再会 ―― 微笑みはもう、仮面ではなかった。
薄闇の名残がまだ部屋に張りついていた。
窓の外では、夜から続いていた雲がようやくほぐれはじめたのか、細かい雪が静かに舞っている。空はまだ朝にもなりきれず、夜にも戻れずにいるような、灰色と青のあわいだった。
リリアは、浅い眠りの終わりで目を開けた。
枕元の小さな木の机には、昨夜のまま放り出された紙束がある。インクが少しにじんだペン先と、「王子来訪」「公爵家との関係」「街への影響」――そんな硬い言葉の並ぶメモ。
自分の字が、どこか、他人のもののように見えた。
しばらく、天井をぼんやりと眺めてから、彼女はゆっくりと身を起こす。薄い毛布が肩からするりと落ち、冷えた空気が肌をなでていく。
ベッド脇に置いていたスリッパを履こうとして――ふと、その手を止めた。
裸足のまま、床板に足を下ろす。
ひやり、とした感触が、くるぶしから脊髄のあたりまで、細い線を走って駆け上がる。
(……今なら)
心の中で、すぐに別の声がささやきはじめる。
(今なら、まだ間に合いますわね)
村の視察という名目はいくらでも作れる。この街の周辺は雪の具合で状況が変わる。確認すべきことがあると言えば、院長もミラも止めはしないだろう。
(殿下がこの街にいらっしゃるあいだだけ、少し遠くの村へ。
“たまたま”すれ違い続けることも……)
その想像は、思った以上にたやすく形になった。
王都で幾度となく練習した「都合のいい事情」の組み立て方は、今もちゃんと身に染みついている。理由を並べ、筋を通し、誰も強くは責められない形で、その場から退く術。
床板の冷たさが、かえって思考を冴えさせていく。
けれど――。
リリアは、膝の上で組んだ自分の指に目を落とした。
礼拝堂の、古びた膝置きの感触が、記憶の底からじんわりと浮かび上がる。埃っぽい空気、色あせた祭壇、割れたステンドグラスから差し込んだ弱い光。その中で、彼女は誰に祈ったのだったか。
(“選ばれるためのわたくし”ではなく)
あのとき、心の中で紡いだ言葉が、雪よりも静かに蘇る。
(“自分で選んで歩くわたくし”でいたいと、決めましたのに)
王子がこの街に来たのは、王家の事情のためかもしれない。公爵家との関係のためかもしれない。噂によれば、宮廷の空気も穏やかではないらしい。
けれど、彼女がここでどのように立つかを決めるのは、もはや誰でもない。
自分だ。
リリアは小さく息を吸い込み、吐き出した。冷たい空気が喉を通り抜け、胸の奥のざわめきを少しだけ整えてくれる。
そのとき、扉が控えめに二度ノックされた。
「リリアさーん、起きてます?」
遠慮がちでありながら、どこか馴れ馴れしい声。返事を待っているあいだもなく、扉がきい、と隙間を作る。
顔を覗かせたミラは、リリアがすでにベッドから起き上がっているのを見ると、ふっと安堵したように肩の力を抜いた。
「……起きてましたか」
「ええ。おはようございますわ、ミラ」
「おはようございます。えっと、その……」
いつもの軽口とは違う、言いよどむ調子。
ミラは部屋に一歩だけ入り、扉を背中でそっと閉めた。外の廊下の冷気が少しだけ入り込んでくる。
「王子様、今日も朝から役所に行くらしいです。昨日のうちに、領主代理さんと“お話の続き”ってことで」
そこまでは、想定していた通りだ。
リリアは黙って聞いている。
「それで、午後にこっちへ――」
言葉を区切るように、ミラは唇を結び、眉を少し寄せた。
「“あらためて”来るって話で」
部屋の空気が、ほんの少し重くなったように感じる。
窓の外で舞う雪片が、ゆらゆらと視界の端で揺れた。
しばしの沈黙。
ミラは、靴の先で床板を軽くこつこつと突きながら、視線をうろうろさせてから、意を決したように口を開く。
「……逃げるなら、今のうちですよ」
その言葉は、冗談めかした響きをまといながらも、どこか本気だった。
「まだ間に合います。村のほうに急ぎの用事ができたって言えば、誰も文句言いませんし。あたし、口裏合わせくらいならいくらでもしますよ」
リリアは、ふっと目を細めた。
ミラのこういうところが、好きだと思う。
軽口を叩きながらも、相手が逃げ場を失わないように、さりげなく出口を指しておいてくれるところ。
けれど――。
「……そうですわね」
リリアは、一度だけ視線を机のメモへ落とした。
王子来訪、公爵家、街への影響。
紙の上の文字は、どれも現実だ。
だが、その現実から目を逸らさないと決めたのは、自分自身だった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、ミラのほうを見た。
小さく、けれどはっきりと、口元を緩める。
「逃げないほうを、今のわたくしは選んでみたいのです」
ミラの目が、驚いたように丸くなる。
「“選ばれなかったわたくし”としてではなく――」
言いながら、リリアは胸にそっと手を当てた。
礼拝堂で灯し直した、小さな灯火の輪郭を、そこに確かめるように。
「“今ここで冬を共にしているリリア”として、殿下に会いたいから」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身への確認だった。
静かな部屋の中に、雪の気配とともに落ちる。
ミラはしばらく何も言わず、リリアを見つめていた。
やがて、ゆっくりと口角を上げる。
「……そういう顔、するようになったんですね」
「どのような顔、かしら?」
「んー……逃げる理由を一個ずつ並べてから、それでも前に進むって決めた人の顔、というか」
曖昧な説明に、リリアはくすっと息を漏らした。
「それは、誉め言葉として受け取っておきますわ」
「もちろん、誉めてますよ」
ミラは両手を腰に当てて、いつもの調子を取り戻したように胸を張る。
「じゃあ、あたしも覚悟決めないとですね。
元婚約者だろうが王子様だろうが、あんまり勝手なこと言い出したら、ちゃんと隣で睨んでおきますから」
