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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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訪問者 ―― 王子が、彼女を探して現れる。

 朝の空気は刺すように冷たく、吐いた息が白くほどけていく。


 孤児院の玄関先には、大きな籠がふたつ。焼き上がりから少し時間の経った黒パンの香りが、うっすらと漂っていた。リリアは手袋を外し、指先のかじかみをほぐしながら、列を作る子どもたちに一つずつパンを手渡していく。


「はい、慌てずに。あなたの分も、ちゃんとございますわ」


「ぼく、端っこがいい! カリカリしてるやつ!」


「ええ、じゃあ特別に、この焼き目の濃いところを」


 子どもがぱあっと顔を輝かせる。その様子に微笑みながら、リリアは籠の残りを一瞥し、頭の中で人数と数を素早く照らし合わせる。向こうではミラが、濡れたマントを干す場所を確保しながら、侍女や年長の子どもたちにぱきぱきと指示を飛ばしていた。


「そっちの棚、もうちょっと詰めて! あ、それ以上積んだら落ちますよ! ……あーもう、誰ですか、まだ雪つけたまま室内に入ったの!」


 いつもと変わらない、冬の朝の風景――のはずだった。


 その空気を破ったのは、ドアを乱暴に開け放つ音と、冷気の一気の流入だった。


「おい、見たか!? 街の入り口に、すっごい馬車が――!」


 さきほど外回りに出ていた少年が、頬を上気させ、息を切らせながら飛び込んでくる。肩や髪には、かすかな雪の名残。


「こらこら、靴! 土、土!」とミラが慌てて床を指さすが、少年はそれどころではないとばかりに、リリアの前まで駆け寄った。


「リリアねえちゃん、早く! なんか、すっごいのが来てる!」


「すっごい……?」


 リリアは思わず少年の顔を覗き込む。少年は「言葉じゃ伝わらない!」と言わんばかりに手をぶんぶんと振り、外を指さした。


「紋章のついた旗、いっぱい! 馬もキラキラの飾り付けで……あんな馬車、初めて見た!」


 周囲の子どもたちもざわつき始める。「王子様?」「お姫様?」「お話のやつ?」と、小さな声が飛び交う。


「少しだけ、見てまいりますわね」


 リリアは子どもたちを宥め、ミラに目配せをした。ミラは「分かりました」と肩をすくめ、残りのパン配りを代わって引き受ける。


 外に出ると、冬の朝の光が白く広場を洗っていた。空気は乾いているのに、鼻の奥がつんと痛むほど冷たい。孤児院の前から、広場を挟んで街の入口に続く通りを見やれば――


 そこに、確かに、少年の言葉どおりのものがあった。


 雪にくすんだ家々と、煤で黒ずんだ屋根。その間をゆっくりと進んでくるのは、この街にはあまりにも不釣り合いな馬車の列だった。


 漆黒に塗られた車体は、磨き込まれた金の装飾で縁取られ、扉部分には見慣れた紋章がくっきりと刻まれている。四頭立ての馬たちは、毛並みを隙なく手入れされ、胸元には王都式の飾り房が揺れていた。その両脇を、鎧姿の護衛騎士たちが整然と守っている。


 白い息と鉄のきしむ音、蹄が石畳を打つ乾いた響き。街路にいた人々は思わず足を止め、通りの両端へと身を寄せた。


「……なんだありゃあ」「王都の馬車か?」「こんな辺境に、何の用だ」


 顔をこわばらせながらも、どこか諦めたような苦笑いがいくつも混じる。


「どうせまた、偉い人が何か決めに来たんだろうさ」「配給の量を減らします、なんて言われなきゃいいがね」


 期待よりも、先に出てくるのは警戒と疲れた冗談。それが、この街の人々が王都に向ける感情の色だった。


 リリアは、そんな声を背に受けながら、視線を馬車へと焦がすように向ける。


 旗だ。


 先頭の騎士が掲げる旗に縫い取られた紋章を目にした瞬間、彼女の胸の奥がきゅう、と縮む。


(あの紋章は――)


 王宮の大広間。磨き込まれた大理石の床。高くそびえる柱の上、何度も見上げてきた旗。


 それを目にするたび、背筋を正し、ドレスの裾を整え、「相応しいわたくしであらねば」と自らに言い聞かせていた日々。


(わたくしが“選ばれる”ことを夢見て、

 そして“選ばれなかった”場所の印……)


 冷たいはずの空気が、急に濃く重くなる。肺に入る息が浅くなり、指先がじんとしびれた。


 気づけば、こぶしをぎゅっと握りしめている。指の関節が白く浮かび上がるのを、ぼんやりと他人事のように眺めた。


 隣に気配が寄る。


「……リリアさん。顔色、ちょっと悪いですよ」


 ミラだった。いつのまにか背後から追いついてきていて、心配そうにリリアの横顔を覗き込んでいる。


 リリアは、ゆっくりと瞬きをしてから、無理のない範囲で口元に笑みを形づくった。


「大丈夫ですわ。ただ、少し……懐かしい紋章を見てしまったものですから」


 そう言いながらも、視線はどうしても馬車から離れない。


 馬車の列は、ゆっくりと、しかし確実にこの街の中心へと近づいてくる。その先にある孤児院を、彼女の今の生活を――やがて、真っ向から踏み込んでくるのだと、まだ何も知らないはずの自分の胸が、勝手に悟ってしまったかのように締めつけられていた。



 街の中心部にある簡素な石造りの建物は、いつもよりいくぶん静まり返っていた。


 領主代理の執務室――といっても、粗末な机と帳簿棚、それに来客用の椅子がいくつか並ぶだけの狭い部屋だ。だが今日は、机の上に山積みだった書類はきれいに整理され、壁の煤けた布もいちおう払い直されている。床には、慌てて拭き掃除をした名残の、まだ乾ききらない水跡が残っていた。


 その中央に、やけに場違いな存在感を放つ人物がひとり、椅子に腰かけている。


 厚手の外套を侍従に預けた第一王子は、肩に残る冷気を払うように軽く息を吐いた。王都で見慣れた礼装ではなく、旅装に近い頑丈な上着姿。それでも纏う布の質と仕立て、背筋の伸び方ひとつで、ここが彼の「ホーム」ではないことが一目で分かる。


 彼の背後には、護衛騎士が二人、直立不動で控え、もう一人の侍従が部屋の隅で気配を消すように立っていた。


 対面する机の向こうでは、この街の領主代理である中年の役人が、緊張のあまり手の置き場所すら定まらない様子で背筋を固くしている。額にはうっすらと汗。冬の冷え込みなど、今の彼には届いていないらしい。


