子の姿があった。
昨日よりやや簡素な外套に、雪と泥で汚れないよう、裾を少しだけ押さえて立っている。その後ろには、最小限といって差し支えない数の随員。
護衛の数も、昨日よりいくぶん少ない。
剣は腰にある。けれど、その佇まいは、あの華やかな王宮のそれではなく――寒い街へ、少し不器用に馴染もうとしている人間のものに見えた。
胸の奥が、わずかにきゅっと縮む。
(逃げないと決めたのは昨日だけではなく――)
ガラス越しに映る自分の顔を、横目に見る。
頬は相変わらず冬の冷たさで薄く赤く、指先にはひび割れ止めの軟膏の跡が残っている。
(今日も、あらためて選び直す必要があるのですわね)
昨日、「逃げないほうを選ぶ」と口にしたのは、一度きりの勇気ではなかった。
今日も、明日も――会うたびごとに、自分自身で同じ選択を重ねてゆかなければならない。
「リリアさん」
振り返ると、廊下の入口に院長が立っていた。
普段より少しきっちりとした服装だが、目元の下には変わらず小さな皺が寄っている。
「昨日の続きを、と殿下が。談話室でお待ちです」
「……承知いたしましたわ」
リリアは窓から手を離し、深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、ゆっくりと吐き出される。
テーブルの上には、整理しかけの帳簿や報告書、粗末な紙に書き散らされたメモがそのままに残されている。
誰がどの部屋で寝ているか。
今週の薪の量。
次の配給の日程。
子どもたちの着替えの枚数……。
昨日、王子が来たときには、反射的にそれらをまとめて棚に隠してしまった。
王子の前で“孤児院の帳簿など”を見せていいのかどうか、判断がつかなかったからだ。
だが今日は――リリアはテーブルに視線を落とし、そのままにしておくことにした。
(これが、今のわたくしの“生活の跡”ですもの)
王宮で磨き上げた教養も、舞踏会で身につけた立ち居振る舞いも、今も自分の一部だ。
けれど、この街の冬に触れている自分も、また紛れもない「リリア」なのだと、あの礼拝堂で誓ったのだ。
廊下に出ると、角から子どもが一人、ひょこっと顔を出した。
「あ、リリアねえちゃん。王子様、また来たよ」
「ええ。存じておりますわ」
リリアが笑いかけると、子どもは少し緊張したように、けれどどこか誇らしげに胸を張った。
「昨日より、みんな静かにしてるから。邪魔しないようにって、ミラねえちゃんが言ってた」
「まあ。それは頼もしい心がけですこと」
頭を撫でてやり、リリアは談話室の扉の前に立つ。
扉越しに、人の気配がする。
低く何かを話す侍従の声、それに短く返す王子の声。
昨日よりも、わずかに砕けた響きが混じっている気がした。
胸にそっと手を当て、もう一度だけ息を整える。
昨日の自分に続いて、今日の自分もまた、ここで「逃げないほう」を選ぶのだ。
ノックを二度。
中から、「どうぞ」と院長の声が返る。
リリアはゆっくりと扉を開いた。
昨日と同じ談話室――けれど、昨日と違うのは、テーブルの上の光景だ。
帳簿と紙束が、いくつかの山になって積まれ、その端に使いかけのペンとインク壺。
子どもの丸い字で「りりあねえちゃんへ」と書かれた小さな紙切れまで、隅のほうに紛れ込んでいる。
その向こう側で椅子に腰かけていた王子が、顔を上げた。
厚手の外套は脱がれているが、肩に掛けたマントには、街の雪が少しだけ残っている。
その衣装は、王子としての威厳を保ちながらも、昨日よりどこか、こちらの寒さに寄り添おうとしているように見えた。
彼の視線が、一瞬テーブルの紙束に流れ、それからリリアの顔に戻る。
リリアは、その視線を逃がさず、静かに頭を下げた。
「お待たせいたしました、殿下。
昨日は途中で失礼いたしましたので……本日は、その続きのお話を」
王子の口元に、微かな笑みが灯る。
「こちらこそ。
……昨日だけで終わらせるには、話し足りないことばかりだからな」
リリアは歩み寄り、自分の席――帳簿の山の手前の椅子に腰を下ろす。
王子との間には、王宮時代のような完璧なテーブルマナーではなく、冬の街の現実が広がっている。
隠さなかった紙の山が、かすかにかさりと鳴った。
(これが今のわたくしですわ、殿下)
心の中でそっと呟きながら、リリアは真正面から王子を見た。
昨日の続きに、今日の自分の言葉を重ねていくために。
向かい合った椅子に座りながら、しばしの沈黙が部屋の中に降りていた。
窓の外からは、遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声が、雪に吸い込まれながらかすかに届いてくる。
卓上の帳簿の端を、リリアはそっと指先で揃えた。インクの染みがひとつ、ふたつ。
そんな何でもない作業のひとつひとつが、妙に大げさに感じられてしまうほどの静けさだった。
先にそれを破ったのは、王子のほうだった。
「昨日は……言いそびれたことがある」
不意に落とされた声は、低くはあったが、どこか慎重に研がれている。
リリアが小さく首を傾げると、王子は視線をわずかに彷徨わせ、苦いものを噛みしめるように笑った。
「王都では、おまえのことを――」
一拍置き、言葉を選ぶ気配のあとで。
「“冷たい公爵令嬢”だとか、“物語の悪役のようだ”と、囁く声があった」
談話室の空気が、わずかに揺れた気がした。