「頼もしい護衛ですこと」
リリアが肩をすくめてみせると、ミラも笑い、軽く手を振った。
「じゃ、支度、手伝いますね。服、少しマシなの持ってきますから。
――“逃げない”って決めたなら、あとは見せたい自分で向かうだけですよ」
そう言い残して、ミラは部屋を出ていく。
扉が閉まると、また静けさが戻ってきた。
リリアは、枕元の紙束に手を伸ばす。
「王子来訪」の文字の下に、ペン先をそっと置き、短く一行を書き足した。
――逃げない、と自分で選んだ。
書き終えてから、彼女は窓の外を見やった。
灰色の空に、白い雪がまだ細く舞っている。
この冬の冷たさの中で、自分がどこに立つのか。
それを決めるのは、もう「選ぶ側」ではなく、「選ばれなかった」と言われた誰かでもない。
自分自身だ。
リリアは、静かに息を吸い込み、吐き出した。
凍えそうな朝の空気の中で、その呼吸だけが、確かな温度を持っていた。
孤児院の一番奥、古い棚と木箱が押し込まれた物置部屋は、冬の朝の光がかろうじて届く、ひんやりとした空気に満ちていた。
壁際には、寄付で集まった服を分けるための箱が積まれている。色あせたシャツ、丈の合わない子ども服、ほつれたマント――その中に、ほんの少しだけ、布地の質がいい服を集めた箱がひとつ。
「持ってきましたよー、“少しだけマシな服”」
勢いよく扉を開けて入ってきたミラが、腕いっぱいに服の束を抱えている。外から入り込んだ冷気と一緒に、彼女の気配が部屋を明るくした。
「“一応”元公爵令嬢って立場ですし。
あんまりボロボロの格好で出ていくのもどうかと、周囲の目がですね」
「周囲の目、というより、ミラの目が気になっている気がいたしますわ」
リリアが苦笑しながら受け取ると、ミラは肩をすくめた。
「まあ、それも半分くらいはありますけど」
服の束の一番上にあったのは、王都から持ってきた華やかなドレスではなかった。
厚手のウールで仕立てた、冬用のシンプルなワンピース。色は深い紺に近い灰色で、この街の石造りの建物や、雪の降り積もる景色にすっと馴染みそうな色合いだ。
襟元と袖口にだけ、ささやかなレースがあしらわれているが、装飾らしい装飾はそれだけ。裾には、ところどころ小さな針目が走っている。ミラが繕った跡だ。
「……これは」
「王都から持ってきたやつを、冬仕様に仕立て直したやつです。
こっちに来てから、あたしが縫い足したり詰めたりしたんで、もはや“公爵令嬢ブランド”ではないかもしれませんけど」
言いながら、ミラはどこか誇らしげだ。
リリアはワンピースの布地にそっと指先を滑らせた。滑らかで、けれど厚みがあり、街の冷たい風にも負けない頼もしさがある。
ふと、脳裏に別の布の感触がよみがえる。
王宮の舞踏会で身にまとった、光沢のあるシルク。
一歩歩くごとにきらめく刺繍と、宝石で重くなった裾。
鏡の中で、完璧な位置に収められた笑み。
(あのころのわたくしなら――)
思わず、自分で自分に問いかける。
(殿下に会うのに、この服を選べたでしょうか)
少しのあいだ、迷いにも似た沈黙が落ちた。
けれど、答えはすぐに形になる。
リリアは、そっと首を横に振った。
「ここでは、この服で十分ですわ」
声に出してみると、その言葉は驚くほど自然に口から出てきた。
ミラが片眉を上げる。
「……いいんですか? 王子様ですよ?
もっとこう、きらーんって光ってそうなやつ、昔は着てたんでしょ」
「ええ。たしかに、王宮の舞踏会では、そういうものもたくさん着ましたわね」
くすり、と笑いながらも、リリアの指先は紺色の布から離れない。
「けれど、殿下に見ていただきたいのは――」
一度言葉を区切り、鏡のほうへ視線を向けた。
古い姿見は、角の木枠が少し欠けており、鏡面には細かな傷が走っている。それでも、そこにはちゃんと今の自分が映っていた。
「王宮の舞踏会の衣装ではなく」
鏡に映る自分と目を合わせながら、静かに続ける。
「この街で、わたくしが動き回るための服ですもの」
泥だらけの手を取ったときも、薪を数えたときも、雨上がりの空を見上げたときも、彼女が着ていたのはこういう服だ。
豪華な刺繍も、宝石も、ここでは邪魔になるだけ。
子どもを抱き上げるたびに裾を気にしていては、転びそうな足を支えることもできない。
リリアは、ミラからワンピースを受け取り、くるりと背を向けた。
「少し、手を貸していただけます?」
「はーい。紐のとこ、きゅっと締めますね」
着替えを終え、鏡の前に再び立つ。
灰色混じりの紺のワンピースは、彼女の体にほどよく馴染んでいた。華やかさはない。けれど、肩の動きも、腰のあたりの余裕も、荷物を持ち上げたり、子どもを抱き上げたりするのにちょうどいい。
鏡の中の自分を、リリアはしばらくじっと見つめた。
頬の線は、王宮にいたころより、ほんの少しだけ細く引き締まっている。睡眠不足のせいか、目の下にはうっすらと疲れの影もある。
けれど、不思議なことに、その顔は以前よりも柔らかく見えた。
口元に刻まれた小さな皺、目尻のかすかな細い線――それらは、完璧な令嬢の仮面を貼りつけていたころには存在しなかったものだ。
孤児院の子どもたちのくだらない冗談に笑い、転んだ子の泥を一緒に落として笑い、雨上がりの空を見上げて笑った、その積み重ねが刻んだもの。
鏡の中の自分は、「訓練で作り上げた完璧な微笑み」ではない表情をしていた。
頬が少し緩み、目が細くなりすぎない程度に微笑んでいる――そんな、ごく自然な、日常の笑顔。
「……」
思わず、リリアは自分の唇にそっと指を触れた。
(わたくし、こんな顔もできるようになっていたのですわね)
王宮の鏡の前では、いつもチェックしていたのは別のことだ。
目線の角度、顎の傾き、唇の弧。
「美しく」「品よく」「欠点なく」整えられた笑みであるかどうか。
今、彼女が確かめたいのは、そこではない。
この笑顔で、あの子たちと向き合ってきた。