「お……お噂には、かねがね……」


 なんとか絞り出した第一声は、情けないほど上ずっていた。


「まさか、このような辺境に殿下がお越しになるとは、夢にも……」


「急な訪問で迷惑をかけたな」


 王子は形だけ肩をすくめ、礼を欠かないように軽く首を傾ける。声は穏やかだが、その瞳には、長旅の疲れとは別種の落ち着かなさが揺れていた。


「用件は、長々と隠すようなものでもない。単刀直入に聞かせてもらおう」


 彼は机越しに視線をまっすぐ上げる。


「ここに――“公爵令嬢リリアンヌ・エルンスト”が滞在していると聞いた。間違いないだろうか」


 部屋の空気が、さらに張り詰める。


 役人は一瞬だけ目を泳がせ、それから慌てて頷いた。


「は、はい。たしかに、その名のご令嬢が、この街においでです。王都からの通達にも、“エルンスト公爵家嫡女”と記されておりましたので……」


 王子の肩が、ほんのわずかに緩む。


「そうか。居場所だけでなく、生存の確認が取れただけでも、王都の連中は少しは眠りやすくなるだろう」


 軽く吐き出した言葉には冗談めいた響きもあったが、その目の奥に浮かぶのは、笑みとはほど遠い影だった。


 役人は、そこで言葉を区切るか迷ったように口をもごもごさせ、意を決して続けた。


「た、ただ……殿下」


「うむ?」


「リリアンヌ様は、この街に滞在されているとはいえ……ほとんど役所にはお越しになりませんでして。その、孤児院や配給、作業場などのほうを回っておられるようで……」


「つまり、机の上で書類をいじっているより、街を歩いている時間のほうが長い、ということか」


 王子の口元に、かすかな苦い笑みが浮かぶ。


「らしい、と言えばらしいな」


 役人は、その意味を測りかねたように目を瞬かせた。


「……殿下、恐れながら。今回のご来訪は、やはり――」


「“婚約解消の件”だろう?」


 王子は自らその言葉を口にし、机の上で指を組んだ。その動きは落ち着いているようでいて、わずかな力みが滲む。


「王都では、あの一件以来、なかなか喧しいのだ。“王子が一方的に婚約を破棄した”だの、“公爵家を軽んじた”だのと、好き勝手に囁く者が多くてな」


 役人は居心地悪そうに視線を落とした。遠い王都の権力争いは、ここ雪の街にとっては雲の上の出来事のはずなのに、その影はこうして届いている。


「公爵閣下も表立って騒ぎ立てることはなさらぬが……沈黙が続けば続くほど、周囲は好きに意味を付けたがる。『王家と公爵家の関係は冷え切った』などと“


有識者


(


・・・・・


)


”を気取って語る連中もいる」


 王子は皮肉げに唇を歪めた。ああいう者たちほど、自分の手は汚さずに言葉だけで火を大きくしようとする、と。


「それだけではない。“婚約を解いた王子は、元婚約者がどうなろうと構わぬのか”――そう囁く声も、少なくないのでな」


 その言葉には、わずかな苦渋が滲んでいた。


 役人は、そんな王子の表情を恐る恐る伺いながら問う。


「では……殿下は、“王家のご体裁”のために、こちらへ?」


 その問いには、責める響きはなかった。ただ、事実を確かめたいという素朴な戸惑いだけがあった。


 王子はしばし黙り、視線を机の向こう――窓の外に向ける。ガラス越しに見えるのは、雪をかぶった屋根と、煙突から立ち上る細い煙。


「王家としての体裁を整える必要があるのは、事実だ」


 静かな肯定。役人の背筋がさらに固くなる。


「公爵家との関係をこれ以上悪化させるわけにもいかぬし、宮中の派閥争いに“元婚約者の扱い”を利用させるわけにもいかない。だから、文書だけではなく、この目で彼女の様子を確かめる必要がある――建前としては、そういうことになっている」