王子はそのまま続ける。
「傲慢で、感情を見せず、自分の立場と役割だけを誇る――
そういう、王道劇に出てくる“悪役令嬢”だと」
それは、どこか遠い劇場の芝居のあらすじをなぞるような言い回しだった。
けれど、その「物語」は、実際には王宮の廊下や舞踏会の広間で、ささやき声となって流れていたものだ。
「……」
リリアは一瞬だけ、まぶたを伏せた。
掌の中で帳簿の角をつまむ指先に、ほんの少しだけ力がこもる。
(“悪役令嬢”――)
その呼び名は、決して初耳ではない。
むしろ、耳にたこができるほど、陰で、時に真正面から、投げつけられてきた言葉だった。
王妃教育の場で、失敗を許されない令嬢。
感情を見せれば「浅い」と笑われ、見せなければ「冷たい」と陰口を叩かれる。
そのたびに、リリアンヌは背筋を伸ばし、微笑みの角度を一度だけ確認して、何も聞こえなかったふりをしてきた。
だからこそ、今この場でその言葉が、あらためて王子の口から出てくるという事実が――少しだけ、胸に刺さる。
けれど、リリアは顔を上げたとき、柔らかな笑みを選んだ。
「……ええ。存じておりましたわ」
穏やかに、けれど否定はせずに告げる。
「直接耳に入ってくることも、少なくなくてよ。
廊下の陰で“声を潜めているつもり”の方々は、概してお声が大きいものですもの」
軽く肩をすくめてみせると、王子がわずかに目を見開いた。
「知って……いたのか」
「ええ。知らぬふりをしていただけですわ」
さらりと言いながらも、その「さらり」の中には、当時の痛みが薄くにじんでいる。
聞こえないふりをするのは、聞こえていた証拠だ。
平然と受け流すのは、本当は心に届いていたからこそ、わざわざ「平然」を選ばなければならなかった、ということでもある。
リリアは視線を少しだけ横にそらし、窓の外の雪明かりを見やった。
「“悪役令嬢”――便利な言葉ですわね」
「便利?」
王子が思わず聞き返すと、リリアは苦くもどこか楽しんでいるような表情で、口元に指先を添える。
「ええ。物語の中では、とても重宝されますわ」
「主人公の邪魔をして、物事を複雑にして、
最後にはきれいに罰せられる役どころ――物語を盛り上げるためには、欠かせませんもの」
その口ぶりは、どこか客観的だ。
まるで自分自身を題材にした“劇”を、少し離れた席から眺める観客のようでもあった。
「王宮の方々にとっても、きっと都合がよろしかったのでしょうね。
何か気まずいことがあれば、“冷たい公爵令嬢が悪いからだ”と、物語仕立てにしてしまうのは」
静かな声音の内側で、過去の場面がいくつか胸の中に立ち上がる。
――王子に笑いかける他の令嬢たち。
――その輪の少し外側で、完璧な立ち居振る舞いを崩さない自分。
――「あの方は、感情なんて持っていないのよ」と笑う扇子の陰の囁き。
(あのとき、わたくしは――)
王妃候補としての役割を、求められたままに演じ続けることでしか、居場所を保てないと思っていた。
役割を外れれば「ふさわしくない」と切り捨てられ、役割のままに振る舞えば「冷たい悪役」と物語の中に閉じ込められる。
どちらにせよ、物語の“都合のよい役”に過ぎないのだと、うすうす感じながら。
リリアは、もう一度だけ王子を見た。
「殿下も――少しは、その物語を信じておられました?」
詰問するような調子ではなかった。
責めるのでも、責任を押し付けるのでもない。
ただ、自分の立っていた位置を、いまになって確かめ合うための問いかけだった。
王子は、短く息を呑んだ。
「……ああ」
言葉を飲み込むこともできただろう。
けれど彼は、それをしなかった。
「わたしは、王妃教育に真面目に取り組み、失敗を許さず、
常に“王妃らしくあろうとする”おまえを見て――」
視線が、テーブルの上の帳簿へと一度だけ落ちる。
「“ああ、こういう役を自ら選ぶような、冷たい女なのだろう”と……
どこかで、都合よく決めつけていたのかもしれない」
自嘲の色が、王子の声に滲んだ。
「誰かの物語の中で、おまえを“悪役令嬢”にしておけば――
わたし自身も、自分が王子としてどれほどおまえに頼っているかを、考えずに済んだからな」
リリアのまつげが、微かに震える。
それは、彼が自分の弱さを曝け出した瞬間だった。
“悪役令嬢”という言葉は、彼にとってもまた、現実から目をそらすための、便利なラベルだったのだ。
リリアは、ゆっくりと息を吐いた。
冬の冷たさが、その呼気の中で少しだけやわらぐ。
「……そうですのね」
小さく頷き、ふっと微笑する。
「では、わたくしたちは、互いに物語の中で生きていた、ということになりますわ」
王宮の劇場の幕の内側と外側。
それぞれが、自分に都合のよい脚本を信じていたのだ。
リリアは、重ねていた手をほどき、膝の上で指を組み直した。
「けれど――」
その声には、先ほどまでとは違う、かすかな熱が宿っていた。
「ここでは、物語の役どころより先に、“今日どうやって冬を越すか”が決まりますの」
配給の帳簿。薪の数。子どもたちの咳の回数。
そうしたものが、王宮の劇よりも先に、今日の行動を決めていく。
「“悪役令嬢”がどうとか、“冷たい公爵令嬢”がどうとか――
そのような言葉は、この街の冬には、あまり役に立ちませんわ」
静かな笑みを浮かべながら、それでもリリアは、自分がかつてその言葉で傷ついていたことを否定しない。