この顔で、冬の厳しさを語り合ってきた。
この表情で、昨日までの毎日を過ごしてきた。
それが事実なら、それでいい。
背後から、ミラが感嘆の息を漏らす。
「……いやー。よくもまあ、公爵令嬢がそこまで素朴に開き直れますよね」
リリアは、鏡越しにミラの瞳を見て、ふっと笑った。
「ふふ。それはもう、覚悟の分だけですわ」
「覚悟、ですか」
「ええ。殿下の前で、“元公爵令嬢リリアンヌ”として並ぶ覚悟は、まだ出来ておりませんけれど」
そう言いつつ、リリアは胸元に手を当てる。
「“この街で冬を共にしているリリア”として、立つ覚悟なら――少しずつ、形になってきましたから」
ミラは、数秒黙り込んでから、わざとらしく肩をすくめた。
「そういうこと、さらっと言えるあたりが、やっぱり元お嬢様だなって思いますけどね。
でも、まあ……」
彼女はにっと笑い、リリアの肩をぽん、と軽く叩いた。
「今のリリアさん、けっこうカッコいいですよ?」
「それは、素直に嬉しい褒め言葉ですわ」
鏡の中で、二人分の笑顔が重なる。
仮面ではない微笑みと、からかい半分、本気半分の笑み。
リリアは、鏡から目を離し、部屋の扉のほうを向いた。
その向こうで待っているのは、かつての自分が夢見ていた“王子との再会”とは、まったく違う光景だろう。
けれど、今の彼女は、その違いごと引き受けるつもりでいた。
「行きましょうか、ミラ」
「はいはい。“殿下”をお迎えに。
――今のリリアさんの服と顔で」
二人は並んで物置部屋を出る。
古びた扉が小さくきしみ、冬の冷たい気配と、これから訪れる再会の予感が、廊下に流れ込んできた。
孤児院の談話室は、ふだん子どもたちが騒がしく走り回る場所だと聞いていたが、その朝ばかりは妙に静かだった。
長椅子が壁際に寄せられ、テーブルの上には人数分より少し多めに用意された茶器が並んでいる。だが今、そこに座っているのは王子と侍従、それから入口近くに控える護衛だけだ。
子どもたちは、別室にまとめて追いやられている。扉の向こうから、ひそひそと抑えた囁き声と、床板のきしむ音がときどき漏れてきた。
王子は、窓際の席に腰かけながら、視線を壁へと滑らせる。
そこには、色とりどりの紙片がところどころ重なり合うように貼られていた。雪だるまの絵、歪んだ家の絵、棒人形みたいな人々の絵――そして、その端に、拙い文字の羅列。
『リリアねえちゃん、ありがとう』
『リリアさん、あしたもあそんでね』
『リリアへ これ、ぼくがかいた』
不揃いな文字で、ところどころ綴りを間違えながらも、その名は繰り返されている。
リリア――
王子は無意識のうちに、その名前を心の中で反芻した。
(リリアンヌではなく、“リリア”……)
王宮で彼女を呼ぶとき、その名はいつもフルであった。
“リリアンヌ・エルンスト嬢”。
あるいは“エルンスト家令嬢”。
そこには常に「公爵家」「王妃候補」「婚約者」といった肩書きがひっついてまわる。誰も彼女の名だけを、こんなふうに紙切れに書いて壁に貼ったりはしない。
(ここでの彼女は、肩書きではなく、“名”だけで呼ばれているのか)
胸の奥が、ふっとざわついた。
談話室の入口のそばで控えていた院長が、遠慮がちに口を開く。
「――殿下」
王子が視線を向けると、初老の男は緊張した面持ちで、それでもどこか誇らしげな色をにじませて言葉を継いだ。
「先ほどは、簡単な挨拶のみで失礼いたしました。
改めまして、リ……“リリア”さんの、こちらでの様子を少しお伝えしておこうかと」
呼びかけの途中で、院長は自らの言い直しに気恥ずかしそうに笑った。
「リリアンヌ様、ではなく、“リリア”と?」
「はい。この街では、皆がそう呼んでおりますので」
王子の胸に、先ほど見た紙片の文字が重なる。
院長は、手元の帳面を軽く抱え直しながら続けた。
「彼女には、配給の調整や、街の記録の整理などを手伝ってもらっています。
字も数字もお強いので、こちらとしては大変助かっておりますよ」
「配給の……調整?」
王宮では、彼女に割り当てられるのは、舞踏会の席順や、貴族たちの顔ぶれを整理する役目だった。配給という言葉は、彼にとってもまだ耳慣れない。
「はい。冬に備えた穀物の残量や、薪の在庫の確認などです。
領主様のところと、我々孤児院、そして街の共同倉庫との間で、数字を合わせる仕事を」
院長が少し苦笑する。
「最初はわたしも、正直に申し上げて、“公爵令嬢にそんな地味な仕事を頼んで良いものか”と戸惑いましたが……」
「今では、なくてはならない存在に?」
「ええ。数字の間違いを見つけてくれるだけでなく、“この街で実際に薪を運ぶ人間の足取り”まで想像してくださる。
“ここで減らせば、あの村の子は本当に凍えてしまいますわ”と、平然と仰るものですから」
王子は、思わず目を瞬かせた。
院長は、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「子どもたちにもよく懐かれておりましてね。
――ええ、“公爵令嬢らしく”というよりは……」
少し言葉を探し、それから愉快そうに肩を揺らした。
「“少しおっちょこちょいな姉”のような」
「……おっちょこちょいな、姉」
王子の口から、その単語がゆっくりと繰り返される。
彼の知る彼女は――
(いつも、完璧であろうとしていた)
微笑みひとつ、カーテシーひとつに至るまで、寸分の狂いもなく。
王宮の礼儀作法を教える女官から「もう教えることはありません」と言われるほどに。
少しでも言い淀めば、自分を責め。
疲れた顔を見せまいと、控え室の鏡の前で自分の表情を整え続けていた。
その姿を、王子は何度か、廊下の影から見たことがある。
完璧であることが当たり前とされる少女。
その「当たり前」を、誰よりも彼女自身が自分に課している――そんな印象だった。
(その彼女が、“少しおっちょこちょいな姉”……?)