「建前……にございますか?」


 役人の小さな反芻に、王子はふっと目を伏せた。


「……本音を言えば」


 机の上で組んだ指に、少しだけ力がこもる。


「“婚約を解いたから、はいそれで終わり”などと、とても割り切れぬまま時が過ぎてしまったのだ」


 王子は唇の内側を噛み、言葉を選ぶように続けた。


「王子としての判断と責任。王家と公爵家との力の均衡。どれも無視の出来ぬことだ。あの決断を下したときも、私はそれらを考え、覚悟を持ったつもりでいた」


 だが――と、彼は低く言葉を重ねる。


「雪深い辺境で、彼女が何を見て、どう過ごしているのかも知らぬまま、王都で政務だけをこなしていると……ときどき、胸の奥から掴みかかってくるものがある」


 それが罪悪感と呼ばれるものだと、彼自身が一番よく知っていた。


 だからこそ、側近の反対や、宮中の思惑を押し切り、自らの意思でこの雪の街へ来た。そう言い切れるほど、彼の中には一抹の意地もあった。


「“彼女がどうなろうと構わぬ王子”でいたくはない」


 ぽつりと落とされた言葉は、静かな部屋に重く響いた。


「王家の責任としても、一人の人間としても――解いた縁の相手がどのように生きているのか、知らぬまま背を向けることだけは、したくなかった」


 役人は、その正直な言葉に目を見開き、そして深く頭を垂れた。


「……殿下のご真意、たしかに承りました」


「案内を頼みたい」


 王子は椅子から立ち上がる。旅の疲れを纏ったままの動作だが、その背筋は、王族として育てられた矜持を忘れていない。


「“公爵令嬢リリアンヌ”が――今は“どのように名乗り、どう生きているのか”を、この目で確かめたい」


 その言葉とともに、暖炉の火が小さくはぜた。


 王都の高い天井の下で下された決断の余波が、ようやくこの雪の街へと、具体的な形を伴って流れ込んできた瞬間だった。


その日の孤児院は、いつもより妙にざわついていた。


 朝食のパン配りも終わり、子どもたちがそれぞれの持ち場に散っていく頃。談話室の隅で積み木をしていた子が、勢いよく立ち上がった。


「ねえねえ! 聞いた!? 王子様が来たって!」


 その一声で、近くにいた子どもたちの首が一斉に跳ねる。


「ほんものの王子様!?」

「おとぎ話の、アレ? お姫様助けるやつ!?」

「キラキラの服、着てるのかな!」


 談話室の真ん中では、いつのまにか「王子様とは何か」の大議論が始まっていた。


「絶対、剣とか持ってるよ! こう、シャキーンって!」

「違うよ、もっとこう、マントがばさーってなって、馬に乗ってて……」

「馬車で来たんだって! 街の入口で見た人が言ってた!」


 わあわあと湧き立つ声は、廊下にまで流れ込んでいく。


 その廊下で、ミラは濡れたマントを干しながら、騒ぎの中心を振り返った。


「王子様ねえ……」


 半分は楽しそうに、半分は苦笑しながらつぶやく。


 キッチンの奥では、煮込み鍋をかき混ぜていたスタッフの女性が、子どもたちの声に肩をすくめた。


「王子様が来たところで、配給の量が急に増えるわけじゃないさ」


 同僚の男性も、戸棚から皿を出しながら鼻を鳴らす。


「そうだよ。むしろ、偉い人のお迎えのためだって言って、こっちの食材まで持ってかれるかもしれない」

「“視察のご一行様のおもてなし”とかね。こっちは普段通りの鍋しか出せないってのに」


 口調に毒はあっても、そこにあるのは諦めに似た現実感だ。


 談話室に戻れば、子どもたちが盛り上がり、キッチンの中では大人たちが顔を曇らせる。その真ん中あたりの廊下で、ミラは両陣営を見比べて、肩を落とした。


「“おとぎ話の王子様”と、“現実の王子様”は、だいぶ違うんですよねえ……」


 そうぼやきながら、濡れた布をしぼって窓枠を拭く。


 その少し離れた場所――廊下の端にある小さな窓辺で、リリアは静かにその喧騒を見つめていた。


 窓の外には、遠くの通りを行き交う人々の列。そして、その向こうにかすかに見える、紋章付きの馬車の一部。ここからでも、布地の光沢と車輪の装飾の細かさが分かる。


(……王子様、ですのね)


 談話室で子どもたちが夢見る「物語の登場人物」としての王子。


 キッチンで大人たちが口にする、「配給も増やしてくれない現実の権力者」としての王子。


 そしてリリアにとっての王子は――そのどちらでもあって、どちらでもない。


(わたくしにとっての“王子様”も……)


 胸の奥が、きゅう、と小さく縮む。


(夢と現実の間で、ずいぶん姿を変えてしまいましたわね)


 王宮の広間で、初めて見上げた横顔。

 礼儀正しく微笑みかけられたとき、頬が熱くなった感覚。

 やがて、婚約破棄を告げる言葉を、同じ口から聞かされた日の、あの冷たい空気――。


 今、孤児院の廊下を満たしているのは、煮込みの匂いと、子どもたちの笑い声と、雨上がりのような湿った寒さだけだ。それでも王都の記憶は、馬車の紋章ひとつで、痛みを伴って蘇る。


「……“リリア”さん」


 背後からの控えめな呼び声に、リリアは振り向いた。


 そこには院長が立っていた。いつもの穏やかな目元に、今日はわずかな緊張が混じっている。


「はい。どうかなさいまして?」


 リリアが問い返すと、院長は一瞬だけ迷うように視線を泳がせ、それから静かに言葉を選んだ。


「街に――第一王子殿下が、お越しになりました」


「ええ。噂は、もうこちらにも」


 リリアは微笑もうとしたが、その端は少しだけ固くなった。


 院長は、その表情の揺れを見て、ゆっくりと息を吸う。


「恐らく、殿下はあなたに会いに来られています」


 丁寧な口調の中で、彼は言葉をわずかに区切る。


「お嬢様……いえ、“リリア”さん」


 その呼び方が、リリアの胸を静かに揺らした。


 今この街で暮らしているのは、公爵令嬢リリアンヌではない。孤児院で働き、子どもたちとパンを分け合い、雨漏りのバケツを置き場所に悩む、一人の“リリア”だ。


 けれど、院長の「いえ、“リリア”さん」という言い直しには、別の意味も含まれている。


 ――あなたが今ここでどんな名を名乗っていても。

 ――これから向き合う相手は、「公爵令嬢リリアンヌ」としてのあなたを知っている人ですよ、と。


 リリアはふっと目を伏せ、ほんの一拍だけ深く息を吐いた。


「……そう、ですわね」


 胸の奥で、過去と現在がぶつかり合う音がする。


 王宮の光と、この雪の街の白い吐息。

 “選ばれたい”と願っていた自分と、“選ばれなかった”あとに見つけた冬の光景。

 その二つを、今度は同じ場所で、同じ空気の中で抱えなければならない。


 リリアはそっと顔を上げた。


「わたくしは、今ここでは“リリア”として暮らしております」


 自分に言い聞かせるように、一度確認する。


「けれど――殿下がいらしたのなら、“リリアンヌ”として向き合わねばならない時なのでしょうね」


 院長は静かに頷いた。


「どちらの名であっても、今ここにいるのは、同じ一人のあなたです」


 その言葉に、リリアは小さく笑みを浮かべる。


「ええ。逃げるわけにはまいりませんわね」


 談話室からは、まだ「王子様がね!」というはしゃいだ声が聞こえてくる。


 “おとぎ話の王子様”に目を輝かせる子どもたち。

 “現実の王子様”に眉をひそめる大人たち。


 そのどちらとも違う「一人の男」としての王子に会いに行くために、リリアはそっとスカートの裾を整え、胸の前で指先をきゅっと握りしめた。


 ――過去の自分とも、今の自分とも、同時に向き合う覚悟を確かめるように。



孤児院の一番奥――古い掃除用具と予備の毛布が詰め込まれた、小さな物置部屋。


 壁に打ちつけられた釘に、自分の外套を掛けて、もう一度取り、そのたびに襟元を直して。リリアは、何度目か分からない仕草を繰り返していた。


 狭い部屋の空気は、ほこりと石鹸の匂いが混じっている。外からは、談話室のざわめきが、ほんのかすかな震えとなって届いてくる。


(深呼吸、ですわ)


 胸の前で指先を重ね、そっと息を吸う。吐く。……吸う。また吐く。


 それでも、心臓の鼓動は落ち着いてはくれなかった。


(殿下が、この街に)