「傷つかなかったわけでは、ありません。
……ええ、むしろ、かなり、でございますわね」
そこで少しだけ、いたずらっぽく肩をすくめてみせる。
「でも、“悪役”と言われていたおかげで、よろしかったこともございますのよ」
王子が思わず眉をひそめる。
「よろしかったこと?」
「ええ。“物語の悪役”なら――
物語の外に出てしまっても、誰もさほど不思議に思いませんでしょう?」
王宮の外れた場所にいる今の自分を、彼女はそうやって軽く冗談めかしてみせた。
「“選ばれるはずだった王妃候補”がいなくなってしまうのは、
たしかに王家にとっては一大事でしょうけれど――」
そこで一度だけ、王子に視線を戻す。
「“悪役令嬢が、物語の外に消えた”ということにしてしまえば――
だれも、その後をわざわざ見に来ようとはしなくなりますわ」
それは、どこまでも皮肉な言葉だった。
だが同時に、そこにはほんのわずか、ほっとしたような安堵も混じっていた。
“悪役”という枠に押し込められたからこそ、
物語が終わったあと、自分の好きな場所へ歩き出す余地も生まれたのだ、と。
王子は、その意味を飲み込みきれずにいるようだった。
けれど、彼の胸の内にも、何かがひっかかりとして残ったことだけは確かだった。
リリアは、そんな彼の表情を見て、小さく笑う。
「殿下。わたくしが“悪役令嬢”であったかどうかは――
今日のところは、一度棚に上げておきませんこと?」
王子が目を瞬く。
「“悪役”だったかどうかを確かめ合うよりも、
今ここで、わたくしたちがどんな物語の外に立っているのかを、確かめ合うほうが――」
その瞳には、雪の街の冬をくぐってきた人間の静かな光が宿っていた。
「少しは、お互いのためになると思いますの」
物語の中で、“悪役令嬢”という名札を貼られた少女と、
“正しい主人公”であろうとした王子。
その二人が、今こうして物語の外側――冬の孤児院の談話室で、向かい合っている。
そこから始まる対話は、きっともう、誰かが書いた脚本のなぞりではない。
窓から差し込む冬の光が、少し傾き始めていた。
昼の白さが、ほんのりと金色を帯びはじめる頃合いだ。
リリアは、卓上の紙束からそっと手を離し、指先でテーブルの縁をなぞった。
磨かれきれていない木の感触が、ひっかかるように掌に伝わる。
「……わたくし、“悪役”と呼ばれることが――」
ぽつりと落とされた声は、小さいけれど、はっきりしていた。
「まったくの的外れだとは、思っておりませんの」
向かいの椅子で、王子がわずかに息を呑む気配がする。
驚き混じりの視線が、まっすぐリリアへと向けられた。
「どういう、意味だ?」
問いかけに、リリアはすぐには答えなかった。
まずひとつ、ゆっくりと息を吸い込む。
冷たい空気が肺の奥に触れ、そこで少し痛んでから、細く吐き出されていく。
「殿下の隣に立つ者には、“物語のヒロインらしさ”が求められておりましたわ」
リリアの声は、淡々としている。
「やさしく、慎ましく、誰からも愛される――
物語に描かれる“理想の王妃殿下”のように」
王子の脳裏に、王宮の人々が語った「理想」がいくつも浮かぶ。
誰にでも微笑みかけ、涙を見せれば「気高い」と称えられ、
つまずけば「守りたい」と手を差し伸べられる、そんなヒロイン像。
リリアは、ほんの少しだけ首を振った。
「けれど、わたくしに求められていたのは――どちらかといえば、逆でしたの」
「逆……?」
「公爵家の娘として、王妃候補として、
わたくしが叩き込まれてきたのは、“やさしさ”よりも――」
そこで一度だけ言葉を区切り、指先に力を込める。
「“冷静であれ”“判断力を持て”“甘さを見せるな”――そのようなことでしたわ」
幼い頃の光景が、リリアの胸に静かに蘇る。
――分厚い帳簿を前に、数字の意味を覚えさせられた夜。
――王家と貴族たちの利害が絡む話を、膝の上で手を握りしめながら聞いていた日。
――「情に流されてはなりません」と言い聞かせる、公爵家の冷たい声。
「わたくしが“優しく”迷ってしまえば、
誰かが殿下を困らせることになるかもしれない――」
そこでリリアは、ほんの少し視線を伏せた。
「そう言われて、育ちましたの」
王子の喉が、ごくりと鳴った。
思い返せば、いつも彼女は正しい言葉を選んでいた。
彼が甘い願いを漏らしかけたときも、政治的な影を察して、先に釘を刺したのは彼女だった。
そのたびに、周囲はこう囁いたのだ。
――“冷たい公爵令嬢”。
――“物語の悪役のようだ”。
「だからこそ、でしょうか」
リリアは、静かに続ける。
「ある時期から、わたくし――あえて“厳しい役”を引き受けようと、思うようになりましたの」
王子が、信じられないものを見るように目を見開く。
「……あえて?」
「ええ。誰かが甘い夢を語るときに、水を差す役。
殿下にとって“耳障りの悪いこと”を、先に告げる役」
かすかな自嘲が、唇の端に浮かぶ。
「誰も言いたがらないことを、わたくしが引き受ければ――
殿下が直接、恨まれずに済む場面もございましたから」
リリアの脳裏に、いくつもの会話がよぎる。
――「殿下、あの案は民には甘く聞こえても、財政を崩します」
――「ここで“はい”とおっしゃれば、他の貴族が同じことを要求してまいりますわ」
――「お優しさを、利用する者もおります」