胸の奥が、ざわめきからじわじわと別の感情に変わっていく。説明のつかない、不思議な違和感と、ほんの少しの安堵とが混ざり合ったような感覚。
彼が黙り込んだのを見て、院長は慌てて言葉を足した。
「もちろん、良い意味で、です。
子どもたちと一緒に雪に足を取られて転びかけたり、薪の束を落として笑われたり……」
そこで言葉を切って、院長は小さく息をついた。
「ですが、そうして“隙”を見せてくれるからこそ、あの子たちは心を開いたのでしょう。
“とても偉いお嬢様”でありながら、同時に、“自分たちと同じ高さに座ってくれる人”でもあるので」
王子は、その表現に胸を突かれる。
(同じ高さに、座る……)
王宮で、彼女が自分と「同じ高さ」に座ることはなかった。
常に少し斜め向かい、少し離れたところ。
同じ方角を見ているようでいて、決して完全に並び立つことはない距離。
それは、身分のせいだと思っていた。
王子と公爵令嬢――どれほど親しく言葉を交わしても、そこには越えてはならない線が引かれている、と。
だが今、ここで語られる彼女は――
(もっと、柔らかく、自由で……)
言葉にするには、まだうまく掴めない。
ただ、王宮で彼が知っていた「完璧な令嬢」とは、明らかに違う輪郭をしている。
背後に控えていた侍従が、そっと一歩近づいた。
「……殿下」
抑えた声で、小さくささやく。
「本当に、お一人でお会いになりますか?
エルンスト公爵家への正式な書状や、今後の段取りについてなど――」
侍従の視線は、テーブルの端に置かれた封蝋付きの書類に向けられている。
婚約解消の正式な文書ではない。
だが、公爵家との関係修復のための丁寧な言葉をいくつも重ねた長い書状だ。
その内容には、王家としての配慮と計算が詰めこまれている。
王子は、書状の上に置かれた自分の手を見下ろした。
指先には、冬の冷えがじんわりとしみ込んでいる。
王宮の暖かな広間で、彼女と向かい合っていたときには感じたことのない冷たさだ。
ゆっくりと、彼は首を振った。
「今日は、書状ではなく……“彼女”に会いに来た」
侍従が、わずかに目を見開く。
王子は続けた。
「エルンスト公爵家への説明も、王家の体裁も、もちろん大事だ。
だがそれは、明日以降に役所でいくらでも言葉を尽くせる」
握りしめていた手を、すこしだけ緩める。
「ここへ来たのは、元婚約者としてではない」
言葉にすると、そこにはっきりとした輪郭が生まれた。
「一人の人間として、“リリア”に会いに来たのだと。
……まずは、そう自分で決めておきたい」
院長が静かに頭を下げる。
「では、彼女が戻り次第、こちらへお通しします。
――“リリアンヌ様”ではなく、“リリア”としてお迎えしても、よろしいでしょうか」
王子は一瞬だけ考え、それから、ゆるやかに頷いた。
「ああ。そのほうが……今の彼女には、ふさわしいのだろう」
壁に貼られた子どもたちの拙い文字が、視界の端で揺らめく。
リリアねえちゃん。
リリアさん。
リリア。
その名を、この街の人々と同じように口にできるのか――
王子にとっても、これから始まる再会は、「試される場」であるのだと、彼自身が誰よりもよく理解していた。
孤児院の玄関ホールは、いつもより少しだけ片づいていた。靴箱の上に積まれがちな手袋の山も、今日はきちんと籠に収まっている。冬の淡い光が窓から斜めに差し込み、床板に細長い四角を描いていた。
談話室へ続く扉の前で、リリアは足を止めた。
胸の前で、そっと片手を握る。
礼拝堂で膝をついたときと同じ、けれどあのときより少しだけ強い力で。
(逃げないと、決めましたわ)
自分の胸の内に、もう一度言い聞かせる。
選ばれるためではなく、自分で選んだこの場所で。
背後から、そっと肩口に気配が寄った。
「……大丈夫です」
ミラの声は、いつもより少しだけ小さい。それでも、背中を押す手のひらには、確かな体温があった。
リリアは振り返らず、小さく頷く。
「ええ。行ってまいりますわ」
扉にかけた指先が、わずかに震えた。
深く息を吸い込み、冷たい空気を肺の奥まで満たす。
吐き出す息は白くはならないが、喉の奥で何か重いものがほどけていく。
ゆっくりと、扉を押し開けた。
軋む音とともに、談話室の空気が流れ込む。
その中央、窓際の席にいた男が振り返った。
第一王子――かつての婚約者。
彼の外套から、まだ外気の冷たさがわずかに立ちのぼっている。
王宮で見慣れた礼服よりも幾分実用的な装い。それでも、裾の刺繍や肩章の金糸は、この街には不釣り合いな華やかさを帯びていた。
視線がぶつかる。
時間が、ひと呼吸ぶんだけきしむように止まった。
王子は椅子から半ば立ち上がりかけた姿勢のまま、言葉を失っている。
リリアもまた、踏み出した足をその場に留め、ただ真っ直ぐに彼を見据えた。
薄い茶色の髪は、以前よりも簡素にまとめられている。
冬用のシンプルなワンピースは、舞踏会で纏っていた絹のドレスとは似ても似つかない。袖口から覗く指先は、赤く荒れ、小さな傷がいくつか白く浮かんでいる。
けれど――
(たしかに、彼女だ)
王子は胸の内で、そう認めざるを得なかった。
背筋の伸びた立ち方。
扉の敷居をまたぐときの所作の美しさ。
ふと首をかしげる角度。
どれも、王宮の広間で幾度となく見た、公爵令嬢リリアンヌの仕草そのものだ。
しかし同時に、そこには見慣れぬものも宿っている。
頬の線はほんのわずかに引き締まり、
その瞳は、かつてよりも遠くまで見通す光を帯びていた。
先に口を開いたのは、リリアのほうだった。