 頭ではすでに何度も言葉にしてみたはずなのに、胸の奥でその事実が形を持つたび、身体のどこかがきゅっと縮こまる。


 外套の前を留めようとしたそのとき――


「……あの」


 扉の向こうで、落ち着きなく行ったり来たりしていた気配が、ついにこちら側へ踏み出した。きしむ音とともに扉が開く。


 顔を覗かせたミラは、妙に所在なげに立っていた。普段なら軽口のひとつも飛んでくるところだが、今日は言葉を探している様子がありありと見えている。


「……逃げるなら、今ですよ」


 第一声がそれだった。


 リリアは目を瞬かせる。


「まあ」


 ミラは、半ば真剣、半ば冗談、といった顔で続けた。


「“リリアさんは、村に視察に行ってて不在です”って言い訳くらいなら、なんとかしますよ。

 院長さんの字っぽく見えるメモも、それっぽく書きます」


 その言い分は、あながち不可能ではない。事実、彼女が一日中外に出ている日など、ここに来てから何度もあった。


 リリアはふっと笑い、首を横に振る。


「逃げるためにここへ来たわけではありませんもの」


 笑ってはみせたが、その声は自分で思ったより少しだけ低かった。


「けれど――」


 外套のボタンにかけていた手が、そこで止まる。


「正直に申し上げますと、まだ“リリアンヌ・エルンスト”として殿下の前に立つ覚悟が整っているとは……とても言いがたくて」


 自嘲するような笑みが、頬に浮かぶ。


 物置部屋の窓は小さく、高い位置にある。そこから差し込む冬の光は弱く、部屋の中に落ちる影は深い。リリアはその影の中に、自分の輪郭がぼやけていくような心地がした。


(わたくしは今、“リリア”として生きているのに)


 泥だらけの子どもの手を握り、

 雨漏りの天井を見上げ、

 雨上がりの狭い空を、少年と並んで見つめ――


 そうやって積み重ねてきた日々に、ついている名札は「リリア」だ。


(この街の冬に触れ、泥だらけの手を握り、雨上がりの空を見上げることを覚え始めたばかりの、“リリア”。)


 けれど、王子が探しているのは――


(殿下にとってのわたくしは、きっと今でも

 “王妃候補として選ばれなかった公爵令嬢リリアンヌ・エルンスト”なのでしょう)


 王宮の広間で、完璧な笑みを貼りつけていた少女。

 夜毎、祈りのふりをしながら、「選ばれたい」とだけ願っていた少女。


 その名を呼ばれていた頃の自分が、ひとり分の存在感を持って、胸の内側に立っている。


「じゃあ」


 ミラが、狭い部屋の中を一歩二歩と進みながら、率直に言った。


「どっちの名前で会います?」


 言葉は、驚くほど簡潔だった。


「“リリアンヌ様”として? それとも、今の“リリアさん”として?」


 リリアは、そこで言葉を失った。


 外套の布が、指先の下で小さく皺を作る。視線を落とせば、見慣れてしまったこの服も、王宮から見れば粗末な旅装束に過ぎないだろう。それでも――この街で何度も雪と泥を受け止めた布には、彼女にとっての重みがある。


(“リリアンヌ”として会うのなら――)


 ドレスの裾を踏まない歩き方も、王宮式の礼も、今でも身体は覚えている。背筋を伸ばし、顎を上げて、微笑みを整えれば、きっと「公爵令嬢らしい姿」は再現できる。


(けれど、そのときわたくしは――

 ここで見た冬のことを、どれほど素直に語れるのでしょう)


 この街の冷たさ、子どもたちの笑い声と空腹、雨の日の湿気、そのすべてを抱えたまま、「王妃候補だった令嬢」として王子と向き合う――想像するだけで、胸の奥がきしむ。


(では、“リリア”として会うのなら?)


 名を隠し、この街の一人の働き手として、彼の前に立つ。

 孤児院で子どもに囲まれる「リリア」としてなら、自分はもう、ある程度自然に笑えるはずだ。


 けれどそれは、彼が探しに来た「公爵令嬢」を、またひとつ嘘で覆うことにもなる。


(わたくしは今、“リリア”としてここにいて。

 殿下は、“リリアンヌ”を探している)


 そのねじれは、彼女の胸の中で、ほどける気配を見せない。


 ミラは、沈黙するリリアをしばらく見つめてから、そっと肩をすくめた。


「……すぐ答えを出せって言われても、無理ですよね」


 わざと軽く言葉に棘を混ぜずに、柔らかく笑う。


「逃げてもいいし、会ってもいいと思います。あたしは。

 ただ――どっちを選んでも、あとで自分を責めすぎないでくださいね」


 その一言に、リリアは目を瞬かせた。


「自分を……責めすぎない?」


「はい」


 ミラは、物置の壁にもたれかかりながら、言葉を続ける。


「王宮を出てここに来たときだって、リリアさん、きっといっぱい悩んだじゃないですか。

 それでも“ここで生きてみる”って決めて、ちゃんと手を動かしてる。

 それだけでもう、十分すごいことだと思いますけどね、あたしは」


 リリアは、少しだけ目を伏せた。


(わたくしはいつも――

 “正しく選べたかどうか”ばかり気にしてしまう)


 王妃候補として、「正しい淑女」であろうとした頃。

 婚約を失った夜、「間違った令嬢だったのだ」と自分を切り捨てた頃。


 選んだ道の価値を、いつも「他人がどう見るか」で測ろうとしていた。


(けれど今、ここで迷っているのは――

 “他人にとっての正しさ”ではなく、

 “今のわたくしが、どちらの名で立ちたいか”という問い)


 すぐに答えは出ない。


 どちらの名を選んでも、どこかが痛むことを、彼女はもう知っている。


「……ありがとうございます、ミラ」


 リリアはようやく顔を上げ、小さく笑った。


「今はまだ、“どちらの名で会うか”を、はっきりと言えませんわ。

 殿下に会うかどうかさえ、決めきれてはおりません」


「ですよね」


 ミラはあっさり頷く。


「だからこそ、今こうして外套を着ている自分が、何を選ぶのか。

 もう少しだけ、この胸のざわめきを眺めてみたいのです」


 リリアは、自分の胸にそっと手を当てた。


 “リリア”と呼ばれるようになってから育った鼓動と、

 “リリアンヌ”と呼ばれていた頃の記憶が混ざり合って、落ち着かないリズムを刻んでいる。


 ミラは、それ以上何も言わなかった。ただ、「外で待ってます」と短く告げて、物置部屋を出ていく。


 扉が閉まると、部屋は再び静けさに包まれた。


 リリアはしばらくのあいだ、外套の前を留めたまま、ただその場に立ち尽くしていた。


(逃げるか、会うか)


 その問いは、頭の中で何度も反芻される。


(“リリア”としてか、“リリアンヌ”としてか)