王子は、思わず拳を握りしめた。
(あれは……わたしを、守るための言葉だったのか)
そのとき自分は、どう感じていただろう。
責められたように受け取り、内心で少し反発して。
そして同時に、「こういう冷静さが王妃にふさわしいのだろう」と、安易に納得してしまっていた。
「“悪役令嬢”と囁かれるくらいで、丁度良いと――」
リリアは、そこまで言って、すこし遠くを見るような眼差しになった。
「どこかで、思っていたのかもしれませんわ」
彼女の声には、疲れたような諦めと、ふっと肩の荷が下りかけているような安堵が、同時に混じっていた。
「そうしていれば――」
指先が、テーブルの縁から離れ、膝の上でぎゅっと組まれる。
「いざというとき、物語の中の“悪役”のように切り捨てられても――
“役目を果たしたのだ”と、自分に言い聞かせられる気がして」
王子は、言葉を失っていた。
婚約解消のあの日。
冷ややかに言い渡された「役目の終わり」。
それはたしかに、物語の中で悪役が退場するときに使われる台詞に、どこか似ていた。
(彼女は、自分の退場さえ……“想定済み”にしていたのか)
それを「仕方がない」と飲み込めるようにするために。
あらかじめ自分を“悪役”の位置に置いておいたのだとしたら――。
「リリア……」
名を呼ぶ声は、かすれていた。
王子は自分の膝の上を見下ろし、爪が食い込むほど掌を握りしめる。
「そんなふうに……自分を、切り捨てる前提で――わたしの隣に」
最後まで言えず、言葉が途切れる。
リリアは、その様子を静かに見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「殿下のお立場は、わたくしには想像もつかないほど重いものでしょう?」
声は責めてはいない。
「わたくしなどが、“殿下の盾になれる”などと本気で思っていたわけではございませんわ」
ふっと、冗談めかした笑みが混じる。
「ただ、“嫌われ役”を先に買って出るくらいのことなら――
公爵令嬢として、多少はお役に立てるかと」
王子は、顔を上げる。
リリアの瞳は、どこまでも穏やかだった。
過去を責めるためではなく、自分のしてきたことをようやく言葉にしている人間の目だ。
「もちろん、そんなふうに“役”として割り切れるほど、
立派ではありませんでしたけれど」
リリアは、自分で自分を軽く笑う。
「陰で“悪役令嬢”と囁かれれば、傷つきましたし」
「殿下が他の方に向けた笑顔を見れば――」
一瞬、言葉が途切れた。
そこに、わずかな痛みの影が走る。
「……ええ、正直に申せば、妬ましくて、惨めで、情けなくもなりましたわ」
それは、かつての“完璧な令嬢”からは決して漏れ出なかった感情だ。
王子は、胸の奥が締めつけられるのを感じる。
(彼女は、“役を引き受けた”と言いながら――
その中で確かに、傷つき続けていたのだ)
リリアは、自分の膝に乗せた手をそっと撫でるように動かした。
「それでも、わたくし……」
視線が、冬の光の中でゆっくりと王子へ戻る。
「“殿下の物語が、うまく続くのなら”と――
自分で“悪役”の位置に立ってみせることで、どうにか自分の居場所を保っていたのですわ」
自分が「悪役」であれば、物語の筋は通る。
王子は正しく、別のヒロインが「相応しい」と評価される。
自分は、最後に退場する役割を負っている。
(そう思い込んでしまえば、楽なところもございましたもの)
それは、彼女なりの「現実との折り合いの付け方」だったのだろう。
「……けれど」
そこで、リリアは言葉を切った。
冬の光が、彼女の横顔を照らす。
孤児院の窓から差し込むそれは、王宮のシャンデリアの光とは違う、まっすぐな白さだ。
「この街に来て、気づいたのです」
穏やかに、しかしその奥底に、はっきりとした決意を宿して。
「“悪役”だとか“ヒロイン”だとか――
誰かがつけた名前のために、自分を削る必要なんて、本当はどこにもなかったのだと」
王子は、息をするのも忘れて、ただその言葉を聞いていた。
「わたくしがここでしているのは、物語の役ではなく――」
子どもたちの笑い声が、遠くからまた届いてくる。
「今日を、誰かと一緒に生き延びるための、ささやかな仕事ですもの」
それは、「悪役」でも「ヒロイン」でもない。
ただのひとりの人間としての、リリア自身の選択だ。
言い終えたとき、リリアは小さく息を吐いた。
胸の奥に残っていた、長い長い冬の澱を、ようやく外に吐き出したような感覚があった。
王子は、震える指先を意識しながら、ゆっくりと手を開く。
「……おまえは」
掠れた声が、ようやく空気を震わせる。
「自分で“悪役”を演じていたつもりだったのかもしれないが――」
そこで一瞬、言葉を飲み込み、目をきつく閉じた。
あとの台詞は、次の瞬間、必ずその口からこぼれ落ちる。
――「君は悪役なんかじゃなかった」。
その言葉が、彼自身の中で、今まさに形を取り始めているのを、リリアもまた静かに感じ取っていた。
しんとした沈黙が、談話室に降りていた。
窓の外では、遠くで子どもたちの笑い声がしている。
けれどその音さえ、厚い空気の向こう側でかすんでいるようだった。
王子は、膝の上で握りしめた拳に、ようやく自分で気づく。
節が白く浮き上がるほど力がこもっているのを、指先の痛みで知った。
「……そうか」
低い声が、ようやく静寂を破る。