喉の奥が、ほんの少しだけ震える。
けれど、その声ははっきりとしていた。
「――お久しゅうございます、殿下」
その言葉とともに、彼女は微笑んだ。
それは、王宮の舞踏会で何度も何度も練習させられた、「完璧な曲線」の微笑みではない。
口角はほんの少しだけ左右で高さが違い、
緊張と戸惑いが薄く混じっている。
それでも――いや、だからこそ。
その笑顔は、「ここに立つことを自分で選んだ人」の笑顔だった。
王子は、ハッとしたように目を見開く。
(……違う)
胸の内で、言葉にならない叫びが生まれる。
(これは、あの頃の“仮面”ではない)
王宮で彼女が見せていた笑みは、どれほど美しくとも、どこか「完成されすぎて」いた。
磨き上げられた鏡面のように、感情を均一に整えた表情だった。
今、目の前の彼女の微笑みには、揺らぎがある。
孤児院の子どもたちへ向けたのと同じ、自然な温度がある――と、彼は直感した。
その温度に、胸の奥がきゅ、と締め付けられる。
「……」
言葉を探して、喉が空回りする。
王子はわずかに視線を伏せ、深く息を吸った。
そして、ぎこちなくも一歩前に進み、頭を下げる。
「久しいな、リリアンヌ――」
口をついて出た名前に、彼自身が一瞬だけ躓いた。
談話室の空気が、ごくわずかに揺れる。
壁には、子どもたちの拙い文字で書かれた紙片が貼られている。
『リリアねえちゃん』『リリアさん』――
王子は、その字面を思い出し、ほんの一拍置いて言い直した。
「……いや。ここでは、“リリア”と呼ぶべきなのだろうか」
リリアが、驚いたように目を瞬いた。
けれどすぐに、柔らかな笑みを深める。
「はい。この街では、そのように呼ばれておりますの」
“公爵令嬢”でも、“リリアンヌ様”でもなく。
この冬を共に過ごす人々が呼ぶ、そのままの名で。
言葉にした瞬間、リリア自身も、その名前の軽やかさを改めて意識する。
(そうですわ。わたくしは、今ここで――)
王宮の高い天井の下ではなく、
雪の街の低い空の下で。
選ばれるための仮面をかぶるのではなく、
自分で選んだ微笑みを浮かべて立っている。
胸の奥で、小さく灯った火が、ふっと強さを増した気がした。
王子は、その変化に気づいているのかいないのか、じっと彼女を見つめている。
そこには、戸惑いと後悔と、言葉にし難い安堵とが、複雑に交じり合った色が宿っていた。
「……そうか」
かすれた声で、彼が呟く。
「では――改めて。
会えて、嬉しい。リリア」
名だけを呼ぶその響きは、かつて王宮では決して口にされなかったものだ。
リリアは、一瞬だけ胸の奥を熱いものが通り抜けるのを感じながら、そっと頭を下げる。
「わたくしも、殿下。
こうして、またお目にかかれたことを……今は、素直に嬉しく思っておりますわ」
その笑顔はもう、「選ばれるため」に貼りつけた仮面ではない。
泥だらけの手を握り、雨上がりの空を見上げ、
古びた礼拝堂で過去の自分に祈った、その続きにある表情だった。
冬の光が斜めに差し込み、二人の間の空気を淡く照らす。
かつて、舞踏会の眩しいシャンデリアの下で向かい合ったときよりも――
ずっと静かで、ずっと本当の再会が、そこで始まろうとしていた。
談話室の時計が、静かに時を刻んでいた。
テーブルの上には、湯気の消えかけた茶が二つ。
リリアと王子は、その茶を挟むように向かい合って座っていた。
窓の外からは、遠く子どもたちの笑い声が、かすかなざわめきとなって届いてくる。
しかし、この小さな部屋の中だけは、張りつめた静けさが支配していた。
言葉を探すように、王子は指先で湯飲みの縁をなぞる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「まずは――」
そこで一度、言葉が喉に引っかかる。
彼は小さく息を吸い込み、視線をリリアに戻した。
「あの日、おまえの前から、一方的に背を向けたことを、詫びねばならない」
リリアのまぶたが、わずかに揺れた。
王宮の広間。
婚約解消を告げる声音は、淡々としていて、冷たくさえあった。
彼の視線は、最後まで彼女の顔を正面から捉えることなく、言葉だけが宙を滑っていった。
あのときの空気が、一瞬だけ談話室の中に蘇る。
「……あれは、王家の都合であり、わたしの弱さでもあった」
王子は、視線を落としたまま続ける。
「誰かを選ぶということが、誰かを選ばないことでもあると、頭では分かっていたつもりだった。
だが、実際にその場に立ったとき、わたしは……最後まで、きちんと向き合えなかった」
握った拳の関節が、白く浮き上がる。
「あの日からずっと、おまえがどうなったのかを語れないまま、
王都の中だけで冬を迎えることが、どうしてもできなかった」
リリアは、彼の言葉をひとつひとつ掬い上げるように、じっと聞いていた。
視線を逸らさない。その真っ直ぐさが、かえって王子の胸を締めつける。
短い沈黙が落ちる。
やがて、リリアは小さく首を横に振った。
「――謝罪をいただいたことには、感謝いたしますわ」
柔らかな声音だった。
許しを軽々しく与えるでもなく、責め立てるでもなく、そのままを受け止める響き。
けれど、そこで終わらせるつもりはないように、リリアは静かに続けた。
「けれど、殿下」
王子の肩が、かすかにこわばる。
「あの日のことだけを、ここで全ての始まりとして語ってしまうのは、
少し違うようにも思えますの」
「……違う?」
王子が、思わず聞き返した。
リリアは、冬の光を映した瞳で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたくしが王宮を離れ、この街に来たのは――