 答えは、まだ形にならない。


 ただひとつだけ確かなのは――


(どちらの名であろうと、わたくしはもう、

 あの頃のように“誰かに選ばれるためだけに”立つことは、できませんわ)


 自分が選ぶ側でありたいと、初めて思った。


 自分の名を、自分でどう使うかを決めるために――。


 胸の中の予熱だけを抱えたまま、リリアはそっと外套の裾を整えた。


 答えはまだ、扉の向こうには持ち出さない。


 けれど、逃げるでもなく、すぐ会いに行くでもなく。


 その狭間で揺れ続ける時間ごと抱えながら、彼女は静かに深呼吸を繰り返した。


 ――次に足を踏み出すとき、自分の口からどの名を名乗るのか。


 その選択を引き受けるための、小さな準備を続けながら。



冬の昼下がり。灰色の光が、孤児院の玄関扉のガラス越しに薄くにじんでいた。


 その向こうで、鈍く光る車輪の縁と、馬の脚が止まる気配がする。


「……来ましたね」


 院長が、胸元でそっと手を組み直した。玄関ホールに並ぶのは、院長と数人のスタッフ。皆、いつもよりきゅっと口元を引き結んでいる。


 戸口の陰や階段の手すりの隙間から、いくつもの小さな視線がのぞいていた。


「本当に王子様なの?」

「鎧の人がいっぱいいる……」

「しーっ、声出しちゃだめ」


 子どもたちのささやきが、緊張と好奇心を入り混じらせて浮遊する。


 とん、とん。


 扉を叩く音は、旅人のものより静かだが、妙に重く胸に響いた。


 院長がひと呼吸置き、扉を開ける。


 吹き込んでくる外気は、ひんやりとしている。だが、その向こうに立つ一団の存在感が、その冷たさを上書きするようだった。


 先頭に立つ青年は、王宮で見る礼装よりはずっと簡素な装いをしていた。豪奢な刺繍を控えめに施した上衣の上から、厚手の外套を羽織り、胸元には雪に濡れた王家の紋章。


 無駄な装飾を削ろうと、誰かが工夫したことは分かる。けれど、その立ち方ひとつ、息の仕方ひとつに染みついた「王宮の空気」は、どうしたって消えなかった。


(……殿下)


 院長の喉の奥で、その呼びかけがかすれた。


「遠路お越しくださり……。こんな辺境の、粗末な場所へ」


 青年――王子は、軽く首を振った。


「粗末などとは思っていない」


 それはきちんとした礼儀の言葉であり、同時に、ほんの少しだけ本心がにじむ声色でもあった。


 けれど次に続いた言葉は、もっと直線的だ。


「――リリアンヌ・エルンストは、ここにいるか」


 玄関ホールの空気が、かすかに揺れた。


 院長は、無意識に視線を右奥へ滑らせる。そこにはリリアの使っている小部屋へと続く廊下がある。


 一瞬だけ、その方向を見やったあとで、院長はきっちりと表情を整えた。


「はい。たしかに、この孤児院を拠点として働いておられます」


 王子の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。安堵とも、別の感情ともつかない、微妙な変化だった。


「ただ――」


 院長は続ける。


「今は、街の配給の手伝いに出ておりまして。

 戻りは、日暮れ以降になるかと存じます」


 それがどこまで事実で、どこからが時間を稼ぐための方便なのか。院長自身も、境目をきっちり線引きできてはいなかった。


 ただひとつ確かなのは、「今、この場に彼女はいない」ということだけだ。


 王子は短く息を吐く。その背後で控える騎士や侍従たちが、わずかに姿勢を変えた。


「そうか」


 彼はすぐに問いを重ねる。


「戻りを待つ間、ここを見させてもらってもいいだろうか」


 院長は目を瞬いた。


「……見させる、とは」


「彼女がどのように過ごしているのかを、目で確かめたい」


 その言葉に、院長の胸の内で、ひとつの記憶が疼く。


――王宮から届いた婚約解消の報せ。

――そののち、この街に現れた「元・公爵令嬢」が、震える子どもの手を握りしめていた姿。


(“王妃候補”としてではなく。

 “ここで働く一人の娘”としての彼女を――殿下は、見ようとしておられるのか)


 問いを飲み込んだまま、院長は頭を下げた。


「承知いたしました。お見苦しいところも多いかと存じますが……

 どうぞ、こちらへ」


 ◇


 談話室の扉を開くと、外套を吊るした紐や、簡素な木の机が並ぶ光景が広がる。


 大きな暖炉のそばでは、小さな子どもが毛布にくるまって昼寝をし、その横で年長の子が読み書きの練習をしていた。王子の一行が姿を見せると、子どもたちは一斉に固まる。


「……わあ」


 最初に声を漏らしたのは、まだ幼い女の子だった。


 彼女は、すぐそばにいた年長の少年に、こそこそと囁く。


「本当に王子様だ……」


「しっ、見すぎるなって」


 たしなめながらも、少年自身も目をそらせないでいる。


 王子は、その視線を真正面から受け止めることはせず、談話室全体を一度見渡した。暖炉、机、壁際の本棚。どれも王宮の贅沢とはかけ離れた、ぎりぎりの暮らしの痕跡。


 院長が小さく説明する。


「ここが、子どもたちが一番長く過ごす部屋です。

 字の練習も、食事も、夜の祈りも、だいたいこの場所で」


 王子は頷き、視線を机の一角へ止めた。


 そこには、他の机より少し端に寄せられた、小ぶりな木の机があった。表面には、紙を何度も置いては外してを繰り返したような擦り跡があり、インクの小さな染みも点々としている。


「ここは?」


「リ……」


 院長は、言葉を選ぶように口を閉ざし、少しだけ微笑んだ。


「彼女が、よく出入りしている場所です」


 その机の上には、紙束が積まれていた。


 上のほうの数枚は、整った筆致で記された報告書の控え――「今月の配給状況」「病の子どもの数と傾向」など、淡々とした字で必要事項が記されている。その隙間から、色とりどりの紙片が覗いていた。


 ひとつが、ひらりと落ちる。


「きゃっ、ごめんなさい!」


 慌てて拾おうとした小さな手より早く、王子の指がそれを押さえた。


 手に取った紙には、子どもの拙い字が並んでいる。


『リリアねえちゃん ありがとう』


 文字の周囲には、ぎこちない丸で描かれた人の絵と、大きなハートのようなものが、色鉛筆で塗りつぶされていた。


 王子の眉が、かすかに動く。


「……リリア、ねえ……ちゃん?」


 隣で、院長が咳払いをひとつした。


「この街では、彼女のことを“リリア”と呼んでおりまして」


 その響きは、王都の社交界で何度も耳にした名前から、ひと文字だけ削り取られている。


 けれど、そのひと文字分の削れ目の中に、別の何かが詰まっているように思えた。


(リリアンヌ、ではなく、“リリア”)