「わたしは、おまえが“悪役”を引き受けることで――」
言いながら、自分の喉の奥にひっかかるものを、無理やり押し下げる。
「自分の弱さまで、守られていたのかもしれないな」
リリアが、わずかに目を瞬かせた。
その反応を確かめる余裕もなく、王子は自分の記憶の中へ沈み込む。
――あの日の広間。
大理石の床に、靴音とざわめきがこだましていた。
王族専用の紋章が刻まれた赤い絨毯。その上に、二人は立っていた。
廷臣たちの視線が、幾十も、幾百も突き刺さる。
好奇、同情、打算、安堵。
そのすべてが入り混じった目が、一人の少女に注がれていた。
リリアンヌ・エルンスト。
公爵令嬢。
王妃候補。
そして――この日を境に、「婚約を解かれた冷たい令嬢」と呼ばれることになる少女。
彼女は泣き叫ばなかった。
床にすがりついて許しを乞うことも、声高に王家を責め立てることもなかった。
ただ、静かに一礼した。
その姿を見て、周囲は勝手に物語を作り上げる。
――やはり冷たい公爵令嬢だ。
――感情を表に出さない、物語の悪役のようだ。
――捨てられても誇りを崩さないのだろう。怖い女だ。
(あの場で矢面に立っていたのは、誰だったか)
王家の都合を告げたのは、儀礼官の口からだった。
その背後に立ち、王子は「王家の代表」として、静かな顔を作っていた。
彼の頬には、作り慣れた「王子らしい表情」が張り付いていた。
憐れみと責任感をほどよく混ぜた、“物語の王子”にふさわしい顔。
その影で、一人の少女が「悪役」の位置に押し込まれていたことに、
彼はそのとき、ろくに目を向けていなかった。
「……あのとき」
王子は、ぎゅっと目を閉じてから、リリアを見た。
「おまえが“冷たい公爵令嬢”でいてくれたおかげで――」
言葉の一つひとつが、今は刃物のように舌の上を通っていく。
「わたしは、王子らしい顔のまま、その場を終わらせられた」
怒りではない。
自分自身へのどうしようもない嫌悪が、胸の奥でじわりと滲む。
「だが、本当は」
深く息を吸い込む。
冬の冷たい空気が肺に刺さるように入り込み、その痛みがかえって彼をはっきりさせた。
「それこそが卑怯だったのだと――」
ゆっくり吐き出しながら、はっきりと言う。
「今なら分かる」
リリアが、驚いたように顔を上げた。
淡い色の瞳が、大きく見開かれる。
王子は、その視線から逃げなかった。
逃げてはいけないと、初めてきちんと知ったからだ。
「リリア」
名を呼ぶ声は、昨日よりもずっと素の音を帯びている。
元婚約者でも、公爵令嬢でもなく。
ただ「リリア」と呼ぶ、その響き。
「君は――」
一拍。
それは、過去の自分との決定的な決別の間合いだった。
「悪役なんかじゃなかった」
はっきりと、濁さないまま、その一文が落ちる。
空気が、少し震えたように感じられた。
リリアのまつげが、わずかに震える。
けれど彼女は、涙をこぼさない。
ただ、その言葉を、真正面から受け止めている。
王子は続けた。
「わたしや、王家や、周囲が――」
自分の胸の内側を、ひとつずつ指で示していくような、重い口調で。
「君を、“悪役の役目”に追いやっただけだ」
冷たい公爵令嬢だと囁いたのは、誰だったか。
彼女の厳しさを「物語の悪役」の記号に当てはめて、安心しようとしたのは、誰だったか。
それは、王宮で囁きを広げた人々だけではない。
――その像を、どこかで都合よく受け入れていた、自分自身だ。
「君は、誰かの物語の都合で、“悪役”にされただけだ」
そこまで言ってから、王子は小さく息を吐く。
「少なくとも、わたしの隣に立っていた君は――
物語の中の悪役令嬢なんかじゃなかった」
リリアの肩が、ほんの僅かに震えた。
それは、怒りでも嗚咽でもない、長い間閉じ込めていた何かが、きしりと動く音だった。
彼女は、ゆっくりと目を伏せる。
まつげの影が頬に落ち、その下で口元がかすかに歪んだ。
「……そんなふうにおっしゃっていただけるのは」
しばらくしてから、かすかな笑いが混じった声が返ってくる。
「少し、ずるいですわね、殿下」
王子が、はっとして「すまない」と言いかけるより早く、リリアは続けた。
「“悪役なんかじゃなかった”と、今ここで言われてしまうと――」
顔を上げた彼女の目には、涙ではなく、静かな光が宿っていた。
「わたくしが、自分で“悪役の役目”を言い訳にしていた部分まで、
少しずつ、手放さなくてはならなくなりますもの」
それは、責める言葉ではない。
ただ、真実を認めてしまった者同士だけが共有できる、苦くも温かい冗談だった。
王子は、息を詰め、それから小さく、安堵に似た笑いを漏らす。
「……ずるいのは、お互い様かもしれないな」
そう答えながらも、胸の奥の何かが、ほんの少しほどけていくのを感じていた。
彼はようやく、自分の中にあった「物語の枠組み」を外側から見つめ直す。
そこに押し込められていた少女が、本当はどんな顔で笑い、どんなふうに傷つき、どんなふうに冬を歩いてきたのかを――今から、知り直そうとしているのだと。
そしてリリアもまた、「悪役」の仮面を自分で選んで被っていた過去を、
少しずつ、過去として置いていく準備を始めている。
重くなっていた空気は、まだ完全には晴れない。
けれど、その中心にはもう、「悪役令嬢」という言葉は居座っていなかった。
しんとした沈黙が、談話室に降りていた。