“殿下に捨てられたから”だけではありません」
その言い方は、決して棘を含んでいない。
ただ事実を整理するように、静かに。
「あの場所で、“選ばれるためだけのわたくし”を続けることが、
もう、自分で耐えられなくなったからですわ」
王子の目に、驚きと、そして遅れてやってきた納得が浮かぶ。
王宮で彼は、常に「完璧な令嬢」としての彼女しか見てこなかった。
つまずきそうになっても、自らそれを笑顔で隠し、「大丈夫ですわ」と言う彼女しか。
(そうか――)
胸の中で、何かが音を立てて組み替わる。
(彼女は、わたしに“捨てられた”からここにいるのではない。
自分の足で、ここまで来たのだ)
リリアは、彼の表情の変化を見守りながら、さらに言葉を重ねた。
「ですから、“可哀想な元婚約者”としてだけ、
わたくしを見に来られたのなら――」
一瞬、言いよどむ。
それでも微笑みを崩さず、しっかりと息を吸ってから、言い切った。
「ここまで足を運んでくださらなくても、よろしかったのです」
その言葉には、苦みも混じっている。
だが、自分を卑下する響きはどこにもなかった。
“可哀想”という枠に、もう自らは収まらない――という、静かな拒絶。
王子は、息を呑んだ。
「……可哀想、か」
自嘲するように、口の端がほんのわずかに歪む。
「たしかに、わたしはそう思っていたのかもしれない。
婚約を解かれ、行き先も分からない元婚約者を、“哀れむべき存在”として」
その言葉を、自分で口にしてみて、さらに眉根を寄せる。
「だが――」
彼は顔を上げ、もう一度リリアを正面から見つめた。
「ここへ来て、わたしが見たのは、
子どもたちに“リリアねえちゃん”と呼ばれ、
この街の冬の中で、自分の足で歩いているおまえの痕跡だった」
談話室の壁。子どもの字で書かれた「ありがとう」の紙。
配給の帳面に残る、整った筆致のメモ。
「それを見たあとでは、とても“哀れ”などとは思えない」
言葉を選びながら、王子は続ける。
「むしろ……羨ましくさえあった。
自分で選んだ場所で、自分の名で呼ばれているおまえを」
リリアは、驚いたように目を見開き、それからふっと笑った。
「羨ましい、だなんて。殿下にそんなふうに言われる日が来るとは、思いませんでしたわ」
冗談めかした言葉に、部屋の空気がほんの少しだけ和らぐ。
王子も、苦笑いを漏らした。
「わたしは今でも、王太子として“選ぶ側”にいる。
だが――いつの間にか、“選ばれた場所から動けない側”にもなっていたようだ」
リリアは、その言葉に静かに頷く。
「殿下が選ばれた重さを、わたくしは完全には分かりません。
けれど、“選ばれるためだけに生きる苦しさ”なら、少しは知っていますの」
そこで一拍置いて、柔らかく続けた。
「ですから……殿下が、この街まで足を運ばれたこと自体は、
わたくし、“可哀想な元婚約者を慰めに来た”だけだとは、思っておりません」
王子が目を瞬かせる。
「違う、のか?」
「ええ」
リリアは、まっすぐに彼を見る。
「殿下は、殿下の今いる場所から、
“あの日の決定の意味”と、“その先に続いてしまった冬”のことを、
ご自分の目で確かめに来られたのでしょう?」
礼拝堂で過去の自分に祈ったときと同じように、
リリアの言葉は、相手を責めるためではなく、位置を確かめるために放たれていた。
「もしそうであるなら――
わたくしもまた、“選ばれなかった令嬢”としてではなく、
“ここで冬を生きている一人のリリア”として、殿下のお話を伺いたいのです」
その言葉に、王子はようやく、深く息を吐いた。
肩の力が、少しだけ抜ける。
「……そうだな」
彼は小さく頷く。
「謝罪だけを置いて帰るつもりなら、紙に書いて送ればよかった。
それでは足りないと感じたから、ここまで来た」
視線を逃がさず、言葉を重ねる。
「わたしが語らねばならないのは、“あの日”のことだけでなく――
今、この国が迎えつつある冬のことでもある」
リリアの瞳が、わずかに細められる。
その視線の奥に、「王宮の事情を聞きたい」と、“リリア”ではなく“リリアンヌ”としての鋭さがちらりと顔を出した。
しかし、その表情にも、もう仮面の硬さはない。
過去への謝罪と、今への説明。
そのどちらもが必要であると、二人はようやく同じ地点から見つめ始めたのだ。
窓の外で、子どもたちの笑い声が、少しだけ近くなったように聞こえる。
リリアは湯飲みにそっと指を添え、まだぬくもりの残る陶器越しに、自分の鼓動を確かめる。
(殿下は、あの日の謝罪に来られた)
(けれど、それだけではなく――
今のわたくしたちが、どこに立っているのかを確かめ合うために)
胸の内側で、小さな灯火が、静かに揺れながらも消えずに燃えている。
それは、神の奇跡ではなく。
“選ばれなかった令嬢”が、自分で選んで歩き始めた証として、確かにそこにあった。
机の上には、紙束がいくつも重なっていた。
端が少しよれている帳簿。
子どもたちの名前と、配られたパンの数。
薪の本数と、残りの日数を計算した走り書き。
「雨漏り・西廊下・要修繕」と、急いで書かれたメモ。
王子はそれらを視界の端でとらえながら、しばらく黙っていたが――
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「では――」
彼は言葉を選ぶように、いったん目を伏せ、それからリリアを見る。
「今のおまえは、ここで、何を求めている?」