 王子は、紙片の文字をなぞるように目で追う。


(そのひと文字分の違いが――

 彼女をここまで遠くに連れて行ったのか)


 王宮の広い舞踏会場で、完璧に整えられたドレスに身を包み、淑女の笑みを浮かべる公爵令嬢。その姿を思い浮かべるたび、いつも隣には「リリアンヌ」という長い名が並んでいた。


 今、この紙に書かれているのは、その名の半分だ。


 半分になったことで、逆に「誰かにとっての近さ」が増したような、そんな響き。


「リリアねえちゃん、すごいんだよ!」


 紙を拾おうとしていた子どもが、遠慮もなく声をはずませる。


 王子がそちらを振り向くと、少年が慌ててその子の肩を引いた。


「こら、殿下の前だぞ」


「え? でも……」


 女の子は、王子を見上げる。その目には、物怖じよりも、単純な誇りが宿っていた。


「リリアねえちゃん、寒いときね、薪の数を一緒に数えてくれるの」

「うちの弟が熱出したときも、ずっとそばで手を握ってくれてたんだよ!」


「おい、しゃべりすぎ」


 少年が頭を小突く。けれど、止めきれない分の言葉は、雪崩のようにこぼれ続けた。


「読み方も教えてくれるし、お腹すいたとき“ちょっと待っててね”って、なんか工夫してくれるし……」


「リリア、は――よくここに?」


 王子は、自分でも気づかないほど自然に、その名を口にしていた。


 院長が静かに頷く。


「ええ。配給の調整や報告書の作成がないときは、たいていここにおります。

 子どもたちの間では、“リリアねえちゃん”と」


 王子は、もう一度手の中の紙片を見下ろした。


 そこに描かれた、丸い頭の棒人間が、にこにこと笑っている。その背の横には、小さく『ゆき』と書き添えられていた。雪の日に遊んだのだろうか。あるいは、雪の中でも一緒にいてくれた記憶か。


(……彼女が、自分から雪の中へ踏み出したというのか)


 王宮での彼女は、いつも完璧に装いを整え、足元の泥など一度も踏んだことがないような顔で立っていた。


 それは、公爵令嬢としての当然の姿――と、彼は思っていたはずだった。


 院長が、別の紙束をそっと差し出す。


「こちらは、街の配給の記録や、病人の状況をまとめた控えです。

 彼女が、こちらに来てからの分の」


 王子が目を通すと、そこには均整の取れた字が並んでいた。王宮の書庫で見た、公爵家の書簡と同じ筆跡。


 しかし、書かれている内容は「何日の配給が予定よりどれだけ不足したか」「凍傷の疑いがある子どもの様子」「雨の日に屋根からの浸水が見られた箇所」――王都では、誰かが数字の報告だけして終わらせてしまうような、細かな現実だ。


(リリアンヌ・エルンストは――

 こんな報告を書いているのか)


 王妃として国政の場に立つ未来を夢見ていた少女の筆が、今はこの街の冬を数え、誰かの震える手を記録している。


 紙から目を離したとき、王子はふと談話室の隅に目を留めた。


 そこには、壁に貼られた一枚の紙がある。子どもの字で、大きく書かれていた。


『リリアねえちゃん おたんじょうび おめでとう』


 まわりには、ぎこちないケーキと、雪だるまの絵。


「これは?」


「少し前に、子どもたちが勝手にやったものです」


 院長が、照れくさそうに笑う。


「本来なら、公爵令嬢のお誕生日をこんなふうに祝うのは、畏れ多いのかもしれませんが……

 あの方は、“とても嬉しかった”と仰っていました」


(……誕生日も、ここで)


 王宮の大広間で開かれる盛大な夜会。

 テーブルいっぱいに並べられる花と、祝辞と、視線と。


 そのすべてが、彼女の未来について語るはずだった。


 そこにはもう彼女はいない。


 代わりに、雪の街の小さな談話室で、拙い字で書かれた「おめでとう」を見て笑っていたのだという。


 王子は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


(俺は――彼女がどこで、何を見ているのかも知らないまま、

 一方的に“婚約を解く”と言い渡した)


 その決断に、政治的な理由はいくつもあった。


 王家と公爵家の力の均衡。

 他の貴族たちの思惑。

 自分が王となったときに背負うべきもの。


 けれど、そのどれもが、この紙に書かれた拙い「ありがとう」や、「おたんじょうびおめでとう」の前では、奇妙に遠いものに感じられた。


 ひと文字削られた名――「リリア」。


 その名で呼ばれる彼女の姿を、まだ一度も自分は見ていない。


「殿下」


 院長の声が、思考を現実に引き戻した。


「彼女が戻るまで、まだ少し時間がかかるかと存じます。

 談話室でも、礼拝堂でも、どこでもご覧になってください」


「……ああ」


 王子は、かすかに頷いた。


 窓の外では、低い冬の陽が石畳を白く照らしはじめている。


 この街の冷たさも、そこで息をする人々の暮らしも、何ひとつ自分は知らなかった――その事実を思い知らされるような、静かな寒さだった。


(リリアンヌではなく、“リリア”)


 紙片をそっと机に戻しながら、王子は心の中で、その短くなった名前をもう一度、ゆっくりと噛みしめる。


 ――彼女の不在は、ただここに「いない」というだけではない。


 不在だからこそ、子どもたちの言葉、机の擦り跡、拙い手紙の一枚一枚が、彼女の変化をくっきりと浮かび上がらせていた。


 その姿は、王宮で隣に並んでいた「元・婚約者」よりも、ずっと遠くて、そして、どこか手の届かない場所にいるように思えた。



 冬の夕暮れは、日中の名残をほとんど許してくれない。


 孤児院の前の通りは、ついさっきまで子どもたちの笑い声と配給の喧噪で満ちていたはずなのに、今はひんやりとした空気と、かすかな足音だけが漂っていた。


 空は、どこまでも薄い鉛色から、じわりと藍へ移ろいはじめている。雲の切れ間がほんのわずかに裂け、その隙間から、まだ名を持たぬ小さな光がひとつ、ふたつと顔を出しつつあった。