窓の外では、遠くで子どもたちの笑い声がしている。
けれどその音さえ、厚い空気の向こう側でかすんでいるようだった。
王子は、膝の上で握りしめた拳に、ようやく自分で気づく。
節が白く浮き上がるほど力がこもっているのを、指先の痛みで知った。
「……そうか」
低い声が、ようやく静寂を破る。
「わたしは、おまえが“悪役”を引き受けることで――」
言いながら、自分の喉の奥にひっかかるものを、無理やり押し下げる。
「自分の弱さまで、守られていたのかもしれないな」
リリアが、わずかに目を瞬かせた。
その反応を確かめる余裕もなく、王子は自分の記憶の中へ沈み込む。
――あの日の広間。
大理石の床に、靴音とざわめきがこだましていた。
王族専用の紋章が刻まれた赤い絨毯。その上に、二人は立っていた。
廷臣たちの視線が、幾十も、幾百も突き刺さる。
好奇、同情、打算、安堵。
そのすべてが入り混じった目が、一人の少女に注がれていた。
リリアンヌ・エルンスト。
公爵令嬢。
王妃候補。
そして――この日を境に、「婚約を解かれた冷たい令嬢」と呼ばれることになる少女。
彼女は泣き叫ばなかった。
床にすがりついて許しを乞うことも、声高に王家を責め立てることもなかった。
ただ、静かに一礼した。
その姿を見て、周囲は勝手に物語を作り上げる。
――やはり冷たい公爵令嬢だ。
――感情を表に出さない、物語の悪役のようだ。
――捨てられても誇りを崩さないのだろう。怖い女だ。
(あの場で矢面に立っていたのは、誰だったか)
王家の都合を告げたのは、儀礼官の口からだった。
その背後に立ち、王子は「王家の代表」として、静かな顔を作っていた。
彼の頬には、作り慣れた「王子らしい表情」が張り付いていた。
憐れみと責任感をほどよく混ぜた、“物語の王子”にふさわしい顔。
その影で、一人の少女が「悪役」の位置に押し込まれていたことに、
彼はそのとき、ろくに目を向けていなかった。
「……あのとき」
王子は、ぎゅっと目を閉じてから、リリアを見た。
「おまえが“冷たい公爵令嬢”でいてくれたおかげで――」
言葉の一つひとつが、今は刃物のように舌の上を通っていく。
「わたしは、王子らしい顔のまま、その場を終わらせられた」
怒りではない。
自分自身へのどうしようもない嫌悪が、胸の奥でじわりと滲む。
「だが、本当は」
深く息を吸い込む。
冬の冷たい空気が肺に刺さるように入り込み、その痛みがかえって彼をはっきりさせた。
「それこそが卑怯だったのだと――」
ゆっくり吐き出しながら、はっきりと言う。
「今なら分かる」
リリアが、驚いたように顔を上げた。
淡い色の瞳が、大きく見開かれる。
王子は、その視線から逃げなかった。
逃げてはいけないと、初めてきちんと知ったからだ。
「リリア」
名を呼ぶ声は、昨日よりもずっと素の音を帯びている。
元婚約者でも、公爵令嬢でもなく。
ただ「リリア」と呼ぶ、その響き。
「君は――」
一拍。
それは、過去の自分との決定的な決別の間合いだった。
「悪役なんかじゃなかった」
はっきりと、濁さないまま、その一文が落ちる。
空気が、少し震えたように感じられた。
リリアのまつげが、わずかに震える。
けれど彼女は、涙をこぼさない。
ただ、その言葉を、真正面から受け止めている。
王子は続けた。
「わたしや、王家や、周囲が――」
自分の胸の内側を、ひとつずつ指で示していくような、重い口調で。
「君を、“悪役の役目”に追いやっただけだ」
冷たい公爵令嬢だと囁いたのは、誰だったか。
彼女の厳しさを「物語の悪役」の記号に当てはめて、安心しようとしたのは、誰だったか。
それは、王宮で囁きを広げた人々だけではない。
――その像を、どこかで都合よく受け入れていた、自分自身だ。
「君は、誰かの物語の都合で、“悪役”にされただけだ」
そこまで言ってから、王子は小さく息を吐く。
「少なくとも、わたしの隣に立っていた君は――
物語の中の悪役令嬢なんかじゃなかった」
リリアの肩が、ほんの僅かに震えた。
それは、怒りでも嗚咽でもない、長い間閉じ込めていた何かが、きしりと動く音だった。
彼女は、ゆっくりと目を伏せる。
まつげの影が頬に落ち、その下で口元がかすかに歪んだ。
「……そんなふうにおっしゃっていただけるのは」
しばらくしてから、かすかな笑いが混じった声が返ってくる。
「少し、ずるいですわね、殿下」
王子が、はっとして「すまない」と言いかけるより早く、リリアは続けた。
「“悪役なんかじゃなかった”と、今ここで言われてしまうと――」
顔を上げた彼女の目には、涙ではなく、静かな光が宿っていた。
「わたくしが、自分で“悪役の役目”を言い訳にしていた部分まで、
少しずつ、手放さなくてはならなくなりますもの」
それは、責める言葉ではない。
ただ、真実を認めてしまった者同士だけが共有できる、苦くも温かい冗談だった。
王子は、息を詰め、それから小さく、安堵に似た笑いを漏らす。
「……ずるいのは、お互い様かもしれないな」
そう答えながらも、胸の奥の何かが、ほんの少しほどけていくのを感じていた。
彼はようやく、自分の中にあった「物語の枠組み」を外側から見つめ直す。
そこに押し込められていた少女が、本当はどんな顔で笑い、どんなふうに傷つき、どんなふうに冬を歩いてきたのかを――今から、知り直そうとしているのだと。