「この冬を、どう過ごしている?」
問われて、リリアは一度だけ瞬きをした。
すぐに答えようとして、ふと、机の上の紙束へと視線を落とす。
「そうですわね……」
彼女は、一番上にあった帳簿をそっと手に取った。
指先には、インク汚れと、乾燥でひび割れかけた赤みが残っている。
「配給の帳簿を数えたり――」
ページをめくると、整った字で数字が並んでいた。
「今ある穀物の量と、街の人数と、冬が明けるまでのあいだを見比べて」
指先で、ある一行の下線をなぞる。
「“今日はここまでなら配れる。明日は少し薄くなるかもしれない”と、
そんなふうに、日々の配り方を決めておりますの」
王子の想像の中で、粗末な倉庫の光景がよぎる。
積み上げられた麻袋。冷たい空気。
その前で、彼女が帳面を手に、真剣な顔をして数を数えている姿が、ありありと浮かぶ。
「それから、薪の残りを確認したり」
リリアは、別の紙を手に取る。
そこには、薪の本数と日付がびっしりと記されていた。
「火を強くすれば、寒さは少しやわらぎますけれど、
その分だけ、春を待つ前に薪が尽きてしまいますもの」
小さく笑みをこぼす。
「ですから、子どもたちに“今日は少しだけ我慢ですわ”とお願いして、
火のそばで一緒に歌をうたったりもいたしますのよ」
王子は思わず問いかけた。
「寒さをごまかすために、か?」
「ええ。歌と、おしゃべりと、くだらない笑い話は、薪を減らさずに済みますから」
冗談めかした言い方だったが、その奥にある切実さは、隠しきれていない。
「雨漏りの場所にバケツを置いて、子どもたちに滑らないようにと声をかけたりもしますわね」
リリアは、天井を見上げるような仕草をしてから、また王子に視線を戻す。
「床ばかり見ていると、頭の上から落ちてくる危うさに気づくのが遅れますもの。
――この街では、“足元を見る”と“俯いてしまう”のは、似ているようで少し違いますの」
その言葉の裏には、雨漏りの染みや、置かれたバケツ、
濡れた床で転びそうになる子どもたちの姿がちらついていた。
「泥だらけの手を握って、一緒に火のそばに座ったり――」
リリアの声音が、ほんの少し柔らかくなる。
「冷たくなった指先を、両手で包んで、“ここに火がありますわ”と教えてあげるのです。
自分の手も、ついでに温まりますし」
彼女の脳裏には、あの少年の横顔が浮かぶ。
「空なんて見ないよ」と言いながら、水たまりに映る空を覗き込んだ、あのときの視線。
王子は、それを聞きながら、静かに息を吐いた。
(王宮の暖炉の炎とは、まるで違う冬だ)
(ここでは、炎は“景色”ではなく、“一日分の命”そのものなのだ)
リリアは、自分でも少し照れくさくなったのか、微笑を含ませて続けた。
「王宮の者から見れば、どれも“取るに足らないこと”に見えるかもしれませんわ」
「帳簿をつけて、薪を数え、バケツを置いて、子どもの手を握る――
どれも、舞踏会の招待状の仕分けほど、華やかではありませんもの」
そう言いながらも、その瞳には、わずかな誇りが灯っている。
「けれど、ここで誰かが一日生き延びるためには、
どれも少しずつ、必要なことですの」
誇大にも、矮小にもせず。
ただ、自分のしていることを、そのままの重さで口にする声だった。
王子は、その表情を見つめながら、ふっと息を吐いた。
「……おまえは、変わったな」
感嘆とも、寂しさともつかない響きが混じる。
リリアは、軽く肩をすくめてみせた。
「変わりましたわ。少なくとも――」
口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「“殿下にお気に召されるためだけの微笑み”を作るのは、やめました」
かつて王宮で、何度も鏡の前で練習させられた、完璧な曲線の笑み。
誰から見ても整っていて、崩れない、傷つかないための仮面。
今、彼女の顔に浮かんでいるのは、それとは違う。
少し緊張も混じり、言葉を選ぶための逡巡も見える。
子どもたちと過ごすうちに覚えた、肩の力の抜けた笑い方。
王子は、その変化をまっすぐに見て、苦笑を返した。
「そうしてくれたほうが、今はずっと、ありがたい」
「まあ」
リリアは、目を丸くし、それから小さく笑った。
「昔のわたくしが聞いたら、ひどく落ち込みますわね。
“これでも完璧な微笑みを目指していたのに”と」
「昔のおまえには、昔のわたしが似合っていたのだろう」
王子は、自分の言葉に少し照れながらも続ける。
「だが今は――“本当の顔”で話せるおまえのほうが、
わたしにはずっと、正面から向き合いやすい」
リリアは、その言葉を聞いて、胸の奥でそっと何かがほどけていくのを感じた。
(あの頃のわたくしが、必死に守っていた仮面は――
殿下のため“だけ”のものではなかったのかもしれませんわね)
(選ばれるため、自分を壊さないため。
そうして重ねた微笑みは、結局、自分自身を苦しめていただけで)
今こうして、冬の街の話を、
自分の言葉で、ありのままに語ることができている。
それを「ありがたい」と言う王子が、目の前にいる。
窓の外では、子どもたちの笑い声が、少し近くなったように響いた。
リリアは、机の上の帳簿をそっと閉じる。
「……殿下」
「なんだ?」
「わたくしがこの街で過ごしている冬のことを、
“取るに足らないこと”だと笑わないでいてくださるのなら――」
そこで一拍置き、自然な微笑を浮かべる。
「殿下が過ごしておられる“王宮の冬”のことも、
いつか聞かせていただけますか?」