 孤児院の門柱のそばに、青年がひとり立っている。


 厚手の外套の襟を指先で整えながら、王子は上空を見上げていた。馬車は通りの少し先で控え、護衛は距離を保って立っている。だが今、この一角だけが、奇妙に静かな世界に切り取られているようだった。


(……冷たいな)


 頬に触れる風は、王都のそれよりも鋭く、骨の奥まで入り込んでくるように感じられる。


 けれど、視線の先の空は、どこか懐かしかった。


 ――雨上がりの空を、誰かが見上げている光景を、つい先日この街で見たような気がする。水たまりに映る空、足元の泥、その上で笑う子どもたちの顔。


(彼女も、同じ空を見ているのだろうか)


 そんなことを考えてしまう自分に、王子はわずかに眉を寄せる。


 すぐに答えは出ない。ただ、胸の奥が落ち着かないまま、彼は空から視線を外し、孤児院の扉に視線を向け――それから、通りの奥へと目を移した。


 そのころ。


 少し離れた路地を、別の一団が曲がってきていた。


 ぎしぎしと軋む音と共に、小さな荷車が押されていく。荷台には、空になった配給用の木箱と、使い回しの麻袋がいくつか積まれている。その横を、バスケットを抱えた娘と、その隣で肩に布袋を担いだ女が歩いていた。


「ふう……今日もよく歩きましたわね」


 リリアは、肩にかかるマントの紐を指先でつまみながら、息を整えるように笑った。頬は冷たさで赤く染まり、足元のブーツには、乾きかけた泥がまだらにこびりついている。


「本当ですよ。もう少しで、足が一本どこかに落としてくるところでした」


 隣を行くミラが、半ば本気、半ば冗談でぼやく。


「でもまあ、今日のところは大きな揉め事もなくて何よりです。配給の列でケンカにならなかった日って、わりと貴重ですよ」


「ええ。皆さま、少しずつ“順番を待つ”ということに慣れてくださっているのかもしれませんわ」


 そんな会話を交わしながら、三人と一台の荷車は、路地の角をゆっくりと曲がった。


 孤児院の前の通りが、視界に広がる。


 その瞬間、荷車を押していた少年の足が、ぴたりと止まった。


「……あれ」


 小さく漏れた声が、冬の空気に溶けていく。


 リリアは、その違和感に気づいて足を止めた。


「どうかなさいまして?」


「いや、その……」


 少年は、荷車の取っ手を握ったまま、前方をじっと見つめている。視線の先を目で追っていくと、リリアもまた、通りの中央付近に立つ人影に気づいた。


 夕闇に沈みかけた通りの中で、その人物だけが、どこか輪郭を持って浮かび上がっている。


 厚手の外套。見慣れない仕立て。護衛らしき影が少し離れて控え、通りが、そこを避けるようにゆるやかに流れていく。


 馬車の影がひとつ、荷車の向こうをゆっくり横切る。その間から、青年の横顔がちらりと覗いた。


 冬の淡い光が、彼の頬の稜線をなぞる。


 その瞬間、リリアの心臓が、どくん、と強く跳ねた。


(――殿下)


 喉の奥で、音にならない呼びかけが弾ける。


 頭の中で、封じ込めたはずの記憶が一気に解き放たれていく。


 高い天井の広間。重ねられた手。冷たい言葉。「婚約解消」という響き。すべてが雪崩のように押し寄せ、足元の石畳の感触が、急に遠くなったように感じられた。


(どうして……今、この場所に)


 つい最近まで、自分とは別世界の中心にいた人が、目の前のこの狭い通りに立っているという現実。


 距離にして、数十歩。


 けれど、その間には、行き交う人々がいた。薪を担いだ男が横切り、荷車が軋む音を立てて通り過ぎる。行商の女が籠を抱え、子どもが巫山戯ながら走り抜けた。そのひとつひとつが、視界の中で、ふたりの間を何度も遮っていく。


 ミラが、リリアの腕をそっとつかんだ。


「……どうします?」


 問いは静かだった。けれど、その握り方には、「ここで逃げても責めない」という優しさと、「それでも、あなたはどうしたいのか」という真剣さが入り混じっている。


 リリアは、一歩、前へ足を出しかける。


 石畳に靴底が触れ、重心が傾く。


 その瞬間、王子もまた、何かに気づいたように顔を上げた。


 だが、彼の視線はまだ通り全体をさまよっている。孤児院の扉、行き交う人の流れ、遠くの街灯。まるで、胸騒ぎの理由を探すように。


 誰かが通りを横切るたびに、ふたりの間の光景は細かく切り刻まれていく。


 リリアは、前へ出しかけた足を、石畳の上で止めた。


 あと三歩進めば、彼女は王子の視界の中心に入るだろう。あと五歩で、言葉を交わせる距離になる。


 だが、喉の奥には、まだ整理しきれていない想いが絡まっていた。


(今のわたくしは、“リリア”としてここにいる)


 泥だらけの手を握り、雨上がりの空を見上げ、古びた礼拝堂で過去の自分に祈った――そんな日々が、胸の内側に小さな灯をともしている。


(けれど、殿下にとってのわたくしは、きっとまだ……

 “王妃候補として選ばれなかった、公爵令嬢リリアンヌ”のまま)


 その呼び名で呼ばれたとき、自分はどう答えるのか。


 「リリアンヌ」として微笑むのか。

 それとも、「リリア」として笑うのか。


 答えを出しきれないまま、夕闇だけがじわじわと濃くなっていく。


 通りの端の街灯が、ひとつ灯った。


 薄黄色の光が、石畳に丸い輪を落とす。その輪の縁で、王子はわずかに身じろぎし、もう一度周囲を見渡した。


(……今、誰かに呼ばれたような)