そしてリリアもまた、「悪役」の仮面を自分で選んで被っていた過去を、
少しずつ、過去として置いていく準備を始めている。
重くなっていた空気は、まだ完全には晴れない。
けれど、その中心にはもう、「悪役令嬢」という言葉は居座っていなかった。
談話室の光が、いつの間にか傾いていた。
窓から差し込む冬の日差しは薄くなり、室内の影だけがじわりと長く伸びていく。
王子は、テーブルの上に広げられた帳簿やメモへと視線を落とした。
そこには、整った文字で数字や短い言葉が並んでいる。
――薪の残量。
――配給用の小麦。
――体調を崩した子どもの名前。
どれも、王都の帳簿には載らない種類の「冬」の記録だった。
「君が、この街で――」
彼は指先で紙の端をそっと押さえ、ゆっくりと言葉を探す。
「誰かの冬を数えていることを知って……」
リリアが、静かに彼を見つめる。
「どうしても、王都でぬくぬくと暖炉にあたっている自分を、
許せなかった」
それは、言い訳ではなく、告白だった。
王都の王城。
広い広間、赤い絨毯、壁にかかった大きな暖炉。
炎は絶えず燃やされ、寒さは「遠い場所の出来事」のように扱われる。
その暖かさの中で、彼は冬の厳しさを数字の報告でしか知らなかった。
「わたしは、王都で『この冬は厳しい』と報告を受けても――」
王子は自嘲気味に笑う。
「暖炉の前で、分かったつもりになっていただけだったのだろう」
報告書を読み、首脳陣と議論し、政策を決める。
それは確かに王子としての仕事だ。
だが、その決定の先で震えている手の冷たさを、自分は知らなかった。
「わたしもまた、“誰かにとって都合のいい王子”として、
物語の中を歩いてきたのだろうと思う」
リリアが、わずかに目を見開く。
「都合のいい……王子?」
「そうだ」
王子は苦笑しながら、背もたれに軽く身を預けた。
「“理想的な王子”の像は、王都のあちこちで語られる。
正しく、勇敢で、慈悲深く、決断力にあふれ――」
「けれど、その物語に合わせて歩こうとすればするほど、
わたしは、目の前の一人ひとりから目をそらしてきたのかもしれない」
婚約解消の日。
彼は「王家の都合」と「国のため」という言葉の陰に身を隠した。
――王子としては、正しい。
――物語としても、もっともらしい。
その裏で、ひとりの令嬢が「悪役」として切り捨てられる構図を、
どこかで「仕方のない筋書きだ」と受け入れていた。
「君を“冷たい公爵令嬢”という役柄の中に押し込んでおけば」
彼はテーブルの上で、拳をそっと握る。
「わたしは、自分の怯えや迷いを、見なくて済んだ」
リリアは黙って聞いている。
責めるでも、庇うでもなく、その告白をただ受け止めていた。
「だから――」
王子は姿勢を正し、真正面からリリアを見つめた。
窓の外の雪が、少しずつ大きな粒になり始める。
「君には、物語の“悪役”として終わるのではなく」
一語一語、噛みしめるように。
「物語の外側で、生きていてほしい」
リリアの呼吸が、わずかに止まった。
「……物語の、外側?」
彼女は思わず繰り返す。
自分がこれまでずっと縛られてきたもの――
「公爵令嬢」「王妃候補」「悪役令嬢」という名前の脚本から、一歩踏み出すことなど、考えたことがなかったのかもしれない。
王子は静かに頷く。
「“公爵令嬢”としてでも、“王妃候補”としてでもなく」
彼は、テーブルに置かれた帳簿の一枚を指で軽くたたいた。
「誰かの脚本に、最初から名前を書き込まれた役でもなく――」
そして、正面から、まっすぐに。
「リリアという、一人の人間として」
談話室の空気が、ふっと変わった。
それは恋の告白ではない。
甘い言葉も、情熱的な視線もない。
けれどそこには、「元婚約者」という枠を越えた、はっきりとした願いがあった。
――王妃になるかどうかではなく。
――王家の一員になるかどうかでもなく。
ただ、「君自身として、生きていてほしい」と。
リリアは、何度か瞬きをした。
自分の胸の中で、何かがきしりと音を立てて位置を変えるのを感じる。
「……殿下」
呼びかける声は、少しだけ掠れていた。
「それは……ずいぶん、身勝手な願いにも聞こえますわ」
言葉だけを聞けば、そうだ。
王子は王都に戻り、王子としての「物語」に戻る。
リリアはこの街で、「物語の外側」を歩け、と言われる。
それは、責任を投げているようにも取れる。
けれど――
「“悪役令嬢”として終わってくれたほうが、
わたしにはずっと楽だった」
と、さっき彼ははっきりと言ったのだ。
リリアは、ふっと目を伏せ、少しだけ笑った。
「……でも、そうですわね」
顔を上げたとき、その瞳には、かすかな光が宿っていた。
「わたくしも、“物語の中で終わるほうが楽”だと思っていた一人ですもの」
悪役令嬢として退場すれば、それで幕。
その先の人生を、自分で選ぶ必要はない。
「物語の外側で生きる、というのは――」
彼女は自分の手を見つめる。
薪を運んだり、子どもを抱き上げたりしてできた、小さな傷や赤み。
「きっと、とても面倒で、怖くて、
それでも、少しだけ……楽しそうでもありますわね」
王子の目が、わずかに見開かれ、そして緩む。
「君がそう思ってくれるなら、
わたしの身勝手も、少しは許されるかもしれないな」
「ええ。お互いさまですもの」
リリアは微笑んだ。