王子は、ほんの少しだけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「約束しよう。
この国が、どんな冬を迎えようとしているのか――
わたしの知る限りを、きちんと話す」
その約束は、過去の清算だけではなく、
これからを共に語るための、細く新しい線を描き始めていた。
仮面ではない微笑みと、ようやく向けられた本音の言葉。
冬の談話室の空気は、わずかに、しかし確かに、温度を増していた。
王子の馬車の車輪が、雪まじりの土を静かに踏みしめていく。
孤児院の小さな階段の上で、リリアは外套の裾を押さえながら、それを見送っていた。
冬の陽は低く、薄い光が街路をなでるように伸びている。
「近いうちに、また話をさせてほしい」
別れ際、王子はそう言った。
きっちりとした礼ではなく、どこか探るような、けれど確かな視線を向けて。
リリアは、その視線をまっすぐ受け止めて、静かに微笑んだ。
「はい。そのときは――」
自分の声が、思ったよりも落ち着いているのを感じる。
「この街の冬のことも、もう少し詳しくお聞きくださいます?」
王子は短く息を呑み、すぐに頷いた。
「ああ。約束しよう」
それだけを残して、彼は馬車へと向かっていく。
背中は、相変わらず王子としての重さをまとっているのに、不思議とあの頃ほど遠くは感じなかった。
馬車が通りへ出ていくのを、リリアは階段の上から目で追う。
吐いた白い息が、細く伸びては消えていく。
ふと、気配を感じて横を見やると、建物の影からこっそり覗いていた子どもたちが、いつの間にか階段のそばまで出てきていた。
ミラと少年が、その一歩前に立っている。
「……さっきの笑い方、」
ミラが小声で囁く。
からかう調子よりも、少しだけ感心したような響きが混じっていた。
「王宮にいた頃と、全然違ってましたよ」
リリアは、驚いたように目を瞬かせる。
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
ミラはきっぱりと言い切った。
「前は、“こう笑わなきゃ”って決めて笑ってた感じでした」
片手で、自分の口元の端を引き上げてみせる。
「こう、完璧な角度で、崩れないように、って」
リリアは思わず苦笑する。
――鏡の前で、何度も何度も練習させられたあの微笑みを思い出す。
頬の筋肉がつりそうになるまで、“これが正しい”と言い聞かせていた、あの顔。
「今は……なんていうか、ちゃんと“自分の顔”で笑ってます」
ミラの言葉に、少年も気恥ずかしそうに口を挟んだ。
「……さっきのリリアねえちゃん、」
彼は、まだ遠くに小さく見える馬車の方をちらりと見てから、リリアを見上げる。
「いつもの“寒いときの笑い方”と同じだった」
「寒いときの……笑い方?」
リリアが首をかしげると、少年は耳まで赤くしながら続ける。
「みんなが寒そうにしてるとき、
薪が足りないなって顔しながら、それでも笑ってる顔」
その瞬間、リリアの胸の奥で、何かが静かに鳴った。
――薪が心許なくなった夜。
火を弱めざるをえない炉の前で、肩を寄せ合う子どもたち。
「今日は歌で温まりましょう」と言いながら、声を張りあげて笑わせようとした自分。
あのとき、自分がどんな顔をしていたのか、鏡で確かめたことは一度もない。
ただ、「心配させすぎないように」と、「嘘はつかないように」の、ぎりぎりの線を探していた気がする。
ミラと少年の言葉が、その「見えない顔」に形を与えてくれたようだった。
リリアは、ふっと目を細める。
(そうですのね)
(わたくしは今――
“誰かに気に入られるための顔”ではなく、
“寒さの中で、それでも一緒に立っていられるように”笑っているのですわ)
遠くで、王子の馬車が角を曲がり、その姿が見えなくなる。
そこに残るのは、白い息と、踏み固められた雪の筋だけ。
リリアは、その消えていった方向へ視線を向けたまま、小さく息を吸う。
(殿下)
(わたくしのこの微笑みが、もはや仮面ではないことを――
あなたは、どこまで気づかれたのでしょうね)
風が、頬を撫でていく。
冷たさの中に、かすかな痛みと、同じくらいの心地よさがあった。
リリアはそっと、自分の口元に指先を触れた。
その感触を確かめるように、ゆっくりと笑みを深める。
もう、昔のように形を測ることはしない。
何度も直され、磨かれ、完璧であることを強いられていた、「王宮の微笑み」ではない。
今ここにあるのは、泥だらけの手を握り、
雨上がりの狭い空を見上げるようになった自分自身の――
少し不格好で、けれど確かな笑顔だけだ。
背後で、子どもたちの小さな足音がぱたぱたと鳴り始める。
「リリアねえちゃん、おなかすいたー!」
「パン、まだある?」
「はいはい。今、扉を開けますわ」
リリアは階段を降り、いつものように孤児院の扉へ向き直る。
胸の内側では、礼拝堂で灯し直した小さな火が、静かに燃えている。
王子の前で浮かべた笑顔も、いま子どもたちに向けようとしている笑顔も、同じ火で温められているのだと、はっきり分かる。
彼女は取っ手に手をかけ、短く息を整えた。
そして――いつものリリアの顔で、扉を押し開ける。
冬の冷たい光が、室内のぬくもりと交わる。
白い息が扉の向こうへ溶けていく。
かつて王宮で磨き上げた“完璧な微笑み”は、もうどこにも見当たらない。
そこにあるのは、自分で選んで歩き始めたリリアの笑顔と、
その笑顔を灯し続けようとする、胸の小さな火だけだった。
それを静かに確かめながら、彼女はいつもの冬の日常の中へと戻っていった。