 そんな錯覚が、一瞬、胸をかすめる。


 だが、耳に届くのは通りのざわめきだけだ。荷車の軋み、遠くで呼び交わす声、閉ざされる店の扉の音。


 彼の視線は、リリアのいる方向へと、あと少しのところまで滑っていき――

 その手前で、薪を担いだ男の背中に遮られる。


 男が通り過ぎたときには、リリアはほんのわずかだけ体の向きを変えていた。


 少年が、荷車の取っ手を握りしめたまま、上目づかいでリリアを見上げる。


「ねえちゃん……」


 呼びかけは、問いでもあり、支えを求める声でもあった。


 リリアは、小さく息を吸い込む。


 冷たい空気が肺に満ち、胸が痛むほどにきゅっと縮む。


「……大丈夫ですわ」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。


「荷車を、もう少しだけ押しましょう。

 孤児院までは、あと少しですもの」


 ミラの指が、腕から離れる。


 その代わりに、ミラは一歩、半歩だけリリアの隣に寄り添った。


「はいはい。じゃあ、あたしも押しますよ。

 ……ゆっくり、行きましょうか」


 荷車が、ぎし、と小さな音を立てて再び動き出す。


 石畳の上を進むその車輪の音と、王子の外套の裾を撫でる風の音が、黄昏の通りに重なった。


 すぐそこにいるのに、まだ互いを見つけないまま。


 その距離は、数十歩と、幾つもの冬と、ひと文字分の名前の差。


 夕闇が、ゆっくりと二人の輪郭を飲み込んでいく中で――視線が完全に交わる瞬間だけが、静かに先送りにされていた。


 王子が馬車へと戻っていくのを、リリアは路地の影から見つめていた。


 荷車はすでに物陰に押しやられ、ミラと少年も気配を殺して息を潜めている。通りの端に灯り始めた街灯が、雪に濡れた石畳にぼんやりとした光の輪を落とす。その輪の向こう、王子の外套の裾が、風に揺れた。


 護衛たちが距離を保ちながら付き従い、侍従のひとりが歩調を合わせて肩口に身を寄せる。


「殿下。本日はこれくらいにいたしましょう」

 控えめな声が、冬の空気の中に滲んだ。


「こちらの方々もお疲れでしょうし……」

「明日、あらためてお時間を――」


 王子は足を止め、しばし黙って孤児院の建物を振り返る。


 冬の薄闇の中、窓のいくつかには、早くも灯りがともり始めている。そこに、子どもたちの笑い声と、皿の触れ合う音と、夕餉の匂いがあることを、彼はまだ知らない。ただ、石造りの壁と古びた扉と、その向こうにある生活の気配だけを、ぼんやりと見つめる。


「……ああ」


 短い返事のあと、王子は低く続けた。


「彼女がここにいるのなら、必ず会う」


 それだけの言葉だった。


 けれど、その声音には、王家の体裁だけでは説明できない、微かな焦りと戸惑いが混ざっていた。自分でもうまく名づけられない感情が、言葉の端にかすかにこぼれている。


 その一文が、冬の冷えた空気を伝って、路地に身を潜めるリリアの耳にも届いた。


(殿下は――わたくしを“探しに”来られたのですわね)


 胸の内で、静かに言葉をなぞる。


(“婚約を解かれた令嬢”を。

 “選ばれなかった公爵令嬢”を)


 今さら、どのような顔で見つけようとしているのかは、彼女にはわからない。


 罪悪感からかもしれない。

 王家の責任感からかもしれない。

 あるいは、ほんの少しだけ、個人としての興味からかもしれない。


 そのどれであろうと、今すぐに答えを求めるつもりはなかった。


 リリアは、そっと自分の胸に手を当てる。


 厚手のワンピース越しに、心臓の鼓動が指先に伝わる。その奥で、小さな灯が、雨風に揺れながらもしぶとく燃えているような感覚があった。


(けれど――)


 彼女は、静かに目を伏せる。


(わたくしはもう、あの頃と同じ場所には立っておりませんわ)


 王宮の礼拝堂で、完璧な祈りの姿勢を身につけようとしていた頃とも。

 「選ばれる」ことだけを目指して、背伸びを続けていた頃とも。


 今の自分は違う。


(孤児院の廊下で、子どもたちの寝息を聞きながら、

 雨漏りのバケツの音を数える夜を覚えました)


 冷えた手を、薪の火で温める子どもたちの傍らに座り、布団の薄さを気にかける日々。


(泥だらけの小さな手を、そのまま握りしめることも)


 川辺で転んだ子どもを抱き起こし、爪の間に入り込んだ泥を洗い落としながら、「汚れることを恐れない手」を選びたいと願ったあの日々。


(雨上がりの空を見上げることも、この街で初めて覚えましたわ)


 足元の水たまりに映った空と、子どもたちの笑い声。足元だけではなく、ときどき顔を上げて、どこへ向かうのかを確かめることを教えてくれた夜。


(そして――古びた礼拝堂で)


 神ではなく、過去の自分に向けて祈りを捧げた夕刻を思い出す。


(“選ばれなかったから終わりだ”と、

 膝を抱えていたわたくしの手を、

 今のわたくし自身が取って、

 “それでも、歩き続けてみましょう”と、言い聞かせたのです)


 その瞬間に灯った小さな火は、今もここにある。


 王子の馬車が、ゆっくりと動き出した。車輪が雪混じりの石畳を踏みしめる音が、通りに低く響く。護衛たちが続き、やがて一行は、街の灯りの向こうへと小さくなっていく。


 王子は最後まで、路地の影に立つ彼女を見つけることはなかった。


 それでも、「ここに彼女がいる」という確信だけは、彼の胸に刻まれたまま離れないだろう。


(――王子が、わたくしを探してこの街へ現れました)


 リリアは、心の中でそっと言葉にする。


(けれど、そのときにはもう、

 わたくしは“選ばれるための令嬢”ではありませんわ)


 彼女は自分の足元を見下ろす。


 泥に慣れ始めたブーツ。石畳の凹凸。配給の荷車を押して刻んだ足跡。


(自分で選んで、冬の中を歩き始めた、一人の“リリア”として――

 ここに立つことを、ようやく覚え始めたところですもの)


 馬車の灯りが角を曲がり、視界からすっと消えた。


 通りに、再び静けさが降りる。


 リリアは胸に当てていた手の力を少しだけ抜き、吐く息を細く長く、白い夜気の中へ流した。


 ――“探しに来た者”と、“見つけられた者”。


 その二人が真正面から出会うまでには、もう少し時間が必要だろう。積もりかけた雪が何度か溶け、また固まり、街の人々が今日と明日の支度を続けていく、そのあいだに。


 それでもきっと、その冬の夜のどこかで。


 彼女はもう、逃げるだけの自分には戻らない。


 胸のうちの小さな灯火を確かめながら、リリアは静かに目を閉じる。


 ――王子が、彼女を探してこの雪の街へと現れた。

 けれどそのときにはもう、彼女は“選ばれるための令嬢”ではなく、

 自分の足で冬の中を歩き始めた、一人の“リリア”としてここにいた。


 探しに来た者と、見つけられた者。

 その二人が真正面から言葉を交わすまでには、

 もう少しだけ、冬の夜が必要になるのだと、


 彼女は胸の灯火をそっと撫でながら、静かに息を吐いた。




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