それは、王宮で磨き上げた完璧な曲線ではない。
少し不格好で、ところどころ震えが残っていて――
それでも確かに、ここで冬を過ごしている「リリア」という一人の人間の笑顔だった。
窓の外で、雪が静かに降り積もっていく。
物語の舞台から追い出されたはずの悪役令嬢と、
物語の王子として育てられた青年が、向かい合って座っている。
そこはもう、「王道劇」の書き割りではない。
帳簿と、冷めかけたお茶と、少し寒い談話室。
子どもたちの笑い声が、遠くの廊下から微かに聞こえてくる。
――ここから先は、脚本通りには進まない。
王子も、リリアも、そのことだけははっきりと理解していた。
面会が一段落したころには、窓の光はすっかり傾き、談話室の床に細長い影を落としていた。
「……長居しすぎたな」
王子が椅子から立ち上がり、外套の裾を整える。
「そろそろ役所に戻らねば、侍従たちがうるさい」
「ふふ。職務を放り出してここへいらした、とは言えませんものね」
リリアも立ち上がり、自然な動作で扉のほうへ歩く。
その後ろをついていく王子の足音が、古い床板を小さく鳴らした。
玄関へ続く廊下の手前で、一度立ち止まる。
夕方の光が、窓の細い隙間から差し込み、薄い冷気が漂っている。
扉の前で、リリアが軽く会釈をした、そのときだった。
「……リリア」
背後から、名前だけを呼ぶ声がした。
“公爵令嬢リリアンヌ・エルンスト”でもなく。
“元婚約者”でも、“殿下の前に立つべき令嬢”でもない。
ただの、一つの名として。
リリアは振り返る。
少し驚いたように目を瞬き、それから静かに微笑んだ。
「はい、殿下」
一拍、短い沈黙が落ちる。
王子は何かを言いかけて、わずかに視線を泳がせた。
喉元まで上がってきた言葉をのみ込み、苦笑と共に首を振る。
「いや……今はまだ、“殿下”でいい」
自嘲と、少しの照れの混じった声音だった。
「いつか、名前で呼ばれる資格を得られた時には――」
そこで、彼はまっすぐ彼女を見た。
「改めて、願うことにしよう」
“王子”という役目をまとったままでは、軽く口にできない願い。
それを自覚しているからこそ、「いつか」と先送りにする。
リリアは、くすりと喉の奥で笑った。
「ふふ。ずいぶん慎重でいらっしゃいますのね」
それでも、嫌味の影はない。
「では、その日まで――」
彼女は少しだけ首を傾げて言葉を続ける。
「わたくしも、“悪役令嬢”ではなく、
ただの“リリア”としてここで冬を越しておきますわ」
王子の口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「ああ」
短く、それでもはっきりと頷く。
「“悪役なんかじゃないリリア”に、
冬の終わりにまた会いに来よう」
その約束が、この寒い街にとって何を意味するかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、「元婚約者」と「王子」という役柄だけではない、別の線が引かれたことだけは確かだった。
王子が扉に手をかける。
軋む音とともに扉が開き、外の冷たい空気がひと呼吸分だけ流れ込んでくる。
昨日感じたような、凍りつく刺々しさはもうない。
かわりに、きりりと澄んだ冬の風が、頬を撫でて通り過ぎた。
「では――また」
そう言って、王子は廊下へ出ていく。
侍従たちの小さく安堵したような声が、遠くに聞こえた。
扉が静かに閉まる。
談話室には、リリア一人が残された。
彼女はしばらくその場に立ち尽くし、やがて小さく息を吐いて椅子に腰を下ろす。
指先が自然と、胸元へと上がった。
(“君は悪役なんかじゃなかった”――)
先ほどの王子の言葉が、胸の奥でやわらかく反響する。
(殿下のその言葉を、
わたくしはこれから、何度自分に言い聞かせることになるのでしょう)
机の上には、冬の配給の帳簿が開かれたままになっていた。
薪の数、粉の重さ、子どもたちの名前。
そこに王子の名はどこにもないが、今日の出来事を何も書き残さないには、あまりに大きすぎる。
リリアはペンを取り上げると、ページの端に小さく文字を書き足した。
『本日の記録:
王子殿下来訪。
わたくしは――“悪役令嬢ではない”と告げられる』
最後の一行に、ペン先がわずかに止まる。
ためらいにも似た間。
けれど、やがてインクが紙の上に静かに滲んでいく。
書き終えてペンを置き、リリアは窓のほうへ視線を向けた。
ガラスの向こうには、薄い冬の空が広がっている。
灰色と白のあいだを揺れる雲、その隙間から、冷たい光がこぼれていた。
その下で、自分を“悪役”と呼んでおけば楽だった物語は、
静かに幕を閉じようとしている。
代わりに始まるのは、誰の脚本にも書かれていない歩みだ。
“公爵令嬢リリアンヌ・エルンスト”でもなく。
“悪役令嬢”でも、“元婚約者”でもなく。
――ただの、「リリア」としての物語。
(役ではなく、名前で呼ばれるというのは……)
胸に残る温度をたしかめるように、そっと目を閉じる。
(思っていたより、少しだけ、あたたかいものですわね)
彼女はもう一度だけ、今日書き足した小さな一文を見つめた。
そして、いつものように帳簿を引き寄せ、冬の数字へと視線を落とす。
窓の外には、まだ長い冬の空が続いている。
だが、その下を歩く彼女の足取りは、ほんの少しだけ、昨日よりも軽かった。




